2009年4月26日日曜日

第36号




第36号

2009年4月26日発行

月のバレエ

~ボンボンと方言

          ・・・青山茂根   →読む

モダンオヤジは何処にいる
今井聖『ライク・ア・ローリングストーン
――俳句少年漂流記』を読む

          ・・・高山れおな   →読む

遷子を読む

〔5〕くろぐろと雪片ひと日空埋む

・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井   →読む

俳句九十九折(33)

俳人ファイル ⅩⅩⅤ 齋藤玄

          ・・・冨田拓也   →読む

「俳句空間」№15(1990.12発行)〈特集・平成百人一句鑑賞〉に纏わるあれこれ(2)

永田耕衣「白菜の道化箔なる一枚よ」

          ・・・大井恒行   →読む

閑中俳句日記(04)

結城昌治『定本 歳月』、藤沢周平『藤沢周平句集』

         ・・・関 悦史   →読む

あとがき           →読む

豈同人の出版物      →読む

執筆者プロフィール    →読む

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あとがき(第36号)

あとがき(第36号)


■高山れおな

前号の「あとがき」で中村さんが述べているように、先週はずっと東京を離れておりました。出雲国の神社&古墳めぐり六泊七日の旅です。仕事の旅ではありますが、最終日の四月十九日日曜日に雲南市大東町の須賀神社に参拝できたのは、個人的にも意義深いことでした。この神社の御祭神は、須佐之男命(すさのおのみこと)、奇稲田比売命(くしいなたひめのみこと)、清之湯山主三名狭漏彦八島野命(すがのゆやまぬしみなさろひこやしまのみこと)。古事記などの表記と少し違いますが、要するにスサノオノミコトとクシナダヒメの夫婦に、その子ヤシマジヌミノカミを配しているわけです。

ヤマタノオロチを退治したスサノオノミコトは、宮を造る場所を求めてこの地にやって来ます。でもって、「吾この地に来まして、我が心すがすがし」と言って宮を建てる。この“すがすがし”がすなわち当地の名の“須賀”の起こり。さらに宮殿から美しい雲が立ち上るのを見てスサノオが詠んだのが、かの「八雲立つ出雲八重垣妻籠みに八重垣作るその八重垣を」だったというので、この神社は「日本初之宮」「和歌発祥之遺跡」を称しております。

神社そのものはどうということもないたたずまい。でも、そこから二キロほど先の須賀山の中腹にある奥宮がすごかった。車を降りてさらに四百メートルほども山道を登った先に、夫婦岩と通称される巨大な磐座が鎮座しているのです。大中小の三つのこんもりと丸い巨石が寄り添うさまは、まさに夫婦親子のごとくに見えます。これまで磐座もいろいろ見た中で、最もインパクトの強いもののひとつでした。こちらも和歌の一種にたずさわる者のひとりですから、せいぜいお賽銭も奮発してお祈りしてきたことです。


■中村安伸

祖父の満中陰と祖母の十七回忌の法要をあわせて行うことになり、奈良に帰省しております。

祖父の遺品の中より「句帳」と記された大学ノートが発見されました。まだ詳細に目を通したわけではありませんが、若い頃、相当力を入れて修行していた様子が見て取れました。

経年劣化や癖字のため判読しづらい部分が多いのですが、可能であれば今後どこかにご紹介させていただければとおもっています。


今井聖「俳句少年漂流記」

モダンオヤジは何処にいる
今井聖『ライク・ア・ローリングストーン
――俳句少年漂流記』を読む

                       ・・・高山れおな


俳句は書かれた言葉だけで読まれるべきで、作者の人生や境涯などは作品の価値とは関係がないという考え方がある。理論としてはむしろこれが現在の主流の態度で、読解の現場ではしかし作者の人生や境涯をなし崩し的に導入しながらの読みが施されている、というのがだいたいの状況かと思う。もちろんこうした、いわゆるテキスト論的な態度はなにも俳句の専売特許ではなく、半世紀来の小説を中心とした文学の読み方一般の中に位置づけられるものだ。評者自身はむしろ俳句は書かれた言葉だけ読んでも大して面白くないとハナから思っているクチで、〈自分はそれだけで事足りる作品を産んだと思う者があれば、それは傲慢も甚だしい烏滸(おこ)の沙汰である。どんな高度な作品も人生との関係によってしか価値がない。それらの関係をよりよく把握すればするほど、いよいよますますわたくしは作品に興味を持つ。〉(*1)といった言葉の方に親しみを感じる。

そのようなわけだから、『ライク・ア・ローリングストーン――俳句少年漂流記』を読むと今井聖の俳句そのものに対しても「いよいよますます」興味を掻き立てられることになるのだけれど、その興味が必ずしもストレートなものではなく、それなりの屈折の色を帯びるらしいのは、今井と評者それぞれの党派性のためだろう。帯には「抱腹絶倒! 70年代の青春記」とあって、確かに本書は若い日にありがちな鬱屈と愚行の記録集の趣もあり、中には笑える話もあるものの、率直に言って全体のトーンは暗い。非常に読ませる作品であることは確かで、俳句という特殊な要素を度外視しても全共闘世代の最後尾に属する人物の青春記として一読に値する出来だと思うが、もちろん俳句をやっている人間にはなおのこと参考になる話題が多い。本書は今井が主宰する俳誌「街」での連載を元にしており、全体は二十章に分かれている。以下、目次を示す。

目次
「天才」俳句少年の恍惚
「今井君、ホーマーを読みなさい」寺山修司
豚児、出奔す
ジャニスを聴きながら
前衛的二浪生活
雪の北大路通り
寮費タダ、優しくもアブナイ先輩たち
東京戦争敗戦記
リアルの探求
ラーメン代を借りた友の指名手配
女子大生はタダ、しかも交通費つきの銭湯
働くことのリアリズム
楸邨の「寒雷」と戦争責任
「小野田少尉と重信房子のために」
うつくしや障子の穴の……
刹那的に明るい婦人服会社で働く
就職のためにクリスチャンになるも……
ディオゲネス的生活
秋桜子と楸邨のテニスマッチ
「しずかにするだが」

今井に関して評者が前々から気になっていたのは「モダンオヤジ」批判で、その核にはどうやら寺山修司に対する憎悪があるらしい。寺山批判は公の発言でもいくたびか見たところであるが、私信でまで言及があったのに驚いたことがある。今井は評者などが句集を送っても丁寧に葉書を呉れる人でもあるのだが、その書きぶりからするとどうやら評者の作品を好ましく思っていないようなのはいいとして、文中になぜか寺山の名が出てくる。こちらとしては、良くも悪くも、寺山修司と二枚に重ねて斬られる覚えはないのだが。たしか「狩」誌だったかに、人を褒める時に必ず寺山を引き合いに出す俳人がいたはずだから、うまく釣り合いがとれているには違いない。ちなみにその「狩」俳人は一九四七年生まれで、今井は一九五〇年生まれ。正負の別はあれ、寺山が一種の世代的なイコンになっているということなのだろう。

それにしても今井はなぜそんなに寺山が嫌いなのか、もしや個人的な恨みでもあるのかしらんと揣摩臆測をたくましくしていたところなので、こんどの本にはそのあたりの事情も書いてあるだろうかとひもとけば、案にたがわず「『今井君、ホーマーを読みなさい』寺山修司」と章が立てられているのは、上の目次の通りだ。読んでみると、両者の間には個人的な関係などは存在せず、その点では期待は裏切られた。しかし、まったく接点が無かったかといえばそうではなく、今井が高校一年の時、中学時代から投句していた学習雑誌の俳句欄の選者が楠本憲吉から寺山に替わり、それをきっかけに何度か手紙を書いたのだという。すでにして好意からの手紙ではなく、敵意からの手紙である。

寺山のアジテーションは当時熱狂的に若者に受け入れられた。寺山は前衛であり、反権力であり、インテリジェンスであり、異端であって、啓蒙的であった。それはその当時も感じていた。だからこそというべきか、ど田舎の十六歳はその挑発に乗るわけにはいかなかった。自分は過疎県の片隅で笑われながら俳句を書いている。その屈折感のぶつけどころに寺山の「異端」は答えを与えてくれなかった。これは寺山への嫉妬というべきだったろうか、否(いな)、僕は屈折の度合いを問題にしていたのだと思う。

今井は、〈否定を繰り返すことによって戻ってくる地点は以前と同じに見えて同じではない。その否定の反復のうちに自己表現は鍛えられるのではないか。〉とも述べており、これはとりたてて独創的な意見ではないが、寺山には「否定の反復」が不足しているとみなすのはそれなりに独創的かもしれない。

俺はそんなにダボハゼのようにはひっかからないぞ。第一、お前の俳句なんか知らないぞ。あんたに俳句欄の選者になる資格があるのか(寺山修司の俳句は、当時ごく一部の寺山マニアにしか知られていなかったと思う)。

そんなことを僕は長々と書いて、選者寺山修司に書き送った。そんな手紙を二、三通も書いたろうか、ついに或る日、投稿欄の誌面に寺山からの返信が載った。

自分は、これこれこういういきさつで俳句も書いている、という説明があって、そのあとに、「今井君。細かいことをこせこせ言わずに、ホーマーの『イリアッド』や『オデッセイア』でも読みなさい」とあった。

世界に目を開け、古典を学べということなのだろう。

こういう青年客気は少しも嫌いではない。それにしても、自分はダボハゼではない、自分は特別だと思うのは典型的な青春性のあらわれで、しかも後に京都や東京で「天上桟敷」の芝居を見たことを回想しながら〈青春性の「一典型」として微笑みながら観たというしかない。〉などと書き付ける今井の現在は、みずからのかつての典型性に適切な距離を保ちえているのだろうか。そこがどうもよくわからない。

寺山の短歌も俳句も大方はうそ臭くて演出過剰で今でも好きにはなれないけれど、僕が本当に嫌いだったのは、寺山自身ではなくて寺山ファンの若者たち。実は寺山ファンに象徴されるアンチ定番派の「若さ」だったのかもしれない。「暴力」や「夭折」や「無頼」や「反権力」のレッテルが貼られると途端に認めてしまう同年代の「若者たち」。それを食いものにするモダンオヤジたち。人間の意識というのは、もっともっと何重にも問い返され屈折したあげくに、含羞をもってどこかに到達するようなものではないのか。

このような整然たる叙述はおそらく若き日の今井のよくなし得るところではなかったはずで、なんだか今井の青春が甲羅を経た筆にとりついて、今さらに語り始めたかのようだ。繰り返すが、同世代に対するこうした優越意識、自分だけが「若者たち」を食いものにする「モダンオヤジたち」の意図を見抜いているというこの種の意識のありようをこそ青春と呼ぶ。問題は、それが四十年程も前の回想である以上に今井の現在の意識として読めてしまうところであろう。もちろん「青春性の『一典型』」などとして解消できない要素も今井にはあって、それは今井が俳句を作る少年だったという、他ならぬその事実である。

今井は生まれこそ新潟県ながら、先に引いた文中に「自分は過疎県の片隅で笑われながら俳句を書いている。」とあったごとく、その少年時代を鳥取県で過ごした。学校の授業で〈ほととぎす大竹藪をもる月夜  芭蕉〉〈うつくしや障子の穴の天の川  一茶〉などの俳句を知り、〈芭蕉の一句は大小説家の一編に勝る。〉などと説明を受けた少年は、〈理屈はわかるが、これが俳聖と言われるほどの作品かいな、この程度俺にもできるがな〉と学習雑誌への投句をはじめる。旺文社発行の「中二時代」に短歌一首・俳句一句を投じたところ、短歌は没になり、俳句〈青空にひばりがひとつ伯耆富士(ほうきふじ)が石田波郷選の第一席に入った。

一番近い中学校まで、自転車で三十分もかけて通わねばならないほどの片田舎の十四歳はこの入選で有頂天になった。

俳句で身を持ち崩す(?)人間の誰もが最初にする経験だけれど、親が俳句をやっていたわけでもないのに、これが中学二年の時だったというのはさすがに早い。ゆきつけの床屋の主人がたまたま「ホトトギス」の投句者で、句会に連れて行って貰えたのはいいとして、参加者の平均年齢が六十歳代というのは、現在だって変わらぬ風景とはいえ、少年の孤立が思いやられる。評者が俳句を作り出したのは大学三年くらいだから、〈クラス替えなどの後の自己紹介で趣味が俳句だと言ったときの皆の爆笑はその孤独感を一層強めた。〉といった事態こそ避けられたものの、今井少年の気持ちはおおよそ察することができる。

