2009年7月26日日曜日

こしのゆみこ『コイツァンの猫』を読む(上) 放物線の途中に・・・中村安伸

こしのゆみこ『コイツァンの猫』を読む(上)
放物線の途中に

                       ・・・中村安伸

『コイツァンの猫』は、こしのゆみこの第一句集である。

この句集におさめられた俳句作品には、私にとってなつかしい思いをまとったものがいくつもある。十年以上前、私が「海程」に投句していたころ、こしの作品の短い鑑賞を書いたことがあった。そのとき読んだ作品のいくつかがこの句集にもおさめられているのである。

また、それ以降も彼女とは何度も句座をともにしており、そのような折に深く印象に残った句のいくつかに、この句集で再び出会うことができた。そうした思い出深い句と、はじめて目にする新鮮な句との間を、行ったり来たりしながら読み進めてゆくうちに、この句集は、私にとって愛すべきものとなった。

句集のタイトル『コイツァンの猫』は、集中の俳句作品から採られてはいない。こしの自身による「あとがき」によれば「コイツァン」とは、彼女が訪れたことのあるイタリアの海辺の町の名であるという。その地名の音が「ひなたぼっこの擬音」のようであるとこしのは言う。おそらくはその海辺の町の風光もあいまって、そのような印象をもつことになったのだろう。ともかく読者は、特別な意味を持たない、乾燥した軽さの音韻をそなえた、すこしばかり洒落たカタカナ語の地名として受け取ればいいのだろう。そしてその地名は「猫」という語にかかっている。日の当たる海辺の町にいる猫である。

こしのの「猫」に対する思い入れは特筆すべきものだ。句集の表紙にもちいさな猫の図像が印刷されているが、これはこしの自身の手による装画であるということだ。それに、私は猫をモチーフにした彼女の作品を他にも見ている。こしのが代表をつとめている「豆の木」という句会のホームページに使われているのは、こしのによる「猫」の彫刻作品(の写真)である。

句集表紙の無表情な猫の絵も印象的だが、ホームページの写真の猫などは、猫であると同時に人間の子供であるような独特の姿をしている。こちらも表情には乏しいのだが、猫とはそもそもそういうものなのかもしれない。擬人化された猫に慣れた目に無表情とうつっただけなのだろう。

当然、猫は彼女の俳句作品の重要なモチーフのひとつでもある。

さみだれや猫の話で眠ってゆく

炎天の帆をはらませて猫駆ける

眠り猫からだまるごと無月かな

月の木に上りし猫の飛びたてり

秋深く猫振り返りながらゆく

猫が光って春一番の大きな木

茶箪笥をこすっていくよ猫の恋

恋猫が鞄をしょって帰ってくる

羽ついている方の子猫よくころぶ

青ばかり使う日子猫抱きにけり

句集にちりばめられた猫の句をこのように拾い上げてみると、こしのが猫を観察する目のこまやかさに感心する。そして、これらの猫は、あるときは無機物のようなものとして、あるときは本能以外をもたない獣として、またあるときは人格を持つ者として、そして時には不思議な力をもつ幻想的な存在として描かれている。

猫という題材ひとつにこれだけ多様なアプローチが試みられているということからも、この句集におさめられた俳句作品の多彩さを垣間見ることが出来るだろう。

さて、この句集は季別に五つの章にわかれている。一つめの章「ゴールデンタイム」と二つめの章「水玉」に夏、三つめの章「セロファン」に秋、四つめの章「ひよこ売り」に冬、最終章「兎島」に春の句がそれぞれおさめられている。

冒頭には、こしのの師である金子兜太が「序にかえて」という文章を寄せている。また、小野裕三が「こしのゆみこをめぐる三つの断章」という跋文を寄せている。

とくに小野の跋文は、長年こしの作品を身近に見てきた盟友としての観察と、詳細な分析に基づくものであり、興味深い指摘が多い。私の意見とはニュアンスの異なる部分もあるが、まずはこの跋文に指摘されたこしの作品の特徴について検討しつつ、私自身の考察を加えてゆきたいと思う。

 *

小野は、三つの重要な指摘を、それぞれ断章というかたちで述べている。順序としては逆になるが、最初に三つ目の指摘から検討してゆくことにしたい。

この断章は「世界を創る眼差し」と題されており、小野は以下のように述べている。〈彼女の観察眼には世にある多くの俳人とは異なったひとつの大きな特徴がある。それは、その視線が「観察者」の視線ではなく、「創世者」の視線であるという点だろう〉この「創世者」の視線とはどのようなものか、具体的な説明はなされていないが、「創世者」という語自体は、こしの作品の特徴のひとつを良くとらえたものだという気がする。

