2009年5月24日日曜日

異界のベルカント ―攝津幸彦百句[10]― ・・・恩田侑布子

異界のベルカント
―攝津幸彦百句[10]―

                       ・・・恩田侑布子

五層  近江の春

燕子花人生は昼捨つるべし  10 

      『鳥屋』所収

燕子花がいちめんに咲いているところを見たい、とずっと思ってきました。悠長な話ですが、三十年後の昨年やっと願いが叶いました。しおたれている私に同情したのか、大学の先輩が「葵祭はいいよ」と、幸運にも上賀茂神社の招待券をくださったのです。家事を放棄して放浪の旅に二日間出かけることにしました、賀茂川の河原に下りて、ひとり気ままに敷物をしき、牛車が土手に来ないか鳩ぽっぽと待っていました。昼寝でもと、うつらうつらしかかるたびに顔を覗きに来るのは散歩の犬ばかり。そうだ、昼寝をやめて、燕子花を見に行こう!と太田神社まで足をのばしたのです。

閑静な洛北の住宅地から山裾にひょいと五,六間紛れこんだだけで、今日が京都一の祭なんて嘘のようなしずけさです。椎の木が黄金の花をつけて男くさい匂いを放っている。大和絵にある誰が袖のような新緑の雑木山を背景に、池の面を覆っていちめんに燕子花の紫があふれています。浅緑に透きとおる葉の一枚一枚は、絵に描いたように平べったくて、おおどかです。紫の花という花は、空を信じきった風情でひたすら光をはじいて開いています。葉と花の明るさが、中空にまばゆい金色の日を反射させています。

そのとき、だれもが思うことでしょうが、

から衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬるたびをしぞ思ふ

という『伊勢物語』の東下りの段が、やはり私にも思い出されたのです。

目の前にひろがる数限りない燕子花の花冠の上に、まざまざと女の幻影が現れ、ふっくらとした頬にあどけない目で「業平を待っているの」というふうに微笑んだのです。

「ああ、なんてかわいい人。つぶらな黒い瞳。まだ、ずいぶんお若い方なのですね。〈きつつなれにし〉なんていうから、つい、ろうたけた女性を想像してしまって、失礼」。

燕子花の女人に向かって、思わずひとり呟いていました。燕子花と、陰影に富む花菖蒲とは、似て非なるものだということが、そのときやっとはっきり私にもわかったのです。

「人生は昼捨つるべし」とは、けっしてエピグラムとして書かれたわけではないということもその時気づきました。読者にいっているのではなく、攝津が自分自身にふっと呟いたのです。

上五はKAKITUBATAとA音主調の明るく羽ばたくような開放感ですが、対比的に、中七以下は厳しいI音とくぐもるU音に四音づつ占められています。ことに末尾の七音は、HIRUSUTURUBESIと、まるで吃音をおもわせる韻律。にがさと翳りが滲みます。燕子花の池畔の光の遍満と、死してここからいなくなること。その対比が、音韻上にも明暗をくっきりと際立たせて奏でられています。

「燕子花」の背景にひろがっているのは金のハレーションなのだ。太田神社のいちめんの群生を眺めながら、なぜか私は確信したのです。即座に三百年前の画家、尾形光琳の六曲一双の金箔地屏風「燕子花図」との類縁が思われました。

黄金は、どの民族にとっても、また例外なく日本でも、古代から富と権力の象徴としての役割を担ってきました。しかし一方、そうしたカネと権力の裏側で、金という色自体が日本人の精神に刻んできたものがあります。金色は、あるときにはあでやかに、あるときにはひそやかに、どのような幻想をもたらしてきたのでしょうか。

漢委奴国王の金印に始まって、奈良の大仏の鍍金や、紫紙金字経、鳳凰堂の阿弥陀佛の金箔。平家納経の金彩。マルコ・ポーロの黄金の国。金閣寺。平泉の金色堂。信長時代の金碧障壁画。秀吉の黄金の茶室。今に至る截金細工。金蒔絵。金工。茶盌の金繕い…思い出せないほどにおびただしい金脈。

平面芸術では、とりわけ絵巻物や屏風絵に数多く描かれてきた大小さまざまの金雲が印象的です。そうした金雲は物語や風俗絵の場面転換に使われ、時間と空間の隔たりを自在に表します。しかし、光琳の屏風「燕子花図」に典型的に見られるように、金碧障壁画や金屏風の背景にあるいちめんの金は、もはや流れる時間を表そうとはしてはいません。永遠の一瞬としてそこに在る命を、ただそこに在らしめているだけです。

太田神社の燕子花の群落をみていると、五月の紫外線にくらくらしてきました。まばゆさにうつむくことも知らず、信じられたものとしてある燕子花のあどけなさ。その花の上の空間はたしかに空というより金碧でした。そのときふと、金色の空間の中心に、なにもない消失点のようなものがほのめいたのです。

この世からあの世へのだれもが通る道。帰って来た人がいないばかりに、永遠の謎としてとどまる消失点。出口でも入口でもある不思議な光点は、いつまでも虚空にホバリングを続けていてほしかった。三十九歳で刊行した第四句集「鳥屋」におさめられた掲句をつくったときには、作者はいたって健康だったはずです。しかし、攝津はそれから十年後の「人生の昼」に四十九歳でこの世を去りました。純粋美であるはずの不思議な光点は現実によって蔽われてしまったというべきでしょうか。いいえ、いまも虚空のホバリングは、あそこでもここでも金をほのめかしているにちがいありません。

攝津一流の美意識による白日夢は、俳句で書かれた蠱惑的な黄金幻想ではなかったでしょうか。


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