2009年5月31日日曜日

「船団」女子十句集

嗚呼、新型インフルエンザ
「船団」女子十句集を読む


                       ・・・高山れおな

本稿を書きつつある五月三十日土曜日には、ほんとうは京都の佛教大学四条センターで開催される「船団の会2009年初夏の集い」に参加するはずだった。まず、「女うた・男うた」のテーマで歌人の道浦母都子と「船団」代表の坪内稔典が対談し、そのあと「船団」の塩見恵介の司会のもと、同じく「船団」の三宅やよい、「鷹」の高柳克弘、高山という顔ぶれでシンポジウムが行われることになっていた。それが、こんどの新型インフルエンザ騒ぎのせいで延期になったのである。シンポジウムのお題は「百年後の俳句」というなかなか無謀なもので、どうすんのよ、と頭を抱えたのであった。ぼちぼち開き直りの覚悟が定まってきたあたりで延期の通知が来て、拍子抜けしたような、ほっとしたような按配。しかし、中止ではなくあくまで延期で、秋頃には捲土重来ということらしいから、お題についてはせいぜい考えておくことにしたい。

シンポジウムの成否については見当もつかないながら、夜は京都に泊まって「船団」の人たちはもちろん「豈」の関西同人とも交歓しようと思っていたところがこうなってしまった。かわりにといってはなんだが、「船団」の方々から頂戴した句集がずいぶんあるので、それを読んでみよう。と、そんな腹づもりでいたら、向こうでも考えることは一緒らしい。「船団」のホームページ「e船団」の俳句鑑賞コーナーで、くだんの塩見恵介が拙句を紹介してくれている(*1)。五月三十日付の「日刊この一句」の以下が全文。全文コピーはまずいのかもしれないが、短文ではあるし、鑑賞の対象が拙句なのだからして、そこは御海容を請いたい。

鬼は外姉と外です吊忍    (季語/吊忍)
     高山れおな
「鬼は外」って、別に夏でもいい?「鬼は外」と「姉と外にいる(私)」、家の軒先の吊忍の鮮やかな青。混乱・混沌・倒錯した世界だが、リズムで読めば、何となく分かった気になりそう、かも。鬼がうようよいる外で、美しい姉といる草食系の弟はボディガードがつとまる?吊忍のように地に足付いてないよ。とも読めるし、姉と外歩きをする、ちょっとした非日常の冒険的要素をコミカルに読むことも出来そうだ。今日の句は『ウルトラ』新装版(沖積舎 2008年)より。本日、お会いする予定だった関係から、著者より頂いた。深謝。今日の初夏の集いのシンポジウムを楽しみにされていた方々から多くのメールを頂いている。100年後の俳句は意外に興味深いテーマだったのだと改めて実感。高山氏には、いつの日か、必ずお目にかかって、お話を伺いたい。(塩見恵介)

この鑑賞を読んで評者は、シンポジウムの難題とは別な意味で、うーん、と頭を抱えたのであった。ここで俎上に乗っているのは評者の第一句集の句であるが、じつは塩見は三月十四日付の「日刊この一句」でも評者の第二句集『荒東雑詩』の方に載っている〈龍天に昇るがごとき着メロが〉という句を取り上げてくれている。大変ありがたいことながら、その文中に〈正直、この句集、ほとんどが意味を超えて、安易な理解を拒絶している。その中で、この句はとてもわかりやすい世界だ。〉とあるのに、いささか不安を感じはしたのである。「龍天に」の句が「とてもわかりやすい」のはその通りとして、『荒東雑詩』の句の「ほとんどが意味を超えて、安易な理解を拒絶している」などとは、ずいぶん驚いた話である。意味をなさないような句が皆無でないとしても、あの句集はベタベタの意味筋で作られた作品がほとんどで、よほど保守的でステロタイプな俳句観に凝り固まっているのでなければ、総じてわかりやすい句集だと思う。実際、関悦史や山口優夢が、ごく穏当に的確に読んでくれている(*2)

