2009年5月31日日曜日

第41号


第41号

2009年5月31日発行

遷子を読む

〔10〕農婦病むまはり夏蠶が桑はむも

・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井   →読む

嗚呼、新型インフルエンザ

「船団」女子十句集を読む

          ・・・高山れおな   →読む

俳句九十九折(38)

俳人ファイル ⅩⅩⅩ 新海非風

          ・・・冨田拓也   →読む

「俳句空間」№15(1990.12発行)〈特集・平成百人一句鑑賞〉に纏わるあれこれ(6)

能村登四郎「まさかと思ふ老人の泳ぎ出す」

          ・・・大井恒行   →読む

あとがき           →読む

豈同人の出版物      →読む

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あとがき(第41号)

あとがき(第41号)


■高山れおな

火曜日に道灌山に登りました。たまたま所用があり、西日暮里駅で下車しましたら、駅前に掲示された地図に道灌山通りとか道灌山下といった文字が見えて、道灌山というのはここらにあるのかと気づきまして、立ち寄ってみたのです。そもそも西日暮里駅で下車したこと自体、初めてだったように思います。山といっても王子の飛鳥山のあたりからつづく台地の端にあたり、東側が崖になって、眺望がひらけているのを山と言っているにすぎないようです。子規・虚子の会見場所を示す案内の碑か看板でもないかと思いましたが、そういうものはありませんでした。ただし、子規を含め、多くの文人墨客にゆかりの地であること、江戸時代には虫聴きの名所であったことなどを記した案内は出ていました。諏訪神社の境内から西日暮里公園にかけて、なるほど眺めはよいのですが、木立が深く、なんだか淋しい場所でした。

同じ火曜日の夕方、山の上ホテルでは山本健吉賞と俳句界評論賞の贈賞式が行われていました。前にも書きましたが、今年度の俳句界評論賞受賞作は、当ブログで「閑中俳句日記」を連載中の関悦史さんの「天使としての空間――田中裕明的媒介性について」。自分への贈賞は山本健吉賞の前座かと思って出掛けたらトリであったこと、受賞者挨拶では「選考委員の先生からは選評に《支離滅裂》とのお言葉をいただいた。今後はもっと支離滅裂なものを書きたい」と述べたことなど、お便りがありました。それにしても関さんは、安井浩司、田中裕明という、当代の重要作者二人について相次いで必読論文を書いたことになります。いよいよのご活躍をお祈りします。なお、当該論文については今週の「週刊俳句」(http://weekly-haiku.blogspot.com/2009/05/20096_31.html)で、上田信治さんが丁寧に感想を記してくださっていれますのでご参照願います。そして何より、「俳句界」六月号に論文そのものが発表になっておりますから、そちらをお読みくだされば幸甚です。


■中村安伸

第113回現代俳句協会青年部勉強会「行動する子規―革新の力学―」が6月13日、現代俳句協会会議室にて実施されますので、ご興味のある方はぜひご参加ください。

詳細は以下を参照してください。

http://www.gendaihaiku.gr.jp/intro/part/seinen/benkyo/benkyo76.htm


「船団」女子十句集

嗚呼、新型インフルエンザ
「船団」女子十句集を読む


                       ・・・高山れおな

本稿を書きつつある五月三十日土曜日には、ほんとうは京都の佛教大学四条センターで開催される「船団の会2009年初夏の集い」に参加するはずだった。まず、「女うた・男うた」のテーマで歌人の道浦母都子と「船団」代表の坪内稔典が対談し、そのあと「船団」の塩見恵介の司会のもと、同じく「船団」の三宅やよい、「鷹」の高柳克弘、高山という顔ぶれでシンポジウムが行われることになっていた。それが、こんどの新型インフルエンザ騒ぎのせいで延期になったのである。シンポジウムのお題は「百年後の俳句」というなかなか無謀なもので、どうすんのよ、と頭を抱えたのであった。ぼちぼち開き直りの覚悟が定まってきたあたりで延期の通知が来て、拍子抜けしたような、ほっとしたような按配。しかし、中止ではなくあくまで延期で、秋頃には捲土重来ということらしいから、お題についてはせいぜい考えておくことにしたい。

シンポジウムの成否については見当もつかないながら、夜は京都に泊まって「船団」の人たちはもちろん「豈」の関西同人とも交歓しようと思っていたところがこうなってしまった。かわりにといってはなんだが、「船団」の方々から頂戴した句集がずいぶんあるので、それを読んでみよう。と、そんな腹づもりでいたら、向こうでも考えることは一緒らしい。「船団」のホームページ「e船団」の俳句鑑賞コーナーで、くだんの塩見恵介が拙句を紹介してくれている(*1)。五月三十日付の「日刊この一句」の以下が全文。全文コピーはまずいのかもしれないが、短文ではあるし、鑑賞の対象が拙句なのだからして、そこは御海容を請いたい。

鬼は外姉と外です吊忍    (季語/吊忍)
     高山れおな
「鬼は外」って、別に夏でもいい?「鬼は外」と「姉と外にいる(私)」、家の軒先の吊忍の鮮やかな青。混乱・混沌・倒錯した世界だが、リズムで読めば、何となく分かった気になりそう、かも。鬼がうようよいる外で、美しい姉といる草食系の弟はボディガードがつとまる?吊忍のように地に足付いてないよ。とも読めるし、姉と外歩きをする、ちょっとした非日常の冒険的要素をコミカルに読むことも出来そうだ。今日の句は『ウルトラ』新装版(沖積舎 2008年)より。本日、お会いする予定だった関係から、著者より頂いた。深謝。今日の初夏の集いのシンポジウムを楽しみにされていた方々から多くのメールを頂いている。100年後の俳句は意外に興味深いテーマだったのだと改めて実感。高山氏には、いつの日か、必ずお目にかかって、お話を伺いたい。(塩見恵介)

この鑑賞を読んで評者は、シンポジウムの難題とは別な意味で、うーん、と頭を抱えたのであった。ここで俎上に乗っているのは評者の第一句集の句であるが、じつは塩見は三月十四日付の「日刊この一句」でも評者の第二句集『荒東雑詩』の方に載っている〈龍天に昇るがごとき着メロが〉という句を取り上げてくれている。大変ありがたいことながら、その文中に〈正直、この句集、ほとんどが意味を超えて、安易な理解を拒絶している。その中で、この句はとてもわかりやすい世界だ。〉とあるのに、いささか不安を感じはしたのである。「龍天に」の句が「とてもわかりやすい」のはその通りとして、『荒東雑詩』の句の「ほとんどが意味を超えて、安易な理解を拒絶している」などとは、ずいぶん驚いた話である。意味をなさないような句が皆無でないとしても、あの句集はベタベタの意味筋で作られた作品がほとんどで、よほど保守的でステロタイプな俳句観に凝り固まっているのでなければ、総じてわかりやすい句集だと思う。実際、関悦史や山口優夢が、ごく穏当に的確に読んでくれている(*2)

「鬼は外」の句について、意図したような読み方をされなくて臍を曲げているというわけではない。なにしろ作ったことも忘れていた大昔の句だ。ただ、ちょっとびっくりしたのは確か。〈「鬼は外」って、別に夏でもいい?〉とひょうげたことを塩見は言っているが、いいわけがない。「吊忍」によって季が夏に定められているのだから、この「鬼は外」は節分の掛け声ではあり得ない。季節は夏ですよ、節分の豆まきしているわけではありませんよという、「吊忍」のメタ・メッセージを見落とすから、読みの全体が滅茶苦茶になるのである。メタ・メッセージとは何かということについては、塩見とはご近所になる神戸女学院大学の内田樹先生が、その高名なるブログの五月二十五日付の記事(*3)でご説明になっておられるから参照されたい(五月二十六日の記事でも触れている。それからもっとずっと以前にも同様の話題の記事があった)。

〈リズムで読めば、何となく分かった気になりそう〉というのもいかがなものか。ほんとうにリズムで読んだのなら「鬼は外」「姉と外です」がリフレインになっていること、つまり「鬼は外です、姉と外です」=「鬼は姉と外です」と言っているにすぎないのは明らかであろう。〈「鬼は外」と「姉と外にいる(私)」〉などという日本語を無理やり捻じ曲げたような解釈をする必要はない。「鬼は外」というから節分の話かと思えば、文脈があらぬ方向へずれてゆくというのが、この句の面白みといえば面白みであろう。面白くない、あざといと反撥する人も当然いるはずで、そもそも現在の評者自身があまり好感していない。しかし、そうした価値判断以前に、言葉の意味の読み取りの次元で、クリアせねばならぬ水準というものはあるはずだ。作品は読み手が完成させるというような流行りの言説は、そこから先の話であって、読み手に恣意が許されるということではない。じつのところ拙句の鑑賞の場合に限らず、「日刊この一句」における塩見の文章はそうとう荒っぽい。見ていると、読者サービスに意識が走りすぎて、眼前の句をそれが書かれている通りに読むという基礎作業がおろそかになっているような印象を受ける。

前置が長くなった。「船団」会員の句集を読むのだった。机の上に積み上げると圧倒的に女性のものが多い。どうせだから今回は、再読のものも含め、女性の本ばかりを十冊読んで、それぞれに十句選を掲げる。掲出は、刊行の順による。

中原幸子句集『以上、西陣から』(*4)
冷素麺まっすぐに上げ世紀末
十三夜わたし降ろして空のバス
小三ツ星初めて会って声が好き
ひょい、ということが大好きおでん煮る
鍋ぴかぴかむかしヨットに乗ったこと
ザ噴水やるときはやるときもある
お隣の上に大きな春の月
シンバルはぴかぴかジャーン春の昼
ジューンドロップ何かことこと煮てみたき
ふわっふわ蟻あげる子ともらう子と

三句目の「小三ツ星」は、オリオンの「三つ星」の下側に暗く光っている三連星をいうらしい。歳時記のオリオンの傍題にも「小三ツ星」までは載っていないようだが(手元の大歳時記を二つ見ただけなので、載っているものもあるかもしれない)、もちろん冬の季語として問題ないだろう。

印の付いた句は四十句近くあって、さらに好みのままに絞ったら上のようになった。「初めて会って声が好き」というのは誰でもそんな経験はあると思うが、わざわざこんなふうに句にするところに、人好きらしい作り手の人柄がにじむ。「小三ツ星」の斡旋も心憎い。三つ星だけでなく、暗い小三ツ星までがよく見えるほどに空気の澄んだ夜であることが示されると共に、こまやかなところまでよく届く視線(心理的なものも含め)の持ち主であることを感じさせる。とりあえず「好き」なのは「声」だと言っているのも、考えてみれば、抑制された前向きさというものだろう。

句集全体を通して、オノマトペや取り合わせの巧妙さに舌を巻いた。その言語的パフォーマンス能力の高さの一方で、作り手の自意識や内面性のようなものはあまり感じられない。掲出十句のうちでは、二句目にかすかにそれが感じられる程度か。もちろんこの場合それでよいわけで、〈シンバルはぴかぴかジャーン春の昼〉のような身も蓋もない一句から、なにかわくわくするようなポエジーが立ち上がってしまうところが、俳句定型の強みなのだと思う。無防備なのに隙がない、ある意味、完璧な俳句ではないだろうか。なお、中原幸子は一九三八年生まれ、大阪府在住。『以上、西陣から』は第二句集とのこと。

三宅やよい句集『駱駝のあくび』(*5)
まひるまの桜さくらにふれている
ポケットの底はみずいろ朝桜
春雨が都会の犀を明るくす
れんげほど冷たき銀座に招かれる
軽々と母をだまして陽炎えり
蜜豆を食べたからだに触れてみて
ナイターのみんなで船に乗るみたい
パレードのアヒルがうつるサングラス
夏の夜の象に乗りたし池袋
玄関の向こうへ虹を吐く金魚

三宅やよいが、中原とは異なる自意識の人であることは、掲げた十句だけからでも容易に見て取れるはずだ。三宅は、三橋鷹女の足跡をたどるエッセイを「船団」に連載していたが(*6)、きっかけは何にせよ、他の誰でもない鷹女について書くことになったところに、三宅の資質があるのだろう。

一句目「まひるまの」や九句目「夏の夜の」などを典型として、目には見えないもの、普通には感じることができないが感性をチューンナップすれば感じ取れるかもしれないもの、そうした指し示し難い感覚的な何かに向けて、言葉による触手を延ばそうとするのが三宅の俳句のように思った。あるいはむしろ、一見平穏な相貌のうちに、何事かに耐えている俳句と見るべきだろうか。〈冬ざれの電車に轢かれてもみたき〉なるただならぬ内容の句もあって、十句のうちにこそ採らなかったが、このあたりに三宅の感性の最もナマな部分がある気がする。もしそれがほんとうなら、〈ナイターのみんなで船に乗るみたい〉のような句にも、共同性への没入の悦びというよりむしろ、「みんな」が乗っている「船」に乗りきれずにいる意識のありようをこそ見るべきかも知れない。三宅やよいは一九五五年生まれ、東京都在住。『駱駝のあくび』は第二句集。

藤田亜未『海鳴り』(*7)
夏みかん味方が敵に変わる時
ハーブティ足を組み替え夏を待つ
夏の星シャンプーの泡ふわふわわ
髪洗う腕の白くて午前二時
ターコイズ色の髪どめ夏に入る
空の下ズンタカタッタとすすむ夏
彗星の降ってきた日や胡桃割る
崩されて崩されたくて秋麗
三月の外科医まばたき多かりし
石ころもころころ木の芽風吹いた

中原と三宅の句集は、普通の四六判のハードカヴァー上製本であったが、ここからの七冊は揃って新書サイズのソフトカヴァー並製本。版元は、一冊がふらんす堂であるのを除いて松山の創風社出版である。いずれも第一句集。

藤田亜未の『海鳴り』は、正直言って十句選ぶのにも苦労した。こうして選んでみたものの、ほんとうに佳いと言えるのは一句目だけではなかろうか。三句目に「ふわふわわ」という表現が出てくるが、中原幸子の句にあった「ふわっふわ」とは、同じようなオノマトペでも一句の内部における鮮度の点で格段の差がある。俳句ってこの程度のものでしょう、こんな感じでいいんでしょう、という高を括った意識が句集全体を覆っている。無記名互選の句会ならいざ知らず、句集ともなるとそうした作者の存念の程も丸見えになるから、もう少し頑張った方がいいと思う。藤田亜未は一九八五年生まれ、大阪府在住。

薮ノ内君代句集『風のなぎさ』(*8)
ちょっと行く城南宮へうぐいすへ
つくしんぼ地球のてっぺんにいる感じ
母さんが父さん叱る豆ごはん
家中をシンプルにして若葉風
夕立のだんだんオーケストラ気分
コスモスやだまってゆれて遊んでいる
つれだって歩くのが好き柿の空
あのねって話したくなる野菊道
冬晴れの百年前を散歩する
ごみ箱を洗って干してあっ風花

