2009年7月31日金曜日

第49号

※7月31日、おしらせ(WEB俳句同人誌haiku&me発刊)を追加

第49号

2009年7月26日発行(7月31日更新)

評論詩〈「―俳句空間―豈weekly」49号を祝す〉

          ・・・「―俳句空間―豈」発行人 筑紫磐井   →読む

評論詩〈筑紫磐井氏の祝辞に応う〉

          ・・・高山れおな   →読む

閑中俳句日記(11)

高谷宗敏『高谷宗敏百句私鈔』

          ・・・関 悦史   →読む

俳句九十九折(44)

俳人ファイル ⅩⅩⅩⅥ 藤木清子

          ・・・冨田拓也   →読む

遷子を読む

〔18〕老い父に日は長からむ日短か

・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井   →読む

こしのゆみこ『コイツァンの猫』を読む(上)

放物線の途中に

          ・・・中村安伸   →読む


あとがき           →読む

おしらせ           →読む

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おしらせ(第49号)

おしらせ(第49号)


「各執筆者が週一回ずつ更新するWEB俳句同人誌」
― haiku&me ―

http://haiku-and-me.blogspot.com

榮猿丸、中村安伸、青山茂根のメンバーで、
ブログによる俳句同人誌を始めました。
各担当者によるその日の一句、日々更新を目指しています。
日常の隙間から何かが見えてくれば。
記事へのご意見、コメント等お待ちしています。
(文責 青山茂根)

2009年7月26日日曜日

あとがき(第49号)

あとがき(第49号)


■高山れおな

お蔭様にて、俳句界の真田出丸「―俳句空間―豈weekly」は、本城である「―俳句空間―豈」よりひとあし先に四十九号に達しました。前にも申しました通り、内輪ウケに過ぎず、格別のおもてなしの用意もございませんが、これを機に少し模様替えいたしました。


■中村安伸

四十九号を期に記事執筆に復帰いたしました。しばらくはリハビリモードです。

また、デザインも、よりシンプルに、質実剛健をモットーにリニューアルいたしました。決して手を抜いたわけではございません。


こしのゆみこ『コイツァンの猫』を読む(上) 放物線の途中に・・・中村安伸

こしのゆみこ『コイツァンの猫』を読む(上)
放物線の途中に

                       ・・・中村安伸

『コイツァンの猫』は、こしのゆみこの第一句集である。

この句集におさめられた俳句作品には、私にとってなつかしい思いをまとったものがいくつもある。十年以上前、私が「海程」に投句していたころ、こしの作品の短い鑑賞を書いたことがあった。そのとき読んだ作品のいくつかがこの句集にもおさめられているのである。

また、それ以降も彼女とは何度も句座をともにしており、そのような折に深く印象に残った句のいくつかに、この句集で再び出会うことができた。そうした思い出深い句と、はじめて目にする新鮮な句との間を、行ったり来たりしながら読み進めてゆくうちに、この句集は、私にとって愛すべきものとなった。

句集のタイトル『コイツァンの猫』は、集中の俳句作品から採られてはいない。こしの自身による「あとがき」によれば「コイツァン」とは、彼女が訪れたことのあるイタリアの海辺の町の名であるという。その地名の音が「ひなたぼっこの擬音」のようであるとこしのは言う。おそらくはその海辺の町の風光もあいまって、そのような印象をもつことになったのだろう。ともかく読者は、特別な意味を持たない、乾燥した軽さの音韻をそなえた、すこしばかり洒落たカタカナ語の地名として受け取ればいいのだろう。そしてその地名は「猫」という語にかかっている。日の当たる海辺の町にいる猫である。

こしのの「猫」に対する思い入れは特筆すべきものだ。句集の表紙にもちいさな猫の図像が印刷されているが、これはこしの自身の手による装画であるということだ。それに、私は猫をモチーフにした彼女の作品を他にも見ている。こしのが代表をつとめている「豆の木」という句会のホームページに使われているのは、こしのによる「猫」の彫刻作品(の写真)である。

句集表紙の無表情な猫の絵も印象的だが、ホームページの写真の猫などは、猫であると同時に人間の子供であるような独特の姿をしている。こちらも表情には乏しいのだが、猫とはそもそもそういうものなのかもしれない。擬人化された猫に慣れた目に無表情とうつっただけなのだろう。

当然、猫は彼女の俳句作品の重要なモチーフのひとつでもある。

さみだれや猫の話で眠ってゆく

炎天の帆をはらませて猫駆ける

眠り猫からだまるごと無月かな

月の木に上りし猫の飛びたてり

秋深く猫振り返りながらゆく

猫が光って春一番の大きな木

茶箪笥をこすっていくよ猫の恋

恋猫が鞄をしょって帰ってくる

羽ついている方の子猫よくころぶ

青ばかり使う日子猫抱きにけり

句集にちりばめられた猫の句をこのように拾い上げてみると、こしのが猫を観察する目のこまやかさに感心する。そして、これらの猫は、あるときは無機物のようなものとして、あるときは本能以外をもたない獣として、またあるときは人格を持つ者として、そして時には不思議な力をもつ幻想的な存在として描かれている。

猫という題材ひとつにこれだけ多様なアプローチが試みられているということからも、この句集におさめられた俳句作品の多彩さを垣間見ることが出来るだろう。

さて、この句集は季別に五つの章にわかれている。一つめの章「ゴールデンタイム」と二つめの章「水玉」に夏、三つめの章「セロファン」に秋、四つめの章「ひよこ売り」に冬、最終章「兎島」に春の句がそれぞれおさめられている。

冒頭には、こしのの師である金子兜太が「序にかえて」という文章を寄せている。また、小野裕三が「こしのゆみこをめぐる三つの断章」という跋文を寄せている。

とくに小野の跋文は、長年こしの作品を身近に見てきた盟友としての観察と、詳細な分析に基づくものであり、興味深い指摘が多い。私の意見とはニュアンスの異なる部分もあるが、まずはこの跋文に指摘されたこしの作品の特徴について検討しつつ、私自身の考察を加えてゆきたいと思う。

 *

小野は、三つの重要な指摘を、それぞれ断章というかたちで述べている。順序としては逆になるが、最初に三つ目の指摘から検討してゆくことにしたい。

この断章は「世界を創る眼差し」と題されており、小野は以下のように述べている。〈彼女の観察眼には世にある多くの俳人とは異なったひとつの大きな特徴がある。それは、その視線が「観察者」の視線ではなく、「創世者」の視線であるという点だろう〉この「創世者」の視線とはどのようなものか、具体的な説明はなされていないが、「創世者」という語自体は、こしの作品の特徴のひとつを良くとらえたものだという気がする。

俳人というものは、さらに大きく言えば芸術作品をつくる作者というものは、小野の言葉を借りれば「観察者」であると同時に「創世者」であるのだと思う。作品を創るということは、世界を観察し、再構築するということである。再構築を「創世」と呼んでもよい。もちろん世界とは外部にあるものばかりではなく、作者自身の内面世界を含んでいる。

そして「観察」と「再構築=創世」は表裏一体なのであり、こしのが「創世者」として傑出しているとしたなら、それは彼女が独特の「観察者」として傑出していることをもまた、意味するのである。

「観察」と「創世」におけるこしのの傑出した独自性は、彼女が絵画や彫刻といった表現に慣れ親しんでいることと無縁ではないと思う。たとえば猫の彫刻を作るとき、彫刻家は猫を観察し、再構築するわけであるが、当然のことながら彼は、神が猫を創るのとは異なる手順で猫を創るのである。

彫刻家が創った猫に、見るものを驚かせるような独特の猫らしさがあらわれているとするなら、それは、まずもって彫刻家の観察眼の鋭さ、独自さ、つまり他の人が見ていない部分を見ているということを意味する。

そして、猫を観察し、再構築することばかりが彫刻家の仕事ではない。彼はモチーフである猫を観察する以前から、世界のさまざまな事象を観察し、抽象したもの、を自らの内部に蓄積させているはずである。作者の内部に経験として降り積もった世界の断簡は、独特の手さばきによって、モチーフである猫とともに織り上げられる。そのようにして創世された作品は、猫であると同時に「世界」でもあり、見るものがそれを通して世界に触れることの出来る装置なのである。

彫刻家であれ俳人であれ、その作品の豊かさを決定するのは、蓄積された経験そのものの質と量。そして、それらを再構築するための手つきのあざやかさ、独自さである。質の高い、独自な経験を蓄積するためには、観察眼の鋭さと独自性が必要となる。

こしのの場合は、彫刻、絵画、俳句といった複数の表現手段の間をいったりきたりしつつ、独自の観察眼と、手つきを身につけてきたのだろうと想像する。

独自の観察眼と創世の手つきが活かされた作品として、以下を挙げたい。

青林檎放物線の途中に手

夏寒き父仁丹の光のみこむ

夕焼けて鳥のなる木にいそぐかな

空色にからまりからまり鶴来る

バス空になる時ふるえ春の月

一句め、投げられた青林檎とそれを受け取るために差し出された手、本来の景としてはそのようなところだろう。放物線とは、投げられた青林檎を追うことによって見えてくる仮構としての曲線だが、こしのは最初にこの線を引いてしまった。さしだされた手は、林檎を受け取るという目的から切り離され、唐突に突き出されたような印象を与える。二句め、仁丹そのものではなく「光」を呑むのだという切ない把握。三句め、木に鳥があつまるのではなく「鳥のなる木」であるという倒錯した認識の奇怪な面白さ。そして四句めは、空を背景にやってくる鶴を、空色の物質の中にからめとられながら飛んでいると把握した。これは、奥行きの無い平面の上に絵を描くときの感覚を基盤にしたものであろう。

これらの作品にあらわれているこしののユニークさは、観察と再構築(=創世)との間にある「把握」あるいは「認識」と呼ぶべき部分の独自さであるという気がする。

彫刻にせよ、俳句にせよ、作者のコントロールの外にあるさまざまな要素。たとえば彫刻なら石や木、粘土といった材料、俳句であれば形式や言葉、そうしたものが、そのまま偶然性に満ちた世界への窓口となることを忘れてはならない。俳句の場合は材料としての言葉をいかに活用するかであるが、こしのは、そのような点においても冴えを見せる。

冒頭にも少し述べたが、以前(1997年)私が「海程」に「こしのゆみこ作品私見」という文章を掲載したとき、もっとも惹かれる作品として挙げたのが以下の三句であり、いずれもこの句集におさめられている。

花合歓に天衣無縫のゆれており

酸漿の鳴る空修理しなければ

理科室の純粋な砂糖黄落す

これらの句について、私は当時以下のように書いていた。〈「意味」より前に、言葉じたいが本来持っているのは、抽象的で立体的な「イメージ」である。ゆれる「天衣無縫」や空を「修理」することなどは、言葉本来のイメージの広がりをたくみに組み立て、活かした表現である。「純粋な砂糖」は意味として指し示される具対物があるのだが、同時に「純粋」という言葉が強いイメージを喚起する。「花合歓」の句のおおらかさ、「酸漿」の句の繊細さ、「理科室」の句の透明感、どれをとってもこしのさんの言葉に対する感受性の確かさを保証するものと言える。〉「こしのゆみこ作品私見」

材料としての言葉が意味以前に持つイメージの広がり。その活用の巧みさをこれらの作品に見たのであろう。

同様の印象を与える句をさらにさがしてみた。

炎帝の巻尺なにもかも測る

水の月さっきこわした花のかけら

セロファンを曇らせるのはどの桔梗

千年の桜の中に手を入れる

わがあたま穀雨の中をゆっくりす

青ばかり使う日子猫抱きにけり

一句めの「巻尺なにもかも測る」は炎帝のイメージから導かれたフレーズであり、三句目も実景として読むより、桔梗のイメージから「セロファンを曇らせる」が導き出されてきたと読むほうが良いと思う。これらの句はいずれも、言葉のイメージを編み上げながら、心象風景を描き出そうとしたものだろう。

すずしろすずしろといい澄んでいゆく

冬薔薇ひとひらひとひらえりあし

「すずしろすずしろ」あるいは「ひとひらひとひら」というリフレインは、言葉という材料の属性のひとつである音韻を活かしたものである。

巧みな比喩もまた、材料としての言葉の活用例の範疇に入るものである。比喩の句には以下のようなものがある。なかでも直喩の句を中心に選んでみた。

木下闇のような駄菓子屋ちょうだいな

おばさんのような薔薇園につかれる

海しずかヌードのように火事の立つ

芽ぐむものオキシドールの泡立つ傷

風船を抱えるように誕生す

一句め「木下闇のような駄菓子屋」はこしのの実家の雑貨屋のイメージだろうか、やさしくもあり、すこしばかり薄気味悪くもある。またそれが心地よくもある。このような、夏の日陰のひんやりとした湿気のような雰囲気がこしのの作品には散見される。二句め「おばさんのような薔薇園」もかなり実感のある比喩であるが、諧謔としてはすこし直接的すぎる気もする。

三句めは句会で出会った句であるが「ヌードのように火事の立つ」という比喩は衝撃的であった。「裸」は季語だから避けたという面もあるかもしれないが、それ以上に「ヌード」の語のまとっているニュアンス――官能的、商業的、いかがわしい、美しい、等々――が、火事というものの普段は見えない一面をあらわにしていると感じた。

比喩とは、二つの語がそれぞれに持っている立体的なイメージの共通部分を提示することである。言葉を重ねることによってイメージは広がるのではなく、限定されるのである。

しかし、「ヌード」と「火事」というふたつの語の共通部分は、やや広すぎるようでもある。そこで、とりあわせられた「海しずか」というフレーズに着目してみる。とりあわせは、語と語の関係としては比喩よりずっとゆるく、自在な活用が可能である。

この句においては「ヌード」と「火事」に「海しずか」を加えた三者の共通部分が鋭く立ち上がってくる。それは絵画のように静謐で、エロティックにゆらぐ炎の立ち姿である。

(下につづく)


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■関連書籍を以下より購入できます。



俳句九十九折(44) 俳人ファイル ⅩⅩⅩⅥ 藤木清子・・・冨田拓也

俳句九十九折(44)
俳人ファイル ⅩⅩⅩⅥ 藤木清子

                       ・・・冨田拓也

藤木清子 15句


きりぎりす晝が沈んでゆくおもひ

こめかみを機関車くろく突きぬける

逝くものは逝きて巨きな世がのこる

虫の音にまみれて脳が落ちてゐる

元日のそらみづいろに歯をみがく

落葉ふりひとあやまちを繰りかへす

ひとりゐて刃物のごとき昼とおもふ

春晝を沈むリフトにひとりなり

うすもののどこかゆるみてひとやさし

わかれきて硬きつめたき水を飲む

しろい晝しろい手紙がこつんと来ぬ

戦死せり三十二枚の歯をそろへ

晩秋を病み水薬のごとき日暮れ

曇日の封筒花のごとしろし

黙禱のしづけさ空にとりまかれ




略年譜


藤木清子(ふじき きよこ)

