―攝津幸彦百句[5]―
・・・恩田侑布子
四層 すべては北に
首枯れてことりこ鳥子嫁ぐかな 5
『姉にアネモネ』所収
登紀子さんかな。いや、規子さん? もしかしたら頼子さんかも。ふふふ。なんのことかって、掲句の「鳥子」ですよ。いくらなんでも鳥子っていう名前の女性はいないでしょう。でもきっと、攝津が失恋した初恋の女性の名前は「トリコ」と、音が似ていたのではないでしょうか。わたしの勝手な想像によれば、実名は十紀子さんあたりがふさわしいような気がします。
こともあろうに、鳥子(十紀子さん)はお嫁にゆくというのです。あんなにきらきらかがやいて、水玉模様のスカートの似合う首のほっそりした少女が。「首枯れて」…と、いう以外に、言いようがあるでしょうか。あの天使のような少女が知らない男の妻になってしまう。もう僕の手の届かない場所にかけ去ってしまう。
タンポポも、菊も向日葵も、正式には頭状花序、俗には頭花といわれます。幼い子どもの絵には、よく向日葵の花卉のまんなかに、かわいい女性の笑い顔が描かれます。もちろん子どもだけでなく、大人の社会でも美人を「花のかんばせ」にたとえます。いきなり擬人法の造語「首枯れて」ではじまる上五の唐突さは、そのまま作者の失恋のショックと痛みを伝えてきます。花のようないとしい乙女が、恋敵にさらわれてしまう。いやらしい男の接吻で汚されてしまう。それを、とっさに攝津は植物の衰耄のさまに譬えたのです。なるほど頭花の茎は人間の首を思わせるではありませんか。この花の茎の枯れるイメージは、わたしの個人的好みでは、あのやさしい松虫草です。初秋の高原の青空に、茎ほそく高く吹きなびく清潔な風情の花。あどけないといいたいほど可憐でありながら、水色とも紫ともつかぬ澄んだ色合いは、天上の高貴さをどこかにただよわせています。そこからかがやくような白い首の女性のイメージが浮かんできます。
続いて中七以下の謎を解いてみましょう。三〇年ほど前に「失恋レストラン」という歌が流行りましたが、「ことりこ鳥子嫁ぐかな」は、レストランではなく、失恋の迷宮です。初恋に敗れた心理がこの上ない繊細さで描出されます。技法的には、実に四つの掛詞が駆使されます。掛詞の一つ目は、「ことりこ鳥子」の「鳥子」が、隠された女性の実名(たとえば十紀子さん)の掛詞になっていることです。その鳥子は僕の意に反して、別の男の妻になってしまいます。鳥子、鳥子、おお鳥子…と作者はその少女の名前を呟かずにはいられないのです。わたしなぞにも経験があります。まっさらなノートに、好きなひとの名前を何度も何度も書いては消し書いては消して。だって、名前を書いている時くらいしかその人に会っている実感はないのですから。句の中では二度繰り返されるだけですが、作者は実際には数えきれないほど彼女の名前を呟き、ある日、羽根が生えていなくなるから、そうだ彼女は「鳥子」なのだと、はっと気づいたのではないでしょうか。
ですから掛詞二つ目は、「ことり/ことり/こ」まさにその小鳥です。胸の中にひっそりと抱いていた可憐な小鳥は、もう手の届かないひろい大きな別世界に飛び去ってしまう。二度と再びここに帰ってこないのです。三つ目は、「こ/とりこ/とりこ」すなわち心をうばわれてしまう「虜」になることです。「僕は君の虜なんだよ。虜になっちゃっているんだよ、だのに君は…」という思いです。
最後の四つ目は、擬音語です。「コトリ」は、なにかを取り落とした時、墜落したものが物に当たってたてる音です。たとえば手のひらに乗る小さな七宝のオルゴールを運ぼうとして、うっかりすべり落としてしまった時、木の卓のたてる乾いた音。じつにさびしい音です。以上の四つの輻輳する掛詞のイメージが、一句をつぶやくたびにかわるがわる読者の胸に訪れます。ふつう掛詞といえば、「大江山いく野の道の遠ければまだふみもみず天の橋立」のように、「生野」と「行く」、「踏み」と「文(手紙)」のように、ひとつの歌の中に、同音異義の二語を重ねて、意味と連想の二文脈をつくりだす古今集以来の日本文学における伝統的な技法です。一粒で二度美味しい豊かな深いイメージが広げられることから、短詩型文学のつよい味方として愛され親しまれてきました。
