2009年12月6日日曜日

遷子を読む(37)

遷子を読む(37)

・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、仲寒蝉、筑紫磐井


木枯に星斗爛■たり憎む
■=火偏に干 『山国』所収

仲:「爛■たり」が分からなくて辞書を引いたりしたのですが、結局どこにもなくて「爛汗」と同じだろうということにしました。それだと「彩りの美しいさま」という意味だそうです。爛汗の項に「爛旰」という別の表記もあったので当たらずとも遠からずでしょう。

さて、先日のストーヴの句の激しさにも驚きましたが、この句でも遷子は感情むき出しに「憎む」と言っています。この句の置かれた位置は「草枕抄」の直後、「薄き雑誌」という章。従軍した中国大陸から戻り、北海道への赴任から故郷佐久に帰った頃です。前後には、

天ざかる鄙に住みけり星祭
寒雀故郷に棲みて幸ありや
百日紅学問日々に遠ざかる

などの句があります。後には「わが山河」とまで呼んで愛した故郷ですが、この時には余程故郷を疎ましく思っていたのでしょう。啄木の例を引くまでもなく、故郷というのは愛おしい反面、自分の幼い頃を知っているだけに鬱陶しい存在でもあるのです。この句の「憎む」の対象は明らかではありませんが前後の句から推して故郷ではないかと思います。(もちろん特定の人物の誰かという考え方も出来ましょうが、それでは雲をつかむような話です。)この句は「星斗爛■たり」で切れているので「憎む」だけが叩きつけられたように浮いているのです。形の上では切れていても内容的に通底するものがあると考えれば憎む対象は爛■たる星斗でいいのかもしれません。しかし切れを強い切れと考えれば憎む対象は星斗をも包含した故郷そのものと取ることもできる訳です。木枯の空にかがやく星斗(北斗七星)は明るく美しい。その星のようにも鋭い視線以て故郷を見据えた末に「憎む」と言ったのでしょうか。それともこれほどまでに星の明らかな故郷(ちなみに野沢のすぐ南の臼田は臼田宇宙空間観測所があり「星の町臼田」として売り出しています)をそれ故にこそ憎むとの逆説なのでしょうか。


中西:これまでも何回も引用されました「佐久雑記」は、遷子の佐久人に対する見方が顕著に表わされています。それには「人情は果たしていかがでしょうか。久しぶりに帰住した私にとっては、やや期待を裏切られた感がありました。」と書かれています。この文章は昭和26年6月のものですが、この句はそれより2、3年前に作られたものなのではないでしょうか。この文章と同じ思いが描かれていて、故郷に帰ってからの数年、故郷の人とうまくいっていなかったのではないかと思うのですがいかがでしょう。故郷への失望感が、「薄い雑誌」の項のこの句の後に続々と色々な形となって続きます。

養花天ひそかに許す懈怠感
ひとりゐに銀漢たわむ祭笛
炎天へ無頼の青田もりあがる
稲刈りし後の寒さは堪えがたし
四十にて町医老いけり七五三
寒雀故郷に棲みて幸ありや
寒うらら税を納めて何残りし
百日紅学問日々に遠ざかる

青字で書いた部分は、佐久に住んでからの鬱屈した遷子の気持ちが激しく描かれています。このようにまとめて読みますと、町医になったことを悔いているようにも思えてきます。その原因の一端に、寒蝉さんが指摘されているように、故郷を疎ましく思っていることもあげられるでしょう。故郷の人によそ者と見られ、受け入れられないつらさがあるのかも知れません。そして鬱屈の理由のもう一つは、町医という現実の厳しさなのではないでしょうか。

裏返しせし外套も着馴れけり

という句もこの続きにあります。昭和25年頃は、まだオーバーを裏返しにして着ていた、厳しい経済状態だったことがわかります。もしかしたら、経済的な理由から故郷に帰ることを余儀なくされたのかもしれませんね。百日紅の句は、大学に残りたかったか、医療の最先端で病院勤めをしたかった夢が段々遠ざかっていく悲しみとも取れますでしょうか。掲出句は、こんな状態で木枯の星空を眺めているのです。憎むのは、故郷、佐久人もですけれども、ふがいない自分自身へも向けられた言葉だったのではないかと思いました。

