俳人ファイル ⅩⅩⅩⅨ 折笠美秋
・・・冨田拓也
折笠美秋 15句
青桃や夜は海からかえつてくる
去りゆけり白鳥の白 金輪際
山彦は半身傷ついてもどる
緑の蝶なれば今日ではないかもしれぬ
いちにちの橋がゆつくり墜ちてゆく
溺れつつ水を盻(み)たりとおもいけり
杉林あるきはじめた杉から死ぬ
筐(はこ)から筐をとり出すあそび鳥雲に
夢夢(ぼうぼう)と湯舟も北へ行く舟か
月光写真まずたましいの感光せり
志と詞と死と日向ぼこりの中なるや
海嘯(かいしょう)も激雨もおとこの遺書ならん
秋霖(しゅうりん)の濡れて文字なき手紙かな
ひかり野へ君なら蝶に乗れるだろう
見えざれば霧の中では霧を見る
略年譜
折笠美秋(おりがさ びしゅう)
昭和9年(1934) 横須賀市に生まれる
昭和28年(1953) 早稲田大学国文科に入学
昭和33年(1958) 東京新聞社に入社 高柳重信「俳句評論」創刊、編集同人
昭和42年(1967) 第3回俳句評論賞(評論の部)
昭和48年(1973) 「晴の会」を阿部完市、飯島晴子、原裕らと結成
昭和57年(1982) 筋委縮性側索硬化症(ALS)発症
昭和58年(1983) 北里大学病院に入院 高柳重信死去
昭和59年(1984) 第1句集『虎嘯記』(俳句評論社)
昭和60年(1985) 第32回現代俳句協会賞
昭和61年(1986) 第2句集『君なら蝶に』(立風書房)
平成元年(1989) 第3句集『火傳書』(騎の会) 『死出の衣は』(富士見書房)
平成2年(1990) 3月17日逝去(55歳)
平成3年(1991) 『俳句研究』6月号で追悼特集
平成10年(1998) 評論集『否とよ、陛下』(騎の会)
A 今回は折笠美秋を取り上げます。
B 現在となっては、折笠美秋とその作品については、あまり語られる機会はさほど多くはないというべきでしょうか。
A 私の知る限りでは、せいぜい、最近総合誌の『俳句界』2008年5月号での「魅惑の俳人たち 5」において特集が組まれた程度だと思います。
B では、まず、折笠美秋の略歴について見てゆきましょう。折笠美秋は、昭和9年に横須賀市で誕生、昭和28年に早稲田大学国文科に入学し、俳句、短歌、現代詩、そして小説などを同人誌に発表、卒業後の昭和33年には東京新聞社に入社し、ジャーナリストとなります。同じ年に高柳重信が「俳句評論」を創刊し、その同人に加わるとともにやがて編集にも携わるようになります。
A 昭和33年の「俳句評論」に加わった時点では、まだ20代前半ということになりますね。
B その後、新聞記者として活躍する傍ら、俳句における作品や評論についても精力的に発表し、俳人として20年ほどの間にわたって活動を続けてきたわけですが、40代後半の昭和57年に「筋委縮性側索硬化症(ALS)」を発症し、その後、北里大学病院に入院することになります。
A この「筋委縮性側索硬化症(ALS)」という病は、全身の筋肉が徐々に委縮し、歩行などの運動が困難となり、最終的には、全身の筋肉が自らの意志では動かすことができなくなり、寝たきりの状態となってしまうという原因不明の病であるそうです。
B 昭和58年には、呼吸困難の状態に陥り、仮死状態となり入院。その後、気管を切開することによって人工呼吸器を取りつけることとなりましたが、この時点で自ら声を発することも不可能となってしまいます。
A そして、自ら動かせる身体の部位は目と口のみとなり、これ以降は奥さんが、その眼と口の動きのみを頼りにその意思を読み取り、それを文字にうつし換えるという非常に困難な作業を介すことによって、折笠美秋は、自らの俳句と文章をどうにか書き継いでゆくことになります。
B そして、入院の翌年である昭和59年に、まず第1句集である『虎嘯記』が出版されるわけですね。
A この句集は、折笠美秋の病状を憂慮した高柳重信と中村苑子が、なんとか病床の折笠美秋を勇気付けようと考えたことから、句集出版の案が持ち上がったそうです。
B しかしながら、この昭和58年の時点で、句集の企画を考案した高柳重信が逝去してしまいます。
A それでも、その高柳重信の遺志ということもあり、昭和59年には『虎嘯記』は早くも出版される運びとなりました。
B この句集には、折笠美秋が「俳句評論」に俳句作品の発表をはじめた昭和30年代から、昭和58年に至るまでの、年齢にするとおよそ30歳頃から50歳ころまでの約20年に及ぶ句作期間の中から選ばれた作品368句が収録されています。
A こうみると、折笠美秋はそれこそ俳句をはじめてから、おおよそ30年近くもの長い歳月において、1冊の句集も刊行していなかった、ということになるわけですね。
B 俳句作品に対して未だしの思いが強かったためであるのか、句集の刊行については本人は、あまり積極的ではなかったようです。
A では、句集に収録された作品について見てゆくことにしましょう。まず、句集のはじめの「初期句篇」には〈青桃や夜は海からかえつてくる〉〈氷河期の銀河めぐらす挽き臼よ〉〈海深く夕日だきゆく水脈(みお)ありけり〉〈満月のうらへまわつて消えしかな〉〈白昼の大劇場に釘を打つ〉〈染附皿のさびしい象が歩きたがる〉〈海二月ついにきらめくなにもなし〉といった作品が見られます。
B これらの作品は、おおよそ昭和30年代における作品ということになるようです。
A これらを見ると、どちらかというと全体的に口語的な表現で、無季による作品が目立ちますね。
B 「青桃」「挽き臼」「満月」「象」などの句における表現は、ややシュールというか、それこそ、どちらかというと現代詩に近いような趣きがあります。