さて、以後は学生運動の影響を受けてざわつく高校時代、予備校に通いながらの京都での二浪時代、東京での大学生活、いったん就職したのち学士入学で大学に戻り、最後は横浜高校の英語教師として採用されるところまで、より正確には就職からほどもない母の死の情景と、追悼の句までが本書でつづられる。全体のトーンの暗さの原因は、筆者の両親との関係と学業不振にあるのだが、これほど明晰な文章を本一冊分も書ける人間が、〈明治学院の合格通知を手に米子に帰った僕を、父はやけ酒をあおりながら迎えた。「メイジガクイン? 二年もやって専門学校かあ」〉と帝国大学出の父親に罵られる状況に陥るというのが、読んでいて最も理解し難いところであった。いくら俳句にうつつを抜かしていたにせよ、である。寺山とのやりとりに見たように、考えなくてもよいことを考えすぎる性格のせいかとも思うが、ともかく今井聖が受験にかくもてこずったというのは謎である。なにしろ、五十歳をずいぶん過ぎていながら、〈いまだに試験場の中にいる夢を見る。広い教室会場の真ん中でストーブが焚かれ、近くに坐っている僕は熱くて集中できない。〉と記すのであるから同情に堪えない。第二句集『谷間の家具』(*2)にも、平成三年の作として、

冬満月遠き試験の夢に覚め

という句が載っている。傷の深さに加えて、高校教師という職業柄、みずからの受験時代の記憶が再帰してくるような情景を毎年見なくてはならないせいもあるのだろうか。

本書の記述が終わる一九七八年に今井は二十八歳だったに過ぎないが、それまでに重ねられた俳句体験の濃厚さにはやはり感心する。すでにふれた波郷、修司、また米子での最初の俳句仲間である芹沢友光(ゆうこう。先述の床屋の主人)、句会を指導してくれた村穂文哉(ぶんさい)。芹沢に散髪して貰ったあとで、代金がわりにとやおら自作の短冊をとりだして喧嘩になる田舎俳人などというのも登場して、これこそ古い“俳諧師”のあり方の残影のように思う。さすがに今では日本中探してもこんな人は見つからないに違いない。〈お年寄りばかりの句会〉〈颯爽と現れた〉三十代半ばの曽我部堯利(たかとし)からは「青玄」誌を見せられ、早くも頭角を現しつつあった坪内稔典(今井より六歳上)の活躍に強い印象を受けている。その曽我部の尽力で、地元の公民館の句会に現われた「青玄」主宰の伊丹三樹彦が、今井が〈「中央俳人」というのを目にした最初〉で、お供でついて来た同誌同人の陰山久夫から貰った〈コリーと少女が出ていったきり 異人館〉という短冊は、護符のように今井少年の部屋に飾られるのだった。

そういえばだいぶ以前、「俳句研究」の座談会で評者は今井と同席したことがあって、テーマは金子兜太だったかと思うが、兜太はなぜ放哉ではなく山頭火の方を評価するのかという話になって、今井が放哉について熱心に説明してくれたことがある。自由律にも詳しいのかと感じ入ったが、放哉が鳥取出身だったため今井の通う県立米子東高校の図書館にかなりの数の放哉関連本があったというのも、本書を読んでわかったことだ。ただし、これは山頭火や放哉が有名になる以前の話で、今井少年は〈それにしても奇妙な俳句があるもんだと思って読んでいた〉というのも可笑しい。なお、放哉は幼年期を鳥取市立川町一丁目九十七番地で過ごしており、今井は六歳から十二歳まで同じ町内の一丁目八十八番地に住んでいたのだそうだ。こういう機縁の風景は、他人事ながらなにやら有り難いものである。

山口誓子に心酔していた今井は、京都での浪人時代、天狼本部句会に参加して、〈憧れの山口誓子の姿〉をはるか彼方に瞥見するようなこともしている。誓子は、評者が俳句をはじめてからでも五、六年は生きていたのだから、評者だって同じように出来たはずなのに、そんなことは露にも思わなかったのは今さらながらもったいない気がする。誓子は関西だからというのはとりあえずの言い訳でしかなく、例えば関東にいた加藤楸邨の姿も結局評者は見ていないのだ。こういう自らの腰の重さというか引っ込み思案も、若い今井のフットワークの軽さに引き換えて改めて反省されるところだ。まあ、直らないと思うが。

今井は、〈山口誓子に出会って、僕は初めて同時代の感覚を俳句の中に見出した思いであった。〉と、自らの“誓子発見”を特筆している。さらに、

今でも、僕は誓子を、俳句の現代を拓いた最大の俳人と思っている。子規以後というより、芭蕉以後で、それまでの俳句とまったく似ても似つかない、それでいて俳句でなければ表わすことのできない詩情を示し得た俳人は誓子しかいない。

とまで評価しているにもかかわらず、今井が師に選んだのは誓子ではなく楸邨であった。本書をひとりの俳人のビルドゥングスロマンのごときものと考えれば、実はこの選択こそが最も本質的な主題なのだと言ってもよいだろう。実際、なぜ誓子ではなく楸邨なのかについての回顧・考察は、おのずから著者独自の誓子論・楸邨論となっていて、ある俳人がある俳人を師に選ぶとはどういうことかについてのサンプルとしても生彩に富む。いやそれだけではなく、寺山修司についての記述もひとつの論であったし、坪内稔典への言及もまた鋭い。 おりおりに差し挟まれる、こうした俳人論も本書の読みどころである。

稔典さんの師伊丹三樹彦さんの「青玄」の主張の新しさは、「分ち書き」と現代語表記の二点。それでいて、内容は近代のリリシズムから離れない。そういう意味では、「古壺新酒」ならぬ「新壺古酒」が「青玄」の特性であり、稔典さんの原点になっていると僕は思う。

「現代語表記」という言葉が意味不明ながら、基本的にはもっともな指摘だろう。ついで金子兜太と坪内の第一句集を比較してはこう述べている。

『少年』が、「戦後民主主義」の御旗を奉じて、経済の高度成長に突き進んだ時期の「個」を描いたと見るなら、『朝の岸』には、その「戦後民主主義」や政治体制、そして自分の存在も含めたあらゆるものへの懐疑を「個」の中に引き込まざるを得なかった苦渋が見える。

寺山に対する点の辛さに比しての坪内に対するこの共感ぶりは、少なくとも評者には意外だった。ネンテン氏はモダンオヤジではないのらしい。しかし坪内がモダンオヤジでないとすると、寺山の他に誰が代表的モダンオヤジになるのかというと、それは高柳重信のようだ。今井の党派性に、評者の党派性が最も反撥を覚えたのは、主に高柳をめぐる記述で、何しろ、

僕は、寺山修司も岸上大作も高柳重信も「京大俳句」も嫌いだった。彼らの魅力を口にする人たちの意識を軽薄短慮に思い、その互いの了解ぶりを苦々しく思った。

とさえあって、これは本書がカヴァーする十代から二十代にかけての意識として記されているわけだが、その後、楸邨に師事する過程で高柳への敵対心はより尖鋭になっていったはずだから、後に明確化された認識を時間を遡るかたちで提示している可能性はあるだろう。高柳は他にも何度か登場している。例えば田川飛旅子の「陸」誌の編集を手伝っていた著者が、田川に叱られる場面。〈珍しく不機嫌〉な田川に、今井は鈴木六林男からの手紙を渡される。

内容は、少し前の「陸」誌に書いてもらった六林男さんの文章が楸邨門や田川さんに対して好意的なのに、「俳句研究」に書くときは「寒雷」系に厳しい。ひとりの評者としてこれはおかしい。ということを僕が「陸」の編集後記に書いたことに対する六林男さんからの抗議文だった。

「俳句研究」の運営者兼編集長、高柳重信さんの楸邨嫌い、「寒雷」嫌いは周知のことだった。とにかく、「戦争」の傷痕を抱えたリベラルで狷介なおのれを「売り」にしている六林男さんとしては、「俳研」に書くときは重信さんの顔色を見なければならず、「風」時代に仲間だった田川さんの雑誌に書くときはそれなりの好意を示さねばならないのだろうと、僕はそういうふうに取ったのである。しかし、それを「陸」の編集後記に書いたのはまずかった。本来なら編集部として御礼申し上げる立場である。

今井が鷹揚さの徳に見放されていることは、若い時代の些事の数々をいかにも鮮明に記憶している事実が如実に証していよう。しかしそれにしてもこれは、高柳についても鈴木についてもずいぶん矮小化した書きぶりであって、今井という人のある種の誠実さと裏腹の小ささを感じないわけにはゆかない。そういえば攝津幸彦についての言及もあり、おなじ同世代でも坪内に対するのとはいささかニュアンスの異なる、奥歯にものの挟まったような言い方になっている。大学の演劇サークルに協力したエピソードにつづけて現れるのは、こんな記述。

当時のアングラ芝居は戦争に材をとった設定が多かった。太平洋戦争とかベトナム戦争とか。

戦争の狂気を基盤におけば、テーマ性が豊富で心理的な屈折感も容易に出せたせいだろう。それに衣裳や大道具、小道具が安上がりだった。だから、ほぼ同世代の摂津幸彦さんの
  南国に死して御恩の南風  幸彦 (*3)
のような句を見ると、アングラ芝居を思い出す。この句、摂津さんが、戦死者の無念を自分の無念として表現するという意図で書いた句ではないように見える。アングラ劇や「南の島に雪が降る」のような芝居から想を得た句に違いない。だからこの句は反戦の作品と取るとむしろ薄っぺらなイデオロギー俳句になる。僕は六〇年代に流行した通俗的なムードを書いた句と取りたい、世代的にも、屈託のない表現からも。摂津ファンの方には異論があろうが。

異論があるもなにも、攝津の読者は攝津の作品世界をアングラ芝居その他一九六〇年代から七〇年代のサブカルチャー的なものとの類縁性のうちで受け取ってきたはずであるし、攝津自身そのことを少しも隠してはいなかった。その限りでは今井の読解自体はいちおう的を外していないものの、例によって自分だけが知っている風な口吻が行間に漏れているところに、評者の党派性は少しばかり苛立ちをおぼえる。「だからこの句は」の「だから」という接続はとりわけおかしい。単純に「反戦の句」として回収されてしまうような作品は必然的に「薄っぺらなイデオロギー俳句」なのであって、どこから想を得たかには関係がない。その上で付け加えるなら、この句の官能性を味わうために必ずしも「アングラ芝居を思い出す」必要もないのであって、むしろ戦争のモティーフをせいぜい「戦死者の無念」にしか結びつけられないらしい今井の発想力の貧困が、アングラ芝居経由でしかこの句を鑑賞できなくしているのではないか。

表面的には批判めいたことは言っていないものの、攝津の句についての今井の発言が愛からのものでないことだけは明らかだろう。もちろん、今井に攝津を愛する義務などないのだからそれはそれでよいとして、今井のこうした論述の志向が奈辺に由来するのかといえば、それは最終的にリアリティをめぐる今井の考えということになりそうだ。

「人間探求派」、観念派楸邨。人間、つまりヒューマン、そしてヒューマニズム。

これらの連想や印象がもたらしたものは楸邨俳句の本質や「寒雷」登場の意義とずれていたのだと最近になって特に感じている。

楸邨が希求したのは、人間が生きている現実の中で、直接、人や事物や事柄から五感で受け取る「息吹」や「体感」。蓄積された情趣や先入観や既存のロマンを抜けたところにある、その時その刹那の「リアル」そのもの。

人間の生きる意義とか、人間かく在るべしという「教訓」を俳句で述べることなどではない。むしろ、そういう観念とは対極にある一回性の対象との出会い。つまり新しい自分との邂逅。

花鳥諷詠は、日本的固定的な俳句的情緒を季語の本意という言葉にすりかえて「諷詠」し、新興俳句はモダンの名を掲げ、言葉の解放という美名のもとに、古い近代詩的情緒を臆面もなく上塗りした。両者に共通するのは、言葉や風景がもたらす「ロマン」を概念としてもちいること。機知であろうと、揶揄であろうと、批評性だろうと同じ。

なんだか飛躍があってあまり厳密な文章とは思えないが、楸邨を通じて今井の俳句観のキモを披瀝したものであって、これを要するに“リアリズムの擁護”と受け取ってよければ、評者は気持ちの上ではむしろ今井を支持したいほどだ。今井が言っているのは産業資本主義段階のリアリズムで、高度資本主義の現在のリアリティは捉えきれないのではないかという批判はあり得ようが、それを承知で支持する、というのである。が、そこに「気持ちの上では」という保留が付くのは、評者には今のところそのような「リアル」を定型化するための方法論的な道筋が見えないからで、今井にしたところで自ら言うところの花鳥諷詠批判や新興俳句批判を乗りこえた作品を作り得ているのかどうか、はなはだあやしいと思う。

