2009年11月21日土曜日

遷子を読む(35)

遷子を読む(35)

・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、仲寒蝉、筑紫磐井


わが山河まだ見尽さず花辛夷
     『山河』所収

筑紫:昭和49年の句です。この句を詠んだとき、遷子はガンの疑いで入院、胃を摘出し、縫合がうまく行かず長期の療養に入ります。やっと退院しますが、翌年再び入院、そして以後二度と家に帰ることはありませんでした。昭和51年1月になくなっています。その意味で、昭和49年の入院をもって凄絶な遷子の闘病が始まったのです。

同じ時期に句集には、この句に並んで

春一番狂へりわが胃また狂ふ
万愚節おろそかならず入院す
癌病めばもの見ゆる筈夕がすみ
無宗教者死なばいづこへさくらどき
遺書書けば遠ざかる死や朝がすみ

と続きます。すでに「遷子を読む」でたびたび登場した句であると思いますが、まだ少し遷子にはゆとりがあるようです。何しろこのときの入院で、

梅に問ふ癌ならずとふ医師の言

と答えは得たからです。しかしこれが真実でないことは遷子に分からないはずはありませんでした。

飯田龍太が『相馬遷子全句集』で激賞し始めるのはこの句以降の作品だと思いますが、闘病と佐久への思いが重なることにより龍太の鑑賞領域内に入り始めたということになるのでしょうか。『山河』についてふれる冒頭に出てくるのがこの句でした。もう一度龍太の言葉を引きましょう。

遷子という俳人は、全句業を眺めたとき、必ずしも生得詩才に恵まれたひととは思われぬ。『山国』も『雪嶺』も、決して秀抜の句集ではない。のみならず、最後の『山河』さえ、前半は格別のこともない。

だが一集の後半、病を得てからの作品の迫力は、ただただ驚嘆のほかはない。そしてまた、芭蕉の正風開眼に先んじて、上島鬼貫のいった「まことのほかに俳諧なし」という言葉を思い浮かべる。・・・(野見山)朱鳥は、才知を捨てたところに華を開き、遷子は才知に頼らずして誠に徹して華を得た俳人ではないか、と思った。 「山河遼遥――相馬遷子全句集について――」

再び掲出句に戻り「わが山河」ということで、佐久を囲む自然と同化しようとする姿勢が見られます。この句に照応するのが、まさになくなる直前、「冬麗の微塵となりて去らんとす」の直後の句に詠まれた

わが山河いまひたすらに枯れゆくか

でありました。もう時間は切迫していたのでした。

中西:この句は句集『山河』の題となったものではないかとふっと思いました。志半ばで病に倒れた遷子の思いをストレートに表わしているものです。

年老いて賢くならず鳥雲に  『雪嶺』

昭和43年のこの句から、老いたら人間が少しはましなものになると思っていた節があるのが窺えて面白いのですが、一方で何か老いに希求するものがあることが窺えます。ペシミストな遷子が立ち現れているようですが、賢くならないと首を傾げているところにとぼけているような味わいもある句です。

この2句の共通するところは否定形を使っているところで、こうあるべきだったのに、惜しくもそうならなかったという、理想と現実の間を行き来する心を見るようなところです。そこが人間臭くて共感を覚えるところで、否定形を効果的に使っていると思います。

遷子には否定形で作られた句が他の俳人より多いのではないでしょうか。

しかし、同じ否定形でも掲出句のほうが、現実的で、より落胆が大きく、無念さも汲み取れます。

秋深し還暦過ぎて老後の計  『雪嶺』

これも昭和43年の句で、『雪嶺』の最後を飾る句です。

遷子には残念ながら老後はなかったのですが、老後にも身を高めるための何かをしたい、或は医業でなにかの心づもりがあったのかもしれませんね。

還暦を過ぎたあたりから、まだこれから見るはずだった「わが山河」の行くてに思い描いていた夢があって、実現したいと思っていたのではないかと想像するのは穿った見方でしょうか。老いても求め続ける何かがこの句を作らせたのではないかと思います。

原:昭和49年春、遷子は胃癌の疑いで摘出手術を受けるわけですが、句集の順を追って読むと、掲句は手術を控えて入院中の時期だったようです。病室の窓から外の景色を眺めることも多かったことでしょう。

無宗教者死なばいづこへさくらどき

と詠んだ遷子には、宗教も人為的なむなしいものであって、自然こそが信頼するに足る対象だったのでしょう。遠く仰ぐ山々に点を打ったように白く浮かぶ辛夷の花は「わが山河まだ見尽くさず」の感慨をいやがうえにも深くしたと思われます。

そういえば遷子と同じく山村在住者として生涯を終えた飯田龍太の葬儀の際、その朝はじめて咲いた辛夷の花がご子息の手によって飾られたと聞きましたが、長い冬を過ごす山国の人には早春の辛夷の花は特別な感情をもたらすのかもしれませんね。

深谷:第1回に採り上げた、

冬麗の微塵となりて去らんとす

が辞世の句であったことは、遷子本人の弁によっても明らかです。辞世に相応しい、きっぱりとした覚悟がそのまま一句を形成しています。それに対して掲句は、筑紫さんの基調コメントにあるとおり闘病が始まったばかりの頃に詠まれた句ですから、生と死の葛藤、誤解を怖れずに言えば生への執着とその裏腹の無念さが句のバックボーンにあります。