A これらの句を見ると、あまり富澤赤黄男や高柳重信の作品に見られる強靭な詩性やそれに伴うインパクトの強さといったものは、さほど感じられないところがあるようですね。
B それは、これらの折笠美秋の作品が、どちらかというと散文的な表現に近い傾向を持っているためであると思われます。
A それゆえに、やや言葉の緊密性に欠けるところがあるような印象を受けることになるわけですね。
B 第2句集である『君なら蝶に』に所載の「追辞」という文章において折笠美秋は〈高柳さんは、師父であり、兄であるとともに、それ以上に、ぼく自身であった。不遜な事ながら、出会いの時から、この思いは否定し難いものであった。それ故に、作品も論評も、高柳さんに似通わない、なぞりにならないことが、第一の必須要件であった。〉と記している文章がありますから、これらの作品に見られるどちらかというと散文的ともいうべき作品の傾向は、高柳重信の作風を避けるために選ばれたものであった、という風にも考えられそうです。
A ただ、高柳重信の作品についてはその通りであるのかもしれませんが、富澤赤黄男の作品については、それこそ詩性の強さそのものを誇るような〈蝶墜ちて大音響の結氷期〉〈寒雷や一匹の魚天を搏ち〉といった高い完成度とインパクトを感じさせる作品が存在する一方で〈夕焼の金をまつげにつけてゆく〉〈黄昏れてゆくあぢさゐの花にげてゆく〉〈蛇となり水滴となる散歩かな〉といった口語的で散文的な作品の存在も見られます。ですので、折笠美秋の作品には、これらの赤黄男のやや散文的ともいえる作品からの影響というものも小さくはなかったのではないかという気もします。
B このすこし後の時期の作品を見ると〈射程とする 二十代(はたち)の不眠の青き花〉〈連打いま 弾痕……となり 星座……となり〉〈マンモスの臓腑に醒めて 仮眠 の 仮面〉〈満月の鬱血 すでに 縊死の鴉ら〉〈青蛙のうちに灯ともし母系は睲め〉〈木の二月 おのが倒死の谺を待ち〉〈去りゆけり白鳥の白 金輪際〉といった作品が見られます。
A これらの作品を見ると、1字空けの手法が、やはり富澤赤黄男、高柳重信の手法そのもの思わせるものがありますね。
B 「不眠の青き花」「弾痕」「仮面」「縊死の鴉ら」といった詩的な用語についても、赤黄男、重信の作品世界との強い類縁性を感じさせるものがあります。
A 〈木の二月 おのが倒死の谺を待ち〉については、赤黄男の〈切株はじいんじいんと ひびくなり〉からの影響が見られるといっていいはずです。
B しかしながら、このようなややロマネスクな用語を使用した作品というものも、この時期の折笠美秋の作品には存在していたというわけですね。
A その中でも〈去りゆけり白鳥の白 金輪際〉の句などは、なかなか手の込んだ作品ではないかと思われます。
B そうですね。まず「白鳥」についてですが、当然ながら「白鳥」の色彩というものはいうまでもなく白です。それをこの作品では「白鳥」の語のあとにわざわざ「白」と表記しています。それゆえに、「白」の色彩が強調されることとなり、さらに1字分の空白によって時間性が生じ消え去ってゆく「白」の印象が強められ、最後は「金輪際」という言葉によって1句の世界が締め括られるという構成になっています。
A 一応、内容的には、「白鳥」が飛び去りつつあるという事象のみが描かれているということになりますね。
B ただ、これらの演出によって、白鳥の飛び去ったあとに感じられるであろう白鳥の不在感と、それに伴う永遠性とその寂寥感とでもいったようなものが、「金輪際」という仏教的な言葉と相俟って強く感じられ、深く印象付けられるところがあります。
A また、「白」と「金」という字の表記による色彩の対比と響き合いの効果についても、おそらく周到に計算された上でのものであるのでしょう。この表記の効果によって鮮烈な色彩感覚による残像の印象が、強く読後に残ることとなります。
B さて、その後の作品について見てみると〈水に泛(う)きちいさき水もゆきにけり〉〈ひと漕ぎの白骨となり空の途中〉〈流木のついに見えない下の手よ〉〈水色の六月の木が立つている〉〈水落ちて水の音する もう帰る〉〈雪虫の千の絶後のこだまかな〉〈山彦は半身傷ついてもどる〉〈水のめど水のめど魚 さようなら〉〈星の出は谷を出てゆく谷自身〉〈耳おそろし眠りのそとで立つている〉〈馬の腹では涙が水車を回わしている〉〈めつぶれば軍馬が一匹逃げてくる〉といった作品が見られます。
A このあたりの作品となると、あまり先程の作品に見られた詩的でロマネスクな雰囲気といったものは、さほど濃密には感じられなくなってくるようですね。
B それこそ「ライトヴァース」とでもいうのでしょうか。こういった作品からは、赤黄男の口語的な作品のみならず、阿部青鞋の作風にもやや共通するものが感じられるところがあるように思われます。
A そういえば、先程に見た初期の作品にも、どちらかというとそのような阿部青鞋的な印象を持った作品もありましたね。
B 確か、折笠美秋には、3編ほど阿部青鞋を論じた文章が存在したはずです。
A これらの作品では〈山彦は半身傷ついてもどる〉〈馬の腹では涙が水車を回わしている〉〈めつぶれば軍馬が一匹逃げてくる〉あたりの作品に、やや青鞋的な雰囲気を読み取ることが可能でしょうか。
B このように見ると、折笠美秋のやや散文的ともいうべき作品については、赤黄男と青鞋からの影響が考えられる、ということになるようですね。