身も蓋もないことを言わせてもらえば、句集に『バーベルに月乗せて』(*4)などというタイトルを付けてしまう今井は、当節の俳壇ではかなりモダンオヤジ臭い部類に入ると思うのであるが、本人にはその自覚はないのであろうか。〈私たちの俳句よ驀進する「今」という機関車に跳び乗ろう〉というのは、「街」誌の巻頭に掲げてある「街宣言」の一節で、これなぞ未来派や新感覚派の「モダンの名」に恥じないセンスというべきだろう(褒めすぎ?)。なにしろ「機関車」というのが、「古い近代詩」風で泣かせるではないか(*5)。今井が常連メンバーになっている「余白句会」も、モダンオヤジの巣窟でしょうに。でもまあ、そんな話はどうでもよくて、問題はやはり今井の俳句がいまひとつ面白くないというところだろう。これほどの見識と情熱と経験の持ち主の作品が、丁寧に作られている印象はありながら総じて退屈な印象しかもたらさないというのは、それ自体一考に値するテーマだし、本稿冒頭に触れたごとく、その作業も本書を得たことで余程やりやすくなったはずであるが、それについてはまた別の機会に譲りたい。


◆今井聖『ライク・ア・ローリングストーン――俳句少年漂流記』(二〇〇九年一月二十七日刊 岩波書店)は著者から贈呈を受けました。記して感謝します。

(*1)アナトール・フランス「すべての詩は機会の詩である」/『エピクロスの園』所収 大塚幸男訳 一九七四年 岩波文庫
(*2)今井聖第二句集『谷間の家具』 二〇〇〇年 角川書店

(*3)正しくは、〈南国に死して御恩のみなみかぜ〉(『鳥子』所収)。ここでは今井著が「みなみかぜ」を「南風」と誤っているままの形で引いた。
(*4)今井聖第三句集『バーベルに月乗せて』 二〇〇七年 花神社
(*5)蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像 マクシム・デュ・カン論(上)』(一九九五年 ちくま学芸文庫)に、マクシム・デュ・カンの長詩「蒸気機関車」の翻訳が載っている。『現代の歌』という詩集に入っているそうだ。もちろんこの詩もこの詩集も全然重要な作品ではない。


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閑中俳句日記(4)

閑中俳句日記(04)
結城昌治『定本 歳月』、藤沢周平『藤沢周平句集』


                       ・・・関 悦史

このところ昔の娯楽小説ばかり読んでいることもあって、小説家の句集2点から句を抄出してみた。

ひとつは結城昌治の『定本 歳月』で、これは三一書房版『俳句の現在別巻Ⅰ』(昭和62年)に収められている。もうひとつは『藤沢周平句集』で文藝春秋から平成11年に刊行されている。どちらも庶民目線の作家で、どちらも結核による療養生活の経験者である。

結城昌治は昭和24年(1949年)、22歳を迎えて間もなく清瀬の国立東京療養所に入った。隣の病室に石田波郷がいて、その影響で句作に熱中。『歳月』はその4年間(昭和24~27年)の作、及び長い中断を挟んで句作を再開した昭和53年の作を収めている。

三一書房の『俳句の現在別巻Ⅰ』に安東次男、塚本邦雄と併せて句が収録されることになった際、『歳月』の元版(昭和54年・未来工房刊)186句に「懐旧の情に耐へかね」て編入してしまった76句を作者が削除し『定本 歳月』とした。

枯原を出るまでうしろ振り向かず

  石田波郷さん退所送別会
みな寒き顔かも病室賑
(にぎは)へど

  E子さん逝く
チューリップ咲ききつて鉢乾きをり

寒き顔映れる水を飲み干しぬ

四五人に見られて猫の恋烈し

いぬふぐり病者らはみな尻小さし

病み呆けて大根に花を咲かせけり
  「患者らは給食の不足を補ふため、窓際の空地を利用してさまざまな野菜をつくつてゐた。」
の左註あり。

春愁や都電に深く腰を下ろし
  「体力が回復すると、たまには外泊を許されて帰宅した。大抵一泊か二泊で、また療養所へ戻るのである。」
の左註あり。

通夜の灯に梅雨寒き下駄揃へ脱ぐ

病者群れて蛇殺せるを見てゐたり

入院生活は暇なもので椿事があれば動ける者は寄り集まる。無為と身体苦に呆けつつの閉塞のなかならではの一時の賑わいで、眺めているときの心境は心境ともいえないような、あるいは死の想念という月並みなもの自体が蛇の形をとって身代わりに殺されているのを見て身軽になるような、軽躁を伴いつつも妙に白々としたものだったのではあるまいか。

短夜の白むより咳こぼし合ふ

  ふたたび胸郭成形手術
汗の肋
(あばら)の波うつを見つめられてゐき

絢爛たるダリア仰げり喘ぎては

身体苦のさなかにあっては外界全てが同時に苦しい。ダリアが見えればダリアが痛い。

耀(かがや)きて驟雨に落つる蝶見たり

体温計舌にはさみて秋の暮

凍死者に朝の太陽躍り出づ

凍死者を覆ひて筵
(むしろ)丈を余す

  「上野駅の地下道などに浮浪者や戦災孤児が多勢たむろして、凍死者も珍しくなかった。」
との左註がつく。この凍死者の二句はどちらも昭和26年の作(いまこれを打ち込むのに「とうししゃ」と打って出てきた変換候補は「投資者」だけであった)。

緑蔭に置かれて空の乳母車

秋の夜のどこまでついてくる犬ぞ

犬穴を掘るを見てをりふところ手

降る雪に降られをり当てもなく出でて

雁立つとゆふべ満員電車の中

着ぶくれて訥弁の老詐欺師かな

春愁の渡れば長き葛西橋

傍聴人なき法廷に西日せり

結城昌治は一時期東京地検で事務職に就いていた。この前後の句はその頃の暮らしから。

驟雨来(く)と乞食もつとも急ぎけり

馬糞
(ばふん)蝶と呼ばれ追はるることもなし

  「その名のとほり、見るからにきたない小さな蝶が信濃追分にゐた。」
の左註あり。

鉛筆を削りしまでの初仕事

啓蟄
(けいちつ)や戦後の意識いつ消ゆる

幾百の蟻を跣
(はだし)で踏みつぶす

鰯雲つくねんと仰ぎゐたりけり

鼻歌の調子外れし寒さかな

以下は結城昌治「四季」40句から。
「四季」は『歳月』以後の近作を春夏秋冬10句ずつ計40句にまとめたもので、『俳句の現在別巻Ⅰ』(1987年 三一書房)が編まれる際追加された。

ものの芽に先立ちてまた逝かれけり

椿落つたびの波紋を見てをりぬ

倒木のなほ光れるは芽ぶくなり

  病中(二句)
桃咲けば桃色に死が匂ひけり

死神が行つたり来たり風光る

情うすくして金魚飼ふ女かな

パレットの色を泉へながしけり

振り向けば犬も振り向き秋の風

秋の灯に何を乞食の立ち話

  福永武彦氏を悼む
桔梗一輪置かれし胸のうすきかな

秋の蚊に刺されしといふ耳に触る

いわし雲どこへ行くにも手ぶらにて

指させば満月かかる指の先

色づかぬままの落葉も焚かれけり

目覚ましの電池切れゐし寒さかな

降る雪に気づかざりしを老いといふか

       *       *       *

以下は『藤沢周平句集』からになる。
藤沢周平は昭和28年(1953年)春から昭和31年(1956年)春までの3年間、静岡の俳誌「海坂」の会員になっていた。主宰は百合山羽公・相生垣瓜人。藤沢周平の時代小説の舞台となる架空の藩「海坂藩」はここから採られた(この俳誌「海坂」は現存していて、先日出たばかりの「俳句界」5月号の160頁に紹介記事が載っている)。

大氷柱崩るゝ音す星明り

聖書借り來し畑道や春の虹

蠛蠓
(まくなぎ)や小さき町が灯を點す

百合の香に嘔吐す熱のゆゑならめ

肌痩せて死火山立てり暮の秋

冬の夜の軒を獸巡るらし

軒を出て狗寒月に照らされる

これは師匠の百合山羽公に褒められた句で、藤沢周平は地方の講演などで色紙を頼まれるとこればかり書いていたそうだ。他に「桐の花踏み葬列が通るなり」等の句も巻頭になったことがあるのだが、一時の心境の句で色紙に書くには向かないとも。

春水のほとりいつまで泣く子かも

虹明るし山椒魚を掬ふ子ら

藪じらみ拂ひ獨りの試歩終る

日の砂洲の獸骨白し秋の川

枯野生れ枯野の町となりにけり

汝が去るは正しと言ひて地に咳くも

父あらぬ童唄へり冬虹に

雛祭る夜の静かに曇りをり

故郷には母古雛を祭るらむ

石蹴りに飽けば春月昇りをり

夏の月遠き太鼓の澄むばかり

こがね蟲面を逸れし鋭さよ

野をわれを霙うつなり打たれゆく

閑古啼くこゝは金峰の麓村


藤沢周平はこの句集の前書きで自然詠を好むと言っているが、本人の作は自然詠といっても自分の中に予めある気分や情調を形象化したものが多く、「寒鴉啼きやめば四方の雪の音」「落葉松の木の芽を雨后の月照らす」といった字余りや動詞多用を整理したくなる言いすぎ気味の句もあれば、「秋の野のこゝも露草霧ふくむ」のような季語が幾つも入っている句もある。藤沢周平といえば大衆小説としては切り詰めた無駄のない文体の持ち主という印象があったが、散文と俳句とでは自ずと生理が別になる。言いたいこと、描きたいイメージを吐きつくしてから先が自然詠の本領で、客観写生という方法はその消尽を早めるためのものでもあるのだろうが、結城昌治も藤沢周平もそこまで深入りはしておらず、自己を外界に投影する関係が句作を通じて変化したという形跡はあまり見られない。またそこまで入り込んでしまったら、本業である小説のストーリーテリングが出来なくなっていた可能性もある。

結城昌治…1927年2月5日生まれ、1996年1月24日没。小説家・推理作家。ハードボイルド、ユーモアミステリの先駆者。『夜の終る時』で日本推理作家協会賞、『軍旗はためく下に』で直木賞、『終着駅』で吉川英治文学賞受賞。

藤沢周平…1927年12月26日生まれ、1997年1月26日没。時代小説作家。「暗殺の年輪」で直木賞、『白き瓶』で吉川英治文学賞、『市塵』で芸術選奨文部大臣賞受賞、菊池寛賞。

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2009年4月25日土曜日

俳句九十九折(33) 俳人ファイル ⅩⅩⅤ 齋藤玄・・・冨田拓也

俳句九十九折(33)
俳人ファイル ⅩⅩⅤ 齋藤玄

                       ・・・冨田拓也

齋藤玄 15句


晩鐘は鈴蘭の野を出でず消ゆ

夢のごと死は青蚊帳をくぐり来し

野分先づ月の光を吹きはじむ

妻の息絶えむと天地露明り

雪降りて光の紐を遺しけり

すさまじき垂直にして鶴佇てり

たましひの繭となるまで吹雪きけり

ある筈もなき螢火の蚊帳の中

雁のゐぬ空には雁の高貴かな

したたかに凍る一夜を百夜かな

初蝶をとらふればみな風ならむ

葦原を出づる嘗ての螢の身

どうしても人が人焼く秋の風

一羽舞ふは一羽ほろびの雪の鶴

死期といふ水と氷の霞かな




略年譜

齋藤玄(さいとう げん)


大正3年(1914) 函館に生まれる

昭和12年(1937) 新興俳句を知り、「京大俳句」に参加 西東三鬼、石橋辰之助の指導を受ける

昭和15年(1940) 俳誌「壺」発刊

昭和17年(1942) 第1句集『舎木』

昭和18年(1943) 石田波郷の「鶴」に投句 同人

昭和19年(1944) 第2句集『飛雪』

昭和43年(1968) 個人誌「丹精」発刊

昭和44年(1969) 波郷逝去

昭和47年(1972) 第3句集『玄』

昭和48年(1973) 『齋藤玄全詩集 ムムム』

昭和50年(1975) 第4句集『狩眼』

昭和53年(1978) 入院 自註『齋藤玄集』

昭和54年(1979) 第5句集『雁道』

昭和55年(1980) 第14回蛇笏賞 5月逝去(66歳)

昭和56年(1981) 遺句集『無畔』

昭和61年(1986) 『齋藤玄全句集』



A 今回は齋藤玄を取り上げます。

B この作者はどちらかというとやや異色の俳人といってもいいかもしれませんね。

A 齋藤玄は1914年に函館に生まれ、父は「売れない画描き」で、祖父は呉服店を営む財界の名士、そして大叔父はあの訳詩集『海潮音』の訳者として有名な上田敏であったそうです。

B 随分と裕福な環境で育ったようですね。また、13歳の頃から谷崎潤一郎、永井荷風小説を愛読し、萩原朔太郎、ボードレールの詩を耽読。その後も日本文学、海外文学を濫読。中原中也、ランボー、ヴェルレーヌ、リルケなどを愛踊していたとか。

