2009年12月28日月曜日

第71号

※12/27(日) 15:00 「閑中俳句日記(20)」を追加。
※12/28(月)「俳誌雑読 其の十+α」を追加。
※12/29(火)「俳誌雑読 其の十+α」を改稿。

第71号

2009年12月27日発行

俳誌雑読 其の十+α

メキシコ料理店のあたりで

          ・・・高山れおな   →読む

閑中俳句日記(20)

伊東宇宙卵「非-場所/聖なる人間(ホモ・サケル)編」40句

          ・・・関悦史   →読む

遷子を読む

〔40〕夕涼や生き物飼はず花作らず

・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、仲寒蝉、筑紫磐井   →読む

遷子を読む(40)-2 特別編3

「遷子を読む」を読んで(中)

・・・堀本吟・仲寒蝉・筑紫磐井   →読む

俳句九十九折(63)

七曜俳句クロニクルⅩⅥ

          ・・・冨田拓也   →読む

あとがき           →読む

「―俳句空間―豈」第49号刊行のおしらせ   →読む

豈同人の出版物      →読む

執筆者プロフィール    →読む

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小野裕三 メキシコ料理店

俳誌雑読 其の十+α
メキシコ料理店のあたりで

                       ・・・高山れおな


今、ある雑誌から「きっかけの二句 決意の一句――俳句を志した頃」というお題で、原稿の依頼を受けている。〈初学時代に感動した句、尊敬する師の句、敬愛する友の句」など「俳句をはじめるきっかけを作ってくれた〉他人の句と、〈一生、俳句にかかわっていこうと決意した句、俳人としての自覚と自信をもつ〉端緒となった自分の句を挙げよというのがその趣旨で、評者の場合は正直言ってどちらについてもパッとは思い浮かばない。なにしろ二十年からの昔の話で、俳句についてにせよ、それ以外のあれこれについてにせよ、記憶は茫洋としている。ともかくも数日来、二十歳過ぎの頃に何を考えていたか思い出そうと努めてはいて、その場合、初めて投句というものをした「俳句空間」誌のバックナンバーなんかを大いに頼りにすることになる。

話はがらりと変わって十二月二十三日の「新撰21竟宴」。いろいろと得難い体験をした日であったけれども、具体的なモノとしても得難かったものを得ることができて、それは小野裕三句集『メキシコ料理店』(*1なのだった。三年前の刊行当時、句集評をちらほら目にして、引かれている句を見ると面白そうだし、著者が同じ一九六八年生まれという興味もあって欲しい本だったのだが、書店ではついぞ見かけず、インターネット上への古書の出物もなく、本人に一筆したためればなんとかなったのだろうけれど、それはしないままずるずる来てしまった。さいわい『新撰21』で、小野さんは越智友亮小論を書いてくださり、パーティーでご挨拶することもできた。かくて、ご本人から直接、御本を頂戴する仕儀となったのである。

『メキシコ料理店』は期待に違わず面白い句集で、しかもどこかなつかしいような感触があるのは、それこそ「俳句空間」の、それも新鋭作品欄の匂いなのだった。芭蕉の句集から読み始め、俳句を始める前から名前を知っていた数少ない現存俳人である鷹羽狩行の作品集(本阿弥書店から出ていたもの)を読んだり、国会図書館で当時の俳壇最大のスターであった角川春樹の句集の抜書きを作ったり(俳句文学館なんて知らなかったのだ)、神保町の古書店で河原枇杷男の句集を見つけて衝撃を受けたものの貧乏学生ゆえ買うことが出来ず、句を記憶しては店外に出てメモを取りというようなことをしたり、それやこれやの日々であったが、俳句を作る面で決定的な前進をもたらしたのは、紀伊國屋書店新宿本店の詩歌書コーナーで出会った「俳句空間」の新鋭作品欄だった。とりわけ「俳句空間」第十一号(一九八九年十二月)で見た「深町一夫〈秋田県・28歳〉」の「超獣銀河」十句に含まれていた、

寺が飛び立つ音に鶏駈け出しぬ

コンセント抜けて海象だらけの部屋

の二句には、自分が探していた俳句はこれだ(!)という手応えを感じたものだ。深町の句では、「俳句空間」第十五号(一九九〇年十二月)に載る、

ワルキューレ杉山が生え地球生え

も佳かった。これらの句の何が「これだ(!)」と評者に思わせたのか。おそらく、個人的な感情をダイレクトに俳句に盛り込むことができず、一方で、若い人間ならではの生理的な感覚を作句の手がかりにしていた当時の評者には、今となればユーフォリック(多幸症的)にも感じられるこれらの句の言葉のアナーキーな力動感が余程ぴったりきたのであろう。深町句のある意味では空疎な元気さにはバブル期の時代精神のそれなりに的確な反映があるし、受け手である評者もその点にいま自分が書くべき俳句の姿を見止めたということだったに違いない(というのはもちろん、二十年後からの後付けの説明だけれど)。

さて、抜群に優秀だった深町(その後、今世紀になってから評論集を出しているはずなのだが、現在どうしているのだろう)はたちまち投稿家の域を抜け出て、「俳句空間」第十八号(一九九一年十月)ではすでに時評欄を担当している。代わって、新鋭作品欄における評者の密かなスターとなったのは、

秋の海滅亡塔をかくしたり

身体を筆がつらぬく夏の海

盲人が海とからだを入れかえる

などの句を含む「海中の弘教」十句を引っさげた「桐野利秋〈奈良市29歳〉」で、知る人ぞ知ることだが、これは歌人・正岡豊の投稿ネームなのだった。『メキシコ料理店』の「あとがき」によれば、小野裕三が〈俳句なるものに初めて手を染めた〉のは一九九五年だそうだから、一九九三年六月の第二十三号をもっての「俳句空間」の休刊以後のことに属するわけだが、句集前半の「二〇世紀」の章に含まれる以下のような句には、深町や桐野のそれとも遠くない感性と時代の雰囲気みたいなものが感じとれて、いささか感傷に誘われもする。

如月の少女と眠る天文学

流星の海に崩れる女かな

凍土よやさしすぎた鳥よもうよいのだ

その街に失語症の雪が降りました

暖雨降る私は決して象ではない

白鯨の液化していく雪遊び

暑き夜の鏡の中の本能寺

落雁やドア燃えている未明

月光のやがて聖徳太子かな

一九九五年から俳句を始めた小野が「俳句空間」を見たことがあるかどうかはわからないけれど、深町や桐野の世界にも通じる幻想や言語感覚がここにはあって、しかしもちろん深町や桐野のような怖いものしらずの鼻息の荒さに比べると、抒情性が前面に出た穏やかさ、柔らかさが特徴になっているだろう。「俳句空間」新鋭作品欄には両者の中間項ともいうべき作者もじつはちゃんといて、それは例えば、

梅若や銀座を父に連れられて

羊とは雲に追い抜かれる午後だ

野兎のように焚火に照らされる

などの今泉康弘だったり、

府中の猫はこれは嘘だが全て片目

銀の活字五十銭今日は「な」を下さい

私の虎私の羊を食べてはやく

といった作のある前島篤志だったりする。ちなみに深町一夫は一九六〇年生まれで、以下、正岡豊は六二年、今泉康弘は六七年、前島篤志は六九年の生まれで、小野裕三や評者(それから五島高資も)が六八年生まれになる。深町・正岡の二人と、今泉たちとの間にある微妙な感覚の差は、バブル崩壊までに社会に出ていたかどうかの差のような気もするが、そこまで言うとあまりにも決定論的な整理になってしまうかもしれない。

ケットはフランス人の眉でいっぱい

メキシコ料理店のように大降り

ひまわりが無伴奏で咲いている

釣瓶落とし魔球ばかりを投げてくる

交差点残しどしゃぶりの女去る

狐火的肉体であるバスガイド

冬のエレベーターレーニン像が降りてくる

白菜をたくさん積んで住んでいる

品川はみな鳥のような人たち

海の日のクレオパトラという喫茶

謀反の火考える鹿いなくなる

『メキシコ料理店』の後半、「二一世紀」の章から引いた。先に挙げた「二〇世紀」の章からの作には微かに感じられたもやもやと混濁した、生理的なもの個人的なものの反映が薄れ、句が透明感を増すと同時に平面性(平板ということではない)を強めてもいるだろうか。「二〇世紀」からの引用句がペインティングだとすれば、「二一世紀」のそれはコラージュといった方向性の違いがあるように思う。

