野水・荷風・左亭の巻
・・・高山れおな
五月半ばに俳文学者の雲英末雄先生をしのぶ会があって、その流れでお弟子の伊藤善隆さんや池澤一郎さんと飲んだことは、当ブログ第三十九号の「あとがき」でもちらと触れた。それからややあって、池澤さんから最近書かれた論文の抜き刷りと、少し前の総合誌に載ったエッセーのコピーが送られてきた。抜き刷りの方は、芭蕉七部集の三番目の撰集『あら野』に見える野水の「詩題十六句」と呼ばれる一連の作品について論じたもの(*1)。エッセーは、永井荷風の俳句がテーマである(*2)。
池澤さんの専門は日本漢詩で、雲英先生のもとで近世俳諧を勉強したのがどうしてそうなったかはよく知らないけれど、俳句も漢詩もよく読める人はやはり少ないのであろう。しかも、俳画の研究者でもある雲英先生に薫陶を受けただけあって、テキストの解釈を図像のそれに結びつけるのもお手のものである。昨年、滋賀のMIHO MUSEUMで、蕪村の新出の銀地山水図屏風が初公開されたとき、画賛の漢詩について東大の美術史の先生が図録に書いていた説明がどうも不審だったので池澤さんに問い合わせたら、たちどころに明答を得た。それによって、当該の山水図が船上からの眺めであることも察しがついた。画賛の解釈を導入することで、絵のフレームそのものが変化してしまったのだ。近世俳諧をやっていればそれでも漢詩が重要だという意識くらいは一般に共有されているだろうが、美術史では文人画を否定したフェノロサの呪縛がいまだに尾をひいており、こうした仕儀にもなるのに違いない。
野水の「詩題十六句」は、藤原定家の『拾遺愚草(しゅういぐそう)員外』や慈円の『拾玉(しゅうぎょく)集』に収録されている「文集(もんじゅう)百首」のうちの十六首(二人で三十二首)を典拠にした作品である。定家の方の「文集百首」の序文(*3)には、
或(ある)上人、文集の詩を題にて歌よまむとおもひたつことあり、結縁すべきよしすゝめ申されしかば、老て後のいたづらごとかきつけてつかはしつゝ
とあり、この「或上人」というのが慈円のことで、順徳天皇の建保六年(一二一八)に持ち上がった企画らしい。要するに、慈円が『白氏文集』から摘句して百の題を設け、定家をはじめとする歌人仲間に呼びかけて、それぞれが百首歌を詠んだのである。『拾遺愚草』や『拾玉集』は、江戸時代には『六家集』として版本になっていたから、名古屋の商人に過ぎない(といっても町総代を務めるような呉服商だが)野水も簡単に読むことができた。
池澤論文は、もとの百首歌の題となっている白楽天の詩句、それを踏まえた慈円と定家の和歌、さらに野水が白楽天・慈円・定家を踏まえて詠んだ発句、この三者の関係性を詳細に検討するものだ。幸田露伴は『評釈曠野(あらの)』の中で、野水は白楽天の句題だけを見ていて、慈円・定家の和歌は無視していると書いているそうだが、池澤さんはそんなことはないという。白楽天の句題そのものではなく、それをひとひねりした慈円の歌に基づいた野水の俳句があることが指摘されていて、これは池澤さんの方が正しいのであろう。いわば、漢詩→和歌、漢詩→俳句、そして時に漢詩→和歌→俳句といったかたちで世界がずれてゆく、そのずらし方に野水ひいては元禄俳諧の主張がこめられているということらしい。少しだけ例をあげてみよう。まず、題となった白楽天の詩句。
今日知らず誰か計会せるを
春風春水一時に来たる
――今日という日に、春風が吹き始め、雪解け水が流れ来ることを事前に誰が予想しえたであろうか。
これを題にした慈円と定家の歌。
慈円 志賀の浦や解くる氷の春風に今朝を今日とはいつか告げけむ
定家 氷とく人の心やかよふらむ風にまかする春の山みづ
さらにそれらを踏まえた野水の発句。
氷ゐし添水またなる春の風 野水
白楽天の原詩のタイトルは「府西池」で、詠まれているのは勤め先の役所の庭の池の様子であるらしい。慈円はそれを琵琶湖の大景に変換し、定家は谷川の情景にしてしまう。さらに野水はといえば、添水を持ち出すのである。〈景観を愛でるべき池や琵琶湖を、農村の生活臭漂う水田に転じた点に明瞭な俳意が認められる〉のに加えて、〈「なる」と音を立てさせている点に一句の眼目がある〉というのもなるほどよくわかる。もう一例。
夜来 秋雨の後
秋気 颯然として新たなり
――昨夜からの秋雨があがった後は、すがすがしい秋の気配が気分を一新してくれた。
この句題による歌は、
慈円 山の端に雨そぼふりて風ぞ行く是れより秋の色や見ゆらむ
定家 夜の雨の声吹き残す松風に朝けの袖は昨日にも似ず
両首のうち、定家の方は句題にあまり忠実でない感じだが、じつはこれは白楽天の原詩で、句題となった部分に引き続く、
団扇 先に手を辞し
生衣 身に着けず
――団扇を手にすることはもうなく、夏ごろもに袖を通すこともなくなった。
というフレーズまで取り入れているため。また、池澤さんは、〈定家の一首の現在時制は「朝」〉であることにも注意をうながしている。すなわち定家は、朝の時点からさかのぼって、〈昨晩聞いた風雨の音と現在楽しんでいる松籟とを重ね合わせている〉のだ。これが野水の発句では、
秋の雨はれて瓜よぶ人もなし 野水
に読み換えられる。
「瓜よぶ人」は夏の早朝に瓜を振り売りする行商人である。盛夏には瓜の売り声が聞こえていた頃合に一句の時制を定めたことで、「雨」が降っていたのは自ずと昨夜からのことともなろう。定家の一首にあった時間的ひろがりは野水の一句にも備わるのである。ふたりの歌人が耳を澄ましたのは、雨の音、風の音であったが、俳人が傾聴するのは記憶の中の物売りの声である。
野水なんて蕉門十哲にも入っていないし、ほとんど意識したことのない作者なのに、この上手さには驚く。芭蕉の〈狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉〉に〈たそやとばしるかさの山茶花〉と脇を付けた人だから当然といえば当然なのだろうが。池澤論文は、『三冊子』の〈詩歌連俳はともに風雅也。上三のものには余す所も、その余す所迄俳はいたらずと云所なし〉との言葉をひきつつ、〈漢詩・和歌・連歌といった先行ジャンルへの強烈な対抗意識が常に俳諧制作者の胸中に巣喰っていたこと〉を強調していて、これが〈それを研究するわれわれもまた常に漢詩・和歌・連歌との対比の中で、俳諧の本質を考究していかなくてはならない〉という研究者としての立ち位置の再確認につながってゆく。しかし、当方のような俳句実作者から見ると、この野水の「詩題十六句」のケースなどは、詩想の受肉というか、表現のリアリティの問題としてむしろ興味深い。元禄俳諧の段階の用語では「俳意」と呼ばれていた、表現の機微である。われわれは漢詩文の教養から遠く来てしまっているために、「文集百首」や「詩題十六句」のような方法を単なるペダントリーと誤解してしまいかねないのであるが、その自己表出のプロセスに即してゆくなら、それぞれの時代、それぞれの階級におけるリアリティ獲得に向けての苦闘を想定できるのではないだろうか。そう考えると、「文集百首」はさておき、「詩題十六句」にはいまだ参考になる要素があるように思う。なお、野水句の磊落な魅力は、「詩題十六句」以外に次のような発句にもうかがえるだろうか(*4)。
おもへども壮年いまだころもを振(ふる)はず
はつ雪のことしも袴きて帰る
三月十六日、旦藁(たんかう)が
田家(でんか)にとまりて
蛙のみ聞きてゆゝしき寝覚かな
八嶋を描ける屏風の絵をみて
具足着た顔のみ多し月見舟
さびしさは鳩吹(はとふき)習ふたどり哉
焙烙(はうろく)の土とる跡は菫かな
松明(たいまつ)に山吹うすし夜のいろ
ゆふがほのしぼむは人のしらぬ也
鵙鳴くやわづかあからむ柚(ゆ)の頭(かしら)
雪の日や背中あぶれば嵯峨の山
さて、永井荷風の俳句は、江戸時代の野水の句にくらべても味わいにくいところがあって、それは野水がともかくも彼の時代におけるリアリティを追及していたのに対して、荷風にとっての俳句があくまで懐旧趣味の道具だったからではないか。などというのはあるいは図式的に過ぎた偏見かもしれず、あまり腑に落ちたこともない荷風の俳句も池澤氏の読みほどきにかかると表情を変えるのはたしかで、しかしそれはあくまで池澤氏の解釈が面白いのだろうという気分もぬぐえない。〈十月某日築地を引き払ひてしばし宗十郎町の妓家にかくれける〉という前書のある連作四句のひとつだという、
北窓をふさぎて今日の午睡かな
なる大正四年の句も、これだけ見ると平々凡々とした印象だが、〈荷風くらい中国古典に造詣があれば、この句に「北窓」と「午睡」という語を点じたことの意味が当然掘り下げられなくてはならない〉というのが池澤さんの意見だ。池澤さんによれば、この句は『晋書』や『南史』に引かれる陶淵明の発言が典拠になっているという。
嘗つて言ふ、夏月虚間、北窓の下に高臥して、清風颯として至れば、自から羲皇上の人と謂はん
というのがそれで、〈「羲皇上の人」とは中国古代伝説上の皇帝伏羲氏の治世下の民という意味で、現世の俗情から隔絶した平穏無事な世界の住人ということになる〉そうだ。陶淵明は、「夏月虚間=夏の暇な時間」に日陰になった北向きの窓の下で、涼風に吹かれて昼寝する楽しみを言っているわけだが、荷風の句ではとうに夏は過ぎているという違いがある。
荷風はこの句で北向きの窓の下で昼寝をするとはいっても、頃は夏を過ぎて十月、寒気を避ける為に塞いだ窓からは自分を古代理想郷に誘う涼風が吹き込む筈もなく、晴耕雨読の安らかな境地にあった淵明とは事変わって、同棲の妓女の喜怒哀楽に振り回される俗情の渦の只中にいる自身を嘲笑う事となる。
どうということもなくさらっと作られたかに見えた句に、これだけの言語上の大立ち回りが隠されていたとは意外だった。しかし、それ以前の問題として「今日の午睡かな」の「今日の」がほんとうに必要なのかとか(まさに今日、北窓を塞いだということなのだろうが)基本的な技術面に疑問が残り、凡句が名句に化けたとはいかないようだ。ところで、この荷風についてのエッセイはなかなか厳しい言葉ではじまっている。
世に「文人俳句」なる語があって、句作を生業とせぬ作家文士などの餘業としての俳句を意味する。この「文人」は単に文筆に携わる人の謂いで、中国北宋期に完成した文人という概念とは没交渉である。その意味で「文人俳句」という語は安直なものであって、言葉の来歴を問うことは勿論しない、意味すら不分明なカタカナ言葉を氾濫させる現今の風潮の中から生まれた語のひとつと断じうる。
なるほど、たとえば手元に『文人たちの句境』(*5)という本があるが、著者の関森勝夫氏(「蜻蛉」主宰)は、文人とは何ぞやなどと頭を悩ませた気配はまったくない。有名小説家・詩人の俳句をならべて鑑賞しただけの気軽な本に突っ込みを入れても仕方がないとはいえ、そもそも俳句から創作に入った夏目漱石を文人にカテゴライズして俳人一般と分離する意味はなんなのかとか、尾崎紅葉の俳句を文人俳句ということにしてしまったら新派の一方の旗頭として紅葉が果たした役割の意味はどうなるのかとか、芥川龍之介は完全に俳人として認知されているでしょうにとか、虚子が業俳で万太郎が業俳ならぬ文人に数えられる根拠はなんなのかとか、改めて考えると文人俳句という概念は良い加減なもののようだ。先日出た、宇野亜喜良の『奥の横道』(*6)に載る句なども「句作を生業とせぬ作家文士などの餘業としての俳句」という基準にはみごとに合致しているから、宇野亜喜良もまた文人で、宇野の俳句は文人俳句ということになりかねない。もちろん、それは感覚的に有り得ない話ではあって、でもその有り得なさの根拠は、関森氏流の“文人”の枠組の曖昧さからすると、ついに世代的なところに帰するに過ぎないのではないか。
季語もあり月語もありて発句姫 左亭
左亭とは〈サウスポーであるぼく〉すなわち宇野の俳号。この本は、中日新聞・東京新聞での連載を纏めたもので、見開きの右頁には俳句一句ないし詩的なワンフレーズを見出しのように掲げた七百字弱のエッセイが載り、左頁に描きおろしの絵を取り合わせている。俳句はわずかな例外を除いて宇野の自作である。上の「発句姫」の句に限れば、二〇〇六年に出した句画集『メルヘン・ティータイム』(トムズボックス刊)からの再録らしい。
まず絵を描き上げて、それを本にするとき、慌てて句を付けたものです。通常、文章やテーマに合わせて絵をイラストレーションするわけですが、この場合は、それとは逆に絵に句をイラストレーションしたというべきなのかもしれません。イラストレーションという言葉は〈光をあてる〉とか〈補足する〉というような意味なのですから。/「かぐや姫」はもともと月からの使者です。月の国の言語も彼女のDNAが記憶しているに違いありません。いわば、宇宙規模のバイリンガルです。そんな少女が句を詠む様子を俳句風にまとめてみました。
『メルヘン・ティータイム』という本は残念ながらもう品切れのようだ。二〇〇六年ならまだお元気だった雲英先生は、この本のことを知っていたかしらとふと気になる(という以上に、この本の出版に気づかなかった評者の間抜けぶりが気になる)。雲英さんの解説で俳画の本(*7)を作ったことがあるが、編集に際して近現代の俳画は全く切り捨ててしまった。しかし、江戸時代のようなわけにはゆかずとも、たとえば宇野亜喜良の絵なら文句はないわけである。ちなみに『奥の横道』の「発句姫」の句に添えられた絵は、王朝風の描き眉をした全裸の少女が髪を洗っているところ。斜めになった背のラインに沿って、Kaguya Himeとロゴが入っている。シャワーではなく蛇口の下に金盥が置いてあり、少女は床に座っている。「神田川」風ないし『同棲時代』風のかぐや姫ということかしら。宇野の絵については事新しく言うこともないけれど、俳句の方も高橋龍氏などは褒めている。俳誌「面」一〇四号に載っていた高橋さんの文章によると、宇野の脚本・芸術監督で上演された「『美女と野獣』―ジャン・コクトーに捧ぐ―」(草月ホール公演)の舞台では、場面転換のたびに舞台横に宇野の句が映し出されたのだという。
1 プロローグ
サバトには魔王に紛う花の影
2 森の中 野獣の屋敷の前
牙の犬 獲物無き夜の 精霊の森
3 野獣の屋敷
短夜を 義足の馬の 駆けぬけり
4 商人の家
曼珠沙華 眠るミイラの 耳で揺れ
5 野獣の屋敷
蠅の王 バベルを遥か 見おろして
7 野獣の屋敷
満月や アマンを咬んだ 血の記憶
8 商人の家
春疾風 兎空駆け 猫大哄笑(ねこおおわらい)
9 野獣の屋敷
蟾蜍(ひきがえる) 鏡潜りて 冥府魔道
このうちプロローグに使われた「サバトには」の句は、『奥の細道』にも収録されている。エッセイの方で、〈さて、句の「サバト」は安息日というより、澁澤龍彦風な妖術使いたちの夜宴というイメージです。その夜には可憐な薔薇の影も炎のように揺らめいて高笑いする魔王のようだというほどの意味です〉と自解してあって、絵はボッティチェリ風の女性頭部を描いた上に薔薇の花が六つほど散らしてある。女性頭部は鉛筆の素描だが、薔薇の花には絵具を使って調子を変えている。
『奥の横道』によれば、宇野が〈俳句という日本の定型詩に感動したのは、三十代の終わり〉だったという(*8)。
寺田澄史さんという俳人と、『浦島太郎』という絵本を作ったときです。正確にいうと、田中一光・横尾忠則・永井一正・灘本唯人といった人たちと作った『日本民話グラフィック』という絵本の一つのパートでした。/寺田さんの句は、固有の情景を重ねて、最後には大叙事詩的な『新・浦嶼(うらしま)子伝』になっていました。/たとえば、「革舟に孤(ひと)り兒(こ)を曳(ひ)く耳のくらしま」という句。革舟はあまり日本的ではありません、北のほうの、それも古代的なイメージです。その舟が、耳の穴のような、バロック的な形態の洞窟を抜けていく句から始まって、「反魂の水オルガンよ朦朧と面輪から熄(き)え」(*9)という句で終焉を迎えます。当然のことですが、言語が文学的で、暗喩はオブジェ的でもある気がしました。/そのあと寺山修司の句を読んだりすると、どうも俳句は一応の定型はあるけれど、結構自由なものらしいという気分になりました。
『日本民話グラフィック』は一九六四年に美術出版社から刊行された本で、今や七、八万円の結構な古書価格がついているが、さいわい寺田・宇野コンビの『新・浦嶼子伝』のパートは、そこだけを取り出した形での復刻版(*10)があり、出物があればこちらは廉いはず。ひとり寺田の句集として『副葬船』(*11)や『がれうた航海記』(*12)よりすぐれているばかりでなく、一九六〇年代の前衛系の句集として屈指のものではないかと評者は信じている。それにしても、寺田の句をイメージに読みかえる宇野の力量はさすが画家のものだろう。上記の引用につづく部分には、句画の関係について述べており、おのずから俳画における匂い付けの考え方に近づいているようだ。
このコラムで俳句らしきものをリードコピーのように使っているのは、絵と文章と句のようなものと、三つがそれぞれ、たとえば別のことをいっていても、読者の方の頭の中でそれぞれの感覚で融合されて、それぞれ違った読み方が生まれたら楽しいと思っているからです。
以下、『奥の横道』から興に入った句を挙げる。全て左亭宇野亜喜良作。
髪洗う指先が知る頭蓋骨
鬼灯が文字のままにて彷徨す
メフィストは思う瞬間ここに在り
雪を着て地獄へ駆ける吉三が三人
馬駆ける侍走る銀幕には雨
コスモスにトリカブトも摘む赤頭巾
暗転の舞台に迷い蛍かな
円朝忌浴衣ミュールにアンクレット
形而上を形象にする女優かな
一九六四銀座は少女変容都市
この魔物モノローグせり春の憂鬱
殺戮の団七逃走ベン・シャーンの街
一瞬の少年は永遠の海を聴き
陽炎が象を溶かしてタゴール忌
「句のようなもの」と宇野自身は謙遜していても、一方に絵描きとしての確立された世界があり、出発点に寺田澄史や寺田修司がいた、そういう俳句として素直に納得できる。微妙に怪奇趣味で、微妙に衒学趣味で、微妙に風俗趣味で、微妙に回顧趣味で、あまつさえほどよく肩の力が抜けているあたり、高橋龍氏の好みにかなうのも当然ではあった。文章のテーマは、若かりし日の思い出から近年かかわった舞台やら出版やらさまざま。元が新聞連載だからあまりとんがらず、のんびりとして穏やかな書きぶりながら、交友関係が華やかだから自然とひきこまれる話題が多い。上に引いた中でも、〈雪を着て地獄へ駆ける吉三が三人〉というのは〈もう、これは句なんてものではありません。渋谷のコクーン歌舞伎『三人吉三(さんにんきちさ)』がすごく良くて、その印象スケッチのようなもの〉だとかで、そうだとしても魅力的なスケッチに違いないし、文章の方も舞台芸術に対する感性の欠落した評者のような人間にも場の興奮がつたわる好文になっている。あ、それから寺山修司、なんどか登場するけど、〈恋と言うにはあまりにおさなくバラを見つむ〉という寺山の句を掲げた回ではこんなふうだ。