A 13歳の時から詩作を始めていたそうです。

B 非常に早熟な感じがしますね。あと、やはりこのような中也やフランス詩への傾倒は上田敏との血縁を感じさせないわけにはいかないところがあるようにも思われます。

A そして昭和12年(1937年)の23歳の時にたまたま新興俳句の存在を知り、「京大俳句」へと参加することになります。

B その後の数年を経た昭和18年(1943年)に石田波郷に師事、ということになります。

A まず、昭和17年(1942年)の28歳の頃に第1句集『舎木』が刊行されていますね。

B これは波郷に師事する前の新興俳句時代における作品273句による句集ということになります。

A 俳句をはじめた昭和13年には早くも〈晩鐘は鈴蘭の野を出でず消ゆ〉といった秀作の存在が確認できます。

B 昭和14年以後となると〈花の日や英霊舷に立ち来たる〉〈重戦車泥濘を花を軌道とせり〉〈雪を来る弾道光れるをくぐる〉など新興俳句特有の戦争に材を採った作品がいくつも見られるようになります。

A 他には〈空林にロオランサンの鳩をらぬ〉など当時のモダニズムの影響を感じさせる句も若干確認できますね。

B あと昭和16年(1941)には〈玄冬の鷹鉄片のごときかな〉というこの時期の代表作ともいうべき句が見られます。

A この句集の出版後、昭和18年(1943)に齋藤玄は石田波郷に師事することになります。

B 第2句集である『飛雪』は昭和19年(1944)に刊行されましたが、その作品からは波郷に師事したことによる影響が句の随所にみられるようになります。

A 確かに〈小机を構へて雁の別れかな〉〈子の胸の青鬼灯の夜なりけり〉〈膝立てて大露の雁をゆかせけり〉〈かりがねの間遠になりし産屋かな〉〈心はや葛の露散るかなたかな〉〈雁のへだてぞ佳けれ筆硯〉〈はしり蕎麦濤音つのりきたりけり〉あたりの作品をみると波郷の作風、手法に極めて近いものが感じられますね。

B 他にも如何にも波郷の弟子といった雰囲気の〈みちのくの氷ばかりや西行忌〉〈兄弟の遂に似ざるか夏の露〉〈若樫にちかぢかしきは天の川〉〈起きぬけに鶏つぶす小萩かな〉あたりの作品がありますが、これらをみてもなかなかの技量で完成度も高いものを感じさせ、新興俳句時代とはまるで別人の作であるかのように感じられるところがあります。

A 続いて、第3句集の『玄』についてですが、この句集が刊行されたのは昭和47年(1972年)ということで斎藤玄が58歳の時ということになります。

B 第2句集の『飛雪』刊行が昭和19年(1944年)の齋藤玄が30歳の頃ですから、ほぼ『飛雪』から30年ぶりの刊行ということになりますね。

A ちょっと信じ難いところがありますが、事実であるようです。

B この句集『玄』は全句集的な形態をとっており、第1句集『舎木』、第2句集『飛雪』の作品も収録され、そこにその後の昭和19年から昭和46年までの作品が加わり、『玄』は総計で1577句で構成されているということになります。

A これまでの作品約6000句の中から約1500句を選んだものであるとのことです。

B 齋藤玄が俳句を始めた昭和12年(1937)から昭和46年(1971)までの約35年間における句業の集大成ということになりますね。

A 本人は「跋」で〈私の俳句の生涯の半生は石田波郷の逝去で終った。(…)私の俳句の生涯の半生の区切りにもとこの句集を編んだ〉と記しています。

B この句集の刊行は波郷の逝去が大きな契機として存在していたようですね。

A 波郷が亡くなったのは、昭和44年(1969)でした。

B この『玄』に収録されている作品の内容について、先ほど見てきた第2句集以降の作品から見ていきたいのですが、まず、昭和20年の敗戦時における〈雁の過ぎて声なき大露かな〉などといった作品あたりにはまだ波郷の影響が窺えるのですが、昭和22年あたりの作品を見ると、「死の如し」というタイトルの「死」のみを主題とした連作97句や、昭和23年には〈悪胤の膝下に妻の木葉髪〉、昭和24年には〈玉虫が寝間着の妻に殺めらる〉、昭和25年には〈早春の露地を選みて偸盗めく〉〈悪妻を溺愛せむか野分星〉などといった作が見られ、段々と波郷の影響下から逸脱してゆくような様子が見て取れます。

A 確かにこういった戦後における作品については、もはや波郷の作風からは隔たりが生じているのが確認できますね。どうも齋藤玄という作者はやや性狷介とでもいうのでしょうか、一所にとどまることをよしとしない傾向を内部に有しているようですね。

B そして、その作品の中のいくつかを見ると、それこそやや露悪的な作品も少なくないところがあります。

A 「悪胤」「殺めらる」「偸盗めく」「悪妻」といったあたりの作品ということですね。

B さらに、昭和30年代に入ると〈夜半にして風鈴鳴りぬ貧漁村〉〈屍も汗す永劫商業主義〉〈手の黒穂にて汚職吏の屋指さる〉〈犇く重労無縁の蓮の遠咲に〉〈囀や銀行員等の不眠の顔〉といった、当時の「社会性俳句」および「前衛俳句」による影響までもが作品の上に見られるようになります。

A こういった作品を見ると、やはり単純に「伝統俳句」という枠内には納まることができない作者であったようですね。

B この作者にはなにかしら常に「過剰」なものが内在していたような気がします。

A そういった部分が常に作風に変化を強いる理由であったのかもしれませんね。

B このような「社会性」「前衛俳句」の作品傾向は昭和39年あたりまで続くのですが、昭和40年に妻が発病し、その病から死にいたり葬送するまでの様子を俳句に詠むことにより、いままでとはまた異なる作風へと変化を見せることとなります。

A その作品は「クルーケンベルヒ氏腫瘍と妻」と題された昭和40年から41年までの193句によるもので、その作品の内容における悲壮なまでの迫力は、齋藤玄の句業の中でもひとつのピークを示すものであると思われます。

B この「クルーケンベルヒ氏腫瘍と妻」については、波郷が〈今時これだけの俳句はない〉と絶賛し、小説家の川端康成も書信で〈怨痛の御詠ですが美しいので救はれ一篇の長篇抒情叙事詩のやうにて感銘いたしました〉と評価したそうです。

A 作品の一部を引くと〈秋妻に指頭(ゆびさき)ほどの癌棲みつく〉〈露享けてはや胸中に妻葬る〉〈明日死ぬ妻が明日の炎天嘆くなり〉〈蟬と妻いづれ短命昏みつつ〉〈死の妻が露の奥処に聴きすます〉〈紫陽花や既に他界の言葉吐く〉〈妻の息絶えむと天地露明り〉〈汝はなぜわが妻なりや梅雨屍〉ということになります。

B このように一部だけを見ても、この「クルーケンベルヒ氏腫瘍と妻」の凄絶さの一端は看取できることと思います。

A そして、その後の昭和44年(1969)には、師の波郷が亡くなります。

B そのことが契機となってこの句集『玄』が纏められることとなったということは、先ほども述べました。

A 波郷に対する追悼句としては〈雪降りて光の紐を遺しけり〉という作が見られます。

B こういったやや詩的ともいえる作品を見ると、やはり波郷の作風とは隔たっているところがあるようですね。それこそ一個の作者として師を悼んでいるように感じられるところがあります。

A 続いて第4句集『狩眼』について見てゆきましょう。

B この句集は昭和50年刊のもので、昭和46年から50年までの378句が収録されています。

A 齋藤玄が57歳から61歳の頃の作品ということになりますね。齋藤玄の句業の後半はこの句集から始まるといっていいでしょう。

B 前句集の「クルーケンベルヒ氏腫瘍と妻」を経て、その作風もやはりそれまでものとは若干異なるものが感じられるようになります。

A 作品については、昭和48年には〈影は身を出でて彳む夕蛙〉〈露の辺にねむるは死後に通ふゆゑ〉〈狩の眼で見し化野(あだしの)の花薄〉、昭和49年には〈掌の窪に死水ほどの寒の水〉〈すさまじき垂直にして鶴佇てり〉、昭和50年には〈糸遊を見てゐて何も見てゐずや〉という作品があります。

B どの句も平明な言葉で構成されていながら、どこかしら「虚」の世界へまで踏み込んでいるというか、なにかしら抽象性のようなものを帯びているようなところがありますね。また、どの作品にもその内部に芯の強さとでもいったものが感じられ、単なる観念のみの脆弱さに陥っていないものを感じさせるところがあるようです。

A また、こういった作品を見るとやはり齋藤玄にはやや「詩」的なものへの志向がいくらか内在していたようですね。

B 若いころから詩作を行っており、昭和48年にはその作品を『齋藤玄全詩集 ムムム』として纏めています。

A こういった作品傾向は次の第5句集である昭和54年刊の『雁道』になるとますます顕著となり、昭和50年には〈残る生(よ)のおほよそ見ゆる鰯雲〉〈死の側で笑む桂郎や秋の暮〉、昭和52年には〈たましひの繭となるまで吹雪きけり〉〈ある筈もなき螢火の蚊帳の中〉、昭和53年には〈秋や果してむくろの灰の幾野越ゆ〉〈沖よりの聲は曠野に魂迎〉〈睡りては人をはなるる露の中〉〈雁のゐぬ空には雁の高貴かな〉という作品が見られます。

B なんだかここまで来るとまさに幽明の境を行き来しているような趣きすらありますね。

A なんというか静かな迫力のようなものが底籠っているのが感じられるところがあります。

B 〈雁のゐぬ空には雁の高貴かな〉という句などはそれこそ波郷の〈雁や残るものみな美しき〉と好一対といった感がありますね。

A 齋藤玄の句業を俯瞰すると「雁」はこの作者の終世にわたっての重要なモチーフであったことがわかります。

B それこそ「雁」は齋藤玄にとって波郷の象徴そのものであったのかもしれませんね。

A この句によって齋藤玄における「雁」の俳句はひとつの到達点を示したのではないかという気がします。

B 『雁道』の作品についてですが、昭和50年には盟友であった石川桂郎が亡くなり、翌年の昭和51年にも相馬遷子が逝去、本人も入退院を繰り返し昭和53年には直腸癌となります。

A そういった事情もこのような作品の深化に関連しているようですね。

B 特に癌となった昭和53年の作品群は数も多く、全体的にただならない透徹した作品世界が展開されています。

A この時期からの作品は齋藤玄におけるもっとも高い作品境地を示すものであると思います。

B この後、昭和55年5月に齋藤玄は66歳で亡くなります。

A その昭和53年から昭和55年までの作品は『無畔』として纏められ昭和58年に刊行されました。

B この句集の総数は178句で、昭和53年には〈したたかに凍る一夜を百夜かな〉、昭和54年には〈人てふは影にすぎざり大旦〉〈探梅のいづこを行きて旅の空 〉〈初蝶をとらふればみな風ならむ〉〈菜の花の波の中ゆく波がしら〉〈葦原を出づる嘗ての螢の身〉〈水打つて人ならぬもの待ちにけり〉〈どうしても人が人焼く秋の風〉〈一羽舞ふは一羽ほろびの雪の鶴〉、昭和55年には〈死期といふ水と氷の霞かな〉〈白魚をすすりそこねて死ぬことなし〉〈死が見ゆるとはなにごとぞ花山椒〉という句があります。

A 先の『雁道』の後半にしてもそうでしたが、この頃の作品もそれこそ「何かが宿っている」としか思えないような作品世界を示していますね。

B まるで野見山朱鳥の晩年の作品群をそのまま髣髴とさせるところがあります。

A 〈死期といふ水と氷の霞かな〉という句がありますがこのような生と死のぎりぎりのところで、自らの生命と引きかえによって齎されたポエジーの純度の高さとでもいうのでしょうか、これらの作品からはそれこそ一種の神々しさすら感じられるところがありますね。

B さて、齋藤玄の作品を見てきました。

A 新興俳句から出発して西東三鬼に師事し、その後は石田波郷に師事したわけですが、単純にこの2人の影響にとらわれることなく、そこから抜け出して自らの境地を獲得することができた稀有な作者ではないでしょうか。

B そうですね。三鬼にしても、波郷にしてもその弟子たちの作品を見ると、その影響下から抜け出すことができない例が多いように思われるところがあります。

A この2人については、あまり近づいて影響を受けすぎるのは危険であるということができそうですね。

B 三鬼の影響下にあるとその言葉の強さをコントロールしきれずに作品が振り回されてしまう事例がよく見られますし、波郷の影響下においては、波郷の閾内に閉じ込められてしまい、それ以上のものが獲得できないまま頭打ちとなるといったケースが少なくないように思われます。

A 齋藤玄は、そういった危険性を掻い潜り、詩と俳の融合を図るといった試行錯誤を続け、「クルーケンベルヒ氏腫瘍と妻」と、晩年における『雁道』『無畔』といった逆境の中から極めて優れた作品群を築くことのできた非凡な作者であったということができるでしょう。

