2009年4月26日日曜日

閑中俳句日記(4)

閑中俳句日記(04)
結城昌治『定本 歳月』、藤沢周平『藤沢周平句集』


                       ・・・関 悦史

このところ昔の娯楽小説ばかり読んでいることもあって、小説家の句集2点から句を抄出してみた。

ひとつは結城昌治の『定本 歳月』で、これは三一書房版『俳句の現在別巻Ⅰ』(昭和62年)に収められている。もうひとつは『藤沢周平句集』で文藝春秋から平成11年に刊行されている。どちらも庶民目線の作家で、どちらも結核による療養生活の経験者である。

結城昌治は昭和24年(1949年)、22歳を迎えて間もなく清瀬の国立東京療養所に入った。隣の病室に石田波郷がいて、その影響で句作に熱中。『歳月』はその4年間(昭和24~27年)の作、及び長い中断を挟んで句作を再開した昭和53年の作を収めている。

三一書房の『俳句の現在別巻Ⅰ』に安東次男、塚本邦雄と併せて句が収録されることになった際、『歳月』の元版(昭和54年・未来工房刊)186句に「懐旧の情に耐へかね」て編入してしまった76句を作者が削除し『定本 歳月』とした。

枯原を出るまでうしろ振り向かず

  石田波郷さん退所送別会
みな寒き顔かも病室賑
(にぎは)へど

  E子さん逝く
チューリップ咲ききつて鉢乾きをり

寒き顔映れる水を飲み干しぬ

四五人に見られて猫の恋烈し

いぬふぐり病者らはみな尻小さし

病み呆けて大根に花を咲かせけり
  「患者らは給食の不足を補ふため、窓際の空地を利用してさまざまな野菜をつくつてゐた。」
の左註あり。

春愁や都電に深く腰を下ろし
  「体力が回復すると、たまには外泊を許されて帰宅した。大抵一泊か二泊で、また療養所へ戻るのである。」
の左註あり。

通夜の灯に梅雨寒き下駄揃へ脱ぐ

病者群れて蛇殺せるを見てゐたり

入院生活は暇なもので椿事があれば動ける者は寄り集まる。無為と身体苦に呆けつつの閉塞のなかならではの一時の賑わいで、眺めているときの心境は心境ともいえないような、あるいは死の想念という月並みなもの自体が蛇の形をとって身代わりに殺されているのを見て身軽になるような、軽躁を伴いつつも妙に白々としたものだったのではあるまいか。

短夜の白むより咳こぼし合ふ

  ふたたび胸郭成形手術
汗の肋
(あばら)の波うつを見つめられてゐき

絢爛たるダリア仰げり喘ぎては

身体苦のさなかにあっては外界全てが同時に苦しい。ダリアが見えればダリアが痛い。

耀(かがや)きて驟雨に落つる蝶見たり

体温計舌にはさみて秋の暮

凍死者に朝の太陽躍り出づ

凍死者を覆ひて筵
(むしろ)丈を余す

  「上野駅の地下道などに浮浪者や戦災孤児が多勢たむろして、凍死者も珍しくなかった。」
との左註がつく。この凍死者の二句はどちらも昭和26年の作(いまこれを打ち込むのに「とうししゃ」と打って出てきた変換候補は「投資者」だけであった)。

緑蔭に置かれて空の乳母車

秋の夜のどこまでついてくる犬ぞ

犬穴を掘るを見てをりふところ手

降る雪に降られをり当てもなく出でて

雁立つとゆふべ満員電車の中

着ぶくれて訥弁の老詐欺師かな

春愁の渡れば長き葛西橋

傍聴人なき法廷に西日せり

結城昌治は一時期東京地検で事務職に就いていた。この前後の句はその頃の暮らしから。

驟雨来(く)と乞食もつとも急ぎけり

馬糞
(ばふん)蝶と呼ばれ追はるることもなし

  「その名のとほり、見るからにきたない小さな蝶が信濃追分にゐた。」
の左註あり。

鉛筆を削りしまでの初仕事

啓蟄
(けいちつ)や戦後の意識いつ消ゆる

幾百の蟻を跣
(はだし)で踏みつぶす

鰯雲つくねんと仰ぎゐたりけり

鼻歌の調子外れし寒さかな

以下は結城昌治「四季」40句から。
「四季」は『歳月』以後の近作を春夏秋冬10句ずつ計40句にまとめたもので、『俳句の現在別巻Ⅰ』(1987年 三一書房)が編まれる際追加された。