俳句が作者の生活にとって、豊な彩りになっていることが、ごくストレートに作品の上に反映されている。少々まぶしく、気恥ずかしいほどだ。全体の水準が高いとは思わないが、二句目や四句目のように、はっとさせられるような面白い表現がある。薮ノ内君代は一九五三年生まれ、京都府在住。

鈴木みのり句集『ブラックホール』(*9)
スキップで引っ込む子役壬生狂言
籠り居の豚カツ揚げて春の雲
みつ豆のぷるんぷるんと雨上がる
金魚一匹自転車に乗って来た
木枯一号飼猫を首に巻く
つばくろの巣の八つある商店街
ポット沸くジューン・ブライドの控室
海の日をネクタイ青く出勤す
熱燗やレシピ聞く単身赴任
冬銀河パンツのゴムを替えている

句集の帯には、〈近所に住む鈴木みのりは、律儀このうえない主婦です。ところが、この律儀なみのりの俳句が、このうえないほどにおかしくて楽しいのですよ。〉云々と、坪内稔典の推薦文が記されている。これに引っ張られたわけでもあるまいが、これまで紹介した四人、さらにこれから紹介する五人に比べても、格段に生活臭の強い句が並んだようだ。健全な、あるいは健全すぎる生活者の日常が、的確に詠まれた句に魅かれた。鈴木みのりは一九四九年生まれ、大阪府在住。

朝倉晴美句集『宇宙の旅』(*10)
立春大吉鼻をかむこと教えてる
春の港区干したオムツは帆船だ
桜散る妊婦はみんなエスパーだ
樟若葉落葉松若葉抱かれたい
赤ちゃんの匂い蚊取線香の匂い
新涼に僕もあの子も澄んでいる
秋夜中カレー混ぜるとき裸
ククヲヨムコエガコガラシヨンデクル
行く秋に太もも絡めてみたりする
冬のふくろう赤ちゃんたちと交信中

妊娠や子育てを詠んだ句が多くなった。実際、それが句集の芯になっているからだ。巻末の作者プロフィールによると、中学・高校で国語を教えており、〈昨春、娘三歳を機に教職に復帰。〉とある。坪内の作例がいろいろあるためだろう、「赤ちゃん」とか「赤ん坊」という言葉は「船団」の人たちの愛用語のひとつになっているようだ。朝倉も師のひそみに倣ってはいるのだろうが、さすがに直近の実体験に基づいた表現であることの強みが感じられる。四句目「樟若葉」、八句目「ククヲヨム」など、リズム感に冴えたところを見せる句もある。十句目、「ふくろう」を「赤ちゃんたちと交信」する存在だと捉えるのは魅力的だけど、「梟」はもともと冬の季語なのだから、「冬のふくろう」はまずかろう。「昼のふくろう」とか、何か別の語を持ってくるべきだった。朝倉晴美は一九六九年生まれ、兵庫県在住。

中谷仁美句集『どすこい』(*11)
ふらここも吊り革もぐらぐらぐらと
立夏なら五両目あたりに乗ってます
雨祈る今度の恋は不戦勝
夏雲をそっと誘ってフエラムネ
枯木道元素記号を引き連れて
ハシビロコウも吾も隠せよ青芦原
ハシビロコウ的に秋茄子食う人よ
着ぶくれてハシビロコウのように立つ
どすこいとハシビロコウと夏雲と
四股踏んで蜻蛉生まれて琴光喜

感想は藤田亜未の場合とだいたい同じ。恋の句が非常に多いのだが、まさにその恋の句がよくないのが苦しい。それらの恋の句、おおかたは、女性雑誌のキャッチコピー風フレーズと季語を取り合わせて一丁あがり、という調子で作られている。三句目に引いた「雨祈る」の句なんかもまさにそれである。紋切り型を逆手にとるだけの批評性があるわけではなく、完全に紋切り型に乗ってしまっているのが問題だろう。五句目の〈枯木道元素記号を引き連れて〉など好きな句もある。諸星大二郎の漫画にこういうイメージがあったのを思い出した。六句目から九句目に登場するハシビロコウは、アフリカ原産の大型の鳥で、作者はハシビロコウと琴光喜を偏愛しているらしい。中谷仁美は一九七九年生まれ、兵庫県在住。

中居由美句集『白鳥クラブ』(*12)
春愁もヤクルト一本分くらい
一人ずつ主婦しまわれる花の家
藻の花や手ぶらで歩く朝の町
ばったりと楠本さんに会う泉
看板を下ろす相談夏の月
銀漢やこれは帽子を入れる箱
月白にヨハンシュトラウスのたまご
ひとつずつ月のボタンをかけてゆく
賛美歌のきれいな文語樗の実
ル・クルーゼ火にかけ冬の旅支度

「ヤクルト」「ル・クルーゼ」といった商品名が気張らずに詠み込まれているのは、〈花冷えのイカリソースに恋慕せよ〉〈春の坂丸大ハムが泣いている〉と詠んだ人の弟子にふさわしい。二句目の「主婦しまわれる」といった表現にうかがえるかすかな屈折感も好ましい。一方で、七句目「月白に」、八句目「ひとつずつ」のような幻想的な世界にも遊んでいて、詠み口に幅がある。中居由美は一九五八年生まれ、愛媛県在住。

三好万美句集『満ち潮』(*13)
二百十日ひとりでバスに乗っている
寒卵むかしおとこに鱗あり
六月のこれは神社の木の匂い
夏空のような大皿買いにけり
台風とサーカス団と北上す
感情線葉脈となる夏隣
おこりんぼほっぺたにふる雪ふわふわ
二番目に好きな人です心太
どうしても寒い小指がついてくる
グラジオラスフリルをもって生まれたる

他に、〈さくらさくらはやく昔になればいい〉という句があった。なかなか素敵だけど、久世光彦の小説のタイトル(『早く昔になればいい』)をそのまま取り込んだもので、やや手柄に乏しいかと思って十句のうちには採らなかった。その点、三句目「六月の」は、坪内稔典の〈鈴木さんあなたは九月の木の匂い〉の換骨奪胎であろうが、原句から充分離れているし、原句より自然な仕上がりと言ってよいかも知れない。四句目「夏空の」や五句目「台風と」に見られるように、言葉遣いが伸びやかで、感性のスケールの大きい作者だと思った。八句目「二番目に」や十句目「グラジオラス」のように、諧謔味にも欠けていない。三好万美は一九七〇年生まれ、愛媛県在住。

ふけとしこ句集『インコに肩を』(*14)
泣き腫らす目蓋のやうに春の山
昔からこの花影に立つてゐた
目覚めれば霧の流れてここが生家
秋の日や火山の活きてゐて静か
山鳩の歩く音枯れすすむ音
明易し小樽に船の名を読んで
秋天や抱へて運べさうな島
鶺鴒の谷陶片の散らばつて
梟に後向かれてより寒し
雲に掻き傷竜天に登りしか
銀やんま風引いてくる押してゆく
馬追がゐるから壁に日があたる
そこらぢゆう錆びて元湯や青芒
半身の痺るる木かも紅葉して
痛点のそこらぢゆうある桜かな
枯れ切つて高三郎が呼び止める
  ⇒「高三郎=キク科」と左注
妬心なら夕張メロンの色ぐらい
帰らねば雛が灯りを待つてゐる
春の夜や朽ちてゆくとは匂ふこと
麦熟るる頃線香の深緑

ふけとしこは一九四六年生まれ、大阪府在住。『インコに肩を』は、『鎌の刃』『真鍮』『伝言』に続く第四句集。五月十五日刊だから、まだ出版されたばかりである。これまで紹介した九人が坪内稔典との出会いを機に俳句をはじめた人たち、要するに坪内の弟子であるのに対して、ふけはもともと「カリヨン」主宰の市村究一郎に師事しており、「船団」所属といっても坪内との関係は客分に近いのではないかと想像する。三橋敏雄の弟子である池田澄子が「船団」に在籍しているのと、同じような立場なのではないかしら。

それはともかく、「馬酔木」系の師のもとで鍛えられただけあって、これまで紹介した九人の「船団」風の詠みぶりとは異なる、オーソドックスで熟練した作風を見せる。他の人たちがすべて現代仮名遣いだったのに対してこの人ひとりは歴史的仮名遣いで書いており、表記からして「船団」主流とは一線を画している。句集の数の多さからもうかがえるように、表現意欲の強さはずば抜けている。十句選ではもったいないので、この句集だけは二十句選とした。ちなみに、本書の帯には坪内稔典による「抄出十句」が掲げられているが、評者が選んだ二十句と重なるのは〈明易し小樽に船の名を読んで〉のみ。それだけこの句集に佳句が多いということか、坪内か評者どちらかの選句眼にひどい偏向があるのか、あるいは俳句の選というのは結局そんなものなのか。

〈帰らねば雛が灯りを待つてゐる〉のような純然たる主観句の場合はもちろん、〈鶺鴒の谷陶片の散らばつて〉など描写型の句でも、作者の主観の浸透圧は高く、情感の濃い句がならぶ。「船団」の俳句は一般に人事への関心が勝っているのに対して、ふけの思いは主に自然に向けられ、自然に沈潜しようとする傾きが強い。「鳥たち」「生き物たち」「虫がゐる」「木よ草よ」といった章題が立てられていることでもわかるように、動植物についての知識にも分厚いものがあるようだ。しかもそれは、単なる知識・観照にとどまってはおらず、〈春の夜や朽ちてゆくとは匂ふこと〉あたりに典型的に示されていると思うのだが、“あちら側”へのほとんど全身的な没入というか、自己滅却の衝迫をすら抱え込んでいるように感じられて、これは本物の俳人の迫力だと思った。

◆上に紹介した十句集は、全て著者より贈呈を受けました。記して感謝いたします。


(*1)「e船団」/「日刊この一句」五月三十日付
http://sendan.kaisya.co.jp/ikku.html
(*2)山口優夢ブログ「そらはなないろ」 二〇〇八年十月二十四日の記事
http://blog.goo.ne.jp/y-yuumu/e/2f12b22f1e6088c3bd4003b8b328daee
関悦史ブログ「閑中俳句日記(別館)」 二〇〇八年十一月一日の記事
http://kanchu-haiku.typepad.jp/blog/2008/11/post-eead.html
(*3)「内田樹の研究室」
http://blog.tatsuru.com/2009/05/25_1458.php
(*4)中原幸子句集『以上、西陣から』 ふらんす堂

二〇〇六年七月七日刊
(*5)三宅やよい句集『駱駝のあくび』 ふらんす堂

二〇〇七年一月二十四日刊
(*6)三宅やよい「鷹女への旅」は、その後、「週刊俳句」第七十五号から第九十二号に転載された。
http://weekly-haiku.blogspot.com/
(*7)藤田亜未句集『海鳴り』 創風社出版

二〇〇七年十一月三十日刊
(*8)薮ノ内君代句集『風のなぎさ』 創風社出版

二〇〇七年十二月二十五日刊
(*9)鈴木みのり句集『ブラックホール』 ふらんす堂

二〇〇八年一月十九日刊
(*10)朝倉晴美句集『宇宙の旅』 創風社出版

二〇〇八年二月二十六日刊
(*11)中谷仁美句集『どすこい』 創風社出版

二〇〇八年八月十四日刊
(*12)中居由美句集『白鳥クラブ』 創風社出版

二〇〇九年二月十七日刊
(*13)三好万美句集『満ち潮』 創風社出版

二〇〇九年三月十二日刊
(*14)ふけとしこ句集『インコに肩を』 本阿弥書店

二〇〇九年五月十五日刊

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■関連書籍を以下より購入できます。



遷子を読む(10)

遷子を読む〔10〕

・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井

農婦病むまはり夏蠶が桑はむも
    『山国』 所収

窪田:これも、昭和28年の作。戦後も昭和30年代後半まで、信州では養蚕が盛んでした。私の家も蚕室兼住宅の総二階の家でした。よく言われるように「蚕」を「お蚕様」と呼んでいた様に、座敷も茶の間も畳が上げられ蚕室に変わります。蚕飼いの頃は住居部分は隅の方に追いやられるわけです。寝ていると、板戸一枚隔てた蚕室からは、蚕が桑をシンシンと食む音が聞こえてきました。小学生の私も朝飯前に山の畑まで父母に連れられて行き、桑を運びました。蚕上げ(上蔟)の日は、学校を早引けして来いと言われました。養蚕は一家総出の仕事でした。

掲句からは、農婦のやるせない気持ちが痛い程伝わってきます。家族の者も農婦の病を気遣ってはいるものの、働き手を一人失ったいらだちもあるでしょう。そんな人間のことにはお構いなく蚕は桑を食べ続けています。遷子はそうした農家の実情をよく知っていました。こうした景は遷子の胸を強く揺り動かしたでしょう。社会体制への批判のような思いもあったかもしれません。しかし、この句を社会性俳句と呼ぶことにはためらいを感じます。『現代俳句大辞典』(2005年三省堂)には「社会性俳句 社会性のあるテーマや素材を詠った俳句。特に第二次世界大戦後、俳句の文学性が問われたことを契機に起こった社会性俳句論争の対象になった俳句やその中で生まれた俳句を指す。」(①②の番号は筆者加筆)とあります。①の意味で言えば掲句も一応社会性俳句と言えないこともありません。しかし、遷子には②のような作句意識は無かったように思います。目の前の情景が遷子の情を揺さぶりそれを書かせたのです。社会の理不尽さに憤りを感じたとしてもそれを主張しようという意識は薄かったでしょう。また、そうしていたら遷子の句からは、温かさが感じられないと思います。素材は社会性を帯びていても、遷子のそれはあくまでも情景描写(描写と言っていいのか迷いますが)であるのです。

中西:高原派のリーダーと目されて、活躍している時期なのですが、28年は高原旅行句がないように思われるのですが。高原派の方々とこの年は行動を共にしていないのではないでしょうか。

高空は疾き風らしも花林檎

という同年作が高原派らしい作品ですが、林檎の花ですから、高原というより近所の果樹園か、農家の畑で作ったといった感じがします。また、

妻病めばいや山国の春遠し

という句がありますから、或は家から動けなかった事情があったのかも知れませんね。その分、故郷でもある、佐久を丁寧に詠う姿勢が見えます。

顔痩せて青田の中に農夫立つ

という農村風景を人間中心にして描いている句があります。

「農婦病む」の句もこれと同じで、人間を中心に農村を描いたものといえるでしょう。窪田さんの鑑賞で、家族総出の作業で、一人欠けても打撃だということを知りますと、かなり切実な光景だということが分かります。実は句だけ読んでいる時は、ただの情景描写と思っておりました。ところがそうではなかったのですね。「桑はむも」には深い意味があったのですね。病人も働かなければならないのを承知していながら、病で体が動かないつらい立場なのです。これが、嫁の立場ならなおさらでしょう。この辛い立場と家族の辛い状況が描かれていることがわかります。農村を外側から踏み込んで描いています。