「鬼は外」の句について、意図したような読み方をされなくて臍を曲げているというわけではない。なにしろ作ったことも忘れていた大昔の句だ。ただ、ちょっとびっくりしたのは確か。〈「鬼は外」って、別に夏でもいい?〉とひょうげたことを塩見は言っているが、いいわけがない。「吊忍」によって季が夏に定められているのだから、この「鬼は外」は節分の掛け声ではあり得ない。季節は夏ですよ、節分の豆まきしているわけではありませんよという、「吊忍」のメタ・メッセージを見落とすから、読みの全体が滅茶苦茶になるのである。メタ・メッセージとは何かということについては、塩見とはご近所になる神戸女学院大学の内田樹先生が、その高名なるブログの五月二十五日付の記事(*3)でご説明になっておられるから参照されたい(五月二十六日の記事でも触れている。それからもっとずっと以前にも同様の話題の記事があった)。

〈リズムで読めば、何となく分かった気になりそう〉というのもいかがなものか。ほんとうにリズムで読んだのなら「鬼は外」「姉と外です」がリフレインになっていること、つまり「鬼は外です、姉と外です」=「鬼は姉と外です」と言っているにすぎないのは明らかであろう。〈「鬼は外」と「姉と外にいる(私)」〉などという日本語を無理やり捻じ曲げたような解釈をする必要はない。「鬼は外」というから節分の話かと思えば、文脈があらぬ方向へずれてゆくというのが、この句の面白みといえば面白みであろう。面白くない、あざといと反撥する人も当然いるはずで、そもそも現在の評者自身があまり好感していない。しかし、そうした価値判断以前に、言葉の意味の読み取りの次元で、クリアせねばならぬ水準というものはあるはずだ。作品は読み手が完成させるというような流行りの言説は、そこから先の話であって、読み手に恣意が許されるということではない。じつのところ拙句の鑑賞の場合に限らず、「日刊この一句」における塩見の文章はそうとう荒っぽい。見ていると、読者サービスに意識が走りすぎて、眼前の句をそれが書かれている通りに読むという基礎作業がおろそかになっているような印象を受ける。

前置が長くなった。「船団」会員の句集を読むのだった。机の上に積み上げると圧倒的に女性のものが多い。どうせだから今回は、再読のものも含め、女性の本ばかりを十冊読んで、それぞれに十句選を掲げる。掲出は、刊行の順による。

中原幸子句集『以上、西陣から』(*4)
冷素麺まっすぐに上げ世紀末
十三夜わたし降ろして空のバス
小三ツ星初めて会って声が好き
ひょい、ということが大好きおでん煮る
鍋ぴかぴかむかしヨットに乗ったこと
ザ噴水やるときはやるときもある
お隣の上に大きな春の月
シンバルはぴかぴかジャーン春の昼
ジューンドロップ何かことこと煮てみたき
ふわっふわ蟻あげる子ともらう子と

三句目の「小三ツ星」は、オリオンの「三つ星」の下側に暗く光っている三連星をいうらしい。歳時記のオリオンの傍題にも「小三ツ星」までは載っていないようだが(手元の大歳時記を二つ見ただけなので、載っているものもあるかもしれない)、もちろん冬の季語として問題ないだろう。

印の付いた句は四十句近くあって、さらに好みのままに絞ったら上のようになった。「初めて会って声が好き」というのは誰でもそんな経験はあると思うが、わざわざこんなふうに句にするところに、人好きらしい作り手の人柄がにじむ。「小三ツ星」の斡旋も心憎い。三つ星だけでなく、暗い小三ツ星までがよく見えるほどに空気の澄んだ夜であることが示されると共に、こまやかなところまでよく届く視線(心理的なものも含め)の持ち主であることを感じさせる。とりあえず「好き」なのは「声」だと言っているのも、考えてみれば、抑制された前向きさというものだろう。

句集全体を通して、オノマトペや取り合わせの巧妙さに舌を巻いた。その言語的パフォーマンス能力の高さの一方で、作り手の自意識や内面性のようなものはあまり感じられない。掲出十句のうちでは、二句目にかすかにそれが感じられる程度か。もちろんこの場合それでよいわけで、〈シンバルはぴかぴかジャーン春の昼〉のような身も蓋もない一句から、なにかわくわくするようなポエジーが立ち上がってしまうところが、俳句定型の強みなのだと思う。無防備なのに隙がない、ある意味、完璧な俳句ではないだろうか。なお、中原幸子は一九三八年生まれ、大阪府在住。『以上、西陣から』は第二句集とのこと。

