2009年6月27日土曜日

山口優夢 『夏至』を読む

夢の気配 『夏至』を読む


                    ・・・山口優夢




地続きに狼の息きつとある

この句集を読むことは、夢の中をさまようことに似ている。現実のようでいて、どこかが決定的に間違っている世界。まるで異端の神が、我々の五感に、限りなく本物に似ているがどうしようもなく偽物の情報を入力して、戸惑う我々を嘲笑っているかのような世界。現実とは磨り硝子一枚隔てられたような…。

夢はまず、遠くに輝くこんなおそろしい景色から始まる。

噴煙に日面のある大暑かな

火山の噴火、あるいは、地獄谷。「日面のある」という表現から、太陽の輝くきらめきだけではなく、噴煙の大きさ、広さを含めた量感まで手ごたえをもって感得し得る。そんな大暑であるから、暑さもひとしおであろう。

もくもく、もくもくと広がってゆく噴煙。きらきら、きらきらと輝く日。それ以上に意味の介在しない世界。誰も話しかけてこない、誰も眼に映らない。ただ、地の底から湧き出してくる果てしない煙と日の光に向き合う。まるでこの景色だけで世界が完結しているような気持ちにさせられる。

我々がいつも住んでいる日常の世界のはずなのに、どこかずれている世界、鏡の向う側である、彼女の“夢”は、こうして始まる。



進化してさびしき体泳ぐなり
暁闇の夜鷹のこゑに応へたく


動物の進化の果ての人間のこの体。「さびしき体」が泳ぐという言い方からは、彼女が水着も何も着けずに生まれたままの姿で泳いでいるように感じる。衣服や装飾品をすべてとっぱらったあとの人間の体の、なんとつるつるしてさびしいことであろうか。

少し唐突かもしれないが、僕はこの句から「ドラゴンボール」という漫画のフリーザの最終形態を思った。フリーザという宇宙人は、作中で3回にわたって変身を繰り返す。1回目の変身後、2回目の変身後の姿は、巨大化したり顔が異様に長くなったり、怪物じみた格好になるのだが、最終形態は、まるでちょっと背の小さな人間のようなすっきりした姿になるのだ。そして、そのつるつるした姿が一番不気味なのである。

進化の結果辿り着いた、つるつるの体が、今、生き物の母なる海で泳いでいる。アメーバや魚類や恐竜や猿だった時代を超えて、海に戻ってきた自分の体をさびしいと思ったのは、彼女自身ではない。彼女の中に眠るすべての生き物の記憶、それらがつながって、ひとつの夢になる。

逃れようもなく人間の体を持ってしまっている自分、それは「夜鷹のこゑ」に応えられない自分だ。夜鷹の声に応えたい、というのは彼女の感傷などではない。夜鷹の哀しげな声に自分の憂いを重ねているのだとは思いたくない。そうではなくて、彼女は夜鷹に応える声を持っていない自分を、切実に悲しんでいるのだ。「応へたし」ではなく「応へたく」としたことで、「応えたい」という思いがきっぱりとした希求なのではなく、無理だとは知っていても求めずにいられない、逡巡の果ての切実さのようなものを感じる。「応へたし」ときっぱり言われていたら、それは彼女の感傷というちっぽけな器に墜ちてしまっていただろう。

普通、人間はこのようなことに悲しみの感情を抱かない。抱いたとしても、なんだかうそくさい。しかし、これは夢の中の話なのだから、そういう理屈の通らないことに人は真実の悲しみを見出してしまうのだ。

人間は、人間以外の何者でもない。

鷹消えていつか青空見てゐたり

夜鷹は、そして鷹は、いったいどこへ行ったのだろうか。人間である彼女には、それを知るすべはない。



抱き合へば滝の触れ合ふごとくなり
さざなみはさざなみのまま夏の暮
百合と百合背中合はせに豪雨なり

これらは「恋の座」として設けられた章の中にある三句であるが、これらの句に、かなり強く夢の気配を感じる。

「滝の触れ合ふ」という比喩には、さまざまな解釈が可能であろうが、僕は、この掴みどころのない比喩から、彼女のぼんやりとした瞳を思い浮かべる。抱き合いながら、「ああ、滝が触れ合うようだね」と言う彼女。僕は思わず身を離す。

