2009年11月30日月曜日

第67号

第67号

2009年11月30日発行

遷子を読む

〔36〕霧氷咲き町の空なる太初の日

・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、仲寒蝉、筑紫磐井   →読む

俳句九十九折(59)

七曜俳句クロニクルⅩⅡ

          ・・・冨田拓也   →読む

在家とその弟子

加藤かな文句集『家』及び山西雅子句集『沙鷗』を読む

          ・・・高山れおな   →読む

あとがき           →読む

豈同人の出版物      →読む

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あとがき(第67号)

あとがき(第67号)


■高山れおな

いよいよ忘年会シーズン突入です。28日土曜日は、その皮切り、「豈」の忘年会で、席上、出来たばかりの「―俳句空間―豈」四十九号を受け取りました。郵送分も、二、三日うちには届くことと思われます。

四十九号では、『新撰21』の前夜祭的に、「俳句の未来人は」を特集しています。『新撰21』に参加した作者のうち、相子智恵、北大路翼、神野紗希、佐藤文香、鴇田智哉、外山一機、山口優夢、関悦史の各氏が、「二一世紀にあって新しい俳句の担い手たちは何を考え何に向かうか」という課題に応じて、力稿を寄せています。正直申しまして、感動しました。もともと書ける人たちではありますが、それにしてもこれほど緊張度の高い好文がこれだけの本数、俳句の雑誌に並ぶことは稀有。遺憾なのは、トリを務める某が、ふざけた評論詩などを書いていることです。

青山茂根さん、榮猿丸さん、中村安伸さんの三人が運営するhaiku & meに、「俳句鑑賞は終わらない haiku & meの言葉・即物・浪漫」という文章を寄稿しました。十二月一日火曜日にアップされるそうなので、そちらも併せてお読みいただければ幸いです。


■中村安伸

今号の遅刊をお詫びいたします。

現在、奈良に帰省しております。29日(日)は中学、高校時代の仲間が主宰するイベントに参加し、十年以上ぶりに公衆の面前でベースを演奏しました。心地よく疲れました。


加藤かな文及び山西雅子句集

在家とその弟子
加藤かな文句集『家』及び山西雅子句集『沙鷗』を読む

                       ・・・高山れおな


「俳句界」十二月号が、編集部から送られてきた。作品も文章も書いたおぼえがないので、なぜ?と思いつつ封を切ると、「昭和俳句の巨星ベスト30」というアンケート特集をやっている。そういえばそんなアンケートに応えたような気がする。

俳人約三〇〇名に「好きな昭和の俳人三名」(物故者のみ)をアンケート。人気俳人ベスト30を決定。あなたが好きな昭和の俳人の順位は?

というのがその扉の惹句で、アンケートの結果を見ての感想文を安部元気と立村霜衣が寄せている。安部の方は、

調査の方法がいかにも杜撰にみえるし、企画の狙いもあいまいだ。そもそも回答を寄せた「約三百名」は、どうやって選ばれたのか。……「母集団」の選び方に偏りがあれば、結果が偏るのは社会調査の常識である。そのへんを吟味せず、「適当に出して、返ってきた答えを集めた」だけなら、資料としての価値はほとんどない。

と、企画自体にかなり批判的だ。評者自身、なんだかなあと思いつつ回答葉書に記入した記憶が蘇ってきた。というのも「昭和の俳人」というくくりがあまりに茫漠と感じられたためで、どうせ虚子が一位になるんだろうけど、虚子って「昭和の俳人」なのかいな、とかそんなことを考えたような気がする。しかし、アンケート特集などというのは土台マスメディアのお祭りなのであって、“社会調査”ではない。安部元気も上のように述べながらも、

企画の欠点やら矛盾やら文句やらは全部棚上げして、一覧表を眺めながら、読み手が勝手にあれこれ思えばいい。そういう目でみれば、これはこれで面白い。

と矛を収めている。そして実際、このアンケートは、見るからに〈ノーテンキな企画〉であるがゆえに、回答する側もごくお気楽に応えたであろう点で、現俳壇における無意識の好尚を素朴に反映しているとは言えるはずで、その意味で「資料としての価値」が無いものとも決め付けられないのだ。で、順位であるが、

①高濱虚子 ②石田波郷 ③飯田龍太 ④加藤楸邨 ⑤中村草田男/山口誓子 ⑦西東三鬼 ⑧飯田蛇笏/三橋敏雄 ⑩橋本多佳子

がベストテンである。作家としての偉さとか俳句史的な貢献という要素を加味して考えねばならない質問だったらこの順位にはならなかっただろうし、逆にそれでもなおこの順位だったら個人的には怒りますね。その場合は、龍太や敏雄がベストテンに入り、秋櫻子が入らない(それでも十一位にはつけているが)などという結果は論外だろう。しかし、今回は各人が好きな俳人を答えただけであり、それによって平成二十一年の俳人たちの無意識は、相変わらず虚子を崇拝し、波郷の境涯性に共感し、龍太や敏雄を過大に評価し、秋櫻子を軽んずるような形で存在していたことがわかるのである。

このアンケート、集計が出ているのは上位三十位(六点以上)までで、これとは別に、三百名の回答者それぞれが誰の名を挙げたかの一覧が付いている。ちなみに評者があげたのは、水原秋櫻子、下村槐太、岡井省二の三人。秋櫻子はいま述べたように十一位(十二点)であるが、見落としでなければ槐太、省二にはそれぞれ二点しか入っていない。評者以外に槐太に点を投じたのは誰あろう冨田拓也(「俳人ファイル」の第一回でとりあげていましたものね)で、一方、省二の方は弟子の山西雅子である。もうひとりの弟子・加藤かな文もアンケートに応えているが、挙げているのは細見綾子・京極杞陽・波多野爽波。そうそう、攝津幸彦は八点で二十三位。なんと永田耕衣と同じ順位である。

余計なお世話ながら、加藤かな文と山西雅子の師が岡井省二だったというのは評者にとってはよくわからない情景で、両者とも格別師風に倣った句を作っているようにも見えないし、どこがどう岡井の弟子なのだろうかと常々不思議であった。まあ、その感情に嫉妬が混じっていないとは言わない。こちらが岡井という俳家の存在を意識したとたん、岡井は亡くなってしまったからだ。それにしても、俳句で固有名詞を使うのは認めないとか、海外詠や弔句、前書を認めないといった奇説を、いささか押し付けがましく語る加藤の泣き味噌ぶりは苦手で、あの痛快な密教翁の弟子がなぜといぶかしかった。その二人の句集を刊行直後に読んでそのままになっていたのを思い出した。ふらんす堂の精鋭俳句叢書から、発行日まで同じ八月八日付で刊行されており、シリーズが一緒というのはともかく、発行日までが同一なのは何か意味があるのだろうか。そもそもこの二人、実年齢(山西が一九六〇生、加藤が一九六一生)も俳歴(約二十年)も似たり寄ったりで、しかし、加藤の『家』(*1は第一句集、山西の『沙鷗』(*2は第二句集という違いはある。句集出版までのこのペースの差が生じた理由はいろいろあろうけれど、やはり作り手としての力量の問題なのかなというのが、読んでみての率直な感想だ。

こう言ったからとて、加藤の句集を期待を持たずに読んだわけではない。好きになれない文章の書き手とはいえ、筆力の点ではかなりのポテンシャルの持ち主なのでもある。そして実際、最初のうちは、それなりに面白いと思いながら読みもしたのだ。『家』は、Ⅰ(一九九三~九七年)、Ⅱ(一九九八~二〇〇三年)、Ⅲ(二〇〇四~〇八年)の編年順の三章構成を採っているから、つまりむしろ初心の頃の作に心動かされたことになる。

雀来る小さな日向はうれん草

葦の角夕焼の水かぶりたる

軽鴨の子の残らず岸にぶつかつて

蜘蛛の糸桃の葉つなぎ始めたる

白鳥の貌を埋めて流さるる

これらがⅠ章の句で、ごくオーソドックスな写生句ながら、手堅さのうちに活き活きとした初発性が感じられる。また、

鳴く鳥と飛ぶ鳥のゐる昼寝覚

の「昼寝覚」には、死からのよみがえりのような気配さえ感じて、これは結構怖い句ではないかと思った。

朝日から鳥の出てくる寒さかな

この句なども、眼前の直叙でありつつ、トリッキーな措辞によって、朝日が異界への通路のように見えてきて面白い。つづくⅡ章には、

かはほりや一人になつて帰る道

のようなしみじみとした主情性をたたえた句も見られる。

秋すだれ簾の色の蛾をつけて

における「簾の色の蛾」もすぐれた眼力かと思う。しかし、句集もこのあたりになるとすでに、

囀りの一つ怒声と思ひけり

枯木見てまつすぐな道帰りけり

のような、俗っぽい句があり、Ⅲ章になるとその傾向がいよいよ強まる。

夏祭つまらぬものを買ひにけり

空を見る仕事の羨し枇杷の花

裸木の裸に濃きと薄きあり

うなだれてトレンチコート吊さるる

することのなくてしばらく春の風邪

飛びたつと思ふ落葉は雀どち

これらはいずれもザ・月並調以外の何ものでもあるまい。濃淡の差はあれ、これらの句には当世風の風流演技があり、通俗的な見立てがあると判定せざるを得ない。Ⅲ章にももちろん写生句の秀句が皆無なのではないけれど、総じて着想において濁り、再現性においてピントが甘い句が多い印象を受けた。それから「あとがき」。こちらは相変わらず、である。

句集名「家」は所属誌の名前を借りました。家と職場を往復する日々、家族とともに暮らす日々。それが私のすべてであり、そこからしか私の俳句は生まれません。安易な名づけですがお許しください。

個人的にはこの手の無用な自己卑下は勘弁して欲しい。只事をことさらに衒っているように見えてしまうのが、当方の勘違いなら幸いである。温度の低い自意識過剰がやりきれないのだ。実際それこそが、『家』の後半の句の印象を濁らせているものの正体なのではないだろうか。

山西雅子の第二句集『沙鷗』を読む前に、第一句集の『夏越』(*3も読み返してみた。先に、山西・加藤が、師風に倣っているようにも見えないと記したが、こと『夏越』に関してはこの前言を撤回する。改めて読むと、

見えきたるなぞへが春の日差なり

蓮を見てゐて唇あけるさびしさよ

流木にさはつてをりぬ十夜寺

冬の潮まんばうの骨耿として

冬桜煙をとほしゐたりけり

といった岡井省二調の句がずいぶん含まれている。なぜこんな勘違いが生じたかを案ずるに、評者は『夏越』の代表句を、句集末尾近くに置かれた、

芋虫にして乳房めく足も見す

であると認識していた。この句の存在を知るのと同時に、第二句集の方に入っている、

子を連れて下る石段春の鳥

絵を描いてしづかな子供冬鷗

マフラーを二巻きす顎上げさせて

といった作品を雑誌初出時に見た印象が混じり合い、一種、母性の作家とでもいうようなイメージを村西に対して抱いてしまったものらしい。改めて見れば、「芋虫にして」の句も、岡井省二調に近いことがよくわかるが、とはいえ『沙鷗』で展開される吾子俳句への繋がりもうかがえて、その意味でも興味深い句である。

吾子俳句――そう、『沙鷗』の柱のひとつは吾子俳句である。さらにもうひとつの柱が、堅実な自然詠を中心にした写生ということになる。『夏越』にも写生句の見るべきものは少なくなかったが、それは師の岡井の場合がそうであるように、写生のきわみに言葉が切り拓いてしまう幻想への願望を秘めたものだったように思う。一方、『沙鷗』の写生句にはそのような傾きはない。描写が幻想へと流れ出してゆくことはむしろ意識的に抑制され、的確にして精密、どちらかといえば受け身の写生に徹している気配なのだ。言葉の放恣を許さない意志は、この句集にほぼ一貫して感じられて、それはつまり山西が自然に望むものがもはや、神秘や驚異の開示ではなくなっている事実を示しているのだろう。今や山西の願いは世界のひたすらな平安であって、吾子俳句の遍在ぶりを勘案するに、これは山西の母としての自覚に由来するものに違いない。こうなれば山西の作風が、岡井省二のそれから遠いものになるのも当然であった。

桔梗や子の踝をつよく拭き

栞文を寄せた中田剛は、この句を引きながら次のように記す。

子供へのこんな無償の愛のしぐさを繰り返すたび母親はよろこびとともに哀しさを味わっているのだろう。それは濃密かつ純粋に子供とかかわることのできる時間は永遠には続かないのだということを知っている哀しみなのだろう。すぐそこに見えている花が桔梗であるがゆえ余計にそうおもったのかもしれぬが。

例えば、

子供にも昔がありて椎の花

竹馬の吾子のすとんと暮れにけり

などの句を見ると、中田の鑑賞に述べられているような心事に、作者が自覚的であるのを見て取ることが出来る。

夕顔やひだるき吾子と手を繋ぎ

この句の「吾子」は、お腹がすいたと不機嫌にむずかっているのだろう。もしかすると事実は、「手を繋ぎ」引き摺るように歩いていたということだった可能性もある。しかし作者はその状況を「夕顔」という豊かな文学的連想を帯びた花に取り合わせ、「ひだるき」という古風な言葉を使って、他人事のように冷静に描くばかりだ。それこそが、「永遠には続かない」子との時間への思いが見させる、あらかじめの喪失の風景とでもいわんばかりの距離のあり方かもしれない。

川底の木の葉ふたたび流れだす

蝌蚪口をひらく一身うちふるひ

貝殻の色して茸せりあがる

寂として木の葉を立つる氷かな

枯蟷螂鎌閉ぢ合はせしづまりぬ

砕けたるどんぐり白し春の土

木の椅子の熱く青筋揚羽かな

自然の細部へ静かに浸透してゆく、視線の細やかさに打たれる。自分が見ることで世界が壊れはしないかと恐れてでもいるような、慎ましい視線。

貼紙の画鋲金色夏氷

煮凝にまじる青菜のかけらかな

こんな句もある。この人の喜びは、なんと小さなところからやって来るのだろう。

(※)加藤かな文句集『家』及び山西雅子句集『沙鷗』は、それぞれ著者から贈呈を受けました。記して感謝します。

(*1加藤かな文句集『家』 二〇〇九年八月八日刊 ふらんす堂

(*2山西雅子句集『沙鷗』 二〇〇九年八月八日刊 ふらんす堂

(*3山西雅子句集『夏越』 一九九七年 花神社

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俳句九十九折(59) 七曜俳句クロニクル ⅩⅡ・・・冨田拓也

俳句九十九折(59)
七曜俳句クロニクル ⅩⅡ

                       ・・・冨田拓也
11月23日 月曜日

先週、三橋敏雄について少しふれたが、その三橋敏雄の資料にいくつか目を通していると、なかなか興味深い内容のものが目に止まった。

「心づくしの秋」というタイトルの評論で、『俳句研究』1978年(昭和53年)4月号に掲載されたものである。

その内容は、当時の「新俳壇の中堅」といわれる38人の作者(阿部完市、穴井太、飴山實、伊丹公子、飯島晴子、磯貝碧蹄館、宇佐美魚目、上田五千石、大井雅人、大岡頌司、大串章、大峯あきら、岡井省二、岡田日郎、岡本眸、折笠美秋、加藤郁乎、川崎展宏、河原枇杷男、轡田進、斎藤美規、酒井弘司、桜井博道、志摩聡、杉本雷造、竹中宏、中戸川朝人、原裕、平井照敏、広瀬直人、福田甲子雄、福永耕二、宮津昭彦、森田峠、矢島渚男、安井浩司、鷲谷七菜子)の自選作について評したもので、まず〈彼らの一人一人が問われる所は、先行者たちを抜く、あるいはまぎれぬ、すぐれた新表現様式の確立を果たしたかどうかに極まる。〉とし、Ⅰ人1人の自選作に短い評言を加えているのであるが、この内容が相当に厳しいもので、読んでいて背筋が寒くなるようなところがあった。

以下、その中からいくつか引用してみたい。

*阿部 完市  本人には無関係であるが、昨今、続出する亜流の徒をしたがえているようだ。簡単に真似されるような文体は危うい。いまや、自己模倣をどう脱出するかに、こんごがかかっている。

