2009年4月19日日曜日

書物の影 第九回・・・堀本 吟

書物の影 第九回

                       ・・・堀本 吟

第二章 (A句集評、B作家論など)
A—3 中山美樹句集『Lovers 』(霜田あゆ美・絵) (二〇〇九/豈叢書4)
    高遠朱音『ナイトフライヤーズ』(二〇〇九/ふらんす堂)

  恋愛という主題 

【はじめに】
美樹と書いて、Mikkii(ミッキー)と読ませる。中山美樹のガーリッシュな印象は、ペンネームのつけかたや、まえの句集『おいで!凩』句集にも顕れていて、外見に騙されて読むと、これが、グングン踏み込まされる。不思議な巧さを感じさせられた。

高遠朱音

この本をいただいたときに、おなじころこれもいただいた高遠朱音の第一句集
『ナイトフライヤー』(二〇〇九/ふらんす堂)をどうじに開くことになった。
高遠朱音は一九八五年、私が年齢遅くして俳句に手を染め始めた頃の生まれ、中山美樹は一九四七年だから、五歳年下、もうすこし若い人とおもっていたのは、そのミッキーの印象がすり込まれているからだ。(句集を出してソンをするのは実年齢がわかってしまうこと、かな?)。
はじめに、高遠の句集のことを書く。面白い感受性である。

引用
《1 特徴のでている印象句 》
夜間飛行下界すべてが水族館  
十六夜に17才が余っている   
螺旋状に麗かに捻挫する     
立冬と赤福しまいこむ胃袋    
炎天に手首ひねり上げられる   


《2 恋愛と読めなくはない句 》
爪先から春光放つ吸血姫
沈丁花私青春傍観者
万緑や少年少女が零れ出る
斑雪君に言葉を残しゆく
ばっさりと髪も切ります螢の夜
危険地帯 一歩手前の銀木犀
底のない卵の中の星祭り
本音なら螢魔女になれる
葉書きて空蝉の背をのぞくなり
冬林檎放る感傷は要らない
秋立つ日置き去りにされてしまった
初夏や水平線のピアニスト

      高遠朱音句集『ナイトフライヤー』。

感受性を自分でたしかめたしかめ言葉におきなおしていて、すらっと書いてはいるが、短い章句の最後にはちゃんとおちつかせている。短詩形が合っている資質なのかもしれない。

十六夜に17才が余っている  高遠朱音   
螺旋状に麗かに捻挫する     同
      
をならべると「螺旋状に麗らかに」の使い方がしたたかに俳句的だ、季語の世界とに近くなった離れたりしながら身体の危機をつげようとしている。

「十六夜」にの古くからつけられてきた古風なイメージと「17才が余っている」(「十七歳」という表記ではなく)と投げ出したいわばいい加減さの演出、たくまざるこうかであろう。これらは、ほんとに若さの特権といえる書きっぷりである。私はすっかり好感を持った。

そして、この少女の句の傾向の面白かったのは、この若さで、この若さだからこそかもしれないが、恋の句というモノがない。まったく
文字どおり

沈丁花私青春傍観者  高遠朱音

なのである。彼女の俳句を書く動機は、内面性と言うより感性のありようそのものなのである。
だが、いろんな言葉の符牒から、恋の気配、エロスを伝える一行が無いわけではなく、それを抜きだしておいた。

斑雪君に言葉を残しゆく(高遠)    →「君」への心理的な傾き
ばっさりと髪も切ります螢の夜(高遠) →「髪を切る」と「螢」の取合せ。

内面性をいいたいときに、直接それがでてこないで、「螢」などに蓄積された言葉のエロス性にもたれている。これを自分の言葉ではない、と否定的にいうことはできない。「螢」という実体と言葉の中身にふれた感性がそのような措辞を生んだのである。俳句は自分をださない、寄物陳思の表現である、この原初の感受性がはたらいているのである。
いまごろの少女が案外醒めている、ことと、若年層に俳句が浸透していることがなにか関係あるのかどうか。これから注目して行きたい個性である。