三宅やよい句集『駱駝のあくび』(*5)
まひるまの桜さくらにふれている
ポケットの底はみずいろ朝桜
春雨が都会の犀を明るくす
れんげほど冷たき銀座に招かれる
軽々と母をだまして陽炎えり
蜜豆を食べたからだに触れてみて
ナイターのみんなで船に乗るみたい
パレードのアヒルがうつるサングラス
夏の夜の象に乗りたし池袋
玄関の向こうへ虹を吐く金魚

三宅やよいが、中原とは異なる自意識の人であることは、掲げた十句だけからでも容易に見て取れるはずだ。三宅は、三橋鷹女の足跡をたどるエッセイを「船団」に連載していたが(*6)、きっかけは何にせよ、他の誰でもない鷹女について書くことになったところに、三宅の資質があるのだろう。

一句目「まひるまの」や九句目「夏の夜の」などを典型として、目には見えないもの、普通には感じることができないが感性をチューンナップすれば感じ取れるかもしれないもの、そうした指し示し難い感覚的な何かに向けて、言葉による触手を延ばそうとするのが三宅の俳句のように思った。あるいはむしろ、一見平穏な相貌のうちに、何事かに耐えている俳句と見るべきだろうか。〈冬ざれの電車に轢かれてもみたき〉なるただならぬ内容の句もあって、十句のうちにこそ採らなかったが、このあたりに三宅の感性の最もナマな部分がある気がする。もしそれがほんとうなら、〈ナイターのみんなで船に乗るみたい〉のような句にも、共同性への没入の悦びというよりむしろ、「みんな」が乗っている「船」に乗りきれずにいる意識のありようをこそ見るべきかも知れない。三宅やよいは一九五五年生まれ、東京都在住。『駱駝のあくび』は第二句集。

藤田亜未『海鳴り』(*7)
夏みかん味方が敵に変わる時
ハーブティ足を組み替え夏を待つ
夏の星シャンプーの泡ふわふわわ
髪洗う腕の白くて午前二時
ターコイズ色の髪どめ夏に入る
空の下ズンタカタッタとすすむ夏
彗星の降ってきた日や胡桃割る
崩されて崩されたくて秋麗
三月の外科医まばたき多かりし
石ころもころころ木の芽風吹いた

中原と三宅の句集は、普通の四六判のハードカヴァー上製本であったが、ここからの七冊は揃って新書サイズのソフトカヴァー並製本。版元は、一冊がふらんす堂であるのを除いて松山の創風社出版である。いずれも第一句集。

藤田亜未の『海鳴り』は、正直言って十句選ぶのにも苦労した。こうして選んでみたものの、ほんとうに佳いと言えるのは一句目だけではなかろうか。三句目に「ふわふわわ」という表現が出てくるが、中原幸子の句にあった「ふわっふわ」とは、同じようなオノマトペでも一句の内部における鮮度の点で格段の差がある。俳句ってこの程度のものでしょう、こんな感じでいいんでしょう、という高を括った意識が句集全体を覆っている。無記名互選の句会ならいざ知らず、句集ともなるとそうした作者の存念の程も丸見えになるから、もう少し頑張った方がいいと思う。藤田亜未は一九八五年生まれ、大阪府在住。

薮ノ内君代句集『風のなぎさ』(*8)
ちょっと行く城南宮へうぐいすへ
つくしんぼ地球のてっぺんにいる感じ
母さんが父さん叱る豆ごはん
家中をシンプルにして若葉風
夕立のだんだんオーケストラ気分
コスモスやだまってゆれて遊んでいる
つれだって歩くのが好き柿の空
あのねって話したくなる野菊道
冬晴れの百年前を散歩する
ごみ箱を洗って干してあっ風花

俳句が作者の生活にとって、豊な彩りになっていることが、ごくストレートに作品の上に反映されている。少々まぶしく、気恥ずかしいほどだ。全体の水準が高いとは思わないが、二句目や四句目のように、はっとさせられるような面白い表現がある。薮ノ内君代は一九五三年生まれ、京都府在住。

鈴木みのり句集『ブラックホール』(*9)
スキップで引っ込む子役壬生狂言
籠り居の豚カツ揚げて春の雲
みつ豆のぷるんぷるんと雨上がる
金魚一匹自転車に乗って来た
木枯一号飼猫を首に巻く
つばくろの巣の八つある商店街
ポット沸くジューン・ブライドの控室
海の日をネクタイ青く出勤す
熱燗やレシピ聞く単身赴任
冬銀河パンツのゴムを替えている

