2009年5月10日日曜日

閑中俳句日記(06)

閑中俳句日記(06)
西川徹郎句集『月山山系』


                       ・・・関 悦史

『藤田湘子全句集』が出たらしいので西川徹郎を思い出した。

普通およそ結びつく名前ではなく、連想の経路が個人的に過ぎて何のことやらわかるまいが、確か十年以上も前のこと、新宿のとある百貨店の古本市で、この「俳句」と呼ばれる領域の両極端のような二人の句集がたまたま同じ値段で出てきたことがあったのだ。

当時は私は俳句はほとんど作っておらず、海外文学や現代詩と横並びで俳句も、ある強度を持った異様さを現出させるテクストとして読者として読む一方だったので、この時は限られた予算のなかから、それこそ夢野久作あたりの綺想や熱っぽさと同列に読めてしまう西川徹郎の方だけを買って帰ったのだった。湘子の本も読むようになったのは、自分でも作り始めてから先の話である。

『月山山系』は西川徹郎の第8句集で1992年書肆茜屋刊。

俳句としてはあまり例がないが各句の右に前書きや注記ではなく、ゴシック体で「題」が付けられている。あとがきには作品に夫々題を付したのは、書くべき主題を喪失した現代の俳句に対する私の細やかな反意であり、犯意でもある。一題一句の作品も多々収録したが、同時に又、一題五句、十句、乃至一題百四十句等の可能性への試みも収録した」とある。

   月山山系
抽斗の中の月山山系へ行きて帰らず

わあわあと月山越える喉の肉

野道で死んでいる月山を喉に入れ

陰唇も桔梗も月山越えて行くか

オルガンを月山へ当て打ち壊す

蓮の葉より月山山系へ足懸ける

   遺書
姉さんの遺書抽斗の中の萩月夜

多螢という僧来て遺書を書き足すなり

これが開巻冒頭の二連で、この辺で早くも性・死・身体・家族・時空や因果のねじれによる内界幻想といった主な要素が大体登場している。


   舌
喉を出て行く舌が地蔵に訣れを告げる

舌の国では舌が法衣を着て歩く

   オムレツ
晩夏とはいえオムレツを象と思い込む

「喉を出て」の句、地蔵に訣れを告げて他界へ出て行く「舌」が、活字となって身を離れ自分の統制の及ばぬものとなっていく自作を暗喩的に身体感覚に結びつけた句とも取れるが、続く「法衣」の句でその悲痛なシーンが諧謔に転じてしまう。オムレツの句ともどもユーモラスなシーンもたまにある。