そしてこの句で注目したいのは、「わが山河」という上五の措辞です。「俳句は一人称の詩なのだから、我や吾は不要。省略すべし」というテーゼに反し、敢えて「わが山河」と言い切ったところに、佐久の風土に対する遷子の想いの深さが表れていると思うからです。そうした遷子の佐久への愛着が当初から存在したものではなかったことは、これまで筑紫さんが度々指摘されてきたところです。それが、いつしか「わが山河」というまでに変化していったことを思うと、佐久の風土への愛着を育んでいく過程こそが、遷子の人生そのものでなかったのかという気すらします。

さらに、下五の「花辛夷」が、雪国の長い冬が終わったことを知らせる花であり、この句に込められた遷子の想いに相応しい季語であると思うのと同時に、その固く結んだ白い蕾の佇まい、さらには散りゆく時の潔さまでが、遷子の人となりを象徴しているように思えてなりません。

窪田:好きな句ですが、どこか身につまされるものがあって取り上げにくかったものです。句集『山河』の後書きには「この句集は、『山国』『雪嶺』につづく第三句集であり、おそらく最後の句集となるであろう。」とあります。

さて、信州で春一番先に目に付くのは「アブラチャン」(上田市周辺では「ジシャ」と言う)の黄色い花です。そして、それから少し経つと近くの山々に、辛夷の花が桜のように咲きます。信州の地は俄に活気づき農作業が始まります。当に山河が目覚める時で、そう考えると一年の初めとも言えます。「見尽さず」という遷子の思いが湧いたのも頷けます。筑紫さんも指摘されていますが、この時期の遷子には「まだ少しゆとりがあるよう」です。躍動する命が戻ってきたかのような山河に向かい、遷子自身も生への意欲が湧いたのでありましょう。「見尽さず」というのは遷子の生への意欲の表れなのです。

もう一点掲句で気になるのが「わが」です。ちなみに、『山河』から「わが」に類する語を含む句を拾ってみますと、昭和44年2句、昭和45年(父親を亡くした年)「雪嶺の光わが身の内照らす」「信濃びとわれに信濃の涼風よ」など5句、昭和46、47年は無し。昭和48年は「わが老いを瞑りて見る冷やかに」の1句です。死の前2年間は次の通りです。

昭和49年
春一番狂へりわが胃また狂ふ
わが山河まだ見尽さず花辛夷
春あけぼのわが声かすれかすかなる
わが映る鏡無惨や春の暮
わが肌に触れざりし春過ぎゆくも
吾を追ふは秋の風にはあらざりき

昭和50年
わが病わが診て重し梅雨の薔薇
冷え冷えとわがゐぬわが家思ふかな
わが病めば秋暑の母の耳遠し
わが予後を小春の妻に告ぐべきか
雪嶺よ日をもて測るわが生よ
わが山河いまひたすらに枯れゆくか
わが生死食思にかかる十二月

当然と言えば当然ですが、年を追う毎に「わが」のことばが重くなります。この「わが」の多用が私達読者に切実さを訴えてくるようです。最後の句は、奇しくもこの句集の最後に置かれています。

仲:遷子の句集を年代順に追っていると出征から帰り佐久の故郷に戻る頃(『山国』の「薄き雑誌」あたり)随分と田舎に引っ込むのを嫌がっているような句が並んでいます。例えば

天ざかる鄙に住みけり星祭
寒雀故郷に棲みて幸ありや
百日紅学問日々に遠ざかる

しかしその後堀口星眠、大島民郎らと所謂馬酔木高原派としての句会や吟行を重ねるにつれて故郷の山河を愛しいと思えるように変わっていったのではないでしょうか。この最後の句集『山河』に至ってふるさとの自然を「わが」山河と誇りをもって呼べるようになったのでしょう。

辛夷については窪田さんの詳しい記述があるのでそれに譲りますが、一言個人的な経験を加えさせていただきます。私にとって辛夷と信州の結びつきは堀辰雄の『大和路・信濃路』の一節でした。木曽路を走る列車の中で或る夫婦の会話を耳にした辰雄は辛夷の花を見たがったけれど、妻から指差されても確とは見つけられないといったシーンでした。だから同じ木曽路を通って大学入学のため関西から松本へ入った私は真っ先に信州の花として辛夷を探しました。一番印象深かったのは奥裾花渓谷へ水芭蕉を見に行った時に出会った大きな辛夷の木でした。枝という枝に花を付けていてそれは見事でした。

「まだ見尽さず」という措辞には志半ばといった無念さを感じます。遷子は軍医見習士官として出征を経験していますが、その頃の俳句には死を前にしたような切迫感がない。波郷が「雁や残るものみな美しき」と詠んだような故郷への愛惜の情も余り感じられません。しかしこの癌との闘病の機に及んで初めてそのような心情が吐露されています。年令の差なのか、置かれた状況の違いなのか。能登守教経の天晴れな最期を見届けた新中納言知盛が、「見るべき程の事は見つ」と言って壇ノ浦の藻屑となって沈んでいったのは満33歳の時。若くとももう見るものはないという人もいれば、年をとってもまだまだ見るものはたくさんあるという人もいる。人生に対する満足感は単に時間の長さではなく充実度なのでしょう。こういう心理を分析するとそれなりに興味深いのでしょうが今の私には荷が重過ぎるのでよしておきます。

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