2009年8月16日日曜日

「―俳句空間―豈」関西読書会 安井浩司の近作を読む

「―俳句空間―豈」関西読書会
安井浩司の近作を読む


7月、関西在住の「―俳句空間―豈」同人の呼びかけで約10名が集まり、同誌47号・48号所載の安井浩司書下ろし作品をテキストに読書会を行いました。時に険峻な山岳を思わせる安井作品の世界への足がかりを模索した4時間でした。以下、参加者の許諾を得て、寄せられた読後感を転載します。(五十音順)

■開催日時:2009年7月19日(日)13時~17時

■開催場所:大阪市立 城北市民学習センター 会議室4

■司会進行:岡村知昭・堺谷真人

■テキスト:安井浩司「蛇結茨抄」50句(「―俳句空間―豈」47号所載)
「天類抄」 50句(「―俳句空間―豈」48号所載)


雁行くや空の高さに海あれど

「蛇結茨抄」巻頭の一句。句意は鮮明だが、混濁している。空の高みに吊り上げられている海の像が思いうかぶ。うねり、捩じ曲げられている海。これは、安井が評論をかかなくなったあらわれではないかとかんがえられる。

ひるすぎの小屋を壊せばみなすすき(『赤内楽』昭和42年)

遅参性を云っていた頃の句だ。すべての俳句は書き尽くされた。いまはただ俳句の典型をなぞるだけだ、と、いっていたころのもの。よぶんなものがなく、すっきりとしている。ひとつ気がつくことは、最近の評論集『海辺のアポリア』のあとがきを安井本人がかいてはいないのだ。編集人のひとり、たぶん、大井恒行さんの筆である。評論でかくべき、俳句へのおもいが、俳句作品になだれこみ混濁をひきおこしている、と、よむこともできる。いまはただ、俳句作品の完成度を語るよりも安井の言語の混濁に身をゆだねる時なのかもしれない。

                       (大本義幸・豈)



「蛇結茨抄」からは「千の棘花意志をもて人娶らんや」を。蛇が人を娶ろうとする話は多いが、一面に棘をつけた花が娶りを求めるというのは、なかなか出てこない世界像。花と人が傷つきあいながら交歓する様子は下手な解釈をはねのけて、切ない。

「天類抄」からは「野にこする金剛いんこの頭痛なれ」。金剛いんこが実際にいるかどうかは考えず、いんこの頭痛、しかも痛みに耐えかねて地上に頭をこすりつけて何とかしようとする姿そのものの面白さに惹かれた。しかし「こする」とはなかなか選べない措辞ではないだろうか、やはり安井作品は動詞に注目なのかも。

当日はどの参加者も作品に対してどのように述べようか苦心している様子が、発言から伝わってきていた。それはある意味、これまで積み重ねた自分のスタンスを駆使してもなかなか世界を掴ませようとしない作品たちに対する苛立ちのようだったが、その苛立ちを率直に語りだせるようになったときから、会自体が作品ときちんと向き合おうとする姿勢が定まったのではないかと思えてならない。次なる展開が楽しみになってきている。
                       (岡村知昭・豈)



安井の句はしばしば音読することが難しい。そもそもそれを期待してはいないのではないだろうか。内容については行為に注目したい。登場者は近代的なことを行わない。反時代的な場所で専ら原始的な行為をなす。愚行は尊厳性を帯びている。民俗、仏教、博物学等から廃語を拾い上げ、携えて、野を遊行する。つまり、彼の句は言葉による呪である。呪は、私の好みでは、詩に期待される力の筆頭である。

昼星の落下をかわして老農は(蛇結茨抄)

積年寡黙をもって野に立ち、いまや蝮の首を摘み、隕石を躱すこともルーチンとなった。

春雷雲かすかに勃起する羊(天類抄)

影の濃い黄灰の雲。遠い空気のふるえを通して、快と不穏の唸りが伝播する。羊は地に立つ雷雲である。アンドロイドの夢の中。
                       (北村虻曳・豈)



