2009年10月31日土曜日

遷子を読む(32)

遷子を読む(32)

・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、仲寒蝉、筑紫磐井


ストーヴや革命を怖れ保守を憎み

     『雪嶺』所収

原:昭和36年作。句集での並び順から推察して、1、2月頃の作品。この前年に起きた社会的事件を列挙すると、

日米新安保条約調印(1月)

安保反対運動広がる

三池争議激化

岸内閣退陣(7月)

浅沼社会党委員長刺殺(10月)

以上の出来事のあった昭和35年に、遷子は次のような2句を詠んでいます。

誰がための権力政治黒南風す

夏痩の身に怒り溜め怒り溜め

まさに世情騒然たる有様で、当時何の社会的関心もない中学生だった筆者でさえ、これらのニュースはありありと記憶していますし、樺美智子、岸信介、浅沼稲次郎の名はたちどころに口を衝いて出て来ます。

掲出句は、このような世相、事件のただなかにあった大方の良識的知識層の偽らぬ感慨ともいえるものではないでしょうか。「革命を怖れ保守を憎み」との心情を、どちらに与することも出来ない自嘲と片付けてしまってはいけないような気がします。ジレンマにはちがいないけれど、赤々と燃えるストーヴの炎を見つめながら、じっと思念に耽っている男の姿が思われます。

中西遷子は社会的な事柄を自分にひきつけて描いています。今までの『草枕』や『山国』の作品とは趣を異にしています。高原俳句といわれた美しい風景詠などと比べますと、言葉の熟れていない恨みがあるように思いますが、内容的には新しい展開を見せています。社会性俳句を取り入れながら、それとは少し違うようです。自分の考えを述べているという点が、今までの遷子俳句にもなかったところです。

革命を怖れ」されど「保守を憎み」なのでしょう。1949年中華人民共和国の成立や、1961年キューバ革命を見ている世代です。戦争の恐ろしさは実感のあるものです。しかし、今の保守政権には憎しみさえ持っているというのです。岸政権の弱腰な新安保条約は多くの国民を失望させました。

原さんが、「良識的知識層の偽らぬ感慨ともいえるもの」とこの句を評しておられるのに賛同します。それにしても「憎み」というのは強い表現です。

着膨れて金貯めて欲つきざるや

「ストーヴの句」の4句先にある句です。資本主義のゆがみを詠っています。経済の変革期に当たる時代の人の思いが伝わってきます。この句には怒りも少しこめられているように思います。

不信とか、怒り、憤りを顕に描いています。

遷子の中にこんな激しい部分があったことに驚かされます。

深谷遷子は、この時期(昭和34~36年)に政治的事項をテーマとする作品を多く残しています。掲句もその一つですが、当時の政治情勢や社会世相抜きには理解しがたい句でしょう。先日、20代の若者達と句会を行った折、「ゲバ棒」という言葉を知らないと言われ、絶句したことを思い出しました。彼らからすれば、掲句の「革命」を怖れる心情はまだしも、憎むべき「保守」という構図は理解しがたいと思います。何しろ、つい最近、二大政党の間で政権交代が実現したといっても、系譜面でもイデオロギー(現時点では「政治信条」と言った方が適切かもしれません)面でも、両党とも「保守」主義に属する政党であるわけですから、保守主義の政党を認めないと、現実的には政権選択自身が非常に困難になってしまいます。ですから、あくまで句作当時の「保守勢力」を想起しなければならない作品でしょう。換言すれば、こうした(広い意味での)時事俳句は、時間の経過とともに、その作品価値の「劣化」を免れ難い宿命にあります。しかし遷子は、そんなことは百も承知だったような気がします。もとより、社会的名声や俳壇的地位を求めようとすれば、こんな作品は発表しないでしょう。それを承知で、敢えてこの句を世に出したところ、率直な心情吐露を行ったところに、遷子の句作信条が見受けられるように思います。

窪田日本人の曖昧な態度と指弾されかねない下十二音。若い人だったらこうは詠まなかったであろうし、詠んでも表には出さなかったであろうと思います。分別ある中年の句とでもいうのでしょうか。ストレートに自分の思いを句にするので大変分かり易い。遷子の正直な性格が伺える句だと思います。同じ昭和36年の作に、

虫の闇核爆発の灰が降る

人類明日滅ぶか知らず虫を詠む

などがあって、これらも当時の大人達のごくありふれた思いのような気がします。日記の余白にメモされたような句であるように思いました。

筑紫:今回から新しいメンバーに入っていてだきました。仲寒蝉さんです。角川俳句賞を受賞してらっしゃいますし、遷子ミステリーツアーでお世話になった島田牙城氏が宗匠をしている「里」の編集長をされている方ですからご存知の方も多いでしょう。医師であり、佐久に住まわれているということで参加をお願いしたものです。

寒蝉です。櫂未知子さんに憧れてこの道(俳句)に入り『港』という結社に所属しています。もともとは大阪出身ですが、信州大学医学部を出てそのまま地元の佐久市立国保浅間総合病院というところに就職しました。そんな訳で相馬遷子と同じ佐久の地に住んでいます。ここには同じ関西から来た、しかも同じ昭和32年生まれの島田牙城という変な男が邑書林という出版社をやっていて、数年前から一緒に『里』という同人誌を立ち上げ今はそこの編集長ということになっております。遷子という人については馬酔木の高原派というくらいの知識しかなかったのでこの機会に郷土の先輩(俳人としても医師としても)のことをもっと勉強したいと思い参加させていただきます。よろしくお願いします。

筑紫それでは早速コメントをお願いします。

仲:こんな激しい句が遷子にあったとは驚きです。遷子の政治的立場や拠って立つ思想などは不勉強にして知りませんが、ここには右とか左とかを越えた、原さんの言う「良識的知識層」としての思いが籠められているのでしょう。

佐久は新幹線の通った現在は勿論ですが、昔から東京志向の強い土地だったようです。医療関係でも有名な佐久総合病院を一代で築き上げた若槻俊一もわが浅間総合病院初代院長吉澤國雄もともに東大出身で東大の医局から派遣されて赴任しました。ただ若槻は共産党に入党しそうになったり労働組合を結成したりと筋金入りの共産主義者であった一方で、吉澤は戦後の中国で中国共産党に捕えられ共産主義の洗脳を受けたものの最後はそれを断固拒絶して帰国したという違いはあります。

佐久の人達は議論好きですから寒い冬(当時は屋外で氷点下15度にもなったでしょう)にストーブを囲みながらやれ保守だやれ革命だと口角泡を飛ばしていたことでしょう。そうした中、革命の側にも保守の側にも与せず、良識ある一知識人、医療という職に就く者として世の中の動きを見ているという立場に私は共感します。それは旗色不鮮明とか況して日和見とかいうものでは断じてなく、積極的中立とでもいうべき姿勢ではなかったでしょうか。この句の語調の激しさにそのような思いを感じ取ることができます。

今回の衆議院選挙と重ね合わせてはいけませんが、政権がどう変わろうと自分の行おうとしている医療にとって不利益でなく、患者すなわち地域住民に益する方向であればよいというのが一般的な医療人の姿勢のように思います。

筑紫:遷子が社会的関心をあらわにした『雪嶺』時代の俳句です。

隙間風殺さぬのみの老婆あり 36年

農婦病む背戸叫喚の行々子

このように、もともと遷子の社会的関心は、佐久の農民たちと、自らの医業を素材に詠まれたのですが、ここに至って社会全体への思いが俳句として詠まれています。果たして、俳句として成功しているかどうかは別にして、遷子を語る際に避けて通れない傾向だと思います。なぜなら、農民の暮らしや医師の生活について考えていったとき、抽象化された社会とか国家にたどり着かざるを得ないからです。

確かに、ストーヴからは安易にロシア(旧ソ連)を連想しますし、それはロシア革命につながります。その意味では熟成した表現とはいえないと思います。しかし、この句を読むとき、これを遷子が残した傑作とすべきかどうか議論することは誰もしようとしないと思います。それよりは、戦前の甘美な馬酔木俳句を詠み、戦後は高原派として知られた遷子がなぜ、常識ある俳人からは退歩と思われる俳句を詠んだのか、こそを知りたいと思うのではないでしょうか。

高原派といえば、堀口星眠氏は、佐久ほどではないにしても東京のような都会から比べれば辺鄙な安中で開業医をしていますが、遷子のような俳句の道をたどりませんでした。むしろそれが普通でしょう。遷子の道は独自の道であったといえるかもしれません。

特に考えなければいけないのは、革命も戦争も、その意味では個人個人の体験によって得られる共感も変わってくるはずです。この句に「戦争」という言葉は出てきませんが、背景にはやはり戦争が控えているに違いないと思います。この句の1年後には、キューバ危機が起きています。昭和37年1015日から28日までの13日間は人類が核戦争で滅亡する危機をさまよった頂点の時期でありました(窪田さんが引用した句は一種の予言のようにも受け取れます)。革命と保守の対立は、結局ここに流れ込んで行くのです。

こうした文脈から考えると、こんな時代によく、むしろ逆に花鳥諷詠と高原俳句に専念できた人々がいたことに感心してしまいます。たとえてみると、どんなに国際社会が激変しようが、日本で革命が起きようが、そうした政治情勢とは別に、村役場は開いて、村民の日々の生活のために住民登録や埋葬許可書は発行しなければなりません。個々人は何を考えようとかまいませんが、村役場の機能とはそうしたものなのでしょう。いやであれば、村役場に務めている職員は、時間外であるか、休職して、新しい社会を作る運動を起こすしかありません。遷子を含めて社会の動きに敏感に反応した作家たちは、俳句に関して、そうしたことを視野においていたように思うのです。それは作家的良心に照らして決して間違っていたわけではありません。ただ、それが現代俳句にうまくつながっていないという、ただそれだけのことなのです。

話は変わりますが、堀口星眠氏の回想に、軍隊時代を語った遷子の言葉があります。「遷子は従軍時代を多くは語らなかったし、私もくわしく聞くこともなかったが、1つだけ、何かの話で戦争のことにふれたとき、『馬に乗っては行軍したが、敵弾が飛来すると、馬から降りるのが実に早かった。こわいのですね。気がつくともう真先に下りているのですよ』という意味の思い出を語って笑っていたことがある」。医者だけに命をいとおしんだ遷子であったのでしょう。遷子はその意味で戦争に対する嫌悪ではなく、恐怖こそが強かったように思います。前回、中西さんがあげた、

麦照るや弾が掠めし耳いたき

が、先ほど「個人個人の体験によって得られる共感も変わってくる」と述べた遷子の戦争体験につながるように思うのです。

【追加】昨年末、復刻された『川口重美句集』という句集があり今、読みなおしています。東大工学部に在籍していた「風」の同人で、昭和24年、25歳で女性と心中してなくなった俳人です。昭和38年に仲間と親戚たちによって句集が上梓されました。この中の作品を読むと、昭和20年代から30年代に生きた人たちの俳句に対する考え方は、今日とおどろくほど違ったものであることが分かります。むしろ当時と驚くほど違ってしまった私たちが恐ろしくすらなるのです。

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あとがき(第62号)

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■高山れおな

関悦史さんの「天使としての空間―田中裕明的媒介性について」は、第11回俳句界評論賞受賞論文です。初出は「俳句界」2009年6月号。再録をお許し下さった同誌編集部に感謝します。

さて、この論文について、〈冒頭に中沢新一の縄文土器の考察から「稚児性」を借りて、天使性との関わりを考えるのも強引〉と批判しつつも、

論自体が具体性に富み、目指すところに文学的な詩情がある。

と述べるのは、同賞選考委員の宮坂静生氏の選評。また、同じく選考委員の岸本尚毅氏の選評は、

「田中裕明的媒介性について」という支離滅裂な副題の通り、天使性、稚児性などというワガママな概念設定から裕明の句へ急接近する。極めて独断的な筆致を通して、裕明の本質に迫っていることに驚く。

と、あきれ顔で賞賛しています。というわけで未読の方はどうぞ、関さんの天使的ワガママをご堪能願います。わたくしも来週あたりからまたワガママにやりたいと存じます。


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10月18日 日曜日

「オートバイ」の俳句を集めてみたいという気になった。

激論つくし街ゆきオートバイと化す   金子兜太『金子兜太句集』より

断水の夜となりオートバイ騒ぐ  鈴木六林男『第三突堤』より

明るい山肌残すため散るオートバイ  赤尾兜子『虚像』より

魂魄すがしく飛ばす昼月オートバイ  大橋嶺夫『わが死海』より

オートバイ荒野の雲雀弾き出す  上田五千石『田園』より

春終る路傍大破のオートバイ  馬場駿吉『夢中夢』より

鶴のように空で疲れるオートバイ   阿部完市『絵本の空』より

内臓あらわなり放蕩のオートバイ  高野ムツオ『陽炎の家』より

秋夜寒オートバイだけが友達なの   栗林千津

秋風や蝿の如くにオートバイ  岸本尚毅『舜』より

オートバイ内股で締め春満月  正木ゆう子『静かな水』より

他にもこのようなオートバイを扱った作品の数は少なくないのかもしれないが、自分がどうにか探し出せたのはせいぜいこのくらいであった。

「オートバイ短歌」というものも、少なからずあるのかもしれないが、自分はあまり知るところがない。

冬海に横向きにあるオートバイ母よりちかき人ふいに欲し  寺山修司『血と麦』より

言葉など神経の掻き傷ならむくろがねのマシン操る者に  春日井健『水の蔵』より

一応自分の記憶の中に在ったのは、せいぜいのところこの2首くらいであろうか。春日井健の短歌については、はたして内容的にはオートバイであるのかどうか不明なところではあるが。


10月19日 月曜日

『坪内稔典句集』(芸林21世紀文庫 2003年)を再読。

坪内稔典さんといえば、やはり「甘納豆」や「河馬」などの俳句が有名であるが、個人的には長い間、文章の書き手であるというイメージの方が強かった。

それゆえ、作者としての坪内稔典とその俳句作品にはあまり興味がなく、さほどその作品にも注意を払ってこなかったのであるが、今回この選句集を久し振りに読み返してみて、「角川文庫」や「サロンパス」、「相撲」などの作品については、やはりそれほど面白いとも思えなかったが、他の作品についてはなかなか優れた句や高い水準を示していると思われる句が割合見つかり、すこし驚くところがあった。

家出するちりめんじゃこも春風も

男病むアジアを走る青い梅雨

夢殿を出て八方の秋日和

炎上の巨大タンカー春の雪

秋晴れや酸素を運ぶ四トン車

蓮枯れる古代へ戻る音立てて

膝抱けば錨のかたち枇杷熟れる

波音が月光の音一人旅

選句集の全体的には単に軽い印象の句が多いが、それだけでなく、時折真顔ともいうべきやや真剣な表情を見せる作品が、若干ながら見受けられるところがあるのもやや意外であった。


10月20日 火曜日

天上も淋しからんに燕子花  鈴木六林男『国境』より

鈴木六林男が亡くなる数年前、テレビの関西のローカル番組に出演しているのをたまたま眼にしたことがある。「ふーん、これが鈴木六林男か。」と、その好好爺といってもおかしくない柔和な笑顔と穏やかさを湛えた姿を、やや意外に思いながら(もっと無骨な感じかと思っていた)その画面を自分はぼんやりと眺めていた。

しばらくすると、掲句についての解説がはじまり、「燕子花」という表記には「燕」という文字が含まれており、その「燕子花」の垂れ下がった花弁は、燕の翼を連想させるところがあると説明し、地上も淋しいけど、天上も淋しいんやろうなあ、ということですわ、と関西弁でこの句が成立した当時の心情について述べていた。

「燕子花」における「燕」の意味が、この作品には鋳込まれていたのか、と自分は大いに感じ入り、そして、無意味なまでに広大な空という空間と、燕の翼のような形状の花弁を有しつつも地上を離れ得ない「燕子花」の存在のその宿命性ゆえの寂寥感といったものを思った。

ここに表現されているのは単に「燕子花」の美しさ、というよりも、その「燕子花」という植物の存在そのものの無常さと虚しさであり、また人間をも含む「地上」におけるあらゆる存在と、さらにいうなれば、「天上」をも含み込むこの世界そのものに対する深い虚無感ということになるようである。


10月21日 水曜日

以前、この連載において(七曜俳句クロニクルⅡ 9月16日)、「本郷昭雄」という作者とその句集『不知火幻想』(昭森社 1968年)について取り上げたのであるが、その内容を見て下さったとある俳人の方が、この本郷昭雄の資料をわざわざ集めて送って下さり、それが今日、自分の手元に届いた。その資料とお便りを読みながら、やはり本郷昭雄について簡単ながらも書いてよかったな、と感慨深い思いがするところがあった。

自分はこれまで、本郷昭雄については、野見山朱鳥の弟子で、一時期、馬場駿吉などの人たちと「点」という同人誌に参加しており、句集としては『不知火幻想』(昭森社 1968年)があり、1970年代の後半に湯川書房から『瞳孔祭』という句集を刊行予定であったがその出版社である湯川書房の倒産のため刊行が中止になった、といった程度の事実くらいしか知るところではなかったのであるが、今回資料をお送り下さった方のお便りによると、本郷昭雄は、その後、超結社誌である「晨」に昭和59年の創刊号から参加して作品の発表を行っていたとのことである。

「晨」といえば岡井省二が昭和59年に創刊し、その同人として大峯あきら、宇佐美魚目、山本洋子、茨木和生、西野文代、田中裕明、などの多くの関西の主要俳人を擁してきた、現在も刊行されている関西における代表的な俳句誌ともいうべき存在である。そこに本郷昭雄は創刊号の昭和59年から平成5年までの間、作品を発表し続けていたということである。

実際のところは、はっきりとはわからないながらも、この本郷昭雄の作品発表が平成5年あたりから「晨」の誌上に見られなくなるため、本郷昭雄はこの平成5年の時点で亡くなった可能性が高いということになるようである。『平成秀句選集』(角川文芸出版 2007)における物故者の作品のみによって編まれた「平成俳句年表」を見ても、その名前が記載されているのが確認できるため、やはり現在では、すでに故人であると見て間違いないようである。

句集についても、1968年の『不知火幻想』から亡くなったと推察される1993年までの約25年もの間、途中に『瞳孔祭』が予定されていたとはいえ、ついに1冊も刊行されることはなかったということになりそうである。

ということで、今回知ることができた本郷昭雄の俳句は「晨」における発表作品ということになる。『不知火幻想』に収録の作品は1964年までで、「晨」の発表作品が昭和59年(1984年)から平成5年(1993年)まで。この1964年から1983年あたりまでの間の約20年の作品展開については、依然として自分には不明のままである。この期間については野見山朱鳥の主宰誌である「菜殻火」を調べてみれば、さらに詳しいことがわかる可能性が高いであろう。

とりあえず、以下、今回教えていただいた本郷昭雄の昭和59年(1984年)から平成5年(1993年)までの「晨」における発表の作品の中より、いくつか抜粋してみたい。

粛粛と殷殷と冬大欅

山かげに斧とぐ漢梅近し

白桃の影きはやかに夜の家族

硝子器にかさなる指紋冬ふかし

火の山の霞の中に彳つは誰ぞ

目の玉の水のつめたく夏に入る

ひらきある西日の部屋のみんな空

柚餅子や吉野にひとり月の友

人間の目がわれを瞶る秋の暮

雪かむり巖やはらかや梅の花

一月は刀のごとく過ぎにけり

雪に雷厩の中は藁乾き

わが中の修羅の春愁まくれなゐ

落ちてゐる螺子の光や春の蝉

狷介なる友との旅の夏鶯

落日の黒き残像穴まどひ

かく生きてありけり冬の蟻地獄

無名とは寶冠とこそ囀れり

夕東北風(ならひ)鮫の断頭波止にゆれ

朝日子の大眞圓に囀れり

玻璃薄暑カメレオンをると見ればゐず

夏痩せて百済の佛めきにけり

浅間嶺に声を絶ちたる夏雲雀

白富士の裳裾百(もも)花百千鳥

しらぬひのくにへかへらむころもがへ

いざなひの手にいざなはれ螢狩

鴉かと見しは黒猫夕しぐれ

薔薇の季(とき)かの隻眼の研師来よ

ほとをでてほとにかへりぬ秋のくれ

武蔵野に惑へる蛇の如く在り


これらの句をみると、本郷昭雄は、やはり最後までただの作者ではなかった、というべきであろう。現在の作品(といっても色々であるが)とは、どこかしら袂をわかつ、作品そのものの持つ言葉の強さに伴う重みのようなものが感じられるところがある。

『不知火幻想』あたりの頃の作品と比べると、どちらかというと嘗ての美学的な傾向は消え去ってしまったわけではないが、抑制され沈潜し、作品の裏側において微妙にその影が揺曳しているのを認められる程度となっているように見受けられる。そして、全体的にその作風の重心が低くなったように感じられるところがあり、やや迫力のある雰囲気が備わり、作品のいくつかについてはそれこそやや古格にも近いといった風趣の句さえも見られる。使用されている言葉の印象がどこかしらありきたりな作品のものとは異なるところがあるように感じられるのは、やや漢語による印象が強いためであろうか。

こういった作品を見ると現時点で(自分にとっては)明らかになっていない時期における本郷昭雄の作品というものも、おそらく高い水準を示すものであると考えても差し支えないのではないかという気がする。今後、もし本郷昭雄の全貌というものがあきらかとなった場合、誰も知らないところで密やかにと〈無名とは寶冠とこそ〉の思いを胸に、ひとつの作品世界を彫啄し続けていた優れた作者の存在を目のあたりにすることができるかもしれない。

今回資料をお送り下さった方(この方も「晨」に所属されていた作者である)については、単純に、非常に親切な方であるということは勿論ながら、ただ、それだけにとどまらず、おそらく、この本郷昭雄という作者とその成果がこのままほとんど省みられないままに俳句の歴史の彼方に埋没、忘却させてしまうのはどうしても惜しい、という思いも少なからず抱いておられるのではないかという気がする。それゆえにこれらの資料をお送り下さったという側面もあるのではないかと、自分は勝手に解釈している。そして、1人の作者にそれだけの思いを抱かせるだけの実質を有していたのが、本郷昭雄という作者であり、その俳句作品であったということになるのであろう。

やはり、このような作品の例を見ると、過去の堆積に内に埋もれ現在では一瞥もされることのない知られざる優れた作者と作品の存在というものは、けっして少なくはないのかもしれない、という思いを新たにするところがあった。

そして、やや大袈裟な物言いになるかもしれないが、俳句における優れた成果の存在というものは、その有名無名を問わず、俳句というひとつの文芸のジャンルにおける豊かさや魅力といったものをそのまま保証するものであり、今後優れた俳句作品が生み出されるための原動力ともなりうる可能性のあるひとつの遺産でもある、といった、当たり前といえば当たり前としかいいようのない事実について、いま一度ここで思い起してみてもいいのではないかという気がする。


10月22日 木曜日

冬帝が五湖ことごとく瞰てゐたり  飯田龍太

掲句は、飯田龍太の最後の句集『遅速』以降の「雲母」平成4年3月号における作品の中のひとつである。この『遅速』とそれ以後の作品は、よく読んで見ると全体的にやや観念的であるというか、それこそやや「蛇笏」の作風に近接するものが感じられるところがある。

掲句を見ても、この高所から風景を俯瞰する視点というものは、やはり蛇笏的な作風の雰囲気が感じられるところがあろう。江里昭彦さんが指摘するところの蛇笏の〈覇者のまなざし〉である。

他にも、この時期の句を見ると〈冬帝の眼離さぬ怒濤かな〉〈大寒の巨樹に蝟集の茸あり〉〈雛の家も廃車の山も月夜かな〉などといったどことなく蛇笏を髣髴とさせるやや尋常とはいい難い印象の作品の存在が確認できる。

これは、やはり父親である蛇笏からの「DNA」の作用によって顕現してきた傾向というべきであろうか、それともここにきて、これまで龍太がどちらかというとこれまで峻拒してきた蛇笏的な作風との「和解」が、その内部において生じはじめた結果であると見るべきであろうか。

しかしながら、これらの作品傾向が例え蛇笏との「和解」によるものであったとしても、その後の龍太の「雲母」終刊、そして自らそれ以降筆を折るに到ったという事実が既に明らかとなっている現在、龍太の内部において、結局のところ蛇笏との「和解」はやはり成立しなかった、という気もしないではないところもある。

誰彼もあらず一天自尊の秋  飯田蛇笏『椿花集』より

またもとのおのれにもどり夕焼中  飯田龍太『雲母』平成4年8月(終刊号)より


10月23日 金曜日

蛇の衣水美しく流れよと  下村槐太

これまでに何度となくこの句については述べてきたような気がするが、簡単にその内容について説明すると、この句の内容は単純に「蛇の衣」が流れているだけといった作品ではなく、水に流れている「蛇の衣」の上に、「水の蛇」とでもいったような幻像が浮かび上がってくる、といった、それこそ「虚と実による二重の詩法」とでもいうべき手法によって生み出された作品ということになる。

しかしながら、このところ、この句には、まだこういった読みの他にも、まだ解釈が可能な余地が残されているのではないかという気がしている。

その読みについて説明すると、まず、おそらく、この作品における「蛇の衣」とは、「俳句形式」そのもののメタファーなのではないか、と思われる。そして、そのように考えた場合、流れる「水」とはおそらく「言葉」のことであり、またそれに伴う「調べ」のことである、といったように解釈することが可能であるかもしれない。

この句には、自らの俳句というものは、まるで「蛇の衣」の内に「美しく水」が流れ入ることによって現出する、この世ならぬ「水の蛇」の姿をそのまま髣髴とさせる嫋やかで優美なものであって欲しいという切なる願い、もしくは祈りが込められているのではないかという気がする。

ということで、この作品は、下村槐太における俳句作者としての「所思」そのものを表明した句としても読むことが可能なのではないかと思われる。

やや深読みであるように思われるところもあるかもしれないが、槐太には次のような文章も存在する。

俳句は、譬ふれば、脱ぎ掛けられた蛇の衣とも言へようか。ひとは、それを、人家の茨垣に見、焦土のかなむぐらの中に見る。佇んで、眼ほそめて、そこに宇宙を観ずるとき、まこと縷の如きものとして、それはある。抜け出して、蛇の行方は、杳としてわからない。(「蛇の衣」より 『金剛』昭和22年6月)

この文章は昭和22年のものであり、この「蛇の衣」の句についても同じく昭和22年のものである。

こういった「所思」というものを念頭においた上で、槐太の作品を読んでみると、またその作品の印象が、やや違って見えてくるところもあるのではないかという気がする。

祭あはれ夕焼がさし月がさし

秋の田の大和を雷の鳴りわたる

女人咳きわれ咳きつれてゆかりなし

貝殻のざぶざぶ濡るるいなびかり

死にたれば人来て大根煮きはじむ

事愛に関す杏の咲くはとほく

何もなく酢牛蒡に来し日のひかり



10月24日 土曜日

総合誌『俳句界』2009年11月号(文学の森)を読む。本日(24日)発売の俳句総合誌である。

今号の『俳句界』を読みながら、誌面が割合面白くなってきているのではないかという気がした。

内容を記すと、まず、筑紫磐井の特別作品33句。そして、特集である「20年後30年後あなたの結社はどうなっているか?」では、座談会のメンバーが斎藤慎爾、辻桃子、対馬康子、五島高資で、論考が江里昭彦、水野真由美など。

「魅惑の俳人たち」は、村上鬼城で、「話題の新鋭」というインタヴューは、マブソン青眼。そして、「俳句の未来人」という若手の作品欄には、相子智恵、如月真菜、神野紗希、冨田拓也、豊里友行、山口優夢といった名前が並ぶ。

そして、広告を見ると、第12回の「俳句界評論賞」の選者に、筑紫磐井と仁平勝の2氏(締切は平成21年12月20日)。

さらに、今回、第1回「北斗賞」という新人賞が創設されたようで、選者はなんと、石田郷子、五島高資、高山れおなの3氏。締切は平成22年3月31日で、応募資格は満年齢40歳まで、条件は既作、新作、未発表作を問わず、自作150句。受賞作は句集出版されるとのこと。

第3回芝不器男俳句新人賞の締切は11月30日までであるので、不器男賞に応募した方は、そのあとこの「北斗賞」に作品を応募するといいかもしれない。

今号の『俳句界』は、江里昭彦さんの評論など考えさせられるところが少なくないが、とりあえず、最後に「俳句の未来人」より作品をいくつか引用して、今週は御終いとしたい。

里芋十二個付きたる茎よ切らで売る  相子智恵

月の客芦屋あたりの人であり  如月真菜

無花果剥く書き損じたる稿の上  神野紗希

逃げ水がテロも戦も孕んでいる  豊里友行

秋の声土から月へのぼりけり  山口優夢

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2009年10月22日木曜日

関悦史「田中裕明論」

-Ani weekly archives 007.25.10.09-
天使としての空間
――田中裕明的媒介性について

                       ・・・関 悦史


紫雲英草まるく敷きつめ子が二人

第一句集『山信』の冒頭の句である。田中裕明の句業のはじまりに位置するこの句に、田中裕明の特徴のかなりの部分が既に開示されている。それは複数のものたちが天使的としか呼びようのない非物質的・超物質的な関係を軽やかにとりむすびあって対を成し、それが日常とは別の時空をあっさりと句のなかに実現させてしまうという特質である。

一九八〇年代のはじめに、山梨県大泉村で縄文後期から晩期にかけての遺跡が新しく発掘されたが、その住居跡からはおびただしい数の謎めいた丸石があらわれた。この丸石信仰について『古事記』『日本書紀』に記録された神話と対応させての解釈をした郷土史家たちの試みを、中沢新一が紹介している。

《丸石の出土状況を見てみると、金生遺跡の場合には石棒と多凹石とがいっしょに出土しており、もしこれらが三体セットを形成しているのなら、このうち石棒と多凹石は象徴的な意味で性的カップルを形成するから、それとセットになった丸石はそれ自身で完結した意味を担っていなければならない。またほかの象徴物と異なって、丸石はごろごろと転がることを特徴としている。新石器時代の神話的思考において、ごろごろと転がるものと言えば、それはからだから切り離された首にほかならない。首は生命力の源泉であり、この首から肢体が伸張していくというのが、新石器的な思考のとらえた生命のあり方だ。そうすると丸石は、生命力を凝縮した首であり、性的二元論から言えば自分自身で完結した生命体、すなわち稚児をあらわしていることになる。

記紀神話の体系の中には、そういうカミの存在がはっきりと書かれている。》

(『芸術人類学』所収「壺に描かれた蛙」)

ここでその名を挙げられたのは穀物の種子の霊であり、生の世界の生命力をあらわす「ワクムスビ(稚産霊神)」という神だが、ここでは複数の性が結びつき、ひとつの強度となった稚児性(完全性)が、丸という表象と化していることに注目すればよく、当面その名は重要ではない。こうした神話的思考を踏まえて冒頭の句《紫雲英草まるく敷きつめ子が二人》をあらためて見直せば、二人の子の対が「丸」という結界のような完全性の表象のなかで、紫雲英という歳時記的な別のコスモロジーに属するものと多形倒錯的な関係をとりむすび、前衛的身振り、超現実的道具立てに頼ることなく、日常の次元から離れた、穏やかな光のようなものとして浮遊させられていることに気がつく。

この稚児性は天使性ときわめて近い概念である。天使性とは、錯乱にいたるほどの媒介性の謂でもあるからだ。天使は男の前には女としてあらわれ、女の前には男としてあらわれるといった両性具有性をもつが、あくまでも現実の男女としてではなく霊的な愛の対象として関わる(紫雲英草の句の二人の「子」の性別がどちらであろうとさして問題にならないのはそのためである)。西洋文学にあらわれた天使的性愛の系譜として例えば鈴木晶は、バルザックの『セラフィタ』、ロシアの象徴詩人ブリューソフの小説『炎の天使』、さらにはアヴィラのテレジアのエクスタシー体験、『神曲』におけるダンテとベアトリーチェ、ソフィアを幻視した一連の人々も、ルイス・キャロルの少女愛までをもその例として挙げている(「理性崇拝に翳りがさすと〈天使〉があらわれる」(「週刊読書人」一九八八年十月十日)。日本であれば武田泰淳の晩年の連作『目まいのする散歩』に登場する泰淳・百合子夫妻の、一対と化して人生の記憶のなかを浮遊するありようがその系譜に連なるかもしれない。これは病床の泰淳の口述を妻百合子が筆記した作品であったはずだ。

田中裕明の句にはそうした天使性を帯びた複数が頻繁に姿を見せる。

大学も葵祭のきのふけふ

における「きのふ」と「けふ」は例えば「この二日」といった粗雑な措辞ではおきかえがたい、並列によるふくらみを有しているし

秋の蝶ひとつふたつと軽くなる

の「秋の蝶」はふたつ目があらわれたことではじめて「軽くなる」。

似て非なるもの噴煙とよなぐもり

で並列された噴煙と黄沙は、たがいに不定形さを維持したままで別な次元の実在感を際立たせる。

他にも、比較的初期の作からざっと拾っただけでも以下のような句が並び、枚挙にいとまがない。

ふたつづつ菌のならび冬に入る
われからに道の岐るる葛の花
日脚伸ぶ重い元素と軽い元素
骨と骨つなぐ金属梅雨茸
寒卵しづかに雲と雲はなれ
さめてまた一と声浮寝鳥のこゑ
つれだちて早乙女とほき家に入る

また「悼 能村登四郎」の前書きのある

別の世の姫螢見にゆかれたる

も、見逃しがたい。能村登四郎という両性具有性を濃厚に漂わせた俳人を悼むにあたり、「姫螢」というまさにその倒錯を体現したような存在で受けることにより、天上の消息を訪ねている性愛のにおいを含んだ媒介性がそのまま他界に通じている天使性の見本のような句だからだ。第四句集『先生から手紙』には《初蝶やその足音の男来る》などという句もある。ここでは初蝶と男が媒介されている。