ものの芽に先立ちてまた逝かれけり

椿落つたびの波紋を見てをりぬ

倒木のなほ光れるは芽ぶくなり

  病中(二句)
桃咲けば桃色に死が匂ひけり

死神が行つたり来たり風光る

情うすくして金魚飼ふ女かな

パレットの色を泉へながしけり

振り向けば犬も振り向き秋の風

秋の灯に何を乞食の立ち話

  福永武彦氏を悼む
桔梗一輪置かれし胸のうすきかな

秋の蚊に刺されしといふ耳に触る

いわし雲どこへ行くにも手ぶらにて

指させば満月かかる指の先

色づかぬままの落葉も焚かれけり

目覚ましの電池切れゐし寒さかな

降る雪に気づかざりしを老いといふか

       *       *       *

以下は『藤沢周平句集』からになる。
藤沢周平は昭和28年(1953年)春から昭和31年(1956年)春までの3年間、静岡の俳誌「海坂」の会員になっていた。主宰は百合山羽公・相生垣瓜人。藤沢周平の時代小説の舞台となる架空の藩「海坂藩」はここから採られた(この俳誌「海坂」は現存していて、先日出たばかりの「俳句界」5月号の160頁に紹介記事が載っている)。

大氷柱崩るゝ音す星明り

聖書借り來し畑道や春の虹

蠛蠓
(まくなぎ)や小さき町が灯を點す

百合の香に嘔吐す熱のゆゑならめ

肌痩せて死火山立てり暮の秋

冬の夜の軒を獸巡るらし

軒を出て狗寒月に照らされる

これは師匠の百合山羽公に褒められた句で、藤沢周平は地方の講演などで色紙を頼まれるとこればかり書いていたそうだ。他に「桐の花踏み葬列が通るなり」等の句も巻頭になったことがあるのだが、一時の心境の句で色紙に書くには向かないとも。

春水のほとりいつまで泣く子かも

虹明るし山椒魚を掬ふ子ら

藪じらみ拂ひ獨りの試歩終る

日の砂洲の獸骨白し秋の川

枯野生れ枯野の町となりにけり

汝が去るは正しと言ひて地に咳くも

父あらぬ童唄へり冬虹に

雛祭る夜の静かに曇りをり

故郷には母古雛を祭るらむ

石蹴りに飽けば春月昇りをり

夏の月遠き太鼓の澄むばかり

こがね蟲面を逸れし鋭さよ

野をわれを霙うつなり打たれゆく

閑古啼くこゝは金峰の麓村


藤沢周平はこの句集の前書きで自然詠を好むと言っているが、本人の作は自然詠といっても自分の中に予めある気分や情調を形象化したものが多く、「寒鴉啼きやめば四方の雪の音」「落葉松の木の芽を雨后の月照らす」といった字余りや動詞多用を整理したくなる言いすぎ気味の句もあれば、「秋の野のこゝも露草霧ふくむ」のような季語が幾つも入っている句もある。藤沢周平といえば大衆小説としては切り詰めた無駄のない文体の持ち主という印象があったが、散文と俳句とでは自ずと生理が別になる。言いたいこと、描きたいイメージを吐きつくしてから先が自然詠の本領で、客観写生という方法はその消尽を早めるためのものでもあるのだろうが、結城昌治も藤沢周平もそこまで深入りはしておらず、自己を外界に投影する関係が句作を通じて変化したという形跡はあまり見られない。またそこまで入り込んでしまったら、本業である小説のストーリーテリングが出来なくなっていた可能性もある。

結城昌治…1927年2月5日生まれ、1996年1月24日没。小説家・推理作家。ハードボイルド、ユーモアミステリの先駆者。『夜の終る時』で日本推理作家協会賞、『軍旗はためく下に』で直木賞、『終着駅』で吉川英治文学賞受賞。

藤沢周平…1927年12月26日生まれ、1997年1月26日没。時代小説作家。「暗殺の年輪」で直木賞、『白き瓶』で吉川英治文学賞、『市塵』で芸術選奨文部大臣賞受賞、菊池寛賞。

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