A では、続いて、これ以降の時期にあたる昭和44年頃における作品について見てゆきましょう。この時期には〈緑の蝶なれば今日ではないかもしれぬ〉〈はなびらや 石が旅ゆく石の刻〉〈鬼無里という半鐘の鳴る村があつた〉〈中指のまんなかにあるかなしさよ〉〈焼けおちるいま天と地のつまようじ〉〈杉内部滝秘めおれば直立す〉〈くらげ浮き水にもあらず母にもあらず〉〈割れやすきものの音充ち銀河系〉〈いちにちの橋がゆつくり墜ちてゆく〉〈半月や ひとり帰つたものがいる〉といった作品が見られます。
B 〈中指のまんなかにあるかなしさよ〉〈いちにちの橋がゆつくり墜ちてゆく〉あたりはやはり青鞋の表現に近いものがあるといえそうです。
A 「中指」の作品については青鞋からの影響による句であることは間違いのないところでしょうね。「指」に材を摂った作品は、阿部青鞋の得意とするモチーフのひとつでした。
B 他の作品を見てみても、折笠美秋の作品には、割合先行作品からの影響というものが見られる作品がいくつかあるようですね。
A そうですね。〈はなびらや 石が旅ゆく石の刻〉については、使用されている「はな」や「石」「旅」といった語彙と、「石」によるリフレインの手法が、高屋窓秋の作品を連想させますし、〈杉内部滝秘めおれば直立す〉については三橋敏雄の〈世界中一本杉の中は夜〉を髣髴とさせるところがあります。
B 〈鬼無里という半鐘の鳴る村があつた〉については、「鬼無里」という長野県のやや特異な地名の使用が、高柳重信の歌枕を使った手法による作品と近接するものを感じさせます。
A やはり、折笠美秋の作品には、随分と、様々な作者の作品からの影響といったものが混在しているといっていいようですね。
B 折笠美秋の作品に強く影響を与えたと思われる作者について思いつくまま挙げてみると、永田耕衣、高屋窓秋、富澤赤黄男、阿部青鞋、三橋鷹女、三橋敏雄、高柳重信、加藤郁乎、安井浩司あたりということになると思います。
A これらの作者からの影響というものを、自らのものにして作品へと応用していたというわけですね。
B 他には、やや微妙ですが、飯島晴子、阿部完市あたりの作品からの影響といったものも若干考えられるのではないかと思われます。
A さて、この後の昭和46年から昭和49年の期間の句について見てゆきたいのですが、この時期には〈渺々と化佛の左手は隕(お)ちる〉〈桃兆す天の一枚扉かな〉〈細腰の田螺ただよう青大和〉〈もののはじめに二山一谷麦烟(けむ)るを〉〈溺れつつ水を盻(み)たりとおもいけり〉〈水舟は舟よりもやや水である〉〈死んだら来ようと思う北の樹見上げている〉〈青蜜柑あすあさつてが見えてくる〉〈杉林あるきはじめた杉から死ぬ〉〈川幅は川に溺れてかがやけり〉〈飛ぶ鳥の明日香や やさしく鳥を焼く〉〈はるばるときてほのぼのとかまぼこ板〉〈天體やゆうべ毛深きももすもも〉〈車座は回転しつつ消えゆく秋〉〈骨ひとりぶんの菜の花盛りが見ゆ〉〈筐(はこ)から筐をとり出すあそび鳥雲に〉〈逝くことの巨きな鳥の陸奥山河〉といった作品が見られます。
B このあたりの作品を見ると、なんというかこれまでと同じような傾向の作品といったものの存在とともに、やや宗教的もしくは神話的とでもいうのでしょうか、日本の古層といったものを掘り起こしたというか、遠い古代の時代を髣髴とさせるような世界が展開されている作品もいくつか見られるようになってくるようですね。
A これらの作品に使用されている言葉というものが「化佛」「桃」「青大和」「もののはじめ」「北の樹」「杉林」「明日香」「陸奥山河」ですから、確かにやや宗教的、神話的な趣きがありますね。
B 〈逝くことの巨きな鳥の陸奥山河〉の「巨きな鳥」については、おそらく「白鳥」ということになるのでしょう。
A 東北の人々は古代に、「白鳥」を神の使いであるとして崇めていた、という話があります。
B そういえば『古事記』と『日本書紀』には、「日本武尊(ヤマトタケルノミコト)」がその死の直後、白鳥と化して飛び去ったという記述があり、それらの物語の存在も、この作品の裏側には含まれていると思われます。
A 「逝くことの」ですから、やはり「白鳥」ということになるのでしょうね。こういった「文化人類学」的とでもいうのでしょうか、これらのやや神話がかっているともいうべき作品の背景には、当時の高柳重信の作品からの影響といったものが小さくはなかったのではないかと思われます。
B 高柳重信は、昭和47年の『遠耳父母』、そして昭和51年の『山海集』において、これまでのモダニズム的または文学的な要素の強い作風から、日本の古層の部分を髣髴とさせる神話の世界へと一気に作品展開を行います。
A こういった重信の作品指向というものが、この時期の折笠美秋の作品へ影響を与えていたということになるわけですね。また、折笠美秋の周辺には、重信だけでなく、永田耕衣や三橋鷹女、加藤郁乎、安井浩司といったやや神話的、もしくは神秘的な世界に近接するような作品を書く作者が多数存在していたという事実もありました。
B その後の昭和50年以降の折笠美秋の作品を見ると〈晩年は鯨を愛す日の帝(みかど)〉〈繰り返し繰り返し夜の手毬唄〉〈杳(よう)として左手は在り春の暮〉〈夢夢(ぼうぼう)と湯舟も北へ行く舟か〉〈わが美林あり檜葉杉葉言葉千葉〉〈雪融け原のおおきなおおきすぎる神〉〈或る日老いたり遠見の鱶に陽は游び〉〈青森で会いしひとりは春を渡りけり〉〈菜の花継げば彼岸にとどく物干竿〉〈晴(めのたま)や陸稲涅槃の雨上り〉〈棺のうち吹雪いているのかもしれぬ〉〈波に名を与えておれば海鏡(つきひがい)〉といった作品が確認できます。