   竹
ときどき叫び竹屋は竹になっている

眠らぬうちに身体に竹が生えてくる

   魚屋
死なぬために魚屋は不意に身をよじる

   麦刈り
麦刈りの手つきで死者を刈り尽くす

麦刈りの手つきで魔羅を刈り尽くす

麦刈りの手つきで父を刈り尽くす

麦刈りの手つきで姉を刈り尽くす

この辺りから同じ形の反覆による爆発の気配が徐々に立ちのぼりはじめる。


   飛騨
鯉のからだのなかの奥飛騨を訪ねる

奥飛騨を呑みつつ鯉は戦ぐなり

少しずつ死ぬ奥飛騨を呑み込み鯉は

奥飛騨は波立つ瀕死の馬の腸

奥飛騨の秋津を僧と思い込む

うねる寺寺飛騨の秋津の眼の中を

   星座
抽斗の中の緑の星座を覗き見る

   箒星
石棺を掃く人箒星を掴み

   青蓮Ⅱ
沼へ帰る青蓮少年を横抱きに

少年を逆さまに咥え青蓮は

少年を呑み込む青蓮の喉の肉

   紅蓮
水中へ少年を引き込む紅蓮は

   自転車
きゃあきゃあと旅立つ白髪の自転車で

白髪生えた自転車を漕ぎ消えかかる

白いきれで自転車をぐるぐる巻きに

繃帯の自転車を父と思い込む

「自転車」の一連、この親密な見立ては通常の俳句のそれとはやや違い、幼時の一人遊びの記憶から引き上げてきたような雰囲気があり、妙に懐かしく慕わしい。


   東の寺
きゃあきゃあと鯖裂く東の寺がある

   秋津の国
抽斗の中の秋津の国へ迷い込む

秋津の国の秋津を刺身にして食べる

秋津の国の秋津が郵便局襲う

秋津の国の秋津へ訣れの手紙書く

秋津の国の秋津を佛教書に挿む

秋津の国の秋津辞典を乱売す

秋津の国の秋津辞典を読みあさる

秋津の国の秋津酒場へ死にに行く

秋津の国の秋津を切手として使う

秋津の国の郵便局で秋津売られ

「秋津の国」は全部で25句。
「秋津」はトンボの古名で、広辞苑によると、神武天皇が大和国の山上から国見をして「蜻蛉の臀呫(となめ)の如し」と言ったという伝説から「秋津島」は大和・本州・日本国を指す。「秋津の国」はそのトンボと日本両方の意味を併せもちつつ、そのどちらでもない狭間から現われる非在の内部世界だろうか。郵便局を襲ったり、かと思うと訣れの手紙を書かれる恋人のようなものになったり、さらにはその手紙に貼られる切手になってしまったりと、ただのトンボとは思えぬ傍若無人な変身と纏わりぶりで秋津は生と死と言語(「辞典」)と国家制度(民営化前の「郵便局」)を飛びめぐり攪拌する。

そしてこの「秋津の国」を序章のような位置に置き、集中の圧巻「月夜ゆえ」の氾濫が始まるのだ。「秋津の国」では刺身にして食べられたり、佛教書に挿まれたりと目的格にもなって、おそらく人間であろう語り手とも関わってその主格を生成させたりもしていた秋津だが、ここでは語り手はもはやほとんど秋津の奔流をただ報告するのみにまで後退する。


   月夜ゆえ
月夜ゆえ秋津の国へ死にに行く

月夜ゆえ寺の中じゅう秋津です

月夜ゆえ学校の中じゅう秋津です

月夜ゆえ寺の中じゅう秋津です

月夜ゆえ病院の中じゅう秋津です


どこまでも続く反覆自体に意味があるので全句そのまま並べたいところなのだが、この連作は全部で145句ほどあり、さすがに引いているときりがないので適当に端折ると、以下秋津はこの調子で「公民館」「裁判所」「税務署」「薬屋」「酒屋」「郵便局」「水道局」「駅」「家」に次々と溢れかえり、「家」の中に入り込んで「佛間」「厠」「抽斗」「箪笥」を満たす。


月夜ゆえ押入れの中じゅう秋津

月夜ゆえ物置の中じゅう秋津

月夜ゆえ屋根裏さえも秋津です

月夜ゆえ犬小屋さえも秋津です

月夜ゆえ鶏小屋さえも秋津です

月夜ゆえ口の中じゅう秋津です

ついに身体に入り込んだ。この句を皮切りに「耳」「胃袋」「腸の中さえ」「膣の中さえ」「子宮の中さえ」「陰唇さえも」と女性の各臓器に入り込んで秋津は「瞼に潜り込」み「布団に潜り込む」。