句集の帯には、〈近所に住む鈴木みのりは、律儀このうえない主婦です。ところが、この律儀なみのりの俳句が、このうえないほどにおかしくて楽しいのですよ。〉云々と、坪内稔典の推薦文が記されている。これに引っ張られたわけでもあるまいが、これまで紹介した四人、さらにこれから紹介する五人に比べても、格段に生活臭の強い句が並んだようだ。健全な、あるいは健全すぎる生活者の日常が、的確に詠まれた句に魅かれた。鈴木みのりは一九四九年生まれ、大阪府在住。

朝倉晴美句集『宇宙の旅』(*10)
立春大吉鼻をかむこと教えてる
春の港区干したオムツは帆船だ
桜散る妊婦はみんなエスパーだ
樟若葉落葉松若葉抱かれたい
赤ちゃんの匂い蚊取線香の匂い
新涼に僕もあの子も澄んでいる
秋夜中カレー混ぜるとき裸
ククヲヨムコエガコガラシヨンデクル
行く秋に太もも絡めてみたりする
冬のふくろう赤ちゃんたちと交信中

妊娠や子育てを詠んだ句が多くなった。実際、それが句集の芯になっているからだ。巻末の作者プロフィールによると、中学・高校で国語を教えており、〈昨春、娘三歳を機に教職に復帰。〉とある。坪内の作例がいろいろあるためだろう、「赤ちゃん」とか「赤ん坊」という言葉は「船団」の人たちの愛用語のひとつになっているようだ。朝倉も師のひそみに倣ってはいるのだろうが、さすがに直近の実体験に基づいた表現であることの強みが感じられる。四句目「樟若葉」、八句目「ククヲヨム」など、リズム感に冴えたところを見せる句もある。十句目、「ふくろう」を「赤ちゃんたちと交信」する存在だと捉えるのは魅力的だけど、「梟」はもともと冬の季語なのだから、「冬のふくろう」はまずかろう。「昼のふくろう」とか、何か別の語を持ってくるべきだった。朝倉晴美は一九六九年生まれ、兵庫県在住。

中谷仁美句集『どすこい』(*11)
ふらここも吊り革もぐらぐらぐらと
立夏なら五両目あたりに乗ってます
雨祈る今度の恋は不戦勝
夏雲をそっと誘ってフエラムネ
枯木道元素記号を引き連れて
ハシビロコウも吾も隠せよ青芦原
ハシビロコウ的に秋茄子食う人よ
着ぶくれてハシビロコウのように立つ
どすこいとハシビロコウと夏雲と
四股踏んで蜻蛉生まれて琴光喜

感想は藤田亜未の場合とだいたい同じ。恋の句が非常に多いのだが、まさにその恋の句がよくないのが苦しい。それらの恋の句、おおかたは、女性雑誌のキャッチコピー風フレーズと季語を取り合わせて一丁あがり、という調子で作られている。三句目に引いた「雨祈る」の句なんかもまさにそれである。紋切り型を逆手にとるだけの批評性があるわけではなく、完全に紋切り型に乗ってしまっているのが問題だろう。五句目の〈枯木道元素記号を引き連れて〉など好きな句もある。諸星大二郎の漫画にこういうイメージがあったのを思い出した。六句目から九句目に登場するハシビロコウは、アフリカ原産の大型の鳥で、作者はハシビロコウと琴光喜を偏愛しているらしい。中谷仁美は一九七九年生まれ、兵庫県在住。

中居由美句集『白鳥クラブ』(*12)
春愁もヤクルト一本分くらい
一人ずつ主婦しまわれる花の家
藻の花や手ぶらで歩く朝の町
ばったりと楠本さんに会う泉
看板を下ろす相談夏の月
銀漢やこれは帽子を入れる箱
月白にヨハンシュトラウスのたまご
ひとつずつ月のボタンをかけてゆく
賛美歌のきれいな文語樗の実
ル・クルーゼ火にかけ冬の旅支度

「ヤクルト」「ル・クルーゼ」といった商品名が気張らずに詠み込まれているのは、〈花冷えのイカリソースに恋慕せよ〉〈春の坂丸大ハムが泣いている〉と詠んだ人の弟子にふさわしい。二句目の「主婦しまわれる」といった表現にうかがえるかすかな屈折感も好ましい。一方で、七句目「月白に」、八句目「ひとつずつ」のような幻想的な世界にも遊んでいて、詠み口に幅がある。中居由美は一九五八年生まれ、愛媛県在住。