一九六〇年代に和田誠、横尾忠則、灘本唯人、山下勇三たちと、グラフィックデザインの要素であるイラストレーションを図形的単化や資料の転用ではなく、時代の意志を持つオリジナルな表現としようとする者たちの集団を作ろうと、〈東京イラストレーターズ・クラブ〉という団体を作ったのでした。それは若い思考と感覚を持ったジャーナリズムに迎えられ、この視覚伝達のアートは見る間に大衆化していきました。ぼくたちはことあるごとに「イラストレーション」という言葉にこだわってきましたが、世間は「イラスト」という短略化した言葉を好んだのです。/七〇年代に、寺山修司にそのことを嘆いたら「良いじゃない。ヴァイオリニストとかピアニストみたいでさ、いつもイライラしている現代人の感じだよ」とジョークで返されました。
宇野は、現在の若手のイラストレーターや画家たちの〈アートとイラストレーションの壁を平坦なものにしてしまった、自由で軽快な作品群〉が、〈「イラストレーション」ではなく「イラスト」というコンセプト〉から誕生したのかもしれないとも言っていて、この態度そのものが時代の変化に向き合うにあたって「自由で軽快」な感じなのがうらやましい。ところで『奥の横道』の掲出句で評者がいちばん感心したのは、じつは左亭の句でも修司の句でもなかった。
山笑ふふふふふふふと麓まで 雪の
「雪の」というのは、宇野の友人で絵本のイラストレーターだった槁本淳子氏の俳号だそうだ。〈色感の優れた大胆で近代的な、ちょっと天才的な絵を描く人だったのだけれど、二〇〇一年に亡くなりました〉と宇野さんは書いている。
(*1)池澤一郎「発句を書くことの喜び――『文集
百首』と野水の『詩題十六句』――」/「国
文学研究」第一五七集 二〇〇九年三月発行
(*2)池澤一郎「荷風俳句の奥行き」/「俳句界」
二〇〇四年六月号
(*3)序文の引用は、冷泉為臣編『藤原定家全歌集』
(原著:一九四〇年/復刻版:一九七四年 国
書刊行会)によるが、一部句読点を補った。
(*4)引用は、『古典俳文学大系9 蕉門名家句集二』
(一九七二年 集英社)によるが、一部用字を
改めた。
(*5)関森勝夫『文人たちの句境』 一九九一年
中公新書
(*6)宇野亜喜良『奥の横道』
二〇〇九年五月八日刊 幻戯書房
(*7)特集「俳画は遊ぶ 芭蕉から蕪村へ」/「芸術
新潮」二〇〇六年六月号 解説=雲英末雄
(*8)宇野が俳句に出会ったのは一九六四年の『日本民
話グラフィック』制作に際してだった。宇野は一
九三四年生まれだから、俳句との出会いは「二十
代の終わり」が正しい。
(*9)『奥の横道』には、
反魂の水オルガンよ朦朧と両輪から熄(や)え
の形で引かれているがこれでは意味不明。『新・
浦嶼子伝』によって正した。
(*10)『新・浦嶼子伝』
文=寺田澄史 絵=宇野亜喜良
二〇〇二年 トムズボックス
(*11)寺田澄史句集『副葬船』
一九六四年 俳句評論社
(*12)寺田澄史句集『がれうた航海記』
一九六九年 俳句評論社
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