滝、というか水の冷たさは、抱擁の儚さを言いとめているようでもあり、触れ合った滝の水はその滝壺で一緒になることを思えば、恋の永遠性をことほいでいるようにも感じる。だが、我々自身が滝なのだとすれば、落ちてしまった水は我々の残骸に過ぎないのかもしれない。

こんな不思議な感覚を、さも当たり前のことのように口にする彼女は、我々の価値観とはずれているにも関わらず、自分ではそれに気が付いていないかのようだ。にっこりとほほ笑む彼女。少し怖い。

さざなみの句が「恋の座」中にあることを思えば、「さざなみ」というのは異性に感じるかすかな心の揺れやときめきの暗喩なのかもしれないが、むしろ、僕は本物のさざなみを思い浮かべたい。「さざなみはさざなみのまま」という言い回しには、はっきりと永遠性を感じさせるものがあり、その永遠性によって「夏の暮」がいつまでもこの夢の中では続いているように感じさせる。

永遠性とは、あるシーンが何も変わらずにそのまま存在し続けると信じられる状態、とでも言おうか。「百合と百合」の句にもそれを感じるのは、百合の静けさに対して、やや遠くに響く豪雨のすさまじい音がきれいに釣り合っているから、であろう。この「背中合はせ」も恋のメタファーとして働いているように感じられるが、むしろ僕には、百合の花の茎を曲げてしまう重さ、そのぼってりとした存在感を引きたてて心地よく思える。

あぢさゐに色残りたる時雨かな
雪の日の売れて小さな檻の空く
カルデラはひかりの器福寿草

もうずっと、わずかに赤や青の色が残った紫陽花に冷たい時雨が降っていた。小さな檻はこれからずっと、空白を抱えているのだ。カルデラは今までもこれからも形を変えることなく光をためつづけるであろう…。

夢は、覚めることで終わる。必ず途中で終わってしまうものなのだ。中断され、強制的に終わったその夢には、どこかに続きがあったはずだった。夢とは、永遠に続いているにも関わらず、人間にはその一部しか見ることのできないものなのだ。これらの句に流れている永遠のような時間は、そのまま夢の中の時間感覚に近いと言えよう。

行けば在る南大門と蟇



「昴」の章は、句集全体で見てもやや特殊のようだ。

死のひかり充ちてゆく父寒昴
牡丹に佇つ後ろ手の父とはに

父の死に際した句であろうと推察される。二句目は句の置かれた順番から見ても、死後に父を幻想している句であろう。この「後ろ手の父」はきっと後姿に違いない。彼女には、父がどんな表情をしているか分からない。

立てず聞けず食へず話せず父の冬
甲種合格てふ骨片や忘れ雪

死にゆく父に対する哀惜、ひたすらな悲しみを感じさせる句群ではあるのだが、その中で次の句があることは見逃せない。

死もどこか寒き抽象男とは

父の死を、どちらかと言えばその状況を詳しく伝えるように書かれたほかの句群の中で、この句の持つ抽象性はかなり特異な印象を与える。そもそも、この句の意味を明確に取ることはややむつかしい。「男」を「父」のことと特定していいのか悩むし、「男とは」という下五が、「死もどこか寒き抽象」という命題にどのように働くかが特定できないからだ。ここで言う「死」とは、「男」自身の死なのか、「男」の意識における死という概念を指して言っているのか、それとも「男」とは関係ないのか、判然としない。おそらく、作者自身にもはっきりした意味があって書いているのではなく、このようにしか言葉にならなかった句なのではないだろうか。

この「男」は、父とは別人ではないか、と考えてみる。父の死に対して誰か男が語った言葉が、あまりに実感を伴わない言葉だったのではないか。「寒き」という言葉が、「男」に対する怒り、あざけり、哀れみなどの言葉にならない気持ちを一手に引き受けているようにも感じる。

あるいは、父が最期まで「死」というものを実感しないまま逝ってしまったということなのかもしれない。そうだとすると、「寒き」という一語はとても悲しいもののように感じられる。