*上田五千石  若くして古風に泥みだして以来、このごろは、それほどの歳でもないのに型に嵌まったワケ知りの句が目につく。ほかに言いたいことがなければ仕方がない。昔が懐かしい。

*桜井 博道  つねづね、おとなしい作風と見てきたが、おとなびているのではない。かといって幼々しいわけでもない。何かが不足している。その何かが判らないので私も弱った。

*杉本 零  句柄に品のよさを保持しつづけている作者である。品は構えてそなわるものではないが、それだけでは物足りない。私には――。

*原 裕  見てはならぬもの、あるいは普通では見えぬものを、何かの拍子に見たとき、われわれは少しく興奮する。それをこの作者の句にも求めたい。


どれも直載な内容であるが、これら中でも、自分が最も重要な内容ではないかという思いがしたのは、次の福永耕二の作品に対する評言であった。

*福永耕二 この作者なりの表現技巧に慣れた句々とみた。より一層難しい境位への参入を望まなければ、この程度の技巧駆使の繰り返しで、すべて間に合う。

三橋敏雄にとっては、福永耕二の技量でさえも「この程度」としか映らなかったということになるようである。なんとも重く厳しい言葉という他はないが、福永耕二の作品の水準と、そして三橋敏雄の作品水準について、それぞれ正確に比較検討し、この三橋敏雄の評言について詳しく考察してみるならば、ここから引き出せる俳句表現における問題意識や課題といったものは、相当大きな内実を孕んだものとなるのではないかという気がする。


11月24日 火曜日

三橋敏雄の評論について見てきたが、その内容とどこまで関連があるかやや微妙ではあるが、どことなくそこから鈴木六林男のとある言葉を思い出すところがあった。以下の文章は、鈴木六林男の第4句集である『桜島』の後記からの引用である。

恰好のいい俳句を書くためであるなら、僕がその気になりさえすれば、さほど困難なことではないが、今はあえてその道はとらない。

この句集には、1957年(昭和32年)5月から1970年(昭和45年)までの作品が収められており、この後記は、1975年(昭和50年)に書かれたものということになる。

また、他に、この言葉に関連すると思われる内容のものに、宗田安正の「鈴木六林男管見」(『俳壇』2005年4月号)という文章における、鈴木六林男が講演で語った言葉として、次のような内容が記されている。

俳句を書くのに二つの態度というか方法というか姿勢があるとして、その一つに伝わってきた形式にそのまま倣う方法(伝承俳句)をあげ、もう一つの方法として「その俳句のなりたち、形式をばらばらにしまして、解体しまして自分に合うように作り直す方法があるわけです」(「実作者の方法」)と言っている

どちらもなかなか容易にはその言葉の意味するところを具体的に理解するのは難しいところがあると思われるが、俳句を始めてから自分は、これらの言葉の意味するところについて、随分と長い間考え続けてきたような気がする。

結局のところ、鈴木六林男という表現者が、他の作者たちの中に容易に紛れてしまうことのなかった要因のひとつには、これらの言葉からも窺えるように、単なる「恰好のいい俳句」といった一定の「枠組み」に陥ることを避けるために、ある程度の水準を示す作品を自らの手で打ち壊し、その後に独自なかたちを以て再構成を行うといったやや回りくどい手続きを取る書き方を自らの内側にひとつの手法として意識的に組み込んでいたためである、ということも可能であるように思われる。

このような予定調和ともいうべきありきたりな表現を峻拒しつつも、けっして表現としての言葉の力を無くし、失速してしまうことのない特殊な作品の書き方というものの、その方法の具体的なプロセスといったものについては、傍からは容易には想像が及ばない部分があるが、そういった困難な表現方法を作品の内において絶妙なバランス感覚で止揚し実現させることができた稀有な例が、鈴木六林男の作品であるということだけは少なくとも言えそうではある。

放射能雨むしろ明るし雑草と雀

無敵少女に月の出唸る未完ビル

裁判やかのオートバイ光り休む

遠景の桜近景に抱擁す

海へ帰るゆたかな汚水野に遊ぶ

わが死後の乗換駅の潦

粗(あら)い陸の終りに燃えて一人青年

初日さす横顔とわが一匹の鮫

千の手の一つを真似る月明り

凍る朝スパイの起きる気配して

梅雨ながしパチンコ店のジヤンギヤバン

擦れちがうたびの喪失ダンプの大

永き日の地に槍を刺し居ずなりぬ



11月25日 水曜日

巨大書店を漂浪。

角川の『俳句』の最新号を立ち読み。目次の裏側に『新撰21』の広告が掲載されていて、すこし喜ぶ。

j・l・ボルヘス『創造者』(鼓直訳 岩波文庫 2009)、スチュアート・ダイベック『それ自身のインクで書かれた街』(柴田元幸訳 白泉社 2008)、チャールズ・ブコウスキー『モノマネ鳥よ、おれの幸運を願え』(中上哲夫訳 新宿書房 1996)を購入。

これらの3冊はいずれも海外の詩集であるが、こういったものを時折、発作的に読みたいという衝動に駆られるのは、やはり普段俳句にばかり接しているためであろうか。


11月27日 金曜日

「馬」という言葉を思い付く。

芭蕉の時代から「馬」を取り扱った作品というものは少なくなく、嘗ては馬という動物は人々の生活に割合密接なかたちで存在、共存していたようである。作品のいくつかを少し調べてみただけで、現在までに実に多くの馬を詠み込んだ句を見出すことが出来るので、少し驚くところがあったが、今回はその数多い作品の中から厳選して、3句のみを取り上げることにしたい。

クリスマス馬小屋ありて馬が住む  西東三鬼『今日』より

さびしさよ馬を見に来て馬を見る  高柳重信『山川蝉夫句集』より

生き急ぐ馬のどのゆめも馬  攝津幸彦『鳥屋』より


11月28日 土曜日

「邑書林」から発行の『新撰21』について、刊行日が予定より少し遅れるようで、結局のところ12月5日の刊行ということになるようである。

ただ、「邑書林」に予約注文をしていても、発送作業の都合から手元に届くのは12月7日あたりとやや遅くなる可能性もあるとのこと。

この『新撰21』については、「邑書林」のHPから現在、予約注文を承っているとのことなので、是非ともお申し込み下さい。

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■関連記事
俳句九十九折(48) 七曜俳句クロニクル Ⅰ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(49) 七曜俳句クロニクル Ⅱ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(50) 七曜俳句クロニクル Ⅲ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(51) 七曜俳句クロニクル Ⅳ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(52) 七曜俳句クロニクル Ⅴ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(53) 七曜俳句クロニクル Ⅵ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(54) 七曜俳句クロニクル Ⅶ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(55) 七曜俳句クロニクル Ⅷ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(56) 七曜俳句クロニクル Ⅸ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(57) 七曜俳句クロニクル Ⅹ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(58) 七曜俳句クロニクル ⅩⅠ・・・冨田拓也   →読む


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2009年11月28日土曜日

遷子を読む(36)

遷子を読む(36)


・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、仲寒蝉、筑紫磐井


霧氷咲き町の空なる太初の日
『雪嶺』所収
 
窪田:昭和38年作。同じ年に、

氷河期の人類と共に悴みぬ

があります。氷河期の句について堀口星眠は「酷寒がつづく。かじかんでいる時、他の全生物と同じに原始人にかえって冬に耐えているような気がする。智力、科学、すべて、自然には打克ちがたい。氷河期の人間はどうだったか。ふとそんなことを思う。」(『脚注名句シリーズ 相馬遷子』)と書いています。この頃の遷子は、人類の始めと自然というよなことに思いを馳せていた気がしてきます。掲句の前におかれた

風が棲む雪山の裾初荷行く
雪晴れて浅間嶺すわる町の上

なども神々しい自然の中で生かされている人間、という構図のように見えます。

酷寒の佐久、町中の木々、周りの山々の木々に花が咲いたように霧氷がつき、それが朝日に輝いています。きゅ-んと引き締った空気、青い空にはまるで太初の日のような朝日が輝きます。西脇順三郎の詩の一節「(覆された宝石)のような朝」のような句です。近代科学の洗礼を受けた現代人である遷子が、芭蕉と同じような造化を思ったかどうかは分りません。でも、太初への思いは人類どこかで共通したものがあるのではないでしょうか。自然の圧倒的な美の中に置かれればそのことが実感として湧いてきそうな気がします。遷子は、何時か自分が信州の自然に帰っていくことを思い、それが一種の願いのように胸の奥深くに芽生えたのではないか、そんな気がする一句です。