生年不詳

昭和6年(1931) 後藤夜半主宰の「蘆火」に、広島より藤木水南女(みなじょ)の名で投句

昭和9年(1934) 「蘆火」廃刊

昭和10年(1935) 日野草城の「旗艦」、「天の川」「京大俳句」などに投句

昭和11年(1936) 「旗艦」に拠る 9月より藤木清子と改める

昭和12年(1937) 神戸に転居 「旗艦神戸句会」に参加

昭和16年(1940) 「旗艦」1月号にエッセイ掲載 『現代名俳句集 第2集』刊 以後消息不明

没年不詳



A 今回は藤木清子を取り上げます。

B この作者は現在では割合有名といってもいいでしょうか。

A 一般的にはさほど有名ではないのでしょうが、俳句の世界では宇多喜代子さんや川名大さんなどの尽力により、現在では割合その名が知られているところもあるのではないかと思われます。

B この作者について書かれた評論は、私の知る限りではおおよそ次の通りになります。

・宇多喜代子「藤木清子」 『イメージの女流俳句』(弘栄堂書店 1994)

・宇多喜代子 講演「藤木清子とその周辺」 『草苑』(1999年7月 353号)

・中村苑子「みずから孤立して消えて行った女流俳人」 『俳句礼讃』(富士見書房 2001)

・川名大 『現代俳句 上』(ちくま学芸文庫 2001)

・川名大「藤木清子の人と作品」「戦争俳句と性愛俳句」 『モダン都市と現代俳句』(沖積舎 2002)

・宇多喜代子「新興俳句と戦時下の俳句」 『NHK人間講座 女性俳人の系譜』(日本放送出版協会 2002)

・宇多喜代子『わたしの名句ノート』(富士見書房 2004)

・桂信子「桂信子の俳句史がたり〈9〉」 『草苑』(2004年1月 407号)

・川名大「解題」 『現代100名句集 第4巻』(東京四季出版 2004)

・佐藤清美「孤独の孤独―藤木清子」 『鬣』(2007年11月 25号)

・宇多喜代子「藤木清子」 『鑑賞女性俳句の世界 第3巻』(角川学芸出版 2008)

・栗林浩「藤木清子―新興俳句の女流」 『続・俳人探訪』(文学の森 2009)

A こうみると、割合評論の数については、少なくないと言ってもいいかもしれませんね。

B 作品について纏められているものを挙げると、次のようになります。

・『現代名俳句集 第2集』(阿部青鞋編 昭和16年)

・『女流俳句集成』(宇多喜代子、黒田杏子編 立風書房 1999)

・『現代100名句集 第4巻』(東京四季出版 2004)

・『女性俳句の世界 第3巻』(角川学芸出版 2008)

・栗林浩「藤木清子―二百句抄」 『続・俳人探訪』(文学の森 2009)

A 作品についても、こうみると割合しっかりと纏められているようですね。

B 藤木清子の略歴についてですが、生没年ともに不詳で、生年について推定されるところでは明治30年代前半の生まれではないかと言われています。俳句については、まず、昭和6年(1931)頃に、後藤夜半が選をしていた「蘆火」に投句しており、その後、昭和10年(1935)になると、日野草城の「旗艦」が創刊され、そこへと投句を始めます。

A 「蘆火」は「ホトトギス」の衛星誌ともいうべき俳誌であったそうですが、斬新な誌面づくりゆえに青年が多く集まるようになり、時代の歩みと共に新興俳句的な要素が日増しに強くなっていったそうで、「ホトトギス」や時代の流れなどを慮って、昭和9年に一旦解散、そして終刊後、同誌に拠っていた人々が、昭和10年に創刊された「旗艦」へと流れ込むかたちで参加してゆくことになったとのことです。

B その「蘆火」から「旗艦」へと移って行った人々の流れの中に、藤木清子の存在もあったというわけですね。

A その後、藤木清子は昭和12年に広島から神戸に転居し、「旗艦神戸句会」に参加、神生彩史、笠原静堂、三保鵠磁、棟上碧想子、平畑静塔、波止影夫などといった作者たちと切磋琢磨するようになったそうです。

B この広島から神戸への転居の背景には、夫との死別が関係しているそうです。

A そして、この「旗艦神戸句会」の関係から、桂信子や伊丹三樹彦とも会うことになったとのことです。

B その後、数年ほど句作を続けていたわけですが、作品としては昭和15年10月号が最後となり、昭和16年「旗艦」1月号に文章が掲載されて以後、その名前は見られなくなります。

A 桂信子の「桂信子の俳句史がたり〈9〉」(『草苑』2004年1月 407号)によると〈藤木さんの再婚が決まったのは40年でした。嫁ぎ先は阪神間の旅館でしたが、俳句をきっぱりやめるのが結婚の条件とのこと。神生さんは「結婚なんかするな」と反対しました。でも藤木さんは「女の心は男の人には分からないのよ」となぞめいた言葉を残し、去っていきました。〉とのことです。

B こうみると、結局俳人として活動していたのは、後藤夜半の「蘆火」に投句し始めた昭和6年(1931)から昭和16年(1940)までのおよそ9年ほどということになるようですね。

A 栗林浩さんの労作「藤木清子―新興俳句の女流」と「藤木清子―二百句抄」(『続・俳人探訪』文学の森 2009)によれば、藤木清子の発表された作品の数は合計でおおよそ〈四百五十余句〉ではないかとのことです。

B では、その作品について見てゆきましょうか。

A まず、昭和6年の「蘆火」における作品について見てみることにしましょう。この時期は、藤木清子という名ではなく「藤木水南女(みなじょ)」という名で投句しており、〈曼珠沙華抱へて溝を飛びにけり〉〈枕辺に飴玉をいて風邪寝かな〉という作品があるようです。

B この時期の資料については、現在ではほとんど残っていないとのことです。しかしながら、この2句の作品だけを見ると、その作品の出来はさほど悪くはないとはいえ、どちらかというと平凡といっていいような印象の句ですね。

A 榎島沙丘が、のちの「旗艦」昭和15年5月号で藤木清子について〈藤木清子には水南女と称した永い伝統時代があった。最愛の良人に死別されてから、家庭的に淋しい生活が初まり、俳句的には華やかな新興俳句時代が始まつた。今日彼女の活躍の基礎を成すものは永い伝統時代に培はれた手堅い表現技能であり、その詩情は彼女の淋しくも美しい寡婦の生活から滾々と生まれ出る〉と評しています。

B この昭和6年から廃刊になる昭和9年あたりの3、4年の期間というのが、榎島沙丘のいうところの藤木清子における「伝統時代」の時期にあたるというべきでしょうか。

A 昭和9年の「蘆火」廃刊後の昭和10年になると、藤木清子は「旗艦」、「天の川」「京大俳句」などに投句を開始するようになります。

B そして昭和11年には「旗艦」のみを拠点とし、名前も「藤木水南女」から「藤木清子」へと変更します。

A この昭和10年の作品を見ると〈古衾悪魔に黒髪摑まれぬ〉〈麦の穂や海の深浅あきらかに〉〈家あつし身ごもる妻の声黄なる〉〈心の瞳砥ぎつ幾夜ぞ虫鳴けり〉、また昭和11年には〈春日没るひかりにくろく人うごめく〉〈あつき夜が四角な壁となりて責む〉〈空は青磁ましろき蝶の孵りたる〉〈暖炉燿りダイヤの稜に星棲める〉〈飢えつゝも知識の都市を離(か)れられず〉〈わが墓標無明の行路(みち)のいや果てに〉〈しろき月黄金(きん)となりゆく若葉かな〉〈五月来ぬ湖の青きにのりて来ぬ〉〈蚊の墜つる静かな音が身に韻(ひび)く〉といった作品が見られます。

B この時期となると、「悪魔に黒髪摑まれぬ」「妻の声黄なる」「心の瞳砥ぎつ」「くろく人うごめく」「空は青磁ましろき蝶」「ダイヤの稜」「知識の都市」「しろき月黄金(きん)となりゆく」「湖の青き」など、その作品の上にはやはり新興俳句的な雰囲気が強く感じられるようになってくるようですね。

A 「黒髪」「心の瞳」といったやや空想的、もしくは心象的な句や、黄、黒、青、白、金といった原色による色彩感覚の強さが、当時の新興俳句の表現に近しいものがあります。

B 続いて、昭和12年の作品ですが〈燕来ぬ煙都のふかく澄める日に〉〈きりぎりす晝が沈んでゆくおもひ〉〈兵征けりしろき峰雲ゆるぎなく〉〈さくら咲き過去が重たくもたれよる〉〈ひとり身に馴れてさくらが葉となれり〉〈香水よしづかに生くるほかなきか〉〈草青く雲と捨て猫しろししろし〉〈からたちは鋭し夫人うるはしき〉〈月涼しよきおもひ出をもたぬわれ〉〈幸福な人はつれなくうつくしき〉〈少女の四肢ほそくかしこく冷房に〉〈針葉のひかり鋭くソーダ水〉〈たそがれの海に壓されて汽車を待つ〉〈こめかみを機関車くろく突きぬける〉〈蓼ほそくのびて颱風圏に入る〉〈粉飾の下にさびしい血が通ふ〉〈逝くものは逝きて巨きな世がのこる〉〈灯を消してより悔が大きくなつて来る〉といった作品がこの年には見られます。

A この昭和12年に、広島から神戸に転居したという事情も作用しているのか、「煙都」「香水」「冷房」「ソーダ水」「汽車」などの名詞から、やはり全体的に都市における作品が目立つようですね。

B 神戸ですから、当時としては非常にモダンな都市ということになるはずです。

A また、この昭和12年に「旗艦神戸句会」にも参加することになりますから、メンバーである神生彩史、笠原静堂、三保鵠磁、棟上碧想子、平畑静塔、波止影夫などからの影響といったものも小さなものではなかったはずであると思われます。

B 他には山口誓子の影響も考えられるかもしれませんね。

A あと、作品の上には、全体的に孤独な雰囲気が強く感じられます。

B 〈きりぎりす晝が沈んでゆくおもひ〉〈さくら咲き過去が重たくもたれよる〉〈ひとり身に馴れてさくらが葉となれり〉〈月涼しよきおもひ出をもたぬわれ〉〈幸福な人はつれなくうつくしき〉〈蓼ほそくのびて颱風圏に入る〉〈粉飾の下にさびしい血が通ふ〉〈逝くものは逝きて巨きな世がのこる〉〈灯を消してより悔が大きくなつて来る〉ですから、確かに非常に強い孤独感の存在が感じられます。

A 先程にもふれましたが、神戸に転居したのは夫との死別によるものであったそうです。

B そういった事情が、このような作品の背景として強く影を落としているように思われます。

A また〈きりぎりす晝が沈んでゆくおもひ〉といった句についても、やや重たい内容が描かれていますが、「晝は沈んでゆく」という表現にやや特異なところがあり、表現の正確さということを考えると、本来的には沈んでゆくのは「昼」ではなく「太陽」ということになるはずですね。

B それを「昼」という時間や空間そのものが、そのまま沈んでゆくようであると表現したわけですから、なかなか大胆な表現ではないかと思います。

A 藤木清子には、意識的な新興俳句における表現の手法の駆使が確認できるというわけですね。

B このような孤独感と、新興俳句的な手法により〈こめかみを機関車くろく突きぬける〉といった超現実的な表現を生み出すことができたのでしょう。

A こういったややシュールともいうべき表現については、当時、非常に斬新な表現であったであろうということは想像に難くないですね。

B おそらく当時このような表現を成し得る俳人は、ほとんど存在しなかったのではないかと思われます。

A まるで「機関車」の存在そのものが、弾丸のように感じられるような迫力もあります。

B 「くろく」の「黒」の色彩感覚についても新興俳句的というべきでしょうか。

A 続いて、昭和13年には〈虫の音にまみれて脳が落ちてゐる〉〈きりぎりす視野がだんだん狭くなる〉〈水仙に元日重く来てゐたる〉〈元日のそらみづいろに歯をみがく〉〈落葉ふりひとあやまちを繰りかへす〉〈くろかみのおもくつめたき日のわかれ〉〈あきらめて縫ふ夜の針がひかるなり〉〈ひとりゐて刃物のごとき昼とおもふ〉〈春宵の自動車平凡な人と乗る〉〈春晝を沈むリフトにひとりなり〉〈春宵の林檎のはだへゆるみゐる〉〈春の夜の夫人ゆるやかに着こなせり〉〈からたちのやはらかきとげ晝ながし〉〈戦死報夕月いまだひからざる〉〈香水の香のいきいきとふとさびし〉〈夏ふかしおのが匂ひと晝をねむる〉〈うすもののどこかゆるみてひとやさし〉〈わかれきて硬きつめたき水を飲む〉〈しろい晝しろい手紙がこつんと来ぬ〉〈晝寝ざめ戦争巌と聳えたり〉〈わが怨り大地をうつてかへりたり〉〈かなしみのつもりつもりて明るくなる〉〈しら雲に夫人幸福おそれたり〉といった作品があります。

A なんというか全体的に戦時における寡婦の孤独感というか閉塞感が強く感じられますね。

B それが〈虫の音にまみれて脳が落ちてゐる〉〈きりぎりす視野がだんだん狭くなる〉〈水仙に元日重く来てゐたる〉〈あきらめて縫ふ夜の針がひかるなり〉〈ひとりゐて刃物のごとき昼とおもふ〉〈からたちのやはらかきとげ晝ながし〉〈わかれきて硬きつめたき水を飲む〉〈晝寝ざめ戦争巌と聳えたり〉〈わが怨り大地をうつてかへりたり〉などといった作品における、感覚の痛ましいまでの鋭さの表れの理由であるように思われるところがあります。

A 〈ひとりゐて刃物のごとき昼とおもふ〉などは本当にそういった独り身の切迫した雰囲気が感じられますね。

B 昼の光そのものが刃物のように感じられるという、まさしく身を切るような孤独感そのものでしょうか。

A また、その一方で〈春宵の林檎のはだへゆるみゐる〉〈春の夜の夫人ゆるやかに着こなせり〉〈うすもののどこかゆるみてひとやさし〉といったやや女性的な柔和さを感じさせる句の存在も確認できます。

B 〈からたちのやはらかきとげ晝ながし〉という句もありますから、この年における作品には、鋭さと柔らかさの両方兼ね備えられているようにも感じられますね。

A 〈かなしみのつもりつもりて明るくなる〉という句の存在もありますから、それこそ孤独を突き抜けた後に訪れる反作用としての明るさとでもいうのでしょうか、そういった感覚がこのような柔らかな印象の作をもたらす結果となっていたのかもしれません。