どちらかは分からないが、男という生き物が持つ哀れさを描いて不足ない一句だと感じた。

この一句における彼女は、夢の中にはいないようだ。あるいは、「立てず聞けず」の句、「甲種合格」の句にも、彼女の現実における感情が優先されているため、いつもの、夢の中を漂うような心持ちが表れない。それほどまで他人に心が向いている句は、この句集では、父の死、以外では見出されないのだった。

考えてみれば、夢の中を漂うような句、には、彼女以外の他人はほとんど登場しないのであった。あるいは、それらの句では、彼女の感覚が感情に優先されている、と言い換えてもいいかもしれない。「さびしき体」「夜鷹のこゑに応へたく」にはもちろん感情が含まれるが、これらの感情は、肉親の死のような具体的な事柄から発生したものではなく、彼女が世界に感応した、その感覚から発生したものであった。それこそが、彼女の「夢」の源泉であったのだ。



冒頭にあげた句、

地続きに狼の息きつとある

この句に果てしない暗闇を感じるのは僕だけであろうか。彼女が見つめているのは、ただの闇なのである。その果てしないどこかで、狼の小刻みな呼吸が闇を揺らしている…。

「地続きに」の一語の果たす役割は大きい。彼女の世界に対して、この狼はどこかでつながってしまうのだ。見たこともない狼、しかし、彼女はそれが地続きに存在しているだろう、と想像することで満足する。海を隔てているのではない以上、狼がやってくることだってできるし、彼女から探しに行くことだってできる(可能性としては、あり得る)。でも、おそらく彼女とこの狼とは出会うことはないであろう。我々はこの世界において、すべてのものに出会えるわけではない。

この陸地のどこかにいるわたくしだけの狼!眼には見えないそれを思うことは、この広大な世界の形を思うことだ。彼女の前に実際にあるのはただの暗闇、しかし、彼女の夢の世界にあるのは狼の息づかい。

彼女の夢と現実の境目はこの句のあたりにあるのではないだろうか。

霧巻いて崖かもしれぬ明るさよ

ああ、また夢が途中で終わろうとしている。

作者は正木ゆう子(1952-)


あとがき

取り上げたのは、正木ゆう子氏の第4句集である。6月に出たばかりの最新句集であるが、すでにネット上では何人かの方がブログで取り上げておられる。

その中で、坪内稔典氏は、e船団「ねんてんの今日の一句」6月20日付の記事で以下のように述べている。

句集の帯にある「進化してさびしき体泳ぐなり」は、最新の水着や極端なまでの筋トレを連想するが、要はそれだけ。「さびしき」という思いに理屈以上のものがない。

「進化」=「効率化」=「さびしき」という言葉の連想が働いてしまうところが「理屈」と言っているところなのだろうと推察する。僕は上記の鑑賞文で坪内氏とは異なる読みを行なったため、このような「理屈」は感じなかった。「進化」というのは、競泳における水着や筋トレといったごく最近の「より速い泳ぎ方の進化」のことではなく、もっと長いタイムスケールで「人間に至る生物の体の進化」ととらえるべきではないかと考えたからだ。

とはいえ、坪内氏がこのように苦言を呈するのも理解できないわけではない。「進化」という言葉をどのように受け取るかは、読者にゆだねられているのだから。そして、この坪内氏の鑑賞は、商品名を詠み込むなどの手法で常に「現代」を意識した句作りを行っている坪内氏らしい発想ではないかと思って、むしろ興味をひかれた。坪内氏とは異なり、正木氏は広大なタイムスケールや空間スケールの中で想像を広げて句を作ろうとするタイプであり、二者の相違点がこのような鑑賞からもうかがえるように感じたのである。

どちらのタイプの作り方が優れているとか劣っているとかいうことはないものの、正木氏の作り方は、ややもすればスケールが大きいものの実感が伴わない、既成概念の中でもできてしまう作り方ゆえ、なかなかいばらの道であるようにも感じた。ただし、今回僕が鑑賞した「地続き」の句などは、そのような既成概念をはるかに超える力量を示していると感じ入ったことは付け加えておく。


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