小野裕三は、「豈」四十七号(*2)の「青年の主張」特集に、「はっきり言いますが、世の中的には『前衛』は死語です。」という論考を寄せていて、

今、我々がしなければならないのはこのような対立軸自体を刷新し、それぞれが持つ素晴らしい財産を受け継ぎながら、「伝統」と「前衛」をよい意味で総合化・融合することではないのか。

と述べている。タイトルこそなかなかに挑発的だけれど、「それぞれが持つ素晴らしい財産」とか「よい意味で総合化・融合する」といった良識的な口ぶりからうかがえるのはしかし、じつのところ小野が“融合”のダイナミズムに向かうようなタイプではなく、せいぜい“折衷”の平安にやすらう温良な性情の持ち主なのだろう事実だ。それが『メキシコ料理店』の俳句が帯びる、どこか自らに安心している、安全装置つきの幻想といった感触へと繋がってもいるのだろう。

(*1小野裕三句集『メキシコ料理店』 角川書店 二〇〇六年

(*2「―俳句空間―豈」四十七号 二〇〇八年十一月

2009年12月27日日曜日

閑中俳句日記(20)

閑中俳句日記(20)
伊東宇宙卵「非-場所/聖なる人間(ホモ・サケル)編」40句

                       ・・・関 悦史

豈49号に伊東宇宙卵さんが「非-場所/聖なる人間(ホモ・サケル)編」という40句の連作を発表していて、このところ宇宙卵さんがずっと探究してきたある方向の深まりと総合を示しているように感じられ、というかこれまでの経過など追わずともこれだけで見ても十二分に面白いものなので、簡単にでも紹介しておきたい。

作中には「いえす」「龍」「蟲」といった世界構造から作者の実存までを貫くファンタジックな要素、「武蔵野」「夫」「子ども」など実人生に関する要素、そして通り魔事件の容疑者らしき「Kさん」等、時代の危機感を表す要素などが入り混じり、全体として複雑に交響しあいながらも明快な主題性を帯びていて、また各局面の展開やつながり具合が絶妙で、頭で拵えたようなところがなく、吐息のように親密でもあり、ユーモラスでもある。本当は全句を逐一引きたいところ。

ポンペイウス・フェストゥスの『言葉の意味について』の「聖山(サケル・モンス)」からとして、エピグラムが付されている。

《聖なる人間(ホモ・サケル)とは、邪(よこしま)であると人民が判定した者のことだ。その者を生け贄にすることは合法ではない。だが、この者を殺害する者が殺人罪に問われることはない。》

こうした社会から排斥される聖性/邪さがわが身のことと捉えられているため、危機感も単なる概念的なものではなくなる。というより話は逆で、この怯える実存が、卑近な日常から崇高と恐怖の制する非日常までを貫く世界を一気に引き寄せ、世界‐私のアマルガムを形成するのだ。


闇を光りのひとつに数え書きはじめ

わたしの闇を出入りする蟲らを視る

己が身の闇にむかって笑いかけ  ※「闇」に「なか」とルビ

冒頭3句。ひめやかに創世記を反転させることで、己の「闇」が「蟲」との交通空間として切り開かれ、この空間に連作が展開されることになる。

この3句に続く4句目《山茶花や一羽の雀がたべておる》はどうということもなさそうな光景が異様な戦慄を帯びる。グノーシス的な現世否定の彼岸が不意に日常空間にスリップし、架橋されたためである。《玄関の桑の木は巨きくなり》も同じく何ともいえず不穏。


龍ら棲む池にとどけるものはなし

龍視渦巻いて梨花散乱して

(だれにも似たくない、とは思うのだが。)

海底の藻草の線路にであえたら

瘡うけたきのうの龍らは眠るのか ※「瘡」に「きず」とルビ

龍の爪 あと半歩にて見失ない

袋から這いだした 草卵

(寸法のだいぶ乱れた卵である)

白虹や、龍らあらわれこまぎれに。

9句目から17句目の9句。いきなり「龍」が現われた。「とどけるものはなし」となると、当面退治されるべき敵というわけでもなさそうで、瘡を受けた龍の心配などもしている。特別親しくもないが無縁でもないようだ。

《(だれにも似たくない、とは思うのだが。)》と影響の不安を漏らす独白を経て、「海底」の「線路」への慕情や、這いだす「草卵」という、これは動物なのか植物なのか未生以前なのか以後なのか、どういう関係なのかもよくわからぬものたちが現われ、しかもこの「卵」は寸法が乱れているという。「こまぎれ」になる「龍ら」といい、まわりの者たちとの親疎の関係も含め、安定や安心といったものからは程遠い。にも関わらず《(寸法のだいぶ乱れた卵である)》の独白は何とも大らかなユーモラスさがある。


武蔵野や再生市街は漂えり

重力場 宇宙の背骨鳴るのみの

(天涯からきたことは忘れてしまったから)

夫と子どもと、歩いてきたことはきた。

実人生の反映とその感慨と思しき句たちが介入してきた。土地でありながら「漂」う「武蔵野」の不安定、「宇宙」や「天涯」から切り離された人生の、はるばると来つるものかなという感慨。よるべなさの感覚と同時に、「夫と子ども」ともども、小さなほのかに光る球体とでもなっているような受容性も感じられる。

ところがここでまた、先ほど「こまぎれ」になったはずの龍たちが登場。


白虹や、龍らあらわれ騒いでおる

時間軸まで混乱しているのか、「再生市街」たる「武蔵野」ともども「龍」たちも再生してしまったのか、いずれにせよ抜け道のない混乱の中に世界も己も投げ込まれているようだ。この龍たち、後半の33句目では《日没のおぐらい空を龍ら這い》などと薄闇の中を飛ばずに這っていて、どうもこちらも消耗を強いられているようである。


じりじりと〈裡〉の青虫そだつのか

(ほんとうは羽化の終った蟲なので)

カフカ的な「蟲」にでも変貌するのかと思いきや「羽化の終った蟲」だと言い出した。

飛べるのだ。

しかもカフカの方は、ある朝突然の変身という、心情とも倫理とも切れた、理解を絶した災厄だったから神や世界と直結するような構造性を帯びたのだが、「じりじりと」となると己の心情的違和、生き難さの吐露に過ぎないもののようでもあって、それも飛べるとなればかなり自由な雰囲気に変わる。「書く」ことで別次元と往還することが出来るといった暗喩とも取れる。


20年前の武蔵野の庭の、うつくしい蝦蟇

「うつくしい」と直接書かれて美しいと思うことも稀少な経験に属するのかもしれないが、この「蝦蟇」は美しい。「20年前」で実人生のある一点に定位されてはいるものの、「武蔵野」が何せ漂う「武蔵野」であって、時間軸もよく考えたら不安定。記憶の中の、ゆらめく時空の中にいる、その一点だけが確かな、親しげな蝦蟇のうつくしさである。


いえすの食べたものが思い出せない

(磔や手なれた夏の一些事の) ※「磔」に「はりつけ」とルビ

「いえすの食べたもの」は最後の晩餐、聖餐といったことよりも、青年イエス個人への親近を表していそうだ。イエスも「聖なる人間(ホモ・サケル)」の一人として社会に抹殺されたと捉えられている。


夫と子の音韻そこら中にただよい ※「音韻」に「はらわた」とルビ

死にはぐれ生きはぐれして蟲のヒトら

Kさん、貴方は17名殺傷しましたか。

「はらわた」としての「音韻」がただよう空間とは、言語の中に棲みながら意味も実存もうつろであることを強いられる空間であろう。そこでは「死にはぐれ生きはぐれして」と生も死も不分明で、変身を経ずとも「ヒト」であることがそのまま「蟲」であることと同義になる。最後の「17名殺傷」は秋葉原の通り魔事件のことと思われ、時代精神と恐怖の下に、外れ者たる己と「Kさん」との共振が発生してしまっているのだが、「殺傷しましたか」の問いかけが己はそうせぬという一線を形成している。

