2009年2月8日日曜日

書物の影—第六回・・・堀本 吟

書物の影—第六回

                       ・・・堀本 吟

第二章はおもに「ホン」の紹介。主に句集だが、ジャンル問わない。大きく分けてA句集、B評論集、C雑誌同人誌等の掲載作、D他ジャンル。

【書物の影 第二章・・・句集。詩集 】               
 A—1 篠原資明『ほう賽句集』・・ 詩行の概念がくずれる。       

【はじめに】

《書物の影・第一章》のサロンは「筑紫磐井」と言う書物を開く部屋として、堀本吟との知の内在的な交流を図る=「新たな書物化」のスペースとしておこう。あちこち話題が飛んでいっても最後には、ここにたちかえる。
彼が話題にしている、詩の形態としての改行。すくなくとも表記に於いて「改行」の考え方が何時どのような契機でたちあがるのか?ひとつ筑紫磐井の文章をはなれても、詩、歌、句、各分野にあらわれている、「行」の観念の解体現象は、私には大変興味のある課題である。

「俳句」と狭義の「詩」を別つ要素は、

1, 定型か非定型か、あらかじめ定められたモデルによる。
2, 一行かそれ以上か。字数の制限についても議論がある。
3, それから、分かち書き。(一字あけ)
4, それから、一行空白。(多行俳句の例)
5, 図形的カリグラムか 通常の字送り行送りか。

思いつくままに羅列すると、こういうことの例が見出される。
もっと内的な根拠に触れた発言では、

6, 言葉への総合的な感触から。
 (この考え方では、もっとも原初的な理屈は、先号の伊丹公子の「表記の問題じゃないんです。」「切りたいから切るんです」という直感に根拠をおくもの)。
7, そして、筑紫磐井の「恣意性」「主観性」といういいかた。これは、
客観的定式化は、人間の内的な情動—アモルフな欲求からうまれるという、詩の論理の帰結である。ひじょうに緻密に見える詩論も、けっきょくは、この「恣意性」、をどのように理論化して衆を納得させるか、と言うことに最大のエネルギーが費やされる。

私は、自分の精神のナチュラルな知情意、とくに知的な思索が、愛想やイデオロギーの固定化、になってゆくことをふせぐために、「情」の力を強く意識してきた。文学や芸術の動機にこれをあてはめてきた。筑紫磐井がいう「恣意性」「主観性」、これは、文学のことばが、顕れるときに、理詰めではけっして説明できなくなる地点で、啓示のごとくあらわれる「一語」である。この非論理的な着想をいかに内的必然として説明しうるか、というところに、作品の「独創性」をはかる秘密がある。

【 篠原資明『ほう賽句集』 のこと】

自由詩に於いては、改行することは、おおむね詩であることを可視的にしめすことである。ただ、昨今きがつくことでは、「一行」とか「多行」という状態が更に変形して、十字科のようにクロスしたり、折れ曲がったりするような書き方が出てきている。詩を読む場合、言葉の意味やその変容に感動するも、もちろん大きな要素だが、表記自体がビジュアルにレイアウトされたりして、つまりデザインされてきているのだ。そう言う場合は、上に掲げた分類(これも恣意的であるが)のうち(5)の項目で考えたらわかりやすい。先日、おもいがけなく寄贈された「句集」、句集ではあるのだが、先述の(5)の場合にあてはまる。作者は詩人と言うことになっている。俳人の句集とはずいぶんちがい、また、文人俳句の類ではない。ずいぶんおもしろかった。昨年十二月に出たばかり。

篠原資明著『ほう賽句集』(二〇〇八七月堂・二〇〇〇円)巻頭を引用
してみる。

 
              一
              日       
              物
              云
              は
              ず放哉に賽振る
       一日物云はず
            蝶
            の
            影
            さ
            す


と、このようになっている。一目瞭然、尾崎放哉の句「一日物云はず蝶の影さす」の書き換え。本歌取り、であるとともに。一目瞭然、一行であった元の句の表記を崩しているし、(作の出来不出来のことではない)、放哉の俳句を自作の方法詩のマチエールにつかっている。
 われわれは ふつう、