風景と自分の生活詠から、土地の人々の労働を描いたものへ、守備を広げてきているようです。

葛その他刈り負ひて若きはよし  『雪嶺』31年
架線夫の天や雪岳うち乱れ  『雪嶺』31年
繭安の極暑の桑を負ひ戻る  『雪嶺』33年
夜涼一家青き蚕棚が家に満ち  『雪嶺』36年
滂沱たる女の汗や糸を取る   『雪嶺』36年

これらは、次の句集に載せられた句なのですが、28年に詠われた物に比べると、より説得力のある表現となっていますが、28年の「顔痩せて」「農婦病む」の延長上にある句ではないかと思います。

また、筑紫さんが、東京四季出版の『現代100名句集』の遷子句集『雪嶺』の解題で「28年ごろから医師俳句を詠むようになった」と指摘されていますね。そう見ますと「農婦病む」の句は医師俳句の範疇にも入るのでしょうか。

薬餌謝して死を待つ老やうすき繭  『雪嶺』33年

この句なんかは、「農婦病む」の句の後編を詠んでいるような気がする句です。

原:前回、遷子の作風を、当時の俳人達との比較・照合によって見ていくという角度を、磐井さんに示していただいて、俳句史的な視座が生まれてきたと思いました。今後、『雪嶺』における社会批判的作品及び『山河』における境地を確認していく際にもこうした目配りは重要になっていく筈で、遷子研究の幅が広がった気がします。

窪田さんには前回に引き続き佐久という地域の、都市部とは異なる当時の生活状況を教えられます。今回も、鑑賞と同時に一句の性格を適格に把握して下さっていて納得のいくものでした。付け加えることはありません。

この句でふと眼を惹かれたのは「も」の使用です。詠嘆の助詞ですが、これまで遷子の句については情に凭れかからない直截な詠風と印象していましたので、短歌的情感を誘うこうした修辞は、師秋桜子の影響によるものかと興味深く思いました。もちろん掲出句にべたべたした思い入れはありません。実見した即物性が、過度な情感を排しているのでしょう。

この「も」の使用は『山国』中に多く見かけるもので、掲出句の前後にも

送らるる山羊に白樺の花散るも
家を出て夜寒の医師となりゆくも


などがありますが、その後の『雪嶺』には見えず『山河』には一句のみでした。

深谷:前回の句の二句後に掲載されている句ですね。馬酔木的な端麗さは、かすかにその調べ(A音七字、M音四字)に端緒を見出せるものの、句の対象は秋櫻子が目指した絵画的美しさとはおよそ縁遠い、貧しい暮らしの中にある生々しい現実です。私も初めてこの句に接したとき、そのインパクトに衝撃を受けたのを憶えています。

地元にお住まいの窪田さんの御指摘はさすがに実体験を踏まえられたものであり、「板戸一枚隔てた蚕室からは、蚕が桑をシンシンと食む音が聞こえてきました」という記述には、思わず唸らされてしまいました。そうした状況の理解を抜きにして、この句を鑑賞することは困難でしょう。

そして、遷子にとってもこうした現実に直面することが重なり、磐井さんが指摘された「抑制のタガ」が徐々に外れていったのだと思います。その意味で、遷子の「ヒューマニズム俳句」(勝手な造語ですが)の嚆矢となった句として位置付けられるのではないでしょうか。

筑紫:今回は遷子の社会性やヒューマニズムに触れるコメントが多かったように思います。社会性という態度にはいくつかのパターンがあるように思います。常日ごろ思っているのは、社会性には倫理観が常に基礎にあるのではないかということです。ただ、倫理観の発露には二つ方法があるように思います。整然とした倫理観が先にあり、それに不条理な社会の出来事を当てはめるやりかた。もうひとつは、社会の出来事の中で、さまざまに試行錯誤しながら、自己の倫理観を固めて行くやり方。遷子の俳句に社会性があるとしたら、後者であるといえるのではないかと思います。

前者の社会性は悪を排除しますが、後者の社会性は悪を排除するとも限りません。たとえば、前回の鑑賞で登場した

寒うらら税を納めて何残りし  『山国』

の句で税務署を悪とみるべきかどうか。句の裏に自分でもはっきりと分からない憤りがあるとしたらどうでしょうか。善悪以前の憤り、それが生まれてそのあと、外部に対する批判になったり、自己に対する反省となったりするわけです。前回、「『何残りし』には税引き後の所得だけではなく、自分が社会に対してなした業績の評価も入ってしまっているような気もする」と述べた留保は、そんなところにちょっとためらいを禁じられなかったせいなのです。

たとえば「人を殺してはならない」は普遍の道徳律ですが、

隙間風殺さぬのみの老婆あり  『雪嶺』

には、そんな道徳律だけで割り切れない、地域の医療現場の独自の倫理が見えるように思うのです。「殺さぬのみの老婆」は善なのか悪なのか、また誰が善で誰が悪なのか。一方的に決めつけることはできないように思います。そして、それが「遷子の社会性」なのだろうと思います。それは、与えられたイデオロギーではなくて、「遷子のイデオロギー」ともなって行くように思うのです。

ところで医学と社会性というと以前から気になっていることがあります、皆さんの感想をお聞きしたいと思うので場違いながらあげてみます。明治末から大正初期にかけて、自然主義文学という運動が流行しました。しかし、日本の自然主義作家の作品を読んでもなぜ「自然主義(ナチュラリズム)」なのか久しく不明でしたが、よほど後にその創始者であるゾラの伝記を読んではっきりしました。ゾラは、自然科学者のクロード・ベルナールの「実験医学研究序論」を下敷きに「実験小説論」を書き、人間は環境と遺伝で行動を決定するとの前提のもとに、人間と社会を実験的方法で観察をする方法を説いています。そして膨大なルーゴン・マッカール叢書20巻(25年かけて執筆したこのシリーズの中に名作『居酒屋』『ナナ』『ジェルミナール』があります)を書いたのですが、この中でさまざまな人間を悲惨な運命に陥れる実験を行っています。このように現実社会の醜悪さを赤裸々・露骨に描いていますが、実験小説(自然主義小説)は医者が疾病を治すように道徳的役割があるのだともいっています。醜悪な病気の症状を冷静に見、病巣を摘出しなければ病気からの快癒はないからなのです。なるほど、ゾラは後にドレフュス事件に際してフランス陸軍を糾弾し、下獄、大文豪の地位を捨てて亡命までするのですが、この正義感がなければ本当の「自然主義」は生まれなかったのだと納得できました。(科学的)観察だけでなく治癒まで責任を負うことが文学の本義だと考えていたようなのです。第二帝政下での『居酒屋』の女主人公の劣悪なる運命も、フランス陸軍内でのドレフュスをめぐる陰謀も、ゾラにあっては同じ病気であったのです。その意味で、姪との不倫を綿々と描くような日本の自然主義作家とはまったく違うのは当たり前です。

余計なことをいろいろ述べましたが、遷子の社会性は、ゾラの文脈の中で読み解くと多少分かりやすいと思います。医者の目で見た科学的真実(それは生理的真実と社会的真実があるはずです)と、実践の徒である医者が持つべき倫理観が結合するとき、遷子独自の俳句がそこに生まれるように思います。遷子は自然主義作家だったのではないか、ちょっと意外な思いつきですがいかがお考えですか。

掲出の句、溌剌とした夏蚕と病む農婦の対比が鮮やかです。「馬酔木」で育った遷子の科学的な目は最適の風景を切り取っています。しかしそれだけにとどまらず、生産のときを迎えて心静かにしていられない病臥する農婦の気持ちが、同じ地域に住むだけに痛いほど遷子には分かるのでしょう。緊張の中の静寂――いや静寂の中の緊張が伝わって来ます。

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大井連載6(野村登四郎)

「俳句空間」№15(1990.12発行)〈特集・平成百人一句鑑賞〉に纏わるあれこれ(6)
能村登四郎「まさかと思ふ老人の泳ぎ出す」

                       ・・・大井恒行

能村登四郎(1911〈明44〉・1・5~‘01〈平13〉・5・24)の平成の自信作5句は、以下。

霜掃きし箒しばらくして倒る  「俳句」平元・5月号
葛桶に薄ら氷ゆらぐ宇陀にをり  
まさかと思ふ老人の泳ぎ出す  「沖」平元・9月号 
芦ペンで描かれしかこの枯野の画  「俳句」平2・1月号
臍といふ哲人とゐる除夜の湯に  「俳句研究」平2・2月号

一句鑑賞者は、現「遠嶺」(とおね)主宰の小澤克己。当時、80歳になろうとする能村登四郎について、「放下、という言葉でよく語られる作者の心境を、(中略)〈老い〉に染まらず、〈老い〉に陥いることもなく、今ある自分の『存在感』を温もりのある言葉で、しかも生理作用のように自然に生み出している、その魂の強さに驚いてしまう」と述べ、結びには「よくプールや海水浴場で、同齢の人を探し、安堵感に浸ることがある。若者ばかりの中に、老人のいる違和感が少し柔らぐから不思議である。そして、自分と同じ老人は、じっと若者たちの楽しい場面をただ眺めているだけであろうと思っていた。しかし、その老人が泳ぎ出したのである。『あっ』という驚きが、『まさか』という言葉を吐かせた。現実と自己の想念とに生じた断層が、詩の発生を促し、かつ面白さを加えた一句となったのである」と記している。

その後、能村登四郎は、晩年、齢を重ねるごとにますます多作、かつ旺盛な作品活動を展開し、「老艶」とも言われた自在な境地に達していく。

すこしくは霞を吸つて生きてをり
風邪の句の多くて選者にもうつる
まぐはひに似て形代の重ねあり
妻なくてあそびも多し十二月
今にある朝勃ちあはれ槿咲く
跳ぶ時の内股しろき蟇
露なめて白猫いよよ白くなる
蝿叩くには手ごろなる俳誌あり
掌に宇宙も掴み蟻も掴む

敗戦直後から俳壇に登場し、いわゆる戦後派と言われた俳人のなかで唯一明治生まれであった能村登四郎は、主宰誌「沖」を創刊したのが還暦直前の1970(昭和45)年であった。それゆえ高柳重信は、「俳句研究」(昭和45年10月号)の「特集・能村登四郎」の編集後記に「たぶん、若気のあやまちと関係なく所信に邁進した唯一の俳人であろう」と記したのであろう。能村登四郎は、「沖」創刊とほぼ同時に「伝統の流れの端に立って」(「俳句」昭和45・12)と題して次のように言挙げしている。

「私は伝統派作家の一人として他人から考えられ、また私自身でもいつかそれを信じていたのであるが、実はたいへんな誤謬だということに気がついた。本当の伝統継承などということは、私などではとても出来ないもので、一種の思い上がりだと私は思う。私が自分で信じていたものは、実は単なる詩型の享受者にすぎなかったのだ、という反省がこころの中に湧いてくる。有季定型の俳句を信じきって現在作句している人のことごとくは、伝統詩型の享受者であるが、それをそのまま伝統の継承者とするのはあやまりであって、ほんとうの伝統の精神を誤解していることになる。真の伝統作家というものは明日への創造をなし得る人であって、明日への方策のないものは真の伝統作家とは呼べない」

思えば、当時の「沖」の門下に、現在、活躍中の同時代の俊秀の俳人たち、正木ゆう子、中原道夫、筑紫磐井、小澤克己、鎌倉佐弓、大関靖博などが集っていたのも頷ける。因みに現在の「沖」は、登四郎の句「黄泉の子もうつせみの子も白絣」と詠まれた、「うつせみの子」にあたる団塊世代の三男・能村研三が主宰を継承している。

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俳句九十九折(38) 俳人ファイル ⅩⅩⅩ 新海非風・・・冨田拓也

俳句九十九折(38)
俳人ファイル ⅩⅩⅩ 新海非風

                       ・・・冨田拓也

新海非風 15句

 
捨舟のひとり流るゝ雪解川
 
釣鐘に梅の影這ふ月夜かな
 
其中に氷る池あり冬木立
 
薄氷にとち込められぬ落椿
 
飴うりの峠をこゆる桜かな
 
青空に落ちる物ある雲雀かな
 
恋猫の橋を渡るやせたの月
 
山吹の雫の下やしゞみ籠
 
玉川の真中をぬく小鮎哉
 
汐だめに一つ一つの月夜かな
 
月のうら少し見せけり十三夜
 
芝山や真夜中頃の花吹雪
 
時鳥中洲は雨に消えて行く
 
寒月や下町かけて塔の影
 
鮟鱇の軒にさがりて月氷る

 
 
 
略年譜
 
新海非風(にいのみ ひふう)
 
 
明治3年(1870) 松山に生まれる
 
明治21年(1888) 正岡子規に会う
 
明治22年(1889) 俳句をはじめる
 
明治23年(1890) 選句集『案山子集』編纂 入営
 
明治25年(1892) 肺病となり、陸軍士官学校を退学
 
明治28年(1895) 子規たちから離れる
 
明治34年(1901) 京都で逝去(32歳)
 
 
 
A 今回で「俳人ファイル」を始めてから30回目となりました。

B 早くも30回目を迎えたというべきなのか、それともようやく30回目に辿り着いたというべきでしょうか。
 
A ともあれ、ここまで続けてこられるとは思いませんでしたね。
 
B そうですね。
 
A とりあえず今後は40回を目標にして進んでゆくことにしましょう。
 
B しかしながら、この「俳人ファイル」といった企画のことを考えると、いまさらながら、恐ろしいものに手を出してしまったという思いが日増しに強くなってくるところがありますね。
 
A 確かに、回を重ねるごとに、段々と道が狭くなってきているような気がします。
 
B それでも、ここまできていまさら後に退くわけにもゆきませんので、どこまで続けられるかわかりませんが、なるべく行けるところまでは行ってみることにしましょう。
 
A ということで、30人目は新海非風を取り上げます。
 
B 以前、藤野古白を取り上げた時、この作者に少しだけですが触れました。
 
A この作者も明治時代の俳人ということになります。
 
B 正岡子規の周辺に集まった俳人の中でも最も初期における俳人の1人ですね。
 
A この作者について言及しているのは、同時代人としては正岡子規、河東碧梧桐、高浜虚子、そして、後年における評論家としては山本健吉、桶谷秀昭がこの非風について触れています。
 
B 新海非風には句集が存在せず、今回参照している資料としては、講談社の『子規全集』16巻所載の『新俳句』『案山子集』『獺祭書屋俳話 選句集』、そして改造社の『現代日本文学全集38 現代俳句』で、これらの資料からの作品抄出ということになります。
 
A これらの資料を見ると、非風の俳句として確認できるものは総計で大体450句から500句弱ということになるようですね。
 
B 句作期間については、明治22年(1889)から明治28年(1895)までの6年程度ということになるようです。
 
A その後、新海非風は、明治34年(1901)に、京都で病のため32歳で亡くなっています。
 
B では、その作品について見てゆきましょう。
 
A 明治31年刊の『新俳句』という選集に収録されている非風の作品を見ると総数は13句で〈品川や海一面の雪にごり〉〈捨舟のひとり流るゝ雪解川〉〈釣鐘に梅の影這ふ月夜かな〉〈山寺は鐘の銘ほる彌生かな〉〈凩のあるゝが中に入る日かな〉〈其中に氷る池あり冬木立〉といった作品がみられます。
 
