2009年11月8日日曜日

遷子を読む(33)

遷子を読む(33)

・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、仲寒蝉、筑紫磐井


雪山のどの墓もどの墓も村へ向く

『雪嶺』所収


深谷:昭和34年の作品。雪国では、山にある墓地は半年以上も雪に覆われたままです。或る日、その墓地で墓が皆、村の方角に向けて立てられているという事実を発見し、その時の感慨を詠んだ句でしょう。このように句意は極めて明瞭ですが、リズムの面では五・十・五の大幅な破調になっています。しかも、「どの墓も」が2度繰り返されるリフレインが用いられています。この部分も、定型の中七に収めようとすれば「どの墓もみな」とする選択肢もあったのかもしれません。けれども、それでは掲句が持つ訴求力が大幅に減殺されてしまう気がします。いわば、破調かつリフレインによって、一つ一つの墓、ひいてはその墓に眠る死者たちの想いを前面に出したかったのではないかと思います。あるいは家族や子孫を死後も見守ってもらいたいという村人たちの想いが、墓の向きをそうさせたのかもしれません。いずれにせよ、そこには死者と生者との濃密な関係性が見てとれます。それが、遷子が愛着あるいは愛憎をもって接した佐久の風土の一部を成しているのでしょう。この句集のあとがきで、遷子はこう述べています。「雪嶺は私にとって佐久の自然の代表である。晩秋から初夏に至る長い期間、常に雪嶺を眺めて生活出来ることを心から有難いと思っている。」 。この雪嶺に、この墓地があったような気がしてなりません。


中西:雪山というのは、前山と言われる里山のことでしょう。名もない、低い生活に密着した山です。墓というと、なぜか日本では山の高いところに作るようです。見晴らしのいい場所にお墓がある風景をよく見ます。

中七のリフレインは、哀愁の帯びた表現ですね。歌っているようなリズムの句です。墓の向きというのはよく詠われるところで、故郷への愛情を、少し甘く表現していると思われる節もあるようですが、雪山ということで、墓が雪で半分、或は全部埋まってしまっている状態と想像しますと、村に向いているというのは哀れです。

山の上に墓を作るということは、生者が死者に見守ってもらいたいということで、死者と生者との濃密な関係性を深谷さんはそこに見ていらっしゃるわけですが、私も同感です。


原:遷子の句集名『山国』『雪嶺』『山河』を並べてみると、彼が郷土の山々にどれほど思い入れが深かったかよく分かります。なかでも雪の山容を眺める視線には、自分の精神を高く繋ぎとめておくよすがとして対するような趣が感じられます。時に自省を促し時に励ましてくれる雪嶺であったことでしょう。同じ34年作の、

わが生や夜も雪山に囲繞され

からも、そのような印象を受けます。雪の山々を理想や憧憬の象徴として置くとき、ふもとの町や村はともすれば塵芥に覆われた世俗の相を見せます。遷子の詠む山々(特に雪山)の景は精神性を帯びて屹立して、人間世界と対峙するように感じるのですが、今回の句は少し違いました。

雪山は死者達を抱き、さらにその墓は子孫を見守るように位置しています。集落の共同の墓地なのでしょうね。遷子自身の家の墓は「ミステリーツアー」によれば、菩提寺にあって立派なものだったようですが、村の多くの人々は古くからここに眠ったのでしょうか。長い冬に閉ざされる厳しい自然環境を思って読むとき、「どの墓も村へ向く」ということの切実さがひしひしと迫ってきます。


窪田:海に向かって建てられたお墓もあります。西方浄土を願って西向きに建てられたお墓もあるのでしょうか。あるいは、生者が西を拝むために東向きに建てられたお墓もあるかも知れません。また、先祖の霊は近くの山の峯に集まっていると言いますから、山を背にして建てられたのかも知れません。しかし、「村」という語が印象深い句です。深谷さんの言われるとおり「家族や子孫を死後も見守っていたいという村人たちの想い」の表れと私も思います。稲作農耕民族である私たちは共同体意識が強く、死者も含めて村人なのです。また、中七の大胆なリフレンが、お墓に眠る一人一人へ思いを廻らす遷子の姿を想像させます。死者への思いは遷子自身を含め生者の命への思いに繋がります。遷子は命を詠む俳人と言えなくもないなあと思い始めています。