B その姿勢からはそれこそ「凄絶」としか形容できない精神の剛さを感じました。




選句余滴

齋藤玄


玄冬の鷹鉄片のごときかな

子の胸の青鬼灯の夜なりけり

膝立てて大露の雁をゆかせけり

起きぬけに鶏つぶす小萩かな

はしり蕎麦濤音つのりきたりけり

雁の過ぎて声なき大露かな

妹倶すや蜷のひよめきうち覗き

早春の露地を選みて偸盗めく

悪妻を溺愛せむか野分星

星より来る還らぬ光凍河躄る

標燈一点骨肉鳴りて鮫割く冬

鮫の膏血注ぎ弧を張る冬の沖

鮫の外形吹雪の縞へぶら下る

明日死ぬ妻が明日の炎天嘆くなり

蟬と妻いづれ短命昏みつつ

死の妻が露の奥処に聴きすます

紫陽花や既に他界の言葉吐く

影は身を出でて彳む夕蛙

露の辺にねむるは死後に通ふゆゑ

狩の眼で見し化野の花薄 あだしの

掌の窪に死水ほどの寒の水

今死なば瞼がつつむ春の山

空こめて光は雪を友とせり

糸遊を見てゐて何も見てゐずや

死の側で笑む桂郎や秋の暮

人死すは忘らるるため雪乱舞

秋や果してむくろの灰の幾野越ゆ

沖よりの聲は曠野に魂迎

可も不可もなき白桔梗青桔梗

睡りては人をはなるる露の中

いつせいに散るときなきか曼珠沙華

人てふは影にすぎざり大旦

探梅のいづこを行きて旅の空

菜の花の波の中ゆく波がしら

空だけが見ゆる不在の水かげろふ

水打つて人ならぬもの待ちにけり

ただに在る一つ枯山たのみなる

凍鶴に寸の日差しも来ずなりぬ

白魚をすすりそこねて死ぬことなし

死が見ゆるとはなにごとぞ花山椒




俳人の言葉

俳句は一つとして同じ表現であってはならない。それゆえに、人から教えられたり、また人に教えたりすることが困難である。肝心なところは、すべて原表現者の発明に委ねられている。その意味で斎藤玄が至りついた俳句は、先師西東三鬼・石田波郷さえ自身のものとは為し得なかったところの無類の輝きを遍満させている。

三橋敏雄 「無類の輝き」より 『俳句』1986年11月号

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2009年4月24日金曜日

遷子を読む〔5〕

遷子を読む〔5〕

・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井

くろぐろと雪片ひと日空埋む

『草枕』所収

窪田:先ず、前書きを伏せて読んでみます。これは実景です。降る雪は、必ずしも白ではありません。私も雪国に育ちましたから、雪片が黒いと見たことが何度かあります。首を後ろに反らせ雪の降り来る空を見上げますと、薄く日が差し、雪は影を持つのです。「くろぐろと」は、心象ではないのです。

しかし、前書きには「病中二句」とあります。この句は、その二句目に置かれています。この前書を読むと、掲句は心象句の様相を色濃く持ちます。確かに心象句でもあると思います。しかし、単なる想像では「雪」という語は出ても「雪片」とは表現できないでしょう。宮沢賢治の「永訣の朝」の霙を降らせる空もリアリティーがありますが、遷子のこの句も、賢治の詩句に劣らぬ現実感を持って私に迫ってきます。そうして、この句の表面に出ない遷子の思いを想像するという楽しみを得ることが出来ます。ですから、私はこの前書きが無かったらなーと思ってしまうのです。

中西:雪がくろぐろと見えることがあるという窪田さんのご指摘は、貴重なものと思いました。多分遷子も何度となく、そうした逆光の黒い雪を見てきたことでしょう。多分このくろぐろと見える雪片は窪田さんのおっしゃる逆光の雪を想定して作られていると思います。しかし、私には、やはり心理詠としてこの句があるように思われます。それは、「ひと日」とあるからなのです。心の晴れない沈んだ一日を描いていると思われるからです。空は遷子の心そのものの比喩でもあるようです。断続的に黒い雪片が心に積もっていくのです。そして心を埋めていくのです。

私も、雪片という言葉を始めて目にした数年前は、こんな言葉があるのかとおどろきました。私が知っているのは、高野素十の「雪片のつれ立ちてくる深空かな」という昭和8年に作られた句です。素十の第二句集『雪片』(昭和27年刊)の題名ともなったものです。『山國』の序文に秋桜子が「次の会の兼題が出て、その例句を先輩の一人が遷子君にたづねた。すると遷子君は控え目がちに十句ほどをあげたが、それが古今に通じ、且つ各派に亘っているので、私は実におどろいた。さうしてこの様子では、先輩達はいつも例句を遷子君にきいてゐるのだと思った。」とありますから、たぶん遷子も素十の句は知っていたかもしれませんね。

この句は昭和20年2月に作られています。いつ終るとも知れぬ戦争の暗さと、死病と言われている結核に罹ってしまった不運がこのような心境にさせたのでしょう。

遷子は一流ではないかも知れないが、と筑紫さんは書かれましたが、わたしも物の形象化の弱いところ、句の面白味の点からから言えば、一流と言えないかもしれないと思いました。しかし、人の心に訴えかけるものがあるように思われます。これは共感させられる点にあるかとおもうのですが、心情を素直に表わしています。自分をよく見ています。よく見ただけでは句にはならないわけで、自分を描くという苦しい作業をしているわけです。そして描かれているものが、逆境にあってもそれなりに理想的な生き方を見せてくれる、清い、澄んだ精神を見せてくれているところにあるのではないでしょうか。

その高い精神性に我々は共感して、遷子の作品に感動しているようです。人間のドラマは、鈴木真砂女や、山頭火などの波乱万丈な内容ばかりではなく、その精神性に大きなウエートがあることを遷子の作品が語ってくれているように思います。

原:眼の高さで見える雪は白いのに、空を背景にするとどうしてあんなに薄墨色に見えるのか不思議でした。科学的に説明のつく現象と聞かされても、今も不思議な気がします。雪雲に覆われた空から落ちてくる雪を見上げていると、頭上はぼんやり黒い雪の点描そのものになって、見ている自分の存在も消えてしまうようです。

掲句、「雪」ではなく「雪片」であることが現実感をもたらすという窪田さんの指摘は大事ですね。実景としての確かさが心象句を支えるのでしょう。「くろぐろと」は、雪の状態のみならず、この一日の時間経過を含んで、作者の鬱とした心に通じてきます。

ただ、遷子自身は景に思いをダブらすという作句上の意識はあまり無かった人のように思われます。読み手が感じとることの、それはそれとして、作者本人は至極直截に景を述べる作風と印象されるのです。

もっとも、心象句といわれるもの自体、作り手が狙ってするのではなく、読み手の鑑賞の中で受け取られることが多いのでしょう。たとえば芭蕉などは凝った前書によって、一句を芸術的に仕立てる狙いがありそうですけれど、遷子の場合は、ここでの「病中二句」の前書も、たまたま或る日或る時の状況という、単なる記録以上の意味はなさそうです。この前書きが良かった悪かったか迷いますが、日々の暮らしの中の一状況という性格は強く残りますね。

このような遷子の傾向はひょっとすると「遷子は一流の俳人ではないかも知れない」との、磐井さんが提起された問題とも関わってきはしないでしょうか。前書に限らず、一句の中の言葉が、普遍性を求めると言うよりはより多く現場主義的である、という意味で。

はやばやと結論を出すようでためらいますが、遷子は上質の二流という気が私にはしますけれど、では一流とは何をもって言うのか、上質とは何を指すのか、表現技術と生きる姿勢との両面から見えてくるものに待ちたいと思います。

深谷:確かにリアリティのある句だと思います。私も数年ほど雪深い北国に居住していた経験がありますが、窪田さんと同じ実感を持ちます。そして「ひと日」という措辞からは、朝から暮まで雪がついぞ止むことがなかった一日の重苦しさが伝わって来ます。雪が明るい太陽の日差しを遮る厳しい冬が、そこにはあります。

さて、実景であると同時に心象句である、という窪田さんの指摘はその通りだと思います。波郷も、『山國』の跋でこの句を採り上げ、「著者本来のものの秀れた作例であって、この句は古典の格調を斥けているのである」と評価しています。そして、後に激賞する、「郷国の自然風土の中に、自らの境涯的人間を投影した」一連の句の先駆けというべき位置を占めている句だと考えます。要すれば、「客観写生」と「境涯性」という両立困難な命題を止揚した、ということなのでしょう。そして、それをどの次元で実現したかということが大事な問題で、一句の成否はそこに懸かっているのだとも言えます。その意味で、このスタイルの句を遷子は『山國』以降も生涯作り続け、高い次元での完成を追究しています。

おのがじし負ふ影深し月の稻架  『雪嶺』
炎天のどこかほつれし祭あと  『山河』

ところが一方では、波郷に評価されなかった境涯性の勝った、あるいは心の内を率直に語ろうとした句が『雪嶺』以降、顕著になります。こうした句は、叙法も洗練されていないかもしれませんし、平板だと評され兼ねないのかもしれません。その辺りが、前回述べさせて頂いた「遷子は『一流の=巧緻な』俳人ではないかもしれない」というテーマに繋がっていくのでしょう。しかし、そうした句に私は惹かれます。

なぜ遷子はそのような道を選んだのか。少なくとも、別な道を選択するスキルを既に有していたことは、前掲の幾つかの句が証明していると思います。遷子の、句作スタンスの根底にあるであろう、その理由や背景を、この研究会を通じて自分なりに考えてみたいと思います。

筑紫:『草枕』は遷子の第1句集ですが、『山國』の中に112句が抄録されています。私たちは、『山國』の中の「草枕抄」から引用するだけですので、本当は『山國』と表示しなければならないはずですが、窪田さんは佐久市立図書館「相馬遷子文庫」に行かれ『草枕』を直接読まれていると言うことですのでこの表示で差し支えないはずです(後から伺うと、窪田さんは4句集をすべて持っておられるとのことでした)。

「草枕抄」の構成は、「草枕」、「大陸行」、「蝦夷」の3章からなっています。「草枕」(昭和11年~15年)は国内の名勝を探訪する作品が多く

瀧をささげ那智の山々鬱蒼たり

の句に代表されるような、のちの高原派に匹敵する章となっています。

「大陸行」(昭和16年・17年)は軍医見習士官として召集を受けて戦地を転々とする戦争俳句の章となっています。この点について関係ないように見えますが、少し補足をしておきます。当時、河野南畦が編纂し海軍省の許可を受けて出版寸前にまで到った『大東亜戦争俳句集』稿(昭和18年8月)【】に次の句が載っています。

銃音やさだかに秋の到りけり  相馬遷子
渡らむと馬を控へつ蝌蚪の水

後者は「草枕抄」に載っていますが、前者は見あたりません(句集『草枕』にもないようです)。一応平和主義者の遷子の俳句もこうした戦争俳句に位置づけられていることは知っておくべきでしょう。

「蝦夷」(昭和18年~20年)は病を得て除隊、本土に戻り、市立函館病院内科医長として務めた時期の作品で、波郷の「著しく境涯的」といわれるものです。

このように見ると、その後のそれ以降の『山國』(高原派)、『雪嶺』(社会意識)、『山河』(闘病)の主題を「草枕抄」はほぼ先取りしているように見えます。

前置きが長くなりましたが、掲出の句は「蝦夷」の時代、健康に不安を感じつつ生活を送っていた中での作品であり、『山河』と重ね合わせてみることができるようです(心のゆとりはずいぶん違いますが)。

今回のコメントはそれぞれ充実したもので驚きました。

①中西さんの、素十をはじめとした先輩の作品の勉強ぶりと高い精神性
②原さんの、前書きなどに見られる単純な記録性と遷子の現場主義
③深谷さんの、波郷に評価されなかった境涯性の勝った句への遷子の志向

遷子の生の意味と表現についてまじめに考えているコメントに敬意を表します。私自身、それぞれの問いかけにはじっくりと考えてみたいと思いますので、今回は軽々なことは控えようと思います。ただ、一つ、「くろぐろと」雪が降ることについて、みなさんが解説されているとおりと思いますが、私は、すこし違った例をあげておきたいと思います。それは狂言「木六駄」で太郎冠者が、雪の中を馬を駆らせながら「降るは、降るは。真っ黒になって降るは」と独白する情景です。雪が黒いのではなく、下から雪雲を見上げると明るい雪雲を遮って暗い塊となる雪片は、実は、室町時代の人々の見た実風景だったというのは凄いことではないでしょうか。――窪田さんの宮沢賢治との比較を読んで、いつもと違って、遷子の表現について今回は述べさせていただきました。

】超結社の戦争俳句集としては、ほかに次のようなものがあります。
俳句研究「特集・支那事変三千句」昭和13年11月
俳句研究「特集・支那事変新三千句」昭和14年4月
俳句研究「特集・大東亜戦争俳句集」昭和17年10月
吉田冬葉編『大東亜戦争第一俳句集』昭和18年10月