俳人というものは、さらに大きく言えば芸術作品をつくる作者というものは、小野の言葉を借りれば「観察者」であると同時に「創世者」であるのだと思う。作品を創るということは、世界を観察し、再構築するということである。再構築を「創世」と呼んでもよい。もちろん世界とは外部にあるものばかりではなく、作者自身の内面世界を含んでいる。

そして「観察」と「再構築=創世」は表裏一体なのであり、こしのが「創世者」として傑出しているとしたなら、それは彼女が独特の「観察者」として傑出していることをもまた、意味するのである。

「観察」と「創世」におけるこしのの傑出した独自性は、彼女が絵画や彫刻といった表現に慣れ親しんでいることと無縁ではないと思う。たとえば猫の彫刻を作るとき、彫刻家は猫を観察し、再構築するわけであるが、当然のことながら彼は、神が猫を創るのとは異なる手順で猫を創るのである。

彫刻家が創った猫に、見るものを驚かせるような独特の猫らしさがあらわれているとするなら、それは、まずもって彫刻家の観察眼の鋭さ、独自さ、つまり他の人が見ていない部分を見ているということを意味する。

そして、猫を観察し、再構築することばかりが彫刻家の仕事ではない。彼はモチーフである猫を観察する以前から、世界のさまざまな事象を観察し、抽象したもの、を自らの内部に蓄積させているはずである。作者の内部に経験として降り積もった世界の断簡は、独特の手さばきによって、モチーフである猫とともに織り上げられる。そのようにして創世された作品は、猫であると同時に「世界」でもあり、見るものがそれを通して世界に触れることの出来る装置なのである。

彫刻家であれ俳人であれ、その作品の豊かさを決定するのは、蓄積された経験そのものの質と量。そして、それらを再構築するための手つきのあざやかさ、独自さである。質の高い、独自な経験を蓄積するためには、観察眼の鋭さと独自性が必要となる。

こしのの場合は、彫刻、絵画、俳句といった複数の表現手段の間をいったりきたりしつつ、独自の観察眼と、手つきを身につけてきたのだろうと想像する。

独自の観察眼と創世の手つきが活かされた作品として、以下を挙げたい。

青林檎放物線の途中に手

夏寒き父仁丹の光のみこむ

夕焼けて鳥のなる木にいそぐかな

空色にからまりからまり鶴来る

バス空になる時ふるえ春の月

一句め、投げられた青林檎とそれを受け取るために差し出された手、本来の景としてはそのようなところだろう。放物線とは、投げられた青林檎を追うことによって見えてくる仮構としての曲線だが、こしのは最初にこの線を引いてしまった。さしだされた手は、林檎を受け取るという目的から切り離され、唐突に突き出されたような印象を与える。二句め、仁丹そのものではなく「光」を呑むのだという切ない把握。三句め、木に鳥があつまるのではなく「鳥のなる木」であるという倒錯した認識の奇怪な面白さ。そして四句めは、空を背景にやってくる鶴を、空色の物質の中にからめとられながら飛んでいると把握した。これは、奥行きの無い平面の上に絵を描くときの感覚を基盤にしたものであろう。

これらの作品にあらわれているこしののユニークさは、観察と再構築(=創世)との間にある「把握」あるいは「認識」と呼ぶべき部分の独自さであるという気がする。

彫刻にせよ、俳句にせよ、作者のコントロールの外にあるさまざまな要素。たとえば彫刻なら石や木、粘土といった材料、俳句であれば形式や言葉、そうしたものが、そのまま偶然性に満ちた世界への窓口となることを忘れてはならない。俳句の場合は材料としての言葉をいかに活用するかであるが、こしのは、そのような点においても冴えを見せる。

冒頭にも少し述べたが、以前(1997年)私が「海程」に「こしのゆみこ作品私見」という文章を掲載したとき、もっとも惹かれる作品として挙げたのが以下の三句であり、いずれもこの句集におさめられている。