春昼覗く顕微の円に乞食ねて(蛇結茨抄)

顕微鏡の円い視界に寝そべる乞食は、壷中天に遊ぶ神仙のイメージか。ともあれ、極微の世界に忽焉と現れたナノサイズの乞食に科学者たちは当惑を隠せない。

ところで、同じ「蛇結茨抄」に「蛇結茨かたまり眠るキリストら」「笹にねて汝が唇を割る礼はあり」「夏よもぎ眠れば脳も片寄れる」があり、「天類抄」には「月光や漂う宇宙母あおむけに」「あおむけに海の乳房や遠いさな」「芋葉隠れに太陰暦の女ねて」「夢野なら十字狐を枕とす」の句が見える。頻出する横臥、仰臥、睡眠のモチーフは、直立という人間的特色を放下して名辞以前の渾沌に帰一しようとする心理的傾向と、なにがしかの関係があるのかもしれない。

日を西湖月を東湖に投げ込まん(天類抄)

一転して極大の句。「菜の花や月は東に日は西に」(蕪村)を連想させるが、安井作品は気宇壮大なること蕪村に百倍する。中国古代神話に見える巨人・盤古。彼が死ぬと頭は四岳に、目は日月に、脂膏は江海に、毛髪は草木に変じたという。盤古の左右の目玉を把ってこの世の最果ての湖に苦もなく投げ込んだ者は、一体誰なのであろうか?
                       (堺谷真人・豈)



「蛇結茨抄」より。全体の構成が「連句」のように匂付されては次の一句へと紡がれているように思われた。一人連句か、あるいは分身の幾人かと巻いているふりか。連句でないのは、ゆきつもどりつしているところ。一句一句に関しては、難解な造語にみえて実在の植物だったりで、この辺は大いに愉しませてもらえた。

この抄を読み解くために「全体と全体以外――安井浩司的膠着について」(関悦史・-俳句空間―豈weekly 2009年2月14日)これを便利な道具として使わせてもらった。つまりこの中に一句放り込んで揺ってみれば一句の腑分けができるのではと考えたのだ。おかげで周縁的怪物に悩ませられることなく読めたのであるが・・・(悩まされた方が愉しかったかも)

糸尻を止めずに縫うは墨衣 春陰や一本箸もて食らうわれ
                       (嵯峨根鈴子・らん)



安井浩司の100句を前にして、謎解きのような時間であった。蛇結茨も箱柳も乙姫海老も実際にあるのだという。「蛇結茨抄」と「天類抄」との一双仕立てのようである。蛇結茨という植物のことを考えると、「蛇結茨抄」は、鋭い棘を持つ蛇結茨に囲まれた結界を示しているようでもある。死の世界を思わせるものが散見される。「天類抄」は、天を含む世界の中に、生誕をイメージしたものがいくつかある。

川ほとりおみなは屈み梭を産むや

逆剥の馬を機屋の屋根から放り入れられて自らの陰を梭で突いて死んだ女、そんな太古の神話を下敷きにしているのだろう。あるいはこの梭は川を流れてくる丹塗矢とも似ていて、丹塗矢にまつわる誕生譚のイメージとも重なるのではないか。また、この川は『句篇』にある、

火のほとり水は流れて秋の家

の、この水なのではないかと思うのだが。川のそばに燃え盛る火はまさに命を表しているのではないかと。川のほとりに在る「おみな」は生命を生まんと燃えている火なのである。火=ひ=梭が隠されているのかとも。
                       (羽田野令・吟遊)



箱柳天地も小さくなりにけり(蛇結茨抄)

ハコヤナギ属。ヤマナラシ。ポプラなどのこと。その並木の写真をみると、この句の光景がわかる。なるほど大樹であり、周囲の天地がちいさくみえる。その写実性と、「箱庭」やマッチ箱を連想して、天地乾坤を小さく閉じこめる遠近法の攪乱をきたす。