中西:高原派の時の句とは肌合いが違ってきているようです。自分の詠い方で、自分の見た風景を描いているようです。先日何となく野見山朱鳥を読んでいましたら、

火蛾とんで燈火は火のみ縄文期

という句に出会い、遷子のこの句と同様に、あるものに誘導されて、自分の全く知らない遠い昔を思うものかと、そう感じました。朱鳥は火に誘導されて縄文を思ったのですが、火蛾は朱鳥にとってよく詠われる句材だそうです。これに対して遷子は霧氷と、よく詠われる句材の空に太初の日を見ています。俳人には好きな句材というのがあるものです。空を遷子はいつも夢のような広がりをもって描いています。

自然の圧倒的な美の中に置かれればそのことが実感として湧いてきそうな気がするという窪田さんの感想は、長野の自然に接している方の体験的なものかと羨ましく思いました。

空を題材にしたときは、遷子の澄んだ精神を見ることが多いのですが、この句は特に遷子のピュアーな面が出ているのではないでしょうか。

原:霧氷というものを映像などでは知っていますが、実物を見たことはありません。何となく、山中の樹木に生じる現象であるという先入観がありましたので、最初この句を目にしたときには、山と町との二つの場を視野に入れている―――つまり、霧氷によって輝いている山の側からやや距離を持って、町の空に上った太陽を詠んだものと、一応解釈しました。けれどその場合、どうも印象が分散するのです。上五から中七へかかる言葉の続き具合からも、別々の場を設定するのは不自然のように感じました。ここではどうしても町そのものに霧氷があってほしかったのです。窪田さんが「周りの山々の木々」と同時に「町中の木々」を言って下さったので、やっぱりそうかと嬉しい気がしました。たった今、見つけたのですが、『山河』の昭和44年作に、

昏睡の父に庭木の霧氷咲く

がありました。

町のどこもかしこも霧氷できらめいているのでしょう。普段の平凡な町の景が一変します。「太初の日」は、思わず口に出た言葉でしょうが、時空を超えた大きな自然観を思わせる捉え方です。このような捉え方は『雪嶺』のこの時期前後に顕著なようです。

こうしてみると、『雪嶺』という句集は、社会性への傾倒をはじめとして、さまざまな要素を孕んだ句集であったという気がしています。

深谷:「空」「大初」と来ると、

空は大初の青さ妻より林檎うく 中村草田男

を思い出します。

地上の風景は時代とともに変わっていくけれど、空の青さは不変です。だから、ついそうした悠久の想いに意識が向かうのでしょうか。遷子のこの句も、そうした「遥かなるもの」への憧れがあるように思えます。

この句を読めば、窪田さんがコメントされたような景が見えてきます。まだ人々が活動を始める前の早朝の森閑とした静けさ、そして冷気が町を覆っています。街路樹には霧氷がつき、まるで花を咲かせたよう。そんな光景に、朝日が差し込んできます。太古の昔、人間が生れる前の時代と何ら変わらない、朝日の輝きです。

一方で佐久は、現実に人間が住み、生活の拠点とする町です。その人間の営みを超えた悠久の自然。ここで、自然と人間とは、決して二項対立的ではなく、窪田さんの御指摘のように「自然の中で生かされている人間、という構図」で描かれています。そして、その佐久の町を愛する遷子の眼差しの慈愛を感じます。

仲:霧氷は通常山の上でしか見られませんが佐久平では寒い日は氷点下15度にもなるので「町」でも見られます。こういう日は空気が頬に痛く、早朝には大気中の水蒸気が直接氷結してダイヤモンドダストという現象が起こります。まだ人通りの少ない町の空を渡る太陽を見ているとまさに「太初の日」輪もこうであったろうと思われるのです。人影の少ない風景からまだ人類のいなかった頃や少なかった頃に思いを馳せるのは自然な心の動きです。窪田さんの挙げた氷河期の人類の句は一風変わっていますが、この句と同じような心の動きから生まれたのかもしれません。

この句から逸れてしまいますが氷河期の句について。実は今現在も氷河期の真っ最中(これだけ温暖化と言われているのに間氷期だそうです)なのですが最終氷期の頃に人類は全世界へ散っていったと言われています。人類を3種類に分類するとこの時世界中に拡散していったのは我々と同じモンゴロイド(黄色人種)です。アジア全域はもちろん北アフリカ、スンダランドからオーストラリア(アボリジニもモンゴロイドの流れという説に従えば)、ベーリング海峡を渡って南北アメリカ(ネイティブアメリカンやインカ帝国を建てたインディオの祖先)まで…厳しい時代にこれだけ繁栄できたのは肉体的に寒さに強く、食糧の少ない状態にも耐えられる遺伝子を持っていたからとされています。しかし同じこの遺伝子(節約遺伝子)が今や飽食の時代において糖尿病、メタボリックシンドロームを引き起こしていると言われるのは皮肉なことです。遷子の時代にはまだそんなことは分かっていませんし、だいいち糖尿病も今ほど社会問題とはなっていませんでしたが。

筑紫:当初は原さんと同じような感想を持っていました。私など、樹氷(霧氷の一種ですね)は蔵王、のイメージだけしかありませんから、町中の霧氷はイメージがなかなか湧きませんでした。窪田さんの解説を見て、佐久という地の厳しさとともに、自然の荘厳さに感銘を受けました。

しかしこの俳句には、もっと印象的なキーワードが取り入れられています。「太初」です。まず思い出される句は、「空は太初の青さ妻より林檎うく 中村草田男」(昭和21年)です。太初には単なる初めではなくて、世界の初めという意味がこめられています。遷子の太初の日の空も真っ青であるはずです。ですから、霧氷咲き、太初の日を置く空の下の町は至福にあふれ、神の祝福を受けているはずです。

こうしてみると、『雪嶺』の句の振幅の大きさは不思議です。というより、天国に向く無垢の目は、醜い地上に向くと怒りの様相を帯びるような気がします。

「遷子を読む」のシリーズをつづけて、誌上でのやり取りのほか、メンバー同士でのメールに書かれたコメントを見て行くと、遷子という作家は一筋縄ではいかないという感じが強くします。戦前の馬酔木風の美しい作品、従軍作品(多くの人はこの俳句に批判的でしたが、私は遷子の成長に不可欠だったような気がします)、函館での境涯俳句、堀口星眠・大島民郎らと知り合ってからの高原俳句、そして社会派的な俳句、晩年の闘病俳句と変化しますが、これらの変化が行き当たりばったりだったらあまりわれわれは研究する必要がないように思います。遷子にとって殉ずるに足りる行動原理があったのではないでしょうか。

私が思うに、掲出のような「美」を愛する心とは、裏返せば「醜」を憎む心でもあったのではないかと思います。どちらも、激しさという点では違いはありません。そして、そうした態度が自分自身に向かったとき、自分自身も決して美しくはなかったと思えたのでしょうか。反省することの多い遷子には自虐的な句も多く見られます。こうした振幅のゆれを、佐久の雪深い里で養ったのではないでしょうか。本来の人間嫌いはこうした遷子の性格を養うのにうってつけだったかと思います。

せっかく、仲さんが入られたので伺ってみたい話があります。遷子の応召、その後病気しての内地函館での病院勤務まではいたしかたないものと思えますが、戦後、佐久へ戻って開業することは相馬医師にとってどういう気持ちであったかです。ついつい佐久と言うと佐久総合病院の若槻俊一を思い浮かべますが、彼が東大の医局からどういう気持ちでこの病院へ来たのか、鬱屈した思いがあったのか、その後の彼の仕事や思想遍歴から見るとどうしてもそのように思われてなりません。それが遷子でも推測できるかどうかです。遷子にとって最大のなぞは、そこにあるのではないかと思います。それは逆に、昭和20年代に医局に戻ることが可能であったか、東京で開業することが可能であったかという選択肢の問題にも移ります。