目のなかに芒原あり森賀まり

これも媒介性の極み、乱反射のような句である。まず「森賀まり」が「芒原」を映しだすことで一体となり、この歳時記的宇宙と対となった「森賀まり」は、当然その夫である田中裕明その人とも一対を成す。さらに「君」でも「妻」でもなく固有名詞が用いられているところにも注意しなければならない。「君」であればこの一対は自閉してしまって外部の風通しを欠いた鈍重なものとなりかねないし、「妻」には婚姻関係を通して共同体の承認という要素が一応はかかわるとはいえ、二人の関係は微塵も揺るがない固着したものとなり、粗大で鈍感なものとなる。固有名「森賀まり」が用いられているからこそ、その外にある自然や社会という広大さのなかでの、いささかの不安定さをも持つ微粒子的な流動をはらんだ一対の立ち姿が、奇跡的な涼やかさのなかにあらわれるのだ。

裕明の取り合わせの句の、他の誰とも似ていない不思議さの印象はこの媒介性に由来する。そこでは直接関係のない素材同士をぶつけ合わせて双方を際立たせることが目的なのではなく、双方が隠喩の関係で結ばれるわけでもなく、二つの素材の間に空間をはらませること自体が目的なのでもない。複数のものの結合が天使的な相においてあらわれること、言い換えれば不可視の天使を句作においてとらえることが重要なのだ。「天使たちは、――毎瞬ごとに新たな天使たちが、無数の群れとなって――生み出され、神の前で讃歌を歌っては鎮まり、無のなかへ消え去ってゆくというのだから。」(ヴァルター・ベンヤミン『ベンヤミン・コレクション4 批評の瞬間』ちくま学芸文庫)

句中にきっぱりとした切れを持った句が少なく、全体になだらかにつながる姿の句が多いのもそうした事情による。切れや断絶とは全く生理を異にする飛躍があるのだ。

第一回「青新人賞」受賞時の文章で、裕明は次のように語っている。

《たとえば二月堂のそばの茶店で『失われし時を求めて』を読みつづけた人にそして秋の日について思いをめぐらせたあとに、他者と自己の関係においてのみ眺めている世界が変貌する時間がやってくる。相対化の原理はそこでも働いているので、俳句が生まれる時の自分は新鮮な果物のように感じられることがあり、それが魅力の一つかも知れない。》(「ゆう」二〇〇五年田中裕明主宰追悼号所収の植松章治「草いきれさめず」より孫引き)

ここで語られているのは、句が立ち上がる現場に身を置くとき、裕明自身の心身もそうした媒介性へと向けて開かれており、それが句作の方向づけに大きな影響を及ぼしているという事情にほかならない。

プルーストの小説の題名が引き合いに出されていることも目を引く。「『失われし時を求めて』を読みつづけた人」という比喩は、俳句を世界文学の一環として見晴らせる場に置くというだけではなく、言語の構築物によって読者の時間や世界が変容する、その体内感覚のようなところにまで触れている。こうした次元に発するフィクション性、空想趣味の名句が

たはぶれに美僧をつれて雪解野は

だろう。ここでは「たはぶれ」の遊戯性、僧の他界性とそれが美しいことによる性愛への傾斜、「野」であらわされた自然の広やかさと、そこが「雪解」の最中であるというエロス、それら一切を含み込んで、語り手、美僧、雪解野の三者が光のなかに多形倒錯的に媒介されあっている。

裕明が創刊した俳誌「ゆう」の「創刊のことば」には「波多野爽波先生の目指した季語の本意と写生を軸に、日本の伝統詩としての俳句を作ってゆきたいと考えています」という、田中裕明以外の俳人が発したのであれば、まずその作品に期待を寄せようという気を失わせかねない内容が宣言されているのだが、この宣言は次にこう続く。「そこで大切にしたいのは詩情ということ。孤独な創作の産物である俳句が、人に伝わるのも詩情がそこにあるからです。」

その「詩情」の核心が、これまで述べてきたような天使性の導入という、おそらく未聞の方法による永遠性の示現にあったため、裕明の句は有季定型の美の体系の中で創作され、語り手を作者本人に短絡的に同一視してもさして不都合とならぬリアリスティックな叙法を概ね取りながらも低俗に落ちることがなかったのだ。

天使性はべつだん、欲望に媒介された複数のものたちの間にのみあらわれるわけではない。

たとえば全句集巻末の季語別索引から「小鳥」の項目を引くとたちまち次のような句たちが出てきて、質量ともに索引のなかで群を抜いており、裕明のこの季語への偏愛がうかがわれる。

ゆつくりと掃く音のして小鳥村
小鳥来てこの膝小僧だけまるし
小鳥またくぐるこの世のほかの門
小鳥来て人はものかげより出づる
舌頭に千転すべく小鳥来る
人生に小鳥来ることすくなしや
万葉に詠まれずされど小鳥来る
研究所の空ひろければ小鳥かな
微風とは小鳥来る日のはじめかな
遊ぶ日と決めて朝から小鳥来る
小鳥来るいづれの門も四角くて
小鳥来るここにしづかな場所がある
小鳥来てたちまち冷ゆるまつげかな
亡き人の兄と話して小鳥来る
大空の一塵として小鳥くる

小鳥とは姿かたち、空を飛ぶというありようによって直接的に天使のモデルとなるものであり、他界からの使いである(“小”鳥ではないが、死んだ日本武尊が白鳥となって大和を指して飛んだという『日本書紀』の説話を思い出してもよい)。また鳥の声は悪意や毒を含まない純然たる他者の語らいであり、受容する自然の象徴でもある。

《小鳥来てこの膝小僧だけまるし》では媒介された結果としての丸という形象がふたたび見られ、《舌頭に千転すべく小鳥来る》では小鳥が句作そのものに変容しようとしており、《人生に小鳥来ることすくなしや》では逆に句作という場以外において天使的媒介の愉悦があらわれることが滅多にないことが語られる。

《小鳥来るここにしづかな場所がある》は代表句のひとつだろう。小鳥という天使性が、そのまま融和的にして非日常な場の生成の問題であることを端的に示しており、裕明の句作の本質に触れていることが、この句の力になっている。裕明といえば小鳥という印象を持っていた読者も少なくはないのではないか。「俳句研究」(二〇〇三年二月号)に掲載された対談での高橋睦郎から田中裕明に向けた挨拶句五句の中にはこのような句も含まれていた。《小鳥湧く田中裕明そこに在り》

なお全句集季語別索引では、「水鳥(浮寝鳥)」の類は別としても「小鳥」のほかに、「百千鳥」五句、「鶯」二句、「麦鶉」一句、「燕」三句、「帰雁」一句、「引鴨」六句、「残る鴨」二句、「鳥雲に入る」一句、「囀」三句、「鳥の恋」五句、「鳥の巣」二句、「燕の巣」一句、「巣立鳥」一句、「時鳥」一句、「郭公」一句、「練雲雀」二句、「老鶯」一句、「葭切」二句、「浮巣」四句、「夏燕」一句、「渡り鳥」一句、「燕帰る」六句、「稲雀」一句、「雁」三句、「都鳥」一句を数えることが出来る。

他の季語で採られながら鳥が登場している句も少なくない。《冬座敷わけてもむくは群るる鳥》《鳥の影急にふえたる添水かな》《宵闇の鳥籠たかく吊られあり》《二月繪を見にゆく旅の鴎かな》《かもめ飛び春服ひくく吊られける》等。

天使性をそのままに体現するもうひとつの存在が子供である。これは季語別索引には当然整理されていないが、ちょっと拾ってみただけでも、小鳥に匹敵する質量があり、裕明にとって中心的なモチーフのひとつであったことがわかる。

小さくて全き六腑水温む
子のつくる火の荒けれど蕗の原
赤ん坊抱きて端居といふことを
箱庭に子のささやきの響きけり
をさなくて昼寝の国の人となる
長子とは泳ぐ手をふることもなく
独り居といふこと子にも良夜かな
大人より子供の淋し竹の秋
麦秋の子どもが赤子あやすこと
水遊びする子に先生から手紙
一人だけ子を連れてゆく麦の秋
眠る子の指のうごける刈田かな
猫の恋吾が子と夜を更しけり
小句座に子もうちまじり鳥威
あつまつて子の眺めゐる藷の蔓

《大人より子供の淋し竹の秋》
では春の季語「竹の秋」が境界性を暗示し、子供が大人よりも他界に近いものとして捉えられている。

《箱庭に子のささやきの響きけり》の子の声は世界の上空から降り、《麦秋の子どもが赤子あやすこと》は、『山信』冒頭の《紫雲英草まるく敷きつめ子が二人》と同じく、子供同士の媒介状態が描かれる。

