2009年8月16日日曜日

髙柳克弘句集『未踏』をよむ(2) まっしろに花のごとく・・・中村安伸

髙柳克弘句集『未踏』をよむ(2)
まつしろに花のごとく

                       ・・・中村安伸

髙柳克弘句集『未踏』を評するのあたり、多くの評者が文脈はともかく「青春性」という語を用いているようである。句集前半に散見される恋愛感情をテーマにしたと思しき作品に、なかなか魅力的なものがあるということがその一因であろう。

まずは、そうした作品の例をあげてみる。(番号は評者が便宜上付したもの、括弧内は制作年。)

1.ゆふざくら膝をくずしてくれぬひと (2003)
2.夜の新樹どの曲かけて待つべきや (2003)
3.わが部屋の晩夏の空気君を欲る (2003)
4.木犀や同棲二年目の畳 (2003)
5.雛飾るくるぶしわれのおもひびと (2005)
6.蕪煮てあした逢ふひといまはるか (2006)
7.日暮より早き別れや冬の川 (2006)

1.2.6.7などは、必ずしも恋愛を詠んだものとは断定できないが、恋愛感情を想定して読んでみたほうが魅力を増すようである。

1.は恋慕する対象が気を許してくれない状況。2.3.6.は恋の対象が不在であり、7.は「別れ」ののち、一人になって相手を思っているという状況を描いているのだろう。5.では、そこに「おもひびと」が存在しているが、作中主体に対して背を向けている。このような片方向の思慕の情、その一途さを描くのがこれらの作品の特徴である。同時に1.の「膝」、5.の「くるぶし」などの肉体描写もまた、清潔さを損なわない範囲でのエロチシズムを醸し出している。

4.はすこし異質であるが、「二年目」という時の経過からも「木犀」という季語の選択からも、この同棲がまだまだぎこちなさを残している、新鮮なものであるということが伝わってくる。また、句の景は「畳」へと絞られてゆき、同棲の相手は描かれていない。思慕の情はここにおいても一方的なのである。

髙柳氏はとくに女性俳人から絶大な人気を得ているということをよく聞くのだが、これらの作品がその人気の鍵を握っているのかもしれない、とふと思った。

これは想像だが、そのような女性読者たちの中にはこれらの作品を読みながら、恋慕の対象である女性になんとなく自らを重ね合わせる人もいるかもしれない。もちろん思いを寄せる側の作中主体には、作者である髙柳が想定されるのである。このような擬似恋愛的な構造は、J-POPなどにおいてアイドル的な魅力をもつアーティストに対してファンとが抱く感情に類似しているかもしれない。

もちろん髙柳自身が意図して読者に媚びているのではなく、真摯な表現の結果として読者を楽しませているだけのことであり、彼自身の名誉はいささかも傷つくものではない。

 *

さて、先週号の拙文において、私は以下のように述べた。〈髙柳はこの句集を「二十代の墓碑」として編んだという。いささか気負いとロマンティシズム過剰な言葉ではあるが、このような表現にもあらわれている「死」を身近に感じる意識こそが、髙柳の作品を特別なものにしているという面はあると思う。〉

早速、この句集にあらわれている「死」というテーマについて検討してみたい。まずは句集中、死に関連すると思われるものを挙げてみる。

1.どの星の死や枯蘆の告げゐるは (2003)
2.蝶ふれしところよりわれくづるるか (2004)
3.蝶の昼読み了へし本死にゐたり (2004)
4.在ることのあやふさ蝶の生まれけり (2005)
5.潮満ちていそぎんちやくは死者の花 (2005)
6.泉飲む馬や塚本邦雄死す (2005)
7.新生も死もなき雪の1DK (2005)
8.死に至るやまひの蝶の乱舞かな (2006)
9.根の国の闇を恋しと亀鳴けり (2007)
10.春昼の卵の中に死せるもの (2007)
11.虹消えて小鳥の屍ながれゆく (2007)
12.祖の骨出るわ出るわと野老掘 (2008)
13.絵の中のひとはみな死者夏館 (2008)
14.死ねとすぐいふ子に秋の金魚かな (2008)