       *       *       *

筑紫:ところで「遷子を読む」も6回目を迎えましたが、一番最初に中西さんにこの企画を相談したのは、昨年、現代俳句協会で遷子と関係の深かった福永耕二の講演をした後、お酒の席だったと思います。それ以来、準備に時間がかかったような気もしますし、一方で意外に順調であったような気もします。始まってからメンバーにはずいぶん鬼のような督促をしてしまっているのではないかと反省していますが、おかげさまで遷子像も段々浮かび上がってきました。最初にご相談した中西さんにこの連載の感想をお伺いしたいと思います。どうでしょう。

中西:「遷子を読む」、面白くなりそうですね。それぞれの思いが伝わってきます。何回か前に磐井さんが言われたように、確かに作り物は見えてくるようになりました。

今まで俳句は技法だと思って来ましたが、去年角川女流俳句のために読んだ芸者竹田小時さんも、今回の相馬遷子さんも、自分を飾らないで詠った人で、嘘がない誠実な作りを見せていただいています。

ゆっくり付き合っていけばいいということで、急がず皆さんの選んだその句の近辺から読んでいき、後でつなぎ合わせるということで、はじめはやらせていただきます。

深谷さんの「遷子に出会って自句の作り方が変わった」という自己紹介はあの評論を読んで、納得しました。

わたしも自分を見詰めるという良い機会を戴いたような気がしています。

筑紫:そうなんですね。何でいまさら遷子かという疑問もあるでしょうが、現代の俳句に決定的に欠けているものがあるとしたら、まずそうしたものを再度考え直してみたいというのは当然のことだと思います。お互い、かっては若手といわれていましたが(笑)、相応の年をとってくると、今まで知った俳句を再点検してみたいという気分もあります。現在の若手には将来いろいろ可能性があるのでしょうが、彼らに遷子のような俳句があったことはなかなか見えてこないでしょうから我々がやらねばならないことではないかと思います。

中西:遷子研究は地味かと思いましたが、実作者としての自分を見詰めなおす機会を与えられたような気がしました。

遷子を見ていますと、秋桜子の真似から始まって、鶴の仲間と句会をしていた北海道では、鶴の作り方になり、馬酔木の高原派と言われた時代は馬酔木調になり、またすこしずつ鶴調の境涯派的な詠い方となって、終ります。詠いたい内容と仲間によって、詠い方が変わってきたと考えていいのでしょうか。

筑紫さんは独りとなったときどう詠むかを問題にされていましたが、それは癌になってからのことを問題にされているのですか?

筑紫さんは誰もが独りになることがあるということをおっしゃりたいのですね。

そのときのための研究と考えてもいいですか。

筑紫:おっしゃるほどにはあまり、深刻には考えていません。ただ、最近、多くの先輩俳人が亡くなっていますが、亡くなった途端に忘却が始まっています(能村登四郎、草間時彦、波多野爽波、上田五千石。済みませんが中西さんの先生の藤田湘子もそう見えます)。生前の人気が嘘のような扱いとなる例を沢山見ています。お弟子さんは別として、俳人たちはクールなものです。

私の同期の正木ゆう子や中原道夫も亡くなったらそうした人が生きていたことを語るのは同期の仲間たちだけかも知れませんね。そういうものだと考えたときに、多少俳句の考え方、作り方も変わるかも知れませんね。そんな時に遷子の生き方は参考になるのではないかと思います。正面から面を打ち込んでくるような詠み方、生き方ですから。

豈weeklyでは「銀婚で盛り上がっている(遷子を読む(3))あたりに、皆様の年齢的な感慨も出ていようかと、ミーハーなところでも楽しませていただきました」と管理人氏から若干揶揄気味の激励をいただいていますが、まああまり気にせず、仲間内で盛り上がりたいと思います。ブログとしてあまり読まれなくても、研究の蓄積は着々と進んでおり、それこそが同人雑誌に出自を持つブログの意義だと思います。平成12年以降商業誌に遷子論が出た痕跡がないなかで、誰にも読まれないしかし立派な仕事が進んで行くわけです。
どうも有り難うございました。

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遷子を読む〔1〕 冬麗の微塵となりて去らんとす・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔2〕 冷え冷えとわがゐぬわが家思ふかな・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔3〕 銀婚を忘ぜし夫婦葡萄食ふ・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井 →読む

遷子を読む〔4〕春の町他郷のごとしわが病めば・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井   →読む

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「俳句空間」№15(1990.12発行)〈特集・平成百人一句鑑賞〉に纏わるあれこれ(2)

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永田耕衣「白菜の道化箔なる一枚よ」


                       ・・・大井恒行


「道化箔」には「どうげはく」とルビ。永田耕衣(明33・2・21~平9・8・25)の平成の自信作5句は、以下。

餅あまだ橋越え切らず都鳥  「琴座」 平元・3月号
白菜の道化箔なる一枚よ  同誌 平2・3月号
姫旋風その残像の遠忌かな  同 4月号
  ⇒「姫旋風」に「ひめつむじ」とルビ
白光のかの蓬まで行かば死す  同 6月号
  ⇒「白光」に「びゃくこう」とルビ
白桃や総の道行く死者の群  同 7月号
  ⇒「総」に「そう」とルビ

一句鑑賞者は安井浩司。その冒頭に、安井浩司は「一枚の道化箔(箔に傍点)は、いわゆる道化剥(剥に傍点)の運命のまま厨の片隅に置かれているようだ」と頷き、「白菜一個を買うて、菜片を剥いたのである。中程度の手頃の白菜だが、何と大小五十三枚の箔片(箔片に傍点)を数えることが出来、その白菜の秘めたる道化(どうげ)箔的な生命力に驚いたのであった」と記し、さらに加藤郁乎『江戸俳諧歳時記』に大根はあるが、白菜はなく、白菜には「多葉結身なる豊饒性にもかかわらず、その存在力に倭国的時間が滲み透っていない」とし、「〈道化〉(どうげ)百変性にみちている。近代料理の鍋物において魚肉の血を鎮め、漬物となっては近代人の肉食の暴を鎮める、といった今日的菜霊(菜霊に傍点)をたっぷり盛った異文化含みの代物」と言い、「何のことはない。作者は〈一枚〉と言っている。正に五十三枚が〈一枚〉において成立」しているのだと言う。

永田耕衣には、耕衣造語を集めた一著(金子晋篇『耕衣造語俳句鈔』)があるくらいだから驚くことはないが、その造語に安井浩司は「〈道化箔〉とは、詩において何か。人は、いやとりわけ詩家は絶対に(この世に無い)言葉を創出することはありえないという原則を踏みつぶすことは出来ぬと同時に、いよいよ積極的に造語してよい使命があるのであって、そのことは何ら矛盾するものではない。とすればそこに、詩の最高原理に属するものとして、これまた言葉の微妙な道化性に触れることができる仕組みとなるのだ」と断じている。

また、白隠の「毒語心経」の言葉「劈百合求中心」を引きながら百合根に中心は無く、一片一片が中心であり、それがまことの百合根の謂いであり、「白菜結体に置き換えることが出来る。白菜の一片一片がみな道化(どうげ)であり、その片々において真の白菜なんだよ、と。――白菜の旨い季節が来たようだ」と結んでいる。

永田耕衣に、私は二度会っている。しかし、いずれも挨拶程度。一度目は、今となっては、なぜそういうことになったのかは、全く記憶が無い。西下の折り、たまたま、神戸の町で、四谷龍、冬野虹に出会い、元町の「琴座」の句会に連れて行ってもらったのだ。二度目は、〈旭寿・永田耕衣の日〉(平成2年6月)のお祝いの会である。小島信夫の講演と大野一雄の舞踏が行なわれた。九十歳の卒寿ではなく、数え歳九十一に因んで「旭」の文字を当て「旭寿」としたもので、造語癖のある永田耕衣に相応しいネーミングだった。まだ、田荷軒・永田耕衣が十分に健在の頃のことである。

1970年代半ば、永田耕衣の著作がいわゆる俳壇のみならず、一般の人の目に触れるようになったのはコーベブックス・渡辺一考の力が大きく与っているように思う。もともと、コーベブックスは、神戸三宮駅、駅ビルに地元の本屋が少しずつ資本を出し合って大型書店の進出に対抗するべく設立された書店で駅ビル地下街に店を出した。その出版部門である。当時、500部から1000部程度の限定本であったが、コーべブックスの営業の方が、関東に出張の際、私の勤務していた弘栄堂書店にもよく来られた。そうした営業努力と相俟って、『金色鈔』『冷位』『一休存在のエロチシズム』『耕衣百句』(吉岡實篇)『鬼貫のすすき』など、永田耕衣の本が主要書店の詩歌の棚に並んだのであった。思えば、その頃、必ずといってよいほど、少部数限定の特装本も同時に制作され、見事な造本に、時に少ない給料のほとんどを注ぎ込む輩もいたものである。

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■関連記事

「俳句空間」No.15(1990.12発行)〈特集・平成百人一句鑑賞〉に纏わるあれこれ(1) 阿波野青畝「蝶多しベルリンの壁無きゆゑか」 ・・・大井恒行   →読む

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ボンボンと方言

月のバレエ

~ボンボンと方言

                       ・・・青山茂根

いくら見てもちっとも詳しくならないのだが、時折無性に芝居やら舞踏やらが見たくなる。20代の初めのころは、仕事で徹夜明けのままベジャールやキリアンやピーター・ブルックのチケット発売に並んだりしていたのだが、さすがにもうそういう気力も体力もない。幼いものに時間をとられて、この数年は他の趣味にあてる時間が全くない日々だった。歌舞伎座建替えのさよなら公演、と聞いて、ああ、次の世代にも記憶のどこかに残しておかなくては、と上の子を連れて本当に久しぶりに2月の歌舞伎座へ足を運んだのが始まりだった。さすがに三幕見せると飽きるし疲れるので、一幕は割愛して見た。それでもまだ小学生には長いようだが、判るところだけながら世話物の台詞の掛け合いや舞踊は楽しんでいる。

今月は、ご招待のチケットが回ってきたので東京バレエ団のジョン・ノイマイヤー振付「月に寄せる七つの俳句」の公演を見ることもできた。俳句からのインスピレーションによるバレエで、1989年に東京バレエ団のために創作されたオリジナル作品。今回は、1991年以来18年ぶりの上演になるという。音楽にバッハが使われているのは、「この二人(筆者註:バッハと芭蕉)の大芸術家が同じ時に生きており(J.S.バッハは1685-1750、芭蕉は1644-1694)、同じ月を見ていたこと」によるのだという。

振付家自身が初演時のプログラムに寄せた言葉を引く。俳句の側にたつ我々にも何か思索の一因となるか。

「まず、この二つの芸術はどちらも実際の言葉が語る、あるいは動きが見せる以上のものを暗示しています。そして俳句がある一瞬を捕えて、具体的なイメージを観察したり、比較したりして宇宙の統一性を示すのと同じく、ダンスも時間と空間のなかで動く実際の人間の身体を使って、普遍的あるいは形而上学的なものを喚起するのです。」(『ノイマイヤー・フェスト2009』会場配布物より)

「俳句は決して抽象的な詩ではありません。具体的な言葉で、具体的なシチュエーション以上のものを表現しています。ダンスも、人間の身体という非常に具体的な手段を使い、リアリティ以上のもの、身体がもっている以上のものを表現しています。その点で、俳句とダンスの世界は深く関係しているのです。」

「俳句の世界は、特別な光の下で見ると、違う何か、非常に秘密めいた世界に変わるという、その点に深く共感したのです。俳句はどの句にも必ず季語が含まれ、何かのシンボルとして、地上のものではない神秘的なものを表現します。私は多くの俳句に触れるなかで、特に月という概念がよく出てくることに気づきました。それはやがて、一つの概念を超え、私にとっての一つのテーマとなりました。この作品は、私が俳句を主観的に解釈したもので、私がこの作品で選んだ句は、数多の句のなかでも、私の内面的なものに多く触れた句だと言うことができるでしょう。」(『NBSニュース』4月号 今回来日時のノイマイヤーへのインタビューより)

「振付というものは、俳句に似たところがあります。俳句は、読むことはできるが、理解することはできない。言葉は美しいけれども、その言葉を取り囲んでいる世界をつかむことはできない。振付にも同じことがいえます。振付を見て、それが喚起する世界に魅了され、踊りの流れに身をまかせることはできても、振付のすべてを理解することは不可能です。」(『ダンスマガジン編 バレエ101物語』 「月に寄せる七つの俳句」ノイマイヤーの言葉 新書館 1992)

創作の源とされ、作品中にナレーションでも語られる七つの俳句は以下のもの。

赤い月是は誰がのぢゃ子供たち (一茶)
人に似て月夜のかがしあはれなり (子規)
四五人に月落ちかかるをどり哉 (蕪村)
寒月や石塔の影松の影 (子規)……(*1)
春もややけしきととのふ月と梅 (芭蕉)
小言いふ相手もあらば今日の月 (一茶)
われをつれて我影かへる月見かな (素堂)……(*2)
鐘消えて花の香は撞く夕哉 (芭蕉)がエピローグ。

