2009年8月30日日曜日

閑中俳句日記(13)

閑中俳句日記(13)
鳴戸奈菜「古池に秋の暮」50句


                       ・・・関 悦史


雑誌や句集を送っていただくことはたまにあるのだが、せっかくだからちゃんとした紹介文をなどと思っていると結局書けないまま日時を延ばしてしまい、そういう申し訳ないことになっているのが何点もあるのだが、不充分でも書かないよりは何か書いておいた方がよい。

鳴戸奈菜さんから新作「古池に秋の暮」50句が載った詩誌「ガニメデ」46号を頂いたので、今回はここから紹介する。

平目より鰈が好きでよい奥さん

以前永田耕衣の『自人』をとりあげた際に《ラーメンに胡椒が在つたヤイ夏天》などという、素材のどうでもよさにかけてはこれをしのぐものはなかなかないのではないかという怪作にはまってしまって呆れられたことがあり、今回も何もこの50句のなかでわざわざこの句を最初に引くことはないのではないかと自分で思わないでもないのだが、惹かれたというか、何かが引っかかった。

一般的にヒラメよりカレイの方が安いからそちらを好むのはよい奥さんには違いないが、それだけの取り方でよいのかと立ち止まらせる不穏な気配があり、どこの誰とも知れない、具体的な知人でもなければ身内でもなく、語り手自身でもなさそうな、関係性から切り離された「奥さん」が、何やらマグリットの絵に登場する、しばしば顔を隠されていたりもする紳士淑女のようにも見え、その奥さんの上空にヒラメとカレイが相似の姿を並べてあらわす図が頭に浮かぶことになるのだが、このヒラメやカレイもマグリットに近い雰囲気を持っていて、つまり何かの寓意のように見えるのだが、それがいかなる寓意なのかはさっぱりわからず、結果としてフォルムは明快なのに何やら不気味な余剰を漂わせることになる。「よい奥さん」の、何の思い入れもない記号じみたフラットさが立ち去り難い(鳴戸さんに限らないが、非伝統的な作りの俳句で、緊張し垂直に屹立する風情の句は最近少ない気がする。良いとか悪いとかではなくて、戦後詩じみたスタンスの句が現在説得力を持ちにくいということなのだろう)。

ヒラメやカレイ自体はおそらくあまり重要ではないので、重要なのは、似通っていながら微妙にずれている要素同士の対比並存自体である。標題がそもそも「古池に秋の暮」という、《俳句》の代名詞のような言葉二つを並べていて、ワビサビに別のワビサビを重ね合わせて過剰な何かにしてしまうという動きをはっきりと示しているのだ。

紐と繩どちらも好きと春の松

美しき男いたぶるバラ科の桜

「紐と繩」、「バラ」と「桜」。この辺の組み合わせにもその特徴がよく出ていて、つまり通常の二項対立にはなっていない。首吊りされることを楽しんでいると思しき「春の松」にとっていかなる有意な差があるのか、はたから見たら一緒ではないかと思われる紐と縄の微妙なキャラクターの違いから生ずるズレと広がりが情緒的な湿りを払うさまが鳴戸奈菜の句の大陸的と呼ばれもする特質の一端を担っても来たのであろうし、「美しき男」をいたぶるのが「バラ」であれば西洋、「桜」であれば日本の美意識の範疇に過不足なく収まってしまいどうということもなくなるのだが、「バラ科の桜」となると途端に洋の東西から性別・性役割までよくわからなくなり多形倒錯的な様相が現われる(なおウィキペディアによるとサクラは実際にバラ科の植物である)。

中心が二つあるという点が、花田清輝や後藤明生が偏愛した楕円性を想起させる。一つの価値観にまとめあげられた円の世界に対し、それを相対化するもう一つの中心が批評性や笑いを介入させてしまうのが楕円の世界である(抽象論議に見えかねないが、花田清輝が生きていた軍国主義の時代に「価値観」を「相対化」したら身の安全に関わる)。

少年A蝉が怖いと木に登る

妹を待つ桃流れくる川のほとり

しゃぶるによき勾玉のあり良夜

楕円の世界は基本的に喜劇の世界で、じっさい、法を犯したらしき「少年A」が恐れの対象を免れ難く真似てしまった結果、当の蝉の体勢になってしまったり、桃太郎の舞台と思しき川がこれまた性関係の惑乱の場に変じてしまったり(「妹」は古語では恋人や配偶者をも指す上、待っている人物の性別もわからない)、勾玉が口唇的な欲望に巻き込まれることにより古代や天文(良夜)があっさり涼やかに身体と地続きになってしまったりとさまざまに喜劇性を露呈していたりもするのだが、喜劇性の場はそもそも日常秩序壊乱の場であり、死が容易に介入する場でもある。

赤い糸口より垂らし亀鳴けり

いつまでも眠りいつかは荒蓬

麻酔医のふところ深く青山河

一生の途中で踏んだ蝸牛

藤房のむらさきが垂れ昼も過ぎ

水色の影とふたりや蓮の花

百歳の媼舌出すところてん

昼と夜のあいだふらふら夕顔や

芒原穴のかたちに寝るばかり

しかし死と生の関係が安定した楕円形のコスモロジーを成し、それが俯瞰されて整頓されてしまうということにはならない。語り手は、観測者が観測対象に不可避的に影響を与えてしまう量子的な関係のなかにとどまる。

彼岸花橋の途中で目が覚めぬ

俯瞰は一般論につながり、明快さのなかに潜在する混沌を消してしまうからである。

古池に巨きな船が秋の暮

標題ともなった「古池」と「秋の暮」は二つの中心を持つ楕円のずれから「巨きな船」を呼び出してしまった。池に巨船では身動きも取れなさそうである。

話は少々飛ぶが、本稿が掲載される予定の2009年8月30日は政権交代確実と言われている総選挙の投票日である。冷戦終了までは「政権選択」はそのまま東西両陣営のどちらにつくかという「体制選択」に直結してしまいかねず、ほとんど考えられなかったのだがその可能性が現実のものとなってきた。

選択肢は一応複数提示されているのだがどちらにしてもイデオロギー上さほど明確な差があるわけでもなく、先行きも当分見えそうにない。そういう事態の寓意として詠まれた句群では別にあるまいが、歴史の動きは人の心の動きでもあり、そこに棹差して表現のリアルを探ればおのずと感応するところもあるはずで、「格差」が問題になり『蟹工船』が売れているから「貧困」を詠もうというようなこととは全く別のレベルで、作者個人の身と歴史とを貫く線が瞬時に生成することもあり得、じっさいこの50句も「保守」と「革新」とか「伝統」と「前衛」とかいったものとは別のずれ、対立項ならぬ対立項の間から表現を生み出そうとしているように見える。

そうした混沌を経て澄んだ明晰な叙情に至った句として、以下の辺りが印象に残った。

恋人を連れ込む秋の昼寝かな

朝顔のさびしき色は七つほど


--------------------------------------------------

■関連記事

閑中俳句日記(01)永田耕衣句集『自人』・・・関 悦史 →読む



0 件のコメント: