2009年6月28日日曜日

第45号


第45号

2009年6月28日発行

夢の気配 『夏至』を読む

          ・・・山口優夢   →読む

「村人」的時間

―廣瀬直人『風の音』を読む

          ・・・岡村知昭   →読む

春の庭、薔薇の谷
金子兜太句集『日常』を読む

          ・・・高山れおな   →読む

遷子を読む

〔14〕鏡見て別のわれ見る寒さかな

・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井   →読む

「俳句空間」№15(1990.12発行)〈特集・平成百人一句鑑賞〉に纏わるあれこれ(10)

田川飛旅子「草の絮一本足を立てて降る」

          ・・・大井恒行   →読む

俳句九十九折(41)

俳人ファイル ⅩⅩⅩⅢ 篠原梵

          ・・・冨田拓也   →読む


あとがき           →読む

豈同人の出版物      →読む

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あとがき(第45号)

あとがき(第45号)


■高山れおな

山口優夢さんは、正木ゆう子句集『夏至』について書いてくださいました。それ自体としてとても面白いですが、『夏至』という句集に対してどれくらい忠実な読みをほどこしているのかはわかりません。なぜならまだ『夏至』を読めていないので。すみません正木さん。なぜまだ読めていないかについては、拙稿に状況説明あり。

冨田拓也さん「俳人ファイル」は、篠原梵。意外に最近まで生きていたことに驚きました。この人の行程も、俳人としての一典型であるなと、しばし思い入れ。

「遷子を読む」は、秋桜子没後の継承にからむ「馬酔木」の分裂騒ぎについて、筑紫磐井さんによる解説あり。興味津々で読んでいたら、新着の「鷹」は、四十五周年記念号ということで、結社の未来を占う特集を組んでいます。評論あり、座談会あり、対談あり、かなりの充実ぶり。中で、軽舟主宰の巻頭言に、湘子先生が亡くなったら「鷹」は早晩分裂するだろうと言われていたがそうはならなかったという一節あり。難しい一時期を乗り切った手応え、まずは責任を果たした誇り、そういうものを感じての言葉なのだろうと思いました。大変なことですよ、ほんと。

大井恒行さんの連載は「陸」を創刊主催した田川飛旅子。今井聖さんの『ライク・ア・ローリングストーン 俳句少年漂流記』に、印象的な横顔を見せていたのを思い出しました。そうしましたら、現「陸」主宰の中川和弘さんから『現代俳句文庫65 中村和弘句集』が送られてきました。またしてもシンクロニティです。



■中村安伸

初投稿の岡村知昭さんは関西在住の豈同人で、実験的な作風が印象的です。

ただし岡村さんが記事のテーマとしてとりあげたのは、蛇笏賞を受賞した廣瀬直人句集『風の音』という非常に堅実なもので、多少意外な気もしました。もちろん内容もしっかりした読み応えのあるものです。今後、ひきつづいてのご寄稿を期待しております。


俳句九十九折(41) 俳人ファイル ⅩⅩⅩⅢ 篠原梵・・・冨田拓也

俳句九十九折(41)
俳人ファイル ⅩⅩⅩⅢ 篠原梵

                       ・・・冨田拓也

篠原梵 15句


ゆふぐれと雪あかりとが本の上

葉桜の中の無数の空さわぐ

東京灯りぬ金魚のごとき雲を泛べ

冬日の車窓(まど)に朱きあかるき耳持つ人々

冬の雨崎のかたちの中に降る

しやぼん玉底にも小さき太陽持つ

いづくより雪かぶり来し貨車すれちがふ

夕焼に手を挙げしごとき冬木ならぶ

蟻の列しづかに蝶をうかべたる

空蟬に雨水たまり透きとほる

さきをゆく人との間に蝶絶えず

水筒に清水しづかに入りのぼる

秋風の波とかぎりなくすれちがふ

誰か咳きわがゆく闇の奥をゆく

海のはて夕焼けてゐる海がある



略年譜

篠原梵(しのはら ぼん)

明治43年(1910) 伊予に生まれる

昭和6年(1931) 「石楠」に入会

昭和14年(1939)「俳句研究」8月号で座談会「新しい俳句の課題」に中村草田男、加藤楸邨、石田波郷とともに出席

昭和16年(1941) 句集『皿』

昭和28年(1953) 句集『雨』

昭和29年(1954)から昭和49年(1974)まで、ほぼ句作中断

昭和49年(1974) 全句集『年々去来の花』

昭和50年(1975) 逝去(65歳)



A 今回は篠原梵を取り上げます。

B 臼田亜浪の弟子ということになりますね。

A 篠原梵は、明治43年(1910)に愛媛県の伊予で生まれました。

B 松山時代に亜浪門下の川本臥風の指導で俳句をはじめ、昭和6年(1931)になると亜浪の「石楠」に入会しています。

A 割合若いころから俳句をはじめたということになりますね。

B その後、昭和16年(1941)に第1句集として『皿』を刊行しています。

A この時、年齢的には篠原梵は、大体30歳くらいということになります。

B そして、およそ12年後の昭和28年(1953)には、第2句集『雨』を刊行しています。

A その後、長く句作の中断期間があり、昭和49年(1974)になって、自ら全句集として『年々去来の花』を纏め、上梓しています。

B そして、その翌年の昭和50年に、65歳で逝去ということになるわけですね。

A しかしながら、この作者の存在については、現在においては、割合有名であるのか、それとも、さほど有名でもないのか、いまひとつよくわからないところがあります。

B そうですね。私としてはこの作者の存在については、割合有名な存在であるとずっと思っていたのですが、今回様々な資料に目を通してみても、思った以上にこの篠原梵について記述されたものが少ないので意外な感じを受けました。それらの中でも重要なものと思われるのは、

・小室善弘 「俳句における新感覚―篠原梵」 『俳人たちの近代』(2002 本阿弥書店)所収(初出『俳壇』2000年8月号)

・小西昭夫 「もう一人の人間探求派 篠原梵の俳句」(一)(二) 『船団』47号(2000年12月)、48号(2001年3月)

くらいでしょうか。他にも重要な評論の存在があるのかもしれませんが、私の管見に触れた限りにでは、一応これだけということになります。

A では、篠原梵の作品について見てゆきましょう。

B まずは、第1句集の『皿』の作品を見てゆくことにしたいと思います。

A この句集は先程にも触れたとおり、昭和16年に刊行されたもので、篠原梵が大体30歳の頃に出版された句集ということになります。

B ということで、年齢的には随分と若いころにおける作品ということになるはずですね。

A おそらくその作品の多くが、20代の頃の作品ということになると思われます。

B この時期の篠原梵については〈昭和十年代から二十年代にかけて俳句道に精進していた人々は、ぼくが、ここに篠原梵と書いただけで、ああ、あの非凡な俳句作家かとすぐに思い出されたことであろう。同門のはるか後輩であるぼくなどには、当時の篠原梵氏は太陽のように眩しくいかめしい存在であつた〉(油布五線 『俳句』昭和50年3月号)、〈青春性の香り高い、初々しい初期の句風は、当時の驚異でもあったし、その高い資質が注目された。〉(島崎千秋 『日本の詩歌 30 俳句集』中央公論)という記述が確認できます。

A  こうみると、当時の篠原梵の存在というものは、割合有名なものであったようですね。

B この句集『皿』の時代背景についてすこし見ておきたいのですが、時期的には、昭和6年に水原秋櫻子が「ホトトギス」を離脱、前期の新興俳句の流れが生まれ、その後の後期新興俳句運動が盛んとなる時期と重なるということになりそうです。

A そのような状況の中で、昭和14年には『俳句研究』8月号において、山本健吉が新興俳句に対するかたちで、座談会「新しい俳句の課題」を企画し、中村草田男、加藤楸邨、石田波郷とともに篠原梵を出席させることになります。

B この座談会を契機として「人間探求派」という名称が生まれるわけですね。

A しかしながら、この『皿』における篠原梵の作品を見てみると、果たして篠原梵の作品というものは単純に「人間探求派」のものであるということができるのかどうか、やや疑問に思うようなところがありました。

B ただ、そもそも「人間探求派」という呼称自体が、はじめから随分無理があるというか、非常に大雑把でやや粗忽なものであるという側面もありますね。

A 確かに、波郷、楸邨、草田男、梵ですから、本来的にはそれぞれの作風というものは、単純にひとつに括ってしまえるほど安易な性質のものではないということはいえるでしょうね。

B さて、篠原梵の『皿』の作について見てゆきたいのですが、まず冒頭に「子」という題で47句もの連作ともいえる作品がいきなり掲載されています。

A 一応、内容的には「吾子俳句」ということになりますね。

B 「吾子俳句」ということで自分の子供がテーマとなるわけですから、テーマとしては一応「人間探求派」の範疇に納まると言っていいようなところもあります。

A その作品の一部を引いてみると〈寒き燈にみどり児の眼は埴輪の眼〉〈鳴き了る蟬のごと吾子寝入りつつ〉〈掌の中に吾子の手雀の子のごとし〉〈春隣吾子の微笑の日々あたらし〉〈汗ばみし手のひらの音畳這ふ〉〈胸の中にのけぞり吾子の風鈴もとむ〉〈幌蚊帳の花の中吾子の寝顔うかぶ〉といった感じの句がみられます。

B 「埴輪の眼」「蟬のごと」「吾子の手雀の子のごとし」「手のひらの音畳這ふ」といったあたりの作品における表現は、よく見ると「吾子俳句」としてはやや異質なものであるといってもいいようなところがありますね。

A 小室善弘さんも、評論「俳句における新感覚―篠原梵」において〈巷間にある赤子俳句、吾子俳句のように、父性愛の表現といったものをポエジーの核心にしていない。自分の見つけ出した事実そのものを端的に示すことで、詩が成立している。愛情や感情で染め上げることは極力抑えられ、目を見ても、手足やその動き、かたちをながめても、それを客観的な「もの」としてとらえている。〉と指摘しておられます。

B この「子」47句には、さきほどの〈春隣吾子の微笑の日々あたらし〉〈幌蚊帳の花の中吾子の寝顔うかぶ〉などといった作品に「父性愛の表現」が窺えるところもありますが、基本的には篠原梵の作品というものは、この「吾子俳句」のみならず、様々な対象を「もの」として把握するという手法が、その基底をなしているようです。

A 『皿』の「子」47句の一群の次に登場するのは、「丸ノ内界隈」という25句ですが、これらの作品である〈ドアにわれ青葉と映り廻りけり〉〈ワイシヤツの袖たくし上げし一人なり〉〈扇風機の薄透く大き円真上〉〈扇風機の筒なす風の中にあり〉〈扇風機の音正しくそれてゆきねむし〉〈どの窓か返す冬日に射られ行く〉といった作品を見ても「もの」に即した手法が取られているのがわかります。

B このような「もの」に即した句作法というのは、どう考えても、単純に山口誓子からの影響を受けたものであるとしか思えないところがありますね。

A 確かに、時代的なものを考えても、そうであるとしか思えませんね。

B 山口誓子といえば、昭和初期に「ホトトギス」の雑詠欄において注目を浴び、昭和7年に第1句集『凍港』、昭和10年には『黄旗』、昭和13年には『炎昼』を刊行し、「ホトトギス」から出て「馬酔木」に参加、作品としては〈七月の青嶺まぢかく溶鉱炉〉〈スケート場沃度丁幾の壜がある〉〈ラグビーのジヤケツちぎれて闘へる〉〈夏草に汽缶車の車輪来て止まる〉〈手袋の十本の指を深く組めり〉〈夏の河赤き鉄鎖のはし浸る〉といった句があります。

A また、これらの篠原梵の作品の多くが「連作」の形態を取っているところも、やはり誓子からの影響であるとしか思えません。

B 「連作」の手法は当時における流行でもあったそうです。

A しかしながら、このようにみると、篠原梵という作者は、亜浪門の作者であったわけですが、前期新興俳句の、特に山口誓子の手法を強く意識し影響を受けていたということになるようですね。

B 連作の中には無季の句の存在も見られますし、「丸ノ内界隈」という一連の作については、それこそ都市の生活の中における俳句であり、モダニズムに近い俳句ということになります。

A 亜浪といえば、この間、作品を見たように、その作風の中心を成していたのは「自然詠」でした。

B 亜浪には都市的なものに材を摂った句も少なくありませんでしたが、さほど成功作といえるほどのものは存在しなかったように思われます。

A やはり、亜浪という作者における本領は、清澄なポエジーを湛えた自然詠ということになるはずでしょうね。

B 篠原梵という作者は、なるべく亜浪の作風の真似はしないようにと心掛けていたそうです。

A それゆえ、このように亜浪とは異なる作風を身に付けた作者となったというわけですね。

B 亜浪が果たせなかった都市における諷詠といったものを、弟子の梵が亜浪の代わりに達成したという風にいうこともできるかもしれません。

A 篠原梵と亜浪の作風に共通する部分というものは、せいぜい形式における「破調」及び「韻律」といったあたりくらいでしょうか。

B たしかに、両者とも、575という定型からはみだしている句が随分と多いです。

A また、篠原梵の作品については、それこそやや「散文的」といっていい傾向があります。

B そういえば篠原梵の作品には「取り合わせ」や「切れ字」の使用についてもあまり確認することができません。

A 結局このように見てくると、篠原梵という作者の作風は、亜浪のフォームの中に、誓子のメカニズムの手法を導入したものであった、という風に捉えることが可能なのではないかと思われます。

B そのように考えると、やはり単純に「人間探求派」とは、やや位相の異なる作者であったといえるのかもしれませんね。

A 即物的な把握による手法が、他の作者たちとの異質さを感じさせるようです。

B 『皿』の他の作品を見てみると「アパートの冬」という一連の作では〈寒燈に寝静まりたる扉ならぶ〉〈戻るたびさむく四角きわが部屋なる〉〈雪の片(ひら)露になりゐるオーバー懸く〉〈笠無くや寒燈とりとめもなく鋭し〉という句が見られ、「スキー」という題の9句の存在も確認できます。

A やはり「寝静まりたる扉」「四角きわが部屋」「オーバー」といった無機質な素材の把握、そして「スキー」による連作ですから、どれも非常に誓子的なところがありますね。

B 他には〈扇風機止り醜き機械となれり〉といった句の存在も確認できます。

A そういえば誓子にも〈扇風機大き翼をやすめたり〉という句がありました。

B 篠原梵の句というものは、誓子の視点をさらに変容させた、やや執拗ともいうべき視点による表現であるように思われます。

A こうみるとやはり篠原梵の「もの」の見方というか、「もの」を捉える視点というものにはやや特殊な側面があるようですね。

B こういったやや特殊な視点による句作の手法は、これまでにみてきたような都市における景物のみならず、自然における景物に対しても発揮されています。

A そのような作品としては〈利根明り菜の花明り窓を過ぐ〉〈やはらかき紙につつまれ枇杷のあり〉〈南風(はえ)波をかぶり衝きぬき艇首ゆく〉〈鮎釣るをたそがれの瀬のとりまける〉〈人みなの影花木瓜にをどりゆく〉といったあたりということになりますね。

B そして、こういった手法がもっともその効果を十全に発揮したと思われる作品が〈葉桜の中の無数の空さわぐ〉ということになると思います。

A この句が、篠原梵における代表作であり、もっとも有名な句ということになりますね。

B 篠原梵といえば、この1句といった感すらあります。

A この句においては、葉桜の形象そのものが、空を背景にしてまさしくひとつのくっきりとした影そのものとして顕現してくるかのように思われます。葉桜とその中から見える空の色とが、まるでネガとポジのように鮮明に分離され、眼前するように感じられるところがあるというか。

B 「葉桜」の頃ですから、やや強い日射しというものも想像できますね。

A それが「葉桜」の姿を、さらに陰影の深いものにしているところがあるようです。

B そして、そこに「さわぐ」という言葉が加わることにより、「葉桜」を揺さぶる風の存在と、「葉桜」の葉による視覚的な「動き」、そして、それに伴う聴覚への葉の「さざめき」までもが感じられるようです。

A この「葉桜」の句は「夏」という17句中のもので、この句の前後には〈わが狭庭葉洩れ日と葉の影のうつくし〉〈道の上の葉洩れ日からだを遡(のぼ)り次ぐ〉という句の存在が確認できます。

B 連作の中の一部としても読むことが可能ということですね。

A さて、とりあえず第1句集の『皿』の作品について見てきましたが、一応この時点で篠原梵の作品における特徴のおおよそは出揃っているのではないかと思われます。

B そうですね。篠原梵の作品における特徴としては、誓子を髣髴とさせる「即物的手法」と「連作」の手法、そして、亜浪の「破調的傾向」、「切れ字」「や「取り合わせ」を用いない「散文的傾向」、といったところが挙げられそうです。

A では、続いて第2句集『雨』についてみてゆきましょう。

B この句集は昭和28年に刊行され、篠原梵の30代の頃の作品ということになるようです。

A この句集となると第1句集に多く見られた都市における景物を詠んだ作品の数は少なくなり、自然詠や旅吟の数が多くなります。

B 作品も見てみると〈冬の雨崎のかたちの中に降る〉〈しやぼん玉底にも小さき太陽持つ〉〈小麦の葉すべてなびきてすべて光る〉〈椎の木に春日のかけらかぎりなし〉〈淡水のきめにつつまれ立ち泳ぐ〉〈蟻の列しづかに蝶をうかべたる〉〈枇杷の箱端(ただ)しく積みて艀(はしけ)来る〉〈冬海と陸とかたみにふかく入る〉〈頭上にて霧笛ふとき柱のごとし〉〈鯉幟たたむに腹に風のこりゐし〉〈露の粒芯のごとくに燈をやどす〉〈渦巻ける皮の上にて柿を割る〉など、現実の事物への細かい観察眼による冴えは変わりがないようです。

A 〈椎の木に春日のかけらかぎりなし〉という句については、やはり先程の〈葉桜の中の無数の空さわぐ〉を髣髴とさせるものがあります。

B 他にこの句集の作品の特徴としては、時制のコントロールが見られます。

A たしかに〈峰雲にかさなりそだつ峰雲あり〉〈峰雲の暮れつつくづれ山つつむ〉〈みんみんの息つぐひまの蟬遠し〉〈マツチややにあたたかき色となるを待つ〉〈稲の青しづかに穂より去りつつあり〉〈きのふより濃き月光の障子なる〉〈夕立に小石のふえし道帰る〉〈銀河うすき東京に来てまた住むなる〉〈胸につき形正しき雪しばし〉〈いづくより雪かぶり来し貨車すれちがふ〉〈水底に着きびわの種子また光る〉〈幹を巻く葛を見たどり花に至る〉などといった句を見ると、ある一定の時間、即ち過去から現在に至るまでの重層的ともいうべき時間が1句の中に込められているようです。

B 物事における一瞬を切り取るような作品とは、やはり趣きの異なるところがありますね。

A こういった手法も梵の作品を「散文的」にしている所以のひとつであるのかもしれません。

B 他にも〈閉ぢし翅しづかにひらき蝶死にき〉〈空蟬に雨水たまり透きとほる〉〈空の奥みつめてをればとんぼゐる〉〈水筒に清水しづかに入りのぼる〉〈枯山を越え枯山に入りゆく〉〈独楽まはり澄めば鉄輪の光り出づ〉〈蝶に蹤きいつもよりとほく子とあるく〉〈うすみどり大根おろしたまり来る〉〈さみどりのいまはましろくキヤベツ剝く〉〈木蔭より幾人も出てバスに乗る〉〈簾もう透かなくなりて燈を反(かへ)す〉〈如露の水をわりにちかくもつれ出づ〉〈顔はまだ見えず真白の服の人来る〉〈吠えやめぬ犬を稲妻てらし出す〉〈さかづきに映る祭の燈ものみほす〉といった時間の多重性を感じさせる句が見られます。

A これだけ作品があるということは、やはり作者がひとつの手法として意識的に書いたものであるということになるのでしょうね。

B 重層的な時間を取り込むことによって、1句の内に奥行きを与えるという効果を狙ったものなのではないかと思われます。

A こういった作品というものは、この『雨』のみならず、第1句集『皿』における作品を見ても〈ヘツドライト白地の人をふと捕へぬ 〉〈雪の片(ひら)露になりゐるオーバー懸く〉〈窓ぬぎひ夜目を凝らせば深き雪みゆ〉〈雪の山とほくなりゆき襞立ちぬ〉〈麦の畝集まりゆきて丘を越す〉〈利根明り菜の花明り窓を過ぐ〉〈箱の中犇々ありしかたち蜜柑に〉〈三年まへ今も並木のいてふ萌ゆ〉〈水底にあるわが影に潜りちかづく〉〈小さくなる彼の応ふる夏帽子〉〈聞くうちに蟬は頭蓋の内に居る〉〈扇風機止り醜き機械となれり〉〈たそがれる窓を山吹退りゆく〉〈道の上の葉洩れ日からだを遡(のぼ)り次ぐ〉〈うす霜の硝子戸の空とけて落つ〉〈手袋の手を挙げ人の流れに没りぬ〉といったように、いくつも確認することができます。

B こう見ると、このような「時間性の操作」というべき手法も、単にこの第2句集の『雨』のみにおける特徴というわけではなく、篠原梵の作品全般における特徴を成す一要素として見ることが可能のようですね。

A このような時間性の操作というものについて考えてみると、篠原梵の師である臼田亜浪の作品にも、時間性の幅といったものを利用した作品の存在をいくつか見出すことができるはずです。

B そういえば亜浪の作品には〈鵯のそれきり鳴かず雪の暮〉〈今日も暮るる吹雪の底の大日輪〉〈天風や雲雀の声を断つしばし〉〈鵜の嘴のつひに大鮎をのみ込んだり〉〈青芒靡けて風の空に消ゆ〉〈ひとりとなつて子のおとなしし梅雨の昼〉〈野分あと見ゆ屋根々々に入日かな〉〈いつか円ろくなりしこの月よ雪の旅〉〈梅雨暮れぬ籠に戻らぬ紅雀〉〈電車が通り自動車が通り揚雲雀〉〈捨てし蛾なり夕べの土にうごめいて〉〈草原や夜々に濃くなる天の川〉〈死おもひしそれもむかしや月玲瓏〉〈枯萩のむざと刈られし昨日かな〉〈淡雪や妻がゐぬ日の蒸鰈〉〈籠ぬけし螢が街木伝ひつつ〉〈百合めぐる蛾の夕光を曳いて消ゆ〉〈猟犬の傷つき戻り北風暮れぬ〉〈柿挘ぎしきのふに遠く雨が降る〉〈かまつかの夜もなほ炎えて虫々々〉〈降りはれし氷雨に穹の澄み徹る〉〈颱風あがりの白れむの月煌々たり〉などといったものがありました。

A 特に〈鵯のそれきり鳴かず雪の暮〉〈天風や雲雀の声を断つしばし〉あたりは亜浪の代表作ですから、篠原梵もこういった作品については当然のことながらよく知っていたはずだと思います。

B そう考えると、篠原梵における時間制をコントロールした作品というものには、亜浪からの影響が大きなものであると考えてもおかしくはなさそうですね。

A 亜浪のこういった時間性の方法意識というものを、篠原梵は亜浪よりもさらに明確なかたちで意識的に駆使しているようにも感じられます。

B ともあれ、こうやってみると、篠原梵という作者は、句作のために随分と色々な工夫を凝らしていたということがわかりますね。

A 思った以上に、その作品には全体的に綿密な計算が施されているようです。

B さて、第2句集『雨』について見てきましたが、この『雨』以後、篠原梵は、昭和29年から49年に至るまでの間、ほぼ作句を中断してしまうようになるそうです。

A その後、昭和49年になると、これまでの全句集として『年々去来の花』が刊行され、ここに「中空」という題で『雨』以後の144句の作品が纏められています。

B これらの作は『年々去来の花』の「後記」の本人の言うところによると〈句集『雨』を出してから一七年になる。そのあひだには、句をつくることと両立しないやうな仕事をしてゐたり、その仕事から離れたあとは、つくる気持に駆り立てる状態がないままに荏苒としてゐたなどで、句作はほとんどだめであつた。゛ほとんど゛といふのは、折りをり山の方へ旅をした時などに句ができて手帳に書きつけることがあるし、通勤の途上や、庭の四季のうつりかはりを見るうちになんとなく句になつたりして、幾分か句が溜つた〉ものであるということです。

A この「中空」の作品を見ると〈シヤボン玉につつまれてわが息の浮く〉〈草揉んで水中眼鏡まづぬぐふ〉〈泳ぎ着き光りつつ岩をよぢのぼる〉〈打ちし蚊の磔刑のごとく壁にあり〉〈木犀の金の十字が地に満てる〉〈影が斜めに横に斜めに独楽とまる〉〈蝶を捕る網がきらめき蝶きらめく〉〈海のはて夕焼けてゐる海がある〉〈北極星またたく私はまたたかぬ〉という句が見られます。

B こういった句だけを見ると、どれもさほど悪い出来ではないように思われますね。

A 「草」で「水中眼鏡」を「ぬぐふ」実在感、〈シヤボン玉につつまれてわが息の浮く〉〈泳ぎ着き光りつつ岩をよぢのぼる〉〈影が斜めに横に斜めに独楽とまる〉〈蝶を捕る網がきらめき蝶きらめく〉などの句に見られる細かい観察眼の存在、〈打ちし蚊の磔刑のごとく壁にあり〉のやや生々しいリアリティ、〈木犀の金の十字が地に満てる〉の即物感、〈海のはて夕焼けてゐる海がある〉という句における、当たり前の事実でありながら、なかなか気がつくことが出来ない発見など、たしかにこういった作品だけを見てみると、さほど悪くないように思われます。

B 〈花ふぶきゆくてを二度も三度もとざす〉〈泳ぎ着き光りつつ岩をよぢのぼる〉〈花火尽きうしろすがたもなくなりぬ〉〈流れ来て葉の溜れるに加はる葉〉〈影が斜めに横に斜めに独楽とまる〉などといった句における、時間制の操作の手法も確認できます。

A この「中空」には他に〈爛漫と夕日を透さない桜〉という作品があり、あまり成功作であるとは言い難い句であるかもしれませんが、〈葉桜の中の無数の空さわぐ〉と比べた場合なかなか興味深いものがあります。

B 篠原梵には、これまでにも見てきた通り、この「葉桜」の句と同じモチーフの作品が他にも〈わが狭庭葉洩れ日と葉の影のうつくし〉〈道の上の葉洩れ日からだを遡(のぼ)り次ぐ〉〈椎の木に春日のかけらかぎりなし〉などいくつか見られます。

A この「中空」の時期について、『年々去来の花』の別冊「径路」における本人の記述によると〈俳句をつくらうといふ気はすこしも起きなかつた。亜浪先生が健在での『石楠』がつづいて出てゐたら、またちがつたにちがひない。〉と述べ、また、主宰誌を持つ気になれなかったことと、そして、〈なぜ日常の世間のことばとかけはなれた文語体で俳句をつくつてあやしまないのか〉という俳句という文芸そのものへの疑念があり、これらの理由から最終的には、〈俳句へ立ちもどることを断念すべきであると考へた。〉とのことです。

B この『年々去来の花』を上梓した後、篠原梵は昭和50年に65歳で亡くなります。

A 篠原梵は、晩年には句作を再開し口語俳句を作っていたそうで、今後の展開というものも考えられないではなかっただけに、この65歳での逝去には残念な気がするところがあります。

B さて、篠原梵の作品について見てきました。

A 篠原梵の作品における特徴は、これまでに見てきたように、誓子的な「即物性」と「連作」の手法、亜浪の「破調的なフォルム」と「時間性」の駆使、また「切れ字」、「取り合わせ」の手法を用いない散文的な作風であるということができると思います。

B 篠原梵の作品というものは、思った以上に、高度な計算と手法によって成り立っているものであったということがわかりましたね。

A そして、その後の、作品発表の場から離れ、主宰誌を持つ意志のなかったことや、俳句という文芸における文語や韻文を使用し続けることへの疑念などから、俳句そのものから遠ざかってしまったことなど、篠原梵は自らを偽ることのできない、やや異色といってもいいような俳人であったということができると思います。



選句余滴

篠原梵


寒き燈にみどり児の眼は埴輪の眼

どの窓か返す冬日に射られ行く

ヘツドライト白地の人をふと捕へぬ

戻るたびさむく四角きわが部屋なる

笠無くや寒燈とりとめもなく鋭し

麦の畝集まりゆきて丘を越す

利根明り菜の花明り窓を過ぐ

やはらかき紙につつまれ枇杷のあり

水底にあるわが影に潜りちかづく

小さくなる彼の応ふる夏帽子

南風(はえ)波をかぶり衝きぬき艇首ゆく

聞くうちに蟬は頭蓋の内に居る

扇風機止り醜き機械となれり

スプーンにつぶす苺の種子の微かに

たそがれる窓を山吹退りゆく

鮎釣るをたそがれの瀬のとりまける

道の上の葉洩れ日からだを遡(のぼ)り次ぐ

たばこの火蚊帳のきり取る闇に染(し)む

うす霜の硝子戸の空とけて落つ

霧の奥人いゆくわが足音にはあらじ

寒三日月目もて一抉りして見捨てつ

オレンヂエードのコツプはかなし鼻を容れ

峰雲の暮れつつくづれ山つつむ

みんみんの息つぐひまの蟬遠し

マツチややにあたたかき色となるを待つ

小麦の葉すべてなびきてすべて光る

稲の青しづかに穂より去りつつあり

西日の丘の小さき畑を小さき人打つ

幹の間(あひ)とほくの幹に月させる

きのふより濃き月光の障子なる

摺りガラスましろに月のかげを堰く

夕立に小石のふえし道帰る

椎の木に春日のかけらかぎりなし

いてふちりしける日なたが行手にあり

銀河うすき東京に来てまた住むなる

寒星をいつも火星を見をさめに

朝焼けの雪山負へる町を過ぐ

淡水のきめにつつまれ立ち泳ぐ

水底に着きびわの種子また光る

幹を巻く葛を見たどり花に至る

閉ぢし翅しづかにひらき蝶死にき

空の奥みつめてをればとんぼゐる

枯山を越え枯山に入りゆく

短夜の人らねむれる汽車に乗る

照らすべき物なき烈日沖に満つ

枇杷の箱端(ただ)しく積みて艀(はしけ)来る

冬海と陸とかたみにふかく入る

頭上にて霧笛ふとき柱のごとし

独楽まはり澄めば鉄輪の光り出づ

蝶に蹤きいつもよりとほく子とあるく

餡を持つ餅のうすうすあをみたり

芽ぶく木を夜空にふかく彫る燈あり

さみどりのいまはましろくキヤベツ剝く

木蔭より幾人も出てバスに乗る

片蔭の切れ目こころに影となる

顔はまだ見えず真白の服の人来る

吠えやめぬ犬を稲妻てらし出す

さかづきに映る祭の燈ものみほす

渦巻ける皮の上にて柿を割る

丘の上へ茅花光らせ風あつまる

烈日のあひる何百浪にうねる

霧笛にとほく応ふる霧笛あり

シヤボン玉につつまれてわが息の浮く

泳ぎ着き光りつつ岩をよぢのぼる

打ちし蚊の磔刑のごとく壁にあり

木犀の金の十字が地に満てる

爛漫と夕日を透さない桜

雪どけのしづくがちがふ高さに光る

三日月の右下にある星もおぼろ

影が斜めに横に斜めに独楽とまる

北極星またたく私はまたたかぬ



俳人の言葉

ともかく彼は、一ひねりひねった思いつきが好きだった。彼の郷里の松山には

葉桜の中の無数の空さわぐ

を彫った彼の句碑が建てられているが、「無数の空」などという表現は、まさしく梵のものである。

杉森久英(小説家) 「俳句と私」より 『一句百景―俳句と私』(文化出版局 昭和56年)所収

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「村人」的時間 ―廣瀬直人『風の音』を読む・・・岡村知昭

「村人」的時間
―廣瀬直人『風の音』を読む

                       ・・・岡村知昭


先ごろ「第43回蛇笏賞」を受賞したこの句集に収められた作品は、ふたつの「村」が描かれている。ひとつは作者がただいま住んでいる現住所「笛吹市一宮町」であり、もうひとつは作者が俳人として過ごしてきた長い時間を通じて求め続けてきた、理想の境地としてのわが内なる「村」、さらに言うなら自らが求めた俳句そのものということになろうか。

このふたつの「村」で繰り広げられるのは、たとえば農耕であり、祭りであり、動植物との出会いといった日々の生活の様であり、時には村を離れての旅、そして親類・友人・恩師との永別といった場面で口を衝いて出る詠嘆であるのだが、どのような場面においてもまずは淡々と、そして徐々にはっきりと現れてくるのは、同じ陰影、同じ質感を保とうとする作者の姿勢そのものだ。『俳句』6月号の蛇笏賞小特集での、宇多喜代子氏の選評にある「広やかで明るい世界、人も村も草も木も、人の世の吉兆の様までが同じ呼吸で句の中で生きている爽やかな心性が際立ってくる」との一節は、句集の背後でかすかな響きを立てて流れ続けるものについて的確に述べているが、さらに言えば「広やかで明るい世界」は、一句の背後に広がる時間の安定感に対しての作者の絶対的な信頼感あってのもので、その信頼感の源となっているのは、実際に生活を営む舞台としての現実と、自らが長年育んできた内面とが等しいものとして成立するという積み重ねを通じて手に入れた、疑いようのない自信そのものだ。

葱下げて蛇笏の村の女の子

日脚伸ぶ村の錆色おのづから

春の猫村を離るる気などなし

梟の闇村の闇別にあり

村へ引く水鼯鼠(むささび)の森通す

一句の中に「村」が出てくる句を挙げてみて気がつくのは「蛇笏の村」の句とそのほか4句との間にある立ち位置の微妙な違いである。作品が書かれた2002~2008年の間には合併により自ら住むところの古くからの名前が変わるという大きな変化を迎えることになったのだが、「日脚伸ぶ」の句に出てくる錆色とは変化と共に訪れた現実の「村」を覆う軋みの現れとも見て取れるし、「村を離るる気などなし」との断定の裏側には、この場を離れるか離れざるべきかを悩む隣人たちの姿が見え隠れする。天然自然の「梟の闇」と「村の闇」との対比からは、人々の中に漂う不安感の在り様も伺えるし、田畑を潤し、生活に欠かせない水が通るのではなく「通す」と書かれることにより、生活空間の一翼を担ってきたムササビの棲む森が切り開かれ、「村」にも影響が及ぶことを暗示しているかのようである。

一方、「蛇笏の村の女の子」との把握は、自ら住むこの「村」が、どのようなものであるべきかとの想定をもとに成立する。このとき「蛇笏」とは偉大な先達としての飯田蛇笏という存在にとどまらず、かつてこの村で生きた祖父母・曾祖父母と連なる係累と同じく、いまこの村を背後から支える一種の地霊的な存在として、いまここに生きる自ら、葱を下げながら家路を歩く少女と同じように「村」に息づいている。彼女も含めた村人、そして草木や獣たちもまた、かつてこの「村」に生きたものたちの支えを受けながらいまがあるとの確信のもとで、少女は作者が思い続けるわが内なる「村」を流れる時間の中に組み込まれる。

真つ先に鴉甲州百日柿

かりがねの道に雁坂甲斐の冬

存分の雷鳴北に甲武信嶽

どのような変化が現実に村を訪れようとも、ここは甲斐の国であり、遠くには険しい山々が連なり、季節は変わることなく流れるとの確固たる思いは揺るがず、空間を規定する。この3句に登場する甲斐に甲州もまたただの国名にとどまらない、自らがあるべき場所の名として深く刻まれた存在である。村人より先に鴉がついばみに来る柿、まわりの山々から雁坂に吹きおろす冬の風、そして険しい山々の向こうで高く鳴り響く雷、どれもが自らが抱える内なる「村」の一光景として、その姿は「村」の時間の中に位置づけられている、すべてが「存分」に。蛇笏賞選評で金子兜太氏は「気合を込めて郷土の厚みを抱き取ろうとする体があり、その野暮ったさを多としたいのである」と述べているが、その厚みは時間の流れの確かさを、わがものとして引き受けるところからはじまり、自ら求め続ける「村」と生活空間との幸福な一致によって成立して、そのとき現実の土の匂いは必要最小限にとどめられる、生活もまた「村」の一部である以上、自らの想念を乗り超えるようなことは、決してあってはならないのである。おそらく金子氏は「野暮ったさを多としたい」と言いながらも、この句集には「村」で生活する自らのからだを通じた葛藤の様子をなかなか窺いしれない、つまり「野暮ったさ」が感じられない点も見逃していなかったのではないだろうか、からだを流れているのはほとんどが「村」を覆う時間そのものであることを。
 
境川村小黒坂いつか夏

評伝といふ顔があり亀鳴けり

ありありと欅遥けき九月かな

句集後半のハイライトとなる恩師・飯田龍太との永別は、現実としても大きな衝撃であると同時に、自らが抱える内なる「村」にとっても大きな打撃となったことだろう、蛇笏から龍太とのつながりは、作者が認識する「村」の在り様を揺り動かす一大事でもあろうからだ。ここに挙げた3句では「境川村小黒坂」の句に「すでに百日」、「欅遥けき」の句には「偲ぶこころを」と詞書が付され、どちらも永別のときからしばらくの時間の経過を置いて書かれたのだが、句集に登場するほかの死者たち、たとえば「冬椿人に全き死などなし」と詠嘆した従弟のときや、盟友と自ら述べていた福田甲子雄氏などの俳人たちへの追悼とは異なり、自らの時間を支える大きな柱を失ったことへの衝撃の深さが、時を経るさらに実感されてきたことが伝わる。そこには自らにも訪れる肉体的な老いへの思いもあるのだろうが、あくまでもその点は注意深く避けながら、恩師との別れを自らが抱く内なる「村」の中にどのように自ら位置づけ、引き受けてゆくかを考えながら次の1年を迎えることになる。

龍太忌の砂とぶ丘の小学校

前景の村の月の出龍太の忌

龍太先生紛れずに春ひとり

1年後の3句からは、「龍太」が現実の人物から「村」の地霊的存在として位置づけられようとする様子が、改めて窺いしることできる。砂埃を上げながら小学校のグラウンドを駆け回る子供た地の姿の向こう側に、またあるときは村に訪れる月の出のはじまりとともに、「龍太」という存在が確かにいま、この「村」にいるという思いが、実感とともに確かめられる。そしてあまりにも大きな存在であったことへの思いが「春ひとり」の句にある。「龍太先生」はいまだに他の「村」の先人たちと違って生々しい存在であり、これから他の先人たちと同様に「村」の住人たちを流れる時間を支える存在となりながらも、先人たちの間に紛れ込むことなく自らの中を流れ続けるであろうことを、自らに言い聞かせるかのように確かめる、甲斐の「蛇笏の村」の住人であった自分はこれから、「龍太の村」の住人となるのである。その圧倒的な確信が根底にある限り、淡々とした筆致はむしろ時間そのものとして一句の中を流れてやまないわけである。

噎せるほど煙流れて桃の花

山々に気負いなどなし桃の花

千体の土偶の在所桃の花

空が一枚桃の花桃の花

ふたつの「村」を流れる時間の中にあって、精彩を放っているのがこれらの句に登場する「桃の花」だ。噎せるほどの煙の中で、あるときは土偶たちの背景に、そっと置かれたように佇みながら、「村」を彩ってやまない花々。繰り返し描かれる花の姿を見るとき、実際の生活の場とわが内なる「村」との幸福な一致を求めた作者の精神にとって、桃の花は求め続けた空間の在り様にもっともふさわしい花として目の前に、そして内面に咲き誇る。そこには「気負いなどなし」との思いを花と共有し、一面に広がる青空のもとひたすらに桃の花を堪能する自分の姿、そして村人たちの姿がある。「村」の時間を生きることこそが自らの俳句であると念じて、長い歳月を過ごしてきた人物の姿をそこに見て取ることは、実は相当に難しい、なにより自らの葛藤をいかに「村」の時間の奥底に静めるかに、これまでの全力を注いできたであろうから。

いまいる「村」はこれまでも、これからもずっと蛇笏や龍太の住むところであり、そこには必ず桃の花が咲き誇る。いかなる変貌が現実の空間に訪れようとも、わが内なる「村」には穏やかな時間が淡々と流れ、桃の花が咲く季節が、また訪れる。

金子兜太『日常』

春の庭、薔薇の谷
金子兜太句集『日常』を読む


                       ・・・高山れおな


金子兜太が、今年九月二十六日に満九十歳を迎えるのを機に、角川学芸出版から『金子兜太の世界』(*1)が刊行されるとのことで、評者にも原稿の依頼があり、青息吐息でようやく責めをふさいだところだ。それほど長いものではないが、お題が難しいうえに、九十の賀の贈り物のような出版物であるから気も遣わねばならず(とても気を遣ったようには見えないかもしれないが)、勝手に読んだ本を勝手に俎上に乗せればよいブログの安気さをつくづく有り難く思ったことだ。そんなこんなでもはや気魂尽き果てており、金子兜太の最新句集である『日常』(*2)についてのこの感想文も、いつにも増してルーズなものになるであろう。

『日常』は兜太の第十四句集。評者は丸善の丸の内本店で買ったが、俳句コーナーではこの本と長谷川櫂の『富士』(*3)が平積みになっており、俳句ジャーナリズムの王様と次の王様(?)が仲良く揃い踏みした格好だ。今頃はもしかすると髙柳克弘の新句集(*4)もそこに加わっているかもしれない。少壮老の三人が、『未踏』『富士』『日常』とは、なんだか申し合わせでもしたかのようにみごとな呼吸である。ここらがつまり、男の子たちの俳句の王道ということか。もちろん、ご婦人方の俳句は、今や『夏至』(*5)の太陽のごとく高みにあって輝いているわけである。こういう風景の中に、『水のかたまり』(*6)などが紛れ込むと、いかにも拗ね者っぽい感じがあらわになる。評者あたりはたぶん、この拗ね者のひとりに数えられるのに違いない。

……といった戯言はさておき、“日常”といえば、

俳句は平俗の詩である。俳句は日常の詩である。/(中略)お寒うございます、お暑うございます。日常の存問が即ち俳句である。

という『虚子俳話』の一節(*7)なんかがすぐ思い浮かぶ。他にも、〈俳句は 諸人旦暮(もろびとあけくれ)の詩(うた)で ある〉(*8)と言った日野草城はじめ、似たような考えを口にした俳人は少なくないであろう。兜太ももとよりそのひとりであって、すでに一九七三年、五十四歳の時に「日常で書く」(*9)という文章を発表している。

最短定型たる俳句で書けるのは――いや書くべきは――思想の生活場面、いわば生きかたとして思想を肉体化してゆく態度、その態度にもとづく日常坐臥の生きざまにある。

兜太といえば社会性をめぐる発言や「造型俳句」の印象が今もって強い。それは俳句史が、そのような意味での兜太の存在を必要としているからであるが、兜太の五十代以降の実際はこうした、日常性を媒介にしての「衆の詩」を志向するものであった。安西篤によればそれは、前衛内部からの「兜太変節、後がえり(伝統回帰)」の批判を招いたのだが、兜太にしても「俳句評論」との緊張関係の中であえて“日常”を打ち出したわけで、そこには相応の覚悟――兜太ふうに言うなら「思い定め」――があっただろうことは想像に難くない。

しかしこの句集では、それら(句帖のかなりの部分を占める旅吟……引用者注)を棚上げして、毎日の暮しのなかでできた、いわば常住の日常でできた句から選ぶことにした。(中略)私はあくまでも、この俗世間で生きてゆきたいので、いつも、俗に生きる精神におもいをひそめている。(『遊牧集』あとがき)

すべてが日常吟といえる。つまり、武蔵野の北・熊谷に住して、ときに郷里の秩父盆地は皆野(みなの)町平草(ひらくさ)にゆく、その常住の日々と、しばしば出かける旅次とのあいだで出来たものなのである。(『皆之』あとがき)

そうした日常に執して句作してきたものをまとめた。(中略)しかし、即興ということについて大いに得るところがあったことも事実で、即興の句には、対象との生きた交感がある、とおもうこと屢々だった。(中略)即興の味を覚えるなかで、造型とともに即興――二律背反ともいえるこの双方を、いつも念頭に置くようになっている。(『両神』あとがき)

このように、この時期の兜太の句集の後記類では、特異なテーマ連作の形態をとる『詩經國風』を別にすれば、かなり執拗な日常性への言及を目にすることができる。とはいえ、後記類でのことあげと集としての名づけとでは、句集を限定づける働きの点でおなじとは言えないだろう。『皆之』や『両神』、『東国抄』といった書名は、兜太個人のうぶすなや家族にかかわるという意味で日常性と結びついてもいたであろうが、他方、歴史の古層へ遡ろうとする『詩經國風』的な浪漫性との紐帯も感じさせたのである。それを思うと、評者は『日常』というネーミングにはたじろきを覚えざるを得なかった。じつは、前句集である『東国抄』の後記には日常の語がなく、代わりにでもあるまいが、〈とにかく、わたしはまだ過程にある。〉という力強い言葉が見えただけに、なおさらであった。

『日常』でまず印象的なのは、なんと言ってもその追悼句の多さである。母君逝去のおりの六句、みな子夫人逝去のおりの二十一句をはじめとして十九人に対して五十五句が詠まれている。高齢の俳人の句集に追悼句が多くなるのは当然のこととはいえ、やはりすごい。過去の句集ではどうだったのかも気になってきて、還暦以降の句集を調べてみると、第八句集『遊牧集』(六十二歳)、第九句集『猪羊集』(六十三歳)、第十句集『詩経国風』(六十六歳)はいずれも追悼句は一句も無い。第十一句集『皆之』(六十七歳)は七人に対して十三句、第十二句集『両神』(七十五歳)は二十二人に対して三十句、第十三句集『東国抄』(八十二歳)は二十四人に対して二十六句となっている。母と妻という別格の存在の死が詠まれているため句数では『日常』がダントツで多くなっているが、対象となる死者の人数の点ではむしろ前句集や前々句集の方にピークがあるようだ。それにしてもこのように、死こそが日常になってゆく八十代という時間への思いをこめた『日常』なのであろうか。

人の(いや生きものすべての)生命(いのち)を不滅と思い定めている小生には、これらの別れが一時の悲しみと思えていて、別のところに居所を移したかれらと、そんなに遠くなく再会できることを確信している。消滅ではなく他界。いまは悲しいが、そういつまでも悲しくはない。母はまた私を与太と言うことだろう。妻は、「あなた土を忘れたら駄目よ」とかならず言うに違いない。公平は、鬼房は……。

すでにいくつか引用したように、兜太の句集のあとがきは魅力的なものが多いが、『日常』のそれも力稿であろう。この一節なども、途方もないことがあっさりと言われているようでいて、しかもここに記されているのが紛う方なき本音なのであろうことも自然に了解できる。この納得をもたらしたものが、兜太の作家的後半生の仕事の意味であった、そんなふうにも思えてくるのだが、そこまで言ってしまっては話を簡単にしすぎることになるだろうか。

ここまで拘泥した以上、追悼句の実際を少しでも見ておきたい。まず、〈母百四歳にて他界 六句〉と前書したうちの二句。

冬の山国母長寿して我を去る
母の歯か椿の下の霜柱

全体が九章に分かれたうちのⅤに収められている。Ⅰには〈秩父古生層長生きの母の朝寝〉という句もあるし、Ⅲには〈母百二歳 八句〉として、〈蝉時雨餅肌(もちはだ)の母百二歳〉〈長寿の母うんこのようにわれを産みぬ〉などの句が見える。息子の方もすでにそうとうに長生きをしているわけだが、「秩父古生層」ととりあわされた百歳の母は、その息子の目にも人間的な間尺を半ば超え出でつつあるかのようだ。だからその肌は、衰えの相ではなくほとんど神秘的な「餠肌」(評者の祖母はふたりとも孫の顔を見ずに早世したが、家人の九十歳を超えた祖母がやはり餅肌なのを思い出す)の輝きを帯びるし、出産の大事も排便なみの些事として回顧・詠嘆される。そして掲出の一句目であるが、これを作るとき作者は必ずや三つ前の句集『皆之』にある、〈夏の山国母いてわれを与太(よた)という〉を思い出していたであろう。「夏の山国」「冬の山国」が対になっていることに加えて、両句に見られる母子の距離のとり方に、よく似た間合いを感じるのだ。この人と母と子であることへの、からりとした驚き、とでも言ったらよいか。それにしても「我を去る」という表現には複雑な味わいがある。先に引用したあとがきにあった生命の不滅という思想が、こんなところにさりげなく現われているとしてよいのだろう。掲出二句目は、落椿の下になった「霜柱」に「母の歯」を感じていて、赤と白の映発するそのなまなましい身体性が言うまでもなく兜太的。想像するに、母はだいぶ以前に歯を失っていたのではあるまいか。前句集『東国抄』には〈歯固や母の歯は馬のようだつた〉という句があって、その時点で「母の歯」は回想の対象になっている。肌でもなく髪でもなく、真っ白で大きな「馬のような」歯の記憶こそが、遠い日の母の若さへの感傷をさそっているのであり、さればこそ椿の華やぎが手向けられているのだろう。

夫人への悼句は〈妻金子みな子(俳号皆子)他界 二十一句〉と前書して、Ⅶに収められている。第一句目の

春の庭亡妻正座して在りぬ

から六句目までは、自宅「熊猫荘」の庭に真向って妻をしのぶ句がつづく。

どれも妻の木くろもじ山茱萸山法師

という句が四句目にあるが、転勤生活も終わりそろそろ自宅をとなった四十代後半の頃、都内のマンションでもと考えていた兜太を翻意させ、都心との連絡には不便きわまる熊谷に家を買わせたのは夫人だった。先のあとがきにあった「『あなた土を忘れたら駄目よ』」という夫人の言葉は、そのあたりの事情に絡んでいるのである。だから、「どれも妻の木」。この二十一句とりわけ庭を詠んだ一連は、自然との接触によって悲しみを癒してゆくという、日本の文芸のいちばん基本のところにある水脈に連なっている。ただ、庭の植物たちの浄化の力にも覆いつくせない瞬間があって、

仮寝の夢に桜満開且つ白濁

というのは、かなり無残なものを開示しているようにも思う。さらに絶唱というべきは、

橋越えて猪去る亡妻(つま)の仕草も去る

「猪」にはルビは無いが、この場合は「いのしし」ではなく「しし」と読んで間違いなかろう。五七六の韻律も兜太調の典型だが、さらに、去り行く妻の面影とオーバーラップするのが、よりにもよって猪であるところが、絶対的に兜太だというしかない。当ブログ第二十九号で関悦史が報告しているように、兜太は今年、第四回の正岡子規国際俳句賞の大賞を受賞した。以下は、関レポートからはるかに遅れて届いた受賞式の記録集(*10)から、兜太の記念スピーチの一節。

同じような生き物同士として接触しなければならない、自然に生まれてくる生き物感覚というものを大事にして俳句を創っていきたい、今私は「生き物感覚」という言葉を非常に大事にしております。例えば小林一茶の「花げしのふはつくやうな前歯哉」という句の感覚の基礎ですね。自分の前歯がふらふらする、ふらふらした前歯がけしの花のようだと、けしの花=前歯、こういう感覚、これは生き物感覚だと思います。生き物同士の感覚だと私は思います。この感覚が大事だという思いがだんだん募ってまいりまして、現在ではそこから私もアニミズムということがわかってきたのではないかと思っております。

この、なんでも自前の言葉で語ってきた人に、アニミズムなどという安手のテクニカルタームを使って欲しくないという気持ちはそれとして(「生き物感覚」でいいじゃないか)、ここで語られている思いは口先だけのことではなくて、現に掲句などにおいて、力強く実践されているわけだ。かくも大事にしている、かくも感謝している妻を、猪と「同じような生き物同士」として描き出しているところに、兜太の「生き物感覚」の本気は現われているだろう。そして、その本気を生動させている「仕草も去る」という措辞のみごとさ。ただし、上五「橋越えて」がちょっと受け取りにくくはあって、直前に〈春のこの峡若き日の亡妻(つま)橋の上〉〈野火橋を一気に焼けり人の死も〉の二句があるところを見ると、何か個人的な思い出に結びついているとおぼしく、やや消化不良の感が残る。なお、掲句に限らず猪の句はこの句集全体に幾つもあり、中では、Ⅰに載る

(しし)の眼を青と思いし深眠り

が秀吟であろう。〈よく眠る夢の枯野が青むまで〉(『東国抄』)の再奏のようでもあるし、〈猪がきて空気を食べる春の峠〉(『遊牧集』)、〈冬眠の蝮のほかは寝息なし〉(『皆之』)、〈おおかみに螢が一つ付いていた〉(『東国抄』)といった名作の系譜につらなるもののようでもある。

秋遍路尿瓶を手放すことはない
春闌けて尿瓶親しと告げわたる
ぽしやぽしやと尿瓶を洗う地上かな

私事ということになるのか、じつは熊猫荘にはお邪魔したことがある。生業の方で、ここに詠まれている尿瓶について取材しに行ったのだった。すでにみな子夫人は亡くなっておられ、庭には木瓜の花が咲いていたと記憶する。尿瓶は一本ではなく、メインとサブ、旅行用、未使用のスペアと四本あって、サブというのは冬用で、寒くなると尿の量が増えて一本では間に合わないという話だった。未使用品まで出てきたのは、使用済みのものはあんまりだからというお嫁さん(ご長男の奥様)のご配慮であったが、こちらとしては未使用品では意味がなく、かといってさすがにメインは公開がはばかられる状態になっているので、程よく曇りのかかったサブを借りて帰り、透過光で写真を撮った(綺麗なオブジェのような写真になりました)。そもそもベッドに寝たきりの病人ではなく、尿瓶など必要ない健康体でありながら、夜だけとはいえあえて尿瓶を使っているところに兜太の特異な肉体観があるというか、排泄ひとつについてまで考え尽くし、意識化してしまうこの態度がすなわち前出「日常で書く」に言うところの「思想を肉体化してゆく態度」なのであろう。「手放すことはない」とは、「尿瓶を」である以上にその「態度を」をなのである。

『日常』は、二〇〇〇年秋から二〇〇八年夏までの八年間の作を収めている。したがってこの間、同時多発テロやアフガン戦争、イラク戦争などのことがあり、集中その関連の作も散見する。

  ニューヨークなどに無差別テロ 二句
危し秋天報復論に自省乏し
新月出づイスラムの民長き怒り
左義長や武器という武器焼いてしまえ
ブッシュ君威嚇では桜は咲かぬ
薄氷に米国日本州映る
民主主義を輸出するとや目借時
戦さあるな白山茶花に魚眠る

ご覧の通りであって秀句はない。それこそ、造型で立ち向かわねばならないところに即興で応じてしまった按配で、やはり造型にはある程度若さ、粘りを可能にする体力が必要なのだろうと思う。しかし兜太は五十年前と変わらず兜太で、われわれには失敗する権利があるのだということを教えてくれているのだとも言える。以下、傾向によらず興に入った句を挙げる。

秋高し仏頂面も俳諧なり
冬近し車窓を過ぎるもの黄昏
(たそがれ)
薔薇の谷狼無表情で通る
盆の沢崩れて魂
(たましい)通れない
いのち確かに老白梅の全身見ゆ
十分前朧の街を歩いていた
虚も実も限無
(きりな)く食べて秋なり

兜太が一時、右顔面神経麻痺になったことは、その間もずっとテレビに出ていたし、ご存じの人も多かろう。評者が熊谷にうかがった時は、ちょうど治りかけの頃だった。句に見える、「仏頂面」や「無表情」の語は、この麻痺のことを指しているのではないが、もちろん老いとかかわって使われているのではあろう。居直り、開き直りというのではなく、かといって感傷的な諦念でもなく、とにかく自らの老化に伴う「仏頂面」「無表情」をひとつの現実として受け入れることで、そこにかえってある表情が生まれている、そんな句ではあるまいか。さればこそ、「薔薇の谷」という一語にこめられた思いが、いろいろに想像されもするのである。

アボリジニ跳び込んで抱きつくジユゴン
誕生も死も区切りではないジユゴン泳ぐ

句集は〈ある日ふと 七句〉と前書した一連の作品によって閉じられる。全句ジュゴンのことを詠んだ不思議な連作。おそらく、テレビで目にした映像を見たまま句にしたのだろうが、「ある日ふと」という前書が暗示する突然の幸福感がまばゆいばかりの絵になっていて、これをフィナーレにしたかった気持ちはとてもよくわかったのである。

(*1)『金子兜太の世界』 「俳句」別冊
    角川学芸出版 九月十日刊行予定
(*2)金子兜太句集『日常』
    ふらんす堂 六月五日刊
(*3)長谷川櫂句集『富士』
    ふらんす堂 五月八日刊
(*4)髙柳克弘句集『未踏』
    ふらんす堂 六月二十二日刊
(*5)正木ゆう子句集『夏至』
    春秋社 六月十二日刊
(*6)坪内稔典句集『水のかたまり』
    ふらんす堂 五月二十日刊
(*7)一九五七年十二月二十九日付。引用は
    『定本高濱虚子全集』第十二巻より。
(*8)日野草城第六句集『旦暮』(一九四九年)
    のエピグラム。引用は全句集より。
(*9)「現代詩手帖」一九七三年十月号。引用は
    安西篤『金子兜太』より。
(*10)「平成20年度 国際俳句フェスティバル
    記録集」 愛媛県文化振興財団

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2009年6月27日土曜日

遷子を読む(14)

遷子を読む(14)

・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井


鏡見て別のわれ見る寒さかな
      『山河』所収

中西:この句は私が遷子の句の中で最も早く知った句でした。しかし、その時はこの句がどんな状況のもとで詠まれたのか知る由もなかったのです。当時は老いを見た悲しみかと思ったのでした。

実は、少しずつ病が死へ向っていくのを、遷子自身が最もよく知っているなかでの闘病中の句だと知って、句の重さにびっくりしたのでした。

遺書書くや入院前夜しぐれつつ

こんな句が4句先にあるのです。この次の入院はもう家には戻れないと覚悟しているのです。

空腹感戻らば奇跡色鳥よ

という句も隣のページにあります。食欲が落ちて食べられないのですから、もともと痩身の遷子です、この時はかなり肉が削げ落ちていたに違いありません。この句は、鏡の自分の顔の変容に大きな驚きを隠していません。あまりの変化は病状の悪化を、死の近さを確信しないわけには行かなかったでしょう。今まで見たことのない自分の変化した顔への違和感、これこそが死を予感させるものだったのではないでしょうか。

この「寒さ」は遷子にとって身の凍る思いだったことをも連想させるものです。別の人間になっていく自分、病は体だけでなく、精神をも病ませるものだそうです。

この鏡の顔は、医師からひとりの病人となったつらい現実を映したものだったと思えるのです。

原:鏡の中の自分という主題は男性よりも女性の感性に、より多く訴えるものかもしれませんね。掲出句に出会った折の中西さんもそうだったでしょうか。作者の状況を視野に入れない初見の印象から、作者の身に寄り添っての読みへ移ってゆく鑑賞の変化を興味深く思いました。

この句から、ふと、画家にとっての自画像というものを連想したのですが、画家の場合、自分の姿を描きながら次第に己れの内部を探り当てていくのでしょう。結果として、出来上がった作品に驚くことがあったにしても、そこには経過する時間がありました。一方、掲出句は或る日或る時の一瞬です。思わず「これが自分か」と、我と我が胸に呟いたかのようです。無名の一句として読めば、鏡の中に見知らぬ自分がいるという、多分に観念的な句になりますが、遷子は自分でも言っているとおり「現実べったり派」、殊にこの時期は句即現実といった様相を示しています。鏡の中に衰えた顔貌を見出して発した「別のわれ」の語だったでしょう。中西さんの言われた「死の予感」はまもなく現実のものになってしまうのです。

深谷:最後の入院直前に書かれた句ですね。中西さんが指摘されたように、遷子は元々痩身だったようです。まだ元気だった頃に、次のような句があります。

木の葉髪痩身いづくまで痩する  『雪嶺』

掲出句は、己が病状の深刻さに慄然とする遷子の姿がリアルに伝わってきます。これも中西さんが指摘された通りです。再入院後には、こんな句もあります。

夏痩せにあらざる痩せをかなしみぬ  『山河』

そして、掲出句のすぐ後には、次の2句が並んでいます。

霜つよし一縷の望みまだ捨てず
木の葉散るわれ生涯に何為せし

折れそうになる心を奮い立たせようとする如き前者、けれどもふと頭をもたげてくる諦観を詠んだ後者。二つの情念が遷子の心の内に渦巻いています。前々回に筑紫さんから御教示頂いたように、診察を下した医師の言葉に一度は希望を抱いたものの、再び疑念を抱かざるを得ないほど病状は悪化していきます。今回の掲出句を含め、遷子は、敢えてそうした心情を隠さず、そのまま句に残しています。「客観写生」を句作の絶対的テーゼとする立場から評価されることはありえないでしょうが、私はそれこそが遷子俳句の魅力だと考えています。

窪田:「別のわれ」にどきっとします。鏡の前の自分の姿は、確かに健康な時のものではありません。しかし、遷子はそうした外面的な違いに寒さを感じたのではないと思います。そこに映った生身の人間の精神というか、本質というのか、底知れない奇妙な自分の姿に気付かされたのでしょう。紳士でありたい、正しくありたいと生きてきた遷子にそれはどれほど深い悲しみを与えたのでしょうか。

私の先輩に若くして膵臓癌で亡くなった人がいます。毎晩のように連れ立って呑み歩き、理想の学校を創ろうと語り合った人でした。体格がよい人でしたが、病状が悪化した時は半分ぐらいになってしまったように感じました。もう、理想の学校づくりのことは一言も言えなくなりました。奥さんが言われた「浴室の鏡は外しました」という言葉が今でも耳に残っています。

筑紫:50年11月10日の作品です。入院1週間前の作品で、翌々日の14日に、

入院を決めて安けし霜日和(句集未収録)

を詠んでいますから、入院を決める直前の遷子の揺れる思いを語っています。鏡の中にあまりにも衰えた自分を見つけて驚いているのですが、自宅での発見であるだけに衝撃的であったでしょう。自らの病状については、さらに

小春日や黄に染まりゆくわが肌(13日 句集未収録)
着むとして両手が重し冬の衣(15日 句集未収録)
痩せし身に(「わが脚に」と推敲)起居が重き炬燵かな(同上)

からも、黄疸や体力の衰えを感じる遷子の肉体的状態も推測できます。また、心理的状況については、

霜つよし一縷の望まだ捨てず(12日 句集収録)

と思いつつも、

遺書書くや入院前夜しぐれつつ(14日 句集未収録)

と覚悟を決めています。以後、死を必至として眺めてゆく俳句がならんで行きます。17日の入院後は、

冬青空母より先に逝かんとは(17日 句集収録)
一夜寝ず二夜ねむれず木枯す(同上)
あきらめし命なほ惜し霜の朝(「冬茜」と推敲)(26日 句集収録)
死は深き睡りと思ふ夜木枯(同上)
冬麗の何も残さず去らんとす(「微塵となりて」と推敲)(同上)

秒読みに入った遷子の病状が分かります。特に26日は、「病急激に悪化、近き死を覚悟す」と述べたように、終末といってよかったでしょう。実際、翌年1月2日に見舞いに行った福永耕二に冬麗の句を示して「これは辞世です。辞世を詠んでから生きのびました」と語っている。それでも奇跡的に持ち直した遷子は、翌27日にここまでの句稿を矢島渚男氏に渡して、句集『山河』の編纂を依頼しているのです。どう見てもこれは遺書でした。

       *       *       *

前々号で、遷子のなくなる直前の状況を、「俳句」や「馬酔木」の追悼号を参考に述べました。またそれらから、堀口星眠、福永耕二、千代田葛彦、大島民郎、古賀まり子、黒坂紫陽子、市村究一郎、渡辺千枝子氏らが入れ替わり見舞い、遷子を激励し、追悼号に美しい回想記事を書いている事実を報告しました。亡くなる直前に、遷子が句集『山河』の上梓と、波郷以来二人目の葛飾賞受賞を楽しみにしていたことを述べました。『山河』の上梓は間に合いませんでしたが、葛飾賞の受賞は遷子が最後に聞いた俳句の話であったのです。このように、

師恩友情妻子の情に冬ふかむ 
  われにその価値ありや
かく多き人の情に泣く師走

という温かい友情や愛情に囲まれた遷子の死でしたが、歴史は皮肉でした。

遷子没後4年目の54年12月に水原秋桜子が二度目の心臓発作を起こし入院します。今度は選評どころか選句も出来なくなり、堀口星眠氏が代選をへて、55年6月に正式の選者となります。この時、それまで編集長を務めていた福永耕二が排除され、市村究一郎氏が編集長となるのです【注】。俳壇の寵児であった福永耕二は、一転不遇な中で病気を得て、12月死亡します。「馬酔木」の編んだ追悼号は耕二の友人たちにとってみると余り心のこもったものではなかったと言います。やがて、翌56年7月、後を追うように水原秋桜子もなくなります。耕二の死後しばらく経ってから彼の死を知らされた秋桜子は、「俺も耕二と一緒に死にたかった」と言ったといわれていますから、まさにその通りになったのです。「馬酔木」では、つつがなく秋桜子の追悼、700号記念が終ったあと最大の混乱が始まります。59年4月に、「馬酔木」は堀口星眠、大島民郎、市村究一郎氏を除名します。馬酔木集の選者は杉山岳陽氏(のち水原春郎氏)となり、福永耕二の編集仲間であり親友であった渡辺千枝子氏が編集長に就任します。一方、堀口氏を中心に、大島民郎、市村究一郎、古賀まり子氏ら元の「馬酔木」主要同人を多数加えて59年6月に「橡」が創刊されました。編集長は市村氏でした。ですから先ほどのメンバーで「馬酔木」に残ったのは、千代田葛彦、黒坂紫陽子、渡辺千枝子氏らわずかでした。しかし「馬酔木」では、新体制後ただちに秋桜子特集に加えて、不遇であった福永耕二の特輯を行って、新しい方向性を示したのでした(同じく、福永の親友であった黒坂氏は自力で『福永耕二(俳句・評論・随筆・紀行)』という全句文集を刊行されています)。一方、「橡」からはいくばくもなく、市村氏が「カリヨン」を創刊し独立してしまいます。

遷子が生きていたら、これらの事件をどのように思うでしょう。その意味では、必ずしも遷子が望んだようにあと20年生きられなかったことも、多少の救いであるような気がするのです(もちろん、遷子が生きていたらもうすこしましな歴史もあったはずですが)。

【注】遷子は編集長である福永耕二を高く評価し、毎月「馬酔木」が発刊されるや、直ちに電話で感想を述べていたと言います。あまつさえ編集に関しては、編集長に就任したばかりの耕二に対して「もし馬酔木のためにならないと貴兄が判断したら、たとえ同人会長(遷子)の意見であろうと他の編集委員の意見であろうと無視して、貴兄の思うとおりやってください。遠慮する必要はありません」と手紙で述べているそうです(「相馬遷子覚書」)。

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大井連載(10) 田川飛旅子

「俳句空間」№.15(1990.12発行)〈特集・平成百人一句鑑賞〉に纏わるあれこれ(10)
田川飛旅子「草の絮一本足を立てて降る」


                       ・・・大井恒行


田川飛旅子(1914〈大3〉・8・28~‘99〈平11〉・4・25)の平成の自信作5句は、以下。

草の絮一本足を立てて降る  「陸」平2・7月号
湯煙の芽木へあがりて真夜なる  「陸」同・6月号
わが愛は飴呉るるだけ裸孫  「陸」平元・9月号 
左右の別なき雪沓をはき雪へ  「文藝春秋」平2・3月号
拳で叩く芽木の吊鐘低答す  「俳句」同・6月号

一句鑑賞者は、現在「草樹」編集長の妹尾健。その一文には、「クリスチャン俳人ということばが、現在の俳壇に定着しているとはいえないだろうが、田川氏の出自また人間探求派の中に宗教を――特にキリスト教に接近する側面のあることを私らはもっと知っておかねばならない。勿論、それはすぐれて俳句史の課題でもあるのであって、キリスト教への接近が、たんなる素材でのみおわることもあるのであるが、田川氏の場合は自己の存在を賭したものであったことは、容易に理解することができるのである。そしてそのことはまた田川氏が信仰と表現という、このともすれば違和を起こしやすい領域を調和し得てきた稀有に属する人であったことを示しているのである」と述べ、末尾に「氏の孤絶はやはり『一本足』にかかってくるのだろう。それはいまにも倒れかかってくるようにもみえながら、それを支えるのは『一本足』なのだ、ということをあらわしているようにもとれる。この孤絶した心情はやはり氏の中に流れている信仰というものがあるからなのだろう。人はしばしば信仰をもちさえすれば安心を得るように考えてしまう。しかし、本当はそうではないのである。そこにあるのは孤絶した心情によって、自己を支えることなのである。それは周囲の世界があたかも救済されたかのようにみえるただ中にあって、ひとりで立ちつくすことなのである」と記している。

田川飛旅子(ひりょし)の本名は「博」。19歳で日本メソジスト教会の洗礼を受けている。一高在学中は土屋文明選アララギにて短歌を学ぶも、1940(昭15)年、大学卒業後、古河電気工業(株)に入社、杉山白夜に勧められ俳句を始める。巷は紀元2600年祝賀行事に沸いていた。

その田川飛旅子について「俳句研究」(昭和56年11月号「特集・田川飛旅子研究」)編集後記に高柳重信は次のように述べている。「顧みれば、加藤楸邨の『寒雷』が創刊されたのは昭和十五年十月であるが、その予告が出て以来、実際に創刊号が出るまでの期間を、多くの青年俳人たちは文字どおり、一日千秋の思いで待ちつづけたのであった。当時、編集子は早大の学生であったから、通学の途中、その発行所である江戸川橋の交蘭社を毎日のように訪れて、それを創刊の当日に入手したことを記憶している。その約一年後には、遂に大戦に突入するという時代であった。そのような緊迫した状況下にあって、当時の青年たちの思いを曲がりなりにも俳句に託すことの出来そうなところは、新興俳句の弾圧が着々と進行してゆくとき、もはや、この新しい『寒雷』しかなかったと言うべきであろう。そして、その『寒雷』の創刊号において、楸邨選の雑詠の巻頭を占めたのが田川飛旅子であった。このことは、その後の時代の推移の中で、人間探求派の系列が次第に俳壇主流の位置を占め、また『寒雷』系の俳人たちの多くに日が当たりはじめたとき、田川飛旅子にとって非常に大きな意味を持って来たにちがいない。もう、四十年も昔の記憶である」

「寒雷」創刊号の巻頭となった句は、田川飛旅子の第一句集『花文字』の巻頭句でもある「胸の湿布替えいるひまも聴く野分」である。

僕が40歳代の頃(すでに、20年ちかくになるが)、現代俳句協会の幹事会などで見かけた姿は、偉丈夫でありながら、真面目で温和な人という印象であった。その結社誌「陸」は田川飛旅子没後、中村和弘が継承している。

遠足の列大丸の中とおる  『花文字』
犬交る街へ向けたる眼の模型  『外套』
父死せり寒く大きな鼻を残し  『植樹祭』
顕微鏡で覗く聖書に生えし黴  『使徒の眼』
非常口緑の男いつも逃げ  同

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「俳句空間」№15(1990.12発行)〈特集・平成百人一句鑑賞〉に纏わるあれこれ(9) 後藤綾子「家中にてふてふ湧けり覚めにけり」 ・・・大井恒行 →読む


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山口優夢 『夏至』を読む

夢の気配 『夏至』を読む


                    ・・・山口優夢




地続きに狼の息きつとある

この句集を読むことは、夢の中をさまようことに似ている。現実のようでいて、どこかが決定的に間違っている世界。まるで異端の神が、我々の五感に、限りなく本物に似ているがどうしようもなく偽物の情報を入力して、戸惑う我々を嘲笑っているかのような世界。現実とは磨り硝子一枚隔てられたような…。

夢はまず、遠くに輝くこんなおそろしい景色から始まる。

噴煙に日面のある大暑かな

火山の噴火、あるいは、地獄谷。「日面のある」という表現から、太陽の輝くきらめきだけではなく、噴煙の大きさ、広さを含めた量感まで手ごたえをもって感得し得る。そんな大暑であるから、暑さもひとしおであろう。

もくもく、もくもくと広がってゆく噴煙。きらきら、きらきらと輝く日。それ以上に意味の介在しない世界。誰も話しかけてこない、誰も眼に映らない。ただ、地の底から湧き出してくる果てしない煙と日の光に向き合う。まるでこの景色だけで世界が完結しているような気持ちにさせられる。

我々がいつも住んでいる日常の世界のはずなのに、どこかずれている世界、鏡の向う側である、彼女の“夢”は、こうして始まる。



進化してさびしき体泳ぐなり
暁闇の夜鷹のこゑに応へたく


動物の進化の果ての人間のこの体。「さびしき体」が泳ぐという言い方からは、彼女が水着も何も着けずに生まれたままの姿で泳いでいるように感じる。衣服や装飾品をすべてとっぱらったあとの人間の体の、なんとつるつるしてさびしいことであろうか。

少し唐突かもしれないが、僕はこの句から「ドラゴンボール」という漫画のフリーザの最終形態を思った。フリーザという宇宙人は、作中で3回にわたって変身を繰り返す。1回目の変身後、2回目の変身後の姿は、巨大化したり顔が異様に長くなったり、怪物じみた格好になるのだが、最終形態は、まるでちょっと背の小さな人間のようなすっきりした姿になるのだ。そして、そのつるつるした姿が一番不気味なのである。

進化の結果辿り着いた、つるつるの体が、今、生き物の母なる海で泳いでいる。アメーバや魚類や恐竜や猿だった時代を超えて、海に戻ってきた自分の体をさびしいと思ったのは、彼女自身ではない。彼女の中に眠るすべての生き物の記憶、それらがつながって、ひとつの夢になる。

逃れようもなく人間の体を持ってしまっている自分、それは「夜鷹のこゑ」に応えられない自分だ。夜鷹の声に応えたい、というのは彼女の感傷などではない。夜鷹の哀しげな声に自分の憂いを重ねているのだとは思いたくない。そうではなくて、彼女は夜鷹に応える声を持っていない自分を、切実に悲しんでいるのだ。「応へたし」ではなく「応へたく」としたことで、「応えたい」という思いがきっぱりとした希求なのではなく、無理だとは知っていても求めずにいられない、逡巡の果ての切実さのようなものを感じる。「応へたし」ときっぱり言われていたら、それは彼女の感傷というちっぽけな器に墜ちてしまっていただろう。

普通、人間はこのようなことに悲しみの感情を抱かない。抱いたとしても、なんだかうそくさい。しかし、これは夢の中の話なのだから、そういう理屈の通らないことに人は真実の悲しみを見出してしまうのだ。

人間は、人間以外の何者でもない。

鷹消えていつか青空見てゐたり

夜鷹は、そして鷹は、いったいどこへ行ったのだろうか。人間である彼女には、それを知るすべはない。



抱き合へば滝の触れ合ふごとくなり
さざなみはさざなみのまま夏の暮
百合と百合背中合はせに豪雨なり

これらは「恋の座」として設けられた章の中にある三句であるが、これらの句に、かなり強く夢の気配を感じる。

「滝の触れ合ふ」という比喩には、さまざまな解釈が可能であろうが、僕は、この掴みどころのない比喩から、彼女のぼんやりとした瞳を思い浮かべる。抱き合いながら、「ああ、滝が触れ合うようだね」と言う彼女。僕は思わず身を離す。

滝、というか水の冷たさは、抱擁の儚さを言いとめているようでもあり、触れ合った滝の水はその滝壺で一緒になることを思えば、恋の永遠性をことほいでいるようにも感じる。だが、我々自身が滝なのだとすれば、落ちてしまった水は我々の残骸に過ぎないのかもしれない。

こんな不思議な感覚を、さも当たり前のことのように口にする彼女は、我々の価値観とはずれているにも関わらず、自分ではそれに気が付いていないかのようだ。にっこりとほほ笑む彼女。少し怖い。

さざなみの句が「恋の座」中にあることを思えば、「さざなみ」というのは異性に感じるかすかな心の揺れやときめきの暗喩なのかもしれないが、むしろ、僕は本物のさざなみを思い浮かべたい。「さざなみはさざなみのまま」という言い回しには、はっきりと永遠性を感じさせるものがあり、その永遠性によって「夏の暮」がいつまでもこの夢の中では続いているように感じさせる。

永遠性とは、あるシーンが何も変わらずにそのまま存在し続けると信じられる状態、とでも言おうか。「百合と百合」の句にもそれを感じるのは、百合の静けさに対して、やや遠くに響く豪雨のすさまじい音がきれいに釣り合っているから、であろう。この「背中合はせ」も恋のメタファーとして働いているように感じられるが、むしろ僕には、百合の花の茎を曲げてしまう重さ、そのぼってりとした存在感を引きたてて心地よく思える。

あぢさゐに色残りたる時雨かな
雪の日の売れて小さな檻の空く
カルデラはひかりの器福寿草

もうずっと、わずかに赤や青の色が残った紫陽花に冷たい時雨が降っていた。小さな檻はこれからずっと、空白を抱えているのだ。カルデラは今までもこれからも形を変えることなく光をためつづけるであろう…。

夢は、覚めることで終わる。必ず途中で終わってしまうものなのだ。中断され、強制的に終わったその夢には、どこかに続きがあったはずだった。夢とは、永遠に続いているにも関わらず、人間にはその一部しか見ることのできないものなのだ。これらの句に流れている永遠のような時間は、そのまま夢の中の時間感覚に近いと言えよう。

行けば在る南大門と蟇



「昴」の章は、句集全体で見てもやや特殊のようだ。

死のひかり充ちてゆく父寒昴
牡丹に佇つ後ろ手の父とはに

父の死に際した句であろうと推察される。二句目は句の置かれた順番から見ても、死後に父を幻想している句であろう。この「後ろ手の父」はきっと後姿に違いない。彼女には、父がどんな表情をしているか分からない。