ここに取り上げたのは、直接死や死体を扱ったもの、死を暗示しているもの、あるいは、比喩や人物の台詞といったかたちで「死」という語を用いているものなどである。死の影を感じさせる程度の作品なら、まだまだたくさん挙げることもできるだろう。

7.にあらわれているように、髙柳にとって現実の死は決して身近なものではなく、むしろ縁遠いものとして感じられているようだ。

一方で彼は、死という語、概念に対する関心そのものは強く持っており、死に対する文学的なアプローチを積極的に行っているように見える。もちろん誰にとっても死は重大な関心事であるが、一方でそれについて考えることを忌避するという傾向もまた強い。「文学的なアプローチ」とは、こうした本能的な回避行動を理性によって抑え、対象を見据える姿勢のことを言うのである。

真摯に表現を志す者なら誰もが、死に対して上記のようなアプローチをとろうとするだろう、ただ、髙柳の場合は「死」と言う語を直接表面に出してくる傾向が強いようである。14.などはそうした自分自身に対する皮肉のように受け取れなくもない。

初期の作品には、もっぱら抽象的、概念的なものとして死があつかわれているようだが、後半となるにしたがって、だんだんとより具体的、肉体的な死があらわれてくる。

概念としての死を扱ったものとしてすぐれているのは3.の句であろうか。この句では「死」は衝撃的な比喩として、効果的に用いられている。

比喩は的確であればよいというわけではなく、意外性によってはじめてすぐれたものとなる。拙文で私は比喩について以下のように述べた。〈比喩によって、二つの語がそれぞれに持っている立体的なイメージの共通部分が提示される。言葉を重ねることによってイメージは広がるのではなく、より限定されるのである。〉「放物線の途中 こしのゆみこ『コイツァンの猫』を読む(上)」―俳句空間―豈Weekly 49号より)Aという語のさししめす立体的イメージのなかで、読者が一般的に注目している領域は一部である。そして、Bという語を比喩として用いたときに、普段注目されていない領域が前面に立ち上がってくることがある。そのような意外性が読者に衝撃をもたらすのである。

より具体的な死を扱ったものとしては、10.がすぐれているだろう。これは誕生ととなりあわせの死を具体物によって表現しているのだが、4.において抽象的なかたちで表現されたテーマが、肉体化されたものといえる。また、同様のテーマを否定的なかたちで述べているのが7.であろう。

さて、上記の例句にはあげなかったが、

まつしろに花のごとくに蛆湧ける (2007)

という句も興味深い。この句を、死を扱ったものであると断じることはできない。蛆はもちろん死体にばかり湧くものではない。腐敗した汚物のなかで生まれ、成長して蠅となる蛆は、一般に忌み嫌われる存在である。そのような対象の姿を虚心坦懐にとらえて「まっしろに花のごとくに」と表現した、その予断を捨てた視線がこの句の手柄であり、それで十分であろう。

したがって、以下はあくまでも個人的な思い入れに基づく深読みである。

私は直感的に、この蛆は屍に湧いたものであるというイメージをもった。そのように読むことで「まつしろに花のごとくに」という措辞が、より輝きを帯びてくるように感じる。死者の身体がグロテスクに腐敗してゆくという現象のあらわれとしての蛆。その蛆をきよらかな、聖なるものとして描く。それは、死という汚穢を、美化したり消臭したりするのではなく、グロテスクな姿と腐臭をそのままに荘厳しようとする表現であり、以下のような文章に述べられているもののあとに続くものなのである。

〈彼女の死体はシーツの中に捕らえられている。相変わらずそれは、頭から足まで、流氷の瓦解のなかにあって、じっと動かず硬直した、無限に向かって航行する一艘の船なのだ。〉ジャン・ジュネ、鈴木創士訳『花のノートルダム』(河出文庫)

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