三好万美句集『満ち潮』(*13)
二百十日ひとりでバスに乗っている
寒卵むかしおとこに鱗あり
六月のこれは神社の木の匂い
夏空のような大皿買いにけり
台風とサーカス団と北上す
感情線葉脈となる夏隣
おこりんぼほっぺたにふる雪ふわふわ
二番目に好きな人です心太
どうしても寒い小指がついてくる
グラジオラスフリルをもって生まれたる

他に、〈さくらさくらはやく昔になればいい〉という句があった。なかなか素敵だけど、久世光彦の小説のタイトル(『早く昔になればいい』)をそのまま取り込んだもので、やや手柄に乏しいかと思って十句のうちには採らなかった。その点、三句目「六月の」は、坪内稔典の〈鈴木さんあなたは九月の木の匂い〉の換骨奪胎であろうが、原句から充分離れているし、原句より自然な仕上がりと言ってよいかも知れない。四句目「夏空の」や五句目「台風と」に見られるように、言葉遣いが伸びやかで、感性のスケールの大きい作者だと思った。八句目「二番目に」や十句目「グラジオラス」のように、諧謔味にも欠けていない。三好万美は一九七〇年生まれ、愛媛県在住。

ふけとしこ句集『インコに肩を』(*14)
泣き腫らす目蓋のやうに春の山
昔からこの花影に立つてゐた
目覚めれば霧の流れてここが生家
秋の日や火山の活きてゐて静か
山鳩の歩く音枯れすすむ音
明易し小樽に船の名を読んで
秋天や抱へて運べさうな島
鶺鴒の谷陶片の散らばつて
梟に後向かれてより寒し
雲に掻き傷竜天に登りしか
銀やんま風引いてくる押してゆく
馬追がゐるから壁に日があたる
そこらぢゆう錆びて元湯や青芒
半身の痺るる木かも紅葉して
痛点のそこらぢゆうある桜かな
枯れ切つて高三郎が呼び止める
  ⇒「高三郎=キク科」と左注
妬心なら夕張メロンの色ぐらい
帰らねば雛が灯りを待つてゐる
春の夜や朽ちてゆくとは匂ふこと
麦熟るる頃線香の深緑

ふけとしこは一九四六年生まれ、大阪府在住。『インコに肩を』は、『鎌の刃』『真鍮』『伝言』に続く第四句集。五月十五日刊だから、まだ出版されたばかりである。これまで紹介した九人が坪内稔典との出会いを機に俳句をはじめた人たち、要するに坪内の弟子であるのに対して、ふけはもともと「カリヨン」主宰の市村究一郎に師事しており、「船団」所属といっても坪内との関係は客分に近いのではないかと想像する。三橋敏雄の弟子である池田澄子が「船団」に在籍しているのと、同じような立場なのではないかしら。

それはともかく、「馬酔木」系の師のもとで鍛えられただけあって、これまで紹介した九人の「船団」風の詠みぶりとは異なる、オーソドックスで熟練した作風を見せる。他の人たちがすべて現代仮名遣いだったのに対してこの人ひとりは歴史的仮名遣いで書いており、表記からして「船団」主流とは一線を画している。句集の数の多さからもうかがえるように、表現意欲の強さはずば抜けている。十句選ではもったいないので、この句集だけは二十句選とした。ちなみに、本書の帯には坪内稔典による「抄出十句」が掲げられているが、評者が選んだ二十句と重なるのは〈明易し小樽に船の名を読んで〉のみ。それだけこの句集に佳句が多いということか、坪内か評者どちらかの選句眼にひどい偏向があるのか、あるいは俳句の選というのは結局そんなものなのか。

〈帰らねば雛が灯りを待つてゐる〉のような純然たる主観句の場合はもちろん、〈鶺鴒の谷陶片の散らばつて〉など描写型の句でも、作者の主観の浸透圧は高く、情感の濃い句がならぶ。「船団」の俳句は一般に人事への関心が勝っているのに対して、ふけの思いは主に自然に向けられ、自然に沈潜しようとする傾きが強い。「鳥たち」「生き物たち」「虫がゐる」「木よ草よ」といった章題が立てられていることでもわかるように、動植物についての知識にも分厚いものがあるようだ。しかもそれは、単なる知識・観照にとどまってはおらず、〈春の夜や朽ちてゆくとは匂ふこと〉あたりに典型的に示されていると思うのだが、“あちら側”へのほとんど全身的な没入というか、自己滅却の衝迫をすら抱え込んでいるように感じられて、これは本物の俳人の迫力だと思った。