その答えが出たとしましょう。その上で、遷子にとってもっとも危険であったのは無気力ではなかったかと思います。句集の中にさえ気力が充実する一方、本人も絶望するような低迷振りもうかがえます。われわれが遷子から学ぶべきであるものがあるとすれば、友人や俳句の仲間のいない、何もない環境で自分を律する心をどうやって養うのかということだと思います。その意味では、やはり稀有な俳人であったと思います。

[順番に回しているのではないので同じ指摘が重なることがあります。最後に来た深谷さんと草田男の句で重なりました。しかし、論旨はだいぶ違っています]

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遷子を読む〔4〕 春の町他郷のごとしわが病めば・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
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遷子を読む〔11〕 汗の往診幾千なさば業果てむ・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔12〕 雛の眼のいづこを見つつ流さるる・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔13〕 山河また一年経たり田を植うる・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔14〕 鏡見て別のわれ見る寒さかな・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔15〕寒星の眞只中にいま息す・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔16〕病者とわれ悩みを異にして暑し・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔17〕梅雨めくや人に真青き旅路あり・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔18〕老い父に日は長からむ日短か・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔19〕田植見てまた田植見て一人旅・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔20〕空澄みてまんさく咲くや雪の上・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔21〕薫風に人死す忘れらるるため・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔22〕山の虫なべて出て舞ふ秋日和・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔23〕百姓は地を剰さざる黍の風・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井   →読む
遷子を読む〔24〕雪降るや経文不明ありがたし・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔25〕山深く花野はありて人はゐず ・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔26〕星たちの深夜のうたげ道凍り ・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔27〕畦塗りにどこかの町の昼花火・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔28〕高空は疾き風らしも花林檎・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔29〕暮の町老後に読まむ書をもとむ・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔30〕山の雪俄かに近し菜を洗ふ・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔31〕一本の木蔭に群れて汗拭ふ・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井  →読む
遷子を読む〔32〕ストーヴや革命を怖れ保守を憎み・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔33〕雪山のどの墓もどの墓も村へ向く・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む
遷子を読む〔34〕幾度ぞ君に清瀬の椿どき・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む


遷子を読む〔35〕わが山河まだ見尽さず花辛夷・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、仲寒蝉、筑紫磐井 →読む


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■関連書籍を以下より購入できます。


2009年11月22日日曜日

第66号

※第67号は11月30日(月)発行予定です。

第66号

2009年11月22日発行

俳誌雑読 其の九

カワウソよ、行け帰ることなく

          ・・・高山れおな   →読む

俳句九十九折(58)

七曜俳句クロニクルⅩⅠ

          ・・・冨田拓也   →読む

遷子を読む

〔35〕わが山河まだ見尽さず花辛夷

・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、仲寒蝉、筑紫磐井   →読む

おしらせ           →読む

あとがき           →読む

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あとがき(第66号)

あとがき(第66号)


■高山れおな

週末、会社帰りにレイトショーで『ゼロの焦点』を見て参りました。タクシーに乗っても雑誌を開いても、赤いコートで固めた三女優の広告を目にせぬ日はなく、ついふらふらと。演技陣はなるほど評判通りで、とりわけ中谷美紀は鳥肌の立つような名演、木村多江の見せ場はじつは一箇所しかないのですがこれもみごと。ヒロインの広末涼子ですら台詞を言わない限りは素晴らしい(実際、台詞を言わないシーンが多い)。

結婚式から七日目に姿を消した夫の行方を妻が探すうちに、夫の過去があきらかになってゆくという語りの枠組は美しいし、脚本や演出のテンポもいいし、そんなこんなで感動はあるのですが、あとから冷静に考えると、ストーリーはかなり不自然で、何より殺人事件の犯人の動機に説得力がありません。要するに現在の地位を失なうのをおそれて、自分の過去を知る人間を抹殺するという話なのですが、気概といい、知性といい、行動力といい、犯人の人物像が魅力的に設定されすぎていて、これ程の人間がそんな理由で人を殺すかいなと思ってしまう。しかも、被害者は犯人を脅迫しているわけですらないのです。となると、この飛躍をもたらすのは、嫉妬からくる激情でなくてはならないのですが、そこの関係性もクリアにはなっていません。

俳句とは全然関係ないって? いや、そうでもありません。時代が昭和三十年代で、場所が雪国ですので、「遷子を読む」なんか拝読しておりますと、ああ、あの時代だな、などと思うわけです。セットや衣装もよく出来ておりましたから。能登半島の海岸べりの道がなんども出てくるのですが、これが舗装されているのだけが唯一興ざめでした。アスファルトを引っぺがすのは無理にしても、CGとかでなんとかならなかったのかしら。あとそれから、最後の十分は誰が見ても蛇足でしょう。省略が大事なのは俳句に限ったことではないようです、と無理にこじつけたところで筆を擱きます。


■中村安伸

CSのフジテレビNEXTでやっている「F1グランプリの歴史」という番組は、過去のグランプリの貴重な映像を一年ごとに編集したもので、今年のシーズン終了後に放送がはじまり1970年、71年の二回が放送済みです。

70年シーズンは事故死したロータスのヨッヘン・リントがワールドチャンピオンを獲得し、あわせて三人のドライバーが命を落とすという悲劇的なシーズンでした。

いまこのあとがきを書きながら、私の生まれた年である1971年のグランプリの映像を見ているところなのですが、マシンが葉巻状のデザインから平らな箱状のデザインへと移行していく様子がよくわかります。

空気抵抗、ダウンフォース、タイヤグリップ、エンジンパワーなど、ときに競合するさまざまな要素を最適なバランスで構成したマシンは美しいし、美しいマシンが強いというのは事実です。

しかし、最適解というものは固定的なものではなく、つねにより高度な次元でのバランスをもとめて進化してゆくのがF1マシンに課せられた宿命であり、70年の最適解と71年のそれは違います。斬新なアイデアはさまざまな基礎技術の進歩という外的要因と不可分です。

無理やり俳句の話につなげれば、俳句もまた言語や社会という外的要因の変化にさらされているのであって、そのときどきの最適なバランスを求めれば、必然的に新しい解が生まれるということは、自明のことではないでしょうか。


おしらせ(第66号)

※会場と開始時間が変更になりました。ご注意ください。

第116回現代俳句協会青年部勉強会
四ッ谷龍講演 田中裕明「夜の形式」とは何か

 5年前にこの世を去った俳人、田中裕明は、その生涯を通じて「夜」
という題材を重要なテーマとしてきました。とくに22歳のときに発表し
た文章「夜の形式」は、「芸術における形式と内容について思いをこら
していたある夜に、ふと夜の形式という言葉が浮かんでしばらく頭を離
れなかった」と書き出された大変興味深い一編です。この文章を読み直
し、「夜の形式」とはどのような形式かを考えてみたいと思います。
 第二部では、田中裕明のご家族や弟子の皆さんを囲んで、その人とな
りや作品について自由にディスカッションする予定です。

  第一部:田中裕明「夜の形式」とは何か
    講演者 四ッ谷龍
    *スライドとオーディオにより、「夜」をテーマとした絵画や
     音楽を紹介しながら、裕明俳句との共通性をさぐります

  第二部:田中裕明の人と作品
    パネリスト 森賀まり・対中いずみ・満田春日・山口昭男
    参加者全員とのディスカッション

※終了後に第三部(懇親会です)を同センター2階にて予定しています。

 今回の勉強会は、『田中裕明全句集』の発行元でかつこのたび「田中
裕明賞」を創設した、出版社ふらんす堂との共催になります。

■日 時 1月24日(日)13時~17時(開場 12時30分)
■場 所 豊島区勤労福祉会館 大会議室
     〒171-0021 東京都豊島区西池袋 2-37-4

     (最寄り駅:JR、西武線、東武東上線、地下鉄 池袋駅
■参加費 1000円(当日受付にて。懇親会費は別途いただきます。)
■定 員 100名(受付順)
■お申し込み、お問い合わせ:現代俳句協会青年部
 〒101-0021 東京都千代田区外神田6-5-4 偕楽ビル7階
          TEL 03-3839-8190  FAX 03-3839-8191
             genhaiseinenbu@yahoo.co.jp
   