B 高浜虚子の小説「俳諧師」に非風をモデルにした人物が登場するのですが、その小説の中では、〈非風は俳句を作り始めた頃は仲間中の第一の天才といはれ、小説を書いてもオリジナルな処があると評判であつた。〉という記述があります。
 
A これらの句を見ると、たしかに「第一の天才」といわれたというのも首肯できるものがありますね。
 
B 「品川」の句の抒情性。「捨舟」が雪の解け出した春の水の川の流れによってひとりでに流れだす春の光の遍満する風景。釣鐘にまるで工芸の模様のように鮮明に影を落とす月夜の梅の形象。冬の木の荒涼とした風景から想像される不可視の氷の池とそれによって感じられる硬質なリリシズム。どの句にも本当に「古き良き俳句」といった雰囲気が感じられ、この時点ですでに作品がある程度の水準まで達しおおよそ完成してしまっているようです。
 
A 『子規全集』の月報に載っている越智二良の「奇才の遊蕩児・新海非風」という文章によると〈子規が月並宗匠の影響をうけたのに反し非風らはそれがなく「思ふまま十七字に述べ何ら拘束されず」指導する子規がかえって彼等に感化されるところが多かった。〉とのことです。
 
B なるほど。この間取り上げた藤野古白の俳句にしても、非風と同様のことがいえるはずだと思います。2人ともこれまでの月並俳句の影響を受けず、まっさらな白紙の状態から俳句を始めたことにより、月並俳句の影響に足を取られることなく、その生来から持ち合わせていた優れた資質による感覚の鋭さと直感をそのまま俳句形式の上にストレートに発揮させることが出来、優れた作品世界を創ることが可能であった、ということになるようですね。
 
A こういった事情が、2人を「天才」といわしめた所以であったのでしょう。
 
B 続いて『案山子集』に掲載されている作品について見てゆきたいと思います。
 
A この選集に掲載されている非風の作品は、総数でおおよそ427句となります。
 
B 427句ですから割合その作品数は多いですね。この選集には〈梅の舟月夜になりて流れけり〉〈薄氷にとち込められぬ落椿〉〈山吹の中をせりせり田舟かな〉〈ちる花の音すざましき夕かな〉〈飴うりの峠をこゆる桜かな〉〈青空に落ちる物ある雲雀かな〉〈恋猫の橋を渡るやせたの月〉〈山吹の雫の下やしゞみ籠〉〈玉川の真中をぬく小鮎哉〉〈草もちの器は蝶のまきへかな〉〈獅子吼た跡静なり秋のくれ〉〈汐だめに一つ一つの月夜かな〉〈獺の氷をたゝく寒さかな〉〈只一つ狐火通ふ枯野かな〉〈さかさまにふじなで上る吹雪哉〉〈七星の二つ消へけり初時雨〉などといった作品が見られます。
 
A どの句もなかなか作品として優れた出来を示しているのではないかと思われます。明治時代における俳句のシンプルな構造ゆえに感じられる力強さとでもいうのでしょうか。
 
B そうですね。この時代の優れた句における特徴の一つは、そのようなシンプルさによって作品の持つ魅力がそのままダイレクトに読み手に伝わってくるところにあると思います。
 
A 〈薄氷にとち込められぬ落椿〉という句は、やや作り物めいた発想ながら、「薄氷」と「落椿」の取り合わせに繊細な美しさが感じられますね。
 
B 〈飴うりの峠をこゆる桜かな〉などといった句についてはこの時代でなければ書き得ない句であると思われます。
 
A この時代には「飴うり」などという職業というか、生業が存在したのですね。
 
B 飴売りというものは、江戸時代からのものであるそうで、三味線をひいたり、鉦をたたいたりして飴を売り歩いたといいます。
 
A どちらかというと共同体の外側にいる人、即ち普通の人々とは異なる「異人」といったものに近い存在ということになるでしょうか。
 
B そう考えると、「桜」との取り合わせになにかしらの孤愁のようなものが感じられてくるところがありますね。
 
A 「俳人」もまた「飴売り」と同様、一種の「異人」であるということになると思われます。
 
B 「共同体」からは異質な存在であるわけですね。
 
A 続いて〈青空に落ちる物ある雲雀かな〉という句についてですが、個人的には非風の作品の中で最も印象深い句の一つです。
 
B 内容としては単に雲雀が空にのぼって行ったということに過ぎないのですが、おそらくこの1句の作中主体である「私」は、どこか土手などの屋外に寝転んで空を見上げているのでしょう。
 
A 非風には子規への書簡の中にも〈草枕して見あげけり秋の蝶〉という、似たような状況を作品にした句がありました。
 
B この「秋の蝶」の句はどちらかというとまだ平凡な内容にとどまっていますが、この「秋の蝶」と「青空」の2句における表現について決定的に袂を分かつ部分は、「青空」の句では飛んでいる対象物を「青空に落ちる」と表現したところにあります。
 
A そのように表現することによって、天と地がまるでさかさまになったかのように感じられるわけですね。
 
B 寝転んだ姿勢から見た青空のおそろしいまでの広さ。そして、その風景が時間が経つにつれてだんだんと天と地の関係が反対となってゆくような感覚へと陥ってゆくということであるのでしょう。
 
A 視界には一面の青空のみが広がっているといった風に感じられるのでしょうね。
 
B そして、その青空のみが占める空間に不意に雲雀が上がったわけです。本来的には上昇してゆくはずの雲雀が、寝転んでいるため、その視界からはまるで青空の悠久へと吸い込まれ落ちてゆくように見えたというわけです。
 
A 現実に根ざした感覚の句ながら、その現実の相が妙な変容というか、捩れを生じているような印象がありますね。
 
B 子規に〈草枕の我にこぼれよ夏の星〉という句があるのを思い出しました。
 
A なんというかそれこそ子規の句は、非風の句と反対の内容というか、表と裏の関係にあるといっていいような作品ですね。
 
B また、中村三山という昭和初期の俳人に〈あをぞらに臥し蒼海を航くおもひ〉という句がありますが、この句の内容も非風の句にやや共通するものがあると思います。
 
A 続いて〈玉川の真中をぬく小鮎哉〉という句について見てゆきましょう。
 
B 「玉川」はおそらく現在の「多摩川」ということになるのでしょう。
 
A こういった地名などの固有名詞を詠みこんだ句は藤野古白の作品にも数多く見られましたが、この非風にもそういった例がいくつも見られます。
 
B 作品としては〈品川や海一面の雪にごり〉〈ふじ筑波一つゝなぎや初霞〉〈鶯や藪を流るゝ京の水〉〈筑波からふじに連なる帰雁哉〉〈恋猫の橋を渡るやせたの月〉〈吐く汐の須磨か明石か小蛤〉〈ふじは雪筑波は雨の二月哉〉〈状一つ蝦夷から来たり秋の暮〉〈角田の水筑波の水も交るべし〉〈春の日や安房まで続く真帆片帆〉〈芝山や真夜中頃の花吹雪〉〈住吉にともし一つや時鳥〉〈人もなし佐野の渡しの夜の雪〉といったものが確認できます。
 
A こういった手法は、当時の子規たちにおける共通の手法であったようですね。
 
B 子規の句を見ても〈祇園清水冬枯もなし東山〉〈名月や伊予の松山一万戸〉〈赤蜻蛉筑波に雲のなかりけり〉〈石手寺にまはれば春の日暮れたり〉〈東海道若葉の雨となりにけり〉〈柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺〉〈草の花少しありけば道後なり〉〈松山の城を載せたり稲筵〉〈小夜時雨上野を虚子の来つゝあらん〉〈ガラス窓に上野も見えて冬籠〉〈五月雨や上野の山も見あきたり〉〈きさらぎや雪の石鉄雨の久万〉〈摘草や三寸程の天王寺〉〈髭剃ルヤ上野ノ鐘ノ霞ム日二〉などと地名を詠み込んだものは少なくありません。
 
A この非風の〈玉川の真中をぬく小鮎哉〉という句については、子規に〈若鮎の二手になりて上りけり〉という句がありますから、この句と並べて読むと興味深いものがあります。
 
B 続いて『獺祭書屋俳話 選句集』に収録されている句について見てゆきましょう。
 
A ここには28句ほどが収録されていて〈抱て居る鶏も鳴きけり今朝の春〉〈春の日や安房まで続く真帆片帆〉〈一のしに思ふことなき燕かな〉〈芝山や真夜中頃の花吹雪〉〈住吉にともし一つや時鳥〉〈時鳥中洲は雨に消えて行く〉〈古道にあふ人もなし墓参り〉〈山寺に鹿のあつまる月夜かな〉〈白萩の末は小川の月夜かな〉〈鉄橋の青さびふくや年の暮〉〈寒月や下町かけて塔の影〉といった作品が確認できます。
 
B 〈時鳥中洲は雨に消えて行く〉という句については、やや異色の作であるといっていいと思います。
 
A 「消えて行く」ですから、口語による作品ということになりますね。
 
B 藤野古白にもこのような口語的な表現の作品がいくつかありました。
 
A 子規にも〈ここぢやあろ家あり梅も咲て居る〉〈今日か明日か炉を塞がうかどうせうか〉〈おとつさんこんなに花がちつてるよ〉〈粟の穂のここを叩くなこの墓を〉〈秋の雨荷物ぬらすな風引くな〉などといった口語による句が見られます。
 
B この非風の口語の句については、明治26年における子規の〈山もとや鳩吹く声の消えて行〉という句の存在が関係しているかもしれません。
 
A 非風の「消えて行く」と子規の「消えて行」ということで、ほぼ同じ表現ということになりますね。
 
B この時代には、このような口語による句も存在していたわけですね。
 
A このような表現を見ると、それこそ現在の俳句表現の多くが、やや不自由な枠組みに縛られてしまっているという側面があるよう思われるところもあります。
 
B 明治27、28年頃になると、新海非風は子規の仲間たちとは離れてゆくようになります。
 
A 河東碧梧桐は『子規を語る』において〈一題百句時代の子規と非風とは、古白飄亭以上の親しみを持っていたようであるが、それがどういう機(はず)みで、次第に疎遠になて往ったものか、この明治二十七年末には、もう殆んどお互いに往来することもないほどの隔たりを見せていた。〉と書いていますね。
 
B その後、非風は、文学も捨ててしまったらしく、京都で病のため32歳の若さで亡くなります。
 
A さて、新海非風の作品について見てきました。
 
B どの句にもなにかしら孤愁といった雰囲気の存在が少なからず感じられますね。
 
A どこかしら非風自身の運命がそのまま表出されているようにも思われるところがいくらかあります。
 
B 明治時代における一人の青年の、繊細ながらも鋭さを秘めた感性から発せられたポエジーの閃きは、俳句形式の中においてそのままの姿で凍結され、現在に至るまでなおその微細な光りを放ち続けているようです。
 
 
 
選句余滴
 
新海非風

品川や海一面の雪にごり
 
凩のあるゝが中に入る日かな
 
ひな鶴のふみよごしたる根芹哉
 
菜の花や所々のたなごつり
 
梅の舟月夜になりて流れけり
 
山吹の中をせりせり田舟かな
 
口あけて春の日眠る田螺哉
 
ちる花の音すざましき夕かな
 
鶯や藪を流るゝ京の水
 
鶯のわらじにとまる野茶屋哉
 
坐敷にも蝶の飛けり草の餅
 
一うちの波に消へたる白魚哉
 
吐く汐の須磨か明石か小蛤
 
ふじは雪筑波は雨の二月哉
 
はる風や海苔に緑の海千里
 
山ごしや隣の国の凧
 
草もちの器は蝶のまきへかな
 
あぢさいや白ふ出たる昼の月
 
夕顔やくさつた臼のわれ目より
 
蝶眠る萍一つ流れけり
 
鈴一つ遠くなり行く夏野哉
 
小窓から聞て眠るや田植哥
 
夏やせや団扇の骨の恐ろしき
 
瀧つぼや我に集まる山の冷
 
已む隙もなくて白萩のこほれけり
 
一つ家の動きそふなり稲の波
 
稲妻に一畠赤し唐辛子
 
どんぐりや落ちて坐敷をかけ廻る
 
打つ時をよけて又よるとんぼ哉
 
月一つ鶉一つの広野かな
 
岩角にのひ上りけり月の鹿
 
手水鉢に鹿の水のむ夕かな
 
白露の川となりたる野末哉
 
縄ひけば重かりし露の鳴子哉
 
松のつゆ竹の露来る筧かな
 
何処となく露の明るし天の川
 
骸骨の沙を出てけりまん珠沙花
 
状一つ蝦夷から来たり秋の暮
 
獅子吼た跡静なり秋のくれ
 
乞食の謡うつくし今日の月
 
土ぐもの眼おそろし今日の月
 
大空に月より外はなかりけり
 
古下駄か川を流るゝ月夜哉
 
雁の腹ありあり見ゆる月夜哉
 
足も手もなくて案山子の弓ひきぬ
 
獺の氷をたゝく寒さかな
 
只一つ狐火通ふ枯野かな
 
おちてからころひあひけり初あられ
 
野も山もくるくる廻る吹雪哉
 
さかさまにふじなで上る吹雪哉
 
七星の二つ消へけり初時雨
 
鯨つく腕にさへけり冬の月
 
抱て居る鶏も鳴きけり今朝の春
 
春の日や安房まで続く真帆片帆
 
住吉にともし一つや時鳥
 
山寺に鹿のあつまる月夜かな
 
鉄橋の青さびふくや年の暮
 
筧より引く水にあり萩の花
 
冬ざれや蓑着て渡る紙屋川
 
灯のかげに硯の水の氷りけり
 
荒いその雪にまぶれて海鼠哉

 
 
 
俳人の言葉
 

子規の俳句分類といふ学問的な、組織な仕事と『寒山落木』にみられる発句の進歩に、非風の奇才はすくなからぬ刺激をあたへた筈である。碧梧桐の言葉を借りれば、「兎も角非風の運命は明治俳句発祥時代の哀調を帯びた一つのエピソード」であるとともに、その才能は子規派の俳句革新を準備した一つのすくなからぬ貢献といふ意味をもつてゐよう。
 
桶谷秀昭(文芸評論家) 「子規の周辺--新海非風,内藤鳴雪 (子規)」より 「文学」(岩波書店)1984年9月号
 
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2009年5月24日日曜日

第40号


※5/25「一杯の茶と出っ歯の冒険」を追加

第40号

2009年5月24日発行(5月25日更新)

空とは何か

阿部完市句集『水売』を読む

          ・・・山口優夢   →読む

書評 小池正博『蕩尽の文芸――川柳と連句』

          ・・・湊圭史   →読む

異界のベルカント

燕子花人生は昼捨つるべし

―攝津幸彦百句 [10] ―

          ・・・恩田侑布子   →読む

俳句九十九折(37)

俳人ファイル ⅩⅩⅨ 加藤かけい

          ・・・冨田拓也   →読む

閑中俳句日記(08)