《猫の恋吾が子と夜を更しけり》は「猫」「恋」「吾が子」「夜」と形而上的な多形倒錯のエロスを限りなく日常に近い領域に静もらせた佳句だろう。

代表句のひとつ《水遊びする子に先生から手紙》では「水」と戯れる「子」に「手紙」という間接的なかたちで介入する「先生」と語り手でありながら句中には直接あらわれない親といった項が媒介され、永遠の相のなかに静止する。

裕明の句において、「子」は単なるべたついた現実の情愛の対象としては描かれていない。「小鳥」と「子供」の姿をかけあわせれば、裕明の句にはおそらく直接には一度も使われていない語「天使」が姿をあらわす。「小鳥」も「子供」も天使の微分されたものとしてたちあらわれている。

《水遊びする子に先生から手紙》にはもうひとつ、「手紙」という媒介物がある。

長夕焼旅で書く文余白なし
天の川間遠き文となりにけり
鉄線花や怏々として文の数
はつなつの手紙をひらく楓樹下
あした逢ふ人に文書く余寒かな
ねそべりて手紙を開く子規忌かな

《ぼうふらやつくづく我の人嫌ひ》《我が心日向ぼこりになじめざる》《ひとをらぬところやすけし百千鳥》と、ときどき露骨に厭人癖の表出された句をなす裕明にとって、手紙とは地上的な対人関係の余分な挟雑物を置きざりにして軽やかに飛行する媒介者の謂であったのだろう。書かれたもの、手紙や詩を介しての人とのつながりはそれ自体がひとつの天使的ありようにほかならない。第五句集『夜の客人』には樋口一葉「月の夜」から引かれたエピグラムが付されている。

《嬉しきは月の夜の客人、つねは疎々しくなどある人の心安げに訪ひ寄たる、男にても嬉しきを、まして女の友にさる人あらば如何ばかり嬉しからん、みづから出るに難からば文にてもおこせかし、歌よみがましきは憎きものなれどかゝる夜の一言には身にしみて思ふ友とも成ぬべし。》

ここで述べられているのは、詩、そして自然(月)に媒介されてはじめて成り立つ種類の人との交わりの望ましさにほかならない。

あらそはぬ種族ほろびぬ大枯野
おほぜいできてしづかなり土用波

これらの句では、おそらくはそうして詩を媒介に成立したのであろうある無言の共同体と大きな自然との対峙の様相から、きわめて大きな潜在力を引き出している。あらそわずに滅びた種族の不在を不在のままに実在していた当時よりも重く際立たせる「大枯野」も、「おほぜい」と「土用波」のエネルギーの間に発生する「しづか」もともに潜在性、永遠性の領域を指す。

《冬木立師系にくもりなかりけり》と詠まれた師の波多野爽波、さらにその師の高濱虚子においては永遠性の出現はそれぞれかなり異なる様相を見せる。

遠山に日の当りたる枯野かな 虚子
大寒の埃の如く人死ぬる

虚子は自然の永遠の相を一度己の内に取り込んでから表出し、そのことで自らをも王の如くに荘厳する。王とは自然の諸力を取り込むことに成功した(と主張する)存在にほかならない。

帚木が帚木を押し傾けて 爽波
末黒野に雨の切尖かぎりなし
鳥の巣に鳥が入つてゆくところ

爽波には《金魚玉とり落としなば舗道の花》《螢とぶ下には硬き舗道かな》といった危機感、デッドな質感への偏愛が見られる句も多い。《空港出て田植汚れの電柱立つ》《伐りし竹寝かせてありて少し坂》といった句も引くとさらにはっきりするが、爽波の句の永遠性はシャッターを開けっぱなしで撮影した天体写真から高速で動く人の姿が消え失せるがごとく、あるいは高速のストロボ撮影で一連の動きのなかから一瞬の異様なポーズを引き出して定着させたがごとく、無人感が強い。常識的で鈍重な感慨を出し抜き、速度と反射に徹することで世界の真の相を俳句形式に定着させようとする「俳句スポーツ説」「多作多捨」という理論や方法の成果と云えるが、同じ方法をとれば誰もが同じ句境に到達するわけではなく、ここに爽波固有のものがあらわれているととれる。個々の俳人の重要度は、俳句形式のなかにいかに永遠を定着させ得たかという点と、その際にどれだけののっぴきならない固有性をあらわしたか、そしてこの二つの尺度をどれだけの解きほぐしがたい強度として句作に現成させえたかに比例するのではないか。裕明の句は虚子とも爽波とも、その他の誰とも異なる質の達成をたしかに実現している。

城戸朱理は近著『戦後詩を滅ぼすために』(思潮社)に収録された「肉体の変容譚」という短い永田耕衣論で《いづかたも水行く途中春の暮》《腸の先づ古び行く揚雲雀》といった名句を引き、耕衣を前衛として悲壮に倒れる身振りとは無縁の「途中」という相において偉大さを実現した俳人としてとらえている。

「回想 永田耕衣さん」の前書きのある裕明の句

もうすこし笑うて年木積のかげ

がまさしくその「途中」の相をとらえて呼応しているのが面白い。追悼句や挨拶句も、詩を介しての人々との交わり(及び永遠の相への漸近)という天使的媒介性を発露させる恰好の装置である。

杖つかぬ桂信子やほととぎす

杖をつかないという否定形が高齢と、それにもかかわらぬ真っ直ぐな立ち姿を現出させているが、裕明的俳句空間のなかで「ほととぎす」という鳥に媒介されることにより、鈍重な人体を半ば超出した身軽さが共示される。なぜそこまで身軽なのか。詩人だからだ、本物の、と句を読み下した一瞬で鮮やかな讃辞に転じている。

前掲の

水遊びする子に先生から手紙

は、師・波多野爽波の《水遊びする子に手紙来ることなく》の本歌取りである。

穴惑ばらの刺繍を身につけて

という不思議な句についても、最近爽波の句を読み返していて《秋の蛇ネクタイピンは珠を嵌め》があることに気がついた。どちらも秋の蛇と身につけるものとの取り合わせの句で、これも偶然ということはないだろう。

水遊びの句では、師の「手紙来ることなく」の無人志向のひんやりした質感を、「先生から手紙」の天上的な媒介性の明るみに絡めとり、「秋の蛇」と「穴惑」の句では、「珠を嵌め」た「ネクタイピン」とあくまで硬質に正装を崩さず、目を思わせる珠をもってこれもひややかに秋の蛇と対峙してみせる師に対し、裕明は「ばら」という、およそ普通の場面で身につけることのありえない、象徴詩の代名詞のような花をまとい、冬眠場所を探してさまよう柔らか味を帯びた「穴惑」と媒介されあう。こうした本歌取りの操作もまた、裕明にとっては生身の次元に滲出してきた天使的媒介の祝祭にほかならなかったのではないか。裕明の句においては語り手当人も媒介項のひとつとして不安定な喜ばしい微粒子的流動の中にある(それだけに全句集の『夜の客人』補遺に収められた、つまり病を得て以後の作《まだ読まぬ詩おほしと霜にめざめけり》は傷ましい。ここではもはや天使的媒介物たるべき詩までもが、生身の時間の限界を露呈させ、そこに意識をしばりつける役割しか果たしていないからである)。

没後、田中裕明の存在感は薄れるどころか却って確実に増しつつあるようだ。最近の俳人としては稀有なことかもしれない。

前衛・伝統の区別がとうに有効性を失った現在、ことに後から来た若い俳人たちは、俳句で何をなすべきかが極めて見通しにくくなっている。

いわゆる前衛とは別の仕方で、有季定型の枠内に何の悪意もなくとどまりながら、そこに天使性というかたちで非日常の明るみを横溢させるという、今までにないあり方をのびのびと実現させた田中裕明の句群が大きな可能性の塊として恃みとされるのは故のないことではなく、今後当分の間その存在感が薄れることはないだろう。

参考・浅田彰『二〇世紀文化の臨界』(青土社)

    (「俳句界」2009年6月号より転載)


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遷子を読む(31)

遷子を読む(31)


・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井


一本の木蔭に群れて汗拭ふ
『草枕』所収

筑紫:今まで誰も取り上げてこなかった、遷子の従軍俳句を眺めてみます。第1句集『草枕』が、〈草枕〉〈大陸行〉〈蝦夷〉の3章にわかれ、〈草枕〉が東大医局に在籍中の典型的な馬酔木風景句、〈大陸行〉が従軍俳句、〈蝦夷〉が病を得て函館の病院に赴任したときの境涯俳句、となっているのはご承知のとおりです。

遷子自身は、あとがきで「大陸行以前の句はひたむきな投句家時代の所産であり、俳句に対してもっとも強い情熱を持つてゐたときのものである」といい、「大陸より帰還して後の私はひどい沈滞に陥つた」「俳句は遂に昏迷、低調の境を脱し切れずにゐる」と述べています。昭和21年の感想だからよほど割り引いて考えなければいけませんが、第1句集である『草枕』の率直な著者の感想として受け取りたいと思います。それにしても、〈大陸行〉について遷子は何も語っておりません。

さて『草枕』の中の〈大陸行〉は11章53句からなり、そのうち29句が『山国』の〈草枕抄〉に収められました。冒頭の句は、

月窓に冴えたり家は思はざらむ

でいささかホームシックにかられています。その次の章は、

我が行くや霞は陸にわだなかに
黄海や真紅の春日ただよへる

遷子にとって戦争の大陸行が初めての海外渡航であったと思われます。その意味では、現在の海外詠に似た趣の句もなくはありません。「わだなかに」「春日ただよへる」はまだ十分馬酔木的な美意識の世界でありました。やがて、従軍俳句らしい作品が現れます。

春の闇見えねひた行く人馬の列
麦秋の暮れていや黄なる麦を行く
黙々と憩ひ黙々と汗し行く
黍高粱野の朝焼けの金色に

まるで火野葦平の『麦と兵隊』です。「改造」の昭和13年8月号に掲載されベストセラーとなったこの小説にあやかって「俳句研究」は9月号では「俳句『麦と兵隊』」として、日野草城「戦火想望」、東京三「戦争日記」、渡辺白泉「麦と兵隊を読みて作る」が発表されました。戦火想望俳句はこうして生まれます。

こうした中で、軍隊生活をもう少し客観的に捉える句が生まれてきます。

黄塵や雨知らぬ畑に寝て憩ふ
湯浴みつつ黄塵なほも匂ふなり
一本の木蔭に群れて汗拭ふ
栓取れば水筒に鳴る秋の風

余儀なく遷子が詠み始めたリアリズムの世界です。掲出の句もこうした中にありました。従軍俳句を今評価する人はいませんが、遷子にとって、リアリズムに手をつけたということは決して小さいことではなかったようです。やがて、佐久にもどっての社会的関心に動かされてゆくとき、一度経験したリアリズムは決して無駄ではなかったように思われるのです。

【注】今回の遷子の作品は、単行の『草枕』から選びました。『山国』〈草枕抄〉にはない句もあるし、逆に『山国』〈草枕抄〉にあって単行の『草枕』にはない句もあります。
緑蔭に徹夜行軍の身を倒す 『山国』〈草枕抄〉より

中西:初学の頃の遷子は、秋桜子の俳句に憧れて、美しい景色を詠っています。

熊野川筏をとどめ春深し
鰯雲大利根海となるところ

また、波郷から学んで、

書肆を出づ春の夕焼九段の上に
かくて無為日々の暑さをなげきつつ

というのもありますが、〈大陸行〉になりますと、少々詠い方が変ってきているようです。従軍俳句と言いますと長谷川素逝の『砲車』の極寒の戦争風景を思い浮かべましたが、遷子の描いている大陸は、黄塵や、麦秋、黍、高粱畑の黄色の大地です。

黄塵や雨知らぬ畑に寝て憩ふ
麦秋の暮れていや黄なる麦を行く

という句が『草枕』の中の掲出句の数句前にありとても印象的でした。これらは風景に哀切を内包し、先程揚げました馬酔木らしい美しい風景句とは大分違います。この従軍俳句で遷子はリアリズムを詠み始めたという磐井さんの見方に成程と思わされました。そのリアリズムの句として、磐井さんは「一本の木陰」の句を揚げているわけですが、行軍の長い道のりを思わせられる句です。大木の木陰に小隊が休んでいるのです。遷子の個というものはここにはありません。この句を印象づけているのは「群れて汗拭ふ」というところで、放心しているのとも違う、まるきりの無感動が描かれているように思います。

遷子は戦争について語らなかったということですから、行軍の悲惨さや、戦闘そのものは描かなかったか、残さなかったのでしょう。

ただ一句、

麦照るや弾が掠めし耳いたき

が、『山国』の中の〈草枕抄〉の中にあるもので、『草枕』の中にはない句です。

原:掲出句は行軍の途次の小休止という状景でしょうか。

従軍俳句と言えば長谷川素逝の『砲車』を思い出します。本来の資質がリリシズムにあったと思われる素逝の場合、戦争俳句で高名になったばかりに、のちに自ら『砲車』を抹殺していったことに胸の痛む思いがします。

一方、馬酔木的抒情の作風だった遷子の〈大陸行〉では、素逝ほどの臨場感や直接性は感じません。一口に軍隊生活とはいっても、階級や部署、役目の違いにもよるのでしょう。

とはいえ、戦争俳句という極限状況に身を置いた者は、否応なしに内部変化を遂げさせられるようです。戦場での生活が遷子にリアリズムの萌芽をもたらしたという磐井さん指摘は興味深いものでした。

深谷:数年前、初めて遷子の句業に取り組んだ時、最も面食らったのが、掲題句を含む一連の従軍俳句でした。それまでの端麗な馬酔木調の風景句から一変して、ひたすら土埃と汗と硝煙の匂いに満ちた句群が登場します。何しろ極限の状況で詠まれた句ですから、ある種の切迫感や迫力に満ちた作品であることは否めません。ただ、文芸作品としてどう評価するかに関しては、なかなか難しく、やや当惑したというのが、正直なところです。戦争という特殊な状況を経験していない、あるいは想像が及ばないわけですから、私の鑑賞能力の限界を超えていたのだと思います。そのうえ、読み進めていくうちに、1句1句が独立した作品というよりも、全体として一つの作品世界を構成する「連作作品」のような感覚を覚えました。そうした点があまり積極的に評価できなかった要因だったのかもしれません。

さて、掲題句に関しては「一本の」に着目しました。中国大陸の大平原を行軍しているのでしょう。やっと休みを取ることになり汗を拭おうとして、皆、木陰を求めようとするのは人間として自然の摂理です。しかし、そこは見渡す限りの大平原ですから、影を作るものは僅かに1本の木しかありません。行軍の厳しい状況が、この「一本の」という措辞により活写されていると思います。

話はやや逸れますが、従軍俳句の中では、

栓取れば水筒に鳴る秋の風

が一番印象に残りました。この句の「秋の風」という季語には、古の宮廷歌人たちが籠めてきた雅なニュアンスは全くなく、五行に配した“金風”などの面影も程遠いばかりです。あるのは、ただ大陸を渡っていく、物理的現象としての「秋の風」です。いわば、透徹したリアリズムが作品を貫いています。

結局、これらの従軍俳句は、突然「前線」に送り込まれた遷子が、現実に採り得る唯一の作句スタンスだったのではないかと思います。

窪田:もう10年以上前になります。桂林からバスに乗って離江下りの出発点、竹江へ向かいました。途中、中国人民軍の行軍に出会いました。戦時下でないのですから、演習であったのでしょう。その列は半キロほども続いたでしょうか。背嚢に鍋を括り付けている者、二人で荷物を運んでいる者、機銃の銃身を担いでいる者などが黙々と歩いています。顔を見るとまだ少年のようでもありました。戦場と言っても多くの時間はこうした移動や塹壕堀りなどに費やされるのでしょう。遷子も幾日も行軍したに違いありません。

中国大陸はどこまで行っても同じような景色が続きます。25年程前の夏、上海から汽車で西安まで旅をしました。車中2泊、どこまでもなだらかな畑が続き、日蔭になるような林はあまり記憶にありません。掲句の前後にも麦や黍、高梁の畑が広がっている様が想像される句が並んでいます。そして、稀に現われた木陰にも憩うことなく進むのです。

見出でたる緑蔭たゞに見て過ぐる

炎天下の行軍。ようやく休憩が許された所にはまばらに木が立っているだけです。1本の木の下に兵隊は群れ、汗を拭くのです。リアリティーのある句で、行軍の様子が良く伝わってきます。筑紫さんが言われた「余儀なく遷子が詠み始めたリアリズムの世界」ということが胸に落ちます。

余談ですが、『草枕』の一部を『山国』に再録した理由を遷子は「戦後混乱のさなかの事でもあり、極く限られた人々の目にしか触れ得なかった。」と言っています。「混乱のさなかの事でもあり」ということは、『草枕』にちょっと納得のいかなかった部分があったという事ではでしょうか。例えば、仮名遣いの間違いがあります。『草枕』では「老ひ」となっている句は、『山国』では「老い」に直っています。遷子は、何事に対してもきちんとしなければ気の済まないという性格であったのでしょう。

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2009年10月18日日曜日

第61号

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2009年10月18日発行

「俳句空間」№15(1990.12発行)〈特集・平成百人一句鑑賞〉に纏わるあれこれ(14)