A これらの作品は昭和51年頃のものということになります。「日の帝」「おおきなおおきすぎる神」「遠見の鱶」「青森」「彼岸」「陸稲涅槃」「海鏡」といった言葉が見られますから、やはりどちらかというと神話的な世界に近接する表現が展開されていますね。
B さらにその後の主要な作品を見ると〈稲妻や地に欷(な)き孕むあかきもの〉〈ざりがにを無上の愛として茹でる〉〈月雪花板の厠に老いゆくや〉〈水の多摩土の相模と淡雪せり〉〈汝と呼んでみる吾があり水の暮〉〈りぐゔえーだ藤色絞りに春は来にけり〉〈かたつむり日々<複雑>を去りつつあり〉〈暁闇や怒濤のごときかたつむり〉〈軍書とり落としつつゆく昼の雁〉〈あじさいの宇宙模型の吐息かな〉〈極楽の裏手で葱をつくりおる〉〈月光写真まずたましいの感光せり〉ということになります。
A 古典的世界やインドのヴェーダ思想、そして実験的な作風など、様々な要素が混在して展開されているようですね。
B 他には、「地に欷(な)き孕むあかきもの」は赤黄男、「ざりがにを無上の愛」は青鞋、そして「極楽の裏手で葱」には耕衣からの影響が、それぞれ見て取ることができます。
A さて、この後における折笠美秋の作品について見てゆきたいのですが、このあたりからが「筋委縮性側索硬化症(ALS)」の発症してくる時期にあたる作品ということになるようです。
B この昭和58年頃の作品を見ると〈餅焼くや行方不明の夢ひとつ〉〈杉たり 一本杉たり 倒れて銀河と称ぶ〉〈ああ大和にし白きさくらの寝屋に咲きちる〉〈志と詞と死と日向ぼこりの中なるや〉〈俳句おもう以外は死者か われすでに〉〈春暁や足で涙のぬぐえざる〉といった作品が確認できます。
A その後には<わが「山月記」>と題された〈空谷や 詩いまだ成らず 虎とも化さず〉〈皓々と わが胸谷の わが山月記〉〈人語行き 虎老いて 虎の斑もなし〉といった作品を含む連作が、この『虎嘯記』の最後に収められています。
B 「山月記」は中島敦の小説ということになりますね。
A この小説を折笠美秋は10代のころに読み、強く感銘を受けたそうです。この句集のタイトルである『虎嘯記』についても、この「山月記」からそのタイトルは名付けられたものであるということになるのでしょう。
B また、富澤赤黄男に〈日に吼ゆる鮮烈の口あけて虎〉〈爛々と虎の眼に降る落葉〉〈冬日呆 虎陽炎の虎となる〉といった虎をテーマにした句が、いくつか存在していたことも想起されます。
A では、続いて、第2句集である『君なら蝶に』の作品について見てゆきたいと思います。
B この句集は、昭和61年に立風書房より刊行されたもので、昭和58年から昭和61年までの約4年間における436句が収録され、6つの章により構成されています。
A 昭和58年からということで、入院後における作品ということになりますね。
B 収録された作品について見てみると、まず第1章である「智津子」には〈死と宣さる ただ見つめ合いぬながくながく〉〈雪うさぎ溶ける 生きねば生きねばならぬ〉〈舞う雪も君も触れれば消える旅か〉〈次の世は茄子でもよし君と逢わん〉〈わがための喪服の妻を思えば雪〉〈星流る美しき距離父母と子の〉〈蘂より小さく童話の街に眠れる母子〉〈なお生きる決意の鮭を噛みいたり〉といった作品が見られます。
A この章の作品は、入院直後における作品ということで、先程の『虎嘯記』の昭和58年頃の作品と同様、どの作品も非常に境涯性の強い内容のものとなっています。
B 病室における出来事や、妻や子供など家族をテーマにした作品が多く見られ、正直なところ、病気による深刻さといったものが、そのままありありと伝わってくるところがあり読んでいて大変辛いものがありました。
A 第2章は、第1句集『虎嘯記』からの抄出作品となっており、第3章は「花の絵本」というタイトルで〈菜の花の一本でいる明るさよ〉〈水に棲み飽きたる水か紫陽花は〉〈七変化(あじさい)は半ばこの世で濡れるなり〉〈咲き満ちて桜の幹の冷めたかりき〉〈桜散るそのとき渾身そりかえる〉〈思えばかなし桜の国の俳句かな〉〈萩の葉は心の小舟か揺れやまず〉〈七草のまず散りそめし萩小花〉〈しみじみと野菊見る ただの野菊にすぎず〉〈まだ誰も知らない死後へ野菊道〉といった作品が収録されています。
B タイトルの「花の絵本」が示す通り、「百合」「菜の花」「紫陽花」「桜」「萩」「桔梗」「野菊」などといった花に関するテーマによる作品が多く見られますね。
A この「花の絵本」に見られる作品は、『虎嘯記』におけるどちらかというと作品主義的な雰囲気の作品とはやや趣きを異にし、自然の景物に対してそのまま目を向けたとでもいったような穏やかさの感じられる作品世界が展開されています。
B 〈菜の花の一本でいる明るさよ〉〈しみじみと野菊見る ただの野菊にすぎず〉あたりの作品などには、それこそほぼ無心ともいうべき精神状態から生みだされた作といった趣きがありますね。
A 〈思えばかなし桜の国の俳句かな〉という句については、俳句という文芸そのものに対する、なんとも複雑な感情が詠み込まれている作品であるように思われます。
B そうですね。改めて考えてみると、世界中のどこの国においても、俳句という文芸は存在しなかったわけです。それが、どういうわけか、日本という島国においてのみ、詩が発生してから様々な変遷と試行錯誤を経て、ほとんど奇跡的といっていいような偶然性によって俳句という定型詩が誕生することとなったわけです。その俳句という文芸の来し方の特殊性と、その詩形に携わることになった自らの運命、そしてその自らの存在そのものにおける不可思議さといったものに対する感情の戦きなどが、この作品からは読み取ることが可能であると思います。