今後も宇宙卵さんは、詩的言語と俳句形式、時空の乱れと人生、虫性と聖性、光と闇、宇宙と武蔵野の間で、困った困ったと嘆きながら、それでも致命的な深みに絡め取られることなく、フワフワと漂い続けていくのではあるまいか。


あとがき(第71号)

あとがき(第71号)


■高山れおな

十二月二十三日の天皇誕生日、市ヶ谷の私学会館で、小生も編者としてかかわったアンソロジー『新撰21』(邑書林)の出版を祝う「新撰21竟宴」が開催されました。前半のシンポジウムには約二百人、それに引き続いての祝賀パーティーには百三十名程の方々がご出席くださり、思っていた以上の盛況となりました。心より御礼申し上げます。なお、おそらく二ヶ月後くらいになると思いますが、主催者である邑書林から、当日の記録集が刊行される予定です。特に前半のシンポジウムは、全発言が録音に基づき収録されることになります。すでに、ウェブ上では感想や論評がいろいろ出ているようですが、シンポジウム第一部における筑紫磐井氏と村上鞆彦氏のやりとりや、同第二部パネルディスカッションにおける関悦史氏の発言など、貴重な記録になりそうです。

冨田拓也氏の「七曜俳句クロニクル」もまた、このシンポジウム&パーティーを話題にしております。小生と冨田氏は、この日が初対面でもありました。あまりゆっくりとお話も出来なかったのは残念でしたが、文章を読むだに飄々たる風貌が脳裏によみがえってきて莞爾とせざるを得ません。中で、冨田氏が、村上鞆彦氏に「牛若丸(のような気品)」を感じたという一節があって、なかなか絶妙な譬えに思われます。それにしても村上氏が牛若丸なら、筑紫磐井氏は誰になるのでしょうか。平清盛?とか(笑)。

さいわい御好評を得ているらしい『新撰21』ですが、一部、妄言をなす人もあるようです。「俳句界」編集長で、同書で中本真人氏について小論を書いている林誠司氏が、自分のブログ(*)の十二月十五日付の記事でこんなことを言っております。

収録されている合評座談会で、対馬康子さんが「かなり偏った人選」と述べているが、21人のメンバーを見ると、私もそう思った。人選を高山れおなさんが中心となり、編集委員に高山れおなさん、筑紫磐井さんという3人中2人が「豈」のメンバー。選ばれた21人や小論執筆者に「豈」のメンバーがずいぶん含まれているので、もうちょっと懐の深いところを見せてもらいたかった。

本人も誤まりに気づいて後日の記事で修正しているようですが、収録二十一作者中、「豈」同人は、関悦史と中村安伸の二名だけです。他のメンバーの所属誌を確認しておくなら、対馬さんが編集長を務める「天為」が二名(五十嵐義知、矢野玲奈)、「澤」が二名(藤田哲史、相子智恵)で、ただし矢野氏は「玉藻」にも所属しておられます。以下、「銀化」(山口優夢)、「ハイクマシーン」(佐藤文香)、「THC」(谷雄介)、「鬣TATEGAMI」(外山一機)、「山茶花」(中本真人)、「鷹」(髙柳克弘)、「南風」(村上鞆彦)、「街」(北大路翼)、「雲」(鴇田智哉)が各一名で続きます。たしかに、編者や座談会ゲストである小澤實氏の関係俳誌が優遇されていますが、それはこのメンバーが企画・編集の労力を提供しているのですから自然な流れというものです。そして付け加えるなら、結果的に最も厚遇されているのは、労力の提供などとは関係なく三名が入集している「海程」(豊里友行、田中亜美、九堂夜想)であり、他に無所属が三名(越智友亮、神野紗希、冨田拓也)います。

先ほど妄言と言ったのはしかし、この件ではありません。同じブログの十二月二十五日付の記事で、林氏は新撰21竟宴に出席した感想を記していますが、次のような一節には眼を疑いました。

さて、話は変わるが、最近の俳人は、どうしてシンポジウムが好きなのだろうか。
私などはもっぱら体育会系で、角川春樹や吉田鴻司に、小理屈こねるな!とにかく作れ!と教えられてきたので、どうも違和感がある。
春樹さんはよく、俳句はなんでもありだ! と言っていた。
それは無季とか、定型を崩せ、というのではなく、ああだこうだ理屈をつけて、俳句を狭くするな、ということだった。
俳句は自由である、ということだった。

だから、小難しい議論を聞いていると、結局は自分の俳句を縛ることになるのではないかな~、と考えてしまうのだ。

特に多くの人が、俳句の表現方法、形式に関心をもっていることを不思議に思った。
そんなものは二の次、三の次だろうと思うのだ。


あのう、あなたは確かに「俳句界」の編集長をなさっている林さんですよね? まあ、角川さんや吉田さんのおっしゃることはそれはそれでよくわかりますし、関さんの論などがあなたには猫に小判であったこともお察しいたします。しかしあなたは、「俳句界」編集長として、「俳句界評論賞」の原稿を募り(そのいちばん最近の受賞者が関さんなんですけどね)、座談会に人を呼んで「小難しい議論」をして貰うのを日頃のお仕事になさっているのではないのですか?

今、手元に「俳句界」の二〇一〇年一月号があり、ひらくと「俳句よ どこへ行く」という特集が組まれています。特集内の座談会では、池田澄子(豈)と今井聖と坊城俊樹の三氏が「小難しい議論」をし、筑紫磐井(豈)と横澤放川の両氏が「小難しい」論文を寄せています。あなたは、「結局は自分の俳句を縛ることになるのではないかな~」と腹の中で冷笑しながら、彼らに座談会や原稿の依頼をなさっていたのですね。あ、それだけではない。表3(裏表紙の見返し)には、「第12回 俳句界評論賞 作品大募集!!」の告知が出ていますが、これもやっぱり「結局は自分の俳句を縛ることになるのではないかな~」とか、君たちが書いてよこす「俳句の表現方法、形式」についての評論なんて「二の次、三の次」なんだよ、とか思いながら募集をかけていらっしゃる? おまけに、審査員は筑紫磐井(またですか~)と仁平勝(元「豈」同人ですよ)。まだまだありますね、表4(裏表紙)には、「第1回 北斗賞募集!!」とあって、審査員はと見れば石田郷子と五島高資(豈)と高山れおな(豈)じゃないの。林さん、あなたの雑誌、なんでこんなに「豈」関係者だらけなんですか。あなたの懐が深いせいなのですか、浅いせいなのですか。気になって眠れなくなりそうです。筑紫磐井も、仁平勝も、五島高資も、高山れおなも、「自分の俳句を縛る」「小難しい議論」ばかりしている評論書きですよ。なんでそういう「違和感がある」連中ばかりに仕事を頼むんですか。自分が何を言ってるかもわかってない、こんなのが業界二位の総合誌の編集長? 勘弁してよ。

というわけでみなさま、林君のことは忘れて良いお年をお迎えください。

(*)「林誠司 俳句オデッセイ」
http://blogs.yahoo.co.jp/seijihaiku/31051380.html


■中村安伸

冨田さん、高山さんが述べられている「新撰21竟宴」に、私も21人のうち一人として参加させていただきました。ネット上にも様々なまとめや感想があがっています。

私はほとんど目立たなかったようですが、シンポジウム第三部ではすこし発言しました。

越智友亮さんが、参加者に現代仮名遣いの人が少ないんじゃないか、というご意見を述べられたのに関連して(私の作品は前半が現代仮名遣い、後半が歴史的仮名遣いだったので)司会の高柳克弘さんに指名されたのですが、結局弁明とも自分語りともつかない中途半端な発言で、時間ばかりとってしまったような気がします。

その少し前、中本真人さんの「俳句には師が必要なのではないか?」という主旨のご発言から議論が広がっていました。その場では発言できなかったものの、二次会で中本さんとその点についてお話しすることができたのは、有意義なことでした。


俳句九十九折(63) 七曜俳句クロニクル ⅩⅥ・・・冨田拓也

俳句九十九折(63)
七曜俳句クロニクル ⅩⅥ

                       ・・・冨田拓也
12月23日 水曜日

邑書林の『新撰21』の竟宴へ出席。

普段は、滅多に人前に姿を現さない「引きこもり俳人」として、多方面から相当な顰蹙を買い続けている自分であるが、今回ばかりは流石に出席しないというわけにはいかないので、東京まで出掛けることにした。

