メキシコ料理店のあたりで
・・・高山れおな
今、ある雑誌から「きっかけの二句 決意の一句――俳句を志した頃」というお題で、原稿の依頼を受けている。〈初学時代に感動した句、尊敬する師の句、敬愛する友の句」など「俳句をはじめるきっかけを作ってくれた〉他人の句と、〈一生、俳句にかかわっていこうと決意した句、俳人としての自覚と自信をもつ〉端緒となった自分の句を挙げよというのがその趣旨で、評者の場合は正直言ってどちらについてもパッとは思い浮かばない。なにしろ二十年からの昔の話で、俳句についてにせよ、それ以外のあれこれについてにせよ、記憶は茫洋としている。ともかくも数日来、二十歳過ぎの頃に何を考えていたか思い出そうと努めてはいて、その場合、初めて投句というものをした「俳句空間」誌のバックナンバーなんかを大いに頼りにすることになる。
話はがらりと変わって十二月二十三日の「新撰21竟宴」。いろいろと得難い体験をした日であったけれども、具体的なモノとしても得難かったものを得ることができて、それは小野裕三句集『メキシコ料理店』(*1)なのだった。三年前の刊行当時、句集評をちらほら目にして、引かれている句を見ると面白そうだし、著者が同じ一九六八年生まれという興味もあって欲しい本だったのだが、書店ではついぞ見かけず、インターネット上への古書の出物もなく、本人に一筆したためればなんとかなったのだろうけれど、それはしないままずるずる来てしまった。さいわい『新撰21』で、小野さんは越智友亮小論を書いてくださり、パーティーでご挨拶することもできた。かくて、ご本人から直接、御本を頂戴する仕儀となったのである。
『メキシコ料理店』は期待に違わず面白い句集で、しかもどこかなつかしいような感触があるのは、それこそ「俳句空間」の、それも新鋭作品欄の匂いなのだった。芭蕉の句集から読み始め、俳句を始める前から名前を知っていた数少ない現存俳人である鷹羽狩行の作品集(本阿弥書店から出ていたもの)を読んだり、国会図書館で当時の俳壇最大のスターであった角川春樹の句集の抜書きを作ったり(俳句文学館なんて知らなかったのだ)、神保町の古書店で河原枇杷男の句集を見つけて衝撃を受けたものの貧乏学生ゆえ買うことが出来ず、句を記憶しては店外に出てメモを取りというようなことをしたり、それやこれやの日々であったが、俳句を作る面で決定的な前進をもたらしたのは、紀伊國屋書店新宿本店の詩歌書コーナーで出会った「俳句空間」の新鋭作品欄だった。とりわけ「俳句空間」第十一号(一九八九年十二月)で見た「深町一夫〈秋田県・28歳〉」の「超獣銀河」十句に含まれていた、
寺が飛び立つ音に鶏駈け出しぬ
コンセント抜けて海象だらけの部屋
の二句には、自分が探していた俳句はこれだ(!)という手応えを感じたものだ。深町の句では、「俳句空間」第十五号(一九九〇年十二月)に載る、
ワルキューレ杉山が生え地球生え
も佳かった。これらの句の何が「これだ(!)」と評者に思わせたのか。おそらく、個人的な感情をダイレクトに俳句に盛り込むことができず、一方で、若い人間ならではの生理的な感覚を作句の手がかりにしていた当時の評者には、今となればユーフォリック(多幸症的)にも感じられるこれらの句の言葉のアナーキーな力動感が余程ぴったりきたのであろう。深町句のある意味では空疎な元気さにはバブル期の時代精神のそれなりに的確な反映があるし、受け手である評者もその点にいま自分が書くべき俳句の姿を見止めたということだったに違いない(というのはもちろん、二十年後からの後付けの説明だけれど)。
さて、抜群に優秀だった深町(その後、今世紀になってから評論集を出しているはずなのだが、現在どうしているのだろう)はたちまち投稿家の域を抜け出て、「俳句空間」第十八号(一九九一年十月)ではすでに時評欄を担当している。代わって、新鋭作品欄における評者の密かなスターとなったのは、