俳句九十九折(58) 七曜俳句クロニクル ⅩⅠ・・・冨田拓也

俳句九十九折(58)
七曜俳句クロニクル ⅩⅠ

                       ・・・冨田拓也

11月15日 日曜日


三橋敏雄の作品のことが、ぼんやりと頭に思い浮かんできた。三橋敏雄といえば、「戦争」に関する作品や「船」などといった海洋関係の句などの存在のため、どちらかというと「夏」のイメージが強いところがあるように思われるが、それだけでなく以下の作品のような「春」の句も多数存在する。

肉附の匂ひ知らるな春の母   三橋敏雄『真神』より

晩春の肉は舌よりはじまるか    〃  〃

鈴に入る玉こそよけれ春のくれ    〃  〃

春なれや残(のこん)の我に息の穴   〃 『鷓鴣』より

草すべりして青臭し春の岡辺     〃 『長濤』より

こういった濃密な「春」の情感を感じさせる雰囲気を持つ作については、これまで、以前にどこかで読んだおぼえがあるというある種の既視感のようなものを抱いていたのであるが、長い間それが一体どういった作品に起因するものであるのか、なかなか見当がつかなかった。しかし、あるとき、ふとこれらに近い感覚を持つ作品の存在が頭の中に浮かび上がってきた。それは「蕪村」の作品であり、中でも「春」における作品の存在であった。

遅き日のつもりて遠きむかしかな  蕪村

さしぬきを足でぬぐ夜や朧月   〃

春雨や小磯の小貝ぬるゝほど   〃

ゆく春や逡巡として遅ざくら   〃

春風や堤長うして家遠し    〃

ゆく春やおもたき琵琶の抱心   〃

ゆくはるや同車の君のさゝめごと  〃

しかしながら、蕪村と比べた場合、三橋敏雄の作品の方には、やや異様ともいうべき雰囲気が若干漂っているようなところがある。そういった点において少し相違が感じられるところがあるため、「春」という共通項のみでこの両者を単純に結び付けてしまうのは、やはりやや短絡なところがあろうか。

というわけで、他に両者の作品において、やや近しい関係なるのではないかと思われる内容のものを探してみた。

飛尽す鳥ひとつづつ秋の暮  蕪村

渡り鳥目二つ飛んでおびただし  三橋敏雄『真神』より


春の海終日(ひねもす)のたりのたり哉  蕪村

わたる日はひねもす照れり喉は花   三橋敏雄『真神』より


うつゝなきつまみごゝろの胡蝶哉  蕪村

凍蝶を抓みはなせば乱れけり   三橋敏雄『鷓鴣』より


稲づまや浪もてゆへる秋つしま  蕪村

一生の幾箸づかひ秋津洲    三橋敏雄『鷓鴣』より


愁いつゝ岡にのぼれば花いばら   蕪村

草すべりして青臭し春の岡辺    三橋敏雄『長濤』より

実際のところ、これらの作品について「胡蝶」の作についてはその蕪村からの影響は間違いのないところと思われるものの、それ以外の作については、果して蕪村による影響といっていいのかどうかいまひとつ判然としないグレーゾーンを示しているというべきであろうか。どれも微妙なのである。

結局のところ、三橋敏雄の作品における蕪村からの影響の有無については、今回いまひとつよくわからない憾みが残った。それでも、三橋敏雄の俳諧技法といったものは、当然ながら芭蕉や蕉門の作者たち、または鬼貫などの作風や技法が混然として成り立っているものであると思われるが、それだけでなく、やはり「蕪村」からの影響といったものも、若干ながら含まれているのではないかという気もしないではないところがある。

此の道や行く人なしに秋の暮   芭蕉

我帰る路いく筋ぞ春の艸    蕪村

行かぬ道あまりに多し春の国  三橋敏雄『鷓鴣』より



11月16日 月曜日

三橋敏雄の俳諧からの影響というものについて少し触れたが、同じ西東三鬼門の鈴木六林男にもそういった俳諧からの影響を感じさせる句がいくつか見られる。

几巾きのふの空のありどころ  蕪村

夕月やわが紅梅のありどころ  鈴木六林男『桜島』より


星一つ残して落る花火かな   酒井抱一

花火のあと二人に強き星残る  鈴木六林男『国境』より

まだ他にも似たような例がいくつかあったような気がするが、一応、思い浮かんだのは、上記のもののみであった。


11月17日 火曜日

「皿」という言葉を、ふと思い付いた。

夏の月皿の林檎(りんご)の紅を失す  高浜虚子『五百句』より

秋風や模様のちがふ皿二つ  原石鼎

すすりたればつめたき皿のしまはるる  金子明彦

もの音や人のいまはの皿小鉢  三橋敏雄『真神』より

鳥帰る近江に白き皿重ね  柿本多映『蝶日』より

もっと「皿」による俳句というものは数があるような気もするのだが、どうにか思い出すことができたのは結局のところせいぜいこの5つの作品のみであった。「皿」の俳句といえば、やはり掲出の石鼎の句が最も代表的な1句ということになろうか。


11月20日 金曜日

芥川龍之介の『澄江堂句集』を読む。

『澄江堂句集』は、1927年(昭和2年)12月に刊行された芥川龍之介の遺句集である。芥川龍之介は、1892年(明治25年)に生まれ、1927年(昭和2年)7月24日に36歳で死去。句集の内容としては、1917(大正6年)から1927年(昭和2年)の期間における77句が収録されている。この句集に収録された作品は、これまでの作である1000句近くもの作品の中から、自死の前の芥川龍之介本人の手による選で編集されたものである。

蝶の舌ゼンマイに似る暑さかな

木がらしや東京の日のありどころ

癆咳の頬美しや冬帽子

夏山や山も空なる夕明り

木がらしや目刺にのこる海のいろ

水洟や鼻の先だけ暮れ残る

元日や手を洗ひをる夕ごころ

雨ふるやうすうす焼くる山のなり

春雨の中や雪おく甲斐の山


「文人俳句」といえば、やはり尾崎紅葉、夏目漱石、久保田万太郎といった名前が思い浮かんでくるところがあるが、こういった作品を見ると、やはりこの芥川龍之介の存在も逸することができないであろう。

現在の視点から見ると、『澄江堂句集』における77句には、やや生硬ともいうべき表現も随所に見られるところがあるが、ここに引いた中のいくつかの句については、それこそ数々の著名な俳人たちの作品に伍して、現在となってはすでに古典ともいうべき位置を獲得している作品であるようにも思われる。中でも「東京の日のありどころ」、「目刺にのこる海のいろ」、「鼻の先だけ暮れ残る」、「手を洗ひをる夕ごころ」あたりの古格ともいうべき重厚な雰囲気を持つ句などは、現在多くの俳句の実作者にとって非常に親しい作品ということになろう。

芥川龍之介は、芭蕉のことを信奉していたとのことである。そういった事実を踏まえると、この『澄江堂句集』の作品収録数を自らの手で77句と極端に少なくした理由には、もしかしたら、芭蕉の「俳諧問答」における〈一世のうち秀逸の句三、五あらん人は作者なり。十句に及ばん人は名人なり。〉という言葉を強く意識していたためと考えることも可能かもしれない。


11月21日 土曜日

「邑書林」から出版予定の若手俳人のアンソロジー『新撰21』が刊行されるのは、実際のところ、具体的な発売日はいつごろになるのであろうか、

刊行が遅れる可能性もないではないであろうが、順調に作業が進めば、今月11月の22日から30日の間における刊行となることと思われる。(詳しいことはわからないが、やはり今月の末あたりに刊行という可能性が高いのではないかという気がする)

この『新撰21』については、版元の「邑書林」のHPから現在、予約注文をすることが可能であるとのことである。

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■関連記事
俳句九十九折(48) 七曜俳句クロニクル Ⅰ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(49) 七曜俳句クロニクル Ⅱ・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(50) 七曜俳句クロニクル Ⅲ・・・冨田拓也   →読む

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俳句九十九折(52) 七曜俳句クロニクル Ⅴ・・・冨田拓也   →読む

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俳句九十九折(57) 七曜俳句クロニクル Ⅹ・・・冨田拓也   →読む


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2009年11月21日土曜日

俳誌雑読9(カワウソ)