B 日野草城に〈春の灯や女は持たぬのどぼとけ〉〈朝すずや肌すべらして脱ぐ寝間着〉〈翩翻と羅を解く月の前〉といった句がありますから、これらの作品からの影響といったものも考えられるところがあるかもしれません。

A 「旗艦」は草城の俳句誌でしたから、当然、藤木清子もその作品については読んでいたはずです。

B そう考えると、藤木清子の作品に強い「女性性」といったものが漂っているのは、寡婦という境涯性のみならず、草城からの影響であったということも考えられそうですね。

A 草城には他に〈砥ぎ上げし剃刀にほふ花ぐもり〉〈包丁の含む殺気や桜鯛〉〈朝寒や歯磨匂ふ妻の口〉などといった作品がありますから、これらの句も藤木清子の〈ひとりゐて刃物のごとき昼とおもふ〉〈元日のそらみづいろに歯をみがく〉という作品に影響を与えているのではないかと思われます。

B また、このような草城から藤木清子への流れを見ると、後年の桂信子への影響というものも小さくないように思われるところがありますね。

A 桂信子には〈ゆるやかに着てひとと逢ふ蛍の夜〉〈やはらかき身を月光のなかに容れ〉〈衣ぬぎし闇のあなたにあやめ咲く〉といった作品があり、やはり両者の句との類縁関係といったものが強く感じられるところがあるようです。

B また、藤木清子の表現から感じられる柔和さには、ひらがなの表現による効果というものが大きく作用しているのではないかという気もします。

A 確かに藤木清子の作品には、全体的にどちらかというとひらがなによる表記が目立ちますね。

B これは、一体どこからの影響なのでしょうか。

A 藤木清子には〈しろい晝しろい手紙がこつんと来ぬ〉といった句の存在があり、この句は、やはり単純に昭和6年の高屋窓秋の〈頭の中で白い夏野となつてゐる〉が強く影響していると考えていいと思います。高屋窓秋の作品には、ひらがなを多用した表現が少なくありませんから、藤木清子のひらがな表記による手法というものは、この高屋窓秋からの影響と考えることができるのではないでしょうか。

B そういえば、確かに、高屋窓秋にはひらがなを多用した表現が少なくありませんでしたね。

A また、藤木清子の作には、他に口語やリフレインといった表現いくつも見られますから、そういった点についても窓秋からの影響といったものを感じさせるところがあります。

B 窓秋には〈ちるさくら海あをければ海へちる〉〈降る雪が川の中にもふり昏れぬ〉といった作品の存在がありました。

A こうみると藤木清子の作風の背景には、日野草城や高屋窓秋からの影響というものが、小さなものではなかったのではないかということが考えられそうですね。

B また〈しろい晝しろい手紙がこつんと来ぬ〉については、「こつんと」という擬音が、神生彩史の〈秋の晝ぼろんぼろんと艀ども〉における「ぼろんぼろん」という擬音の表現と関係している可能性が考えられそうです。

A 彩史の作品からは、擬音のみならず「秋の晝」にも「晝」の作品の多い藤木清子の作風との共通項が確認できるように思われます。こう見ると、やはり藤木清子の作品の成立事情には、周囲の環境からの影響といったものが小さくなかったとみていいでしょう。

B では、続いて昭和14年の作品について見てみましょう。〈戦争と女はべつでありたくなし〉〈深秋の悟りきれない旅をする〉〈征子寡黙なりすき焼きぢいと煮えつまる〉〈短日の人妻の素足なまなまし〉〈元日のかたい刷子に歯をみがく〉〈戦死せり三十二枚の歯をそろへ〉〈縁談をことはる畳なめらかに〉〈春晝の影も涙をふいてゐる〉〈いのちあり果汁琥珀に透きとほり〉〈くろかみの重たく癒えて蝶ひかる〉〈戦死者の寡婦にあらざるはさびし〉といった句が見られます。

A やはり、この年の句も戦時中における寡婦としての境涯性が強く感じられますね。

B 現実の重さというものがひしひしと感じられるようで、非常に痛々しいものがあります。

A 〈戦死せり三十二枚の歯をそろへ〉の表現の生々しい迫力には、圧倒されるものがありますね。戦死者をこのような歯にのみ視点を向けて表現したものは、皆無ではないかと思われます。

B では、最後に昭和15年の作品を見てゆきましょう。

A 「旗艦」昭和15年10月号を最後に、藤木清子の作品発表は終了ということになるようです。

B この年の作品としては〈友うつくし恋は出来まじとさげすまれ〉〈人とほき今宵の衣帯とかずねる〉〈晩秋を病み水薬のごとき日暮れ〉〈運命にもたれをんなのうつくしき〉〈編隊機轟々と少女健淡なり〉〈元旦の孤独を映画館にもまれ〉〈厭世の柔かき軀をうらがへす〉〈シネマ観るひとふしの過去鮮かに〉〈声たてゝひとり笑へば晝きびし〉〈人恋へば夕べ笹の葉清し清し〉〈曇日の封筒花のごとしろし 〉〈胸に手を置けば虫の音通ひ来ぬ〉〈灯を消して孤独の孤独たのしきかな〉〈友はみな母しんしんと単衣縫ふ〉〈むしろかなし小さきよろこび背を貫けば〉〈人土に還へり星いきいきとわれにふる〉〈秋あつし宝刀われにかゝはりなき〉〈ひとすぢに生きて目標うしなへる 〉といったものがあります。

A やはり強い孤独感というものの存在は、紛れのないものですね。

B 「旗艦」昭和15年10月号の〈ひとすぢに生きて目標うしなへる 〉を最後に作品の発表は見られなくなります。

A 先程にもふれましたが、桂信子の「桂信子の俳句史がたり〈9〉」(『草苑』2004年1月 407号)によると〈藤木さんの再婚が決まったのは40年でした。嫁ぎ先は阪神間の旅館でしたが、俳句をきっぱりやめるのが結婚の条件〉であったとのことです。

B さて、藤木清子の作品について見てきました。

A 藤木清子の作品の特徴としては、戦中という時代の中における寡婦であることの厳しい境涯性とそれに伴う危ういまでに鋭利な感覚と情念の強さ、そして、そこに都市である神戸のモダンな感覚と日野草城、高屋窓秋、神生彩史などの新興俳句の手法が加わることによって形成された作風であるということができるでしょう。

B そして、その藤木清子の作者としての真価が発揮されたのは、「旗艦」における昭和10年あたりから俳句をやめる昭和15年までということになるようですね。

A 藤木清子の作品のいくつかについては、現在においても、困難な時代における表現者としての宿命性と、それゆえに表現されることとなった言葉の峻烈なまでの強さというものを、いまなおまざまざと感じさせられるものがあるようです。



選句余滴


藤木清子


枕辺に飴玉をいて風邪寝かな

古衾悪魔に黒髪摑まれぬ

麦の穂や海の深浅あきらかに

心の瞳砥ぎつ幾夜ぞ虫鳴けり

春日没るひかりにくろく人うごめく

あつき夜が四角な壁となりて責む

暖炉燿りダイヤの稜に星棲める

飢えつゝも知識の都市を離(か)れられず

わが墓標無明の行路(みち)のいや果てに

しろき月黄金(きん)となりゆく若葉かな

五月来ぬ湖の青きにのりて来ぬ

蚊の墜つる静かな音が身に韻(ひび)く

燕来ぬ煙都のふかく澄める日に

ひとり身に馴れてさくらが葉となれり

草青く雲と捨て猫しろししろし

からたちは鋭し夫人うるはしき

月涼しよきおもひ出をもたぬわれ

幸福な人はつれなくうつくしき

針葉のひかり鋭くソーダ水

あきさめのビル街ふかくわがゆける

寂寥の指紋べたべた雲はしろし

短日の蒼天に月よみがへる

蓼ほそくのびて颱風圏に入る

粉飾の下にさびしい血が通ふ

きりぎりす視野がだんだん狭くなる

水仙に元日重く来てゐたる

くろかみのおもくつめたき日のわかれ

あきらめて縫ふ夜の針がひかるなり

春宵の自動車平凡な人と乗る

春宵の林檎のはだへゆるみゐる

木々芽吹き将士しづかに還り来る

戦死報夕月いまだひからざる

夏ふかしおのが匂ひと晝をねむる

かなしみは遠しわれのみの陽ぞ燃ゆる

僧房にくるしきこひをのみくだす

虫啼けり太く短く生きたしと思ふ

晝寝ざめ戦争巌と聳えたり

わが怨り大地をうつてかへりたり

かなしみのつもりつもりて明るくなる

戦争と女はべつでありたくなし

深秋の悟りきれない旅をする

短日の人妻の素足なまなまし

元日のかたい刷子に歯をみがく

春晝の影も涙をふいてゐる

いのちあり果汁琥珀に透きとほり

くろかみの重たく癒えて蝶ひかる

友うつくし恋は出来まじとさげすまれ

人とほき今宵の衣帯とかずねる

運命にもたれをんなのうつくしき

編隊機轟々と少女健淡なり

元旦の孤独を映画館にもまれ

厭世の柔かき軀をうらがへす

シネマ観るひとふしの過去鮮かに

声たてゝひとり笑へば晝きびし

人恋へば夕べ笹の葉清し清し

胸に手を置けば虫の音通ひ来ぬ

灯を消して孤独の孤独たのしきかな

友はみな母しんしんと単衣縫ふ

むしろかなし小さきよろこび背を貫けば

人土に還へり星いきいきとわれにふる

秋あつし宝刀われにかゝはりなき

ひとすぢに生きて目標うしなへる



俳人の言葉

藤木清子は、うまいと褒められる俳句を残した俳人ではなかったし、俳句を楽しんだ人でもなかった。ただ、飾ることなく愚直に「自分の今」と「時代の今」を書き残した女性であった。数少ない新興俳句の女性俳人として、俳句作品史にその名を銘記したい一人である。

宇多喜代子 「藤木清子」 『鑑賞 女性俳句の世界』(角川文芸出版 2008)


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2009年7月25日土曜日

遷子を読む(18)

遷子を読む〔18〕

・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井


老い父に日は長からむ日短か
     『山河』所収

深谷:昭和43年の作で、「山河」の冒頭近くに収められています。結局、この父君は翌年の年末に他界するので、まさに最晩年の父を詠んだ句になります。

遷子作品には、張り詰めた雰囲気に包まれた闘病句、ヒューマンな怒りを秘めた風土句(そこに生きる人間を対象にした句も含む)、そして重厚な印象の自然詠などがある一方、穏やかな安らぎを覚える家族詠があります。第3回で採り上げた「銀婚を」の句もこの系譜に属するものですし、どうも私はこうした作品に惹かれる傾向があるようです。

この句でも、一日の日課など何もないであろう、老境の父を思いやる遷子の眼差しにとても温かいものを感じます。そしてその温かさは、俳句の上だけの俄か作りのあざとい「(謂わば)おためごかしの愛情」からは程遠い、真実味が溢れています。

それを際立たせているのは、下五に斡旋された「日短か」だと思います。健常な一般人からすれば、日の暮れの早さを感じる季節であるのに、老父にはそうでないのだ、という遷子の想い。表現形式だけ見れば、極めてシンプルな対句(的)構造ですが、それが遷子の胸のうちに去来した想念を、詩情にまで高めていると思います。典型的二句一章形式の作品であり、前々回に筑紫さんが指摘された「散文構造(作品)」の例外に位置付けられるのでしょうが、やはり遷子らしい句だと思います。

中西:同居の父を詠っています。開業医ですから、お茶の間と診察室を行き来して毎日暮らしているわけです。昼ご飯も家族と一緒にお茶の間で食べていたでしょう。お勤めの人より父に接している時間も長く詳しいことを考慮しますと、「日は長からむ」は実際の父の日常を描くと共に、為すべきことがない父の内面に心を寄せているのがわかり、深谷さんのおっしゃる優しさ、真実性に深く共感します。

しかし、どうも「日は長からむ日短か」と言いますと、理が働いているように見えるところがあって、少し損をしていないでしょうか。

遷子の心の奥底にはずっと石田波郷があったのではないかと思っています。このような境涯俳句を見ますと、やはり人間探究派に繋がっている人と思えてきます。一方で馬酔木の一つの顔でもある風景句作者でもあるのですが。

原:一般的に、家族詠は個人的感慨に陥りやすく、普遍的な共感を得難いと言われます。これにはほとんど同感で、少々荒っぽいもの言いをしますと、他人の家庭生活を披瀝されて何が面白いのか、という憎まれ口をたたきたくなる場合も間々あるのです。ただし、父・母・子・妻などを主題にして、その存在の普遍性やすぐれた典型を表現し得ている作品もあるわけで、それは、作者がどれほど客観性を持てるかという差のようです。

遷子にも成功作と失敗作があるでしょうが、掲出句においては、父の老い、そしてその無聊の日々を捉える目は冷徹、客観的なものだと思います。と、こういったからと言って、もちろん子としての情愛があるとかないとかいう次元の問題ではありません。作家の意識に関ることです。

この句、たとえば「老い父に一日は長し日短か」と断定的にすることも出来るでしょうが、「長からむ」と推量にとどめたところに、思いやっている風情の優しさが滲みます。

一つ付け加えますが、ここでの日の「長さ」と「短さ」とを、言葉の対比の面白さとして受け取ることだけはしたくないですね。深谷さんは良き理解を示して下さいました。

窪田:短日が老いた父にとっては長い一日だというフレーズは胸に迫ります。深谷さんのおっしゃるとおり遷子の温かさが伝わってきます。そしてそれは、自分の父だけに向けられた感情から他の老人(遷子が診ている人々)へ、そして全ての人間へと普遍化されていくような気がしました。黒澤明監督の作品『生きる』を思い出したのは私だけではないでしょう。

ところで、私は、季語「日短か」と置けば「老い」は省略できると思ってしまいます。藤田湘子に指導を受けたせいかもしれません。もっとあっさり表現してしまうでしょう。

他の結社の方々と同じ作者の同じ句を鑑賞していく面白さを感じています。

筑紫:父君は昭和45年に86歳でなくなられ、母堂は遷子最後の時にも存命されていました(当時87歳)。

雪降るや経文不明ありがたし (昭和45年)
冬青空母より先に逝かんとは (昭和50年)

長寿の家系にあっただけに、遷子は、「両親の年齢まで20年は生きるつもりでした」(9月2日 古賀まり子宛書簡)「昨年までは80数歳まで長生きする積りでした」(不明 渡辺千枝子宛書簡)などと述べています。自分とは言わないまでも、年を取った人の老後の寂寞とした姿をこのように捉えていたのです。しかし、68歳の遷子は長男が戻ってきて医院を手伝い、旅行などこれからやりたいことを沢山しようとしていた矢先の死でした。この句を詠む時は知るよしもありませんでしたが、父のような余生はないことを思い浮かべたときに口惜しい思いがあったことは想像に難くありません。