A おそらく、「かなし」という言葉は、「悲」や「哀」による「かなし」であり、またそれだけでなく「愛(かな)し」という意味合いをも含んでいるものであるのでしょう。
B 富澤赤黄男の〈めつむれば祖国は蒼き海の上〉、高柳重信の〈目醒め/がちなる/わが盡忠は/俳句かな〉、赤尾兜子の〈俳句思へば泪わき出づ朝の李花〉といった句の存在が思い浮かんでくるところがありますね。
A では、続いて第4章「俗名消息」の作品を見てゆきましょう。〈大満月つぎが最後の呼吸(いき)かもしれぬ〉〈雲雀聴かむ幽明ふたつの顔あげて〉〈一夜かかりて「露」一文字を分解せり〉〈剣(つるぎ)も杖か 野火 野水 野苺(いちご) 野晒(ざら)し〉〈つらら滴(したた)り書くべきことのあればこそ無し〉〈開聞(かいもん)を下る こころの鷹(たか)の 蒼(あお)きを飼い〉〈仮(かり)の世に師あり友あり露けしや〉〈人間なくば神また不在寒牡丹〉〈金色になるまで親指を見つめている〉〈星へ書く手紙は消えやすいインクで〉〈麦笛を吹こうと夢みる麦自身〉〈囁(ささや)き峠いま振り向けば石と化す〉〈雨だれは目を閉じてから落ちるなり〉〈まぼろしの世に定型と月雪花(げつせつか)〉〈ふたつ寄り添えば雨だれ落つるなり〉といった句が見られます。
B このあたりの作品となると、非常に表現そのものによる迫力といったものが作品の内部に備わってきているような印象がありますね。
A 境涯性によるもののみではなく、作品の表現そのものになにかしら尋常でない雰囲気が加わってきているような趣きがあります。
B 確かに〈剣(つるぎ)も杖か 野火 野水 野苺(いちご) 野晒(ざら)し〉〈開聞(かいもん)を下る こころの鷹(たか)の 蒼(あお)きを飼い〉〈囁(ささや)き峠いま振り向けば石と化す〉〈まぼろしの世に定型と月雪花(げつせつか)〉あたりの作品となると最早単なる境涯性というものを超越した地点での言葉の強さというものをその内側に獲得した、とでもいうような雰囲気が感じられます。
A 続いて、第5章「北里0発信」の作を見てゆきましょう。
B この章の作品を見ると〈雪達磨 我を旅行く我れ居りて〉〈逢わざれば逢いおるごとし冬の雨〉〈傘ひらくときふと赤黄男(かきお)こぼれけり〉〈別の世とは水であること桃にも吸われ〉〈鬼哭(きこく)この夜の桃の木揺すぶる風は〉〈海嘯(かいしょう)も激雨もおとこの遺書ならん〉〈幼な雪自分を夢と思い消ゆ〉〈桃咲くと一つこの世の闇消ゆる〉〈秋霖(しゆうりん)の濡れて文字なき手紙かな〉〈渡り鳥数えてみれば数え切れ〉〈仰向けや天上ぎつしり流氷ゆく〉〈ととのえよ死出の衣は雪紡ぎたる〉〈すでに方舟発てり吹いて見えざれど〉〈ひかり野へ君なら蝶に乗れるだろう〉〈人ひとり死ぬたび一つ茱萸(ぐみ)灯る〉〈水風船(しやぼんだま)行きつくところが死に処(どころ)〉〈我が抱く手負いの我れや紅葉闇〉〈秋風の風船売りもう風ばかり〉〈幼な雪自分を夢とまだ知らず〉といった句が見られます。
A 本当に、このあたりとなってくると、まさに生と死のぎりぎりの地点において発せられた作品といった趣きがあります。
B 確かに、色々な意味で非常に重たい「何か」がこれらの作品の内部に込められて宿っているのが、ひしひしと伝わってくるところがありますね。
A それこそ、先程の句と併せて、ここまで切迫した表現が俳句で可能であるのかと、改めて目を瞠る思いがするところがあります。
B 〈ひかり野へ君なら蝶に乗れるだろう〉については、高屋窓秋が昭和45年に発表した「ひかりの地」という作品の中の〈ひかり野の日にも月にも枯れしかな〉といった作品の存在が関係しているのではないかと思われます。
A そして、おそらくこの「ひかり野」は、同じく窓秋の代表作である〈頭の中で白い夏野となつてゐる〉の「白い夏野」を意味するものでもあるのでしょう。
B そういえば、折笠美秋の「美秋」という名前自体が、そもそも高屋窓秋の「窓秋」という名前となんらかの関連性を思わせるところがありますね。
A 折笠美秋における「美秋」については俳号であり、本名は「美昭」であるとのことです。
B 名前の由縁については、果たしてどこまで関連性があるのかどうかわかりませんが、この「ひかり野」の作品を見ると、折笠美秋にとって、高屋窓秋という存在は非常に大きなものであったのではないかという風に感じられるところがありますね。
A では、続いて、第6章「影笛之符」の作品について見てゆきましょう。この章には〈見えざれば霧の中では霧を見る〉〈霧世界戻る舟なき渡し舟〉〈彼処此処(そこここ)に君が泪羅(べきら)や桜闇〉〈双蝶や何処(いずこ)も生きやすからざるに〉〈雪解川一度かぎりの岸を視つ〉〈死に飽きし者ら群れ起(た)つ雪の奥〉〈動けぬにあらず動かぬ千年杉〉〈乳母車ノアの大雨なのではないか〉〈狼煙(のろし)あり夕立駆けるその行く手〉〈胸中に海鳴りあれど海見たし〉〈雷浴びて我が荒魂は渚に一つ〉〈海嘯(かいしょう)と死んじゃいやよという声と〉〈眸(め)も凍てつ風切羽も凍てつなお〉〈空を知悉(ちしつ)しもう翔ばぬ孤影の鷹よ〉〈まなざしや烟雨(えんう)の彼方その彼方〉〈最後に焼けるは目の玉ならん大西日〉〈行き果ての夢山脈よ行き果てず〉といった作品が見られます。
B まさしく「生死一如」の中における作品そのものといった趣きがあります。
A どの句も、尋常の雰囲気ではない、なにものかが宿っているのが感じられるところがありますね。