秋の海滅亡塔をかくしたり
身体を筆がつらぬく夏の海
盲人が海とからだを入れかえる
などの句を含む「海中の弘教」十句を引っさげた「桐野利秋〈
如月の少女と眠る天文学
流星の海に崩れる女かな
凍土よやさしすぎた鳥よもうよいのだ
その街に失語症の雪が降りました
暖雨降る私は決して象ではない
白鯨の液化していく雪遊び
暑き夜の鏡の中の本能寺
落雁やドア燃えている未明
月光のやがて聖徳太子かな
一九九五年から俳句を始めた小野が「俳句空間」を見たことがあるかどうかはわからないけれど、深町や桐野の世界にも通じる幻想や言語感覚がここにはあって、しかしもちろん深町や桐野のような怖いものしらずの鼻息の荒さに比べると、抒情性が前面に出た穏やかさ、柔らかさが特徴になっているだろう。「俳句空間」新鋭作品欄には両者の中間項ともいうべき作者もじつはちゃんといて、それは例えば、
梅若や銀座を父に連れられて
羊とは雲に追い抜かれる午後だ
野兎のように焚火に照らされる
などの今泉康弘だったり、
府中の猫はこれは嘘だが全て片目
銀の活字五十銭今日は「な」を下さい
私の虎私の羊を食べてはやく
といった作のある前島篤志だったりする。ちなみに深町一夫は一九六〇年生まれで、以下、正岡豊は六二年、今泉康弘は六七年、前島篤志は六九年の生まれで、小野裕三や評者(それから五島高資も)が六八年生まれになる。深町・正岡の二人と、今泉たちとの間にある微妙な感覚の差は、バブル崩壊までに社会に出ていたかどうかの差のような気もするが、そこまで言うとあまりにも決定論的な整理になってしまうかもしれない。
ポケットはフランス人の眉でいっぱい
メキシコ料理店のように大降り
ひまわりが無伴奏で咲いている
釣瓶落とし魔球ばかりを投げてくる
交差点残しどしゃぶりの女去る
狐火的肉体であるバスガイド
冬のエレベーターレーニン像が降りてくる
白菜をたくさん積んで住んでいる
品川はみな鳥のような人たち
海の日のクレオパトラという喫茶
謀反の火考える鹿いなくなる
『メキシコ料理店』の後半、「二一世紀」の章から引いた。先に挙げた「二〇世紀」の章からの作には微かに感じられたもやもやと混濁した、生理的なもの個人的なものの反映が薄れ、句が透明感を増すと同時に平面性(平板ということではない)を強めてもいるだろうか。「二〇世紀」からの引用句がペインティングだとすれば、「二一世紀」のそれはコラージュといった方向性の違いがあるように思う。
小野裕三は、「豈」四十七号(*2)の「青年の主張」特集に、「はっきり言いますが、世の中的には『前衛』は死語です。」という論考を寄せていて、
今、我々がしなければならないのはこのような対立軸自体を刷新し、それぞれが持つ素晴らしい財産を受け継ぎながら、「伝統」と「前衛」をよい意味で総合化・融合することではないのか。
と述べている。タイトルこそなかなかに挑発的だけれど、「それぞれが持つ素晴らしい財産」とか「よい意味で総合化・融合する」といった良識的な口ぶりからうかがえるのはしかし、じつのところ小野が“融合”のダイナミズムに向かうようなタイプではなく、せいぜい“折衷”の平安にやすらう温良な性情の持ち主なのだろう事実だ。それが『メキシコ料理店』の俳句が帯びる、どこか自らに安心している、安全装置つきの幻想といった感触へと繋がってもいるのだろう。
(*1)小野裕三句集『メキシコ料理店』 角川書店 二〇〇六年
(*2)「―俳句空間―豈」四十七号 二〇〇八年十一月
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