2009年5月24日日曜日

青山茂根(無謀な一句鑑賞2)

虹は何処に
無謀な一句鑑賞

                       ・・・青山茂根

再び高柳重信作品について書きたくなった。webに触れたどこかの誰かが、或いはそうかもしれない、と心の奥で頷いてくれればいいだけの話なのだが。今回引用がかなり多いが、多少思いつきの補填をしたく、また若き重信に関する貴重な話もあるので掲載することにした。

身をそらす虹の
絶巓
     処刑台 
 高柳重信(『蕗子』)

先日出た『高柳重信読本』で、加藤郁乎氏の「皇道と俳道」の中に、

高柳重信は独自の皇道観を持っていた。(中略)さりながら、高柳重信を論ずる者の多くはいまなお十年一日のごとく多行形式に眼を奪われ、取って付けたようなエロティシズム論議なんぞに現を抜かしている。

とあるが、確かに私も掲句は初めて眼にしたときから、そのエロス云々の鑑賞とワンセットになっていて、初めて親鳥のかわりに人間を見た雛のごとく、そういう句なのだと頭の中に刷り込まれてしまっていた。

前回の句について考えているうちに、もしかしてこの句も、という思いが湧いてきて、同じ『重信読本』の作者自身による句解を読んでも、どこか腑に落ちないままだった。web上でひょっこり以下の記述に出会えて、わが意を得たり、と思えたのだ。

4 本人の言うことがいちばんあやしい

身をそらす虹の
絶巓
    処刑台

この句は、船長の句と並んで、若い頃の父の代表作だ。父自身が自解の一文を書いている。乱暴に要約すると、

「病気になってからは病院以外のすべての門が閉ざされ、俳句以外、人生のアリバイがなくなってしまった。そんな中で、なぜか目をつぶると浮かんでくる、バスケットボールのゴールを狙って構えている後ろ向きの少女の遠景があった。それは、僕を(ゴールの後ろにある扇形の板の形の)虹の頂上の首吊り台へ投げ上げようとしている予言だったのだ」

というようなことなのだが、私は釈然としない。この句については、「いやあ、聞かれるたびに違う答えを言いたくなる。本人の言うことが一番あやしい」と言うのを聞いたことがある。父はひじょうな照れ屋だったから、おうおうにして手の込んだとぼけかたをするのである。

この、父自身の解説文がウソだというわけではないが、これは作者が「一人目の読者」になる前のことを語っている。句を作ったときの状況を述べることは、子宮を語ることであって、赤ちゃんには言及していないのだ。人の人生が生後にはじまるように、句の解釈も句を出発点として考えなければいけないはずだ。
(戸田市郷土博物館企画展(2001.10.10~12.9)『重信展』図録より高柳蕗子「父の俳句」)http://www.h4.dion.ne.jp/~fuuhp/essay/titinohaiku.html

これは歌人であり重信の長女である高柳蕗子氏のサイトなのだが、先の読本にも掲載されていた重信の妹、美知子氏の文章がいくつか出ていて非常に興味深い。先の「皇道観」と関わる部分を以下に引く。

兄の蔵書は、こうした文学書の他に、部厚い歴史書がかなりありました。私には、あまりにむずかしくて歯が立たず、吉田松陰、藤田東湖、神皇正統記、平泉澄といった背表紙の文字を眺めるだけでした。他の文学書の多くは、戦災で灰になってしまったのですが、これらの書籍は、群馬の母の実家で、私たちと共に敗戦を迎えました。アメリカ軍の上陸に備えるのだといって、兄が、これらの本を大きな壷に入れて畑の中に埋める作業を黙々と行っていた のを覚えています。今にして思えば、あれらの書物は、すべて皇国史観に基づくものであったわけです。

