2009年11月30日月曜日

加藤かな文及び山西雅子句集

在家とその弟子
加藤かな文句集『家』及び山西雅子句集『沙鷗』を読む

                       ・・・高山れおな


「俳句界」十二月号が、編集部から送られてきた。作品も文章も書いたおぼえがないので、なぜ?と思いつつ封を切ると、「昭和俳句の巨星ベスト30」というアンケート特集をやっている。そういえばそんなアンケートに応えたような気がする。

俳人約三〇〇名に「好きな昭和の俳人三名」(物故者のみ)をアンケート。人気俳人ベスト30を決定。あなたが好きな昭和の俳人の順位は?

というのがその扉の惹句で、アンケートの結果を見ての感想文を安部元気と立村霜衣が寄せている。安部の方は、

調査の方法がいかにも杜撰にみえるし、企画の狙いもあいまいだ。そもそも回答を寄せた「約三百名」は、どうやって選ばれたのか。……「母集団」の選び方に偏りがあれば、結果が偏るのは社会調査の常識である。そのへんを吟味せず、「適当に出して、返ってきた答えを集めた」だけなら、資料としての価値はほとんどない。

と、企画自体にかなり批判的だ。評者自身、なんだかなあと思いつつ回答葉書に記入した記憶が蘇ってきた。というのも「昭和の俳人」というくくりがあまりに茫漠と感じられたためで、どうせ虚子が一位になるんだろうけど、虚子って「昭和の俳人」なのかいな、とかそんなことを考えたような気がする。しかし、アンケート特集などというのは土台マスメディアのお祭りなのであって、“社会調査”ではない。安部元気も上のように述べながらも、

企画の欠点やら矛盾やら文句やらは全部棚上げして、一覧表を眺めながら、読み手が勝手にあれこれ思えばいい。そういう目でみれば、これはこれで面白い。

と矛を収めている。そして実際、このアンケートは、見るからに〈ノーテンキな企画〉であるがゆえに、回答する側もごくお気楽に応えたであろう点で、現俳壇における無意識の好尚を素朴に反映しているとは言えるはずで、その意味で「資料としての価値」が無いものとも決め付けられないのだ。で、順位であるが、

①高濱虚子 ②石田波郷 ③飯田龍太 ④加藤楸邨 ⑤中村草田男/山口誓子 ⑦西東三鬼 ⑧飯田蛇笏/三橋敏雄 ⑩橋本多佳子

がベストテンである。作家としての偉さとか俳句史的な貢献という要素を加味して考えねばならない質問だったらこの順位にはならなかっただろうし、逆にそれでもなおこの順位だったら個人的には怒りますね。その場合は、龍太や敏雄がベストテンに入り、秋櫻子が入らない(それでも十一位にはつけているが)などという結果は論外だろう。しかし、今回は各人が好きな俳人を答えただけであり、それによって平成二十一年の俳人たちの無意識は、相変わらず虚子を崇拝し、波郷の境涯性に共感し、龍太や敏雄を過大に評価し、秋櫻子を軽んずるような形で存在していたことがわかるのである。

このアンケート、集計が出ているのは上位三十位(六点以上)までで、これとは別に、三百名の回答者それぞれが誰の名を挙げたかの一覧が付いている。ちなみに評者があげたのは、水原秋櫻子、下村槐太、岡井省二の三人。秋櫻子はいま述べたように十一位(十二点)であるが、見落としでなければ槐太、省二にはそれぞれ二点しか入っていない。評者以外に槐太に点を投じたのは誰あろう冨田拓也(「俳人ファイル」の第一回でとりあげていましたものね)で、一方、省二の方は弟子の山西雅子である。もうひとりの弟子・加藤かな文もアンケートに応えているが、挙げているのは細見綾子・京極杞陽・波多野爽波。そうそう、攝津幸彦は八点で二十三位。なんと永田耕衣と同じ順位である。