原:「憎む」の語で思い出すのは加藤楸邨の

夾竹桃しんかんたるに人憎む

ですけれど、楸邨句の「憎む」対象は「人」です。一方、掲出句では、仲さんも言っておられる通り、その対象は明らかではありません。書かれていない背後の事情を切り離して、独立作品としてみる場合、表現されている枠内で解釈したいと一応は思います。つまり第一義での解釈ということになりましょうか。そうすると、「星斗」を「憎む」ことになりますが、手がかりとして、「星斗」に対する作者のイメージを決定するのは「爛■」の語です。多分、仲さんと同じ辞書を参照したようで、「■」は「義未詳」となっていましたが、「爛」の字にこだわるなら「ただれる」「くされ」の意も強く、これならば負のイメージを導くことに納得がいきます。それにしても、これまで遷子の句を見てきた限りでは、星などの自然を負(マイナスイメージ)として捉えたものは無かったと思います。この句が唯一の例外だとすれば問題句ですが、とりあえず保留にして、もう少し考えてみたいと思っています。

深谷:掲句のポイントは、仲さんが指摘されたように、下五の、それも最後に唐突に投げ込まれたような印象の「憎む」でしょう。では、何を憎むのか。よく考えるとわからなくなります。一応素直に解すれば、「憎む」対象は明るく輝く北斗七星ということになると思います。往診か何かで、木枯らし吹きすさぶ夜道を辿っていたのでしょう。身を切られるような寒さが、遷子を襲っていた筈です。ふと空を見上げれば、北斗七星が煌々と輝いています。地上で木枯らしに震える自分と、天上で燦然と輝く北斗七星。遷子ならずとも、このような場面では寒さのあまり、北斗七星にでも何にでも、ふと毒づきたくなります(馬酔木の貴公子と称された遷子のことですから、「毒づく」という表現はあまり相応しくないかもしれませんが)。それが、「憎む」の表面的な意味でしょう。しかし、その背景にあるのは、仲さんが指摘された「故郷」も含め、自分自身の現状そのものでなかったのかと思いました。仲さんが挙げられた句に加え、句集「山国」では、この句の直前に次の句が収められています。

中空に秋の燕となりにけり

秋の日にいっせいに南方に帰って行く燕たち。彼らの姿に、医療研究の分野を去り僻地医療の現場へと赴かなければならなかった自分の姿を、重ね合わせていたという解釈は穿ち過ぎでしょうか。しかし、当時の最先端医療に触れた遷子には、学問的業績を残す野心もあったと思います。そうした研究の場から遠く離れた佐久の医療現場に立っている自分。その理想と現実とのギャップに大いに悩み、精神的にも苦悶の日々を送っていたのではないでしょうか。加えて、この頃は句業も捗々しくありません。句集に収められた句の数は、他の年代に比べて圧倒的に少ない水準に止まっています。いわばやるせない鬱屈とでも言うべき感情が、遷子の中に渦巻いており、それが北斗七星に毒づかせ、そうした自分をさらに自己嫌悪している、といういわば「憎悪」「嫌悪」の二重構造になっているような気がします。

窪田:この「憎む」は解釈が難しいですね。前後の句から想像したり、作句時の作者の置かれた状況から察するより仕方ありません。寒蝉さんが言うように、当時の遷子の生活の変化が大きく影響しているのでしょう。憎む対象は「故郷」であったということも納得できます。「寒雀故郷に棲みて幸ありや」の句は、正にそのことを裏付けるような句です。私は、さらにその上に、学問から遠ざかる運命のようなものを「憎む」と言ったのではないかと考えました。掲出句前後の句に次のような句があります。