しかし、掲句ではどうでしょうか。わずか七文字に四つの文脈が息づいているのです。掛詞もこんな高等技になると、ピカソらの試みた現代美術の一技法、キュービスムさえ思わせます。一つの統一体としての古典的な女性像ではなく、さまざまに変幻する女。入口がいくつもあって、そのどれもが真実の貌でありながら、あるときは首の枯れた松虫草であり、またあるときは枯原を飛び立つ小鳥であり、またある夜は男のこころを虜にする裏藪のナイチンゲールなのです。しかもこの高等技法が、いわゆるケレンの下品さから遠く離れた気品さえ持っているのは、音韻の繊細なハーモニーがあり、あまつさえそこに音楽の快楽さえもが用意されているからです。驚くのは、掛詞の巧みさだけではないのです。ここには見事な音楽的なコンポジションがあります。まずはK音に注目です。ク、カ、コ、コ、コ、グ、カと、一七音中の主調音となる七音は、枯れるさみしさ、失恋の哀しさを感じさせるK音の乾いた弾奏の点綴なのです。
つづいてT音。テ、ト、ト、ト、ツと五音のつっかかる音の連打があります。これをわたしは吃音の喪失感といってみたい気がします。大枯野の径をあゆむ青年の胸から、突然、蒼窮へ向かって飛び去る小鳥の影。足元には霜枯の野路菊が倒れています。ひとり残された青年の胸には、残酷なほど真っ青な冬晴れの天空が広がっているのみです。さらに中七の「ことりこ鳥子」が回文であることも、この句の非現実感をつよめ、不思議な雰囲気の魅力となっています。回文は、鳥子(十紀子)さんに戻ってきてほしいというウイットであり、呪文なのでしょう。
掲句は表現の冒険を縦横に試みた幻想芸術です。しかも日本語によってつくられた最短の紙上の音楽です。ここには句の意味である失恋の哀しみと寂しさをはるかに超えた、純粋芸術としての音楽の愉悦がひそんでいます。どうぞ一句を口中にころがしてみてください。異界のオルゴールの蓋が開かれます。オルゴールの底は天鵞絨張りです。--------------------------------------------------
異界のベルカント―攝津幸彦百句 [1] ―・・・恩田侑布子 →読む
ことにはるかに傘差しひらくアジアかな
一月の弦楽一弦亡命せり
異界のベルカント―攝津幸彦百句 [3]―・・・恩田侑布子 →読む
冬鵙を引き摺るまでに澄む情事
濡れしもの吾妹に胆にきんぽうげ
-------------------------------------------------
■関連書籍を以下より購入できます。
2 件のコメント:
しんねんおめでとう。今回は、私の投稿はおやすみにして、おひとりづつコメントしています。
しばらく休止されていたので心配していましたが、みごとな『鳥子』鑑賞で復帰され、タイミングもおみごと。
この句は、一句に4文脈あるとか。そうですね。ことりことりこの回文まで計算した、摂津の技巧の粋でしょう。侑布子さんに指摘されてはっきりしてきました。これからが楽しみ。
このウェブを盛り上げて行きましょう。
吟お姉さま
お正月でお忙しいところ(主婦ってふだんより台所に立ち詰めじゃありませんか?)私のところにまでコメント下さりありがとうございます。攝津百句始めたら、その内容と技巧のウルトラCに打ちのめされ気味です。偉大なのになんて優しい人だったんだろうって、あらためて思います。ノロマな私、とても毎週は無理そうです。隔週がいいとこかな。でも、吟さんも見守っていてくださると思うと元気が出ます。お母様とのお正月、うらやましいです。お幸せなご帰郷を!♡
恩田侑布子
コメントを投稿