草間時彦「人影の螢まとひて来たりけり」

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閑中俳句日記(14)

角田登美子句集『鉾稚児』

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俳句九十九折(53)

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〔30〕山の雪俄かに近し菜を洗ふ

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あとがき(第61号)

あとがき(第61号)


■高山れおな

関悦史さんの文章に、クララ・ハスキルなどという懐かしい名前が出てきて驚きました。私がいちばん熱心に音楽を聴いていたのは、中学から高校にかけてで、CDもありましたがどちらかといえばLPレコードが中心でした。そんな個人史を思い出しました。

冨田拓也さんの「七曜俳句クロニクル」の木曜日の項で紹介されている小川春休さんの『銀の泡』という句集が、土曜日に届きました。発送地が広島なので、東京に届くのが大阪に比べて中一日遅くなっているということでしょうか。そういえば先週の日曜日には宮島の宿に泊まっていたのでした。宮島は高校の修学旅行以来。

「遷子を読む」ですが、次号か次々号より、「里」誌編集長の仲寒蝉さんが輪読のメンバーに加わるとのこと。信州在住の上に現役のお医者さんですから、その視点からの読みがなされることになるのでしょうか。楽しみです。

大井恒行さんは草間時彦を紹介しています。草間の没論理的な滅びの美学への没入に、改めて驚きます。しかし、大井さんも書いていますが、これは草間だけのことではありません。そもそも正岡子規にしてからが、俳句は明治年間に滅びると言っていったわけですから。いちおう、近代が俳句に強いた意識のあり方の反映と捉えられますが、このところ仕事で、俊成だの定家だの、二条家だの冷泉家だのについて読んだり書いたりしていたもので、俳人の気短さの印象がわたしの中で際立ちます。


■中村安伸

二日つづけてロシア大使館に行きました。朝9時半の開館と同時にビザを受け取り、12時の飛行機に飛び乗るという荒業――乗ったのは私ではなく妻ですが――もう二度としないですむように注意したいです。


遷子を読む(30)

遷子を読む(30

・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井


山の雪俄かに近し菜を洗ふ

     『雪嶺』所収

窪田昭和41年作。平凡と言えば平凡な句です。しかし、私は「俄に近し」というフレーズが気に入りました。

秋も深まってくると、遠くに見える日本アルプスの嶺に雪が来ます。それは何度か消えてはまた積もり、やがて消えることもなくなります。すると、浅間山に雪が来ます。最初は嶺の方だけに降り、その日のうちに消えたりもします。二、三度降ると、浅間山の前の山に雪が来ます。もう里に雪が来る日も近いことが知れ、日中は秋の日差しが結構暖かでも、朝夕は冷え込み霜が下ります。急いで冬仕度をしなければなりません。

信州人はお茶が好きで、お茶請けには漬け物が無くてはならないものです。現在は少なくなりましたが、昔はどの家でも野沢菜や大根の漬け物を幾樽も漬けました。漬け物は、漬ける時期を選ばないといけません。菜も霜に二、三度あてないと独特のぬめりや旨味が出ません。それに気温が高いうちに漬けると、漬け物が酸っぱくなってしまいます。

掲句の「俄に近し」は漬け物を漬ける季の目安を言っているようで面白いと思いました。それに、さあいよいよ本格的に冬支度をしなければという、女衆(おんなしゅう)の気張った顔が見えてきそうです。

遷子の目と肌が、佐久の地の気象とそこに暮らす人々の生活の姿をしっかりと捉えた句だと思います。

中西野沢菜漬けと、かりかりの梅漬け、それと硬い鼠大根(?)のたくあんが信州の冬の漬物の代表的なものでしたかしら。私も松本在住の折、一抱えほどの野沢菜を漬けた体験があります。手が、塩で痒くなったのを覚えております。白状しますと、よそ者の私の場合は、寒いので台所のお湯で菜を洗ってしまいましたが。

山の雪を見て漬け時を決めるというのは、やはり地元の人ならではの実感あるものです。窪田さんのアルプスから浅間山、そして里山へと雪が麓に近づいてくるとそろそろ漬け時というお話は、この句をいきいきと見せてくれるコメントです。

女ひとり廣田の稲を刈りゐたり

豊の秋中風の姥を家に捨て

と、農家の女性を描いた句がこの句の前にあります。働き者の女性像が描かれています。遷子が心がけていた、誠実に自分を描くということは、取りも直さず自分の周りの環境を丁寧に描くということになのでしょう。女性の労働の逞しさは冬用意にも見えることです。そしてお菜漬けは農家以外でも、どこの家庭でもやりますので、外で働く女性の姿が逞しく眼に映る時期といえるのかもしれません。大量に漬ける家庭は、野沢菜を井戸水で洗うのでしょうから。

前年作の

菜洗ふやこの風すさぶ日をえらび

というのもあります。冷たい風にさらされながらの水仕事の厳しさが見えます。信州に暮らす女性への、「なんでこんな日をわざわざ選んで菜を洗うのかね、ご苦労さまだね」という遷子のやさしさも感じられます。この句の中の女性は、家族のために、おいしい野沢菜漬を作ろうという気合が入っているわけです。

そして掲出句は、例年のこととは言え、郷土への愛着が非常に濃く見える句です。

最初に読んだとき、この「山の雪」は雪景色の山容なのか、現在降っているのか、はたまた雪の来る時期をいっているのか、あれこれ迷いました。前者なら、「雪嶺の」とでもすればはっきりするのになあ、と思ったりしたのです。

山の雪を眺めつつ、もうじきこの里も雪の季節を迎えるのだ、という窪田さんの受け取り方は、この作品を充分活かした鑑賞と思いました。現場に直に触れていらっしゃる方の解説は実感がこもっていますね。素敵です。

深谷窪田さんと同様に、私も「俄に近し」に着目しました。窪田さんが書いておられるように、雪国の冬は、手順を踏むように、しかし着実にやってきます。最初は静かに、そして或る日突然猛烈な寒さを伴ってやってきます。或る朝、山を見ると、昨日までなかった筈の雪が近くの山にも積もっています。まさに「俄かに」という感覚でしょう。こうなると、冬はもうすぐそこまでやってきていて、住民は冬への備えに忙しくなります。私の雪国居住経験は、青森の僻村に2年間ほど住んだだけですが、冬の本格的到来を前にした、この独特の緊張感はよく解ります。

そしてその緊張感は、必ずしも全てがネガティブなわけではありません。厳しい自然環境ながら、その土地でしっかりと生き抜くのだという意欲も感じられます。窪田さんの「女衆(おんなしゅう)の気張った顔が見えてきそう」という指摘は、まさにその通りだと思います。

句の構造として特徴的なのは、「自然vs人事」「遠景vs近景」という対立構造を内包した二物衝撃になっていることです。このコントラストが、上述の「冬への気構え」を鮮やかに浮かび上がらせていると思います。

筑紫確かに「俄かに近し」は魅力的な言葉です。ちょっとしたゲームのようになりますが、「山の雪―     ―菜を洗ふ」の四角枠に何を入れるかを出題してこの言葉が出てくるとすれば、それは名人芸に近いような気がします。その意味では逆に遷子の頭の中から、そのようなゲーム感覚で「俄かに近し」の語が出てきたわけではないと確信させてくれます。

おそらく、遷子にとって山の雪は常住のものであるところから、彼の頭の中に「山の雪」にかかわる属性の語がそれこそ山のように蓄積していたことは間違いありません。「俄かに近し」に結実するためにはさまざまな紆余曲折があったにせよ、体験が積み重なって出てきた自分自身の言葉であることは間違いありません。

その意味では、俳句としては前回の暮の町老後に読まむ書をもとむより遷子の個性が浮かび出ているように思われます。俳句作家にとっては、詠んだ内容よりは、その表現のほうにこそ個性が出るというのは、馬酔木作家としてユニークな俳句を詠んだ遷子であっても免れない宿命のようで皮肉な感じがします。

ただ一方で、「俄かに近し」は医師として佐久に生涯をうずめる決意をした遷子ならではの語感もにおってくるような気がするのです。日本アルプスや浅間を「俄かに近し」と感じるある瞬間を持つには、いくつかの条件が整わないと不可能であるように思うのです。先日の、遷子ミステリーツアーの一行が冬に出かけていけばこのように詠めるかというと、俳句に関して達者な人々がそろっていたにもかかわらずそうでもなさそうな気がしますし、一番近いところにすんでいた島田牙城氏が毎日見ている山々を見てこのように感じるかといえばこれまた疑問だと思います。まさに遷子の歩んだ境涯をたどってゆく中で、疎外感と親近感とが融和する一瞬、まさに「俄かに近し」が生まれるのだと思います。

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