劇場で見た印象では、場面ごとに朗読される句が、いかにも外国人の耳で聞き取ったといったナレーションで、俳句として響いてこないのはどうなのだろう。秋から秋へ、月をめぐる季節を追っての展開は美しいが、バレエとして面白いかどうかは正直微妙だった。句を構成する言葉を解体して、ダンサーたちが見せる闇や月光の動き、そこに言葉の波紋がどこまでも広がってゆく可能性は感じた。参考までに、「NBS日本舞台芸術振興会」のサイトで作品の一部分だがweb上で動画が公開されている。(*3)

興味深く感じたのは、歌舞伎座の夜の公演の『廓文章(吉田屋)』。ずっと以前、まだ孝夫・玉三郎で演じられた頃に見たときには気づかなかったのだが、今回あれっと思ったことがあった。私以外の他の人には面白くもないかもしれないけれど。

それは台詞だった。ああ、きっと現在でも関西のボンボンはそのまんまだなあと思ったのは、伊左衛門が喜左衛門おきさ夫婦と語り合いながら夕霧を待っている場面。時折拗ねてみせるあたり、「去にましょう、いにましょう。」と身をよじって出て行く素振りを見せる伊左衛門。その上方和事そのものの口調とともに、おや?文語(古語)プラス口語?と耳に残った。

帰宅してから、古語辞典やら広辞苑やらにあたってみると、「往ぬ・去ぬ」「近世後期、上方では四段に活用。関西方言に残る」とある。Web上で検索してみても、愛媛県川之江市では「去ぬ」を日常的に使っていると出てきた(*4)。関東圏で育った私などは、この「去ぬ」は古文の時間に習った言葉なのだ。古語と見えても場所によってはなお日常に生き続けている言葉もあると知ってはいたが、今まで何度かその演目を見ていたのに気がつかなかった。そういや、義母は神戸に生まれ育った人なのだが、子供の顔を見て「ふたかわめ、ふたかわめ」と言っていたのが、なんのことやら、だった。古語辞典を見ると、「近世語。ふたえまぶたの目。」とのこと。西鶴の文例が出ていた。ううむ、これ関西弁として残っているらしい。我が同居人など、普段は標準語のくせに、神戸出身者に会うといきなり「知っとう(知っている)」「合っとう(合っている)」などと連発し始めるのだが、この、神戸人の語尾にやたらとつく「~とう」というのも、案外、婉曲表現として「とふ」を使っていたものが残ったものだったりして。今でいう、「~っていうか。」「~って感じ。」などの用法と似たものだったのかも。「かはひらこ」が、九州・奄美地方の民謡に今も残っているなら、「つばひらこ」もどこかの地方に残っているのだろうか。

口語と文語に厳密な境界を想定するのは中央集権まがいの無体な発想なのだろう。むしろその地域性を生かして句や歌にするのもいいかもしれない。例えば、沖縄のやわらかな間合いが心地よいウチナーグチで句や歌を書いて、標準語の総ルビを振ったものがあるなら見てみたい。日常、方言で話している人が所謂標準語の口語で書いても、それこそ「書き言葉」であり、作者にとってはどっちが口語なのだろう、と思う。

(*1)これはノイマイヤーが引用したテキストの翻訳ミスと思われる。『子規全集第二巻』「寒山落木 明治二十八年 四」によれば、下五は「杉の影」となっている。
(*2)これも同様。「月夜かな」が正しい。
(*3)http://www.nbs.or.jp/stages/0903_special-pro/program.html#pro02
(*4)「方言は保守的か?」http://homepage1.nifty.com/forty-sixer/dialect.htm


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2009年4月19日日曜日

第35号




第35号

2009年4月19日発行

「俳句空間」No.15(1990.12発行)〈特集・平成百人一句鑑賞〉に纏わるあれこれ(1)

阿波野青畝「蝶多しベルリンの壁無きゆゑか」

          ・・・大井恒行   →読む

書物の影 第九回

          ・・・堀本 吟   →読む

閑中俳句日記(03)

西村白雲郷句集『瓦礫』『四門』『塵々抄』

         ・・・関 悦史   →読む

遷子を読む

〔4〕春の町他郷のごとしわが病めば

・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井   →読む

俳句九十九折(32)

俳人ファイル ⅩⅩⅣ 大橋嶺夫

          ・・・冨田拓也   →読む

 

あとがき           →読む

豈同人の出版物      →読む

執筆者プロフィール    →読む

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あとがき(第35号)

あとがき(第35号)


■中村安伸

今回は高山さんが出張のため、私一人であとがきを担当させていただきます。
「―俳句空間―豈」本誌の編集人である大井恒行さんの連載が今号よりはじまりました。かつて大井さんが編集され、弘栄堂書店より刊行されていた俳句総合誌「俳句空間」をめぐっての貴重な逸話です。

※今週のシンクロニシティー
関さん、大井さんの記事で、ともに青畝の「水ゆれて鳳凰堂へ蛇の首」に関する高柳重信の発言がとりあげられています。


俳句九十九折(32) 俳人ファイル ⅩⅩⅣ 大橋嶺夫・・・冨田拓也

俳句九十九折(32)
俳人ファイル ⅩⅩⅣ 大橋嶺夫

                       ・・・冨田拓也

大橋嶺夫 15句


冬の星暗し生まれしばかりの麺麭
 
凍る日輪壁画のように青年錆び
 
尼僧院舟曳く蝸牛日の森に
 
月光が泡だつタオルボクサー死す
 
一角獣あかあかと透き緻密なドア
 
睡りのなか夏山白し蜘蛛を飼ひ
 
魂魄すがしく飛ばす昼月オートバイ
 
陽うるさしペンで梨刺すわが死海
 
キャベツはぜ朝の雷火の白淫ら
 
河港あり鋭く夕雲の家壊れ
 
石の原螢ほつほつ悪しき胤
  ⇒「胤」に「たね」とルビ
 
死馬の喉ながながとあり山の祭
 
黒馬あり闇ひかりあり柿の花

悪僧めき野火踏み越えて君還らず
 
抜歯の血鹹し白鳥飛来の日

 
 
略年譜
 

大橋嶺夫(おおはし みねお)
 

昭和9年(1934) 大阪市に生まれる
 
昭和29年(1954) 西東三鬼に会う
 
昭和30年(1955) 西東三鬼「断崖」同人
 
昭和33年(1958) 「断崖」を辞し同人誌「アプリオリ」創刊 「夜盗派」同人
 
昭和35年(1955) 「縄」創刊
 
昭和37年(1962) 第1句集『異神』(縄の会)
 
昭和39年(1964) 「花」創刊
 
昭和42年(1967) 第2句集『聖喜劇』(花の会)
 
昭和43年(1968) 「ユニコーン」創刊
 
昭和48年(1973) 「海程」参加
 
昭和51年(1976) 第3句集『わが死海』(花の会)
 
昭和54年(1979) 選句集『俳句文庫5 大橋嶺夫』(海程新社)
 
昭和56年(1981) 病気入院
 
昭和57年(1982) 「詩的言語と俳諧の言語」で現代俳句協会第1回評論賞受賞
 
平成11年(1999) 逝去(64歳)
 
平成15年(2003) 句集『ユーラシアの岸』

 
 
A 今回は大橋嶺夫を取り上げます。
 
B 今日この作者について一体誰が話題にするでしょうか。
 
A どういうわけかこういった作者に興味を引かれてしまう傾向が、私自身の中に割合強く内在するようです。
 
B 困ったものですね。
 
A 私がこの作者の存在を知ったのは、いまから大体6、7年ほど前、とある古書店でこの大橋嶺夫の第2句集『聖喜劇』をたまたま手にしたのがきっかけでした。すこし内容に目を通して、その作品からなにかしらただならぬものを感じるところがありました。
 
B 大橋嶺夫の略歴について見てみると、昭和9年(1934)に大阪に生まれ、昭和29年(1954)の20歳の時に三鬼に出会い、その後「前衛俳句」運動の流れに加わり、昭和48年(1973)には金子兜太の「海程」へ参加しています。
 
A 本人の述懐によると〈どういう訳か、幼いころから、漠然と文学をやりたいと思っていた。それが俳句という形をとったのは、十歳のときの作句の経験を契機としている。以後断続して作句していたのが、二十歳で西東三鬼に出会ったことによって、わたしと俳句の関係が決定的となった。その根底には少年時芭蕉句に魅せられた体験がうごかしがたくある。〉とのことです。
 
B 句集としては、『異神』『聖喜劇』『わが死海』『ユーラシアの岸』、そして選句集として『大橋嶺夫集』が存在するようです。
 
A 私が今回目を通すことができたのは、『聖喜劇』『わが死海』『ユーラシアの岸』『大橋嶺夫集』の4冊で、『異神』については残念ながら未読ということになりますが、一応『大橋嶺夫集』に掲載されている抄出によるものと、俳誌『鬣』2004年11号において林桂さんが抄出しておられる作品により、そのいくらかについては読むことができました。今回の選句は、これらの資料から選出したものということになります。
 
B 大橋嶺夫については一応、現在では林桂さんが取り上げておられるわけですね。
 
A 他ではあまりこの作者が取り上げられているのを見たことがありません。
 
B せいぜい難解な俳句評論の書き手であった、とでもいったようなところでしょうか。
 
A そういった評論の書き手としての大橋嶺夫についての記事を以前どこかで読んだ記憶があります。大橋嶺夫は論客でもあり、昭和57年には「詩的言語と俳諧の言語」で、現代俳句協会第1回評論賞を受賞しています。
 
B では、第1句集『異神』の作品から見てゆきましょう。
 
A この句集は昭和37年(1962)に刊行されたものということになります。

B この句集の刊行時点で大橋嶺夫は28歳ということになります。
 
A 割合若くして句集を出版したことになりますね。ということで、この句集は20代の作品集ということになります。
 
B 時代としてはまさしく「前衛俳句」運動の頃に生まれた句集ということになります。
 
A はじめのころは三鬼に師事していたとのことで〈冬の星暗し生まれしばかりの麺麭〉などといった割合平明な句も見えます。
 
B この句は昭和29年の作者20歳の頃の作品であるそうです。
 
A 「冬の星」が「暗」いということですから、やや重い印象の句ですね。

B 三鬼はこの句に対して〈作者は「暗し」といはねばならなかつたのだ。冬の星の寒気の下に、出来たてのパンがあるだけでは、作者は不満である。寒くて「暗く」なければいけないといふのだ〉と評したそうです。
 
A この後、昭和33年に三鬼の「断崖」を辞し、「夜盗派」に加わり「前衛俳句」へと急速に傾斜してゆくことになるようです。
 
B 島津亮が、当時の大橋嶺夫について〈八木三日女を知り門田誠一をしり、嶺夫は猛烈に勉強をなし、正に万巻の書をひもといだ。〉と述懐しています。
 
A 島津亮、八木三日女、門田誠一ともに「夜盗派」のメンバーでした。
 
B この頃の作品を見ると〈凍る日輪壁画のように青年錆び〉〈はりねずみの流氷せめぐふるさと〉〈暗視の岬オレンヂ蒸発する頌め歌〉〈毛虫の森寝椅子過ぎる無数の車輪〉〈しびれる胸 石灰質の陰画都市〉〈やさしい餓死の最後の河口ちぎれた蛇〉〈流謫の羽研ぐ 水飼い場の女〉〈薄日の商館 海辺を埋める異形の神〉〈暗黒の火の幌 鸚鵡が吐く野兵〉〈乳房滴る壁紙この紅き 北回帰線〉等ということになります。
 
A まさしく「前衛俳句」そのものといった感じの作品が並んでいますね。どれも容易に読み解くことができない晦渋さに満ちています。
 
B しかしながらこういった作品を見ていると、所謂「前衛俳句」の諸作の中でも大橋嶺夫の作品は「ロマネスク」の要素が強い傾向にあるようです。
 
A 「壁画」「オレンヂ」「頌め歌」「陰画都市」「流謫の羽」「水飼い場の女」「異形の神」「暗黒の火の幌」などといった語彙からそのことが窺えますね。
 
B それこそ当時の文学青年的な雰囲気が感じられ、そこからも時代性を反映しているのが窺えるような気がします。
 
A 続く1967年の第2句集『聖喜劇』においてもそういった傾向は続くようです。
 
B 第2句集の作品を見ると〈鷺堕ち来るシヴァの笛髪の渚より〉〈鳩容れて暮れるアカデメィア蒼き使者〉〈ヨゼフわが斧熱き父失地の森〉〈誄歌より獅子起つマラトンの茨を駈け〉〈霧の記憶に桃色の猫死者の蔓〉〈尼僧院舟曳く蝸牛日の森に〉〈百合の洪水鏡に電柱のイエス〉〈影翔ける眼底の鳥赤い湖〉〈緑十字旗昏れる幼年のゲツセマネ〉〈月光が泡だつタオルボクサー死す〉〈不在の巣暗渠のつばさ卵抱き〉〈聖餐の月曜撒水車鱗散らし〉〈一角獣あかあかと透き緻密なドア〉〈終末の朝青虫に空を映し〉〈食卓布に刺繍のニグロ透く夜空〉〈寒夜なだれる蒼白の坂妣の国〉といった作品があります。
 