立てず聞けず食へず話せず父の冬
甲種合格てふ骨片や忘れ雪

死にゆく父に対する哀惜、ひたすらな悲しみを感じさせる句群ではあるのだが、その中で次の句があることは見逃せない。

死もどこか寒き抽象男とは

父の死を、どちらかと言えばその状況を詳しく伝えるように書かれたほかの句群の中で、この句の持つ抽象性はかなり特異な印象を与える。そもそも、この句の意味を明確に取ることはややむつかしい。「男」を「父」のことと特定していいのか悩むし、「男とは」という下五が、「死もどこか寒き抽象」という命題にどのように働くかが特定できないからだ。ここで言う「死」とは、「男」自身の死なのか、「男」の意識における死という概念を指して言っているのか、それとも「男」とは関係ないのか、判然としない。おそらく、作者自身にもはっきりした意味があって書いているのではなく、このようにしか言葉にならなかった句なのではないだろうか。

この「男」は、父とは別人ではないか、と考えてみる。父の死に対して誰か男が語った言葉が、あまりに実感を伴わない言葉だったのではないか。「寒き」という言葉が、「男」に対する怒り、あざけり、哀れみなどの言葉にならない気持ちを一手に引き受けているようにも感じる。

あるいは、父が最期まで「死」というものを実感しないまま逝ってしまったということなのかもしれない。そうだとすると、「寒き」という一語はとても悲しいもののように感じられる。

どちらかは分からないが、男という生き物が持つ哀れさを描いて不足ない一句だと感じた。

この一句における彼女は、夢の中にはいないようだ。あるいは、「立てず聞けず」の句、「甲種合格」の句にも、彼女の現実における感情が優先されているため、いつもの、夢の中を漂うような心持ちが表れない。それほどまで他人に心が向いている句は、この句集では、父の死、以外では見出されないのだった。

考えてみれば、夢の中を漂うような句、には、彼女以外の他人はほとんど登場しないのであった。あるいは、それらの句では、彼女の感覚が感情に優先されている、と言い換えてもいいかもしれない。「さびしき体」「夜鷹のこゑに応へたく」にはもちろん感情が含まれるが、これらの感情は、肉親の死のような具体的な事柄から発生したものではなく、彼女が世界に感応した、その感覚から発生したものであった。それこそが、彼女の「夢」の源泉であったのだ。



冒頭にあげた句、

地続きに狼の息きつとある

この句に果てしない暗闇を感じるのは僕だけであろうか。彼女が見つめているのは、ただの闇なのである。その果てしないどこかで、狼の小刻みな呼吸が闇を揺らしている…。

「地続きに」の一語の果たす役割は大きい。彼女の世界に対して、この狼はどこかでつながってしまうのだ。見たこともない狼、しかし、彼女はそれが地続きに存在しているだろう、と想像することで満足する。海を隔てているのではない以上、狼がやってくることだってできるし、彼女から探しに行くことだってできる(可能性としては、あり得る)。でも、おそらく彼女とこの狼とは出会うことはないであろう。我々はこの世界において、すべてのものに出会えるわけではない。

この陸地のどこかにいるわたくしだけの狼!眼には見えないそれを思うことは、この広大な世界の形を思うことだ。彼女の前に実際にあるのはただの暗闇、しかし、彼女の夢の世界にあるのは狼の息づかい。

彼女の夢と現実の境目はこの句のあたりにあるのではないだろうか。

霧巻いて崖かもしれぬ明るさよ

ああ、また夢が途中で終わろうとしている。

作者は正木ゆう子(1952-)


あとがき

取り上げたのは、正木ゆう子氏の第4句集である。6月に出たばかりの最新句集であるが、すでにネット上では何人かの方がブログで取り上げておられる。

その中で、坪内稔典氏は、e船団「ねんてんの今日の一句」6月20日付の記事で以下のように述べている。

句集の帯にある「進化してさびしき体泳ぐなり」は、最新の水着や極端なまでの筋トレを連想するが、要はそれだけ。「さびしき」という思いに理屈以上のものがない。

「進化」=「効率化」=「さびしき」という言葉の連想が働いてしまうところが「理屈」と言っているところなのだろうと推察する。僕は上記の鑑賞文で坪内氏とは異なる読みを行なったため、このような「理屈」は感じなかった。「進化」というのは、競泳における水着や筋トレといったごく最近の「より速い泳ぎ方の進化」のことではなく、もっと長いタイムスケールで「人間に至る生物の体の進化」ととらえるべきではないかと考えたからだ。

とはいえ、坪内氏がこのように苦言を呈するのも理解できないわけではない。「進化」という言葉をどのように受け取るかは、読者にゆだねられているのだから。そして、この坪内氏の鑑賞は、商品名を詠み込むなどの手法で常に「現代」を意識した句作りを行っている坪内氏らしい発想ではないかと思って、むしろ興味をひかれた。坪内氏とは異なり、正木氏は広大なタイムスケールや空間スケールの中で想像を広げて句を作ろうとするタイプであり、二者の相違点がこのような鑑賞からもうかがえるように感じたのである。

どちらのタイプの作り方が優れているとか劣っているとかいうことはないものの、正木氏の作り方は、ややもすればスケールが大きいものの実感が伴わない、既成概念の中でもできてしまう作り方ゆえ、なかなかいばらの道であるようにも感じた。ただし、今回僕が鑑賞した「地続き」の句などは、そのような既成概念をはるかに超える力量を示していると感じ入ったことは付け加えておく。


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2009年6月21日日曜日

第44号


第44号

2009年6月21日発行

俳句九十九折(40)

俳人ファイル ⅩⅩⅩⅡ 臼田亜浪

          ・・・冨田拓也   →読む

夏月虚間、北窓のもとにPCを据えての漫筆なり
野水・荷風・左亭の巻

          ・・・高山れおな   →読む

「俳句空間」№15(1990.12発行)〈特集・平成百人一句鑑賞〉に纏わるあれこれ(9)

後藤綾子「家中にてふてふ湧けり覚めにけり」

          ・・・大井恒行   →読む

遷子を読む

〔13〕山河また一年経たり田を植うる

・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井   →読む

安井浩司著『海辺のアポリア』を携えて深山董を探しに【第二回】

          ・・・救仁郷由美子   →読む


あとがき           →読む

豈同人の出版物      →読む

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あとがき(第44号)

あとがき(第44号)



■高山れおな


前号で冨田拓也さんが休載を連絡するメールをくださった時、特に理由は記してなく、体調が悪いとかそういうことでもないなら、そうか対象が大物で読みきれなかったのだなと推測しておりましたら案の定でした。「俳人ファイル」は何しろ一週間でひとりの俳人の作品を読み上げるのですから、たとい比較的寡作の作者でも時間的にはいつもぎりぎりの綱渡りなのではないかと思います。長命多作の作家となるとその大変さは想像を絶しております。まして今回の臼田亜浪は、韻律に独自なものがあり、ある種の花鳥諷詠作家のようにすらすらと流れるように読むわけにはゆかないようです。ご苦労さまでした。高山は、角川書店の『現代俳句大系』第七巻に入っている『定本亜浪句集』を読んで退屈だと思って済ませておりました。しかし、今回の冨田さんの紹介によって、魅力的な句が多くあるのを改めて知りました。感謝に堪えません。

大雷雨悠然とゆく一人ありぬ  亜浪

ほんとにそんな感じの連載になっております。

当方は、金子兜太『日常』、坪内稔典『水のかたまり』、長谷川櫂『新年』『富士』――ボスキャラ三人の句集四冊が机辺に積んであるのを、ガマの油のような汗を流しつつ睨んでおります。正木ゆう子『夏至』もあるし。いやほんと、睨んでるだけで何もしてませんが。

関悦史さんの「閑中俳句日記」は都合により月内はお休みします。




■中村安伸

先週号の表紙に使った写真の被写体は、お気づきの方も多いと思いますが、奈良美智の彫刻「プーケット・ドッグ」です。設置場所はタイ王国プーケット島の西岸、パトンビーチというところです。ここは過日インド洋大津波で大きな被害を受けた場所であり、復興を祈念し作られた像と聞きおよびます。

すなわち私はそこへ行ってきたわけですが、数日間ビーチに寝そべって読書などしていたら、大変な日焼けをしてしまいました。身体の皮があぶらとり紙みたいに薄く剝けるのが面白いです。ここまで焼けたのは小学生のときの夏休み以来だと思います。

今週の表紙写真は、同じプーケット島で撮影したものです。


2009年6月20日土曜日

俳句九十九折(40) 俳人ファイル ⅩⅩⅩⅡ 臼田亜浪・・・冨田拓也

俳句九十九折(40)
俳人ファイル ⅩⅩⅩⅡ 臼田亜浪

                       ・・・冨田拓也


臼田亜浪 15句


氷上に霰こぼして月夜かな

鵯のそれきり鳴かず雪の暮

葱筒に大螢獲て戻りけり

木曾路ゆく我れも旅人散る木の葉

霧よ包め包めひとりは淋しきぞ

軒の氷柱に息吹つかけて黒馬(あを)よ黒馬(あを)よ

今日も暮るる吹雪の底の大日輪

かつこうや何処までゆかば人に逢はむ

死ぬものは死にゆく躑躅燃えてをり

雛箱の紙魚きらきらと失せにけり


天風や雲雀の声を断つしばし

山桜白きが上の月夜かな

牡丹見てをり天日のくらくなる

人込みに白き月見し十二月

白れむの的皪と我が朝は来ぬ



略年譜

臼田亜浪(うすだ あろう)


明治12年(1879) 長野県北佐久に生まれる

明治27年(1894) 俳句を知り、月並俳諧へ投句

明治29年(1896) 子規を知る

明治35年(1902) 短歌を与謝野鉄幹に、俳句を高浜虚子に学ぶ

明治42年(1909) 「やまと新聞」編集長

大正3年(1914) 東京市会議員を目指すも病のため断念 8月、静養中に虚子に会ったことにより俳壇に立つ決意を固める 10月、大須賀乙字に会う 11月、石楠社を創設

大正4年(1915) 「石楠」創刊

大正7年(1918) 弟子同士の諍いにより乙字及びその門下と袂を分つ

大正10年(1921) 「石楠」が亜浪の主宰誌となる

大正14年(1925) 『亜浪句鈔』

昭和12年(1937) 『旅人』

昭和21年(1946) 『白道』

昭和24年(1949) 『定本亜浪句集』

昭和26年(1951) 逝去(73歳)

昭和52年(1977) 『臼田亜浪全句集』




A 今回は臼田亜浪を取り上げます。

B 俳句の歴史の中でも、この作者は割合ビックネームであるといってもいいはずだと思います。

A しかしながら、現在においても、名前についてはある程度知られているのかもしれませんが、その作品については、多くの人々にとってあまり馴染みがないものであるかもしれません。

B 昔の俳人ということになりますから、あまり作品にふれる機会がないということも関係しているのでしょう。

A 一応亜浪の作者としての活動期間は、おおよそ大正3年(1914)あたりから昭和26年(1951)に亡くなるまでの37年ほどということになります。

B では、臼田亜浪の略歴について見てゆきましょう。

A 臼田亜浪は、明治12年(1879)に長野県北佐久に生まれ、明治27年(1894)の16歳の頃に俳句を知り、月並俳諧へと投句、自ら一莵と号しました。

B その後、明治29年(1896)に子規を知り、明治35年(1902)には、短歌を与謝野鉄幹に、俳句を高浜虚子に学んでいます。

A その後10数年ほど、仕事による多忙のため俳句とは疎遠になっていたようです。

B 明治42年(1909)には、やまと新聞編集長に就任し、大正3年(1914)に東京市会議員を目指しますが、腎臓、膀胱の病のため、政治への夢を断念することを余儀なくされます。

A はじめから俳人を目指していたというわけではなかったようですね。

B その同じ年の8月に、信州の温泉での病気療養中に高浜虚子に会い、臼田亜浪は俳壇に立つ意志を固めることになります。

A 失意の亜浪は俳句に希望を見出すことになったわけですね。

B その後10月に、大須賀乙字に出会い、11月には石楠社を創設、翌大正4年には「石楠」を創刊しています。

A 亜浪は虚子に再会して俳句を再び始めることを決心したわけですが、虚子の「ホトトギス」には依拠しなかったようですね。

B 虚子とは「ホトトギス」誌上において俳句観の大きな相違を感じ、失望して離れていく結果となったようです。

A その後は、大須賀乙字の俳論へと大きく傾倒してゆくことになるわけですね。

B 乙字は、新傾向俳句にも反対していましたから、亜浪も乙字と同じく河東碧梧桐の新傾向俳句に否定的でありながら、虚子の「ホトトギス」俳句にも依ることなく独自の道を進むことになりました。

A 山下一海の『俳句の歴史』(朝日新聞社)によると、この時代には、碧梧桐、虚子以外の俳人としては、亜浪の他に、松根東洋城と青木月斗の存在が「第3の領域」として挙げることができるようです。

B では、臼田亜浪の作品についてみてゆくことにしましょう。

A 今回私が参照にしている資料は主に『臼田亜浪全句集』ということになります。亜浪が本格的に俳句を始めたのは大正3年からですから、まずそれ以前の作について見てみましょう。

B まず、明治37年には〈信濃路や蚕飼の歌に春暮れぬ〉〈牡蠣船に石船に飛ぶ燕かな〉〈芹の香や水の朧を鳴く田螺〉〈軍絵の廻り燈籠売れにけり〉、明治38年には〈昼火事に巣をこぼたれし燕かな〉、明治41年には〈藤咲いて碓氷の水の冷たさよ〉といった作品が見られます。

A どの句の内容もさほど悪くないものであるとは思いますが、どちらかというと普通の内容の句ですね。

B その後の本格的に俳句を始めようと思い立った大正3年における作品を見ると〈土喰うて生くる燕や日暑し〉〈沼照りに湧きやまぬ泡や青蜻蛉〉〈杉柱檜柱月に匂ふなり〉〈雄鳩待てば雌鳩に銀杏時雨して〉〈折れ木踏んで檜山下りぬ鳥渡る〉〈蔵を出づれば昼の日赫と草枯るる〉〈霧の中鈴蘭の実の赤きかな〉といった句が見られます。

A 「折れ木」「蔵を出づれば」などの句における表現には、やや破調に近いものを見て取れるところがありますね。

B さきほどにも触れたように、亜浪は新傾向でもなく、「ホトトギス」でもない「中間派」として自主独立による独自の路線を進みました。

A 亜浪には「俳句に甦りて」という文章に〈五七五調は、俳句創造の歴史に稽へても、国語の音律から云つても、確かに尊重すべき理義があります。けれども私は是非とも五七五の三段様式でなくてはならぬと云ふ一定不動の原則的意義を有するものではない、俳句の形式上に於ける不抜の原則は、一に十七字の限定数にある、必ずしも五七五調に限られたものではない、単に尊重の意味を以て取扱へば足ると思ひます。従つて苟も十七字たる限り、其の語調の如何と、三段様式たると四段様式たるとは、敢て問ふを要せない。用語の長短、語彙の連続を案じて、時に応じ適当の様式に拠れば宣いと云ふ広義の解釈に従ひたいと思ふのです。〉という言葉が見られますから、五七五の定型墨守でもなければ、単なる自由律でもない広義の17音詩といったものを標榜したということになるようです。

B その後、大正4年になると、大須賀乙字の援助で「石楠」を創刊し、その作品の数も大幅に増加します。

A その大正4年の作品をいくつかを見てみると、〈日移れば雪残る竹の騒ぐかな〉〈ほがらほがら燃ゆ藪根なる囀りて〉〈壺焼の殻積めば梅の散る日かな〉〈夥しき浮木に燕返すなり〉〈樹かぶさりの池明り蛙しんしんと〉〈接ぎ穂かげりして昼雷のなぐれ行く〉〈庇伝ひに鈴鳴らし鳴らす春の猫〉〈芝草にうなじすりすり猫恋ふる〉〈風潮の大ほぐれして雲雀かな〉〈夕霞朽木ぼくぼく踏み下る〉〈霞こぼれの鳥草山へ草山へ〉〈雲雀あがるあがる土踏む足の大きいぞ〉〈屋根々々の沈みて花の真つ盛り〉〈撓め枝のはね返りはね返る若葉かな〉〈森しんしんと蟬啼き沈む真夏かな〉〈雨晴れて大空の深さ紫陽花に〉〈磧草に水涸れ涸れや夕螢〉〈狩り魚のあぎと貫く青芒かな〉〈馬いたわつて水越ゆ野面銀河落つ〉〈凩や雲裏の雲夕焼くる〉〈かまつかに照りぬけて夕べ秋の風〉といった作品が見られます。