B 「霧の中」、「戻る舟なき渡し舟」「一度かぎりの岸」「動かぬ千年杉」「眸(め)も凍てつ風切羽も凍てつ」「もう翔ばぬ孤影の鷹」「最後に焼けるは目の玉」といった表現からは、その根底に、なにかしらある種の「覚悟」とでもいっていいような強い感情が内在しているのが窺われるようです。
A 確かに、なにかしら切迫した感情とでもいったものがたちこめているような雰囲気がありますね。
B さて、ここまで『君なら蝶に』の作品を見てきましたが、この他にも作品がいくつか存在します。
A 平成元年に第3句集として刊行された『火傳書』という句集があるのですが、ここには、昭和59年から昭和62年までの多行形式での作品が60句収められているそうです。
B 折笠美秋は、この『火傳書』において、遂に多行形式による句作を試みたということになるわけですね。
A 師高柳重信への弔いという側面も含めての多行形式での句作、ということであったのかもしれません。
B 私はこの句集については未見であるのですが、『俳句研究』1991年6月号などに抄出された作品を見ると〈鬼の片腕/祭る祀りを/振り返る〉〈句病みとや/雪病み/花病み/月病みして〉〈白き降り/淡き降り/ひと歩む/大和言葉へ〉〈髪なびき/霜夜/夜ごとの/夢枕〉〈君の冷蔵庫に/鱏(えい)は眠れり/ 開けば/ 海〉〈暮れがての/旅衣/行き行きて/雪衣〉〈誰か知らん/北に/乱待つ/凍れる火〉〈森羅/しみじみ/萬象/一個の桃にあり〉〈死の淵に/現れ!/凄絶の/月雪花〉〈わが死後も/夜来の雨を/人のきく〉といった句の存在が見られます。
A これらの作品を見ると、やはり語彙が、高柳重信の多行俳句の世界を髣髴とさせるところがありますね。
B そして、それこそ「孤絶」といった言葉が相応しいような、まさに凄絶ともいうべき雰囲気が漂っています。
A この他に存在する作品としては、病床での日録である『死出の衣は』に収録された昭和62年から平成元年の〈生きはぐれ死にはぐれまた桃を見き〉〈生者死者ある夜乗り合う月光舟〉〈銀河系大洪水のあとに百合〉〈麺麭(パン)屋まで二百歩 銀河へは七歩〉〈寝入るらんと渉る銀河の水嵩や〉〈雨止まず詩篇第二十二に雨止まず〉〈相模野の時雨は死後へ降り続く〉〈海の蝶最後は波に止まりけり〉〈冬の蝶その眼の炎えていたりけり〉などの作品と、『俳句研究』の平成元年4月号から12月号まで連載された「北里仰臥滴々」における〈木枯しの尾に摑まって幼な木枯し〉〈胸中に同じ雪降る妻と我れと〉〈鳥一つ空広きかな土用西風〉といった作品が存在します。
B あと、これも未見なのですが「騎」という同人誌に、昭和63年から平成元年まで「呼辞記」という題での多行形式による俳句があり、〈冴えわたる/満月を見き/虎と化さん〉など35句の作品が存在するそうです。
A そして、これらの作品を発表した後の平成2年の3月17日に、折笠美秋は55歳で亡くなるということになります。
B さて、折笠美秋の作品について見てきました。
A 今回、久々にその作品を読み直したのですが、その作品表現というものの根底には、想像以上に強靭な表現意識が内在していたことがわかりました。
B そうですね。第1句集の『虎嘯記』における作品世界もさることながら、第2句集である『君なら蝶に』からは病気による境涯性のみならず、その境涯性すら超越するかのような作品表現による勁さそのものが、そのままひしひしと伝わってくるところがありました。
A 『君なら蝶に』については、当時、かなり話題を呼び、テレビでドラマ化までされ、句集自体も増刷されて相当読まれていたそうです
B 当時としては、「筋委縮性側索硬化症(ALS)」という病による境涯性への同情から大きな反響を呼んだという側面もあったのでしょうが、現在となっては、そういった境涯性のみにとらわれるだけでなく、作品そのものが持つ真価についても、もっと注目されていいという気がしました。
A 確かに、折笠美秋の到達した作品のレベルについては、現在においても、その魅力及び価値は些かも損なわれていないのではないかといった思いを抱きました。
B 特に作品としての真価が感じられるのは『君なら蝶に』の後半部における作品ということになると思います。
A これらの作品を読むと『君なら蝶に』は、それこそ昭和という時代の終りの時期における非常に重要な句集のひとつであるという思いがしますね。
B このような作品の「勁さ」そのもの、または真剣さといったものをここまで直載に感じさせられる俳句表現というものは、現在においては、滅多に目にすることができないものでしょう。それこそ自らの生命と引き換えにして、ようやく得ることができた高次の俳句表現といていいのではないかと思われます。
A また、俳句作品だけでなく、闘病の記録である『死出の衣は』にしても、現在読んでも、人間の存在やこの世における様々な事象に対して、根底の部分からひとつひとつ問い直し深い位相において思索した非常に優れた書であると思います。
B 折笠美秋の作品や文章が発し続けてくる「俳句とは何か」などといった様々な問いかけは、現在においてもなお重要な意味を持っているものが少なくないという思いがしました。
選句余滴
折笠美秋
氷河期の銀河めぐらす挽き臼よ
海深く夕日だきゆく水脈(みお)ありけり
満月のうらへまわつて消えしかな
染附皿のさびしい象が歩きたがる
海二月ついにきらめくなにもなし
連打いま 弾痕……となり 星座……となり
マンモスの臓腑に醒めて 仮眠 の 仮面
青蛙のうちに灯ともし母系は睲め
木の二月 おのが倒死の谺を待ち
水に泛(う)きちいさき水もゆきにけり
ひと漕ぎの白骨となり空の途中
