―攝津幸彦百句[6]―
・・・恩田侑布子
二層 露地裏
閼伽水と紅梅つなぐ逢ひにゆく 6
⇒「閼伽水」に「あかみづ」とルビ『輿野情話』所収
まさかこんなところで、という出会いほどうれしいものはありません。鏡開きの日に、梅に出会うとは。山かげの一段低くなった茶畑の隅に、三本の小ぶりの梅の木があり、よく見ると、二本がもうほころんでいたのです。路の縁石から飛び降りて、花に頬を寄せたのはいうまでもありません。白梅の香は胸の底を濯いでくれます。まだ硬いつぼみは、紅の萼の中。膨らみ出した莟は、萼片にぽちぽちと点るまるい珠。開いた五弁の花は、精一杯翅をひろげ、数しれぬ雄蕊は、透明な黄色の葯を放射状に発し、小さな花火のよう。見上げると今日の空は、硝子板の底のような蒼さです。掲句には、人を恋うことの切なさの本質が書かれています。閼伽水は、死者に供える水。紅梅は、梅の中でもことのほか目を奪う艶麗な花です。「厄介や紅梅の咲き満ちたるは」と永田耕衣の句にあるように、現世的な女人、それも肉体をあざやかに想像させます。閼伽水と紅梅の映発は、あざやかすぎてせつなくなります。両者は切断されています。生と死によって。
それを「つなぐ逢ひにゆく」と、攝津はいうのです。逢うことの本質というのは、生者同士の中になく、じつは「閼伽水と紅梅」にあったのかと、虚を衝かれる思いがします。いったい「逢う」ということは何なのでしょうか。
思い出す古歌があります。
手にかをる水の水上たづぬれば花橘の影にぞ有ける
式子内親王
これはまたなんという色彩の省略でしょうか。消された色ゆえのうつくしさといっていいかもしれません。水の透明があくまでも保たれながら、過ぎにしゆかしい人の影が詠われています。うつつでは逢えないいにしえ人に、式子内親王は掬した水を介して逢っているのです。
逢いにゆくということは、日常では会えないものに逢いにゆくのです。掲句を『与野情話』の巻頭に置いた攝津の意思が、ここに見えてきます。
一句は「閼伽水」で始まっています。「紅梅と閼伽水つなぐ」ではありません。「閼伽水と紅梅つなぐ」です。この違いは大きい。閼伽水という死者の水がまず先にある。声を発することのできないもの、声を奪われた存在の方に、先に摂津は心を通わせたのです。目の前に咲き誇る紅梅よりも閼伽水がまずあり、声を奪われた閼伽水が紅梅に逢いに行こうとしているのです。死という言詮不及なものによって、愛するものと隔てられる人の世の営みのせつなさが薫ってくる句です。すでに死者となった攝津。その閼伽水から、こうして、いつでも攝津は逢いにきてくれているのです。
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1 件のコメント:
最初は何のことだかさっぱりわからなかったのですけれど、読み進むうちに理解できました!恩田様がいつも本当に感性豊かな読み解き方を教えてくださいますこと、感謝致しております。
私には色気が少ないのか、はたまた想い人に亡くなられた経験がないためか、(まだ人生経験が足りませんね)、句の髄まではわかりませんけれど、切なさはよくわかります。私にも会いたい大事な身内がたくさんおります。
亡くなってしまってからでは遅いのですよね。。。
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