【中山美樹】

さて、じつは私はベテランミッキーの恋愛俳句のことを書きたかった。この句集については、すでに青山茂根の紹介がでている。また、高山れおなもこれに言及している。両者のモノ、また池田澄子の栞文、前田弘の序文を、度外視してかいてみたい。というのは、最近ひさしぶりに読み応えのある、情念の虚構にであったからだ。
これを手に取って先ず驚いたのは、だれしも注目するところ、霜田あゆ美の、クレヨン画、絵本のような句集であったから、私はミッキーに出した礼状に、「町の本屋にならべても売れるかもしれない」、と書いた。絵のかわいらしさがまず女性たちをひきつけるだろう。開いたページ短い中身のエロス的纏綿、それも、表層からも深部からも恋愛とはなにか、ということを訴えている。が、横書きに書かれた口語調の句は、読む人の心や、俳句上の知識の深浅で、軽くも重くもとれてくる、なかなか一筋縄ではゆかない巧みなつくり方である。

なにかストーリーがあるのかな、とおもったが、小説的な意味ではあまりそれは気にならない。
それから、恋愛俳句といっても、これは、「恋愛」という小さなコンセプトの舞台でつくられた定型詩の世界なのである。いや、定型もしばしばくずれている。
精神のリズムで書かれているのだ。
高遠のナチュラルな醒め方とくらべると。こちらはきわめて人工的によそおわれた女の恋の攪乱、あるいは真っ向からかかれた男女の性愛の世界なのである。
俳句でこういう書き方が出来るんだなあ、ミッキー、やるじゃない、という感想である。

引用(二句ずつ対になって一ページにおかれている)

ボクハキミノアヤマチデシカナイ 冬
哀しくてぼくが走れば月も走る
愛という手堅い凶器雪しんしん 
風花とすこし乱れてみようかな
はつ夏の僕はあなたのたりない部品
あなたにはひかりでできている指輪 
ひあしんす痛くなければ恋じゃない
ちゅうりっぷ倖せだなんて恋じゃない
火照るのは螢のせいと言い通す
太ももに螢の噛んだ青い痕


ここにも「螢」がでてくるが、ミッキーの「螢」は「噛む」「火照らす」。朱音の螢は、「ばっさり髪を切」られて情念の焰の泊まり処をたたれる。少女の羞恥ともいえるし、うらがえしの情念を示している。
この螢は女の情を託している点では遜色ないが、いわゆる濃厚さが無い(少女であることと、それは自分の心象風景がやはりその年齢のものだからである)。
これが、かりに中山の心情をすこしでも盛り込んでいたとしても、太ももを噛む「螢」は永遠に女性のその情熱の暗喩である。

中山美樹のこのエロス性の成熟度(認識においての、である)は、言葉に表れたときには、とんでもないほどだいたんで無邪気な無防備な一体感や「逢いたい」感の表現としてあらわれる。

引用(あとらんだむに一句づつ)

ふたりなら莢隠元のなかにいる
でびるえんじぇるなみだももいろこんぺいと
逢いたさがふわり突然ぼたん雪
まふらぁのようにふんわり縛ってあげる
しばらくはきみの毛布でいてあげる

  中山美樹句集『Lovers 』(霜田あゆ美・絵)

所詮恋愛は肉の感覚。肉体の感触も自分の心の身体性を思い知らされるようなものである、感情が官能であること、中山美樹の定型への意志がこういう柔軟な関係のドラマのなかで花ひらいていることを、なかば羨望とともにたのしんでいる吟さんなのでありました。

すこし書き急いだが、欠稿ばかりも気が引けるので、今夜は一応これで初発の感想をお伝えしておきたい。お二人さん、ますます「いい女」で活躍してください。(この稿了)。

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