若い日の兄のなかで、文学と皇国史観は、どのように交錯・共存していたのであったか、また戦後、それをどのようにとらえ直していったのか、大変、興味のあるところです。あるとき、吉田松陰の(らしい)教えを兄が毛筆で書写し、それを和綴じにしたものを、何気なく開いてみたところ、一番最初に目に飛びこんできたのは、兄自身の血でしたためた誓詞と高柳重信の署名の文字でした。血書、血判というものを私が目の当りにしたのは、後にも先にも、この兄のだけです。(太字引用者)
(高柳美知子「思い出すことなど 3」 初出は「夢幻航海」に連載されたものとのこと)

太字にした部分、血書・血判を作るのも凄いが、加藤氏の記述と関連するものであり、先の戦争という悲劇を改めて感じずにはいられない。こういった、一般市民の皇道観を利用して、軍部が天皇をマリオネット化し、軍備拡張を進めたために戦争の泥沼化を招いたのだろうと私は思っているが、重信より数年後に生まれた世代は、考え方がまた違っていたようなのだ。前回の記事のコメント欄で述べた、児童文学者佐藤さとる氏の発言から引く。

(旧制中学)5年生の2学期から川崎にあった日清製粉鶴見工場に勤労動員で行っていたんです。 半夜勤とか夜勤があって、昼間は割とぶらぶらする時間があった。 桜木町の駅前広場を4、5人で空っ風に吹かれて歩きながら、あんまり大きな声じゃ言えない時期なんですけど、「戦争が終わったら何をする?」という話をして、僕は「童話を書く」と言ったんです。
(横浜・有隣堂書店発行の「有鄰」平成17年7月10日/第452号掲載の座談会から)

また、佐藤さとる氏と生年が同じ岡井隆氏もこう言っている。

中村稔さんがお書きになったのを見てもわかるし、ぼくは十七歳で戦争が終わったからそういうことはひっかかってこなかったけど、みんな何を考えていたかというと、兵隊に行かないようにするにはどうしたらいいかってことなんですよ。黙っているけどみんな考えているのはそれなんです。だから理系に行ったほうがいいとか、文系はやばいとか。そういうことをみんな考えていて、でも口に出すと非国民になるから言わない。
(『塚本邦雄の宇宙』座談会より)

佐藤さとる氏は幼時を横須賀で育っている。父親は真珠湾攻撃にも参加した海軍機関少佐であり(余談だがアララギ派の歌人でもあり、ハワイ攻撃時の歌が、『アララギ』の昭和17年2月号の巻頭となっている)、昭和17年のミッドウェー海戦で航空母艦「蒼龍[(そうりゅう)」に乗っていて撃沈され亡くなった。しかしその著作から、随筆や自伝的小説からも皇道観らしきものは微塵も感じられない。

重信より数年上の世代、塚本邦雄なども反戦歌の一方戦後脈々と皇道観を持ち続けた人物だと思うのだが、重信が敗戦後も「壷に入れて畑の中に埋め」てまで守りたかった(敗戦時、教科書などのそういった記述は墨を塗ったし、各家庭にあった書物は庭で焼いた場合がほとんど)皇道観、皇国史観というものが、やはりその俳句を読む鍵になるのではないか。

また、以下の部分にも注目した。

兄重信が、この大塚伸町五五番地の横町の子どもたちの間でどのようであったかを、弟分としていつも行動を共にしていた隣家のアーちゃん(いとこの中島昭)は、つぎのように誇っています。

「・・・・・・余り腕力が強くなかった重信さんは、子供仲間の、遊びの創りの名人、演出者、そして参謀長として君臨していました。ですから五五番地の子供達は、よその子供達とは一味違った重信式遊びを持っていました。
(中略)

また重信さんは、本物で遊ぶことが好きな兄貴でした。弓矢遊びには本式の弓矢を使い、藁をたばねた的を造って遊びました。手には革ひもがついた手袋をはめ、矢の番え方や正式な作法も教えてくれました。(中略)

重信さんは、物凄い物知り博士で、今でいうシミュレーションゲームを創ることも上手でした。日本海軍とロシア海軍の全艦隊をボール紙細工で精密に建造しました。軍艦の型は勿論のこと艦名や排水量、大砲の大きさや数まで克明に知っていて、畳の上に日本海海戦を再現してあそびました。