俳誌雑読 其の九
カワウソよ、行け帰ることなく

                       ・・・高山れおな


角川「俳句」誌十一月号における、本井英、今井聖、髙田正子の合評鼎談で、中村与謝男の

卯浪立ち立ち一髪の陸もなき

という句が俎上にのぼっている。

本井 卯浪立ち立ち一髪の陸もなき

面白かった。〈卯浪立ち立ち〉に、いかにも卯浪のざわざわざわざわした感じが出ている。全く陸(くが)も見えないと。

今井 〈一髪の陸〉とはどういう意味ですか。

本井 一片じゃないですか。

今井 髪の毛一本のような。

本井 辞書を調べてみると意味が違ってくるんだが。

髙田 これっぽっちのということですか。

本井 そう解釈しないと無理でしょう。

今井が問題にしている「一髪の陸」という表現は、宋の詩人・蘇軾の「澄邁駅(ちょうまいえき)の通潮閣(つうちょうかく) 二首」のうち「其の二」にある、

として天低く 鶻の没する処

青山 一髪 是れ中原

という詩句を踏まえている。杳杳(ようよう)は遥かなさま、鶻(こつ)はハヤブサ、中原(ちゅうげん)はこの場合、中国本土を指している。この詩を詠んだ時、蘇軾は海南島に左遷されていたのである。岩波文庫の蘇軾の詩集(*1にある現代語訳を示すと、

とおく、はるけく、はやぶさが隠れてゆく、空のはて。毛一すじほどの青い山、ああ、あれこそ中原の地だ。

とても有名な詩だから、今井や本井が知っていてもよかったはずだ。現に中村与謝男は知っていて典拠にしているのだし、評者も知っていた。しかしそれも所詮たまたまのことであり(日原傳のような専門家はいざ知らず)、今井たちがこの詩を思い出せなかったのも又たまたまに過ぎない。これが芭蕉や蕪村の時代ならそれでは済まず、実際、芭蕉はじめ素堂や其角や去来や許六といった芭蕉の友人や高弟連が、この詩を知らないということはありえないだろう(もちろん子規や漱石の場合も)。ただ、限られた漢詩文や王朝古典や謡曲などを教養のバックグラウンドにして制作していた芭蕉たちの時代と、そのような共有された文化の基盤が失われた現代では話が違って当然で、これを以って、現代の俳人が元禄の俳人に比べて劣化しているなどと単純に言うことはできない。今井たちが芭蕉ほど偉くないのは論を待たないながら、少なくとも彼らの季語に関する知識は芭蕉よりも広くも深くもなっているはずだし、それぞれまた別に得意の分野もあるわけだ。

教養の共通基盤の喪失などというのは言い古された話柄であり、であればこそ上述したあたりが俳句の制作と読解をめぐって要求される知識や教養についての当節の常識的な見解かと思っていたら、案外そうは考えない人もいるらしい。ブログ名が「かわうそ亭」だから以後カワウソと呼ぶことにするが、そのカワウソによる「俳人劣化のなげき」と題する十一月十日付の記事には、次のようなことが書いてある(*2。本井や今井の合評が載ったのと同じ「俳句」十一月号に発表された、相子智恵の角川賞受賞をめぐっての記述である。

むかつきながら(なぜむかついているかは後述……引用者)、今度は第55回の角川俳句賞受賞の相子智恵の「萵苣」50句を読む。こちらは、まあ、なかなか感じのいい句で、悪くないねと思った。気に入ったものをいくつか抜く。

縞鯵の黄金ひとすぢ眼まで

砂払ふ浮輪の中の鈴の音

十ばかり墓あるほかは夏野かな

床柱てらてら秋の来たりけり

冬晴や鳩サブレー鳩左向き

氷ぶちまけ魚屋の裏寒墓

甘茶もらふペットボトルを空にして

不帰の五月百客百年来

ところが、本賞の選考座談会を読んで、これまたあきれかえってしまったよ。選考委員の先生様は矢島渚男、池田澄子、正木ゆう子、長谷川櫂の四人。あきれたのは、この相子智恵の50句を授賞作にすると決めていながら、こんな発言をしているところ。(*3

長谷川(略)最後の〈不帰の五月百客百年来〉は分からなかった。

正木 そうなんです。分からない。なぜ突然、最後にこれが入ってくるか。

池田 何日調べたことか。そして、いろいろな人に聞きました。だけど誰も分からない。しかも、他の句と全然違うでしょう。どうしたのかしら。

長谷川 五月が帰って来ないと言っているんですか。〈百客百年来〉も分からない。

矢島 〈バー真昼〉という句があるから、バーのお客じゃないのかな。来なくなったお客がいっぱいあるんだけど、百年経ったら来るかなあって。(笑)

不帰の五月百客百年来

不帰には「かへらず」というルビがついています。

この句がいい出来かどうかは留保がつきますが、少なくとも「意味」は、多少、俳句も短歌も現代詩もいろんなものが好きな方だったら、絶対に分かりますよね。わたしは、すぐぴんときましたよ。

寺山修司『われに五月を』

目をつむりていても吾を統ぶ五月の鷹(*4

「百年たったら帰っておいで」

あとで本人の「受賞のことば」を読みますと―

寺山修司は「百年たったら帰っておいで」と書いたけれど、帰れるはずもない。毎年、歳時記で同じ季節の頁をめくるけれど、その一年は、二度と帰らざる過客なのだ。

とありました。本人が自句自解をするのは、みじめなものであります。選ぶんだったら、それくらいわかれよ。分からんかったら、わかるまで考えろよ、プロなんだから。もう、四人が四人ともこれかよ、と気分ますます悪し。「バーのお客じゃないのかな」って。あーあ。(笑)

俳人劣化はとどめがたいらしい。

カワウソ先生様は、分からんかったら、わかるまで考えろよ、プロなんだから。」もっともらしくご教戒だが、そもそもこの句、考えたらわかるように書かれているか? 「あとで本人の『受賞のことば』を読みますと―」という一節も、アリバイを捏造している疑いなきにしもあらず。が、それについてはまあ、「わたしは、すぐぴんときましたよ。」と言っているのを信じるとしよう。とはいえ、それこそたまたまであり、そのたまたま度は冒頭で触れた「青山 一髪 是れ中原」の場合より遥かにはなはだしい。なぜなら、中村与謝男の掲出の句と蘇軾の詩句の結びつきは、蘇軾の詩句を提示しさえすれば誰にでも一目瞭然なのに対し、評者には相子の自句自解を読んでも「不帰(かへらず)の」の句が一向に了解出来ないからだ。「百年たったら帰っておいで」というフレーズは、寺山の遺作となった映画『さらば箱舟』のラストシーンの台詞「百年たったら帰っておいで、百年たてばその意味わかる!」から来ているらしい。寺山の妻だった九條今日子の回想録(*5の書名にもなっており、寺山ファンには周知の言葉なのだろう。しかし、すでにして「帰っておいで」が「不帰(かへらず)」に反転し、「百年たったら」が「百年来」になっているわけで、たとえこの台詞を知っていたとしても、この句からそれを連想するにはかなりの飛躍が必要だ。というか、カワウソが「ぴんと」きたのはまさしくたまたまの上にもたまたまであり、相子の受賞者コメントを見たらどうやらそれで間違いなかった、というだけのことだろう。それがなんでかくも嵩にかかった居丈高で増上慢なご託宣になるのか。

賢明な相子がミスリードされるとは思わないが、本人が自句自解をするのは、みじめなものであります。」なんて同情めかしたセリフも大いに気に入らないね。カワウソのご立派な俳句が理解されないのはきっと周囲の劣化俳人たちに責任があるのだろうが、相子のこの句が理解されないのは表現に問題があるからで、それは相子が引き受けねばならないみじめさだろう。典拠のある句を作る場合、それが通じるか通じないかのリスクが生じるのは避けられないわけで、そこが苦心のしどころになる。評者などは劣化俳人の下々の下の分際もかえりみず、年柄年中そんな句ばかり作っているので、カワウソに言われるまでもなくそのみじめさはよくよく身にしみている。