春日武彦『奇妙な情熱にかられて―ミニチュア・境界線・贋物・蒐集』から

         ・・・関 悦史   →読む

「俳句空間」№15(1990.12発行)〈特集・平成百人一句鑑賞〉に纏わるあれこれ(5)

高屋窓秋「花の悲歌つひに国歌を奏でをり」 

          ・・・大井恒行   →読む

遷子を読む

〔9〕戻り来しわが家も黴のにほふなり

・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井   →読む

虹は何処に

無謀な一句鑑賞

          ・・・青山茂根   →読む

一杯の茶と出っ歯の冒険

デイヴィッド・G・ラヌー『ハイク・ガイ』を読む

          ・・・高山れおな   →読む

あとがき           →読む

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異界のベルカント ―攝津幸彦百句[10]― ・・・恩田侑布子

異界のベルカント
―攝津幸彦百句[10]―

                       ・・・恩田侑布子

五層  近江の春

燕子花人生は昼捨つるべし  10 

      『鳥屋』所収

燕子花がいちめんに咲いているところを見たい、とずっと思ってきました。悠長な話ですが、三十年後の昨年やっと願いが叶いました。しおたれている私に同情したのか、大学の先輩が「葵祭はいいよ」と、幸運にも上賀茂神社の招待券をくださったのです。家事を放棄して放浪の旅に二日間出かけることにしました、賀茂川の河原に下りて、ひとり気ままに敷物をしき、牛車が土手に来ないか鳩ぽっぽと待っていました。昼寝でもと、うつらうつらしかかるたびに顔を覗きに来るのは散歩の犬ばかり。そうだ、昼寝をやめて、燕子花を見に行こう!と太田神社まで足をのばしたのです。

閑静な洛北の住宅地から山裾にひょいと五,六間紛れこんだだけで、今日が京都一の祭なんて嘘のようなしずけさです。椎の木が黄金の花をつけて男くさい匂いを放っている。大和絵にある誰が袖のような新緑の雑木山を背景に、池の面を覆っていちめんに燕子花の紫があふれています。浅緑に透きとおる葉の一枚一枚は、絵に描いたように平べったくて、おおどかです。紫の花という花は、空を信じきった風情でひたすら光をはじいて開いています。葉と花の明るさが、中空にまばゆい金色の日を反射させています。

そのとき、だれもが思うことでしょうが、

から衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬるたびをしぞ思ふ

という『伊勢物語』の東下りの段が、やはり私にも思い出されたのです。

目の前にひろがる数限りない燕子花の花冠の上に、まざまざと女の幻影が現れ、ふっくらとした頬にあどけない目で「業平を待っているの」というふうに微笑んだのです。

「ああ、なんてかわいい人。つぶらな黒い瞳。まだ、ずいぶんお若い方なのですね。〈きつつなれにし〉なんていうから、つい、ろうたけた女性を想像してしまって、失礼」。

燕子花の女人に向かって、思わずひとり呟いていました。燕子花と、陰影に富む花菖蒲とは、似て非なるものだということが、そのときやっとはっきり私にもわかったのです。

「人生は昼捨つるべし」とは、けっしてエピグラムとして書かれたわけではないということもその時気づきました。読者にいっているのではなく、攝津が自分自身にふっと呟いたのです。

上五はKAKITUBATAとA音主調の明るく羽ばたくような開放感ですが、対比的に、中七以下は厳しいI音とくぐもるU音に四音づつ占められています。ことに末尾の七音は、HIRUSUTURUBESIと、まるで吃音をおもわせる韻律。にがさと翳りが滲みます。燕子花の池畔の光の遍満と、死してここからいなくなること。その対比が、音韻上にも明暗をくっきりと際立たせて奏でられています。

「燕子花」の背景にひろがっているのは金のハレーションなのだ。太田神社のいちめんの群生を眺めながら、なぜか私は確信したのです。即座に三百年前の画家、尾形光琳の六曲一双の金箔地屏風「燕子花図」との類縁が思われました。

黄金は、どの民族にとっても、また例外なく日本でも、古代から富と権力の象徴としての役割を担ってきました。しかし一方、そうしたカネと権力の裏側で、金という色自体が日本人の精神に刻んできたものがあります。金色は、あるときにはあでやかに、あるときにはひそやかに、どのような幻想をもたらしてきたのでしょうか。

漢委奴国王の金印に始まって、奈良の大仏の鍍金や、紫紙金字経、鳳凰堂の阿弥陀佛の金箔。平家納経の金彩。マルコ・ポーロの黄金の国。金閣寺。平泉の金色堂。信長時代の金碧障壁画。秀吉の黄金の茶室。今に至る截金細工。金蒔絵。金工。茶盌の金繕い…思い出せないほどにおびただしい金脈。

平面芸術では、とりわけ絵巻物や屏風絵に数多く描かれてきた大小さまざまの金雲が印象的です。そうした金雲は物語や風俗絵の場面転換に使われ、時間と空間の隔たりを自在に表します。しかし、光琳の屏風「燕子花図」に典型的に見られるように、金碧障壁画や金屏風の背景にあるいちめんの金は、もはや流れる時間を表そうとはしてはいません。永遠の一瞬としてそこに在る命を、ただそこに在らしめているだけです。

太田神社の燕子花の群落をみていると、五月の紫外線にくらくらしてきました。まばゆさにうつむくことも知らず、信じられたものとしてある燕子花のあどけなさ。その花の上の空間はたしかに空というより金碧でした。そのときふと、金色の空間の中心に、なにもない消失点のようなものがほのめいたのです。

この世からあの世へのだれもが通る道。帰って来た人がいないばかりに、永遠の謎としてとどまる消失点。出口でも入口でもある不思議な光点は、いつまでも虚空にホバリングを続けていてほしかった。三十九歳で刊行した第四句集「鳥屋」におさめられた掲句をつくったときには、作者はいたって健康だったはずです。しかし、攝津はそれから十年後の「人生の昼」に四十九歳でこの世を去りました。純粋美であるはずの不思議な光点は現実によって蔽われてしまったというべきでしょうか。いいえ、いまも虚空のホバリングは、あそこでもここでも金をほのめかしているにちがいありません。

攝津一流の美意識による白日夢は、俳句で書かれた蠱惑的な黄金幻想ではなかったでしょうか。


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ことにはるかに傘差しひらくアジアかな

異界のベルカント―攝津幸彦百句[2]―・・・恩田侑布子   →読む

一月の弦楽一弦亡命せり

異界のベルカント―攝津幸彦百句[3]―・・・恩田侑布子   →読む

冬鵙を引き摺るまでに澄む情事

異界のベルカント―攝津幸彦百句[4]―・・・恩田侑布子   →読む

濡れしもの吾妹に胆にきんぽうげ

異界のベルカント―攝津幸彦百句[5]―・・・恩田侑布子   →読む

首枯れてことりこ鳥子嫁ぐかな

異界のベルカント―攝津幸彦百句[6]―・・・恩田侑布子   →読む

閼伽水と紅梅つなぐ逢ひにゆく

異界のベルカント―攝津幸彦百句[7]―・・・恩田侑布子   →読む

冬景のうしろばかりを天狗ゆく

異界のベルカント―攝津幸彦百句[8]―・・・恩田侑布子   →読む

春の昼不幸なやかん丸見えに

異界のベルカント―攝津幸彦百句[9]―・・・恩田侑布子   →読む

餓鬼道の春の道にも酢や溢る

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あとがき(第40号)

あとがき(第40号)



■高山れおな

とある画廊をめざして学芸大前の商店街を歩いておりましたら、良さそうな感じの古本屋が目に入り、しかしここは我慢と通り過ぎましたが、画廊の人とお話などして気のゆるんだ帰り道、案の定ふらふらと吸い込まれ、入ってみると俳句本もそれなりに置いてあり、結局、『現代俳句論叢』(二一〇〇円)、金子晋『俳秀 加舎白雄―江戸後期にみる俳句黎明―』(一〇五〇円)、鳥居三太句集『小林金物燃料店』(七三五円)の三冊を買ってしまいました。鳥居三太さんは、この第一句集を出した一九九二年当時は「童子」の所属で、今は名も鳥居三朗と改め、「雲」の主宰をなさっておられます。早速読んでみますと、

ばつたばつたばつたばつたと逃げにけり

なんてちょっと一茶ばりだと思いました。俳句をはじめて三年目の作のようです。

金子さんの『俳秀 加舎白雄―江戸後期にみる俳句黎明―』は、ちょうど一年前の五月に出たばかりの本で、きっと近所の俳人が受贈本をすぐ放出したのでしょう。わたしに呉れればよかったのに。ぱらぱらしておりましたら、

たぐひなきひとり男よ冬籠

という句が目に飛び込んできました。ああ白雄の格好良いことよ。

湊圭史さん、山口優夢さんから、御寄稿をいただきました。ずいぶん久しぶりになります。どちらも読み応え充分です。 お蔭様で九本もの記事が集まりました。九本目の拙稿はまだ書いている途中ですが(二十四日十三時現在)。



■中村安伸

前号のあとがきでもお知らせいたしましたとおり、デイヴィッド・G・ラヌー著『ハイク・ガイ』の日本語版出版記念のイベントが明日開催されますので、再度告知
※京都での会は無事終了しました。

日時:2009年5月25日(月) 開場:18:00 開始:18:30
場所:三省堂書店神保町本店 8階特設会場
参加費―500円
詳細はこちら⇒http://www.books-sanseido.co.jp/blog/jinbocho/2009/05/525.html



一杯の茶と出っ歯の冒険 デイヴィッド・G・ラヌー『ハイク・ガイ』を読む・・・高山れおな

一杯の茶と出っ歯の冒険

デイヴィッド・G・ラヌー『ハイク・ガイ』を読む

                       ・・・高山れおな

小林一茶を主人公とした小説というと藤沢周平の『一茶』(*1)や田辺聖子の『ひねくれ一茶』(*2)などが思い浮かぶ。特に後者は、田辺の一茶に対する全身的な共感ぶりと、良い感じに砕けた語り口に煽られるようにして、だいぶ興奮しながら読んだ記憶がある。読後、わだかまっている謎がひとつあって、文中に

名月や江戸の奴らが何知つて

という句が一茶作として引かれている。いかにも一茶らしい、私怨と文明批評がないまぜになったような、痛快な作ではないだろうか。ところがこの句、信濃毎日新聞社の全集の索引には載っていないし、他の一茶本でも今のところ見かけない。出来栄えからして田辺の偽作とも考えにくく、いずれ典拠をご存じの方があればご示教を賜わりたい(※A)

こんど翻訳が出た『ハイク・ガイ』(*3)もまた一茶をめぐる小説で、しかし藤沢や田辺の本のようないわゆる評伝小説とはまったくおもむきを異にする。そもそも主人公にしてからが歴史上の一茶を元に造型されたイッサ、ではなくて、彼の架空の弟子デッパ、なのだ。ちなみにイッサは、英語版では「Issa」ならぬ「Cup-of-Tea」という名前を与えられているそうだから、デッパの方も出っ歯を意味する英語がその名になっているのかと思いきや、〈「デッパ」は「突き出した歯」という意味〉〈英語で言うならば「牡鹿の歯(バック・ティース)」〉になると説明されているところを見ると、そうではないらしい(※B)

本書のブックデザインは英語版のそれに倣っているらしく(本記事の下の関連書籍購入案内の写真を参照)、表紙カヴァーは黒地に大きく「ハイク・ガイ」と白抜きして、白隠禅師筆のギョロ目の達磨図(大分・万寿寺所蔵の「朱達磨」と通称される巨幅)をあしらっている。隠れもない真宗門徒・一茶をめぐる小説が達磨の絵で飾られているのを見た時点ですでにある予感が胸をよぎるのであるが、開巻劈頭、その予感はあっさりと的中した(と、評者は思った)。

むかしむかしのニッポン国でのお話。年の半分は凍ったままの湖を抱く山並みの奥ふかく、もの憂げな顔の牛が白雪をこんもりシルクハットみたいにかぶり、将軍さまご用達の街道がもっと重要などこか他の町へと向かうためにうねうねとつづいていく。春にはネズミ色の雪解け水が道の両わきに溝をふかぶかとうがち、雪がすっかり消えたと思ったらすぐに、真夏のでっかい蚊がブンブンと飛びはじめる。農民らが重い年貢のことを忘れようと、酒を回し、歌をうたい、沸騰せんばかりの風呂にかわりばんこにつかって真っ赤になって、湯気をたてるお湯がどんどん、ぞっとしない茶色に染まっていく。そんな貧しくて、ギイギイと骨の髄まで絞りあげられた土地にある寒村から、このお話は始まる。むろん西洋の地図なんかにはのっていないし、たぶん、未来永劫のるはずもない村だ。

と、こんなふうに本書ははじまる。歴史上の柏原村を元にした架空のカシワバラ村の描写であり、地理と社会をわかりやすく簡潔に俯瞰し、読者を“ここではないどこか”に存在する物語空間へと連れ出す巧みな導入と言ってよいかと思うが、一方で、妙な定型感を覚えないといえば嘘になる。なんだか時代物のハリウッド映画のイントロダクションぽくて、尺八の音(だったかな)をバックに神々がどうしてこうしてとナレーションがかぶさる『ラストサムライ』(*4)のそれなどを、連想しないわけにはゆかない。阿弥陀如来ではなく達磨が装画に選ばれるのも、明治維新・西南戦争を背景にした『ラストサムライ』にニンジャが登場するのと同様の、紋切り型の必死の要請というものだろう。日本人しか知らないジョードシンシューと違って、ゼンは普遍語なのだ。

地誌的な概観から入る小説だっていくらでもあるでしょうにと言われそうだけど、それでもやはりこれはハリウッドだよと言わざるを得ないのは、導入に続いて提示され、物語の根幹をなすイッサとデッパの関係性が、神秘的な師に導かれた弟子の成長物語という、おなじみの説話的なパターンを踏襲しているためだ。『スター・ウォーズ 帝国の逆襲』(*5)におけるジェダイ・マスターのヨーダとルーク・スカイウォーカーから、『カンフー・パンダ』(*6)のシーフー老師(レッサーパンダ)とポー(こちらはジャイアントパンダ)にいたるまでいくらでもその例はあるだろうが、そのあたりは映画的教養に富む諸兄姉の方が、評者などより余程詳しいはずである。さらに『カンフー・パンダ』におけるマスター・タイガレス(虎です)やマスター・ツル(鶴です)、マスター・マンティス(蟷螂です)に相当する、やがて主人公に凌駕されることになる兄弟子たちという定番キャラクターも抜かりなく配されていて、それはこの小説ではシロ、クロ、ミドという、それぞれ白装束、黒装束、緑装束に身を包んだ三人の俳諧師である。

