2009年3月7日土曜日

異界のベルカント 7

異界のベルカント
―攝津幸彦百句[7]―


                       ・・・恩田侑布子


四層  すべては北に

冬景のうしろばかりを天狗ゆく  


   『輿野情話』所収

冬景を求めて出羽の国まで行ってきました。二月中旬、背丈ほどの積雪の田沢湖から、さらに雪山の乳頭温泉郷に分け入り、秋田内陸線鉄道に乗車して角館に至る旅です。

秋田の冬景色をみながら、〈冬景のうしろばかりを天狗ゆく〉の冬景とは何かを、ずっと考えていました。

この旅では、秋田内陸線鉄道に乗るのをいちばんの楽しみにしていました。雪原の中をゆく単線。初めての経験にときめいていると、仙北市の係の方が現実を話してくれました。

「JRから払い下げられてやってきたのですが、持ちこたえるのが大変です。存続できるかどうかの瀬戸際なので、みなさんに乗ってもらえてありがたいです」。バスを降り、雪道を歩きながら「すぐそこ」という駅を探しますが、ちっとも見当りません。松葉駅も、西明寺駅も、目の前なのに気づきません。同行の仲間も「自転車置場くらいあってもいいのに」というほど何もない。もちろん踏切もない単線のレールをわいわいみんなで跨いで、吹きさらしのホームに上がる。
「切符はどうするの」と思わず訊いた私は、
「電車の中よ」と、仲間に笑われました。吹雪除けと思われる小屋がホームの真ん中にあり、誰もいません。

車窓から見わたす雪原に沿って、みちのくの脊梁、奥羽山脈が続きます。山肌の針葉樹の深い紺が雪を泡立てているように見え、思いのほかにやさしい山容です。そこから流れ出す川をいくつ渡ったことでしょう。雪除けの木立に包まれた農家が時々あらわれるほかは、見渡す限りの雪原。その下の田んぼに眠っている数えきれない命のことを思います。

ここでやっとわたしは、雪にもさまざまの色があることに気づきました。黒に豊饒な色があることはよく知られるとおりで、喪服は紅花を下染めして朱を沈め、その上に墨をかけたものが高級といわれます。墨に五彩あり、ともいいます。ですが、それまでのわたしは、雪の白は白だと思っていたのです。雪の白にもゆたかな表情と味があることを、内陸線鉄道は教えてくれました。

それは、ふだん仰いだり、時にその懐でスノーシューを楽しんだりする富士山の雪とは決定的に違う色でした。いわば悠久の時間を堆積して沈んだ色。墨画の余白にひろがっているような色。

このとき、掲句の「冬景」の色が、一両しかない車窓から、はたと見えた気がしたのです。

今回の旅では、得がたい体験にも恵まれました。

角館の雪の夜。「火振りかまくら」という雪夜の祭りが開かれるというのです。マイクロバスで会場に着くと、すでに祭りは始まっていて、雪夜の中にはげしく火の粉が舞っています。

「やってみたい方は本部テントまでおいでください。袢纏と手ぬぐいと軍手をお貸しします」
軽率さにかけては自信のあるわたし。さっそく、わけもわからぬままに、かちんこの雪の斜面をガニ股で下りて、明るいテントにかけつけ、コートを預け、替わりに印袢纏をもらいます。いざ出陣!この段になって、はじめて“火振りかまくら”とは具体的にどうするものなのか全く知らない自分に気付きました。目の前の広場では、大の男たちが悠然と大きな火の玉を振りまわしています。まるで回転する独楽の中心のようにこともなげな顔。それに似合わぬ火の玉の大きさ。

「やらせてください」不安にもかかわらず声が出てしまい、若者からさっそく藁縄の先を握らされます。
「どうやるの?」
「今、火をつけますから、大きくゆっくり振り回してください」
「予行演習してもいい?」
といったものの、回そうとしても回らない。引き摺られる重さ。
「振り子のようにはずみをつけて回転させて」
「うわあっ!」
炭俵じゃない。自分の方が振り回されてぐるんぐるん回った。(あっ、ぶっ倒れる)。
「半分にしましょう」
息子くらいの若者は笑って、二重の炭俵を一生懸命ほどいてくれます。
「今度は軽くなりましたよ」
半分の重さの火振りかまくらを、半人前の自分が回す。青年の爽やかな笑顔に勇気づけられて、着火。

老人会で編んでくれた炭俵は、燃える、燃える。わたしはブランコのようにそれをゆさぶる。勢いで火の球は肩の高さに浮揚して回り出す。ぼおおッとも、ごおおッともわからぬ炎と風の音。群衆の声。すべてが渦巻く。自分も叫びながら雪国の濃紺の夜空と一体になった。