薄き雑誌購ひ戻るあたゝかし
天ざかる鄙に住みけり星祭
風邪の身を夜の往診に引きおこす
四十にて町医老いけり七五三
寒うらゝ税を納めて何残りし
百日紅学問日々に遠ざかる
都会ではさまざまな医学の専門書も容易に手にはいるのですが、当時の田舎ではそうはいかなかったのでしょう。また現在とは違い、都会の大きな病院には医療の情報もいち早くもたらされたでしょう。そして田舎の町医者ですから、風邪を引いているにもかかわらず往診に出掛けなくてはなりません。一気に老いたような思いを抱くのも頷けます。そうした苦労をして得た収入にも税金はきちんと掛けられてきます。医師としてだけでなく、病院の経営者としても働かなければならないのです。こうした状況は、学究肌の遷子にとってまさに憎むべき運命だったのではないでしょうか。また、厳しい木枯の中に輝く星の美しさに比べ、今の運命を呪う自分の心根に対し自ら憎いと言ったのかも知れません。余談ですが、「爛■」の■(火偏に干)は、諸橋轍次の大漢和辞典に「カン 義未詳。」として載っています。

筑紫:難しい句です。

ちなみに私が調べると、「星斗=星(ほし)、爛■=爛煥、爛干、爛然、ただ単に「爛」とも。あざやかに輝くこと」。用例として、明治の寮歌「武夫原頭に」(旧制五高寮歌)があり、冒頭に「仰げば星斗爛煥(せいとらんかん)として、永遠の真理を囁く」と詠っています。「爛■たり」が木枯らしに吹き澄まされて研いだように輝く星で、輝かしい星を見ると、憎悪を感じるというのでしょう。星斗のように輝かない自分への憤りがあるのでしょうか。いずれにしても、馬酔木的な峻厳としつつも美しい「木枯に星斗爛■たり」というフレーズと、「憎む」の間にとてつもなく大きなクレバスがあるようです。まだ公表できる段階ではありませんが、遷子がなぜ佐久で開業医となったのか、このときの遷子の心情はどのようなものであったかを仲さんと少し意見交換しています。前回述べた「遷子という作家は一筋縄ではいかない」という感想と重なり合うものです。もちろん遷子のそんな個人的な感想などちっとも大事ではないという意見もあるでしょうが、高原派俳句の誕生よりもはるかにそちらのほうが人間心理を探る上で興味深く思えます。

遷子は戦中、応召を受けて大陸に出ていましたが発病して内地に戻り、回復した後、市立函館病院の医長をしているのはご承知のとおりです。函館では、佐久と違って俳句の親しい友人(「鶴」の作家たちです)がいて結構楽しく酒を飲みまわっていたようです。酒はあまり飲めなかったが酒席が好きだったと当時の友人は語っています。精神的には函館のほうが遷子にとっては楽しかったのでしょう。しかし体調に関しては、函館時代もその後あまり具合はよくなかったようです。函館で病気が再発しその療養のために佐久へ帰郷を決意します。帰郷の前から、あらかじめ妻子を佐久へ送っていたようです。20年12月に帰郷準備のため佐久を訪問、21年3月帰郷、22年5月開業(『現代俳句大系』解説による)、この間が療養期間でしょうか。帰郷直前の当時の句に「小春日やむかし蔑せし故郷言葉」があり、同時発表の「小春日や故郷かくも美しき」から現在見た故郷を肯定はしていますが、「むかし蔑せし故郷」があったことは否めません。そして、開業して後、「自転車を北風に駆りつつ金ほしや」という句を詠むにいたり、石川桂郎をして何かにつけキレイな人だったのに、とその変貌振りを気の毒がらせたのでした。

こうした文脈の中で掲出の句を読むと、ある一時期の遷子の心情として分からなくはないように思うのです。と同時に、遷子の社会性のある俳句を詠むに至る道程が少しづつかび上がってくるように思います。順風満帆、あるいは自然と故郷の人々に囲まれて幸せだったわけではなくて、鬱屈した思いが佐久の中で渦巻いていたようです。言葉が自分のものになり始めた、そんな思いがしてなりません。

[何か今回は皆さんすごくのって書かれているようです。遷子研究のつぼにはまった感じがします]

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