ここから秋津は男性の内部に取って返して「睾丸に食らい付」き、「陰茎を襲」い、「鏡地獄の」「受験地獄の」となり、「鏡部落を飛」び、「心筋に食らい付」き、「顔に刺さ」り、「肺に刺さ」り、「胎盤」と「肛門」と「肝臓」と「腎臓」と「膀胱」と「卵巣」に「刺さり込」み、「ハーモニカを吹」き、「カスタネットとな」り「琵琶弾き狂」い、「木魚を叩」き、「半鐘乱打」し、「経読み狂」い、「オルガン叩」き、「手風琴弾きにな」り、「経蔵の中」「佛胎の中」に満ち、「腸」「心臓」「胎盤」「肛門」「肝臓」「腎臓」「膀胱」「卵管」が「見え」、「卵巣」が「脹ら」み、「便箋」「封筒」「筆入れ」を満たして「黒板に棲」み、「教壇襲」い、「教会」と「議事堂」と「都議会」を襲い、「海軍とな」り、「空軍とな」り、「歩兵」「ヘリコプタァー」にまでなり、「教員室」「体育館」「図書館」とまた学校施設を満たした後今度は病院へ向かって「霊安室」「看護婦寮」を満たして「婦長の夢」「院長の夢」にまで入り込み、「患者の夢の果て」を「翔」んで、「和尚の夢の果て」も「翔」んで」、「司教の机に棲」み、ここから町へ出たのか「床屋」と「喫茶店」と「売春宿」を満たして「娼婦」や「人買い人」にも「怖れ」られ、「回転ドアとな」り、「ホテルのベルマンとな」り、汽車に侵入して「食堂車」「汽車」、さらには「霊柩バス」「棺の中」「火葬場の中」まで満たし、あろうことか「遺児に紛れ」、「僧侶に紛れ」、人の身辺に関心が移ったか死者の記憶に入り込んだか「靴」と「鞄」と「重箱」と「弁当箱」と「鏡台の中」に溢れこんで、「鏡の国へ死にに行」き、それも「羽ばたき死にに行」き、「叫びつつ」「死にに行」き、ここで一句だけ「秋津」という主格が消えてしまって何とも知れぬ空無が「はればれ死者になりすま」し、「はればれ秋津になりすま」しとなると主格はもう「秋津」ではないのかそれとも「秋津」になりすましている自己言及的なズレを愉しんでいる秋津なのか何ともわからなくなって、このなんともわからないものに「はればれ死にに行きましょう」と誘われ、再び「秋津」の主語が復活して「生きて帰って来」るのだから死んでいる間は「秋津」も「秋津」ではないらしいと思っていると、この帰って来た秋津が「ガラス戸叩」き、「刃物を振り回」し、「家の中」で「暴」れ、「畑で暴れ」、「公民館」と「酒場」で「暴れ」て、警察から奪い取りでもしたのか暴れている側なのに「警棒振る」い、「牢を逃げ出」し、「逃げ場失」い、「死に場」も失って「死につつ生きる」という宙吊り状態に陥り、奔騰氾濫する一方だった秋津がここで回心したのか「鐘撞きに来」て「経読み耽」り、かと思ったらやはり本性は欺けなかったというか業が断ち切れなかったというべきかここでも「塔を引きずり」、「寺屋根壊す」という狼藉に及び、さらには「塔になりすま」し、「十字架になりすま」し、「墓標」と「死人」と「火葬夫」の全部になりすまし、見送る側、見送られる側全部になりすまして葬送を無効化し、さらには「市民」と「村人」にもなりすますという形で日常世界に帰ってきてしまって「秋津三匹殺しあ」い、「秋津二匹が口淫」し、「秋津一匹兇ろしき」と死と性を踏み越えて一個体に集約されて孤独を味わい、再び狼藉三昧、「村人の陰」を「食らい」、「村人を呑み込み」、「市民を食べ始め」、「ヤクザへ斬りかか」り、「小指を噛み千切」り、「剃刀となって」ようやく一応落ち着き、ここで一行「*」が入って

月夜ゆえ秋津轟き眠られず

となり、これで「月夜ゆえ」の一連がようやく終わる。
最後の句で突然主格が秋津に悩まされる人間の側に立ち戻ったとも見えるが、述語論理の怖さで眠れないでいる主格が人なのか秋津なのかは見定め難い。地獄のような秋津の暴威を内界に持った人とも秋津とも分離されきっていない不即不離の宙吊り状態、非人称性そのものが不眠に苛まれているとも取れる。レヴィナスの「イリヤ」という非人称の「存在(ある)」自体を指す概念が、およそ安眠とは遠かったであろうユダヤ人捕虜収容所での体験から出てきたとされていることを連想する。

句集自体はまだこれで終わりではなくて、次に「秋津Ⅰ」「秋津Ⅱ」という作品が出てくる。

   秋津Ⅰより
秋津に跨がり月山山系へ

酢ヲ撒イテ山ノ秋津ト戦イオリ

酢醤油ニ漬ケテ秋津ヲ食ベナサイ

鳥籠トナッタ秋津ガ庭ニ居ル

   秋津Ⅱより
両手拡げたまま死ぬ広場秋津がいっぱい

死んだまま空を流されている秋津

といった作が並ぶ。相変わらず不埒なようだが「月夜にて」の大爆発を経たせいか、秋津との関わりにも緩やかさが漂っている。


   
喚くゆえ箒で鳥を掃き落とす

地の底の鳥が羽ばたき揺れる家


この辺りから一題につき一句のページが増える。


   月の家
父を咥えた鯉戦ぎおり月の家

   鯉Ⅱ
繃帯で巻かれた鯉が戦ぐなり

   月の渓
鏡屋を二軒通って月の渓

   楓
楓となったまま白髪の姉は吹かれ

   白髪の姉
塔頂で逢う白髪の姉と山神は

   秋降る雪
白髪の姉を秋降る雪と思い込む

終盤の句は沈潜した美しさ。
「月夜ゆえ」等に顕著だが、西川徹郎の連作は一句一句独立の形でよりもまとまった形で読み通したときに威力を発揮するものが多い。未完に終わった国枝史郎の伝奇長篇『神州纐纈城』の終盤に業病が空気感染で奔馬のように拡がっていくシーンがあったのではなかったかと思うが、それにも似た破滅的奔騰の賑わいがある。一句一句には意外に謎がないのかもしれないが、個人的無意識は理性による説得が不能な無限の反覆でもある。そのいわば小我に徹底的に寄りそうことでそのまま無限性へ開けようとする試みと見える。
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5 件のコメント:

さんのコメント...