気づいたら、手にはなんにもない。豚のしっぽみたいな細い縄のはしきれだけ。

時間にすれば一、二分のことだったのか。
「よかったですね。できましたね」
「気持ちよかったヨウ」
若者は高校生かもしれない。なんという爽やかな笑顔だろう。見ればまだ目の前は、次々に着火して回し始める人でまばゆいほど。火振りかまくらが佳境に入って炎の中に浮かび上がる火照った顔、顔。

雪の積もった広場の夜空と命とが一体になる刹那が、すべての人につぎつぎに訪れています。命は火だ。私たちは空の下で火を運んでいる。そう思いました。

翌日、しずかな角館の武家屋敷の炉端で、古老の昔語りを聞きます。
「雪は田んぼの水だから、雪の少ない今年は天変地異だよ」
昔の火振りかまくらは、炭俵ではなく、米俵だったというのです。雪の上で虫除けのおまじないをし、今年の豊年を祈ったのだと。なんと簡明で美しい呪術的行為なのだろう、と思いました。

そこでやっと掲句です。攝津百句の中では地味な句で、あまり鑑賞されてこなかった句です。

今回は五七五を、上の句、中の句、下の句の三つのユニットにわけて読み解いてみます。

まず上五、「冬景の」冬は、どんな季節か改めて考えてみましょう。それは、生命の終熄としての死の季節であり、死から生への反転を期す忍従の季節である、といえないでしょうか。

そう考えたとき、現代は冬景を喪失した時代だと思わないではいられません。逆にいえば冬景を失った時代だからこそ、掲句が生きてくるのです。もちろん冬景を求めて秋田まで遠征した個人的理由の一つは、わたしが暖国静岡人であるからです。しかし、静岡ならずとも、現代の日本の都市生活からは、あらかた本当の冬景がぬけ落ちてしまったといえるのではないでしょうか。かろうじて、みちのくの奥深く、三方を山に、一方を日本海に囲まれた秋田の内陸部に、瀕死の冬景が生き残っている。そう感じたのもけして大げさではないでしょう。

もっとも“冬景の喪失”ではなく、“冬の精神文化の喪失”と言い換えた方がより適切かもしれません。現代日本にあるのは、口当たりのいい春、夏、秋のスリーシーズンで、本当の意味での冬も正月も、秋田内陸線鉄道ではありませんが、消滅の危機に瀕しているのではないでしょうか。

攝津は、雪の朝に生れたからというわけでもないでしょうが、厳とした冬を肚に据えていないような軽佻浮薄な俳句に対しては、じつは一線を画していました。

冬は、俳句という文芸の精神の背骨だとわたしは思います。

次に、中七、「うしろばかりを」をみましょう。うしろは背後です。じっさい前にある実利だけを追ってしゃかりきな人間というものがいます。欲得の計算づくで生きる名利につかわれた人間。明日には露になるかもしれないのに、味気ない生き方です。そうした俗世間の成功者からしたら、「うしろ」はなんの利益ももたらさない用なきところです。しかし、日本文学は、業平が「身をえうなきものに思ひなして」東下りしていったところから深まったともいえます。唐木順三の名著『無用者の系譜』に詳しいところです。

今朝の新聞の一面には「自殺者十一年連続三万人超」がゴチック見出しです。短期間の派遣労働と派遣切りは、現代の奴隷制度の再来のようでもあります。欲望の拡張こそが右肩上がり経済の源泉とばかり「消費は美徳」の空言にそそのかされてきたこの半世紀。とんでもない日本になってしまいました。うしろを忘れて、前しかない着せ替え人形のような日本に。生の快適さだけに価値を置き、死に思いを馳せることを止めてしまったとき、人間はある種動物化します。生のさなかに幾たびも訪れる“精神の死”に耐えきれなくなります。

すべてがしらじらと電気に照らされて目に見えているということは、何も見ていないことに等しいかもしれない。火振りかまくらが終わった出羽の闇の中でわたしは思いました。網膜に映し出されたものを世界だと信じ込んでしまう怖さ。身体を伴わない情報という表層水に押し流されていく日常の軽さ。

乳頭温泉の鶴の湯の露天風呂から仰いだ星々はまだまだうつくしいものでした。わたしたちは地球に生命の誕生する以前の宇宙の光にも照らされています。月は而今。星は一四〇億年の宇宙の源にまでさかのぼれる時間の宝庫。今昔の光が地球に降りそそぎ集っていることを、明るすぎる寒灯の下で忘れて、自己という檻に自分を閉じ込めて孤独をかこつ人間。しかし、檻から自己を解放したときにひろがる人間の「うしろ」は、限りなく広く、底なしのものだよと掲句はいっています。さびしさを通り過ぎた人の、深々とやさしい声が聞こえます。