  一日物云はず放哉に賽振る 篠原資明
  一日物云はず蝶の影さす  尾崎放哉

というように、一行づつ列記して、作者名をチャンとしるし、ここから、解釈と鑑賞をはじめる。視線でこのレイアウトを見ながら、アタマのなかで、篠原のならべかたを、一行にし、(ばあいによっては、縦書きの様を想像し)、この原句からの変換の技の鮮やかさみたいなものをあじわう。ついでに、どちらが出来がいいか、とか、こういう剽窃が好きか嫌いか、放哉にちゃんとお借りします、という礼を尽くしたはからいがあるか。(はたまた、そんな面倒が必要かどうか)。評価の基準はこういうところにもおよぶ。篠原は、「ほうさいさん」との関係をたちきるため、とことわって。自分の方法詩のルールに取り入れている。(何か、心憎い。わざありの一冊。)でも、「一日物云はず」、も「蝶の影さす」も切り離したら、べつにだれのものでもない、関係づけたときに、特定の人の意志によって言葉が定着し、作者が生まれるのだ。

篠原資明はこのような試みを「方法詩」となづけている。の概念は、いま、現代詩のなかで、詩とは何かという問いを承けるときに、一つの先端にある認識であり実践である。この詩集(句集)もこのように「尾崎放哉さんにおもいきってのめりこんで」出来たまるごと一冊「放哉」読みの詩句集である。尾崎放哉俳句への新しい角度からの「読み」とも言える。
これが、なぜ詩(句)であるのか、それは、篠原資明が一定のルールを作ってそれで一編もしくは一冊を詩(句集)集として構成しているからである。
あとがき引用。

元祖定家さんからは叱られそうなほどわずかしか変えていない句もあります。けれど、それが自分に課した規則だから、仕方ありません。いうてみれば、もとの句をできるだけ少し変えることで、できるかぎり趣きの異なるものを作り出すという規則です。

表記について 引用

くっつきそうでくっつかない関係とでもいえるでしょうか。このようにひんまがった関係によってこそ、放哉さんとの中途半端なありようを打ち切ることができたように思います。  (以上 篠原の本文)

私が思うに、この引用にあきらかなように、堂々たる本歌(本句)取りを持って、このように、書き表すことで、詩表現をなりたたしめる。ここには現代自由詩詩と現代定型詩をささえている幾つかの重要な考え方を提示しているのである。

まず、意味的には

1, 上部におかれた句は、尾崎放哉の句の解読である。
2, 尾崎放哉の句とできるだけ異なるおもむき(新しい作品)を提示する。
3, 「くっつきそうでくっつかない」、「釘のように折れ曲がった表記」といわれる句の書き方は、放哉と自分の「中途半端な」関係の「ありよう」を自覚的に視覚化している。(堀本註「括弧」内は、篠原資明の言葉。
4,本歌と新しい句の相互作用を読者に暗示する、(「読み」と「詠み」のあり方が、ふつうよりもずっとインタラクティブなのである)。」

それから、形態的には、

1,本歌取りという方法を課した「詩篇」であるということ。
2,俳句(自由律俳句)をワンセンテンスにした二句一組が一作品である。
4, 自由詩と定型詩の合体。
5, 極めて、ビジュアルである。
6, 作者がルールを決めた詩。(詩についてのあらたな定型の提案)

他にも、母の三回忌に出版するとか、句の数も四国八八カ所、西国三三カ所、をあわせた一二一句であるとか、個人的な、余人とはかかわりない恣意的なきっかけがルール化されている。あたかも、俵万智の歌集『サラダ記念日』の歌のように、生活の中の偶然のできごとがくみあわされてできあがっているのである。

篠原資明は「方法詩」と云う新しい詩作の概念を提唱している。「方法詩」は、これはくわしくよんだことがないので、ネット検索の知識だけで云うと、篠原は「超絶短詩」といって、たとえば、言葉の読み方をまったくこわし、間投詞などにおきかえて、別の意味を発見するのである。

 「嵐」 → 「あら、詩」 (篠原の提示した超絶短詩の例。

というように、従来の意味をまったく解体してしまい。全くべつの詩的文脈に置き換える試みを発表している。一行か多行か、と言う分け方で詩のジャンルを区別しがちな従来のジャンルの考え方が、覆されることになる。

(各自、検索して、篠原資明のホームページ「まぶさび庵の扉」、または「方法詩」「純粋詩」「超絶短詩」、などの項目をかかげているブログにいってみて欲しい。理屈はそうむづかしいものではない、むしろ昔からあることばあそびの「べんけいがな。ぎなたをふ。りがざして」などいわゆる「ぎなた」読みを想像させる。)

「 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を、資料的に信頼していいのかどうか、こだわってしまうのだが、下記の記述は、松井茂達のだしている同人誌「方法」誌上にも、同じ言を眼にしたので、そのまま引用する。