ハリウッド的ないしアメリカ的普遍主義による語りの枠組みに加えて、本書では、ニューオーリンズの創作グループのメンバーとして俳句小説を書きつつある作者自身の物語が同時進行する。さまざまな個性を持った小説家志望者たちが、お互いの創作を持ち寄っては批評し合い、またそこに作者自身の恋愛話などが絡んでくる――そういうメタフィクションの手法の採用もまた、いかにも今どきアメリカ文学風なのではないのかとふと想像される。創作グループではなくて読者サークルの話だけど、たしか『ジェイン・オースティンの読書会』(*7)という話題作が数年前に出ているはず。もっとも、評者はアメリカ文学の現況には蒙いので、これは全くの当てずっぽうにすぎない。

ここで作者のプロフィールを参照しておくと、作者のディヴィッド・G・ラヌーは、一九四五年生まれで、物語の語り手同様、ニューオーリンズに在住。ネブラスカ州立大学で英文学博士号を取得し、ニューオーリンズのゼイヴィア大学英文科教授として教鞭を執る。小説中の本人=ナレーターは、この実物を少しばかり貧相に、いわば俳諧風に“やつし”たものではないかと思う(これも当てずっぽうながら)。英文学科教授でありつつ俳句作家でもあるという立ち位置というか、アメリカの事情がよく飲み込めないのであるが、アメリカ俳句協会の有力会員として欧米の俳誌に俳句作品や俳論を盛んに執筆しているとのこと(しかし、考えてみれば本書の訳者である湊圭史も英文学研究者兼詩人兼俳人ではある。とはいえ、湊は日本人なので…)。ラヌーはとりわけ一茶には造詣が深く、二十年以上をかけて九千句もの一茶作品を英訳し、『一茶:一杯の茶の詩 Issa: Cup-of-Tea poems』(一九九一年)、『浄土の俳句:僧侶一茶の芸術 Pure Land Haiku: The Art of Priest Issa』(二〇〇四年)という関連の著書も二冊ある。『ハイク・ガイ』には、一茶の句が英訳と共にいくつも引用されるが、お手のものということであろう。

さて、小説の筋に戻ると、貧しい農民の子にして自称「村の詩人」であるデッパ少年は、高名な俳諧師イッサに弟子入りを願い出る。デッパが示した、

名月や死にたる猫の目のうちに
in the dead cat’s eyes / harvest / moons


という一句に驚いたイッサは、入門を許す。この句は一茶っぽくないこともないが一茶全集には無いから、つまりラヌーの作なのだろう。

 止まる、見る、聴く。
 イッサとデッパは、あらゆる動きののろいものたちを観察して、その一週間を過ごした。壁板を這うカタツムリを見つめつづける試練のまえの日には、草が伸びる音に午後のあいだじゅう耳を澄ませていた。ついには、暗くなりだしたころ、デッパはうえに伸びんとする草の葉が立てた、かすかな軋みを聴いた「気がした」。(中略)イッサは上機嫌だった。(中略)そのさらに前日はといえば、丘のうえの大根畑の裏の木立でカエルを一匹見つけるやいなや、イッサは低く身をかがめて、にらめっこを始めた。デッパには、にらみ合いが永遠につづくように思えた。カエルも俳人も瞬きひとつしなかった。結果は名誉の痛み分けだった。
 それでもまだデッパには、「止まる、見る、聴く」ことの大切さが理解できなかった。

ラヌーは、『ハイク・ガイ』は俳文ではなく「俳句小説(ハイク・ノベル)」であると称しているそうだ。さらに、〈フィクションをよそおった「句作マニュアル(ハウ・トゥ・ライト・ハイク)」〉を狙ってもいるらしく、それが本気なのか冗談なのか評者には判断つきかねるものの、とにかく上に引いたような記述がその「句作マニュアル」的部分にあたるのであろう。イッサ自身はこの場合のように俳句の要諦を行動で示すだけで、はっきり言語化しようとはせず(なにしろ神秘のマスターだから)、それは農民の子デッパを相手にした場合でも、大名を相手にした場合でも変わりはない。江戸に住む冷酷な美女スモモ太夫への恋に悩むカガ公は、わきあがる胸の思いを俳句に託し、一日一句ずつイッサに見て貰うが、イッサは公の句が書かれた和紙を黙って牛糞の山に突っ込むだけなのだ。イッサがようやく首を縦に振ったのは、カガ公がイッサのもとに通いはじめて百日目で、しかもイッサはその、

老いらくの冬の焚きつけ積むばかり
the old fart / stacks the winter / kindling

というカガ公の句に、〈「よし」〉と言うだけなのだった。ちなみに、カガ公は、柏原を通って参勤した加賀の前田家の殿様に相当するわけだが、本書ではシナノの国の領主ということになっている。居城はカナザワ城ではなくマツモト城である。いや、こうした混乱にけちを付けようというのではない。ラヌーはもちろん正しい知識を持った上で、日本の歴史や地理について何も知らないアメリカ人読者に向けて書いているだけのことだ。しかし、日本人読者にとっては、この種のアレンジはこの小説をより一層ファンタジックなものとして印象づける効果をあげるだろう。

ファンタジーといえば花火である。カガ公が、〈自作の句が師匠に初めて認められたことを祝して〉湖のほとりで花火大会を催す場面はだから、花火なしのディズニーランドがありえぬように、この小説にとって必然の前半の“山場”なのだ。『ラストサムライ』の最初の戦闘シーンみたいなものだ。そして、〈カガ公のお付きの者たち、それに村中がこぞって参加して、「おおっ!」とか「ああっ!」とか歓声を上げる〉のに混じって、〈浪人ザムライ〉〈村外からやってきた旅の芸者の出で立ち〉をしたニューオーリンズにおける語り手の仲間たちの姿が見られるのも、ファンタジーとしてはいたって自然と言うべきだろう。一歩間違えば、ネズミやアヒルの化け物、スカートを膨らませた中世のお姫さまや小人の木樵りたちが現われかねないところだ。その仲間たち、〈メラニーとチャズ、それにミッキー〉のうち、メラニーは花火大会のずっと後までこの架空の日本に滞在しつづけて、デッパの初恋の人にさえなる。こうした、モダニズム文学風でもあればエンタテインメント風でもある花火大会の外側からの描写のあとで、ナレーターは〈偉大な詩人〉の様子を、こんどはイッサの側から語り直す。これまた冗談とも本気ともつかぬ、「ハウ・トゥ・ライト・ハイク」として。

俳句とはカラテ・チョップのようなもの、サムライの刀の後悔を知らぬひと突きのようなものだ。迷いだとか、考え直しだとか、ましてや「書き直し」などはあり得ない。物知り顔の人間がいう俳句の「推敲」とは、実際には新しい句をつくるということなのだ。

例えば、カガ公の湖岸花火大会の夜、イッサは空が明るく輝くたびに一句を吐き出していた。そのたいていは似通っていたけれども、それでもそのすべてが、雪のひとひらひとひらのようにユニークだった。他の見物たちが「ああっ」「おおっ」をくりかえすあいだ、イッサは句作に余念がなかったのだ。

残念なことに、これらの即興句のなかでデッパが思い出すことができたのは、ただ一句だけだった。デッパは後世のため、この一句を日記に書き留めている。

どをんどんどんとしくじり花火哉
Boom! boom! ka-boom! / so many duds… / fireworks

(中略)俳句はピカソによる十秒のデッサンみたいなものだ。まえもっての計画はなし、後悔の余地なし、迷うひまなし。とにかくバットを振る!

そして俳句とは人生であり、人生は俳句である。

「どをんどんどん」の句が出てきたとき、こういう句が一茶にあってもおかしくないのは承知していたが、しかしいくらなんでもこれはないだろう、一茶調を誇張したラヌーの偽作ではないかと一瞬疑いがきざし、調べてみると『八番日記』にある文政四年(一八二一)の作に間違いないので、おのれの無知を恥じつつ、一茶の過激さに改めて驚いた。この後、カガ公は居城へと戻り、替って江戸からクロ、ミド、シロの三人が師イッサを訪ねてやってくる。彼らは師との交歓を果たしたのち、故郷を出奔して旅に生きることで俳句を究めようとするデッパの案内役として、一緒に長崎にまでゆく。この三人の弟子は、語り手の俳句理解を縦横に表明する媒体という意味ではイッサ以上に活躍しており、いかにフィクションとはいえ、実在の一茶と紐帯を有するイッサにあまり無体なことを語らせるわけにもゆかないことから生み出されたとおぼしい、かなり人工的なキャラクターである。もちろん作者としてもそれを隠すつもりのないことは、その不自然なネーミングからして明らかだろう。すなわち、クロはこの世界がブッダが見る夢であり、仮象であると観ずる無常観の象徴である。ミドは酒に目がなく、瞬間瞬間を楽しむことを奨め、自分の心から抜け出すことが俳句の要諦であると説く。最も問題含みの人物はシロで、彼は、〈純粋なる詩というものは、「ぴんと」なる言葉の外の直感、言葉が決してとらえることができない非言語的完全性のひらめきとしてのみ存在しうる〉と考える沈黙の俳人であり、その作品は沈黙の実践そのものとされる。

三人組がそれぞれに表明する俳句観をデッパが乗り越え、みずからの俳句を見つけ出す成長記を骨格としつつも、小説後半の舞台はもはや“むかしむかしの”カシワバラを離れ、京都や長崎、現代のアメリカへとめまぐるしく移り変わり、最後は再び登場したカガ公と語り手の失恋譚の重奏のうちに幕を閉じる。スラップスティック・コメディ風なスピード感で小気味よく走りきっていて、まずは楽しめる小説であるが、読みながらずっと思い出していたのはじつは冒頭で触れた藤沢周平や田辺聖子の一茶小説ではなくて、小林信彦の『ちはやふる奥の細道』(*8)の方だった。ご存じの人も多いと思うが、半可通のアメリカ人日本研究者ウィリアム・C・フラナガンが著した芭蕉本を、そのでたらめを承知で小林が翻訳するという体裁をとったパロディー小説。「作者ノート」によれば、一九六八年八月三日の朝日新聞夕刊に載ったイギリス演劇の紹介記事を読んだことが執筆のきっかけになったのだという。小林が「作者ノート」に全文引用しているその「誤解は創造の始り」と題された新聞記事を、こちらも全文孫引きしてしまおう。長くなるが、小林信彦をインスパイヤするだけあって、すごく、面白いので。

いまイギリスで、バショーという人物を主人公にした「奥の細道」(Narrow Road to the Deep North)という芝居が話題を呼んでいる。作者はエドワード・ボンド、一九六五年の「救われて」で不良少年の嬰児虐殺の現場を舞台にのせ、議論をまき起した新進劇作家である。イギリスのコベントリーで開かれた「大衆と都市」についての国際会議の余興として、委嘱されたのがこの新作である。

サトリを求めて北国を旅していたバショーが、帰途、「九つの槁の都市」を通る。ここは今ショーゴーという暴君に支配されているが、バショーも三十年前に通ったことがあって、そのとき捨てられた赤ん坊を見かけたのだった。ショーゴーの暴虐ぶりに慄然としたバショーは、北国で会った異国人たち(大砲を引きずった白人提督とその妹の伝道師)を呼寄せて、町を乗っ取らせる。かくしてキリスト教が剣に代って独裁的支配を行う。最後の巻返しに出たショーゴーは、白人の擁する子供皇帝を殺そうとして、結局、おのれの残虐さに見合った残虐さをもって殺される。――この都市がこうして貪欲と流血と冷淡の渦と化したのは、いかなるのろいのせいなのか。ショーゴーの死体が運び出されるのを見ながら、瞑想するバショーの胸に、答えがひらめく。三十年前に自分が「北国へ向う細い道」のかたわらに見捨てた赤ん坊、あれがショーゴーだったのだ。

日本人から見ると、これはまたなんと芭蕉の世界と似ても似つかぬ、肉食人種的(?)な物語か、と思われよう。しかし「やっぱり東は東、西は西か」と肩をすくめる前に、「ボンド日本へ行く」と題した「オブザーバー」紙の次にような劇評に耳を傾ける方が大事ではあるまいか。

「ロンドンが世界演劇の首都たることを例証する一行事は毎春恒例の〈世界演劇季節〉だが、去年の日本の能の公演は、ボンドの新作においてみごとな実りを結んだ。これはサルまねではない。押えた詩情と直截深遠なビジョンをもつボンドの演劇的才能が、能によって、最も深いところで触発されたのだ。形式的にもボンドの最良作であるこの劇は、能の衝撃なしには生まれなかっただろう。今年の〈世界演劇季節〉もこのような効果を及ぼしつつあることを期待したい……」

能の公演のほかにも、最近「奥の細道」英訳がペンギン文庫にはいったとか、三島由紀夫の「近代能楽集」の人気とかの事情も考えるべきだろう。また八月のエディンバラ・フェスティバルでは能「隅田川」を下敷きにしたベンジャミン・ブリッテンの新作オペラが上演されるそうだ。ともあれ「東は東」式のシニシズムや純潔主義は創造的ではない。

一九一六年にイェイツが若き日の伊藤道郎を使って、能めかした「鷹の井にて」を発表し、同じころエズラ・パウンドがフェノロサの暗示によって俳句の富を現代詩に奪取したとき、彼らの輝かしい仕事は厳密には多くの「誤解」にみちていたではないか。俳
句が学問的にかなり「正解」され理解がゆきわたってきた今日のアメリカでは、皮肉にも俳句は真の詩的影響力を失って、ホビー(道楽)の一つに堕した感があるのにくらべ、イギリスはいま創造的「誤解」の季節にあるというべきか。

『ちはやふる奥の細道』は、もちろんボンドの戯曲ほど無茶苦茶なわけではなく、むしろ『おくのほそ道』と元禄時代の歴史を正確にトレースしながらずらしたもので、引用される芭蕉句に施されるこじつけの解釈が、物語全体に対して奇妙につじつまが合っている、というあたりの手際がパロディー作家としての小林の腕の見せどころになっている。そこで笑われているのは西欧人のしばしば頓珍漢な日本理解であると共に、芭蕉を文化的権威として崇める一部日本人であり(つまり私やあなたのことです)、かつまた芭蕉忍者説のようなものに血道をあげる奇説好き・裏読み好きの人たちであり、さらに誰よりパロディーをパロディーとして理解できない人たち、ということになろう。

ところで、朝日新聞の記事の段階ですらアメリカでの俳句理解が相応に正確なものになりつつあったとすれば、まして四十年後のこんにち、九千句もの一茶作品を英訳した人物の日本や俳句についての理解がよほど精緻になっているだろうことは想像に難くない。にもかかわらず『ハイク・ガイ』が『ちはやふる奥の細道』を思い出させるとしたら、前者は私小説的な形で、後者はパロディーとして、“アメリカ人が書いた”ということを誇張気味に強調しているゆえだろう。とはいえ、類似はそのあたりまでで、そのコミカルなのりにもかかわらず『ハイク・ガイ』は決して何かのパロディーというわけではない。指摘したようなハリウッド風の語り口も、あえて言うなら「オリエンタリズム批判・批判」、すなわち批判の批判として折り返されたオリエンタリズムなのであって、底にひそめられた俳句への志向(小林信彦にはもちろんそんなものはない)がストレートで真摯なものであることに疑問の余地はない。それでいてなお、この小説の俳句理解に違和感があるとすれば、それはラヌーが近世俳諧と現代英語俳句を直結することで、近現代の日本俳句を捨象してしまっているからではないだろうか。いやしかし、違和感を申し立てたいのはラヌーの方かもしれないとも思う。じつのところ、当節の俳人・俳句愛好者のほとんどが、一茶はおろか芭蕉さえ意識することなく作品を作っていると知ったら、彼は驚くだろう。評者だって未だに驚いているくらいなのだから。