B 一応この段階で、亜浪の作風における基本的な部分については、すでにある程度出揃っていると見ていいように思われます。

A これらの作品から窺える、亜浪の俳句作品における大きな特徴は「繰り返し」の表現ということになるようですね。

B 「ほがらほがら」「しんしんと」「鈴鳴らし鳴らす」「すりすり」「ぼくぼく」「草山へ草山へ」「はね返りはね返る」「水涸れ涸れ」「雲裏の雲」といった擬音表現をも含んだ「繰り返し」の手法による表現が確認できます。

A こういった表現は、先の大正3年の作品における「杉柱檜柱」「雄鳩待てば雌鳩」といった並列の手法にも通じるものであるのでしょう。

B このような「繰り返し」「オノマトぺ」「並列」といった表現が亜浪の作品に独自の韻律を付与する結果となっているようです。

A 定型から逸脱しようする傾向を、独自の韻律によって統御、維持しようとしているようにも思われますね。

B 大正5年には〈蠑螈這ふ氷(ひ)底の砂の日ざしかな〉〈氷上に霰こぼして月夜かな〉〈巣雀に目白の卵抱かせけり〉〈地蜂掘つて蜂飯を焚く杣火かな〉〈蓼の芽を蟹の喰ひ居る日永かな〉〈大鳥の魚摑み去んぬ汐干潟〉〈雲雀落つ末黒の原の水光り〉〈庭一面敷く柿花や蝸牛〉〈ダリヤ大輪崩れて雷雨晴れにけり〉〈蜩や木影縫ひゆく野良使ひ〉〈鳥渡り次ぐ暁け空の銀河かな〉〈熊蜂の小蜂喰ひをる秋暑し〉〈秋の水糸瓜浸けたる青みかな〉〈柑園に蛇の出遊ぶ小春かな〉〈氷挽く音こきこきと杉間かな〉といった作品が見られます。

A これらの作品も含めて、これまで見てきた亜浪の作品における内容については、そのおおよそが基本的には自然詠ということになるようですね。

B 亜浪は「石楠」の創刊時における主張として〈吾等は俳句を純正なる民族詩として、内的に新生活より生れ来る新生命を希求し、外的に自然の象徴たる季語と十七音の詩形と肯定する。〉という言葉を掲げています。

A 日常としての「生活」における新しさの探求と、外的な「自然」の把握が、亜浪の俳句作品における基本的なテーマとしてその根幹には存在しているわけですね。

B 大正6年には〈蟹の巣となつて荒れけり蜆坪〉〈梅の髄はみ枯らす虫掘りにけり〉〈山頂の池引鳥の集ひけり〉〈雁見えずなりし田の面の水張りかな〉〈汐溜り海月生きをる遠雲雀〉〈潮時の黒鯛釣るる遠霞〉〈蒲公英や鶏移しては鶏舎燻す〉〈大牡丹崩れて思ひはるかなり〉〈葱筒に大螢獲て戻りけり〉〈蝸牛に霖雨の苺ふやけたり〉〈蝦すがる水底の草の梅雨茂り〉〈青田中島とも見ゆる森嵐〉〈河鹿澄む出潮の月の赤さかな〉〈盆の月山のぼる灯の一つ見ゆ〉〈地虫鳴く外は野分の月夜なり〉〈軒氷柱磨ぐ北風のつづきけり〉〈草の穂の吹きちぎれ飛ぶ風の月〉といった作品が見られます。

A どれも現実における自然の実相といったものが、ある種の実質感を伴って感じられるところがありますね。

B 「蟹の巣」「梅の髄はみ枯らす虫」「黒鯛」「鶏舎燻す」「葱筒に大螢獲て」「苺ふやけたり」「島とも見ゆる森嵐」などの作品からはリアリティの強さといったものが窺えます。

A 大正7年には〈やどかりの皆這つてをる春日かな〉〈瀬枕の草がくれ魚狗の飛ぶ〉〈垂れ毛虫みな木にもどり秋の風〉〈御山霧月かすめ去りかすめ去る〉〈雪月夜芦間の寝鳥しづまりぬ〉〈小春日や草水に鮒の上りをる〉という句があり、これらの作品も自然の持つ実感がその内側に内在しているようです。

B この大正7年になると、乙字と亜浪はさほど仲が悪くなかったそうですが弟子同士の諍いにより、亜浪は乙字と袂を分かつことになります。

A その後、大正10年になると「石楠」は、亜浪一人による主宰誌ということになりました。

B 大正8年の作品には〈囀りの森ぬけて囀りの森深し〉〈鵜の嘴のつひに大鮎をのみ込んだり〉〈孑孑やこの岩ひびのこの水に〉〈ぬめり茸採る手許雲母光りけり〉、大正9年には〈夜の音繭玉落ちし目覚めかな〉〈鵯のそれきり鳴かず雪の暮〉〈植残る一角に田虫むらがれり〉〈旱り路小石の光り眼に堪へず〉〈白日の大空の深さ五位の声〉〈鷺みんな森にしづまり月しづる〉〈山霧のまきさがりまきのぼる鵙の声〉〈話声奪ふ風に野を行く天の川〉〈山の音しんしんと銀河身にせまる〉〈豚の鼻づら南瓜の垂れ咲いて〉〈風の声碧天に舞ふ木の葉かな〉〈木曾路ゆく我れも旅人散る木の葉〉といった句が見られます。

A 「鵜の嘴」「田虫むらがれり」「豚の鼻づら」の句から感じられる実在感、そして「大空の深さ」「鷺みんな森にしづまり」「話声奪ふ風」「銀河身にせまる」「風の声」といった句からは、自然そのものによるスケールの大きさといったものを感じさせるところがありますね。

B また、「木曾路ゆく我れも旅人」といった句からは芭蕉の影響が見てとれます。

A 亜浪は芭蕉に倣ってのことであるのか、本当によく旅に出ていますね。

B 東海、関西、出雲、九州、北海道、そして海外である中国にまで旅をしています。旅に出ることによって句作における題材を蒐集していたようですね。

A 大正10年には〈木より木に通へる風の春浅き〉〈いつくしの雪の浅間よ月渡る〉〈青芒靡けて風の空に消ゆ〉〈ひとりとなつて子のおとなしし梅雨の昼〉〈蚊火煙り縫ふ雨玉の光りつつ〉〈炎天の石光る我が眼一ぱいに〉〈妻も子も早や寝て山の銀河冴ゆ〉、大正11年には〈雪原やかたまりてゆく小さき影〉〈ころろころろ蛙の声の昼永し〉〈水音風音溶け合ふ空の朧ろかな〉〈桑の香や月の青さの蚕を照らす〉〈笹竹の星影ひいてそよぐなり〉〈月原や我が影を吹く風の音〉〈霧よ包め包めひとりは淋しきぞ〉〈杉の声霧ほうほうと流れけり〉といった作品が見られます。

B 大正12年には、〈雪が降る降る鳥が来る来る朝の程〉〈山清水魂冷ゆるまで掬びけり〉〈あの目あの足どこあるきをる天の川〉〈でで虫の角振る葉先揺れじとす〉、大正13年には〈軒の氷柱に息吹つかけて黒馬(あを)よ黒馬(あを)よ〉〈雪に吹かれつ影のごと消ゆ寒念仏〉〈雪を吹く氷上の風の音を追ふ〉〈今日も暮るる吹雪の底の大日輪〉〈いつか円ろくなりしこの月よ雪の旅〉〈どろどろに雪か泥かや日の遊ぶ〉〈かつこうや何処までゆかば人に逢はむ〉といった句があります。

A これらの作品を見ると、やはり作品における韻律といったものが他の俳人の作品とは随分と異なるところがあるようですね。

B 「雪が降る降る鳥が来る来る」「あの目あの足」「黒馬(あを)よ黒馬(あを)よ」ですから、やはりやや特殊な表現であるといっていいでしょう。

A こういった特異なリズムといったものは『万葉集』あたりの古代歌謡からの影響といったものも考えられるのかもしれません。

B また、そういった和歌からの影響のみではなく、上島鬼貫からの影響といったものも大きいものであるのかもしれません。

A 亜浪は鬼貫を尊敬していたそうで、鬼貫と同じく俳句において「まこと」を目指すという言葉も見られます。

B 鬼貫の発句をいくつか見てみると〈ほんのりとほのや元日なりにけり〉〈春の水ところどころに見ゆるかな〉〈しら魚や目まで白魚目は黒魚〉〈草麦や雲雀があがるあれ下がる〉〈北へ出れば東へ出れば花のなんの〉〈おぼろおぼろ灯見るや淀の橋〉〈人に遁げ人に馴るるや雀の子〉〈又もまた花にちられてうつらうつら〉〈咲くからに見るからに花の散るからに〉〈うつつなの夜とは秋とは今ぞさぞ〉〈あすみちて明日かける月のけふこそな〉〈ひうひうと風は空ゆく冬牡丹〉ということになります。

A やはり繰り返しや擬音の表現において、随分似ているところがあるようですね。このように見ると亜浪の作には鬼貫からの影響といったものも考えることができそうです。

B  大正14年には〈町屋根のみな喰ひ合うて光る風〉〈山霧に螢きりきり吹かれけり〉〈青田貫く一本の道月照らす〉〈島ゆ島へ渡る夜涼の恋もあらむ〉〈友がゆく友がゆくかなかなの雨〉〈路地ぬけて銀河の風に向ひけり〉〈ふるさとは山路がかりに秋の暮〉、大正15年には〈壁かげの雛は常世に冷たうて〉〈曙や露とくとくと山桜〉〈死ぬものは死にゆく躑躅燃えてをり〉〈こんこんと水は流れて花菖蒲〉〈吹きのぼる風の照る照る山芒〉といった作品が見られます。

A 「山霧」「銀河の風」「露とくとく」「こんこんと」などの作品には、なかなか清新な気が溢れていますね。

B 亜浪の句は、どちらかというと全体的には思った以上に澄明な雰囲気といったものが感じられます。割合すっきりしたところがあるというか、透明な空気感に満ちているところがあるというか。

A リズムの面についてはやや特殊なものがありますが、その作品に表現されている意味内容については、意外にもさほど癖がないというべきなのかもしれません。

B さて、これまでは大正時代の作品について見てきましたが、続いて、昭和の時代における亜浪の作について見てゆきたいと思います。

A 昭和2年の句には〈初凪や蝦が泳げる潮だまり〉〈草中の捨て氷月さしゐたり〉〈山鳥を吊りし障子の白すぎて〉〈今日も今日も風が吹くなり籠る冬〉〈林中の雪に人ゆく朝の東風〉〈父がゆく影がつしりと月の雪〉〈雛箱の紙魚きらきらと失せにけり〉〈夕おぼろ家影が路にのしかかり〉〈田螺が蓋ひしととざして拾はるる〉〈雪山がまともの桜澄みまさり〉〈少年が笛吹いてゆく夜の暮春〉といった作品が見られます。

B 昭和に入っても相変わらず、なかなか純度の高い句をいくつも確認することができますね。

A 昭和3年には、〈鳥啼く鳥啼く春暁の枕上み〉〈蝶々に砂つむじ捲きかかりけり〉〈鵯のよろこび芽の木が雨ををどらせて〉〈夕立や土あびてゐる萩桔梗〉〈草原や夜々に濃くなる天の川〉〈お月様お星様芒ばかりにて〉、昭和4年には〈風塵や馬嘶いてゆく二月〉〈ほがらほがら青野の空に浮ぶ雲〉〈ぼう丹のあはれは散りし石の上〉〈えにしだの夕べは白き別れかな〉〈螢火や雨さんさんと野に満てる〉〈壁喰うて神馬あはれや春の蟬〉〈死おもひしそれもむかしや月玲瓏〉といった作品が見られます。

B 「鳥啼く鳥啼く」「萩桔梗」「お月様お星様」「ほがらほがら」「さんさんと」といった「繰り返し」もしくは「並列」「擬音」といった手法もさほど変わることなく展開されていますね。

A 〈壁喰うて神馬あはれや春の蟬〉といった妙な実在感の感じられる句の存在も注目されるところです。

B 〈死おもひしそれもむかしや月玲瓏〉といった回想的な句もこのあたりになると確認できるようになります。

A この時期、亜浪は年齢的には50歳を少し越えたところに位置しています。

B 昭和5年には〈霜の夜の野の石が声たつるかも〉〈月凍らんとすなり石も眠るさま〉〈吹かれたる雪のうねうね日向かな〉〈鵯が鵯が木伝ふ芽吹きこぞる中〉〈人間に昼の桜の湧きあがる〉〈若葉山雲ゆきゆきてゆきゆきぬ〉〈野蛙やぐぐと啼きろろと啼く〉〈天風や雲雀の声を断つしばし〉〈山の荒湯のとどろとどろと月涼し〉〈ゐるはゐるは小鮎ういもの石めぐり〉〈舞ひ入りし螢いとしむ旅寝かな〉〈湯の山へあやめあやめが咲き登り〉、昭和6年には〈山桜白きが上の月夜かな〉〈ほくほくと馬がおり来る山桜〉〈山の夜のおぼろおぼろに木莵ほろろ〉〈月涼しわれは山の子浅間の子〉といった作品があります。

A ここまで来ると、ずいぶんと擬音による表現が、特殊な相貌を呈しているようです。

B  「うねうね」「雲ゆきゆきてゆきゆきぬ」「ぐぐと啼きろろと啼く」「とどろとどろ」「ゐるはゐるは」「あやめあやめ」「おぼろおぼろに木莵ほろろ」ですから、ちょっと他の俳人たちの作品には見られない表現ではないかと思われます。

A あと、亜浪の作品には、さきほどにもすこしふれましたが、全体的に自然の実相というかアニミズムといっていいような雰囲気も強く感じられるところがありますね。

B いま取り上げた「石が声たつるかも」「石も眠る」「雪のうねうね」「昼の桜の湧きあがる」「雲雀の声を断つ」「あやめあやめが咲き登り」「木莵ほろろ」といった作品だけを見てもその表現からはやはり自然の持つ強い生命の力といったものがそのまま感じられるようです。

A 昭和7年には〈宵の星ちかちか近き冬木かな〉〈寒空や飛行機がビラ撒き散らし〉〈雨が降る降るざんざと山のさくらばな〉〈牡丹見てをり天日のくらくなる〉〈ほがらほがら牡丹の蕋に湧く陽炎〉〈曙や比叡の霞の街へのび〉〈山霊や月に浮べる草の露〉〈霜の草人影を追ふ風出たり〉、昭和8年には〈凧がつくりがつくりと夕凪げる水〉〈熱風の蝶とび入りて狂ひけり〉〈星へ啼く声の切なし草雲雀〉〈家あひを人ぬけゆきし風の月〉、昭和9年には〈余寒かなかすれ日が障子なめてる〉〈淡雪や妻がゐぬ日の蒸鰈〉〈高楼の窓みなあいてゐる日永〉、昭和10年には〈杣の斧光れば光れば桜散る〉〈雲雀あげて光る野底の水たまり〉〈サーカスのどよめきを雲雀あげてる〉〈蟬夕べ水を見てゐる顔々々〉〈人込みに白き月見し十二月〉といった作品があります。

