2009年11月22日日曜日

あとがき(第66号)

あとがき(第66号)


■高山れおな

週末、会社帰りにレイトショーで『ゼロの焦点』を見て参りました。タクシーに乗っても雑誌を開いても、赤いコートで固めた三女優の広告を目にせぬ日はなく、ついふらふらと。演技陣はなるほど評判通りで、とりわけ中谷美紀は鳥肌の立つような名演、木村多江の見せ場はじつは一箇所しかないのですがこれもみごと。ヒロインの広末涼子ですら台詞を言わない限りは素晴らしい(実際、台詞を言わないシーンが多い)。

結婚式から七日目に姿を消した夫の行方を妻が探すうちに、夫の過去があきらかになってゆくという語りの枠組は美しいし、脚本や演出のテンポもいいし、そんなこんなで感動はあるのですが、あとから冷静に考えると、ストーリーはかなり不自然で、何より殺人事件の犯人の動機に説得力がありません。要するに現在の地位を失なうのをおそれて、自分の過去を知る人間を抹殺するという話なのですが、気概といい、知性といい、行動力といい、犯人の人物像が魅力的に設定されすぎていて、これ程の人間がそんな理由で人を殺すかいなと思ってしまう。しかも、被害者は犯人を脅迫しているわけですらないのです。となると、この飛躍をもたらすのは、嫉妬からくる激情でなくてはならないのですが、そこの関係性もクリアにはなっていません。

俳句とは全然関係ないって? いや、そうでもありません。時代が昭和三十年代で、場所が雪国ですので、「遷子を読む」なんか拝読しておりますと、ああ、あの時代だな、などと思うわけです。セットや衣装もよく出来ておりましたから。能登半島の海岸べりの道がなんども出てくるのですが、これが舗装されているのだけが唯一興ざめでした。アスファルトを引っぺがすのは無理にしても、CGとかでなんとかならなかったのかしら。あとそれから、最後の十分は誰が見ても蛇足でしょう。省略が大事なのは俳句に限ったことではないようです、と無理にこじつけたところで筆を擱きます。


■中村安伸

CSのフジテレビNEXTでやっている「F1グランプリの歴史」という番組は、過去のグランプリの貴重な映像を一年ごとに編集したもので、今年のシーズン終了後に放送がはじまり1970年、71年の二回が放送済みです。

70年シーズンは事故死したロータスのヨッヘン・リントがワールドチャンピオンを獲得し、あわせて三人のドライバーが命を落とすという悲劇的なシーズンでした。

いまこのあとがきを書きながら、私の生まれた年である1971年のグランプリの映像を見ているところなのですが、マシンが葉巻状のデザインから平らな箱状のデザインへと移行していく様子がよくわかります。

空気抵抗、ダウンフォース、タイヤグリップ、エンジンパワーなど、ときに競合するさまざまな要素を最適なバランスで構成したマシンは美しいし、美しいマシンが強いというのは事実です。

しかし、最適解というものは固定的なものではなく、つねにより高度な次元でのバランスをもとめて進化してゆくのがF1マシンに課せられた宿命であり、70年の最適解と71年のそれは違います。斬新なアイデアはさまざまな基礎技術の進歩という外的要因と不可分です。

無理やり俳句の話につなげれば、俳句もまた言語や社会という外的要因の変化にさらされているのであって、そのときどきの最適なバランスを求めれば、必然的に新しい解が生まれるということは、自明のことではないでしょうか。


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