(※A)冒頭で触れた〈名月や江戸の奴らが何知つて〉の句について、関悦史氏からご教示を得た。千葉県の我孫子市役所の敷地内に句碑があること、しかし存疑の句らしいこと。また、〈蕎麦の花江戸の奴らが何知つて〉の句形もあること。しかし、この「蕎麦の花」バージョンも全集索引には見当たらない。こちらもあくまで伝一茶ということであろうか。(5.26追記)

(※B)本稿アップ後の五月二十五日夕方、筆者のラヌー氏、訳者の湊圭史氏にお目にかかる機会を得、英語版の一部を抜粋したプリントを入手することが出来た。それを見るとデッパは英語原文では「Buck-Teeth」となっている。よって拙稿に引用したデッパの名前に関する説明は、翻訳に際しての処理ということのようだ。(5.26追記)

(*1)藤沢周平『一茶』 原著:文藝春秋 一九七八年/文春文庫 一九八一年
(*2)田辺聖子『ひねくれ一茶』 原著:講談社 一九九二年/講談社文庫 一九九五年
(*3)デイヴィッド・G・ラヌー『ハイク・ガイ』 原著:二〇〇〇年/邦訳:二〇〇九年五月十日刊 湊圭史訳 三和書籍 
(*4)『ラストサムライ』 エドワード・ズウィック監督 二〇〇三年 アメリカ・ニュージーランド・日本合作映画
(*5)『スター・ウォーズ 帝国の逆襲』 ジョージ・ルーカス製作総指揮 一九八〇年 アメリカ映画
(*6)『カンフー・パンダ』 ビル・ダマスキ製作総指揮 二〇〇八年 アメリカ映画
(*7)カレン・ジョイ・ファウラー『ジェイン・オースティンの読書会』 原著:二〇〇四年/邦訳:二〇〇六年 矢倉尚子訳 白泉社
(*8)小林信彦『ちはやふる奥の細道』 原著:新潮社 一九八三年/新潮文庫 一九八八年

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遷子を読む(9)

遷子を読む〔9〕

・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井

戻り来しわが家も黴のにほふなり
    『山国』所収

中西:昭和28年の作品なのですが、戦後の生活状態もこの頃になりますと、大分良くなってきているのではないでしょうか。遷子も町のお医者さんとして地元にすっかり溶け込んできているようです。田舎ですから、社会が閉塞的で、口うるさいことでしょう。隣近所の生活が皆に知れ渡っているでしょうから、遷子も患者さん達の生活がよくわかっているわけです。往診に訪ねた患者さんの生活が見えているのです。黴臭い古い暗い家は、どこも質素な暮らしぶりで、節約をしてその日その日を暮らしているのだと思います。その厳しい生活を見てきて帰って来ると、我が家も同じ様な黴の匂いがしたというのです。農家の方々から比べれば、やや生活が楽に思えたわが暮らしも、気がつくとやはり同じ様に決して豊かではないという現実、これが今の社会状態なのだと、そんな思いが書かれているようです。

深谷さんの社会的事象が描かれているというご指摘から、この句もただ、自分の小さな生活のみを描いているだけでなく、この頃の時代が見えるように思います。

また、この時期高原派としての作品として同年作の、

雪の嶺眞紅に暮るる風の中
高空は疾き風らしも花林檎
夕映えて不作の稲に空やさし

を『山国』の跋文で石田波郷が取り上げている一方で、「生活境涯詠はとかく叙述的になりやすくて、物語として読者に訴えてゆくのを、私どもは警戒しなければならないが、練達の著者にしても尚ややその風をまぬがれないものがあるのだ。」と書いています。

つまり、波郷はこの時、遷子の「黴の句」のような生活句を高原派としての風景句より劣っていると見ているわけです。確かに、波郷のあげた句より詩情は薄いかもしれませんが、欲も得も無く描いている一心な作者の姿があるように思うのです。

原:私たちは誰しも意識するにせよしないにせよ、その時代の社会現象の渦中で自分の生を送っているわけです。その意味では少し乱暴に言えば、すべての作品が境涯句であるといっていいかも知れません(勿論、「境涯俳句」の語が作品の分類上有効な名称であることに異論はないのですけれど)。

例えば遷子の風土詠のなかでもすぐれた作品には、彼の自然観、人間観、ひっくるめて世界観というべきものが、あらわでなく内在していて、それが句の背後から匂い立ってこころを打たれます。一方、具体的に社会事象に触れた題材や生活の断片を掬い上げる方向に、より多く共鳴する立場もあるわけで、この「遷子を読む」の参加者が、その両方向を含んでいることを良かったと思っています。それぞれの興味のあり処から、以前磐井さんが特徴付けて下さいましたが、今述べた遷子の句の二傾向のうち、どちらかといえば前者に共鳴するのが私、後者が深谷さんという気がします。磐井さんにはもう一つ意図があって、時代相をあぶり出してその先にあるかも知れぬ可能性を見出そうとなさっているかのようです。中西さんと窪田さんは実感に添いたいという、鑑賞の基本的な態度が感じられてこちらも姿勢を正されますが、中西さんが生活実感、窪田さんは風土的実感に立っておられるようです。

掲出句は、その生活実感の現れた句となるでしょうか。句意は明瞭。この年代に子供であった私には、昭和前期の木造家屋、やや湿りを帯びた陰翳の家の隅々が甦ります(実際の相馬家がどんな作りであったかは知らないのですけれど)。

深谷:この句の直後には、

往診に祭の人出無情なり

が見えますし、少し前には

往診の夜となり戻る野火の中

という句もありますので、この「戻り来し」はやはり往診からの帰宅でしょう。

そして中西さんの御指摘の通り、患者は貧しい生活を余儀なくされていた農家だったのだと思います。この二句後に見える、

農婦病むまはり夏蠶が桑はむも

といった生活環境を思い浮かべます。

この頃から遷子作品に医師俳句が登場し始めますが、その作品はどれも患者への深い共感あるいは同情の念に溢れています。だから「わが家も」と詠んだ遷子の心の内には、自分も患者達と同じ境遇にあるという一種の満足感が去来していたような気がします。読み過ぎかもしれませんが。

「黴のにほふなり」という直截な措辞には、農家の貧しい生活の象徴という以上のアリティを感じます。そう言えば、最近家の中の臭いが頓に希薄になってきたように思います。「生活臭」というと別の意味になってしまいますが、昔の暮し、それも田舎の各家々には必ずその生活を物語る「におい」がありました。この正月に駅伝観戦熱が嵩じて読んだ「冬の喝采」(黒木亮著)の中にこんな一節があります(主人公が事故死した親友の家を訪れるシーンです)。

「家に入ると、食べ物を煮炊きする匂いや家畜の臭いが染み付いた農家独特の匂いがした。鴨居の上には、紋付を着た先祖の白黒写真が飾ってある。(後略)

舞台は昭和40年台後半の北北海道。著者の生年は私と同じですから略同じ時代を生きた者として、この佇まいはよく解ります。というより、大変懐かしい想いがします。そして、その少し後には、こんな記述もありました。

「伊東(深谷註:死んだ親友の名です)は家が裕福ではないので、自然の中で遊んでいた。伊東に限らず、当時は裕福な家庭などなかった。(後略)

遷子作品はこの時代よりさらに20年近く前の、我が国が高度経済成長を遂げる以前のことですから、状況はもっと深刻だったことでしょう。梅雨時に遷子が往診するどの農家にも黴の匂いが満ちていた筈です。そして、その環境の中で懸命に生きる住民の姿に日夜触れざるを得ないことで、遷子のヒューマニズムが徐々に触発されていったのだと思います。

窪田:昭和28年7月朝鮮戦争が終結、NHKがテレビ放送を開始した年。ようやく生活にも明るさが見えてきた頃。『山国』では掲句の前に「顔痩せて青田の中に農夫立つ」があり、後ろに「往診に祭の人出無情なり」が置かれています。掲句を含め、どこか気持ちの晴れない遷子の姿が見えてくる句が並んでいます。遷子は、戦後の緊張感が無くなった後の倦怠感のようなものを覚えていたのではないでしょうか。どこか中途半端な生活と精神状態が伺える句のような気がしました。夕紀さんの言われるように、この頃の時代が見えてくるように思えます。これは、朝鮮動乱の景気に湧く都会に暮らす人には無かった感じではないかとも思いました。

筑紫:「花林檎」の章にある句です。遷子が医者であることが分かると見えてくる句ですが、それを離れても鑑賞できそうです。外出して戻ってきた家の中が、今まで回ってきた家と同様黴のにおいがするというものです。普通は事務所で仕事をするものですが、医者の場合は往診をすることにより、患者の自宅を訪問することが多く、こうした感覚、「我が家も」はいっそう実感が強かったと思われますが、それでも現代のわれわれに感じられなくはない感覚です。それは抒情的な人事句と言うことができます。

さて、馬酔木といえば自然の風景、大景を読んだり、耽美的な作品が多いと思われますが、戦後の馬酔木はかなり生活色に富んだ句風に移行しています。遷子の掲出の句を鑑賞するに当たっては、当時馬酔木をリードした若手の作品を見ておくことが必要でしょう。

風荒れて春めくといふなにもなし  秋野弘  昭和23年4月
春愁やむしろちまたの人むれに  岡野由次  同5月
部屋ごとにしづけさありて梅雨きざす  能村登四郎  同7月
咳堪へて逢はねばならぬ人のまへ  大島民郎  同
あてどなく急げる蝶に似たらずや  藤田湘子 昭和24年4月
諭されし身を片蔭に入れいそぐ  馬場移公子  同7月

このような作品が戦後の馬酔木集にはあふれていました。あまり現代の俳人にはなじみのない名前が交じっています。特に秋野弘の「風荒れて」の句は当時大評判となり、「なにもなし」の下5はしばらく語りぐさとなっていたようです。いまになると、ちょっと過大評価しすぎだと思いますが、まあ当時にあっては、湘子も登四郎も、秋野にはかなわないなと思っていた時代があったようです。

このような中で相馬遷子も作品を発表していたことはしていましたが、馬酔木の若手に影響を及ぼすような作品は出しておりませんでした(『山国』の「薄き雑誌」の章)。石田波郷が『山国』の跋で「しばらくは著者の句も、なお山国の風物さへをもやや低調に切り取るにとどまつてゐる」と述べている時代だったのです。言ってしまえば、むしろ同じ相馬姓でありながら相馬黄枝という馬酔木同人が当時の若手の作風に大きな影響を与えたといわれています(林翔談)。作品を見てみましょう。

蠅ひとつをりてあたりに誰もゐず  昭和22年9月
手を洗ひをえて思ひぬ春めくと  昭和23年4月
人なかにうしろより来るひとの咳  同
うぐひすの去りて漸くこころ急き  昭和23年6月

確かに、これらの作品は前掲した馬酔木戦後世代の作品への影響が歴然と残っているようです。例えば、「咳了へてほのかにぞ来る人の息(句集『咀嚼音』掲載にあたり「来たる人の息」と修正)」(昭和24年1月)等をはじめとした登四郎の初期作品は黄枝なくしてはあり得なかったように思うのです。

こうして、相馬黄枝→馬酔木集若手作家と続いていった日常詠人事句の特徴は、馬酔木全体に影響していったようです。当時、水原秋桜子にさえ

鰯雲こころの末の波消えて  昭和25年
萩の風何か急かるる何ならむ  同
のような心象的な句が生まれているのです。若手の動きは馬酔木全体の動きとして影響を与えたのです。

相馬黄枝はともかくとして、馬酔木集若手作家の人事句の影響を、掲出の遷子の「戻り来し」の句にも見てみたいと思います。戦後の小市民的な、静かな憂愁は共通していますし、「戻り来し」「黴のにほふなり」の微妙な美しい表現は彼らの専売特許でした。遷子の句の特徴をすべて遷子の独自の産出としてみるのは贔屓の引き倒しのように思います。昭和22、3年の馬酔木若手作家の新風に、遷子が28年頃やっと追いついていったと見ても可笑しくないでしょう。馬酔木若手作家に尊敬されるような作品はまだ遷子は生みだしておらず、逆に若手の影響を受けていたのです。
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閑中俳句日記(08)

閑中俳句日記(08)
春日武彦『奇妙な情熱にかられて―ミニチュア・境界線・贋物・蒐集』から


                       ・・・関 悦史


どうでもいいといえばどうでもいいのだろうし、また俳句について考える上で何らかの示唆を与えるものなのかどうかといえばそれもまた何とも言いかねるようなものなのだが、何となく気になるものを読んでしまったので一応紹介する。

精神科医春日武彦の『奇妙な情熱にかられて―ミニチュア・境界線・贋物・蒐集』がそれで、3年半前、2005年12月に集英社新書から出ている。俳人でこれを読んだという人を今のところ私は見ていない。

カバーの見返しの内容紹介には《一見無意味なことや苦笑を誘うような事象》の中から《ミニチュア愛好、境界線へのこだわり、贋物への欲望、蒐集といった、きわめて個人的に見えるが、実は普遍的で、世間一般には「論ずるに足る」とは思われていないような心の働きについて論じ》《生きている手応え、人間の心理におけるリアリティーとは何かを探っていく》といったことが書かれている。

序章に行くと鶴見俊輔の《レオナルドのモナリザではなく、コルゲンコーワの店頭人形が、自分の内心に深く語りかけてくるという感じをもつ人がいるはずだ》という言葉が引かれて、こういう誰にでも納得のいく形で論じるのが難しいものについては《「論ずる前にコレクションせよ」というのがわたしの考え方である》となり、この後に続く本章では奇怪といえば奇怪、不気味といえば不気味な事例、それもおおよそ著者の心身を深く潜り抜けたものばかりが博物学的に羅列されていくことになる。

その第2章「ミニチュアとしての文章」に、春日武彦が勤務先で見かけたいきなり「私を捨てないで下さい」とだけ書かれた謎の木片、「ますように」とだけ書かれて七夕竹から下がっていた短冊、さらに詩人フランシス・ポンジュの短い死亡記事(これは《……レジスタンスにも参加。雨戸やせっけん、ボイラーなどありふれた物を素材とした散文詩は……》という記述の「レジスタンス」から「雨戸やせっけん」へと唐突に飛ぶ件が期せずして本人の作品を彷彿とさせてしまう点に興趣を覚えたらしい)といった雑多な事例に混じって俳句の話が出てくるのだ。