B 「ちかちか」「雨が降る降るざんざと」「ほがらほがら」「がつくりがつくり」「光れば光れば」「顔々々」ですから、やはり亜浪の独自の表現といった趣きがありますね。

A そして、やはり〈霜の草人影を追ふ風出たり〉〈星へ啼く声の切なし草雲雀〉〈家あひを人ぬけゆきし風の月〉〈人込みに白き月見し十二月〉といった清冽な抒情を感じさせる作品にも捨てがたいものがあります。

B 昭和11年には〈初鷗水や空なる雲遠く〉〈枇杷が包まれ山かけて里かけて〉〈梅雨のひま船追ふ船の夕澄みす〉〈けくけく蛙かろかろ蛙夜一夜〉、昭和12年には〈青麦の風に白鶏放たるる〉〈白鶏のむれひしめける花吹雪〉〈空まろくかかり木々の芽やはらかし〉〈雁いぬる篊原浪に没し去り〉、昭和13年には〈巣にくだる鷺のもろ羽の碧みさす〉〈放つ蛾のきららが指紋見せにけり〉〈百合めぐる蛾の夕光を曳いて消ゆ〉〈谷々に霧沈みたり月の声〉、昭和15年には〈猟犬の傷つき戻り北風暮れぬ〉〈わりわりと氷柱を噛めり山の子は〉〈木倒しし木魂雪山這ひ消ゆる〉といった句が見られます。

A 続いて昭和17年には〈寒天をつんざき現るる翼々〉〈積雲下汽車海底を貫き走る〉〈蝶白く飛び迅雷の西へ去る〉、昭和18年には〈巨き艦巨き翼よ風青し〉〈柿ひさぐ路上炎塵みなぎれり〉、昭和19年には〈雪吹くや雛一つ一つ包まるる〉〈利鎌なす月光枯れし尾花截る〉、昭和20年には〈叢竹や氷雨の氷柱鎧ひ立つ〉〈ぴほぴぴほぴと木の芽誘ひの雨の鵯〉〈山上に人現はれつ春の蟬〉〈昼かなかな白道天へつづき光る〉〈西日澄めりかなかなの金属音〉といった句が確認できます。

B この昭和17年あたりからの時期における作品は、戦時中ということで、戦争に関する句も数多く見ることができます。

A そして、昭和20年に敗戦。この時の亜浪の年齢は、すでに67歳ということになります。

B 亜浪にとって戦後という時代は、もはや晩年の時代ということになりますね。

A では、昭和21年からの作品について見てゆきましょう。

B 昭和21年には〈花舞うて焦土の電車途絶えたり〉〈丁子かつら水色揚羽なほすがる〉〈一粒々々柘榴の赤い実をたべる〉〈夜長しや闇中に描く顔々々〉という句が見られます。

A やはり戦後ですから「焦土」ですね。

B 昭和22年には〈ざざざざと喜雨の音かな夜のぎす〉〈新秋の月明にこぞる虫々々〉〈汽車はしるレール秋日にのたうちつ〉、昭和22年には〈子ら唄ふ日向大綿小綿舞ひ〉〈白れむに夕日の金の滴れり〉〈大雷雨悠然とゆく一人ありぬ〉といった句が見られます。

A 晩年といっても、その作品における「白れむ」の美しさや「大雷雨」の句の豪胆さなど、なかなか優れた佳作の存在が確認できます。

B 昭和24年には〈舗道ひろしこけつまろびつ木の葉木の葉〉〈雲雀々々ちらつく水と韻き合ひ〉〈暁起きに朝顔の紅よむらさきよ〉〈舗道きぞの雨を湛へて蜻蛉々々〉、昭和25年には〈夕風どつと渡り法師の声を呑む〉〈かまつかの夜もなほ炎えて虫々々〉〈降りはれし氷雨に穹の澄み徹る〉といった句が見られます。

A そして亜浪の最後の年となった昭和26年には〈白れむの的皪と我が朝は来ぬ〉〈大鯛がむらがる汐の秋たけし〉〈紅の苹果となりて亡ぶもの〉〈颱風あがりの白れむの月煌々たり〉といった作品が確認できます。

B こういった作品を見ると、臼田亜浪は、最後まで秀句を成すことができた作者であったように思われますね。

A 特に〈白れむの的皪と我が朝は来ぬ〉の「白れむ」の生命感、鮮やかな色彩感を感じさせるこの作品については、それこそ亜浪の作品の中でも代表作の一つとして数えられるものであると思います。

B 亜浪の作品には、「白」を基調した句に優れた作品が多いように思われるところがあります。

A 今回選んだ15句の中においても、多くが「白」という色彩と関係しています。これには「信州」という風土との関係といったものが少なからず関与しているところがあるのかもしれません。

B 亜浪という俳人の澄み透った詩心の根底を象っていたのは、やはり風土性による要素が大きいものであるのでしょうね。

A 亜浪の弟子の大野林火も『わが愛する俳人 第4集』(有斐閣新書)の「臼田亜浪 ―原始精神の雄叫び」という文章において〈自然詩人、生活詩人という大雑把な分け方をすれば、亜浪は自然詩人である。素地は寒冷地小諸、火を噴く浅間をつねに仰ぐふるさとの山野に負うところ多い。〉と指摘しています。

B さて、臼田亜浪の作品について見てきました。

A 今回は、正直作品の数が多くて全てを通読するのになかなか苦しい思いをしました。

B 『臼田亜浪全句集』に収録されている作品の総数は、おそらく1万句から1万1千句程度ということになるようです。

A 1万句もあると、当然ながら全ての作品が優れているというわけではなく、似たようなモチーフの繰り返しも少なくなく、「孫俳句」などといった作品もあり、正直なところ読んでいてやや辟易するところもあったということも事実でした。

B また、全体的に定型に拠らないやや特異な作風で占められているため、なかなか作品を読み進めることができず、また、その作品の数の多さゆえに作者の全体像を的確に把握することもなかなか困難なところがあります。そして、そこから作品を選ぶわけですから、選も相当に難渋するところがありました。

A 亜浪の作品というものは、やはり従来のオーソドックスな作品と比べて、その構造にやや特殊な側面がありますね。

B いままで見てきた通り、自由律でもなく、五七五の定型でもない鬼貫の作風を髣髴とさせる「繰り返し」「擬音」「並列」などの手法による独自の韻律を持った作風ということになります。

A こういった独自の韻律というものは、おそらく野澤節子あたりにまで継承されているものなのではないかと思われます。

B 野澤節子といえば大野林火の弟子ですから、亜浪の系譜ということになりますね。

A 野澤節子における亜浪の作風を思わせる傾向の作品としては〈せつせつと眼まで濡らして髪洗ふ〉〈われ病めり今宵一匹の蜘蛛も宥さず〉〈さきみちてさくらあをざめゐたるかな〉〈枯れし萱枯れし萱へと猫沒す〉〈はじめての雪闇に降り闇にやむ〉あたりということになるでしょうか。

B 「せつせつ」の擬音、「われ病めり」の句の破調、「さきみちて」のひらがな的表現、「枯れし萱枯れし萱」「闇に降り闇にやむ」などの繰り返しによる表現が、やはり亜浪の作風とそっくりですね。

A 思った以上に師風というものは素直なかたちで継承されているようですね。

B 亜浪の弟子については、大野林火以外では、松村巨楸、安藤甦波、川本臥風、川島彷徨子、八木絵馬、篠原梵、西垣脩、新井声風、富田木歩、栗生純夫、今枝蝶人、原本神桜、林原耒井、金子麒麟草、西村公鳳、鈴木鵬干、飛鳥田孋無公あたりということになります。

A これらの作者も現在ではその多くが話題になることはないようです。篠原梵、富田木歩あたりはまだ名が知られているとは言えそうではありますが。

B ともあれ、臼田亜浪の遺した作品と手法というものは、俳句の歴史において必ずしも小さなものではないということが出来るのではないかと思います。


選句余滴

臼田亜浪


夥しき浮木に燕返すなり

接ぎ穂かげりして昼雷のなぐれ行く

雲雀あがるあがる土踏む足の大きいぞ

雨晴れて大空の深さ紫陽花に

水口へ群れ上る鮒を狩り尽くす

狩り魚のあぎと貫く青芒かな

山窪の積み薪黒む野菊かな

あげ泥をにぢりゐる蜷や野菊咲く

馬いたわつて水越ゆ野面銀河落つ

山の一角雲湧きやまず稲光り

森真上流るる雲や月夕べ

凩や雲裏の雲夕焼くる

寒雁や大木の影倒に

蠑螈這ふ氷(ひ)底の砂の日ざしかな

巣雀に目白の卵抱かせけり

地蜂掘つて蜂飯を焚く杣火かな

蓼の芽を蟹の喰ひ居る日永かな

大鳥の魚摑み去んぬ汐干潟

雲雀落つ末黒の原の水光り

雷雲に一鳥翔る夏野かな

庭一面敷く柿花や蝸牛

ダリヤ大輪崩れて雷雨晴れにけり

日車や照り極まりし空のさま

鳥渡り次ぐ暁け空の銀河かな

熊蜂の小蜂喰ひをる秋暑し

秋の水糸瓜浸けたる青みかな

柑園に蛇の出遊ぶ小春かな

氷挽く音こきこきと杉間かな

蟹の巣となつて荒れけり蜆坪

梅の髄はみ枯らす虫掘りにけり

大牡丹崩れて思ひはるかなり

蝸牛に霖雨の苺ふやけたり

青田中島とも見ゆる森嵐

軒氷柱磨ぐ北風のつづきけり

やどかりの皆這つてをる春日かな

小春日や草水に鮒の上りをる

鵜の嘴のつひに大鮎をのみ込んだり

ぬめり茸採る手許雲母光りけり

植残る一角に田虫むらがれり

淡路の灯一線に浮ぶ夜涼かな

鷺みんな森にしづまり月しづる

話声奪ふ風に野を行く天の川

風の声碧天に舞ふ木の葉かな

木より木に通へる風の春浅き

青芒靡けて風の空に消ゆ

蚊火煙り縫ふ雨玉の光りつつ

炎天の石光る我が眼一ぱいに

青田々々に影して月のうつりゆく

雪原やかたまりてゆく小さき影

ころろころろ蛙の声の昼永し

桑の香や月の青さの蚕を照らす

笹竹の星影ひいてそよぐなり

月原や我が影を吹く風の音

山清水魂冷ゆるまで掬びけり

でで虫の角振る葉先揺れじとす

雪に吹かれつ影のごと消ゆ寒念仏

雪を吹く氷上の風の音を追ふ

雪影の紫深し枯れ柏

いつか円ろくなりしこの月よ雪の旅

氷閉ぢの草影やぽと日さしゐる

どろどろに雪か泥かや日の遊ぶ

遠目白大空の日がまるう澄む

寒月の高窓明り胸に落つ

町屋根のみな喰ひ合うて光る風

山霧に螢きりきり吹かれけり

青田貫く一本の道月照らす

草屋根がぬけんばかりぞ苔の花

島ゆ島へ渡る夜涼の恋もあらむ

星風や櫂滴りの夜光虫

路地ぬけて銀河の風に向ひけり

ふるさとは山路がかりに秋の暮

曙や露とくとくと山桜

こんこんと水は流れて花菖蒲

練稚児の瓔珞が鳴る秋の風

鯛のひらめき秋日狂へる波上かな

初凪や蝦が泳げる潮だまり

草中の捨て氷月さしゐたり

山鳥を吊りし障子の白すぎて

枯柳風の歩みのとどまらね

曙の雪紫に野ゆきけり

父がゆく影がつしりと月の雪

夕おぼろ家影が路にのしかかり

田螺が蓋ひしととざして拾はるる

雪山がまともの桜澄みまさり

少年が笛吹いてゆく夜の暮春

見おろすや鶏が遊べる谷の桃

天降らす雹に打たれて蟇ありく

蜩やどの道も町へ下りゐる

壁のぼる蟻に峰雲の覗きけり

山深う木魂おそるる暮の秋

ぼう丹のあはれは散りし石の上

螢火や雨さんさんと野に満てる

壁喰うて神馬あはれや春の蟬

死おもひしそれもむかしや月玲瓏

霜の夜の野の石が声たつるかも

月凍らんとすなり石も眠るさま

吹かれたる雪のうねうね日向かな

人間に昼の桜の湧きあがる

若葉山雲ゆきゆきてゆきゆきぬ

舞ひ入りし螢いとしむ旅寝かな

枯萩のむざと刈られし昨日かな

蜻蛉に飛ぶ魚もがな瀬を早み

雨が降る降るざんざと山のさくらばな

牡丹見てをり天日のくらくなる

霜の草人影を追ふ風出たり

凧がつくりがつくりと夕凪げる水

水ゆれゆれ日傘の影を魚や恋ふ

山草の香の澄みやうや天の川

熱風の蝶とび入りて狂ひけり

泳ぎ出て汐の冷たき月夜かな

星へ啼く声の切なし草雲雀

家あひを人ぬけゆきし風の月

蜜柑積まれぬ夕風の道をころがり

余寒かなかすれ日が障子なめてる

淡雪や妻がゐぬ日の蒸鰈

高楼の窓みなあいてゐる日永

昼蛙行人の遠くかすみて

杣の斧光れば光れば桜散る

籠ぬけし螢が街木伝ひつつ

襟巻に空ゆく風の遠くこそ

初鷗水や空なる雲遠く

枇杷が包まれ山かけて里かけて

白鶏のむれひしめける花吹雪

空まろくかかり木々の芽やはらかし

雁いぬる篊原浪に没し去り

芦原のかぎり風ゆき日傘ゆき

きりぎりすゆふだち山を傾けつ

夕三日月氷掻く音絶え間あり

巣にくだる鷺のもろ羽の碧みさす

放つ蛾のきららが指紋見せにけり

谷々に霧沈みたり月の声

雨ざんざざんざ蛙の夜の白し

天ゆ落つ華厳日輪かざしけり

白樺林萌黄に雲を流したり

姫鱒の紅さし山の水清ら

秋風や網の小鯛の十ばかり

暁けのかなかな三日月われをのぞき落つ

木倒しし木魂雪山這ひ消ゆる

積雲下汽車海底を貫き走る

緑ぬけゆき一ちすぢに蝶白し

巨き艦巨き翼よ風青し

軒伝ふ雪虫に光げ波なせり

きさらぎの天雷霰とばし来ぬ

利鎌なす月光枯れし尾花截る

ぴほぴぴほぴと木の芽誘ひの雨の鵯

山上に人現はれつ春の蟬

旅ならぬ旅の一夜の雷雨かな

昼かなかな白道天へつづき光る

西日澄めりかなかなの金属音

茸汁や山の噋赤く霧を出づ

丁子かつら水色揚羽なほすがる

一粒々々柘榴の赤い実をたべる

稲妻の風そくそくと夜の秋

汽車はしるレール秋日にのたうちつ

枯草に鴨の彩羽をむしりすつ

白れむに夕日の金の滴れり

大雷雨悠然とゆく一人ありぬ

よろひかぶときららに子らの日が来しよ

蜻蛉みな失せたり驟雨殺到す

夕風どつと渡り法師の声を呑む

降りはれし氷雨に穹の澄み徹る

紅の苹果となりて亡ぶもの

颱風あがりの白れむの月煌々たり



俳人の言葉

昭和期に入っての愛弟子の一人に篠原梵(明四十三年~昭五十年)がいるが、その梵の亜浪評に「先生は生活上は俳句の専門家でありながら本質は専門家でない、「親方(マイスタ-)」でなく「永遠の徒弟」であり、作家として修業時代(レ-ルヤ-レ)と遍歴時代(ヴァンダヤ-レ)を死ぬ時まで続ける底の人」といった言葉がある。亜浪の人間的魅力もそこにあった

大野林火 「臼田亜浪 ―原始精神の雄叫び」より 『わが愛する俳人 第4集』(1979 有斐閣新書)

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