流木のついに見えない下の手よ
水落ちて水の音する もう帰る
雪虫の千の絶後のこだまかな
水のめど水のめど魚 さようなら
星の出は谷を出てゆく谷自身
馬の腹では涙が水車を回わしている
めつぶれば軍馬が一匹逃げてくる
耳おそろし眠りのそとで立つてい
鬼無里という半鐘の鳴る村があつた
うつくしき挙手の木立よ 人消し峠
焼けおちるいま天と地のつまうじ
杉内部滝秘めおれば直立す
くらげ浮き水にもあらず母にもあらず
割れやすきものの音充ち銀河系
半月や ひとり帰つたものがいる
渺々と化佛の左手は隕(お)ちる
桃兆す天の一枚扉かな
細腰の田螺ただよう青大和
もののはじめに二山一谷麦烟(けむ)るを
溺れつつ水を盻(み)たりとおもいけり
水舟は舟よりもやや水である
死んだら来ようと思う北の樹見上げている
青蜜柑あすあさつてが見えてくる
五月なむ花を撒きゆ空中溺死
あはれとは蝶貝二枚を重ねけり
川幅は川に溺れてかがやけり
飛ぶ鳥の明日香や やさしく鳥を焼く
はるばるときてほのぼのとかまぼこ板
みつめる滝に水みえはじめみえなくなる
天體やゆうべ毛深きももすもも
旅の旅人よ内感覚に烏賊するめ
車座は回転しつつ消えゆく秋
野に降れば野にも舟ある月光父母
月(しまぼし)よ 白粥谷のふりむきに
骨ひとりぶんの菜の花盛りが見ゆ
筐(はこ)から筐をとり出すあそび鳥雲に
山頂の晴れのち晴れや彼岸花
満月や海燕貝(たこのまくら)の真暗がり
逝くことの巨きな鳥の陸奥山河
晩年は鯨を愛す日の帝(みかど)
繰り返し繰り返し夜の手毬唄
杳(よう)として左手は在り春の暮
天界やさらに幻(く)らきが雪乳房
わが美林あり檜葉杉葉言葉千葉
夕径かの栗の花散るしえらざあどよ
長葱の日本海学箸の先
雪融け原のおおきなおおきすぎる神
惹句!この阿武隈川を花牌(かあど)に零す
或る日老いたり遠見の鱶に陽は游び
青森で会いしひとりは春を渡りけり
赫き寝衣こそ幻世(このよ)なれ雪の音
菜の花継げば彼岸にとどく物干竿
晴(めのたま)や陸稲涅槃の雨上り
棺のうち吹雪いているのかもしれぬ
波に名を与えておれば海鏡(つきひがい)
まだ動く探海燈はさびしけれ
飛鳥より京へ甍(いらか)の濡れわたる
稲妻や地に欷(な)き孕むあかきもの
ざりがにを無上の愛として茹でる
水飯やかの練習機(あかとんぼ)永遠に
六月のまなざし深き椎の木よ
月雪花板の厠に老いゆくや
黄揚羽や等身大に春は荒れつつ
水の多摩土の相模と淡雪せり
汝と呼んでみる吾があり水の暮
かたつむり日々<複雑>を去りつつあり
暁闇や怒濤のごときかたつむり
あじさいの宇宙模型の吐息かな
極楽の裏手で葱をつくりおる
耀(かがや)きてよこたえられていたりけり
餅焼くや行方不明の夢ひとつ
杉たり 一本杉たり 倒れて銀河と称ぶ
ああ大和にし白きさくらの寝屋に咲きちる
俳句おもう以外は死者か われすでに
春暁や足で涙のぬぐえざる
空谷や 詩いまだ成らず 虎とも化さず
人語行き 虎老いて 虎の斑もなし
雪うさぎ溶ける 生きねば生きねばならぬ
舞う雪も君も触れれば消える旅か
次の世は茄子でもよし君と逢わん
なお生きる決意の鮭を噛みいたり
菜の花の一本でいる明るさよ
水に棲み飽きたる水か紫陽花は
七変化(あじさい)は半ばこの世で濡れるなり
思えばかなし桜の国の俳句かな
まだ誰も知らない死後へ野菊道
大満月つぎが最後の呼吸(いき)かもしれぬ
雲雀聴かむ幽明ふたつの顔あげて
一夜かかりて「露」一文字を分解せり
剣(つるぎ)も杖か 野火 野水 野苺(いちご) 野晒(ざら)し
つらら滴(したた)り書くべきことのあればこそ無し
金色になるまで親指を見つめている
星へ書く手紙は消えやすいインクで
麦笛を吹こうと夢みる麦自身
囁(ささや)き峠いま振り向けば石と化す
雨だれは目を閉じてから落ちるなり
まぼろしの世に定型と月雪花(げつせつか)
晩節や塩で漬け込む八重桜
明日は吹雪かんと天上蒼ざめたり
雪達磨 我を旅行く我れ居りて
逢わざれば逢いおるごとし冬の雨
傘ひらくときふと赤黄男(かきお)こぼれけり
幼な雪自分を夢と思い消ゆ
武蔵より甲斐かけて野火向かい風
菜種雨ナザレの人も濡れけるや
桃咲くと一つこの世の闇消ゆる
渡り鳥数えてみれば数え切れ
仰向けや天上ぎつしり流氷ゆく
ととのえよ死出の衣は雪紡ぎたる
すでに方舟発てり吹いて見えざれど
人ひとり死ぬたび一つ茱萸(ぐみ)灯る
我が抱く手負いの我れや紅葉闇
秋風の風船売りもう風ばかり
幼な雪自分を夢とまだ知らず
彼処此処(そこここ)に君が泪羅(べきら)や桜闇
双蝶や何処(いずこ)も生きやすからざるに
雪解川一度かぎりの岸を視つ
死に飽きし者ら群れ起(た)つ雪の奥
動けぬにあらず動かぬ千年杉
乳母車ノアの大雨なのではないか
狼煙(のろし)あり夕立駆けるその行く手
胸中に海鳴りあれど海見たし
雷浴びて我が荒魂は渚に一つ
海嘯(かいしょう)と死んじゃいやよという声と
眸(め)も凍てつ風切羽も凍てつなお
空を知悉(ちしつ)しもう翔ばぬ孤影の鷹よ
まなざしや烟雨(えんう)の彼方その彼方
影踏みの影を奈落と思いけり
最後に焼けるは目の玉ならん大西日
行き果ての夢山脈よ行き果てず
*
鬼の片腕
祭る祀りを
振り返る
*
句病みとや
雪病み
花病み
月病みして
*
白き降り
淡き降り
ひと歩む
大和言葉へ
*
髪なびき
霜夜
夜ごとの
夢枕
*
君の冷蔵庫に ⇒「鱏」に「えい」とルビ
鱏は眠れり
開けば
海
*
暮れがての
旅衣
行き行きて
雪衣
*
誰か知らん
北に
乱待つ
凍れる火
*
森羅
しみじみ
萬象
一個の桃にあり
*
死の淵に
現れ!