蛇結茨かたまり眠るキリストら(同)

句としてはこちらの方が面白みがある。実際の花や幹の写真を見ながら想像すればやはりものすごい光景。このように生類繁茂のエネルギーを文字の景にうつし植えている、石田波郷に「金雀児や基督に抱かると思へ」(『雨覆』)と言う句があり、花の形状唐子の句を想い出した。

釘の頭と呼ばれる平ら春の命(みこ)(天類抄)

最初、意味が全くわからずこういうキッチュな取り合わせはだめだと思った。しかし、先の二句の植物は実在。月日貝も乙姫海老もそう言う浮世離れした名前をもらってちゃんと棲息している。それで、もしやとおもい、調べてみると、あった!長崎県大村市日泊町釘の頭。釘の頭集落センターの水質調査表という膨大な資料も公開されている。この地名のことかしら?公害問題で新聞にでたのだろうか?すると俄然神話的な雰囲気の「春の命(みこ)」が生々しくアンビバレントな存在感を持ってきた。この句からは、物語がむすびにくいがシンプルにして複雑な安井浩司のおもしろさ(人によればつまらなさ)である。

*   *   *

この百句は、語彙の使い方に馴れたせいか全般にわかりやすい。変な名辞を堂々ともちこんでドラマチックな攪乱をしている。単純な連想からしだいに悲壮滑稽など多義性をひきだし、読者の精神の虚実のあわいをくすぐる。大人向きのアニメでもみているようだ。「わからない」、と言うときにすぐさまごみばこにいれてしまわないで、まあ一度、植物図鑑か地名辞典をひいてみたらいかがだろう。

まず、このような、句の具体的なつくりかたへ検証からはじまった「安井読み」。いろんな意見が聞けて面白いものだった。

「蛇結茨抄」「天類抄」連作の意図については不発、もうすこし読み込みが必要。安井ならでは、という所のつっこみがこれからの私の課題である。
                       (堀本吟・豈)



「蛇結茨抄」と「天類抄」では、宗教観を超えた輪廻と時代を超えた物語とが感じられ、神話か伝説のようなものを読んでいる感覚になりました。

書きおろし作品のなかで特に興味を持ったのは、「蛇結茨抄」の「あざみ野を渡る不敗の衣きて」です。アザミは、キリストの十字架から抜いた釘を、土に埋めたときに咲いた花だと言われています。また、ノルウェー軍の侵攻を阻んだ花として、スコットランドでは王家の紋章とされました。そのアザミと蛇結茨は、鋭い棘で外敵を寄せ付けないことが共通しています。

このように、安井浩司さんの世界を自分なりに紡いでいくだけで楽しいので、今はあまり難しく考えないようにしています。
                       (三木基史・樫)



今回の読書会では、堺谷真人が「寺山のジャンル外へのexplosionに対して、安井はジャンル内へのimplosionではないか」と指摘したのが、個人的にはクライマックスだった。日常的に「爆発」という意味で使われるexplosion (接頭辞ex-[外へ]+plosion[破裂])に対して、implosionは専門用語としてのみの使用で、「内破(内に向かっての爆発)」「(急激な)内部崩壊」の意味をもつ。モチーフが近くまた遠く句から句へと連鎖してゆく安井俳句の面白さをとらえた見事な比喩である。この「内部崩壊」が超新星を生むのか、それとも後にブラックホールを残すのかが最後まで分からないのが、安井俳句のもっともスリリングなところだろう。「蛇結茨抄」では、「主はときに蜘蛛のごとく後ろより」の句に、〈全体〉による不意打ちの魅力を感じた。「天類抄」からは「青鳩苦しめ天と空との同一に」。「苦しめ」の命令形に、〈全体〉にも〈部分〉にも与しない安井句の特質が見える。
                       (湊圭史・バックストローク)

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■関連記事

全体と全体以外――安井浩司的膠着について・・・関 悦史   →読む

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■関連書籍を以下より購入できます。






1 件のコメント:

さんのコメント...