余計なお世話ながら、加藤かな文と山西雅子の師が岡井省二だったというのは評者にとってはよくわからない情景で、両者とも格別師風に倣った句を作っているようにも見えないし、どこがどう岡井の弟子なのだろうかと常々不思議であった。まあ、その感情に嫉妬が混じっていないとは言わない。こちらが岡井という俳家の存在を意識したとたん、岡井は亡くなってしまったからだ。それにしても、俳句で固有名詞を使うのは認めないとか、海外詠や弔句、前書を認めないといった奇説を、いささか押し付けがましく語る加藤の泣き味噌ぶりは苦手で、あの痛快な密教翁の弟子がなぜといぶかしかった。その二人の句集を刊行直後に読んでそのままになっていたのを思い出した。ふらんす堂の精鋭俳句叢書から、発行日まで同じ八月八日付で刊行されており、シリーズが一緒というのはともかく、発行日までが同一なのは何か意味があるのだろうか。そもそもこの二人、実年齢(山西が一九六〇生、加藤が一九六一生)も俳歴(約二十年)も似たり寄ったりで、しかし、加藤の『家』(*1は第一句集、山西の『沙鷗』(*2は第二句集という違いはある。句集出版までのこのペースの差が生じた理由はいろいろあろうけれど、やはり作り手としての力量の問題なのかなというのが、読んでみての率直な感想だ。

こう言ったからとて、加藤の句集を期待を持たずに読んだわけではない。好きになれない文章の書き手とはいえ、筆力の点ではかなりのポテンシャルの持ち主なのでもある。そして実際、最初のうちは、それなりに面白いと思いながら読みもしたのだ。『家』は、Ⅰ(一九九三~九七年)、Ⅱ(一九九八~二〇〇三年)、Ⅲ(二〇〇四~〇八年)の編年順の三章構成を採っているから、つまりむしろ初心の頃の作に心動かされたことになる。

雀来る小さな日向はうれん草

葦の角夕焼の水かぶりたる

軽鴨の子の残らず岸にぶつかつて

蜘蛛の糸桃の葉つなぎ始めたる

白鳥の貌を埋めて流さるる

これらがⅠ章の句で、ごくオーソドックスな写生句ながら、手堅さのうちに活き活きとした初発性が感じられる。また、

鳴く鳥と飛ぶ鳥のゐる昼寝覚

の「昼寝覚」には、死からのよみがえりのような気配さえ感じて、これは結構怖い句ではないかと思った。

朝日から鳥の出てくる寒さかな

この句なども、眼前の直叙でありつつ、トリッキーな措辞によって、朝日が異界への通路のように見えてきて面白い。つづくⅡ章には、

かはほりや一人になつて帰る道

のようなしみじみとした主情性をたたえた句も見られる。

秋すだれ簾の色の蛾をつけて

における「簾の色の蛾」もすぐれた眼力かと思う。しかし、句集もこのあたりになるとすでに、

囀りの一つ怒声と思ひけり

枯木見てまつすぐな道帰りけり

のような、俗っぽい句があり、Ⅲ章になるとその傾向がいよいよ強まる。

夏祭つまらぬものを買ひにけり

空を見る仕事の羨し枇杷の花

裸木の裸に濃きと薄きあり

うなだれてトレンチコート吊さるる

することのなくてしばらく春の風邪

飛びたつと思ふ落葉は雀どち

これらはいずれもザ・月並調以外の何ものでもあるまい。濃淡の差はあれ、これらの句には当世風の風流演技があり、通俗的な見立てがあると判定せざるを得ない。Ⅲ章にももちろん写生句の秀句が皆無なのではないけれど、総じて着想において濁り、再現性においてピントが甘い句が多い印象を受けた。それから「あとがき」。こちらは相変わらず、である。

句集名「家」は所属誌の名前を借りました。家と職場を往復する日々、家族とともに暮らす日々。それが私のすべてであり、そこからしか私の俳句は生まれません。安易な名づけですがお許しください。

個人的にはこの手の無用な自己卑下は勘弁して欲しい。只事をことさらに衒っているように見えてしまうのが、当方の勘違いなら幸いである。温度の低い自意識過剰がやりきれないのだ。実際それこそが、『家』の後半の句の印象を濁らせているものの正体なのではないだろうか。

山西雅子の第二句集『沙鷗』を読む前に、第一句集の『夏越』(*3も読み返してみた。先に、山西・加藤が、師風に倣っているようにも見えないと記したが、こと『夏越』に関してはこの前言を撤回する。改めて読むと、