新大阪駅から新幹線「のぞみ」に乗って東京へ。東京へ着くと、天皇誕生日ということで、道路など全体的にややものものしい雰囲気。そんな中を舗道の上の枯葉を踏みしめながら会場へ到着。

この日は、鼻炎の薬を服用していたため、その副作用から意識が半分朦朧とした状態となってしまい、いまひとつシンポジウムにおける重要な話をしっかりと聞くことや、参加者の方たちとのご挨拶や受け答えなどがまともにできない部分があり、そのことが少々悔やまれるところがあった。(まあ、薬を服用していなかったところで、同じようなものであったかもしれないが。)

また、今回は、いろいろな出来事や多くの人々に接することが多く、それゆえに記憶がやや混在、不確かなものとなっており、その内容については逐一よく覚えていない部分が少なくないのであるが、確か内容としては、シンポジウムの第1部が、筑紫磐井、小澤實、池田澄子の各氏が今回のアンソロジー誕生することになった経緯などについての話しで、その後に壇上に上げられた若手の俳人である北大路翼、松本てふ子、谷雄介、村上鞆彦の各氏がそれぞれにしっかりと質問に応えていたという記憶がある。そのときの印象を記すと、北大路翼さんからは「野獣系」、松本さんからは「度量の強さ」、谷雄介さんからは「図太さ(ゴキブリのような生命力の持主と称えられていた)」、村上鞆彦さんからは「牛若丸(のような気品)」といった言葉をそれぞれに連想するところがあった。

第2部は、高山れおな、関悦史、相子智恵、佐藤文香、山口優夢の各氏による討論。どれもなかなか簡単には済ませることのできない重い内実を孕んだテーマばかりで、その1が「形式」、その2が「自然」、その3が「主題」といった内容。やはりどの発言者の意見も相当レベルの高いもので、聞いていて圧倒されるところがあった。特に関さんという存在については、やはり一種の「ゴーレム」なのではないかという思いがするところがあった。このあたりの部分の内容については、どなたかがどこかで詳細に報告してくださることと思うので、ここでは自分の思い出せる範囲内で、いくつかの事柄について簡単に触れておきたい。

まず、その1の「形式」についてであるが、これは外山一機さんの論考をもとにした話し合いで、その論考の内容をものすごく大雑把に要約すると、もはや現在、俳句形式には新しい表現など残されておらず、過去のあらゆる成果を自らのものとして活用することが可能なだけである、といった内容のものということになる。

こういった意見については、自分は、現在70代の俳人の方から、いまから40年くらい前にも同じような言説が囁かれていたというお話をうかがったことがある。当時においても、最早すでに書くことがない、という意見は出ていたとのこと。また、この問題に対して現在の自分の個人的な考えとしては、俳句表現というものは、「全て」とは言わないが、やはりおよそ9割近くはすでに書かれてしまっているのではないか、という気もしないではないところがある(無論、自分のこの考えが果たしてどこまで正しいものであるか判然としないが)。

そして、この「既に俳句には新しい表現は残されていない」という意見については、どの発言者もおおむね単純には賛同し兼ねている様子であり、この問題をめぐっての発言の最後あたりに高山れおな氏が「自分もかつては同じような考えを持っていたが、このような方法によって句作を続けていると、自家中毒に陥る可能性がある」といった意味の発言をされていたのが非常に印象に残った。

しかしながら、これまでの作風とは異なる「新しいエクリチュール」とでもいうべきものを目指す、もしくは創出するとなると、実際のところ、多くの作者にとっては、当然ながらある程度の「才能」や単なる「努力」などといったものでは到底太刀打ちすることのできない現実的な壁に直面せざるを得なくなるといったケースも少なくないのではないか、という疑問も湧いてこないでもなかった。まあ、そういった成果をあげられるだけの才質を持つ少数の優れた作者の存在が新たな作風を切り拓くことによって、後続の作者たちもその作風を自らのものとして活用することが可能となり、またそこからその先の展望についても考えてゆくことが可能となるといった側面もあるのかもしれないが。

続いて、その2で取り上げられたのは「自然の問題」で、この問題についての討議の内容については、その内容が盛り沢山であったゆえ、いまひとつ詳しい部分についてまでははっきりと憶えていないところが多く、これから書く内容については誤っている箇所も少なくないかもしれないが、当日配られた資料と併せてなんとか思い出してみると、確か、自然そのものの存在がどんどん生活の場から駆逐されてゆく現在の状況に対して、これから俳句そのものが一体どうなってゆくのか。そして、そういった状況であるのならば、自然の存在しないこの現在の状況そのものを俳句としてそのまま表現すべきであるのか、また、そういった状況であっても俳句において「自然」を表現しようと思うのであれば、これからは現実とは無関係な「言葉」によってのみしか「自然」というものは表現できなくなるのか、といった問題が討議されていたような気がする。(あと他に吉本隆明の現在の若い詩人をめぐっての評価である、自然が全く存在せず得体の知れない「無」だけがある、といった意見に対する言及や、斉藤斎藤の短歌についての自然の有無などの鋭い言及があった。個人的には、確か吉本隆明の言語観というか詩歌に対する考えの根底には、折口信夫の日本の詩歌の発生論と解剖学者の三木成夫の植物と動物の関係をめぐる考察といったものが深く内在していて、それを基軸としての若手の詩人への評価ということではなかったか、という気もするところがあった。また、俳句と自然といった問題を考える際には、飯田蛇笏、飯田龍太、福田甲子雄の作品といったものをそれぞれに読んでみれば、なにかしらヒントとなるようなものが見つかるかもしれないという予感がするところがある。あと、「言葉」と自然の関係ということでは、平安時代の和歌は机上の作であったという事実や、連歌では実際の実感をそのまま言葉として表現することは「卑しい」こととされていたこと、また、蕪村の空想詠などといった存在が、次々と思い浮かんでくるところがあり、この俳句(もしくは詩歌)と自然をめぐる問題というものは、やはりそれこそ随分とややこしい問題を含んでいる、ということになるようである。こういった問題については少し考えてみただけでも、そもそも俳句には必ずしも自然(もしくは季語)の存在が必要であるのか否かという問題からはじまって、他には、実際に自然を眼前にして句作する方法と、題詠などの空想によって句作をする方法における差異や各々の長所と短所、また、季語と実際の自然を目の前にした場合における季感と実感のずれの問題、などといった様々な問題がいくつも思い浮かんできて、正直自分の手には負えないところがある。)

ともあれ、個人的には、現在こういった自然そのものが駆逐されてゆくといった問題が、俳句全体に及ぼす影響といったものはやはり小さなものではないという気がするが、この自然の欠落による弊害というものは、自分の考えでは、俳句の問題のみにとどまらず、実際の問題としてこれから「人体」そのものへと直接大きな影を投げかけてゆく結果となるといった可能性も少なくないのかもしれない、という思いがするところもあった。

現在、人間の多くは手つかずの自然の世界から離れ、都市という強固に整備された一応安全な環境の中で管理され暮らしているわけであるが、こういった現在の堅牢な都市環境の中においては、人が本来的に持っているはずの生命力というものが徐々に削り取られてゆく結果となってしまっているという側面もあることは否定できないところであろう。人間というものは、よくよく考えてみると、そもそもは「動物」であり、それゆえまさに「自然」の産物以外の何物でもなく、さらにいうなれば「もののけ」そのものということになるのであるが、そういった存在が、現在の都市という人工的な環境の中で管理され「自然」の環境から離れた安全ながらも生死ともにあやふやな状況の中で、生れてから死ぬまで(さらには何代にもわたって)生活を続けるということになった場合、生存本能そのものが機能しなくなってしまい、まるで鶏や魚の「養殖物」のように脆弱な個体へとなってゆくほかはなく、それが将来的に様々なかたちで「病気」として多くの人々の上に顕在化してくる可能性が高いのではないかという気がする。(実際に、現在、一応長寿国と見られているこの日本においても、天寿を全うした結果として訪れる「老衰」による死亡者というものは、100人の割合の中で僅か2人しか存在しないらしい)。

そして、これまでの歴史を省みても明らかなように、ありとあらゆる文明というものは隆盛をきわめたあと、宿命的に衰退し自壊へと向かう運命にあるという動かし難い事実があるが、そういった事態が否応なしに発生する要因のひとつには、おそらくこの「病弊」や「人の生命力の衰退」といったファクターが、文明というものが進んでゆくにつれて免れ難く人々の上に作用してくる結果となるゆえではないか、という風につねづね自分は考えている。歌人の林和清さんに〈銀杏のにほひの占める午後ふかく人も国家も内よりほろぶ〉といった短歌が存在するが、この1首の内容はまさしくこのような国家という文明社会の黄昏時における実質というものを、そのまま手摑みにした1首なのではないかという気がしてならない。

この「自然」そのものを駆逐してゆく「都市(文明)」主義というものが抱懐するその限界と病理については、人間という存在そのものがその生誕の時点から「自然」的な側面と「反自然」的な側面というやや矛盾した要素をその内側に併せ持っていたがゆえの免れ難い問題ということになるのかもしれない。

そして、このような現在のやや危機的ともいえる状況の中で、俳句における「主題」(その3のテーマ)というものが、俳句作者にとって大きく眼前に迫り出してくる局面があるとするならば、やはり、多くの個人にとって不可避となる可能性の高い「重い病気」や「貧窮」などといった情け容赦のない「現実」そのものの持つ強大な力というものが直接降りかかってきた時ということになるのかもしれないな、などといったことを、今回のシンポジウムの話を聞きながら、ぼんやりと考えた。

そのあとの、第3部で、高柳克弘さん、神野紗希さん、田中亜美さんや生野毅さんなどが色々と発言をされていたような記憶があるが、その内容について聞きそびれてしまうところがあり、その発言内容についてはいまひとつ思い出せないところがある。あと、「結社と個人」といった内容について、自分も少し喋らせていただいたのだが、いまから考えると、やや偉そうな内容の発言をしてしまったような気がして、少し冷汗が出るようなところがある。あと、「第二芸術論」についての話も少しばかり出たような気がするが、こちらも具体的な内容についてはしっかりとは覚えていない。(確か、田中亜美さんが俳誌「翔臨」において、「第二芸術論」について論じたのでそちらを機会があれば読んでみてください、といった内容の発言だったと思う。)

その後はパーティーで大きな句会のようなものがあり、自分も投句したのであるが1度も選ばれず、がっかり。また、今回3句を選ぶという選者も務めさせていただいたのであるが、上田信治さんと外山一機さんの句(もう一人の方についてはお名前を失念してしまった)を選ぶことが出来て、すこし安堵するところがあった。

しかしながら、表現者というものには、やはり少々尋常でないところがあるというか、それこそいろいろな方がいらっしゃるなという思いが、今回ほどしきりにすることはなかった。詩人の小笠原鳥類さん(喋っている内容がほとんどモノローグに近い)や、怪奇小説家で俳人(「豈」所属)の倉阪鬼一郎さん(髪の毛を染められていて、それだけならばまだしも、肩の上に黒猫のぬいぐるみを乗っけておられた)等々。

あと、今回は高柳克弘さんのおかげで、歌人の黒瀬珂瀾さんにもご挨拶することができた。他にも、鴇田智哉さんや、榮猿丸さん、九堂夜想さん、中村安伸さん、田島健一さん、橋本直さん、矢野玲奈さん、さいばら天気さん、酒井佐忠さん、堀本吟さん、樋口由起子さん、櫂未知子さん等々、結構大変な人達に直接に会うこととなり、なかなか吃驚してしまうところがあった。また、ご挨拶をしそびれてしまった方々も少なくなく、その点がなんとも心残りであった。

しかしながら、倉阪鬼一郎さんといえば、思えば『夢の断片、悪夢の破片』(同文書院 2000)に所載の俳句に関する文章や、『幻想文学』(アトリエOCTA)という雑誌に連載しておられた俳句の書評コーナーなど、自分が俳句をはじめたころに随分と熱心に読んでいたという記憶があるが、そんな方に実際にお目にかかる日が来ようとは思いもよらないことであった。

小笠原鳥類さんにしても、『素晴らしい海岸生物の観察』(思潮社 2004)所載の「虹色濃湯、ながれ」などといった現代詩における傑作を、若くしてすでに自らのものにした詩人であり、そういった方と実際にお会いしたりしているのであるからつくづく驚く他ない。

そのあと、二次会で、とある有名な俳人の方がいらっしゃっていて、自分の作の悪い部分を1句1句例にとって、懇切に(執拗に?)注意して下さり、相当こたえた。

そうやって今回の1日は終了をむかえたのであるが、ともあれ初対面の方に会うのはつくづく苦手だな、といったことを再確認しつつも、それでもなかなか楽しい1日でもあったと思い直し、ホテルの部屋にて眠りについた。


12月24日 木曜日

翌日、目が覚めると、朝の7時ごろ。

テレビのニュースをぼんやりと見ながら、もそもそと朝ごはんを食べ、9時頃にホテルを出て、地下鉄へ。

東京に来たからといって自分にはあまり行きたいと思うようなところもないのであるが、せっかくここまで来たので、いくつか大きな書店を廻ってみた。

まず、池袋のジュンク堂へ行ってみることにした。池袋の地下鉄から外に出たところで、方向が判らなくなり、早くも半分迷子。それでもなんとか場所を把握して、広大な駅の建物をやや驚きの目で眺めながら歩き、10時を数分過ぎた頃になんとか目的地に到着。

詩歌の棚が随分と充実していて、海外詩など結構珍しい書物まで取り揃えてあった。現代詩の棚には若手の詩人の詩集がいくつも並んでおり、岸田将幸さんや中尾太一さんの新しい詩集を手に取りながら、一体自分はいままで何をやってきたんだろうな、と軽く落ち込む。

また、俳句のコーナーを見ると『俳句空間-豈』や『未定』なども置かれてあって、やや驚くところがあった。そして、『新撰21』も何冊か置いてあって、歓喜。

別所真紀子『雪はことしも』(新人物往来社 1999)、『続・小池光歌集』(砂子屋書房 2001)、江代充『梢にて』(書肆山田 2000)などを購入。

その後、神田の東京堂書店などにも寄ってみたが、それほど特殊な品揃えばかりというわけでもないようである。

何年も前、池袋の「リブロ」の詩歌専門店「ぽえむ・ぱろうる」へ1度訪れたことがあり、その品揃えの充実振りに大いに驚いた記憶があるが、現在では既に閉店(2006年までの営業だったらしい)とのことで、つくづく残念な思いがした。

東京駅から新幹線に乗って、もそもそと1人でお弁当を食しながら、帰宅。


12月25日 金曜日

先日の23日に、湊圭史さんから『ハイク・ガイ』(三輪書籍 2009)を、そして黒瀬珂瀾さんから第2歌集『空庭』(本阿弥書店 2009)をいただいた。

たまに俳句の集まりなどに出掛けると思いもかけない、いいことがあるな、と素直に思った。

黒瀬さんの歌集については、第1歌集『黒燿宮』(ながらみ書房 2002)の頃から拝読させていただいているのであるが(あと『街角の歌』という「ふらんす堂」から出版されている「街」の短歌で編集された優れたアンソロジーの存在もある)、今回のほぼ7年振りの第2歌集『空庭』(「くうてい」と読むらしい)については、第1歌集におけるやや耽美色が強かった傾向と比べると、今回の内容は、そのような耽美的な傾向の作は無くなったわけではないが、どちらかというとやや控えめとなっていて、全体的に世界との交錯への苦くも強い意志に貫かれているということになるようである。

今回の歌集の収録数は全部で大体630首ほどで、やはりなかなかの多力の作者という印象が強い。装丁については「クラフト・エヴィング商會」ということになっている。

そして、この歌集における作品の全体的な内容についても、野心的な連作の存在もいくつか見られ、第1歌集と比べて、今回の第2歌集における内容は、作者としてさらに一歩駒を進める結果となったという印象が強く感じられるところがあった。