さて、いよいよ下五、「天狗ゆく」です。この天狗は、見聞の狭いわたしが、かつて大井川の上流寸又峡温泉の山開きで見たそれとは、ずいぶんかけはなれたもののようです。

ちょうど角館の伝統工芸館の隅に天狗の面がかかっていました。説明書きにはこうあります。
「深山に棲息する想像上の怪物。人のかたちをし、顔は赤く花は高く翼があって神通力を持ち飛行自在で羽団扇をもつといわれている」。

朴歯の一枚下駄を履いた異形のものが、沈んだ灰色の雪原のはるかうしろを通ります。雪の田んぼで一人農作業している人。炉端で炭俵を編んでいる人。そしてふるさとの藁科川の苦しい産廃問題に、あとさきわからずわたしも取り組む時、はるかうしろを天狗が通ります。

天狗という人間を超えた異形の者は、目の前の仕事にむかって一生懸命にはたらく人間の祈りを受け止めて姿を自在に変えゆくようです。前という実利だけでは満たされないさびしい人間の魂に、無用のところにこそ豊饒の存在があることを大風のように示します。うしろのゆたかさとは、その人間の井戸の深さにほかなりません。天狗は、人生の実利や快適さだけを求め、冬景を求めることを知らない人には縁なきものです。それは、世間からはみだしたうしろの地平線に垂れこめる暗雲を払い、いつも悠々と歩いているのです。

〈冬景のうしろばかりを天狗ゆく〉―。賢明な読者はもうお気づきでしょう。この天狗は、そうです。“俳句”です。

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4 件のコメント:

高山れおな さんのコメント...

恩田侑布子様

「冬景のうしろばかりを天狗ゆく」は、どのあたりに載っているのだろうとふと気になり、久しぶりに『與野情話』を開いてみました。冬景の句は48頁、「その12」の章で見つけました。48~49頁の見開きに載る15句のうちでは、

真二つに別るゝ桃として会議
軍艦に送れて着きぬ赤き靴
仲秋の何処の秋に落球せん
冬鵙を引き摺るまでに澄む情事

の四句に、昔読んだ際の二重丸が付いています。今読むと、

烏賊にして花なりまつり満潮に

なんかも面白く感じられます。
『與野情話』はさほど好きな句集でもなかったのですが、恩田さんの一連の鑑賞を拝読するうちにイメージが変わりつつあります。

さんのコメント...

侑布子様のひさしぶりのしっとりした鑑賞文がかえってきました。野村麻実さんの感想をそろそろききたいところです。

これ、私もすきです。取り上げられた句が「天狗」・・しかも「冬景のうしろばかり」を過ぎゆく天狗、という摩訶不思議な光景。攝津さんの句は、どれも、なるほどいいあなあ・・、と思わせられますね。鑑賞者の思い入れも入り込んでいるからだとおもうのです。
今回は評者が「冬景」をさがしに、雪国に旅をされたとか。感じるところを血肉化されたわけですね。これも、感じ入って拝見。
侑布子様も雪の色のことを言っておられましたが、無彩色が、いちばん色の想像力をそそるものです。
雪景色の背後をかけぬける満面朱をたたえた「天狗」の怒り顔をめにうかべると・・・怪異でもありユーモラスでもあり、この取り合わせが奇抜でしかも、そう書かれるとよくきまっています。
  

匿名 さんのコメント...

高山さま、吟さま、怠け者の私にコメントありがとうございます。「輿野情話」は、最初に読んだ時に「なんて豊饒な世界なんだろう!!」という驚嘆があり、いまもって攝津さんの中で一番好きな句集です。
 「冬景のうしろ」は、20代後半の作品ですが、その精神の老成には驚倒させられます。
吟さんが「雪景色の背後をかけぬける満面朱をたたえた「天狗」の怒り顔をめにうかべると・・・怪異でもありユーモラスでもあり、この取り合わせが奇抜でしかも、そう書かれるとよくきまっています。」
とおっしゃるとおり、発想の奇抜、想像力の飛躍に、ちゃんと血が通っているところが攝津さんのすごさですね。恩田侑布子

さんのコメント...

侑布子様のまとめが、解読鑑賞の基本原則でしょうね。
「発想の奇抜、想像力の飛躍に、ちゃんと血が通っているところが攝津さんのすごさですね。恩田侑布子」

たしかにその通り。
こういうタイプの作品への鑑賞は、語るに落ちる絵解き、におわるおそれがありますね。仕掛けの多い攝津句には、その批評解析の腕のみせどころでしょうが、貴文は絵解きにおちいらずに文章自体を読ませる文学的エッセイをめざしておられ、「恩田侑布子の攝津俳句」、というスタイルが出来懸かっていますね。攝津俳句と同時にそれも鑑賞に値します。