見えきたるなぞへが春の日差なり

蓮を見てゐて唇あけるさびしさよ

流木にさはつてをりぬ十夜寺

冬の潮まんばうの骨耿として

冬桜煙をとほしゐたりけり

といった岡井省二調の句がずいぶん含まれている。なぜこんな勘違いが生じたかを案ずるに、評者は『夏越』の代表句を、句集末尾近くに置かれた、

芋虫にして乳房めく足も見す

であると認識していた。この句の存在を知るのと同時に、第二句集の方に入っている、

子を連れて下る石段春の鳥

絵を描いてしづかな子供冬鷗

マフラーを二巻きす顎上げさせて

といった作品を雑誌初出時に見た印象が混じり合い、一種、母性の作家とでもいうようなイメージを村西に対して抱いてしまったものらしい。改めて見れば、「芋虫にして」の句も、岡井省二調に近いことがよくわかるが、とはいえ『沙鷗』で展開される吾子俳句への繋がりもうかがえて、その意味でも興味深い句である。

吾子俳句――そう、『沙鷗』の柱のひとつは吾子俳句である。さらにもうひとつの柱が、堅実な自然詠を中心にした写生ということになる。『夏越』にも写生句の見るべきものは少なくなかったが、それは師の岡井の場合がそうであるように、写生のきわみに言葉が切り拓いてしまう幻想への願望を秘めたものだったように思う。一方、『沙鷗』の写生句にはそのような傾きはない。描写が幻想へと流れ出してゆくことはむしろ意識的に抑制され、的確にして精密、どちらかといえば受け身の写生に徹している気配なのだ。言葉の放恣を許さない意志は、この句集にほぼ一貫して感じられて、それはつまり山西が自然に望むものがもはや、神秘や驚異の開示ではなくなっている事実を示しているのだろう。今や山西の願いは世界のひたすらな平安であって、吾子俳句の遍在ぶりを勘案するに、これは山西の母としての自覚に由来するものに違いない。こうなれば山西の作風が、岡井省二のそれから遠いものになるのも当然であった。

桔梗や子の踝をつよく拭き

栞文を寄せた中田剛は、この句を引きながら次のように記す。

子供へのこんな無償の愛のしぐさを繰り返すたび母親はよろこびとともに哀しさを味わっているのだろう。それは濃密かつ純粋に子供とかかわることのできる時間は永遠には続かないのだということを知っている哀しみなのだろう。すぐそこに見えている花が桔梗であるがゆえ余計にそうおもったのかもしれぬが。

例えば、

子供にも昔がありて椎の花

竹馬の吾子のすとんと暮れにけり

などの句を見ると、中田の鑑賞に述べられているような心事に、作者が自覚的であるのを見て取ることが出来る。

夕顔やひだるき吾子と手を繋ぎ

この句の「吾子」は、お腹がすいたと不機嫌にむずかっているのだろう。もしかすると事実は、「手を繋ぎ」引き摺るように歩いていたということだった可能性もある。しかし作者はその状況を「夕顔」という豊かな文学的連想を帯びた花に取り合わせ、「ひだるき」という古風な言葉を使って、他人事のように冷静に描くばかりだ。それこそが、「永遠には続かない」子との時間への思いが見させる、あらかじめの喪失の風景とでもいわんばかりの距離のあり方かもしれない。

川底の木の葉ふたたび流れだす

蝌蚪口をひらく一身うちふるひ

貝殻の色して茸せりあがる

寂として木の葉を立つる氷かな

枯蟷螂鎌閉ぢ合はせしづまりぬ

砕けたるどんぐり白し春の土

木の椅子の熱く青筋揚羽かな

自然の細部へ静かに浸透してゆく、視線の細やかさに打たれる。自分が見ることで世界が壊れはしないかと恐れてでもいるような、慎ましい視線。

貼紙の画鋲金色夏氷

煮凝にまじる青菜のかけらかな

こんな句もある。この人の喜びは、なんと小さなところからやって来るのだろう。

(※)加藤かな文句集『家』及び山西雅子句集『沙鷗』は、それぞれ著者から贈呈を受けました。記して感謝します。

(*1加藤かな文句集『家』 二〇〇九年八月八日刊 ふらんす堂

(*2山西雅子句集『沙鷗』 二〇〇九年八月八日刊 ふらんす堂

(*3山西雅子句集『夏越』 一九九七年 花神社

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