以下、『空庭』よりいくつか。

見送りのために買ひたる漆黒のネクタイわれはわが日に還れ

敗戦日前夜舞城王太郎読みし車窓のくもりさびしも

立つたままメタファーは殺されてゆき野分に遭はぬわが街の鬱

眠りから眠りへ渡る一瞬を身過ぎと呼べば早春の雹

ああ吾は誰かの過去世まなかひに雪ふる朝を地の底として

けはしかるまみさへさつき やみぬちに立つときわれも夜のかきつばた

死がこはい世界がこはい水のない海へと歩む僕の魂

春暁にほのぐらく浮く冷蔵庫唸りあげをり鶏卵を抱き

ししむらを持つゆゑ飛べず春雪をかづけば無言なる遊園地

わが目指す出口は劫に踏み込めぬ雪景の底としての水面

悲しみを眠らせまいとデニーズが光を撒けば僕らはわらふ

生きることすなはち他者の生を吸ふ姫赤立羽(ヒメアカタテハ)コスモスに舞へ

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2009年12月26日土曜日

「遷子を読む」を読んで(中)

遷子を読む(40)-2 特別編3

「遷子を読む」を読んで(中)


・・・堀本吟・仲寒蝉・筑紫磐井


25回/山深く花野はありて人はゐず

吟:山深く花野はありて人はゐず 『雪嶺』 

薫風や人死す忘れらるるため 『山河』

こういう風景がわたしは好きです。

筑紫さんのいわれるように、たしかに、心理や理念の投影、も感じますが、実際にこういう場所はあるのだと思います。

「人がゐず」という「場所」そのものにゆきあって感動しているのでしょう。そこは人が来るのを待っているよう場所、自分のさがしていた場所だと感じるわけですから、見えぬ人影はうじゃうじゃしていますが。

でも、人間が居ない場所に感動すること、こういうのがナチュラリストの面目、と言ったような気がします。

筑紫:俳句のような極めて短い詩形の下で書くと、ナチュラリストの思想がペシミストの思想に変わってしまうことがありそうです。

吟:そうですね。でも、この「人はゐず」「人死す」は親しい人が死んではじめて湧いてくる感動ですから、読まれる時には皆さんのように心理詠として読みますよね。「ナチュラリストの思想がペシミストの思想に変わってしまうことがありそうです。」、と言う磐井さんのいい方をひっくりかえして、「ナチュラリストの思想もペシミストの思想に入れ替わって」、とも言えそうです。自然観照と、「自然」へ投入する感傷が密接だと言うことでしょうね。どちらに傾くのか心理的には濃淡があるようですけれが。

このごろは、皆さんの読み方にだいたいしたがっています。それでじゅうぶん面白いから。でもこのナチュラリズムとペシミズムが入れ替わる、というのは、「磐井&吟」のなかで浮上した新しい読みの視点かもしれません。

私は、俳句の中で、風景がどういう通路で心理に入り込むのか前からか関心があります。

筑紫:ナチュラリストとは関係ないのですが

南国に死して御恩のみなみかぜ

って、オプティミストに見えますか、ペシミストに見えますか?「死して」と文語を使っているところが味噌ですよね。

吟:攝津さんのこの有名句ですか?

南国に死して御恩のみなみかぜ  攝津幸彦

うーん、全体の文脈からが跳びましたね。そう決めつけられると俄にはこたえにくいものがあります。では、この話題にすこし入り込ませて下さい。

なぜ、この句が攝津俳句の原点のように言われるのかと言えば、社会的な関心の出し方が従来の社会性俳句のようにナチュラルではなく、技法的だ、と言うことにあると思うのです。むしろ、御恩という一言で、「死して」の主人公が南方の戦地で死んだ「戦死」した、日本軍の兵士だと、悟らしめる言葉遣いの鮮やかさ、にある、という点からでしょう。

たいして、相馬遷子の「社会性」は、その時代の生活や風土からでてきて、しかも山間の農村地帯のインテリの視線です。この特異性が活かされている個人的な意識の内の社会性です。

攝津幸彦には、風土からくる具体的なに社会的な関心を呼ぶ俳句が少ない、と言うか、全くないと言えるので、すが、初期に多いのは時代が個人に呼び込んでくる社会性です。

彼が、大学封鎖の時代に生きた浮動層身分の学生であったと言うことがかなり影響している、それと俳句史上影響を受けたのが「前衛俳句」の末裔としてその方法を享受かつ摂取したことによります。

この句は、徹頭徹尾ナチュラルではないのです。それ故、ペシミズムという感情移入が出来にくい意味世界です。しかし・・(という、幅が生じています)。

まず、「死して」と言うネガティブな事態を文語で表現すること自体が死の直接的な悲しみにすこしフィルターをかけてくること。

それが「御恩」という、個人の死とははなれた(ポジティブなむしろありがたい公の感情としての)言い方にまとめられていること。

いわばこの用語の逆接性がテーマを間接的に表現することとなり、作品の雰囲気を、ひとごとのようなオプティミズムに仕上げていると思います。

そして、この句の作者はペシミストだなあ、と感じさせるのは、戦前戦中の国家と個人を結びつける心理的な紐帯をしめす特異な散文的な用語、(磐井さんの別の関心である標語にかかわってきますけど)、その用語(標語)がその意図どおりに「句」になっているからです。

一般的な感情移入がしやすい「戦死」に結びつけられるので、機知のものとしてオプティミスティックに読めるのだけれど、内容はここにかかわることだからもちろん重い・・この両義的な意味世界によって、この句は忘れがたい何かを心理の内に残してきます。

「みなみかぜ」は、南のほうから日本に吹いてくる風のことだから、戦死の報のことを書いているのでしょうが、南国に死して、という現在完了形(主体性)とはどっかそぐわない。

そう言う読み方のもとでは、この句には大きなアンバランスがありますが、この自己矛盾がそのまま、表現されきっている、と言う意味で、従来の俳諧趣味と社会性俳句の接ぎ木というような戦争俳句を一歩越えた問題作です。

だから、あらためて、この句の面白さを読みなおしたのは、そのものの雰囲気はオプティミスティック、書く立場(攝津の作句姿勢)を推測すればペシミスティック、ということになります。

筑紫:まず、「南国」というのは、雲重く垂れ込む南仏地方から見たイタリアのイメージで、ジャワ、スマトラなどの南方戦線からずれています。「南方」といわないと通じないでしょう。しかし、あえて「南国」ということにより攝津のオプティミズムが見えてくるようです。まして「死して」です。この文語は、妙に芝居じみています。適切な例を思い出さないので頭の中にあるおもちゃ箱をぶち開けると、「死して屍拾う者なし」とかナレータが語っていたテレビ番組の『隠密同心』のようなイメージですね。だから「南国に死して」までは後ろにどんな舞台が登場するかは分からないわけです。キーワードは「御恩」で、ものがなしい言葉です。日本で最初期の標語に「貯金は誰も出来る御奉公」があります(拙著『標語誕生!』)。奉公と御恩、今では使わなくなっているこの二つの言葉は裏表になっているはずです。国やお上、天皇陛下に対する御奉公としての従軍、戦死があるわけで、このキーワードによって、「南国に死して」が急にペシミスティックになるのではないでしょうか。しかしそれだけでは、一般的な新興俳句にとどまるように思います。最後が南風、ではなくて「みなみかぜ」です、御恩として吹く「みなみかぜ」は急にオプティミスティックに転じます。何の憂いもはらいさった、パラダイスのように明るく静かな南の岸辺を思い起こします。

攝津の俳句自体、この句とか、「幾千代も散るは美し明日は三越」とか、甘美さを常にたたえています。オプティミズムとペシミズムを行き来しているところに摂津の重層性があるのでしょう。もちろんこれは相馬遷子とは関係ありません。むしろ遷子のオプティミズムとペシミズムは、ナチュラリズムと社会性の行き来に現れているのではないでしょうか。

吟:磐井さんは、フランス人のトマの歌劇『ミニヨン』の挿入歌アリア「君よ知るや 南の国」のことを言っておられるのですか?(トマは、サーカスの少女ミニヨンに彼女の故郷イタリアを偲んでこれをうたわせています。