◆上に紹介した十句集は、全て著者より贈呈を受けました。記して感謝いたします。


(*1)「e船団」/「日刊この一句」五月三十日付
http://sendan.kaisya.co.jp/ikku.html
(*2)山口優夢ブログ「そらはなないろ」 二〇〇八年十月二十四日の記事
http://blog.goo.ne.jp/y-yuumu/e/2f12b22f1e6088c3bd4003b8b328daee
関悦史ブログ「閑中俳句日記(別館)」 二〇〇八年十一月一日の記事
http://kanchu-haiku.typepad.jp/blog/2008/11/post-eead.html
(*3)「内田樹の研究室」
http://blog.tatsuru.com/2009/05/25_1458.php
(*4)中原幸子句集『以上、西陣から』 ふらんす堂

二〇〇六年七月七日刊
(*5)三宅やよい句集『駱駝のあくび』 ふらんす堂

二〇〇七年一月二十四日刊
(*6)三宅やよい「鷹女への旅」は、その後、「週刊俳句」第七十五号から第九十二号に転載された。
http://weekly-haiku.blogspot.com/
(*7)藤田亜未句集『海鳴り』 創風社出版

二〇〇七年十一月三十日刊
(*8)薮ノ内君代句集『風のなぎさ』 創風社出版

二〇〇七年十二月二十五日刊
(*9)鈴木みのり句集『ブラックホール』 ふらんす堂

二〇〇八年一月十九日刊
(*10)朝倉晴美句集『宇宙の旅』 創風社出版

二〇〇八年二月二十六日刊
(*11)中谷仁美句集『どすこい』 創風社出版

二〇〇八年八月十四日刊
(*12)中居由美句集『白鳥クラブ』 創風社出版

二〇〇九年二月十七日刊
(*13)三好万美句集『満ち潮』 創風社出版

二〇〇九年三月十二日刊
(*14)ふけとしこ句集『インコに肩を』 本阿弥書店

二〇〇九年五月十五日刊

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4 件のコメント:

さんのコメント...

れおなさん。京都に来られる予定だったのですか?
またの機会をこころまちしておきます、毎週どこかでなにかの集まりがありますが、なんとか逢える段取りしたかったなあ。ホントに、お忙しいですね。吟

高山れおな さんのコメント...

吟様

京都は時々行っておりますよ。無論、俳句ではなく仕事ですが。今週末も日帰りの予定。「船団」の集いは九月にやるようです。ではでは。

さんのコメント...

日帰りとは気忙しいですね。今週末は、特に集まりはありませんが、まず私個人なら夕方京都駅珈琲か夕食ぐらいには、出られそうです、でもそれは無理に今回でなくとも、ということでそのうちメールします。私も一度ゆっくりれおなさんとはなしてみたいのですが。

ところで、ラヌー氏のことで気がついたのですが、海外の俳句関係の意識はずいぶんひろがっていますね。しかもかなり本格的に。湊さんなどのやくわり大きいかな、と思いました。吟

高山れおな さんのコメント...

堀本吟様

海外の俳句関係の意識が広がっているというのはどうなのでしょうか。かなり怪しいと思いますよ。拙稿では穏やかに書きましたが、今でも彼らの俳句に関する知識は、芭蕉・一茶どまりなのではないかと疑わしく思っております。ラヌー氏の日本語力もどのくらいのものなのでしょう。彼の一茶の翻訳というのも、例えば小生が、辞書をひきひきキーツやワーズワースを翻訳するようなものかも知れません。外国人の俳句への関心なるものは、基本的にエキゾチズムの範疇に収まるものと思っていれば大過ないものと存じます。ドゥーグル・リンズィーやマブソン青眼、アーサー・ビナードのように日本に住んでいるような人はまた違いますが。湊さんは別として、海外の俳句のことを言い立てたがる人たちの底意を見落とさないことです。あんまり期待しないのがよろしいでしょう。