花合歓に天衣無縫のゆれており

酸漿の鳴る空修理しなければ

理科室の純粋な砂糖黄落す

これらの句について、私は当時以下のように書いていた。〈「意味」より前に、言葉じたいが本来持っているのは、抽象的で立体的な「イメージ」である。ゆれる「天衣無縫」や空を「修理」することなどは、言葉本来のイメージの広がりをたくみに組み立て、活かした表現である。「純粋な砂糖」は意味として指し示される具対物があるのだが、同時に「純粋」という言葉が強いイメージを喚起する。「花合歓」の句のおおらかさ、「酸漿」の句の繊細さ、「理科室」の句の透明感、どれをとってもこしのさんの言葉に対する感受性の確かさを保証するものと言える。〉「こしのゆみこ作品私見」

材料としての言葉が意味以前に持つイメージの広がり。その活用の巧みさをこれらの作品に見たのであろう。

同様の印象を与える句をさらにさがしてみた。

炎帝の巻尺なにもかも測る

水の月さっきこわした花のかけら

セロファンを曇らせるのはどの桔梗

千年の桜の中に手を入れる

わがあたま穀雨の中をゆっくりす

青ばかり使う日子猫抱きにけり

一句めの「巻尺なにもかも測る」は炎帝のイメージから導かれたフレーズであり、三句目も実景として読むより、桔梗のイメージから「セロファンを曇らせる」が導き出されてきたと読むほうが良いと思う。これらの句はいずれも、言葉のイメージを編み上げながら、心象風景を描き出そうとしたものだろう。

すずしろすずしろといい澄んでいゆく

冬薔薇ひとひらひとひらえりあし

「すずしろすずしろ」あるいは「ひとひらひとひら」というリフレインは、言葉という材料の属性のひとつである音韻を活かしたものである。

巧みな比喩もまた、材料としての言葉の活用例の範疇に入るものである。比喩の句には以下のようなものがある。なかでも直喩の句を中心に選んでみた。

木下闇のような駄菓子屋ちょうだいな

おばさんのような薔薇園につかれる

海しずかヌードのように火事の立つ

芽ぐむものオキシドールの泡立つ傷

風船を抱えるように誕生す

一句め「木下闇のような駄菓子屋」はこしのの実家の雑貨屋のイメージだろうか、やさしくもあり、すこしばかり薄気味悪くもある。またそれが心地よくもある。このような、夏の日陰のひんやりとした湿気のような雰囲気がこしのの作品には散見される。二句め「おばさんのような薔薇園」もかなり実感のある比喩であるが、諧謔としてはすこし直接的すぎる気もする。

三句めは句会で出会った句であるが「ヌードのように火事の立つ」という比喩は衝撃的であった。「裸」は季語だから避けたという面もあるかもしれないが、それ以上に「ヌード」の語のまとっているニュアンス――官能的、商業的、いかがわしい、美しい、等々――が、火事というものの普段は見えない一面をあらわにしていると感じた。

比喩とは、二つの語がそれぞれに持っている立体的なイメージの共通部分を提示することである。言葉を重ねることによってイメージは広がるのではなく、限定されるのである。

しかし、「ヌード」と「火事」というふたつの語の共通部分は、やや広すぎるようでもある。そこで、とりあわせられた「海しずか」というフレーズに着目してみる。とりあわせは、語と語の関係としては比喩よりずっとゆるく、自在な活用が可能である。

この句においては「ヌード」と「火事」に「海しずか」を加えた三者の共通部分が鋭く立ち上がってくる。それは絵画のように静謐で、エロティックにゆらぐ炎の立ち姿である。

(下につづく)


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2 件のコメント:

高山れおな さんのコメント...

中村安伸様

ひさしぶりのご執筆、嬉しく拝読。
『コイツァンの猫』というのは、さいばら天気氏なども紹介していましたが、面白そうな句集ですね。小生はまだ手に入れてませんが。杉山久子氏の句集を読んだ時にも思ったことですが、将来の日本は猫俳句ばかりになって、孫俳句などというものは消滅するでしょう。子供がいなくなるのだから。そのうち猫が俳句を作るようになるかもしれません。俳句を作るような猫とは、つまり猫股ということになるのでしょうか。
後篇も楽しみにしております。

中村安伸 さんのコメント...

高山れおなさま。
コメントありがとうございます。レスポンスが遅れて申し訳ありません。
たしかに猫俳句というのはひとつのジャンルとなりそうな勢いですね。
先日自作をまとめる必要があって、読み返していましたら、私もかなり作っていました。
猫より犬派なんですけどね。