この歌詞は、堀内敬三の名訳があるそうです。

私が原典をあたったのではありませんが、ブログには、堀内敬三訳として、記録している人がいました。検索してみてください。

もともとは、ゲーテの『ウイルヘルム・マイステルの修業時代』のなかの詩なのですが、多くの音楽家が曲をつけています。このゲーテの詩も、邦訳されて親しまれています。

たとえば、ネットでこういうのを見つけました。

君よ知るや南の国

歌:天地真理 作詞:ゲーテ・訳詞:安井かずみ 作曲:トーマ

君よ知るや南の国

香る風に オレンジの花

夢に描く 南の国

みどり木陰 よりそうふたり

わたしはそこで 倖せに出会う

自由に飛ぶ小鳥のように

愛が呼びあう 南の国

君よ知るや南の国

青い空よ 光あふれて

いつか行ける 南の国

白い雲に 手をふりながら

わたしはきっと 倖せみつける

あなたを待つ 愛の窓辺に

花を飾り 南の国

※わたしはうたう 倖せを胸に

時は流れ ふたりの愛

いついつまでも 南の国※

(※くり返し)

もうひとつ。昭和17年に「南から南から」(作詞藤浦洸、作曲加賀谷信。唄 三原純子。コロンビアレコード)と言う歌謡曲がはやりました。聞かれたことがあると思います。

南から南から

作詩 藤浦 洸  作曲 加賀谷 伸

昭和17

1  南から 南から 

  飛んできたきた 渡り鳥

  嬉しそに 楽しそに

  富士のお山を 眺めてる

  あかねの空 晴れやかに

  昇る朝日 勇ましや

  その姿 見た心 

  ちょっと一言 聞かせてよ

2  南から 南から

  遠く海超え 来た人は

  村里に 街角に

  靡く日の丸 頼もしく

  じっと眺めて 涙ぐむ>

  強いお国 日本の

  その姿 見た心

  ちょっと一言 聞かせてよ

3  南から 南から

  遠く海越え 流れ雲

  青い空 ゆらゆらと

  夢見心地に 浮かんでる

  ちるよ枯葉 ひらひらと

  うつる思い ゆく人の

  その姿 みた心

  ちょっと一言 聞かせてよ

これは、当時、南方の戦地に送られた留守家族も多かったところから、たいへんはやった唄です。

攝津幸彦のこの句の背景に、映画が好きで、軍歌とかレトロな文化の関心を持っていた彼が、こういういまや懐メロになっている流行歌や、歌劇の曲を聴いたのかも知れず。下地にあったと考えるとちがう味わいがあります。戦争中の国民は出征した家族への心配をこのように逆転して、明るい唄に託してうたっているのかも知れません。そこがかえって流行った理由とも言えます。

この句が、「御恩」を入れることで「戦死」の句であることは間違いないとしても。戦争時代のモダンな文化の雰囲気を同時にあらわしていたことはいままであまりいわれていません(攝津幸彦は、こういう形で、銃後の日常の中に生まれる戦火想望の想像力を推し量って仮構したのでしょうか?・・と、つい深読みしたくなります?)。

また、これらの南国へのあこがれを強調すると考えたら、そこで死ぬことを「恩寵」と考える屈折した、戦争を詠んだ句だとしたら、「倒錯」した明るさというべきでしょう。攝津そのものの言葉の感覚は、一筋縄では行きません。

攝津幸彦がレトロ趣味の教養をどこから仕入れてきているのか、と言うことにはかねがね興味がありましたので、よい機会なので考えてみました。この着想はあんがいこの句の解釈を拡げるかも知れませんよ。

南国は、なるほど、このときには「戦地」ではなくて、「南の国」ですから、「みなみ」から来るにしろ、こちらにいて「みなみ」をしのぶにしろ、ともかく明るさのイメージが強調されますね。

攝津は風俗をたくみにいれて、この句がなりたった時代の全体を示唆しているのでしょうか? 言葉の内部で多義性をだしているだけのこととは思えません。「御恩」というところで、彼は件の唄などに象徴される西欧の明るさを求める風俗と、戦争という主題を直接盛り込んで、彼の世代から見た戦争の時代を詠んだわけです。戦後俳句の出発点にある「社会性俳句」という方法を受けながら。もういちど新たな「社会性俳句」を、俳句のテーマに取り込んだのではないでしょうか?

相馬遷子は、村の生活を視点に据えたことは、今回の読み方の中心テーマですが、このような都会への言及とか。想像井内でのあこがれのような句はないのですか?(そうそう、「畦塗りやどこかの町の昼花火」というのがありましたね。これも、強引に取れば、都会の明るさをいいとめているようですね。都会という遠い場所への遷子の感じ吾かたをかすかに暗示しているのかも?)

 

筑紫:天地真理が出てきて驚きましたが、原作はゲーテですよね。森鴎外の『於母影』中の「ミニヨンの歌」では「南の国」の語は出てきませんが、「ミルテの木はしづかにラウレルの木は高く/くもにそびえて立てる国をしるやかなたへ/君と共にゆかまし」(訳者不明)となっています。

そういえば藤浦洸(懐かしいですね、「私の秘密」の名回答者でした)つながりで戦前にはこんな曲もありましたね。掲げたのは一番ですが、二番には「椰子の葉陰に真っ赤な夕日」とありますから南国=南方の意識なのかもしれません。ちなみに、虚子の熱帯季題に「嫁選」というのがありました。

「南の花嫁さん」(昭和17年)[中国の歌曲「彩雲追月」の翻案]

作曲:任光 作詞:藤浦洸 歌唱:高峰三枝子

合歓の並木を 仔馬のせなに

ゆらゆらゆらと

花なら赤い カンナの花か

散りそで散らぬ 花びら風情

隣の村へ お嫁入り

お土産はなあに

籠のオウム

言葉もたったひとつ

いついつまでも

吟:びっくりさせて済みません。私も、安井かずみが訳し天地真理がこれをうたっているので驚きました。?外が『於母影』にこれを引用翻訳していたとは・・。これも、想定外の知識になりました。

堀内敬三(1897?1983)は、ウイキペディアによれば、訳詩家。「遠き山に日は堕ちて」(ドヴォルザーク「新世界」より)、「アラビアの唄」、「アニーローリー」などがあります。NHKラジオの「音楽の泉」で愛好家に親しまれていました。

「南の花嫁さん」も藤浦洸作詞なのですね。南へ北へ大日本帝国が版図をひろげて行くにつれて、国内ではそこに触れるいろんな文化現象がおきていることがわかります、流行歌の情緒は甘く鋭く人心に食い込みまたその潜在する情感を反映するものです。昂揚と不安の両面の情感が日本人を揺り動かしていたのですね。

もちろん攝津幸彦のこの句は相馬遷子の句柄とは直接には関係はしませんが、同時代の全体性をみるときには、大いにかかわりあって来ます。

やまぐに居住の遷子にとっては、都会の風俗は「どこかの町の昼花火」だったのでしょう。と言うことで、遷子に戻ります。すこし逸れましたが、大事なバイパスになったような気がします。どうもありがとうございました。

筑紫:もどったところで一言。遷子はオプティミズムか、ペシミズムかから発した問題ですが、別のところで仲さんが遷子の当時の心境を推測する貴重な報告を行っていただいています。終戦前後の医学生の進路はどんな道があり、かつ社会の中で病気はどのように捉えられていたのかと言うことが是非必要な前提となります。こんなことすら75年前にどういう状況だったのか分からなくなろうとしています。40年前、「南国に死して御恩のみなみかぜ」と晴れ晴れしく詠んだ攝津幸彦が、ノイローゼのために毎夜、冷蔵庫の扉の開閉を繰り返していたという心情を理解できなくなっていることと重ね合わせると、自分自身の過去の行為すら十分な説明は出来なくなっているのではないかと空恐ろしく思います。オプティミズムとペシミズムの間には想像を絶する溝があるのではないでしょうか。

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遷子を読む(40)

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・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、仲寒蝉、筑紫磐井


夕涼や生き物飼はず花作らず

  『雪嶺』所収

中西:遷子の生活心情が端的に現われている句です。昭和35年の作ですが、そう言えば、今までも遷子の句は趣味的なものを詠った句はなく、質実な生活を窺わせるものが多かったように思います。時代がそうなのだと言えばそうなのかも知れませんが、それより遷子という人が、華美を嫌い、無駄を嫌ったのではないかと想像しました。

〈夕涼〉は生き物飼わず花作らないことに、これがいいのだという強い自己肯定を感じさせる季語です。ペットや花は生活の潤いであり、心を慰めてくれるものたちですが、自分を慰めてくれるもの達を敢えて傍に置かないという精神は、一種潔い境地をあらわしているかもしれませんね。