仲:墓がみな海に向くというフレーズは結社の句会では嫌と言うほど目にします。だから通常この手の俳句は選ばないのですが、この句の場合中七の長大さがまず目を引きますね。こうしないではいられなかった遷子の思いを酌まなくてはいけないのでしょう。一番言いたいのはたぶん下五の「村へ向く」ではなかったでしょうか。故郷の村についてどんな思いを抱いていたとしても死んでしまったら自分の墓は畢竟村の方を向いて立てられるのだ、という諦めとも感慨とも取れる気分をこの下五から感じます。

今年2月、『里』では恒例の寒稽古を行いましたが、今年のそれは小海線に乗り込み一駅1~2句の割合で俳句を作るという遊びでした。佐久平発、野辺山まで行きまた引き返してくるコース。臼田を過ぎる辺りから汽車は谷間を縫って走り周囲は皆雪山というありさまでした。こんなところで拙句を披露して恐縮ですが、〈冬眠も墓もここでは同じこと〉と作ったくらい沿線では墓地が目立ちました。そもそも雪景色の中では田も畑も雪に覆われて白一色なので目を引くものと言えば樹々と家々と墓くらいしかないのです。

遷子のこの句も雪景色の中、しかも雪山に囲まれた墓ということでは多分我々がこの時に見たのと同じような風景を詠んでいるのだと思います。佐久に暮らしていると実はそれほど雪には困りません。底冷えはするけれども積雪の量は余り大したことないのが佐久(遷子の暮らしていた野沢を含めた佐久平)の冬の実情です。ただ周囲の山々はたしかに11月から4月頃まで雪に覆われています。先に述べたように臼田以南はほとんど山峡と言っていいくらいなので雪に閉じ込められることも珍しくはないようです。私にはこの墓は野沢あたりでなくもっと南の山峡の(例えば小海あたりの)それを指しているように思われます。


筑紫:この夏、遷子ミステリーツアーで訪れた、相馬家の菩提寺である金台寺の墓を思い出してしまいました。金台寺は佐久の市内にあり、掲出の句の環境とはぜんぜん違います。しかし、遷子が「墓」で考えるイメージを確認するには触れておくのがよいかと思いました。市内の由緒ある寺に相馬家の墓はあり、特に寺でも一番立派な墓だといわれています。小さな蔵のようになっていて厳重な扉の中に先祖代々の位牌が収められているのですが、墓碑には、遷子の名前はありませんでした。住職によると、遷子は間違いなくこの墓に入っているが、当人が墓碑に刻むことを望まなかったのかも知れないといわれました。遷子の自身の墓に対する考え方はどうであったのでしょう。

若干私は遷子に故郷から疎外された意識があったように感じました。遷子の書いたものや言動の一部にはそれを推測させるものがあるように思うのです。山国や雪嶺や山河のような自然は比較的早く遷子を受け入れてくれたように思いますが、佐久の人々はどうであったでしょうか。遷子の言葉に、何度も引用しますがこんな言葉があったことを思い出します。

(佐久の人の)人情は果たして如何でせうか。久しぶりに帰住した私にとつては、稍期待を裏切られた感がありました。自分自身のことを思ひ合せてみましても、大方世人の七割八割は、金があれば或る程度善人になり得るのではないでせうか。恵まれぬ経済的環境といふ事も、よほど考慮に入れねばならぬと思はれます。」(「佐久雑記」)

『雪嶺』時代の社会性を帯びた俳句も、故郷を客観視することにより生まれると思います。即自→対自→即かつ対自というプロセスを考えると、批判的に眺めるということは対自的であるはずです。墓碑に遷子の名前を刻まなかったという事実は、これも対自的であると思います。

その意味で、遷子自身がその作風に共感を持っていたとしても、飯田龍太とは似て非であったと思います。龍太は即自の人であったのです。

しかし不思議なのは、破調の点は別にしても、掲出の句は龍太の世界と通い合うことです。墓は死者の象徴です。この句には生きたものがいません。死者の世界では遷子も即自的になれたのでしょうか。

[原稿をまとめてみると、原さんと同じ素材を使いながら、ずいぶん異なる論理をたどり、結局結論は近づいてきた、という感じがします。読会の不思議さでしょうか]


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