深谷さんが言われているように「散文構造(作品)」の例外だと思います、そして必ずしも多くはない例のように感じます。とりわけ普通の二句一章構造が片方の章をアイマイしにしておく詠み方が多い(湯豆腐やいのちのはてのうすあかり 久保田万太郎)のに対し、深谷さんが指摘のような対句構造であるだけに、「切った」という感じを強く出し、容易に一句一章の姿を思い浮かばせるように思うのです。例えばこんな構造をすぐ思い浮かべるでしょう。

日短か(なれど)老い父に日は長からむ

その意味ではやはりホトトギス系の単純ではあるが茫洋とした表現で芸を見せる俳句とは違うようです。短歌的構造がどこか残っているように感じられます。

       *       *       *

話は変わりますが、今回の鑑賞はメンバーの意見がずいぶん分かれたところで、「極めてシンプルな対句(的)構造ですが、それが遷子の胸のうちに去来した想念を、詩情にまで高めている」(深谷)と積極的な評価がある一方で、他のメンバーはこの句の読みに不安を感じ、「ここでの日の『長さ』と『短さ』とを、言葉の対比の面白さとして受け取ることだけはしたくない」(原)とその不安を読者側に求めるのに対し、「どうも『日は長からむ日短か』と言いますと、理が働いているように見えるところがあって、少し損をしていないでしょうか」(中西)とか、「季語『日短か』と置けば『老い』は省略できると思ってしまいます。藤田湘子に指導を受けたせいかもしれません。もっとあっさり表現してしまうでしょう」(窪田)と、詠む遷子側の不十分さを感じられている鑑賞も続きます。私自身も、皆さんと視点はずれているものの、やや批判的な見方をしているだろうと思います。まさしく久保田さんが言われるように、「他の結社の方々と同じ作者の同じ句を鑑賞していく面白さを感じています」に共感します。これは、どちらの読みが正しいかより、現代俳句の不安定さ(俳句・俳諧自身の持つ不安定さ)につながるようで、例句を離れてもう少し深く検討してみたい問題ではあります。

【付録②】
「遷子を読む」では、コメントを本文に取り入れることにしています。コメントでのやりとりは「抑制」が効かず、冷静な対話にならないと思うからです。第6回以降のコメントにお答えします。適宜コメントは省略しているのであしからず。

遷子を読む〔8〕 寒うらら税を納めて何残りし
堀本吟: 
寒うらら税を納めて何残りし 遷子(『山国』)

このような句は興味深いですね。一種のイデオロギーだという磐井さんの意見に共感します。イデオロギーというのはどのようにして、生活と文学の世界にうまれるのだろう、と言うことですが・・。社会性俳句は全てがイデオロギー的だったとは言えず、また、すべてが、生活現実の心情の吐露だともいえません。思考が成長していったのだと思います。

筑紫:「何残りし」は遷子の永遠の課題だと思います。最晩年の、

木の葉散るわれ生涯に何為せし

もそうです。常に反省型の遷子は「何残りし」を考えていたのではないでしょうか。先日中西さんと酒を飲みながらオダをあげて、反省しない俳人は、俳人としても失格だし、人間としても失格といったら中西さんが目を丸くして驚いていました。「何いってんの、反省もしない人間が」と言った目つきでしたが。

堀本吟:俳句を詠む過程で、社会的関心をたかめていった人に、榎本冬一郎がいますが、この人の句を、「職場俳句」だと、仁平勝さんが何処かで書いていたことを想い出しました。

仁平さんは、能村登四郎の《合掌部落》をあげて(以下引用)

時代的なモチーフをいったん外せば(略)。今日こういう句を書いたところで誰もそこに「社会性を」指摘したりはしない。社会性でなくとも個人的な感慨としても、これらの俳句表現はじゅうぶん成り立つのだ。鈴木六林男の連作「吹田操車場」も同じであって、「社会性俳句」の看板を外してしまえば、それはさしずめ「職場俳句」と呼ぶにふさわしい。(その意味では。警官の立場からメーデーを詠んだ榎本冬一郎の句も職場俳句に外ならない。)[引用は仁平勝『俳句の射程』(平成18年・富士見書房)の119ページ]

と書いています。

メーデーの手錠やおのれにも冷たし 冬一郎

この人は、警察官である自分の現実と相手の立場が対等であるという関係を先鋭に詠んでいるとは思いますけど、句の印象からは実感の方が先に立っています。遷子にも通じる現実感覚だと思います。職場俳句だ、職業俳句だ、といわれれば、そうでしょう。

ただし、冬一郎は市井人というにしてはかなり意識的に社会批判をしています。感情の激しい正義感の強い人だったのでは?(「群峰」関係の人にもう一度詳しく聞いてみようとはおもっているのですが・・)

遷子がどういう俳句を詠んだか、ということと、俳人としてどういう社会感覚を示したか、と言うことは、一応べつの話になるのですが、冬一郎が敢えて抒情になじむ季語を持ってきていても「冷たし」という語は、「馬酔木」本来の「自然美から芸術上の真に入る方向ではなく、句意が強調しているところには、言外の何か(たとえば同情心の強さからくる社会的現実への注目)です。

筑紫:榎本冬一郎と遷子とは対局にいるような感じもしますが、以前述べたように『喜びも悲しみも幾歳月』の灯台守も、佐久の医師も、警官も、職業倫理で貫かれている意味では案外似ているかもしれません。現在はほとんど職業倫理は希薄になっているようですが(職業ルールがあるだけです)、かつては社会も本人もそうしたものがあると考えていたのではないでしょうか。

堀本:すこし補足させてください。敗戦直後の日本の民主化は、社会構造全体に及び、たとえば、昭和29年に警察法の制定が施されます(以下引用)。

警察法(けいさつほう、昭和29年6月8日法律第162号)は、「個人の権利と自由を保護し、公共の安全と秩序を維持するため、民主的理念を基調とする警察の管理と運営を保障し、且つ、能率的にその任務を遂行するに足る警察の組織を定めること」(1条)を目的とする日本の法律である。[「ウィキペディア」掲載文を借用]

このように、「民主的な警察」という法的認識が出来て、警察官に《民主的な管理》による市民のための警察と言うような、いわゆる公僕意識もできてきたのではないかとおもいます。

ついでに、記憶しておいて欲しいことは、労働組合の結成も当時は労働の権利意識を育てる国家政策でした。労働三法(労働基準法、労働組合法、労働関係調整法)というのは、かなり重要な国民教育の要だと考えるべきで、労働省(昭和22年9月設置)が主体となって労働組合の作り方などを指導していたのではありませんか?(実態は詳しくは知りませんが)、私たちが俳句の中の言葉として、警察官とか、あるいは遷子の場合の医者とはどういう職業か、と言うような認識は、専門職だけに、私たちがムード的に考える以上の正確な概念(観念)ができていたような気がするのです。その概念を作ったのは時代の強制ではありますが、仁平さんのようにサラリーマン感覚として切り捨ててしまうと、(固定観念を叩かれる一方で)、時代を生きるための指標として、全存在で受け止める個人の認識の重要さも切り捨ててしまうように思えてきます。

さらに現在は、戦後60年経っていて、眼前で今までの政治社会、文化の構造の根幹が変わりつつあるのです。

俳句の言葉はその現在時の中でしか生まれないとしたら、その時代の制約下でしかモチーフはうまれません。そこに立って立ち上がるモノを創作の要素の一部に入れなければ、その作品は芸術上の真には迫り得ない、と思うのです。金子兜太の造型論の重要さは、そこにあるのではないでしょうか? 表現としての俳句をどう考えるか、というときに、私のこのいい方は、飛躍もあるかもしれませんが。これは、私が、社会性俳句、前衛俳句のことをかんがえる時に、依然未解決なままのこしてきた心理的な拘りです。

筑紫:職場で詠んだ俳句を職場俳句というのならば、確かに遷子も冬一郎も職場俳句でしょうが、そうであれば、

銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく

も、「俳句の造型について」で自句自解しているように、日本銀行の職場で同僚や上司を観察しながら詠んでいるという意味で典型的な「職場俳句」、日銀俳句です。しかし、こうした句を職場俳句とわざわざ名づけて議論する意味はありません。兜太は、ここで「創る自分」を語りたかったのであり、職場俳句を論じたかったのではありませんから。職場で「何を詠みたかった」のかが問題でしょう。冬一郎について私はよく分かりませんが、この時代の医療現場にあってはやはり一種独特の倫理観はあったのではないかと思います。我々の現在の職場ですでに倫理観は崩壊し、単に個人が倫理観を持つかどうかの話になってしまっています。しかし、昭和30年代は、多少ともそうした社会共感を持つ職場がありえたように思います。遷子の俳句を考える上でそうした環境は想定してもよいように思います。特に、外から強いられた倫理観ではないところに尊重すべき要素もあるように思うのです。

能村登四郎について言えば、今日登四郎の俳句を誰も社会性俳句といわないでしょうが、当時、登四郎が社会性という規範に引きずられて詠んでしまっていたことは間違いありません。そのために詩の燃焼度の低い句集となってしまい『合掌部落』を登四郎は一番嫌いな句集としているのです。白川村合掌部落を詠んだから風土俳句などという言い方は後からつけた言い訳でした。ちなみに『合掌部落』の「習志野刑務所」「八幡学園」なんて臭いくらいに典型的な社会性俳句でした(たった今、兜太の「造型俳句」について書き終わったところなので過剰に反応してしまいました。)

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遷子を読む〔13〕 山河また一年経たり田を植うる・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔14〕 鏡見て別のわれ見る寒さかな・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔15〕寒星の眞只中にいま息す・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔16〕病者とわれ悩みを異にして暑し・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔17〕梅雨めくや人に真青き旅路あり・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む


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閑中俳句日記(11) 高谷宗敏

閑中俳句日記(11)
高谷宗敏『高谷宗敏百句私鈔』


                       ・・・関 悦史


今回取り上げるのは以前住んでいた土地の図書館にたまたまあったもので、『高谷宗敏百句私鈔』(神谷書房・1985年)という。

著者高谷宗敏(たかたに・むねとし)は、1912年兵庫県生、1954年 「天狼」入会(72年退会)、1974年磯貝碧蹄館主宰「握手」創刊に際し同人参加という略歴の持ち主、もし存命ならば97歳ということになる(ウェブで検索してみてもその後の情報は特に出てこない)。

奥付によると著者の住まいが図書館と同じ区内、すぐ近所だったので、自費で出したものを著者当人か身近な人が図書館に寄贈したものと思われる。

どこの土地の図書館にもその地の俳句愛好者が自費で出した句集というのは必ず入っているものなのだろうがこれはどうも毛色が違って、風景や動植物の写生も人事句もなくごく審美的な作風。ここから20~30句ほど抜粋する。

中也忌のフォークで崩すケーキの薔薇

文学者・芸術家の忌日の句が異様に多く、全100句の中に22句もある。このことはそのままこの句集の志向(及びその限界)を物語っている。

この句の場合良い意味で古色のついた清潔な詩情があるが、中原中也の捉え方がやや引っかかる。この「中也」は無闇に喧嘩をふっかけて友人たちを困らせていた中也でもなければ、俗謡的な口承性でポピュラリティを獲得した中也の詩そのものでもなく、例の有名な肖像写真、元は横を向いていたはずの瞳の位置が正面に移され、さらには大きくハイライトを入れるという修整を施されて「永遠の少年」にされてしまったあのイメージとしての中也である。「チューヤキ」「フォーク」「ケーキ」と長音+K音のリフレインで読まされてはしまうが、忌日ではないもののやはり他者の文学作品を扱った句に「昼三日月《未来のイヴ》を擁く刻」というのもあり、この辺りになるといささか危うい。

読んだ人間がどれだけいるかわからない『未来のイヴ』の固有名詞がいけないというのではない。それだけならば「リラダンすら読んでいないのか」と言っておけば(少なくとも《大きな物語》=「この程度のことは常識として弁えておくべきだという共有化の圧力」が失せる前の時代であれば)済んだ話だ。儚げな「昼」の「三日月」も、人造人間の美女をめぐるあり得べくもない奇跡の顕現を描いた小説の暗喩としては適切なのだが、この句が問題なのはまさにそのことにより、句全体が『未来のイヴ』を句材として突き放してもいなければ、批評的な創見を披瀝しているわけでもなく、「この作品を私は愛する(だからあなたも愛するべきだ)」というメッセージのみを押し付ける言説になってしまっていることである。美しいイメージに凭れきり、それを美しいものとして提示することが、句をそっくりヌケの悪い自己愛の塊へと化させ、地べたに落下させてしまうという今でもよく見かける事態に接近してしまっている。

下駄はいて天使かけくる労働祭

こちらは暮らしに密着した「下駄」「労働祭」との対照によって「天使」がうまく受肉した句で、駆けてくるのは普通の子供だろうが、それが「天使」になるあたり、著者の年齢から来る時代的アリバイにも拠るとはいえ、戦災後の浮浪児にイエスのイメージが重なる石川淳の「焼跡のイエス」や、イタリアのネオリアリズモ映画のような味わいを帯びる。

毒蛇と青年が発つ冒険旅行
枯十方少年の日の《瞞し舟》
曼珠沙華相思の指をからませて
懐手我との永遠の訣れ見ゆ
去年今年白い飛脚が消えてゆく
ガラス器のやうな疎外の富士である
優曇華や人間神を創りけり
ヴァレリー忌金の秒針疾走す
火の獣千疋隠し大枯野
悲しみの智慧の木智慧の木芽が濡れて
甲胄の口中昏い沖がある
いなびかり寡婦の前後に跳粱す
海に消ゆインク一滴十二月
秋の暮佐伯の《壁》に鬼棲めり

「枯十方少年の日の《瞞し舟》」「去年今年白い飛脚が消えてゆく」からこの作者の時間意識がわかる。人生の時間が一方通行で後戻りのきかない、老いと死に向かって高速で過ぎ去る直線のように捉えられているのだ。過去はただ取り返しがつかないものとなってゆくばかりで、この疎外感が句の詩性の土台となる。そしてこの土台に立った句は、当然私性という檻に封じ込められやすくなる。

中で「ヴァレリー忌金の秒針疾走す」は、疾走する時間とそれを刻む秒針が永遠性を現す「金」で出来ている(金は最も安定した元素である)ということとの衝突が、ヴァレリーの文業への批評的賛辞として成功していると取れるだろうか(「金」がただの金色のことであれば何の矛盾性もなくなり、あまり面白くはない)。

一球体鏡に対し白い秋

これはモダニズム的な明快な形象性に徹し、なまの嘆きを封じたことで却って沈潜した感情と世界感覚がすっきり現われた。

漢あり五月の空へ発砲す
少年やレンズで蟻を灼き殺す
ランボオ忌左まわりの時計かな
秋風や肉を喰ひたく肉を啖ふ
桃の昼輪ゴムで男狙ひ射つ
われ死すと思へず闇の青螢
鈎呑んで寒鯉しずむ誕生日
いかのぼり地上に伏して紙と竹