これだけ長い間俳句を熱心に作り、また多くの俳句を読んできた人が、地元に仲間を作らなかった、句会を一つも持たなかったということは、それがなくてもいいという考えだったからではないでしょうか。一切の無駄を省いてシンプルに生きる、遷子の合理主義を見るような句だと思いました。

原:日中の暑さも収まって、涼風のたつ夕べ。一日の仕事を終えたひと時か、あるいは合間の短い休息だったでしょうか。涼風に身を委ねながら、ふと、こういうゆとりある時間を、世間の人はペットや園芸に親しんだりするのだろう、それに引き換え、自分はそういうものもなく過ぎてしまったが、と感じたのかもしれません。

もう一歩踏み込んで、「生き物飼はず花作らず」のフレーズを意志的に受け取るならば、(意志的であるかどうかの決め手になるのは年齢かもしれません。このとき遷子はまだ五十代になったばかり。生涯を振り返るような感慨を抱くにはまだ早いという気もします。)となれば、日々、生命に関する職業に携わっている遷子にとってたとえ相手が動物や植物であっても、生命に関係することは煩わしかったのだろうかと思えてきます。否定形を二つ重ねた強いリズムも意志的なものを感じさせます。

中西さんの指摘にあった、地元での句会を持たなかったということを改めて考えて見ますと、徒党を組んだり、人を組織したりするのが面倒臭かったのでしょうか。すでに存在している句会や集りであれば、参加して、そこそこ愉しんだり、人付き合いの良さを垣間見せたりはしても、それはそこまで。と、こう言ったからといって決して嫌な人間という訳ではありません。すぐれて個人主義的であったように思うのです。

深谷:遷子らしい生真面目さが、そのまま表れている句だと思います。ペット飼育や園芸を楽しむ余裕もなく、地域医療の最前線で、また家族を養う一家の長として、脇目も振らず一心不乱にその務めを果たしてきた、遷子の満足感が伝わってきます。

しかし一方で、その生真面目さというのは、先般少し論じられていた「遷子の人間嫌い」に通じるような気がします。より具体的に言えば、「生き物に関わること」があまり好きではなかったのではないか、ということです。そして、やや逆説的ではありますが、だからこそ命あるものがその命を失っていくのを黙って見ているのは堪えられないと感じていたのではないでしょうか。掲句を読んでいると、生き死にに関わるのは自分の患者だけで充分、といった遷子の想いが、そこはかとなく伝わって来るのです。前回同様、深読みのし過ぎかもしれませんが、それが遷子の人格の本質的一端だと思えてならないのですが、如何でしょうか。

窪田:この句を読んで「あるがままに」という言葉がふっと浮かびました。中西さんの言われる「一切の無駄を省いてシンプルに生きる遷子」ということ、肯けます。遷子の文字を見ていても、同じことを感じます。文字に科がなく実にあっさりとした、しかし気品のある字です。演歌調ではなくシャンソンに近いイメージの字とでも言いましょうか。私は、金魚を飼って、庭には花を植えるのに忙しい位ですが。

「夕涼」は確かに中西さんの言われる通り「強い自己肯定」だと思います。一方、遷子の「あるがままに」という、一種の自由な精神も感じます。そして、飼育や栽培の対象となる動植物も、自然の中であるがままにしておきたいという遷子の思いが伝わってくるようにも思うのです。

仲:夕涼と聞くといつも思い浮かべるのが久隈守景作の国宝《夕顔棚納涼図屏風》です。日本の家族の肖像としては最古と言われるこの屏風は、現在、東京国立博物館に収蔵されています。豪壮な襖絵や中国伝来の水墨画を模したような画材ばかりが描かれていた江戸時代初期の狩野派にあって、こんな地味でほのぼのした絵を描いた守景のような絵師がいたなんて驚きですね。この絵から漂う幸せ気分そのままに夕涼というのは「生きていてよかった」との実感を噛みしめることのできる瞬間です。それに取合せたのが「生き物飼はず花作らず」との自己表明(宣言というほど大層なものでもない)とは…。 

この句の作られたのは昭和35年、前後の句を見てもまだまだ庶民の暮らしは大変で今のような様々な娯楽はなかったし、あってもこの田舎では望むべくもなかったでしょう。だからこそ生き物を飼ったり花を育てたりすることが田舎の生活に相応しい娯楽だった筈です。守景の屏風の家族も、貧しいながらも夕顔の棚を作りその下で寝そべりながら折りしも昇ってきた月を眺めているのです。しかし遷子はそれを否定した。彼が生き物や花を嫌いだったとは思えません。医師として命あるものには優しいまなざしを持っていたでしょうし、俳人として生きとし生ける物に関心がなかったとは思えないからです。ここで彼が言っているのはそういうものに興味が無いということではなく、そういうものを自分の慰み物とする生き方はしないということなのです。

中西さんの鑑賞文の中の「質実」「合理性」という言葉、どちらかというと前者の方が彼の生き方を表わしているように思えます。遷子の句を読んでいると凡そ享楽的なところがない、ストイックな印象を受けるからです。医師ですので合理的な考え方をする人ではあったと思うのですが、このことに関しては余り合理性とのつながりを感じませんでした。それよりも享楽、趣味についての彼の考え方が表われているように思います。趣味と言えばスポーツというジャンルもありますが、当時まだまだゴルフは贅沢な遊びでしたし、遷子は弟の愛次郎氏のようなスポーツマンタイプではなかったようです。俳句は現在のように趣味という捉え方でなく一種の修練、「俳句道」というような見方をする俳人が多かったのではないでしょうか。その意味で彼はこの句を通して「私には俳句があるからいい。俳句は自分の庭にちまちまと花や動物を置いて楽しむようなものではない。この大自然そのものが俳句の対象であり、この山河そのものが私の庭なのだ」と言っているような気がするのですがどうでしょう。

筑紫:「遷子を読む」を続けると高原派の遷子から、ペシミスティックな遷子がやたらと見えてくるような気がします(ペシミスティックの意味については別途進んでいる特別編での堀本吟さんとのやりとりをご覧ください)。「生き物飼はず花作らず」が、生き物が死ぬから、花が枯れるからという理由でないことは推測がつきます。生き物や花は自然に置くのがよいから、ということであれば多少は分かる気がします。ただ、それは理屈であって、高原派といわれ、戦前は自然詠にふけった遷子としては、やはり少し不自然な気がします。そうした気持ちを詠むのであればもう少し違った詠み方もありえただろうかと思えるからです。最後の解は、生き物を飼い花を植えるゆとりがないから、と読むのが妥当な感じがするのです。それが一番「夕涼」の季語にはあうような気がするからです。いってみれば係累の存在を疎ましく思うことはないにしても、また自ら係累を作らない努力などしないにもかかわらず、余儀なく置かれた係累のない環境の寂しさと、一方ですがすがしさがあるとすれば、それが「夕涼」の季語にはあうと思うのです。

生き物と花を俳句に置き換えてみると興味深いと思います。生涯遷子は俳句に打ち込んだのですが、案外思いは似ているかもしれません。飯田龍太は、平成4年に「雲母」を終刊し、以後俳句は発表していません。『遅速』が最後の句集であったわけで、これ以外にはわずかの期間「雲母」に発表した作品があるだけです。少なくとも平成4年以後、なくなる平成19年までの15年間、頑としていかなる場所にも俳句を発表しようとはしませんでした。龍太が「雲母」を終刊した理由を読むと、俳句制作を断念するつもりはまったくなかったことがわかりますが、「雲母」終刊が結局は龍太の俳句制作断念への引き金となってしまったことは間違いありません。その理由は当人以外には分かりにくかったかもしれませんが、決して嫌いではなかったにもかかわらず自ら忌避するという意味において、龍太の俳句は遷子の生き物や花と似ていたのではないでしょうか。その感慨が夕涼なのです。両者とも、古武士のような風格をもった俳人であった点も共通しますし、山中に住み共感を寄せていたこともすでに述べたとおりです。

[原さんの「生命に関係することは煩わしかった」にどっきとします。なお、遷子の顔には、ここで想像する佐久での顔と、函館で「壷」の連中と毎夜飲み歩いた顔、毎年の馬酔木の同人総会での飲み会の世話をする顔と、いろいろな顔があったようでどれかひとつが本当の顔であったわけではないように思われます]

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