上田都史『自由律俳句とは何か』(講談社、1992年)のような妙に専門的な本が出てくるかと思うと《俳句にはどうしても年寄り臭いとか伝統的とか保守的といったイメージが伴いやすいこともあって、詠嘆からは隔たった種類の感情だとか先端の現代風俗などを表現するには適さない》などと書いてあったりするので、この著者がどれだけ現代俳句を目にしているのかはよくわからないのだが、それはともかく博物学的アプローチのの場合大事なのは具体個別の事例である。

『自由律俳句とは何か』には《昭和二〇年前後に『新俳句』誌を率いて活躍した青木此君楼(しくんろう)の情緒的なものを捨てて幽玄の味に至ろうとする「俳句幽玄論」に触れた箇所があり、此君楼の実作例が2句引かれている。

かほ

いろ

私も今書き写していて気がついたが、「かほ/いろ」2行を合わせて1句ではなく、これで2句である。単語のままだ。2音しかない。

著者の興味は、こういう当人にも袋小路と予感されてはいるのであろうにも関わらず極端なミニチュア化へと走っていってしまうわけのわからない情熱の普遍性へと向いているので、この後話は俳句形式の構築性についての考察に向かったりは間違ってもせず、続いて著者が上野の古本屋で手に入れたという菅原胡馬『俳句は長すぎる』(風炎叢書、昭和46年)という《おかしな本》が出てくる。

この本では《時間や距離や高度の短縮が科学技術やスポーツなどあらゆる面で国際的に競われ、日に月にその記録が更新されている。時間と空間がかくて短縮されるに伴れ、人間生活も心理もスピードと簡捷を希求するのは自然である》という蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』におけるマクシム・デュ・カンも青ざめるような「聡明」な議論が真顔でなされていて、しかも後はもういちいち紹介しないがこういう主張をしていたのは菅原胡馬一人ではなかった。後代から見ればおよそ珍奇でしかないが、当時は真剣だったのだろうし、現在のわれわれにしても「ネット俳句」による俳句変質の可能性を論じていたりはするのだから、こうした主張が即座に笑えるのは単に時間が経ったからだとも考えられる。

こういう無茶な情熱に駆られた人たちの実作も引かれていて、こちらは著者が《佳作》と云うとおり自由律俳句として見れば思いの他悪くはない。

曇天から梯子を倒す  菅原胡馬
人焼かれ 蔓宙へ  秋朗

終章では寺澤一雄『虎刈』(牧羊社、1988年)からも1句引かれている。五七五の無季句である。

節穴に小指を入れてすぐ抜きぬ

《節穴があれば、それを覗くか指を突っ込んでみるか、そのいずれかの誘惑に多かれ少なかれ人は駆られるだろう。そうした心理をまったく理解できない人もまずいないだろう。(中略)このような実用性を欠いた自己完結的な心理が、実は人間の振る舞いや判断を潜在的な部分でいろいろと左右しているのだろうといった気もしないではない。あるいは、そういった愚にもつかないことがこの世界には遍在しているからこそ、逆に、我々はリアリティーといったものを感ずることが可能なのではないかといった気すらする。》

この愚にもつかないこととリアリティとの関係を考察する視線をそのまま、例えば週刊俳句で一時話題になった「サバービア俳句」へと振り向けてその新たな潜在性をあらわにするといったことも可能性として考えられる。ただしそれは、句が廃物や寂れた景に詠み手の感傷をそっくり負わせたといった作りではないものの場合に限られる。

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青山茂根(無謀な一句鑑賞2)

虹は何処に
無謀な一句鑑賞

                       ・・・青山茂根

再び高柳重信作品について書きたくなった。webに触れたどこかの誰かが、或いはそうかもしれない、と心の奥で頷いてくれればいいだけの話なのだが。今回引用がかなり多いが、多少思いつきの補填をしたく、また若き重信に関する貴重な話もあるので掲載することにした。

身をそらす虹の
絶巓
     処刑台 
 高柳重信(『蕗子』)

先日出た『高柳重信読本』で、加藤郁乎氏の「皇道と俳道」の中に、

高柳重信は独自の皇道観を持っていた。(中略)さりながら、高柳重信を論ずる者の多くはいまなお十年一日のごとく多行形式に眼を奪われ、取って付けたようなエロティシズム論議なんぞに現を抜かしている。

とあるが、確かに私も掲句は初めて眼にしたときから、そのエロス云々の鑑賞とワンセットになっていて、初めて親鳥のかわりに人間を見た雛のごとく、そういう句なのだと頭の中に刷り込まれてしまっていた。

前回の句について考えているうちに、もしかしてこの句も、という思いが湧いてきて、同じ『重信読本』の作者自身による句解を読んでも、どこか腑に落ちないままだった。web上でひょっこり以下の記述に出会えて、わが意を得たり、と思えたのだ。

4 本人の言うことがいちばんあやしい

身をそらす虹の
絶巓
    処刑台

この句は、船長の句と並んで、若い頃の父の代表作だ。父自身が自解の一文を書いている。乱暴に要約すると、

「病気になってからは病院以外のすべての門が閉ざされ、俳句以外、人生のアリバイがなくなってしまった。そんな中で、なぜか目をつぶると浮かんでくる、バスケットボールのゴールを狙って構えている後ろ向きの少女の遠景があった。それは、僕を(ゴールの後ろにある扇形の板の形の)虹の頂上の首吊り台へ投げ上げようとしている予言だったのだ」

というようなことなのだが、私は釈然としない。この句については、「いやあ、聞かれるたびに違う答えを言いたくなる。本人の言うことが一番あやしい」と言うのを聞いたことがある。父はひじょうな照れ屋だったから、おうおうにして手の込んだとぼけかたをするのである。

この、父自身の解説文がウソだというわけではないが、これは作者が「一人目の読者」になる前のことを語っている。句を作ったときの状況を述べることは、子宮を語ることであって、赤ちゃんには言及していないのだ。人の人生が生後にはじまるように、句の解釈も句を出発点として考えなければいけないはずだ。
(戸田市郷土博物館企画展(2001.10.10~12.9)『重信展』図録より高柳蕗子「父の俳句」)http://www.h4.dion.ne.jp/~fuuhp/essay/titinohaiku.html

これは歌人であり重信の長女である高柳蕗子氏のサイトなのだが、先の読本にも掲載されていた重信の妹、美知子氏の文章がいくつか出ていて非常に興味深い。先の「皇道観」と関わる部分を以下に引く。

兄の蔵書は、こうした文学書の他に、部厚い歴史書がかなりありました。私には、あまりにむずかしくて歯が立たず、吉田松陰、藤田東湖、神皇正統記、平泉澄といった背表紙の文字を眺めるだけでした。他の文学書の多くは、戦災で灰になってしまったのですが、これらの書籍は、群馬の母の実家で、私たちと共に敗戦を迎えました。アメリカ軍の上陸に備えるのだといって、兄が、これらの本を大きな壷に入れて畑の中に埋める作業を黙々と行っていた のを覚えています。今にして思えば、あれらの書物は、すべて皇国史観に基づくものであったわけです。

若い日の兄のなかで、文学と皇国史観は、どのように交錯・共存していたのであったか、また戦後、それをどのようにとらえ直していったのか、大変、興味のあるところです。あるとき、吉田松陰の(らしい)教えを兄が毛筆で書写し、それを和綴じにしたものを、何気なく開いてみたところ、一番最初に目に飛びこんできたのは、兄自身の血でしたためた誓詞と高柳重信の署名の文字でした。血書、血判というものを私が目の当りにしたのは、後にも先にも、この兄のだけです。(太字引用者)
(高柳美知子「思い出すことなど 3」 初出は「夢幻航海」に連載されたものとのこと)

太字にした部分、血書・血判を作るのも凄いが、加藤氏の記述と関連するものであり、先の戦争という悲劇を改めて感じずにはいられない。こういった、一般市民の皇道観を利用して、軍部が天皇をマリオネット化し、軍備拡張を進めたために戦争の泥沼化を招いたのだろうと私は思っているが、重信より数年後に生まれた世代は、考え方がまた違っていたようなのだ。前回の記事のコメント欄で述べた、児童文学者佐藤さとる氏の発言から引く。

(旧制中学)5年生の2学期から川崎にあった日清製粉鶴見工場に勤労動員で行っていたんです。 半夜勤とか夜勤があって、昼間は割とぶらぶらする時間があった。 桜木町の駅前広場を4、5人で空っ風に吹かれて歩きながら、あんまり大きな声じゃ言えない時期なんですけど、「戦争が終わったら何をする?」という話をして、僕は「童話を書く」と言ったんです。
(横浜・有隣堂書店発行の「有鄰」平成17年7月10日/第452号掲載の座談会から)

また、佐藤さとる氏と生年が同じ岡井隆氏もこう言っている。

中村稔さんがお書きになったのを見てもわかるし、ぼくは十七歳で戦争が終わったからそういうことはひっかかってこなかったけど、みんな何を考えていたかというと、兵隊に行かないようにするにはどうしたらいいかってことなんですよ。黙っているけどみんな考えているのはそれなんです。だから理系に行ったほうがいいとか、文系はやばいとか。そういうことをみんな考えていて、でも口に出すと非国民になるから言わない。
(『塚本邦雄の宇宙』座談会より)

佐藤さとる氏は幼時を横須賀で育っている。父親は真珠湾攻撃にも参加した海軍機関少佐であり(余談だがアララギ派の歌人でもあり、ハワイ攻撃時の歌が、『アララギ』の昭和17年2月号の巻頭となっている)、昭和17年のミッドウェー海戦で航空母艦「蒼龍[(そうりゅう)」に乗っていて撃沈され亡くなった。しかしその著作から、随筆や自伝的小説からも皇道観らしきものは微塵も感じられない。

重信より数年上の世代、塚本邦雄なども反戦歌の一方戦後脈々と皇道観を持ち続けた人物だと思うのだが、重信が敗戦後も「壷に入れて畑の中に埋め」てまで守りたかった(敗戦時、教科書などのそういった記述は墨を塗ったし、各家庭にあった書物は庭で焼いた場合がほとんど)皇道観、皇国史観というものが、やはりその俳句を読む鍵になるのではないか。

また、以下の部分にも注目した。

兄重信が、この大塚伸町五五番地の横町の子どもたちの間でどのようであったかを、弟分としていつも行動を共にしていた隣家のアーちゃん(いとこの中島昭)は、つぎのように誇っています。

「・・・・・・余り腕力が強くなかった重信さんは、子供仲間の、遊びの創りの名人、演出者、そして参謀長として君臨していました。ですから五五番地の子供達は、よその子供達とは一味違った重信式遊びを持っていました。
(中略)

また重信さんは、本物で遊ぶことが好きな兄貴でした。弓矢遊びには本式の弓矢を使い、藁をたばねた的を造って遊びました。手には革ひもがついた手袋をはめ、矢の番え方や正式な作法も教えてくれました。(中略)

重信さんは、物凄い物知り博士で、今でいうシミュレーションゲームを創ることも上手でした。日本海軍とロシア海軍の全艦隊をボール紙細工で精密に建造しました。軍艦の型は勿論のこと艦名や排水量、大砲の大きさや数まで克明に知っていて、畳の上に日本海海戦を再現してあそびました。

重信さんの探究心と根気を物語る一つに見事な昆虫標本がありました。二階にあった四畳半の勉強部屋にはガラス窓がついた標本箱が山のように積んであり、昆虫採集用の小道具が沢山ありました。とんぼや蝶類のほかに、てんとう虫だけでも何十種と採集して、その一つ一つに日本名と学術名がきちんと記入してありました。」
(『いまひとたびの―高柳市良・芳野・重信追悼遺稿文集』より)

(中略)ついでに弟の年雄が記した部分もぬきだしてみましょう。

「兄はよく二階の八畳の部屋に海軍図鑑から縮尺した軍艦をボール紙を切って沢山作り、有名なジェットランド海戦の正確な海図を見て並べ、部屋の隅でじっと眺めていました。僕の日には八畳の部屋が大きな海に見えました。思えばそれは、大きな詩の海だったのです。今でも二階の八畳の海は僕の頭の中にやきついています。」
(高柳美知子「思い出すことなど 2」)

文中に出てくる、『いまひとたびの』については、以下の蕗子氏の記述がある。

文中に出てくる「いまひとたびの」は、父の一周忌に配った小冊子です。

父の葬儀にはたくさんの俳人にご参列いただき、また、著名な俳人の方々から立派な弔辞もいただきました。その後は雑誌で追悼特集が組まれ、さらにたくさんの方々が、父について書いてくださいました。遺族にはそれがほこらしく、とてもうれしいことでした。が、心のどこかに、これでは「俳人 高柳重信」だけだなあ、という気持ちがわいてきてしまいました。

「ねえ、一周忌のときには、ちょっとは家族パワーを見せようよ!」

と、叔母と相談して作った小冊子が「いまひとたびの」です。父の一周忌は、祖母の三回忌、祖父の七回忌だったかなにかで、祖父祖母の思い出もあわせて、高柳家追悼特集号(?)みたいなものになりました。
(高柳蕗子「思い出すことなど 7」)

俳人の方にもこれは配られたようなのだが、どこかに残っているのだろうか。私が無知なだけかもしれないが、俳句文学館か国会図書館に所蔵するのかどうか怪しい。ご存知の方は教えてほしい。

で、かなり脱線したように見えるが、重信の冒頭の句である。蕗子氏の「本人のいうことがいちばんあやしい」にもあるように、バスケットゴール等は記憶の中から掘り出しての後付けと思える。しかし、その中に重要なキーワードが隠されているように、私は思った。「ゴールの後ろにある扇形の板の形の」の扇形だ。「虹の/絶巓」の形状としても、そこに何かがあるのでは、と終日ぼんやり全く関係のない本をめくっていた。既に何度も目を通した、サン・テグジュベリの処女作『南方郵便機』の中に、

「・・・扇形編隊で、中心機は・・・」

という一文にはっとした。「虹の/絶巓」とは、「扇形編隊」のことではないのか。全くの突拍子もない思いつきで、飛躍しすぎかもしれないが、テグジュベリのこの著作は1927年に書かれたもので、内容は郵便を運ぶ単独飛行の話だが、テグジュベリ自身、先の大戦末期に北アフリカのアルジェで解放戦線に参加し、偵察飛行中に行方不明となっている。ナチスの戦闘機隊に遭遇し、撃沈されたと見られているだけに、時代的な関連を感じる。

ここからはあまりその方面に私は詳しくないので、教えていただきたいのだが、太平洋戦争末期、戦艦大和・武蔵の最後は、扇形編隊の雷撃機による攻撃が致命傷だったはず。

「身をそらす」とは、現われた敵の機影を艦上からふりあおぐ仕草であり、「虹の/絶巓」とは扇形編隊を組みまさに急降下に移ろうとする先頭の敵機、そして波上攻撃を受ける艦上は「処刑台」のごとき惨状を呈する。この句はそのようにして南の海に沈んだ帝国海軍最後の戦艦への、鎮魂歌だったのではないだろうか。

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