地獄花舌下に溶かすニトロ錠
オメデタウトイヘナイ患者タチノ元朝
小春風よび演技派のE看護婦

この三句、入院中のものらしい(計算してみるとこの句集が出たとき、著者は73歳)。

針千本泉の底にビュッフェ展
ふわふわと歩道橋ゆれ西鶴忌
どろどろと木の橋わたる敗戦忌
肋より芒いつぽんシーレの忌

ビュッフェやシーレの句には、絵画作品の言語への置き換えを通して画家の内面に手を伸ばそうとしている気配があるが、《私》の枠は揺るぎもしなければ無化されもしない。「忌」の多用は他者や生成変化といった要素の欠落と表裏一体か。

審美的な句には審美的な句の月並みさというものもあり、そういうものは普通の入門書ではあまり触れられもしないせいか、作っている間、当人はなかなか気づきにくい。

最初はもっと褒めるつもりでこの句集を見返してみたのだが批判的なコメントが多くなってしまい、何をやっているやらわからなくなってきた。




評論詩 祝辞に応える(高山)

評論詩〈筑紫磐井氏の祝辞に応う〉

             ・・・高山れおな

「―俳句空間―豈」発行人筑紫磐井氏より
優渥なるご祝辞を賜った。
評論詩による寿詞(ほぎごと)であったから
答礼も当然、評論詩である。
筑紫氏の祝辞には、
幾つかの事実関係の誤りがある。
まずこれを正しておきたい。
筑紫詩に、

「―俳句空間―豈weekly」の創刊は、
ある日、同人誌「―俳句空間―豈」の若手メンバーである
高山れおな、中村安伸、生野毅
(生野は最初だけ名前が出てその後すっかり消えてしまったがどうしたのだろう)
3人が酒場から電話をしてきたのに始まる。
ブログ「週刊俳句」と違う新ブログ
「―俳句空間―豈weekly」を創刊するという宣言であった。
いいじゃないか、と答えると3ヶ月ほどしてブログが立ち上がった。

との一節が見えるが、
「3ヶ月ほどして」と
あるのは間違いである。
高山・中村・生野が
新宿神楽坂に怪しげな集まりを持ったのは、
二〇〇八年七月二十九日である。
「―俳句空間―豈weekly」第〇号は、
八月十五日に発行されているから、
「二週間ほどして」とするのが正しかろう。
鳴呼、拙速驚くべし。

次の一節も問題である。

実際、俳句を排除する俳句評論ブログというものは寡聞にして聞いたことがない。
コーヒーのないクリープのようなもので、
余り多くの読者は期待できないだろうと管理人に言っておいた。
だから、現在常時、毎週1000人の読者があると言うことは、
予想外の健闘と言わねばならない。
「―俳句空間―豈」ですら、そんな読者はいないと思われるから。

高山はアクセス数をきちんと確認していないが、
「毎週1000人」というのは明らかに
誇大宣伝である。
豈本誌の寄贈先よりは多い
という程度であろう。
なんにせよ以て瞑すべしである。

最後の誤りは、

[念のために言っておくと、
先行するブログ「週刊俳句」は記事依頼をしているようであるが、
後発の「―俳句空間―豈weekly」は一度として依頼したことはないはずだ。
書きたい人が勝手に押し寄せてきているだけだ、と思っている。]

との一節。
攝津幸彦十三回忌のおり、
高山が堀本吟氏や恩田侑布子氏に
執筆を依頼した場には
筑紫氏も居合わせたはずなのに、
お忘れのようである。
これに限らず、特にブログの発足当初
には諸方に声を掛けている。
「週刊俳句」の場合、とりわけ作品については
依頼による寄稿のようであるが、
そのように継続的な依頼をしていないだけで、
「一度として依頼したことはない」などという
事実はない。
とはいえ、ある時期以降、執筆メンバーは
おおむね固定し、
ひたすら書くことに
専念しているのはその通りであるが。

次は誤りというのではなく、
妄想を掻きたてられる一節
と言おうか。
櫂未知子氏の発言に触れつつ、

また、「雑誌とブログの二本立てで行く意義」は二本立てではなく、
雑誌とブログの食うか食われるかの戦いであると理解してほしい。
ただ、どちらが勝とうと、大半の同人は生き残った方に移籍すればいいので
余り切実さがないと言うだけである。

と述べたあたり。
これから矢のように二十年が過ぎると
本誌発行人の筑紫氏や
同じく編集人の大井恒行氏は傘寿に達し、
ブログ管理人の高山や中村安伸は耳順となる。
紙とブログで「食うか食われるかの戦い」
をしているとは思わないものの、
「―俳句空間―豈」もその頃には
紙かインターネットかという
最終的な選択を迫られる予感はする。
(解散という選択肢もあり得る)。
「豈weekly」が今後二十年間、
現在の形で存続することはあり得ないが、
とまれ二十年後に備えて実験を
している気はせぬこともない。

さすが師匠はよくわかっておられる
と思ったのは、次のような予想の部分。

ふつう祝辞は将来の期待を述べるものだが、「―俳句空間―豈weekly」については、
何もない。
終るときはたぶん唐突に終るであろう。

唐突に始まったものは
唐突に終わるに違いない。

それから、

多くの俳句のアーカイブが何の意味もあろうとも思われないが、
富田拓也の連載が、1000編になったときのこと(20年かかる計算だ)を考えると、
さながらガウディの聖母子教会を想像し、心おののくものがある。

との言葉にはいたく同感だ。
ただし、冨田氏の連載を是非
百編までは見届けたく思っているが、
千編まで回を重ねるためには
ブログの運営形態を変えねばなるまい。
なにしろこのブログをやっていると
作品を書く時間が全く取れない。
もとより菲才鈍根にして至って

寡作の者ではあるが、
さすがに技癢も覚える今日此の頃である。

評論詩 49号祝辞(筑紫磐井)

評論詩〈「―俳句空間―豈weekly」49号を祝す〉


・・・「―俳句空間―豈」発行人 筑紫磐井


「―俳句空間―豈weekly」が第49号を迎えた
と言うことでお祝いを申し上げたい。
せっかくだから玄妙の韻きに載せて評論詩で書くことにした。
吟じます。

なぜ、49号がめでたいのか、
一方で50号、100号がめでたくないのかと言うことについては、
このブログ「―俳句空間―豈weekly」の出自に由来する。
「―俳句空間―豈weekly」の創刊は、
ある日、同人誌「―俳句空間―豈」の若手メンバーである
高山れおな、中村安伸、生野毅
(生野は最初だけ名前が出てその後すっかり消えてしまったがどうしたのだろう)
3人が酒場から電話をしてきたのに始まる。
ブログ「週刊俳句」と違う新ブログ
「―俳句空間―豈weekly」を創刊するという宣言であった。
いいじゃないか、と答えると3ヶ月ほどしてブログが立ち上がった。
「―俳句空間―豈」とは何の関係もないが、
最初は「―俳句空間―豈」のメンバーが中心に書くのだろうと予想はされた。
大学の中に全国学生共闘会議が出来たようなもので、
だから本誌「―俳句空間―豈」は何も関係がない。
まあその志をよしとして、
発行人、編集人、関西地区世話人がときおり執筆しているが、
発行人、編集人、関西地区世話人として書いている訳ではない。
もともと書き手が少ないから、周辺で書く人が限られているだけである。
実際、俳句を排除する俳句評論ブログというものは寡聞にして聞いたことがない。
コーヒーのないクリープのようなもので、
余り多くの読者は期待できないだろうと管理人に言っておいた。
だから、現在常時、毎週1000人の読者があると言うことは、
予想外の健闘と言わねばならない。
「―俳句空間―豈」ですら、そんな読者はいないと思われるから。

さて、「―俳句空間―豈weekly」が始まるとき私が高山氏に言ったのは、
「―俳句空間―豈」は年2回刊、
「―俳句空間―豈weekly」は週刊だから
計算では平成21年の夏に追い抜かれるはずである。
「―俳句空間―豈weekly」の号数が
「―俳句空間―豈」の号数を追い抜いたら
成功と言えるのではないか。
さて今春「―俳句空間―豈」48号が出、
49号は秋に刊行される予定だが、
「―俳句空間―豈weekly」は本号でめでたく49号を迎えたので
お祝いをさせろと申し入れをした次第である。
ついでながら、「―俳句空間―豈」の方も、
1980年に創刊され、
明年で創刊30年、50号を春には迎える予定である
(別にだからといって何もえらくはないが)が、
49号でこれを記念した企画特集をたてた。
「安井浩司と攝津幸彦の彼方に―――俳句の未来」である。
50号でやらないのは、やれるときにやらないと疲れるからである。
無理をするのは良くない。
これが「豈」編集の伝統だ。

「―俳句空間―豈weekly」はさまざまな評価があるようであるが、
高山れおな氏の「俳句など誰も読みはしない」の創刊の辞が強烈であったから、
概ね好評のようである。
例えばその一つに、
「豈」が「豈weekly」として出発した。私も「お気に入り」に登録し、気が向けば読むようにしている。これはかなり内容が濃く、「これさえ読めば、雑誌の『豈』なんて要らないじゃないの?」と思えてならない。場合によっては、本誌よりもずっと読み応えがあるわけで、わざわざ雑誌とブログの二本立てで行く意義が今のところ見出せないでいる。(「報道ではなく」櫂未知子「―俳句空間―豈」第48号)
と賞賛されているのは有り難い。
ただ、「「豈」が「豈weekly」として出発した」は
上に述べた経緯があるので正確ではない。
また、「雑誌とブログの二本立てで行く意義」は二本立てではなく、
雑誌とブログの食うか食われるかの戦いであると理解してほしい。
ただ、どちらが勝とうと、大半の同人は生き残った方に移籍すればいいので
余り切実さがないと言うだけである。
なお、「「豈」が「豈weekly」として出発した」は同人の間でも誤解があるようで、
全俳壇を巻き込んだ?「匿名句評」をめぐって、
「―俳句空間―豈weekly」ならともかくも、
「―俳句空間―豈」をブログで非難しているのは筋が通らない。
本誌「―俳句空間―豈」とは何も関係がないのだから。
「―俳句空間―豈」は同人雑誌だが、
「―俳句空間―豈weekly」は投稿雑誌だ。
「―俳句空間―豈weekly」の執筆者も、
書く場があるから投稿しているのであり、
「―俳句空間―豈weekly」の主義主張に共感しているわけではない。
いや、そもそも主義主張などあるはずがない。
評論は載せるが、俳句作品は載せないという編集方針があるだけなのだろう。
[念のために言っておくと、
先行するブログ「週刊俳句」は記事依頼をしているようであるが、
後発の「―俳句空間―豈weekly」は一度として依頼したことはないはずだ。
書きたい人が勝手に押し寄せてきているだけだ、と思っている。]

閑話休題。
「―俳句空間―豈weekly」の過去のバックナンバーを見て分かると思うが、
本質的な困難は、ブログを継続することである、
特にそのためには幾つかの中心企画が継続することが必要である。
[ここらへんの発行人編集人の苦労は、「自叙伝風に(編集論/作品番号17)」を参照]
「開始」と「継続」は、使う神経や筋肉が全く違う。
相撲取りの選手とバスケットの選手ぐらい無関係なのである。
今の俳句の週刊ブログの継続は、
継続のために気力、
継続のための体力のどちらかをバランスを取って、
全体としてともかく継続させることが必要なのである。
どんな良い内容の記事も継続(更新)されないと
ゴミのようになって情報の海に埋もれてしまうであろう。
だから長編連載の執筆者は、何となく自分にあったスタイルで継続しているようである。
それでも、最近の冨田拓也氏の連載を見ているとまことに大変そうだ。

ふつう祝辞は将来の期待を述べるものだが、「―俳句空間―豈weekly」については、
何もない。
終るときはたぶん唐突に終るであろう。
「―俳句空間―豈」よりあっけなく終ると思っている。
予告もないかも知れない。
あるいは管理人が管理しなくなり、
ゴーストタウンのようになってインターネットの地図の上に死屍をさらすだろう。
もちろんそれはブログの本来的宿命だと思っている。
ただ、「―俳句空間―豈weekly」についていっぷう違うところは、
評論の蓄積がアーカイブとして形成されることだ。
多くの俳句のアーカイブが何の意味もあろうとも思われないが、
冨田拓也の連載が、1000編になったときのこと(20年かかる計算だ)を考えると、
さながらガウディの聖母子教会を想像し、心おののくものがある。
未だかってどこにも存在しなかった俳句のエンサイクロペディアは、
このブログの中で初めて光臨することになるかも知れない。
それは長谷川櫂のインターネット歳時記より遙かに破壊的であり、
正岡子規の俳句分類に匹敵する創造性を持つはずである
(とりわけ、検索やソートに関しては子規の考え及ばない世界が生まれている)。そう考えると「―俳句空間―豈weekly」は神の如き営みを行っている

2009年7月20日月曜日

第48号


※7/20(月)「生まれ生まれ生まれ生まれて 中岡毅雄句集『啓示』を読む」を追加。

第48号

2009年7月19日発行(7月20日更新)

遷子を読む

〔17〕梅雨めくや人に真青き旅路あり

・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井   →読む

俳句九十九折(43)

俳人ファイル ⅩⅩⅩⅤ 飛鳥田孋無公

          ・・・冨田拓也   →読む

生まれ生まれ生まれ生まれて
中岡毅雄句集『啓示』を読む

          ・・・高山れおな   →読む


あとがき           →読む

豈同人の出版物      →読む

執筆者プロフィール    →読む

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2009年7月19日日曜日

中岡毅雄句集『啓示』

生まれ生まれ生まれ生まれて
中岡毅雄句集『啓示』を読む

                       ・・・高山れおな

『啓示』(*1)は、中岡毅雄の第四句集である。平成十一年以降の十年間の作、三百二十四句を収め、栞には友岡子郷、黒田杏子、小澤實、加藤治郎が執筆している。すでに前句集『一碧』(*2)で俳人協会新人賞を受賞し、三十年近い俳歴のある人なのに、わざわざ知名の筆者四人に栞文を請うているのは今更のようだが、それだけ期するものがあることを示している。理由ははっきりしていて、平成十五年の暮、不惑を目前にしての癌手術、それに引き続いての鬱病との闘いを経ての句集だからである。

全体は「Ⅰ 平成十一年以降」「Ⅱ 平成十三年以降」「Ⅲ 平成十五年師走以降」「Ⅳ 平成十八年以降」の四章に分かれている。友岡の栞に述べられているごとく、〈Ⅰ・Ⅱは健康体の彼の作品、Ⅲ・Ⅳは病身の彼の作品〉である。その対比は、単に実生活の上においてそうだというばかりでなく、表現そのものにもはっきりと現われていて痛々しい。このうちⅠ・Ⅱに展開するのは、