A なんというか、どの作品も表現としてどこまで完成しているのかいくらか疑問に思うところもないではないですが、どこかしら他の作者には感じられない複雑なイメージが込められているところがあるようです。
 
B しっかりと作品を読んでみるとイメージ的には割合面白いものが感じられるところがあるように思われます。
 
A 〈誄歌より獅子起つマラトンの茨を駈け〉などは、現在から見ても、なかなか恰好のいい作品ではないでしょうか。
 
B 現在このような作品を書く作者は、まず存在しないでしょうね。
 
A 〈尼僧院舟曳く蝸牛日の森に〉という作品は金子兜太も評価していました。
 
B この句もその意味内容はやや複雑なところがあり、でいまひとつよくわからないところがあるのですが、なにかしらその言葉の関係性により不思議なポエジーを喚起する要素を持っているようです。
 
A 〈月光が泡だつタオルボクサー死す〉という作品からは、どことなく金子兜太の〈彎曲し火傷し爆心地のマラソン〉を髣髴とさせます。
 
B 「ボクサー」と「マラソン」というスポーツというジャンルによる近接からそのように感じられるところがあるのでしょう。また、この「ボクサー」の句は、大橋嶺夫の他の多くの難解な句とは若干異なり例外的に意味内容が理解できるところがあります。
 
A 「タオル」は、当然「ボクシング」の試合放棄の意思表示のためにセコンドがリングへ投げ入れるものです。
 
B その白いタオルが月光に「泡立つ」ように見えた、ということですね。まるで少年漫画の一齣のようです。
 
A 「泡立つ」が普通の表現とは異なるところですね。多くの作者が、ここではせいぜい「染まる」か「宿す」といった常套な表現にとどまってしまうところであると思われます。
 
B この句は現在でもそのまま通用しそうですね。
 
A 続いて1976年刊の第3句集『わが死海』の作品を見てゆきましょう。
 
B 1967年から1974年の作品128句が収録されています。
 
A 約8年間の中から128句のみの収録ということになりますから、なかなか厳しい選となっています。
 
B この句集の作品も実験的な作品が多くを占めますが、これまでの作品の上での難解な試行錯誤がここにきてやや円熟味を帯びてきたような印象があります。
 
A 1969年には〈白く死に陥つ梨山の鉄道員〉、1971年には〈睡りのなか夏山白し蜘蛛を飼ひ〉〈魂魄すがしく飛ばす昼月オートバイ〉〈天譴(けん)めき月の香は泌む桐箪笥〉、1972年は〈陽うるさしペンで梨刺すわが死海〉〈ジャムを煮て夜の虹を叔母燦めかす〉〈獏を診る白衣の二人黒三日月〉〈椿の舟路上に腐つわがダフニス〉〈指紋の蛾車窓を埋む夜明けいつも〉といった作品が見られます。
 
B こういった作品を見るとやはり「前衛俳句」の諸作の中でも大橋嶺夫の作品はやや異質な雰囲気があるようですね。他の「前衛」的な作者たちとは、なにかしら袂を分かつものがあるというか。
 
A 〈白く死に陥つ梨山の鉄道員〉といった、やや抽象度の高いイメージを含有しながらも、ある程度のポエジーによる強度を感じさせるこのような作品は、あまり他では見られないものでしょうね。
 
B 他にはせいぜい小川双々子、攝津幸彦あたりにこういった作品はみられるくらいでしょうか。また、他の作者ならもっと1句の凝縮度が弱いものとなる気がします。
 
A 〈睡りのなか夏山白し蜘蛛を飼ひ〉という句にしても、それこそ高屋窓秋の「白い夏野」が思い浮かびますが、その世界を推し進めさらに深めようとする意欲が見られるようです。
 
B 自己内部における白のイメージに、さらに蜘蛛の形象を付与することによって、新たなイメージの創出を企図したような作品ですね。なんだか白いイメージの世界のなかで蜘蛛が足を動かしているシルエットそのものが目に浮かぶようです。
 
A 〈魂魄すがしく飛ばす昼月オートバイ〉についてですが、この句は兜太の〈激論つくし街ゆきオートバイと化す〉を思わせます。
 
B やや複雑な構造の句ですが、非常に疾走感が感じられますね。まるで自らの肉体がオートバイに乗って走ることで「魂魄」として飛翔しているかのようです。
 
A 「魂魄」と「昼月」ですから、精神が空白の状態、即ち猛スピードの中で心が「からっぽ」になっているような感覚があります。
 
B 「忘我」といった感覚にも近いものがありそうですね。
 
A 〈陽うるさしペンで梨刺すわが死海〉についてですが、この句もなかなか難解なところがあります。
 
B 大橋嶺夫の句を見ると、どうやら全体的に「光と影」といったモチーフがその根幹にあるといった作品が多いようですね。
 
A そういえば、初期の〈冬の星暗し生まれしばかりの麺麭〉〈凍る日輪壁画のように青年錆び〉にしてもそうですし、第2句集の〈尼僧院舟曳く蝸牛日の森に〉〈月光が泡だつタオルボクサー死す〉にしても「光と影」の関係が認められるところがあるようです。
 
B いま見てきた、〈白く死に陥つ梨山の鉄道員〉〈睡りのなか夏山白し蜘蛛を飼ひ〉にしてもそういったところがあります。
 
A この〈陽うるさしペンで梨刺すわが死海〉も、まず「陽」という「光」が出てきます。

B そして梨をペンで刺すわけですから、インクの「黒」のイメージで「影」に近いものが感じられるということになりそうです。
 
A 他にもこの句集にはこのような「光と影」「白と黒」といった関係性が根底にあるような作品がいくつも見られます。
 
B 1973年には〈キャベツはぜ朝の雷火の白淫ら〉〈河港あり鋭く夕雲の家壊れ〉、1974年には〈サングラス越し群羊へ陽は銅のシャワー〉〈石の原螢ほつほつ悪しき胤(たね)〉〈降誕祭(ノエル)の朝骨の標本拭く少女〉といった作品がありますね。
 
A こういった作品を見ていると「光と影」といったモチーフは、それこそ究極のところは「生と死」いった問題へと繋がってくるものであるように思われるところがあります。
 
B そのように「生と死」を感じさせる作品が大橋嶺夫には少なくないですね。他には〈豪雨市場翼失くせし霊あつまる〉〈皿にかわく悪霊二月の雲と暮らし〉〈死馬の喉ながながとあり山の祭〉などといった作品も存在します。
 
A 続いて選句集である『大橋嶺夫句集』の1974年から1978年の作品についてみていきましょう。
 
B 『わが死海』以後の作品が、選句集である『大橋嶺夫句集』に「岩の時間」(1974年~1978年)と題されて61句収められています。
 
A ここでは〈鷽狙う少年木星の気配の朝〉〈黒馬あり闇ひかりあり柿の花〉〈歯型美し水の終りの青猫来る〉などといった作品が見られます。
 
B どちらかというと『わが死海』の延長線上に位置するような作品という印象がありますね。
 
A そして、この後の1978年以降の作については、2003年刊の『ユーラシアの岸』に収録されています。
 
B この句集は大橋嶺夫の遺句集ということになり、1978年から1999年に亡くなるまでの作品が収められています。
 
A おおよそ20年にもおよぶ作品集ということになりますね。
 
B このあたりの作品になってくると、これまでのロマネスクで超現実的な作品世界から、徐々に日常的な景物に材を採ったような作品が目立つようになってきます。
 
A 作品としては〈牡蠣喉を滑るにわれは深き渕〉〈父の鉈で削るえんぴつ夏はじまる〉〈針山の裡は暗黒恋の猫〉〈朝の愛家出ればすぐ赤蛙〉あたりということになりますね。
 
B 表現についても全体的に晦渋さが軽減し、平易なものとなってきますが、それでも〈陽にまみれし鯵刺降下わが睡りへ〉〈悪僧めき野火踏み越えて君還らず〉〈伐られたり影なす夏木なりしかど〉〈抜歯の血鹹し白鳥飛来の日〉〈皮黒きバナナ麒麟が喰う極月〉といったやや迫力を感じさせる作品の存在もいくつか確認できます。
 
A 〈悪僧めき野火踏み越えて君還らず〉は、同じ「海程」所属の仲上隆夫という俳人が亡くなった時の句で、この仲上隆夫の〈黒き傘さして僧ゆく細雪〉という句を踏まえた上で詠まれた句であるのでしょう。
 
B さて、大橋嶺夫の作品について見てきました。
 
A 今回この大橋嶺夫を取り上げるにあたって、正直「今回は大丈夫だろうか」とやや心配であったのですが、ある程度の作品に目を通し、さらに選を終えた現時点における感想としては、大変シュールで読み解けない複雑な句も少なくないのですが、その作品のいくつかについては、現在においてもなかなか面白いものなのではないかという思いが強いです。
 
B 特に大橋嶺夫の才質が窺えるのは、第2句集『聖喜劇』、第3句集『わが死海』あたりの作品ということになると思います。
 
A 大橋嶺夫は現在ではほとんど話題になることはありませんが、現在の俳句とはやや異なるその独特な作風は、俳句形式において、なにかしらの可能性を孕んでいたものではなかったかという気もします。
 
B この作者の存在は、それこそ、永遠の「未完の大器」とでもいったような印象があるようですね。


 
選句余滴

 
大橋嶺夫
 
 
雪降り出す翳る卵に卵積み
 
暗視の岬オレンヂ蒸発する頌め歌
 
毛虫の森寝椅子過ぎる無数の車輪
 
しびれる胸 石灰質の陰画都市
 
やさしい餓死の最後の河口ちぎれた蛇
 
流謫の羽研ぐ 水飼い場の女
 
暗黒の火の幌 鸚鵡が吐く野兵
 
乳房滴る壁紙この紅き 北回帰線
 
鷺堕ち来るシヴァの笛髪の渚より
 
鳩容れて暮れるアカデメィア蒼き使者
 
ヨゼフわが斧熱き父失地の森
 
割礼へ偏愛の鳩蔦の炎深く
 
誄歌より獅子起つマラトンの茨を駈け
 
童貞の濃藍の首山上に
 
霧の記憶に桃色の猫死者の蔓
 
百合の洪水鏡に電柱のイエス
 
液化の馬揉み出す微光の帽子売
 
影翔ける眼底の鳥赤い湖
 
緑十字旗昏れる幼年のゲツセマネ
 
夜行車の一点熱く羊歯原過ぐ
 
不在の巣暗渠のつばさ卵抱き
 
降霊の梢の少年夏の手紙
 
終末の朝青虫に空を映し
 
食卓布に刺繍のニグロ透く夜空
 
寒夜なだれる蒼白の坂妣の国
 
祭文なびかう夜の伽バナナボート消え
 
告知枯れる火の鷹剥落のチリーの切手
 
白く死に陥つ梨山の鉄道員
 
天譴めき月の香は泌む桐箪笥
 ⇒「譴」に「けん」とルビ
 
樹間にあり魂祭る日の山羊の咀嚼
 
ジャムを煮て夜の虹を叔母燦めかす
 
獏を診る白衣の二人黒三日月
 
椿の舟路上に腐つわがダフニス
 
指紋の蛾車窓を埋む夜明けいつも
 
白菫あかつき錆もつすべての匙
 
豪雨市場翼失くせし霊あつまる
 
皿にかわく悪霊二月の雲と暮らし
 
サングラス越し群羊へ陽は銅のシャワー
 
降誕祭の朝骨の標本拭く少女
  ⇒「降誕祭」の「ノエル」とルビ
 
鷽狙う少年木星の気配の朝
 
犬歯の少年突っきる梨畑青い気圧
 
歯型美し水の終りの青猫来る
 
むさしきさらぎ紫なり瞳孔の果
 ⇒「果」に「このみ」とルビ
 
牡蠣喉を滑るにわれは深き渕
 
月のようなオムレツ出さる鶴帰り
 
陽にまみれし鯵刺降下わが睡りへ
 
針山の裡は暗黒恋の猫
 
父の鉈で削るえんぴつ夏はじまる
 
伐られたり影なす夏木なりしかど
 
皮黒きバナナ麒麟が喰う極月



 

俳人の言葉
 
花は端(はな)の義で、ものごとのきざしだというが、大橋のことばの乱反射という方法は、現代俳句のひとつの<端>である。
 
坪内稔典 「ことばの乱反射」より 『土曜の夜の短い文学』(昭和56年 関西市民書房)
 

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