凄絶の
月雪花
*
わが死後も
夜来の雨を
人のきく
*
生きはぐれ死にはぐれまた桃を見き
生者死者ある夜乗り合う月光舟
麺麭(パン)屋まで二百歩 銀河へは七歩
寝入るらんと渉る銀河の水嵩や
雨止まず詩篇第二十二に雨止まず
相模野の時雨は死後へ降り続く
海の蝶最後は波に止まりけり
冬の蝶その眼の炎えていたりけり
木枯しの尾に摑まって幼な木枯し
胸中に同じ雪降る妻と我れと
鳥一つ空広きかな土用西風
*
冴えわたる
満月を見き
虎と化さん
*
俳人の言葉
「俳句がまた判らなくなりました」。そう便りに書いたら、「一度は判っていたわけですか」と足元を掬われた事がある。手紙などに書くべき事ではなかった。「また」と書いたが、私は俳句を「判って」いた事など一度もない。(…)私はずっと俳句が判らないのに、何度も俳句が判らないという思いに打ちのめされる。(…)「判らない」お前が、では何故俳句らしきものを書いて来たのか。そう問われよう。確かに厚顔の所為と言わねばなるまい。己れを騙し騙し、俳句を宥め宥めして、書き欺いて来たのだと思わねばならないだろう。ただ……。 ただ、「判らない」想いに呻吟したのは、無論私一人ではない。むしろ意識的に俳句に志した人の悉くが衝き当たった想いであろう。 その人も決して「判った」わけではない。俳句形式の知恵と伝統の躾(しつ)けの中で、私同様、書き泳がされて来たにすぎない。 「判った」者など一人も居ない。だが、極く僅かな人が、「私が俳句だ」と想い定める事によって「判らない」壁を突き抜ける事を知り、しかも「私が俳句だ」と想い定め得るだけの秀れた才能と強靭な意志とを持ち合わせる事が出来た。 言い方を替えるならば、「私が俳句だ」と、その想いを抱き得た者だけが、一廉(ひとかど)の俳句書きであるのかもしれない。
折笠美秋 『死出の衣は』(富士見書房 平成元年)より
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2 件のコメント:
冨田さん、気を吐いて下さって心強い。折笠美秋の名は、その悲劇的な闘病の記事と、イメージ溢れるペンネーム、作風の詩情という要素から、心にのこる俳人です。私は『君なら蝶に』あたりから。
個別の句では、
天體やゆうべ毛深きももすもも・・美秋
と言う句をおぼえています。
今回全貌をみて、関心のはばが多様であることをあらためて認めました。
貴文のなかに、彼には沢山の作家の影響がある、といわれていましたが、そういういいかたも出来るし、むしろ同時代のある意識性、言葉の好みなどが一致している、と言うべきかと。
波に名を与えておれば海鏡(つきひがい) 美秋
海鏡(つきひがい)、というのは貝の名前でしょう、違うのですか?
安井浩司の最近の作 「俳句空間ー豈」48号掲載《天類抄》は
天類や海に帰れば月日貝 浩司
で締めくくられていて、この「月日貝」は、あるものにあたえられる名辞の想像力ーそれ自身が喩として命を持つ世界を拓いた佳句です。
同じ生物で、イメージからつけられた名前が違うと、それを囲むせかいもちがってきます、でも結局はもとの「つきひがい」(〈いたや貝〉の一種)という物体が海にいる風景です。
美秋もやはりおなじ意識の傾向をもっていて、おおもとは、高柳重信の地名俳句の詩学に収斂するのではないか、今回はそういう俳句評論派の言葉の特質にも、眼を開かれました。
阿部青鞋との関わりを指摘しておられたことはよくわかります。美秋はジャーナリストですから、あまり求心性ばかりにはとどまらない水平思考の気配もあります。
句をつぶさにしらべて、
冨澤赤黄男と阿部青鞋のあいだの表現意識だという、この分析は、冨田さん独自の視点でしょう。
赤黄男と青鞋は、それぞれ、ラディカルに純化されたことばをえているので、美秋の句がやや情緒的に弛んで見えるのが残念ですが。それだけ、病気の苦しみがおおきかったのかもしれません。
堀本吟様
コメントいただきありがとうございます。
「つきひがい」は「月日貝」または「海鏡」と表記し、実物はツキヒガイ科の二枚貝で、海の砂泥底に住むそうです。
貝殻は円形で平たく、殻長約10センチ、左殻は赤橙色、右殻は淡黄白色で、名前はこれを太陽と月に見立てたものであるそうです。
季語でもあり「春」のものであるとのこと。
結局のところ両者の作品には「日」と「月」の存在そのものが潜在させてあるのでしょうね。
安井浩司さんの句はそれこそ「日の神」と「月の神」とでもいったような存在が作品の背後に感じられます。そのような神話的なイメージが、一つの貝の存在へとまるで「陰陽マーク」のように収斂してゆくところは、嘗ての「睡蓮やふと日月は食しあう」に近いものを連想させるところがありますね。
あと、堀本さんの「むしろ同時代のある意識性、言葉の好みなどが一致している、と言うべきかと。」というご意見には、なるほど、と思いました。
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