月山のこゝにも草を刈りしあと
津軽まで海平らなりきりぎりす


といった句が記憶に残る前句集『一碧』に、まったく地続きの世界である。旅吟が多く、且つ多いだけでなく、佳句もほぼそこに含まれている、そういう世界。

雪げむり駆けめぐりくる氷湖かな

〈阿寒湖 五句〉
の前書を持つこの巻頭句をはじめ、全体として、『一碧』に比べてもいちだんと前のめりになったような集中力が感じられる。

月明に鶏頭の征くごとくなり

という幻想的な句はこの句集にあっての異色作かも知れないが、鶏頭という植物の〈無骨に強健を誇る〉(*3)ありように、「征く」ものの姿を見止めたのは、「雪げむり」の句などに隠れもない、作者の気迫に裏打ちされた“旅心”なのだろう。

波しりぞけば波の花飛びにけり
波の花駆け上りくる石の階
鷗より高く飛びけり波の花

〈佐渡 七句〉と前書のある一連より。芭蕉の〈荒海や佐渡によこたふ天河〉の句が、〈東は奥州外浜、西は鎮西鬼界島、南は紀伊路熊野山、北は越後の荒海までも〉(『曾我物語』)のような、日本列島の四方を限る中世以来の定型表現に根拠を持つことについては、当ブログ第二十三号掲載の「遠流の島と虚構の海」において、江里昭彦が解説してくれている。もちろん定型表現が生まれる前提となる現実は存在するわけで、数年前に佐渡の荒波ばかりを撮った写真集(*4)さえ出ていたはずだ。某年の「年の瀬」に佐渡を訪れたらしい中岡が詠むのもまたひたすら佐渡の波風であるが、いよいよ激してゆく景に対して、写生の手練らしくその筆致は少しも乱れない。その視線の強さは、言えば、対象に向かって静かに熱してゆく態のものであろう。

中岡は兵庫県三木市の在だから、住んでいるのは西国の穏やかな暖地ということになるが、阿寒湖や佐渡に限らず、俳句の旅ではどちらかといえば北方志向が強いらしく、前書からはさらに、野尻湖、支笏湖、知床、瓢湖、新潟・村上、下北半島などの地名を拾うことができる。いやしかし、天草、出雲・松江、熊野、竹富島・石垣島、奥三河・足込、同・古戸などでの句もあるから、先程引用した『曾我物語』の一節にあるごとく、日本列島の四辺四境を志向するとでもした方がいっそ正確か。この他にも、例えば、

八荒やしぶきをくぐるゆりかもめ
梅雨冷の鳰の遠音とうべなへり

のような、琵琶湖で詠まれたとおぼしい句や、

(ひうち)灘へと墜ちてゆく黒揚羽

のような瀬戸内の海景を詠んでまぼろしめいた句もある。それらに前書が付されていないのは、句そのものから作句の場所があきらかだと考えたためだろうか、あるいは日帰り出来る近場のため、ことさら旅吟という構えが中岡の側にないということだろうか。また、Ⅱの冒頭七句は、

一斉に竿燈の立ち上がりけり

の秀吟で始まり、一夜の熱狂が過ぎての心地よい疲労を感じさせる

朝刊は秋田新報鰯雲

で終わる連作になっているから、八月の初めに秋田市で行われる竿燈祭りを詠んでいるのだろうけれど、これも前書はない。やはり句中の地名やモチーフから、作句の場所がわかるかどうかが前書を付す、付さないの基準のようだ。前書なしの旅吟にどんなものがあるか、せっかくだからもう少し確認してみよう。

あかがねのごとき芒や能登に入る

これは初見のおりから印象に残っていた句で、てっきり『一碧』にあるのだと思い込んでいたが、どうやら雑誌で見たのであるらしい。おそらく七尾線で能登に入ってゆく、その車窓に見えた芒を詠んでいるのに違いない。遠景ではなく近景だろうと思うのは、遠景ならば芒の穂が白い雲のように靡いて見えるはずで、「あかがね」の譬えにはふさわしくない。穂という以上に茎の部分の荒々しいざわめきを車窓間近に目にして、その強烈な物質感が「あかがね」の語を呼び出したものと考える。それが海際の景なのかどうかは不明ながら、「能登」の地名がおのずと海を連想させ、潮さびた空気を感じさせもして、その点も「あかがねのごとき」という比喩によく映っているだろう。

みちのくにとどろく春の飆(はやて)かな
犬ふぐり遠野にとほき飢ゑの日々
迅き雲のあとも迅き雲厩出し

始終がはっきりしないが、遠野周辺での詠、五ないし八句ほどのうちの三句。すでに『啓示』の旅吟十余句を引いた。そのいずれを見ても句にどこかしら険しい表情があって、引用者の好みのゆえとも言い切れまい。掲出した二句目なども、「飢ゑ」の歴史に配するに「犬ふぐり」をもってするところに、巧みさがあるだろう。「春窮(しゅんきゅう)」という季語があるように、蓄えようやく尽きようとし、麦いまだ実らぬ四、五月こそがかつての農村において、窮乏の時節として最も恐れられたのだった。それはまさに犬ふぐりが咲く頃であり、その可憐な色彩が、なればこそ〈自然は限りなく美しく永久に住民は貧窮してゐた〉(*5)という嘆きの昔を今に蘇らせるよすがとなるのである。

黐散つてお四国のみちただ冥し

救いを求めて人々が歩むその道に、「ただ冥し」の実相を見るのが、この作者の体質なのでもあろうか。もとより、弘法大師の撰著『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』にある〈生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終りに冥し〉との詩句を踏まえた表現であるが、「黐散つて」という描写のひと刷けが、その“冥さ”を観念に終わらせていないようだ。この句には〈青芒かなたにも波生まれつぎ〉が先立ち、〈玫瑰や枕木に音たえてなし〉が続いている。一所の作であるともないともはっきりしないながら、掲句の暗さに前後の空虚をもって応えるかのような配列であろう。

海荒れて草の中なる螇蚸かな

は、隠岐での作四句のうち。やや同工の作に、

秋の蝶燈ともしころの草にふれ

があり、こちらは旅吟ではないようだ。拙稿冒頭に引いた月山の句を思い合わせても、中岡の“草”の表現には不思議と心引かれるものがある。単純化に長じたこの人の手法に、草という自然の中の最も簡明なもの、最も基底的な存在が、よく調和するということだろうか。草という語は使われていないが、先の能登の句の芒や、

四万十をながれゆく竹落葉かな

の句における竹落葉などにも同種の物象の手ごたえを感ずる。以下、Ⅰ及びⅡから、興に入った句を引く。

眼に見ゆるかぎり汽水や夏桔梗
流氷のとほき起伏もふぶきけり
  *上一句、「知床 七句」のうち
夏燕鯖街道に水を売り
火柱のごとき没日や寒蜆
水の香のさびしき笹子鳴きにけり
  *上二句、「出雲・松江 七句」のうち
冬の蜂かがやく熊野詣かな
  *上一句、「熊野 六句」のうち
浜木綿や嘶き雨の中よりす
新涼や同じところを水牛車
海よりも空鳴りゐたる寄居虫
(がうな)かな
  *上二句、「竹富島・石垣島 八句」のうち
雪螢ひとつとほりし舞庭(まひど)かな
凍る夜の花の舞又花の舞
  *上二句、「奥三河・足込、花祭 三句」のうち
足元へ吹き込む雪や花の宿
花祭夜の鬼囃され罵られ
  *上二句、「奥三河・古戸、花祭 八句」のうち
寒立馬春の吹雪を駆けりくる
  *上一句、「下北半島」と前書
(あか)の中のたうつ鮭を打ちにけり
打たれたる鮭に貼りつく落葉かな

最後のふたつは〈新潟・村上 八句〉と前書のあるうちの二句で、晩秋から初冬にかけて三面(みおもて)川で行われる鮭漁のさまを詠んでいる。「淦」とは泥水のこと。八句のうちには、〈鮭の頭を打ちしとめたる十手かな〉という句もあり、浅瀬の泥水の中でもがく鮭の脳天を打って殺し、捕獲するのであろう。季節の風物詩と言ってしまえばそれまでながら、なんとも凄まじい光景ではある。中岡はこれ以前にも同地を訪れていて、別に〈新潟・村上 四句〉と前書された一連もあって、そちらに見える

揉み合うて浮かびくるなり鮭の貌

は、金子兜太の〈谷に鯉もみ合う夜の歓喜かな〉(*6)にも、おさおさ引けを取らない集中の佳吟に思われる。それにしても兜太が歌うのが夜闇の中の「歓喜」であるのに対して、中岡の「鮭の貌」が示すのはどうしたって生命の“苦”の様相以外ではあるまい。と、書きつけたところで、『啓示』の栞文を見直したら、加藤治郎が掲句を指して〈命の喜びが溢れている〉と書いている。なるほど兜太の句であれば、そこにはあきらかに性愛の暗示があり、歓喜と苦を一如と見なす工夫もあり得ようけれど、中岡の句における鮭は産卵のために河を俎上しているのである。「鮭の貌」のクローズアップの効果も、「喜び」と言ってしまうにはあまりに暗く不気味な印象がある。掲句には、〈はればれと鮭産卵の水しぶき〉〈鮭産卵夕焼のいろさしわたり〉との句が続いており、加藤はおそらくこれらの表現に引っ張られたのだろう。しかし、この二句などはいわば出産に立ち会った夫の視線みたいなものであって、当事者たる鮭の身としては「はればれと」でもあるまい。要は、加藤の評言中の「喜び」の語を、「エネルギー」くらいのニュアンスで受け取っておけばよいだけの話であるが。

ところで、栞に載る四つの短文のうち、師である黒田杏子のそれは、中岡の俳句とのかかわりようを次のように記している。

創刊直後から始まった「藍生」のロングランの鍛錬吟行会「廣重江戸百景を歩く」は、主宰の指名した十数人のメンバーが、朝十時に集合、昼食後に一句会。のち夕刻にもう一句会をして夜十時散会というシステム。日曜日まるまる一日を使う月に一度のこの「行」に中岡君は新幹線と夜行高速バスを使って積極的に参加した。今井君(今井豊……引用者注)も春休みや夏休みの折には参加した。二人共高校の教師である。あるとき、「先生、中岡は自分の肉体の限界を無視しています。このままでは死んでしまいます。止めてやって下さい」と今井君。

同じく、小澤實が述べる中岡の横顔も興味深いものだ。

毅雄の句作風景で印象的なのは、興が乗ると句帳を開いて、ずっとペンを動かしつづけていること。句帳をのぞきみたわけではないので、五七五の完成したかたちが書き込まれていたか、断片のみを書きつけていたか、わからない。とにかく、周囲にはかまうことなく、憑かれたようにペンを動かしつづけていたのだ。(中略)こういう人はその後、誰ひとりとして見たことはない。

世間が広く、また、自身多作でもある小澤がこう言うのだから、余程目にたつ様子だったのだろう。それにしても、そのような熱狂的とも言える制作態度から生まれ出た中岡の作品世界は、技術的には申し分のないものながら、また同時に一句一句に取り立てて変わった手法や切り口があるというのでもない。しかし、一歩引いて全体を眺めると、ほとんど自己に目を向けることがなく、旅吟・自然詠に著しく偏向している点、やはりおのずからなる個性として浮かびあがってくるようだ。

中岡の俳三昧に大きく立ちはだかった病については、評者も詳細は知らない。句集のⅢおよびⅣから、作品自体が語るところを見てみよう。

手術同意書に署名し十二月
笹鳴や四十にして父母に謝し
風花や転移覚悟の手術
(オペ)迎ふ
担送車旋回冬燈旋回

こういう内容の句に、上作だ凡作だと言っても仕方ないようであるが、それにしても一句目、四句目などはやはり佳吟であろう。栞文の加藤治郎も指摘しているように、一句目では「手術同/意書に署名し」の句跨りと、シュ、ジュ、ショ、ショ、シ、ジュの句頭韻が、大きい効果を上げている。四句目の読み方は難しいが、評者は「タンソウシャ/センカイフユト/モシセンカイ」の五七六で読んでおく。「手術同/意書に署名し」に比べても、格段に恣意的な句跨りであり、不自然な韻律ということになるが、それこそが作者の置かれた状況に吊り合ってもいると考える。とまれ、平成十五年末のこの手術自体は成功だったらしく、
初深空これよりの予後永かれど

と、ひとまずの安堵の句が詠まれる。ところがこれに続く次の句は、

覚めていきなりの眩暈や立葵

と、半年もとんでしまうのである。この鬱の発症と癌手術との関係などは、評者には詳しいことはわからない。立葵の句につづく、

とととととととととと脈アマリリス
みづいろの抗鬱剤や夏燕

の二句は、それでも秀逸であるが、この先はさすがに作句への集中力を維持することが難しくなっているのであろう、〈ひとつづつかぞへて螢袋かな〉〈あめつちのまぶしすぎるよ水馬〉のように、定型の記憶のようなところで一句を仕立てざるを得ないケースが増えているのは是非もない次第であった。それでも以下のような句は佳いと思った。読み手によってまた別の句も採れるだろう。状況の深刻さを思えば、これは少ない数ではないはずだ。

噴水の芯にかくれしひとりかな
凛々と夜の辛夷や叫びたし
亀鳴いて甘言はもう十二分
花は葉に話したくなし会ひたくなし
  十八代目中村勘三郎襲名披露公演
片岡仁左衛門口上間違候春
けふを臥すほたるぶくろにあすも臥す
  今井豊氏、脳腫瘍手術成功
生きてゐるだけで充分ほととぎす
水馬の水輪のひかり瞳
(め)のひかり
室の花白し水原紫苑より
ひとたびは生を彼岸に冬ざくら
幻聴も吾がいのちなり冬の蝶
鬱といふ文字にも狎れて春のくれ
まひるまの蓬をたべてねむりけり
月天心コップの底に水のこり
つゆくさや詠めば詠むほど親不孝
水馬いのちみづみづしくあれよ
梅雨明のみづうみ自転車がふたつ

加藤治郎は、〈修辞的であり、かつ生身の人間の叫びは紛れない。この自在さは何だ。〉と書いているが、「この自在さ」は先程記したように、中岡がいわば体に残った定型の記憶に勝手にさせる他ないためにもたらされている。表現の拡散を、定型の記憶が繋ぎとめているところに、独特の味が生まれているといった感じではないか。空を飛ぶ鳥が自由などではないように、中岡も実際のところ“自在”を得ているわけではない。「叫びたし」のような主情の表出は、俳句界の或る場所ではありふれているが、本来、中岡が自分に許すはずのない表現だ。「水輪のひかり瞳のひかり」などの着想も同様だろう。それにしても、厳しい病状のもとでこれだけの成果をあげられるほどに定型の記憶が働き得たのは、「詠めば詠むほど親不孝」と自ら歎ずるほどの俳句への打ち込みがあったればこそに違いない。『啓示』の帯には、