岡村、堺谷様 企画や連絡、司会あとの二次会等おせわになりました。

 これは、
 「俳句空間ー豈」47,8号を読む会
 ヒコイズム研究会 安井浩司読書会の
合同の集いでした。


 他の句会とかさなてってこられない人もいたし、「豈」同人でも、まったく興味ない人もいたようです。そんなことに無理をいうつもりはありません、来たひとで深めてゆくつもりです。ホンをよむというのは、独学も共学も必要だからです。安井さんは元々独学独歩の地平にいろんな詩の才能を取り込んで、それを高次元に吸収してきた人ですから、関東カンサイなど地域性にかかわらず、一対一の対峙は不可欠の作業だと思っています。

 安井詩学については、私がかかわって、すでに、本年1月18日。めらんじゅ(詩人)読書会で、大橋愛由等、寺岡良信。羽田野令、の報告があり、おずおずながら魔界のような世界に踏み込みました。そんなに怖がらなくても良いようなものですが、あのぎゅーっと蛇を摑んで引っ張り自分のカテゴリーに引き寄せる呪的なパワーは、やはりただごとならず、まあ、蛇結茨の棘をいっぽんずつおるように、原点からあるきはじめるにこしたことはない、こういう考え方です。
 読書会の出だしとしては、ナイーブな率直の好い会だと思いましたよ、私は。

 ほとんど安井浩司的世界を初めて、と言う人たちも来られたので、批評文から入ってしまうと、そこにもむづかしい言葉がでてきますし、その散文脈に終始して句の味わいができなくなるおそれもあります、こういうやりかたにされたとおもいます。
 すこし読み進めれば、彼らがなぜこういう言説を武器にして読みを展開するのかが判ってくるし、
 私が、永田耕衣等の東洋哲学や、宗教の牽引の強さについては私の知る範囲ではお話しておきました。只、それぞれのどの句との関わりがどうとか言う段階にまでは、お話しできませんでした、あまりそこまでは関心がなさそうでしたが。
 関悦史さん、宇井十間さん、山口優夢さんの批評ももちろん話に出ましたよ。安井さんにあまり高い評価をあたえていない、ところに評価をあたえていました。

 それから、こんな俳句があったんですか?と目を丸くしていた、俳句初心の大学生、X君は、かなりシビアな拒否反応を示しました。
 このように、必ずしもファンばかりがくるのではありません。誰が来てなにをいっても好い場面で安井俳句の存外なユーモアとか、思索の深さにはっと気がつく、あるいは、かえってからおもいいたる、こういうのが理想ですけれども。
全句集を網羅して、読みの構想をつくって、安井浩司を逆オルグする、という形にはまだなってはおりませんが。(私としては、もうすこしこちらの地域にの意識情況がしりたい、というねらいもあります。隠れた熱烈ファンがいれば、最高です。)
 こんな俳句があったのか?いこごちわるいなあ。とか。しかし同時に、イメージ的な霊的な直感で、いきなりこの人、安井俳句の本質と摑んだな、と言うような人もきていまして、タシサイサイ、カンサイ、捨てたモンじゃないという手応えも。
 だから、わたくしには、お二人の企画者が
手あかにまみれない初発の印象をひきだしてくれたことに大いに感謝しているのです。
 げんざい、野口裕さんの林田紀音夫読書会が延々とつづているので、私は、ヒコイズム研究会の流れで、攝津、安井、重信、郁乎、等へ拡げられる話題をおこしてゆこうかと。しばらくはこの二つの柱を立てています。


といううことで、れおなさん、あんまりせかさないようにおねがいします。カンサイ、ってのんびりしているンです。読まねばならぬ本もいっぱいあるし、夏の宿題がひとつ終わりほっとしています。
(堀本 吟)