重信さんの探究心と根気を物語る一つに見事な昆虫標本がありました。二階にあった四畳半の勉強部屋にはガラス窓がついた標本箱が山のように積んであり、昆虫採集用の小道具が沢山ありました。とんぼや蝶類のほかに、てんとう虫だけでも何十種と採集して、その一つ一つに日本名と学術名がきちんと記入してありました。」
(『いまひとたびの―高柳市良・芳野・重信追悼遺稿文集』より)

(中略)ついでに弟の年雄が記した部分もぬきだしてみましょう。

「兄はよく二階の八畳の部屋に海軍図鑑から縮尺した軍艦をボール紙を切って沢山作り、有名なジェットランド海戦の正確な海図を見て並べ、部屋の隅でじっと眺めていました。僕の日には八畳の部屋が大きな海に見えました。思えばそれは、大きな詩の海だったのです。今でも二階の八畳の海は僕の頭の中にやきついています。」
(高柳美知子「思い出すことなど 2」)

文中に出てくる、『いまひとたびの』については、以下の蕗子氏の記述がある。

文中に出てくる「いまひとたびの」は、父の一周忌に配った小冊子です。

父の葬儀にはたくさんの俳人にご参列いただき、また、著名な俳人の方々から立派な弔辞もいただきました。その後は雑誌で追悼特集が組まれ、さらにたくさんの方々が、父について書いてくださいました。遺族にはそれがほこらしく、とてもうれしいことでした。が、心のどこかに、これでは「俳人 高柳重信」だけだなあ、という気持ちがわいてきてしまいました。

「ねえ、一周忌のときには、ちょっとは家族パワーを見せようよ!」

と、叔母と相談して作った小冊子が「いまひとたびの」です。父の一周忌は、祖母の三回忌、祖父の七回忌だったかなにかで、祖父祖母の思い出もあわせて、高柳家追悼特集号(?)みたいなものになりました。
(高柳蕗子「思い出すことなど 7」)

俳人の方にもこれは配られたようなのだが、どこかに残っているのだろうか。私が無知なだけかもしれないが、俳句文学館か国会図書館に所蔵するのかどうか怪しい。ご存知の方は教えてほしい。

で、かなり脱線したように見えるが、重信の冒頭の句である。蕗子氏の「本人のいうことがいちばんあやしい」にもあるように、バスケットゴール等は記憶の中から掘り出しての後付けと思える。しかし、その中に重要なキーワードが隠されているように、私は思った。「ゴールの後ろにある扇形の板の形の」の扇形だ。「虹の/絶巓」の形状としても、そこに何かがあるのでは、と終日ぼんやり全く関係のない本をめくっていた。既に何度も目を通した、サン・テグジュベリの処女作『南方郵便機』の中に、

「・・・扇形編隊で、中心機は・・・」

という一文にはっとした。「虹の/絶巓」とは、「扇形編隊」のことではないのか。全くの突拍子もない思いつきで、飛躍しすぎかもしれないが、テグジュベリのこの著作は1927年に書かれたもので、内容は郵便を運ぶ単独飛行の話だが、テグジュベリ自身、先の大戦末期に北アフリカのアルジェで解放戦線に参加し、偵察飛行中に行方不明となっている。ナチスの戦闘機隊に遭遇し、撃沈されたと見られているだけに、時代的な関連を感じる。

ここからはあまりその方面に私は詳しくないので、教えていただきたいのだが、太平洋戦争末期、戦艦大和・武蔵の最後は、扇形編隊の雷撃機による攻撃が致命傷だったはず。

「身をそらす」とは、現われた敵の機影を艦上からふりあおぐ仕草であり、「虹の/絶巓」とは扇形編隊を組みまさに急降下に移ろうとする先頭の敵機、そして波上攻撃を受ける艦上は「処刑台」のごとき惨状を呈する。この句はそのようにして南の海に沈んだ帝国海軍最後の戦艦への、鎮魂歌だったのではないだろうか。

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