得体のしれない不安、絶望、恐怖に人を陥れる鬱という病。その病に苦しむ著者はやがて絶望の淵より徐々に癒されていく……。身近な自然がもたらす美しい恩寵の光によって。

とある。その通りであって欲しいと思う。


(※)中岡毅雄句集『啓示』は、著者より贈呈を受けました。記して感謝します。

(*1)
中岡毅雄句集『啓示』 ふらんす堂 七月十一日刊
(*2)中岡毅雄句集『一碧』 花神社 二〇〇〇年
(*3)山本健吉『現代俳句』の正岡子規の項より
(*4)『NAMI――梶井照陰写真集』 リトル・モア 二〇〇七年
(*5)伊東静雄「帰郷者」/『わがひとに与ふる哀歌』所収
(*6)句集『暗緑地誌』所収

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あとがき(第48号)

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■高山れおな

やや夏ばて気味です。体というより以上に気分が。ではでは。


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・「遷子を読む」の先号、今号つづけて「写生」についての言及があり、興味深いです。「写生」をめぐってなにかが起きる予感がします。

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 44号:プーケットタウン、タラン通り
 45号:ビーチサッカーに興じる少年たち
 46号:パトンビーチ北端の丘より
 47号:サファリの若い象(6歳)
 48号:パトンビーチ夕景


2009年7月18日土曜日

俳句九十九折(43) 俳人ファイル ⅩⅩⅩⅤ 飛鳥田孋無公・・・冨田拓也

俳句九十九折(43)
俳人ファイル ⅩⅩⅩⅤ 飛鳥田孋無公

                       ・・・冨田拓也

飛鳥田孋無公 15句


踏み踏みて落葉微塵や寒の入

月潜む靄のかがよひ雁寒し

霧はれて湖(うみ)におどろく寒さかな

青天に葡萄の泳ぐ風迅しや

人ごみに誰れか笑へる秋の風

炎天や人がちいさくなつてゆく

そくそくと銀河に生るる風ききぬ

雪だるま月の細きは届かずて

海ゆかば秋風の青くも見えめ

河の水やはらかし焚火うつりゐる

さびしさは星をのこせるしぐれかな

瞑りつつまぶたにうくる春日かな

山螢風に掬はれ色消しぬ

返り花薄氷のいろになりきりぬ

秋風きよしわが魂を眼にうかべ



略年譜

飛鳥田孋無公(あすかだ れいむこう)

明治29年(1896) 神奈川県生まれ

明治43年(1911) 俳句に親しむ

明治44年(1912) 雑誌に詩歌などを投稿 詩人の山村暮鳥、三木露風に私淑

大正6年(1917) 臼田亜浪の「石楠」に入会

昭和8年(1933) 9月逝去(38歳)10月句集『湖におどろく』



A 今回は飛鳥田孋無公を取り上げます。

B この作者も臼田亜浪の弟子の1人ということになります。

A この作者については、現在では、ほとんど話題になることはないようですね。

B 一応、角川書店の『現代俳句大系』の第1巻に、唯一の句集である『湖におどろく』が収録されているのですが、やはり現在においては、あまり顧みられることはないのではないかと思われます。

A 飛鳥田孋無公は、明治29年(1886)神奈川県生まれ。明治43年(1911)頃から俳句に親しみ、明治44年(1912)には雑誌などに詩歌などを投稿、詩人の山村暮鳥、三木露風に私淑しました。

B 10代の頃から文芸に興味を持っていたということになるようですね。

A その後、大正6年(1917)の22歳頃になると、臼田亜浪の「石楠」に入会し、本格的に句作をはじめ、以後「石楠」の同人となって活躍することになりますが、昭和8年(1933)の9月に、38歳で逝去しています。

B 句作期間は、大体22歳ごろから38歳に亡くなるまでの17年間ほどということになるようですね。

A 昭和8年(1933)の逝去の1ヶ月後の10月に、句集『湖におどろく』が出版されています。

B では、その作品について見ゆくことにしましょう。

A 今回、資料として参照しているのは、おおよそが『湖におどろく』からのもので、この句集には、大正6年(1917)から昭和8年(1933)までの17年の間「石楠」に発表された全作句1054句の中より、本人が自選した923句を逆年順に収録した内容となっています。

B この句集が、孋無公のほぼ全句集にあたるものであるといっていいでしょうね。

A では、その作品について見てゆきましょう。

B まずは、俳句を始めた初学時代ともいうべき時期である、大正7年における作品には〈桟の虫髭ふつて居り月の靄〉〈斃ち鴉かこむ大群の寒がらす〉〈一旦は照つて峠の霰かな〉〈樋洩れ水草茎を閉ぢ氷らせぬ〉〈残雪の底ゆく水を汲みにけり〉〈柚の花の降つてくる朝炊ぎかな〉〈栗の花もむ嵐にとぼそ匂ひ満つ〉〈蔦新葉みづみづと螢一つ行く〉といった句が見られます。

A 初学の頃の作としては割合高い水準を示しているようですね。そして、やはり亜浪門における作者ということで、全体的に臼田亜浪の作風に近いものが確認できるところがあるようです。

B 「茎を閉ぢ氷らせぬ」「残雪の底ゆく水」「蔦新葉みづみづ」といったあたりの表現には、亜浪の持っていた澄明さと通い合うものがあるように思われます。

A 〈一旦は照つて峠の霰かな〉の句については、亜浪に大正5年作の〈氷上に霰こぼして月夜かな〉といった作品があり、それに近いものがあります。

B 続いて大正8年には〈雪の上に降る木の葉また雪来たり〉〈踏み踏みて落葉微塵や寒の入〉、大正9年には〈枯葉揉まるる音澄んで雪原の月〉〈月さして闇ゆらぎ消ゆ庭涼み〉〈虫音そこここ眼な底澄みぬ野の歩み〉、大正10年には〈月潜む靄のかがよひ雁寒し〉〈風呂にゐて胸のときめく暮雪かな〉〈花泛ぶなか澄ましゆく水馬〉〈谷若葉森々と眼(まみ)澄んで来し〉〈月暮れていよよ真白き幟かな〉〈雷あとの吹きしむ風も水辺かな〉〈水暮れて風いや青し行々子〉〈電線をはしる雨玉夏ゆく日〉〈かまつかの領布(ひれ)ふるごとし風澄んで〉などといった作品があります。

A どの句も、清新な気に溢れているのがわかりますね。

B また、それだけでなく、やや抒情的な雰囲気も感じられるところがあるようです。

A そうですね。大野林火ほどの抒情の強さといったものは感じられませんが、大正10年の「胸のときめく暮雪」「月暮れて」「雷あと」「水暮れて」などの表現からは、やはりやや抒情的な雰囲気が感じられるようです。

B 孋無公は、詩人の山村暮鳥の詩を愛読していたとのことで、それらの作品からの影響といったものも考えられそうです。孋無公がもっとも好んだ暮鳥の詩は「雲」という短いもので〈丘の上で/としよりと/こどもと/うつとりと雲を/ながめてゐる〉といった大変シンプルな内容のものです。

A 孋無公は、大野林火が俳句を始めた頃に、林火の指導も行っていたことがあるそうで、林火の抒情性溢れる作風を決定付けたのは、この孋無公からの影響というものが小さなものではなかったそうです。

B では、続いて、大正11年の作品について見てゆきたいのですが、この年には〈夕霧に微風ながれて家路かな〉〈雪やんで波の満月泛びたり〉〈芽木の高木ぬれつつ傾しぐ星の空〉〈霧はれて湖(うみ)におどろく寒さかな〉〈風だちて落花の光る波上かな〉〈人減つてゆけば涼しき夜の青葉〉〈夜の雲水のごと敷く夏あはれ〉〈裹まれて居る涼しさの夜半の霧〉〈露雫ぽとりと脳に利く夜半〉〈青天に葡萄の泳ぐ風迅しや〉〈人ごみに誰れか笑へる秋の風〉といった作品が見られます。

A 〈霧はれて湖(うみ)におどろく寒さかな〉は、孋無公の代表作とされています。

B 霧に閉ざされていた狭い視界から、霧が晴れて、一気に、湖の広大な風景へとその視界が転換されるダイナミズムがありますね。

A 空の青さと、それが湖の水面に鮮やかに映っている清新さ、そして「寒さ」という言葉によって、湖そのものの冷たさと澄明さというものが強く喚起されるようです。

B こういった句は、亜浪の本質である透徹したポエジーと、やや質的に近いものが感じられると思います。

A そうですね、また、亜浪の〈鵯のそれきり鳴かず雪の暮〉〈天風や雲雀の声を断つしばし〉といった作品に見られる時間性のコントロールによる手法の存在を見ることもできそうです。

B 孋無公の句では、霧に覆われていた時間から、湖が姿を現すまでの時間が1句の中に込められているというわけですね。

A また、この年には〈人ごみに誰れか笑へる秋の風〉といった作品も見られます。

B この句も、孋無公の代表句といってもいいようなところがあるかもしれません。

A 「人ごみ」ですから、どちらかというと当時の「都市」における俳句ということになると思います。

B 様々な人々が行き交う街中で、不意に誰かの笑い声が聞こえてきたということのようですね。

A おそらくその笑い声というものは、あまりはっきりとしたものではなくて、人ごみにおける様々な雑音の入り混じる中において、ふと一瞬、何処とも知れないやや離れたところから、かすかに耳に入ってきて、意識の内に認識されたものなのでしょう。

B いままで「人ごみ」の中を無心に歩いていて、ふと、その笑い声で我にかえったような感覚とでもいうのでしょうか。そのことによって、なんとなく、「人混み」という空間における妙な「静寂」や「寂しさ」といったものが、強く喚起されてくるところがあるようです。

A そして、そこに「秋の風」という季語が配されていますから、そういった寂寥感ともいうべきものはさらに増すところがあるようですね。

B その後は、そういったちょっとした笑い声にも関わりなく、「人ごみ」から「私」自身の存在も、遠ざかって行くということになるのでしょう。

A 内容的には「人ごみ」の中で、誰とも知れない笑い声を捉えたという、ただそれだけのことなのですが、この句には都市の生活における、「人ごみ」の中の寂寥感、即ち軽い「抒情」の存在といったものが表現されているようです。

B では、続いての作品ですが、大正12年には〈風吹けば風のごとゆく月夜寒む〉〈茜うつろはで夜となる河口寒む〉〈日ざす渚だんだん寒く飛燕澄む〉〈麦の穂の夜は夜とて澄む露の風〉〈一人となつて原つぱ青し風が吹く〉〈街燕なぐれゆく風の橋ゆがむ〉〈水際ゆいてしんみりさむし夏の星〉、大正13年には〈わが顔のひとり突つ切る路上寒む〉〈妻の顔見てなにもなし雪暮るる〉〈水汲みが去んで冷たや夕山吹〉〈月さすと前栽の青さ澄みきりぬ〉〈町に出て宵は涼しき花屋かな〉〈窓暮れて日はまだおちず風青し〉〈棚の茶器にこほろぎが黒くすむ夜長〉、大正14年には〈山にのぼりて月吹く風はかなしけれ〉〈薄原暮れてもあかき夕焼かな〉〈いや青き池と暮れ呼ぶ行々子〉〈まひまひにしばらく昏む葦葉かな〉〈馬の鼻きるつばめ音の青き暮れ〉といった句が見られます。

A こういった作品を見ると、孋無公の句には、なんというか、全体的に「冷たさ」というか「ひえびえ」とした印象を伴ったものが多いようですね。

B そうですね。これまでにも〈踏み踏みて落葉微塵や寒の入〉〈霧はれて湖(うみ)におどろく寒さかな〉〈人ごみに誰れか笑へる秋の風〉といった作品があるわけですから、やはり、ひえびえとした感覚の作品が多いように思われます。

A いま挙げた作だけ見ても、「月夜寒む」「河口寒む」「だんだん寒く」「露の風」「しんみりさむし」「路上寒む」「雪暮るる」「水汲みが去んで冷たや」「宵は涼しき花屋」「茶器にこほろぎが黒くすむ」「月吹く風」といった、如何にも冷ややかな表現が見られます。

B こうみると「冷たさ」や「ひえびえ」とした感覚といったものが、孋無公の作品における特徴の一つとして数えることができそうです。

A また、この時期の句を見ると、全体的に赤、青、黄、黒といった色彩感を感じさせる句が少なくないようですね。

B 「月夜寒む」「茜うつろはで」「原つぱ青し」「夕山吹」「月さすと前栽の青さ」「花屋」「風青し」「こほろぎが黒くすむ」「月吹く風」「あかき」「青き池」「しばらく昏む葦葉」「青き暮れ」といった言葉ですから、非常に色彩感に満ちていることがわかりますね。

A これまでの作品にも色彩の多彩さといったものは、少なからず見受けられるところがありました。これには、山村暮鳥などの詩の世界からの影響といったものも考えられるのかもしれません。

B また、時代的には大正14年ですから、俳句の世界では水原秋櫻子などの新風の活躍が目立ってくる時期でもあります。

A 秋櫻子の作品といえば、明るい外光による鮮やかさといったものがその特色でした。

B 秋櫻子のそういった色彩感覚を感じさせる作品としては〈源平桃遠眼に赤の咲き勝つて〉〈帰省子に雨の紫陽花濃むらさき〉〈綺羅星の中の青きが流れけり〉といったものがありますね。

A あと、こういった色彩感覚といったものは、当時のモダニズム辺りからの影響でもあると考えることも可能であるかもしれません。

B この大正の末年から昭和初期という時代は、まさしくモダニズムの時代で、俳句そのものも大きな変化を見せる時期ですから、孋無公にも、このような時代の影響が及んでいた部分もあると思います。

A この時代のやや後の新興俳句の作品にも、数多くの色彩感覚を駆使した作品が見られますし、石田波郷の昭和初期の作品にも〈月青し早乙女ら来て海に入り〉〈描きて赤き夏の巴里をかなしめる〉〈百合青し人戛々と停らず〉〈秬焚や青き螽を火に見たり〉などといった作品が見られますから、強い色彩感覚による表現は、この時代におけるひとつの流行であったといえるかもしれません。

B では、続いて作品を見てゆくことにしましょう。

A 大正15年の作品を見ると〈炎天や人がちいさくなつてゆく〉〈風の家菊に人なく暮れてゐる〉〈夕たゆし土にとどかぬ雪を見る〉〈枯林きられてをれば風とめず〉〈花埃り行つてしまひし路ひかる〉〈夕ざくら河がひたひたあたたかき〉〈風の銀河に葭きくきくと吹かれけり〉、昭和2年には〈かげながす案山子の淡きすがたかな〉〈消えやすき日のさらさらと何ふらす〉〈冬木中青木ひとつがちいさなる〉〈よはの冬木くろし空たかく風消ゆ〉〈われも下りてゆく石段の凍てゆがみ〉〈氷嚙む土の匂ひのはかなき日〉〈戻りがけ日のさしてゐる田の氷〉〈夕方の雪かすめども山まざと〉〈菜の花にさみしき雪はふりだしぬ〉〈雹のなかつめたき蔦は葉をよせて〉〈涼風や椅子かたまつてかげさしぬ〉といった作品があります。