さて、相子の句のどこが問題かであるが、「不帰(かへらず)の五月」というフレーズだけなら、五月の今日というこの日はもう帰ってこない、あるいは過去の何か特筆すべき思い出のある五月が帰ってこないということで、難なく意味は通じる。しかし、そのすぐあとに「百客」の語があるために、その理解もたちまち混乱してしまう。その混乱にはさらに、続く「百年来」によって拍車がかかる。相子自身の解説に即くなら、今この時は過ぎ去って再び帰らないというどちらかといえば未来に向かっての詠嘆を込めたかったようだけれど、「百年来」というのは“この経済危機は百年来のものだ”“こんな経済危機は百年来、無かったことだ”というふうに過去に向けられた指標だ。だからこの句を文字通りにパラフレーズすれば、“およそ百年前に或る出来事があった。その出来事があった五月もそれにかかわった大勢(百人ぐらい)の人たちも再び帰ることはないのであるよなあ”、という程の意味になる。この句がわからないとした角川賞選者の判断を、評者は全く妥当と考える。

そもそも末尾のこの一句に困惑しながらも、四選者は相子の五十句をトータルで高く評価し、賞を与えている。評者が各人の応募作の全体を読めたのは応募総数七百三十二篇のうち、「俳句」に掲出された三作品(相子の他に、次点の興梠隆と山口優夢)、及び「週刊俳句」の「落選展2009(*6にエントリーしている二十三作品だけであるが、その範囲で見れば相子の受賞はごく順当であり(佐藤文香の五十句も相当だと思うけど授賞には別の基準が要るだろう)、選者は適正な選択をしている。この一句の不通に過度に拘泥して受賞させなかったとでもいうならともかく、非難される筋合いはないのである。カワウソのこの文章が不快なのは、最初から、「俳人劣化はとどめがたいらしい。」という、イタチの最後っ屁ならぬカワウソの最後っ屁のようなひとことを言いいたいがために仕組んだものとしか思えないからだ。カワウソは上の角川賞の話をする前に、同じ号に載った稲畑汀子の「特別作品50句」に関して、こんなことを書いている。

カフェで時間つぶしの間、読む本がなかったので、角川の「俳句」11月号を買って読む。稲畑汀子の「特別作品50句」というのがあるので、どうせろくでもないのをまた出しているんだろうな、と思いながら読んでみたら、案の定ほとんど屁みたいな句ばかりで気分が悪くなる。いくつか例をあげる。

遠き旅終えて家路や秋近し(*7

みちのくの秋を訪ぬる旅の待つ

これよりの夜空楽しむ秋となる

新涼やここは津軽の城下町

秋の雲離合集散岩木山

元気かと問はれ元気といふ残暑

はっきりいってこんな程度でお足をもらえるなら、俳句稼業なんてちょろいもんだねと他のジャンルから軽蔑されるだろうなあ、ひどいもんだ。角川「短歌」のほうを買うんだった。

ここから、先に引いた「むかつきながら」という一文に繋がってゆくのであるが、稲畑汀子が何者か承知の上で、読まずとも済む作品をわざわざ読んで、「気分が悪くなる。」などとは、勝手にしろよと言うしかない。だいたい、カワウソにとって俳句が、「角川『短歌』のほうを買うんだった。」という程度のものであるなら、「他のジャンルから軽蔑されるだろうなあ」などとは大きなお世話である。稲畑汀子とはひとつの厳然たる“現実”であって、俳句はあらかじめ稲畑汀子的なものを不可分の一部にして成り立っているのだ。俳句界がではなく、俳句そのものが、である。そのことは評者の気分をも悪くするが、だからといって評者は「短歌」の方を買うんだったとは決して言わないし、言えない。

俳句ひとつ正確に引用することさえできない癖に威張り散らかしておいでの、厭味なディレッタント様のことはもうどうでもいいや。角川賞の方であるが、受賞した相子智恵「萵苣」、次点の興梠隆「雲の抜きゆく」と山口優夢「つづきのやうに」は、それぞれに面白かった。それから落選展で読んだ佐藤文香「まもなくかなたの」もよかった。佐藤は予選は通過していたが、予選を通らなかった中では、岡野泰輔の「犬の日」五十句に格段の読み応えがあった。以下、「犬の日」から若干をご紹介する。

花冷えや脳の写真のはずかしく

際物めいた切り口を、「花冷え」で沈着に押さえ込んだ。この季語と「脳の写真」の質感の響き合いもいいし、「はずかしく」という間合いの外し方も上品だ。

世の中に三月十日静かに来る

中七下五は良いのに、「世の中に」で安易にまとめてしまった感じがする。

青水無月真鶴にてと書いてある

貰った葉書の末尾に「真鶴にて」と書いてあった、というような状況が思い浮かぶが、一方で、そういう常識的な解釈をすりぬけてしまいそうな奇妙な宙吊り感を感じさせる。何に書いてあるのか、誰が書いたのかから離れて、ただ書いてある「真鶴にて」が切ない。青空に書いてあっても、水の上に書いてあってもいい気がしてくる。「青水無月」が絶妙なのだろう、きっと。川上弘美の小説は考慮に入れないことにしておく。

芍薬を剪って夕方ふらふらす

これは蕪村の〈ぼたん切て気のおとろひしゆふべ哉〉を踏まえているのだろう。牡丹を切るという原因と、それによって気抜けしたという結果との関係にいささか理に落ちたところのある蕪村句の弊を、岡野の句の方は免れているようだ。「気のおとろひし」と言いながら気迫のこもった蕪村の句に対して、岡野の句は本当に「ふらふら」しているところも味わい深い。

プールから空似の男すぐ上がる

「すぐ上がる」が上手いが、この面白がらせ方は少し川柳っぽくもある。

ピアニスト首深く曲げ静かなふきあげ

五七八の破調が効果をあげている。

炎天にハナヂと書かれると痛い

これも面白いけど、先ほどの真鶴の句と同工ではある。その点、作品の提示の仕方としては疑問符が付く。しかし、併せて読むと、この作者の特異な感覚ないし発想法が見えてくるようだ。

盆の僧いきなりスピーカーに触る

そう、「いきなり」なのだ。この人の句では、言葉がみないきなり唐突なふるまいをしていて、そこが鮮やか。

炎天に妻も銅像岐阜羽島

「炎天」に「岐阜羽島」とくれば森澄雄の〈炎天より僧ひとり乗り岐阜羽島〉が反射的に想起される。ところがそこに「妻も銅像」がはめこまれる。僧→銅像だけでもひとひねりだが、そこからさらに「妻も」というもう一段のひねりまで加えられたサービス満点の句。そのひねり、というか言葉の回転する速度がまさに“いきなり”であろう。ちなみにこの銅像は、岐阜羽島駅前の大野伴睦夫妻像である。

秋草のなか牛はみな北を向く

かまきりのかわいいことに皃小さし

こうやって暖炉の角に肘をつき

桃青忌くびれたところには触る

花びらを南からきて吹きやまず

花びらは夕くれないの庭にくる

これらの句も面白い。特に、三番目の「こうやって」の句はそうとう変ではないだろうか。俳句は一人称の詩なんてよく言われるけれど、それは作者と作中の人物ないし視点位置との関係をどう担保するかという話に過ぎず、実際は一人称でも三人称でも記述の仕方に違いがあるわけではない、普通は。たとえ一人称の句でも、記述の主体としての作者は句の外側にいるのだ・・・が、この句の場合はなんというか、句の中に記述する主体が入りこんでしまっているような感じがする。予選さえ通らなかったのはちょっと不思議である。

(*1『蘇東坡詩集』 小川環樹・山本和義選訳 岩波文庫 一九七五年

(*2「かわうそ亭」 2009/11/10

(*3この書き方だと以下に引く選者たちの会話が、受賞者決定後になされているかのごとくであるが、実際には受賞者決定前の会話である。勢いで書いてしまったまでだろうが、舞文曲筆と言われても仕方ないところだぞ、カワウソよ。

(*4この引用、「を」が衍字である。〈目つむりていても吾(あ)を統(す)ぶ五月の鷹〉が正しい。カワウソ先生、俳句作品は正確にお引き願います!

(*5九條今日子『百年たったら帰っておいで 回想・寺山修司』 デーリー東北新聞社 二〇〇五年

(*6「落選展2009」/「週刊俳句」 2009/11/1

(*7またしても誤引用。「遠き旅終えて」ではなく「遠き旅終へて」が正しい。

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