うーん。鮮やかな解析ですね。
しかも、『神州纐纈城』で、締めくくるとは。これは、私の往年の愛読書でした。

西川さんも充分面白いですが、たばねてしまうと、行間で遊べなくてちょっと苦手です。
でも、徹郎節というか、植物的に繁茂するあの文体はすごいと思う。

「未完に終わった国枝史郎の伝奇長篇『神州纐纈城』の終盤に業病が空気感染で奔馬のように拡がっていくシーンがあったのではなかったかと思うが、それにも似た破滅的奔騰の賑わいがある。一句一句には意外に謎がないのかもしれないが、個人的無意識は理性による説得が不能な無限の反覆でもある。そのいわば小我に徹底的に寄りそうことでそのまま無限性へ開けようとする試みと見える。」(関さん)
これなんか、おさえておられますね。

関悦史 さんのコメント...

吟さんが国枝史郎愛読者とは思いませんでした。
こっち方向に話が広がると、手元にある他の本(『八ヶ嶽の魔神』とか)まで思い出して読みたくなってしまうのでまた困るのですが。

5000句入っているらしい『銀河小学校』は一度パラパラ見たことがあるだけで未見なのですが、「たばね」られ方が段々すごくなっている気がしますね。
一般読者として読む分には面白いのですが、俳人目線で読むとなかなか大変となる作家なのでしょう。

さんのコメント...

あまり話を拡げないようにしようね(笑)。
神州纐纈城・「奇譚小説」の面白さですね。

空気感染というか、病気の武将が、
人間の血で、それも板締めで染めた深紅の覆面をしていてそれ視ただけで人が死ぬ、とかいうすごい魔的な設定が出てくるでしょう?違った?
この話が、荒唐無稽の面白さを呼ぶのは、
今で言うと、新型インフルエンザウイルスの蔓延についての、人間の驚くほどの無防備なうろたえぶり、と似ていますね。。突然文明を攪乱してくる自然の悪意が象徴されているようです。
正体がわかるまで、こういう見えぬ伝播が恐怖感をあたえるのです。

俳句もこういうのないかしら、とどこかで期待していたら、貴下が西川さんの世界をアナロジーされたのでおもしろかったです。(彼には私としてははあんまりそういう恐怖は感じないのですが)、むしろ安井さんの俳句は、奔放なところとすこしこわいところがにています。
この小説から視たばあいの話で、西川徹郎の句から発想したものではありませんが。

関悦史 さんのコメント...

吟さま

結局読み返してしまいましたよ、『神州纐纈城』。
中学生のときに読んで以来なので、塚原卜伝など登場することすら忘れていましたが、こんな高密度なものよく読んでいたなと自分で感心しました。

で、感染経路なのですが、正しくは接触感染だったのですね、あれ。

急に里心がついた纐纈城主が信玄治下の甲府に舞い戻り、たまたま通りかかった花嫁行列に祝福を与えるつもりで手を触れたらたちまち感染、その花嫁に触れた人間にもすぐにうつって皆見る見るうちに全身ボロボロになっていく(ただし死なない)。

ただその病原である纐纈城主が、これはもうどんな「重病」であろうが無理であろうという、「火柱」と称される神出鬼没・捕獲不能な謎の発光物体と化し、ほとんど「UFO」か「プラズマ現象」かといった機動力を得て城下に出没しまくってそれで感染が広がるので、その印象が混在していたようです。

城主の仮面が外れると顔を視た者が死ぬという描写も何度かありましたが、これはどうも感染と関係ないショック死のようでした。

昔読んだときにはさほど怖いという印象はなかったのですが、造顔術師の女がいちいち口で説明しながら人の顔を変えるシーンなど、なかなか迫力がありましたね。
話の筋道の繁茂ぶりから「マインドマッピング」を連想しました。
(もう俳句と全く関係ない話になってきましたが)

さんのコメント...

想い出した想い出した。おもしろかったなあ。あれ。花嫁にさわるんですよね。ホントに「奔馬性」というような名前を冠した病名があるかのようにリアルでした。「奇譚」ではなくて「伝奇小説」っていいますね、グロテスク(洞穴的)を地で行く怪奇譚だった。山田風太郎に継がれていなすね、これ。作家って奇妙なことを考えてしまう人種ですね。
(・・と話を、俳句の外へ拡げる(笑い)。このはなしは、俳句から入って俳句を出る爽快さがありました。関さん、西川さん、ありがとう。)