B この時期になってくると、初期の頃の作品と比べるとはっきりすると思いますが、段々と「ひらがな」による、やや柔らかさを伴った表現が目立つようになってきますね。

A このあたりとなってくるとやはり単に亜浪からの影響だけではなく、やや孋無公における独自の要素といったものが作品の上にあらわれてくるようですね。

B 山村暮鳥の詩にもひらがなを多用したものが少なくありませんから、そこからの影響といったものが少なくないのかもしれません。

A 暮鳥には、詩の全体がひらがなのみで構成されている作品といったものがいくつも存在します。

B 孋無公の作品では、ひらがなの表記を多用することによって、柔らかい印象のみでなく、作品の世界が具体的な明確さを失い、輪郭そのものが稀薄なものになり、全体的に非常にぼんやりとした雰囲気となっている印象がありますね。

A それゆえに、全体的に「存在そのものの危うさ」とでもいったものが表現されているようにも思われるところがあります。〈炎天や人がちいさくなつてゆく〉という句を例にとるとわかりやすいですが、ひらがなによる表現による印象のみならず、「人」の存在そのものが小さくなってゆき、淡く消えていってしまうように表現されています。

B 昭和3年には〈小春山草ながくして人もこぬ〉〈枯草の一茎青みのこしをり〉〈雪虫雪虫とひとつみし思ひすぎにけり〉〈大つごもり村は皆寝て星ばかり〉〈雨あびて鵯は裏山へとぶ〉〈裏山の東風澄みまさり来たりけり〉〈切れ凧が日のさす山に落ちてゆく〉〈雪うすくなる枯枝のこうごうし〉〈降りかけやかげうすうすと金魚売り〉〈水こえていづちの山のほたるかも〉〈そくそくと銀河に生るる風ききぬ〉〈月うつるこの眼を吾子が見るならめ〉といった作品があります。

A これらの作品からも、「存在の儚さ」とでもいっていいような、様々な事物の存在そのものが危うく消え去ってしまいそうに感じられるような印象の句が、いくつも見られますね。

B 「枯草の一茎青みのこしをり」「切れ凧が日のさす山に落ち」「雪うすくなる」「うすうすと金魚売り」「銀河に生るる風」「月うつるこの眼」といった辺りの作品には、確かにそのような印象がありますね。

A 昭和4年の作には〈骨芒夕日ふることさかんなり〉〈きよらかに川がありけり冬はじめ〉〈山越しに極月こほる風ききぬ〉〈雪すぐにやんでおほきく磧かな〉〈雨あびて看板の雪ちとばかり〉〈山の空まことに碧き寒なかば〉〈河の水うごいてゐたり凍ての日も〉〈沖へ行つて消ゆ凍て雲のゆくへかな〉〈雪だるま月の細きは届かずて〉〈月さすや萍の咲きをはる花〉〈こぞり吹く風夕飯の茸にほふ〉〈海ゆかば秋風の青くも見えめ〉〈霧の中微風ながるるさ音かな〉、昭和5年には〈河の水やはらかし焚火うつりゐる〉〈雨の枝途につきでてまだ青し〉〈切れ凧が身をすぼめゆく冬がすみ〉〈さびしさは星をのこせるしぐれかな〉〈月明りたんぽぽのひそかなる黄かな〉〈瞑りつつまぶたにうくる春日かな〉〈輪廻生死さくらのまへに日が行きぬ〉〈山螢風に掬はれ色消しぬ〉といった作品が見られます。

B これらも「骨芒」「雪すぐにやんで」「看板の雪ちとばかり」「沖へ行つて消ゆ凍て雲」「月の細きは届かずて」「萍の咲きをはる花」「秋風の青く」「微風」「切れ凧が身をすぼめゆく」「星をのこせるしぐれ」「たんぽぽのひそかなる黄」「輪廻生死」「山螢風に掬はれ色消し」ですから、やはり、存在そのものにおける有無というのでしょうか、その生と滅といった運命に眼を向けているような雰囲気があります。

A まるで、これらの作品は孋無公の存在、即ちその生命在り方そのものとリンクするところがあるようにも思われるところがありますね。

B 孋無公はずっと病弱でしたから、やはり、自らの存在そのものにおける有と無や、幽と明、即ち「生と死」といった問題に対して常に切実に意識を向けざるを得なかったはずですから、そういった要素が作品の上に表れているように思われます。

A 昭和6年の作品には〈返り花薄氷のいろになりきりぬ〉〈三日月の切つさきふるふくさめかな〉〈またけふも氷りはじめる田づらかな〉〈やみぎわの雪柔かく赤土へ〉〈立春や川ちいさきに星あそび〉〈愴惶と魚がはしりしおぼろかな〉〈壺焼の壺にふる雪噴かれけり〉〈クローバや雨の焚火が雨焼いて〉〈泳ぎゐてとほき波音に恍惚す〉〈秋風きよしわが魂を眼にうかべ〉、昭和7年には〈昼の灯のあまりに淡き秋の風〉〈昼の霜草に青みをのこしたる〉〈月がでてころげさうな山の岩々〉〈霙たまるふしぎにたつやうすあかり〉〈わが家に枯野迫るを見下ろしぬ〉〈けふの雪果つる枯木のしづかさよ〉〈森閑のさくらへこもる月の息〉〈唯とろりとす春昼の手紙焼き〉といった句が見られます。

B やはりどの句にも、非常に繊細なものが張りつめているのが観取できますね。

A 〈返り花薄氷のいろになりきりぬ〉の句においては、「返り花」の存在を「薄氷」の色と同質のものとして見たわけですね。

B そのことによって「返り花」における存在そのものの儚さといったものが、強く喚起されてくるところがあります。

A 〈秋風きよしわが魂を眼にうかべ〉という句に至っては、既に自らの魂を秋風の中に見てしまっているような印象があります。

B 秋の透きとおった空気の流れの中における、虚とも実ともつかない、魂の存在。まさしく幽明の境における作品といった感じがします。

A この昭和7年から、孋無公の体調は益々優れなくなってきていたそうです。

B そして、翌年の昭和8年において、38歳で亡くなるというわけですね。

A その昭和8年の作品を見ると〈鉄漿いろに蔓が枯れてる野分かな〉〈たはむれにくらがりにをる秋涼し〉〈夏草刈り若人ゆゑに瞳の青き〉〈雪のなか一木に遭ふ日ぐれかな〉〈やはらやはら燃え終らんとする焚火〉〈身をつつむ雪に剋して心燃ゆ〉〈竹かげや桶の氷のそだつにも〉〈おしやかさまちかき日のさす枕上み〉〈きのふけふうすくながるるかすみかな〉〈雨よくとけて霞になんぬ霽りばな〉〈落花たまれば水に色濃くゆふべかな〉〈空林のなくなるところ芽が黄なり〉〈ゆふがたやなほひかりをる麦の茎〉〈こやりつつみなづきの日を瞼かな〉〈飼ひひばり放たるるあからあからの天〉〈ひとりづつひとりづつ去るに花淡し〉〈祭の空ひかるばかりの雷すぎし〉〈にはか雨金魚へらへら斃ちさうな〉〈いてふの露たれがちに天の河ふけぬ〉〈立秋の雲天上は無風かな〉〈あなうらへ露をふれさせ生きたさよ〉といった作品が見られます。

B やはり、どの句にも、存在の儚さ、幽けさ、といったもの、そして、ほのかな抒情といったものの存在が感じられますね。

A さて、飛鳥田孋無公の作品について見てきました。

B 全体的に表現としては不十分なものもいくつか散見されるところがありますが、それでも、その作品は、他の作者には感じられない独自で不思議な魅力を湛えたものであるように思われました。

A 本人もこの句集『湖におどろく』の原稿を生前に眼にしていたそうですが、その自らの句集の草稿を眺めながら満足そうにしていたとのことです。

B 本人も自らの作品に手応えを感じていたということになるようですね。

A 孋無公の作品というものは、端的にいうと、亜浪における澄明でやや硬質なポエジーといったものを、ややマイルドな印象のものに変容させた作品であると思われます。

B そこには、おそらく山村暮鳥の持っていた抒情とひらがな表記が、少なからず影響を及ぼしていたのでしょうね。

A また、他には、作品全体から感じられる存在そのものの危うさとでも言うのでしょうか、様々な存在といったものにおける有と無、幽と明の境界線が、非常に曖昧なものであるように感じられる作品がいくつもありました。

B それゆえ、作品が、特に後年は、やや具象性といったものが後ろへと退いてゆき、全体的に「淡彩」といもいうべき雰囲気に包まれている印象がありますね。

A それは、先程にも指摘しましたが、やはり孋無公自身の生命の在り方と強く深くリンクしていたものなのでしょう。

B 存在そのものにおける「幽けさ」や「儚さ」といったものを見据える透徹した詩魂の存在、そして、そこに伴うほのかな「抒情」といったものが、孋無公の俳句における本質といっていいでしょう。

A 飛鳥田孋無公の作品は、現在に至るまで、いまにも危うく消え入ってしまいそうでありながら、それでも完全には消え去ることのない不確かな明滅を繰り返す、そういった危うい均衡の中における幽かなポエジーの光芒を、いまもなお宿し続けているようです。



選句余滴

飛鳥田孋無公


湯上りや林檎冷たき口の中

石室の石呻るよに雷雨かな

桟の虫髭ふつて居り月の靄

樋洩れ水草茎を閉ぢ氷らせぬ

残雪の底ゆく水を汲みにけり

柚の花の降つてくる朝炊ぎかな

雪の上に降る木の葉また雪来たり

月さして闇ゆらぎ消ゆ庭涼み

月潜む靄のかがよひ雁寒し

風呂にゐて胸のときめく暮雪かな

花泛ぶなか澄ましゆく水馬

谷若葉森々と眼(まみ)澄んで来し

月暮れていよよ真白き幟かな

雷あとの吹きしむ風も水辺かな

水暮れて風いや青し行々子

電線をはしる雨玉夏ゆく日

かまつかの領布(ひれ)ふるごとし風澄んで

夕霧に微風ながれて家路かな

芽木の高木ぬれつつ傾しぐ星の空

人減つてゆけば涼しき夜の青葉

夜の雲水のごと敷く夏あはれ

裹まれて居る涼しさの夜半の霧

露雫ぽとりと脳に利く夜半

風吹けば風のごとゆく月夜寒む

麦の穂の夜は夜とて澄む露の風

一人となつて原つぱ青し風が吹く

街燕なぐれゆく風の橋ゆがむ

水際ゆいてしんみりさむし夏の星

わが顔のひとり突つ切る路上寒む

妻の顔見てなにもなし雪暮るる

水汲みが去んで冷たや夕山吹

町に出て宵は涼しき花屋かな

窓暮れて日はまだおちず風青し

棚の茶器にこほろぎが黒くすむ夜長

夕たゆし土にとどかぬ雪を見る

風の銀河に葭きくきくと吹かれけり

消えやすき日のさらさらと何ふらす

冬木中青木ひとつがちいさなる

よはの冬木くろし空たかく風消ゆ

われも下りてゆく石段の凍てゆがみ

戻りがけ日のさしてゐる田の氷

くろぐろと雪のない道とけてゐる

菜の花にさみしき雪はふりだしぬ

雹のなかつめたき蔦は葉をよせて

涼風や椅子かたまつてかげさしぬ

小春山草ながくして人もこぬ

枯草の一茎青みのこしをり

雪虫雪虫とひとつみし思ひすぎにけり

大つごもり村は皆寝て星ばかり

雨あびて鵯は裏山へとぶ

切れ凧が日のさす山に落ちてゆく

雪うすくなる枯枝のこうごうし

あらぬ山仰げば梅雨の月懸り

水こえていづちの山のほたるかも

下駄の冷え銀河でてくる野づらかな

月うつるこの眼を吾子が見るならめ

きよらかに川がありけり冬はじめ

山越しに極月こほる風ききぬ

雪すぐにやんでおほきく磧かな

山の空まことに碧き寒なかば

河の水うごいてゐたり凍ての日も

沖へ行つて消ゆ凍て雲のゆくへかな

霧の中微風ながるるさ音かな

雨の枝途につきでてまだ青し

切れ凧が身をすぼめゆく冬がすみ

月明りたんぽぽのひそかなる黄かな

霽りばな山はさくらのかぎろひに

輪廻生死さくらのまへに日が行きぬ

たれ毛虫くる鳥もくる鳥もすぎぬ

たぞ見にけむこの夏暁のあをさを

炎天や鰻つかめば鳴くきこゆ

三日月の切つさきふるふくさめかな

またけふも氷りはじめる田づらかな

やみぎわの雪柔かく赤土へ

立春や川ちいさきに星あそび

愴惶と魚がはしりしおぼろかな

風すぎて蟬のこゑととのひけるよ

泳ぎゐてとほき波音に恍惚す

こめかみがじいんと鳴つて涼徹す

落葉風摺れちがへるに人思ふ

昼の霜草に青みをのこしたる

月がでてころげさうな山の岩々

霙たまるふしぎにたつやうすあかり

わが家に枯野迫るを見下ろしぬ

森閑のさくらへこもる月の息

唯とろりとす春昼の手紙焼き

たはむれにくらがりにをる秋涼し

夏草刈り若人ゆゑに瞳の青き

雪のなか一木に遭ふ日ぐれかな

やはらやはら燃え終らんとする焚火

身をつつむ雪に剋して心燃ゆ

鳥もなみ薄氷波にあそぶかな

竹かげや桶の氷のそだつにも

きのふけふうすくながるるかすみかな

雨よくとけて霞になんぬ霽りばな

落花たまれば水に色濃くゆふべかな

ゆふがたやなほひかりをる麦の茎

こやりつつみなづきの日を瞼かな

飼ひひばり放たるるあからあからの天

ひとりづつひとりづつ去るに花淡し

祭の空ひかるばかりの雷すぎし

月見草濃霧に咲いて昼なりし

山蝶や風べとべとと夕べめき

人なつこきとかげや草にひるがへり

立秋の雲天上は無風かな

あなうらへ露をふれさせ生きたさよ



俳人の言葉


詩はおどろきというのが孋無公の教えの根本である。おどろきは感動。それを彼はつねに私に説いた。用語についてもきびしかつた。言葉のいのちを説き、つねにみずみずしさを要求した。これらは彼が山村暮鳥の詩をこよなく愛したからである。

大野林火 「『湖におどろく』周辺」より 『俳句』1972年4月号

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