「方法詩」について 引用。

方法詩(ほうほうし)は、新たな型を自ら提案し、その型に即して詩作するという行き方をさす。篠原資明が詩集『サイ遊記』(1992年)により提案・実践したものを嚆矢とする。篠原によれば、詩作のタイプは三つに分けられる。定型詩と偶成詩と方法詩である。伝統的な定型からの自由を謳歌するあまり、現代詩は、行き当たりばったりの言葉の羅列に堕してしまった。自由詩というところを、あえて偶成詩と呼ぶのは、そのためである。定型詩でも偶成詩でもない、第三の道、それが方法詩なのである。なお、超絶短詩という詩型もまた、方法詩の一種である。

方法詩は、画家の中ザワヒデキ、詩人の松井茂、音楽家の足立智美などによる方法芸術の立ち上げにも影響を与えた。松井茂もまた、方法詩人を名のっている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B9%E6%B3%95%E8%A9%A9
                 (以上、引用と参照ブログ)

彼らは、美術 音楽にまたがる方法芸術の実践者である。考えてみれば、俳句にあっても「句またがり」の箇所にくると、五七五の文節に併せて読むので、その意味が壊れて句の世界が立体世界のように揺らいでくる意味の ポリフォニックナ展開。それを頭の中でまた統合して、多義的な世界を味わいつつ、統合して行く過程が、句を読むと言うことである。篠原の「超絶短詩」も方法詩のひとつであるが、(もちろん、カリグラムの方法が昔からこころみられてはいる)、それが今の言語感覚の中であらたな意匠—想像力の源泉になりつつある。詩の分野での、「多行の」自由詩という行常識の崩壊は、こういう形詩のフレームの改変をともなっている、すごくおもしろい現象である。

【番外。俳句の類想問題—「いきいきと」】

かつて話題になった盗作問題の二句を想い出す。

いきいきと死んでゐるなり水中花  櫂未知子
いきいきと死んでをるなり兜虫   某女史(発表後作者が非を詫びて取り消す)

作者名は消されしまったのに、記憶だけがひとりあるきして有名句となってしまった、よくある例だが、こう短期間に伝承化するのはあまり聞かない。この喧嘩で、勝利したのはいったいだれだろう? 
趣旨からすこしずれてくるが、これも、上記のように堂々と本歌取りを試みたのなら、かえって生産的な議論となったろうに。

【番外 「三島忌の」】

もう一つの例。中村安伸のブログ参照。
http://yasnakam.cocolog-nifty.com/blog/2006/05/post_47ee.html

三島忌の帽子のなかのうどんかな 攝津幸彦
三島忌の帽子の中の虚空かな   角川春樹

かつて中村安伸が発見指摘した、紛れもない本歌取り。(私も攝津への身びいきから、いささかむっとして、この「事件」を北の句会で出してみた。取り上げてみた)。「俳句空間—豈」にも一文を書いた。( 「俳句空間—豈」43号攝津幸彦論特集・堀本吟《帽子の中はうどんか虚空か》 )。

しかし、こういう類句や盗用にかかわる疑問も、篠原のように「方法俳句」というような発想のなかで快活に発展的に考えることができる。ルールをきめて、原句の作者に敬意を表した扱いをすれば、道義的な問題は起こらないはずであるし。それぞれの作品から、あらたな言葉の世界が生まれてくる。

【番外。「本は凶器」】

一月十日の神戸文学館、パネルディスカッション【震災と神戸と文学と】(大橋愛由等司会)で、私がパネラーのひとりになったときに、資料を探していて、その準備の途中でみつけた次のような句歌。

  本は凶器 本本本本本本本本本本 本の雪崩   道浦母都子
  氷河のごと蔵書流れて襲いきぬ         和田 悟朗 

この短歌は、震災の刻に出版された『悲傷と鎮魂—阪神大震災を詠む』(一九九五年、四月・朝日出版)。和田悟朗のこの俳句は、阪神淡路大震災—(平成十年・現代俳句協会関西地区議会事務局編)に掲載されている。いずれも、震災の実際的な恐怖、家屋倒壊などの被害にあった表現者の作。篠原に寄れば、詩のできかたには三種類あり。「定型詩、偶成詩、方法詩」だそうだ。その検討はともかく、道浦の短歌などはいわゆる「短歌の構成」とは違っている。縦書きにしたらもっとこわい。かつユーモラスだ。本箱のようなユニットにわけられる構成を利用して。この単語をこっとバラバラにおいてみたらもっと実感が湧くかもしれない。 
 
企画の趣旨を外れるかも知れないが、「悲惨」を詠いながら、何処かこういう解体の想像力があざやかなのだろうか。「本は凶器」「蔵書」は「氷河の如く」「襲う」のであるが、同時に、このようなカタストロフィによってそれをきっかけに「本=書物=言語物質」の世界があらわれる。現実世界とそれを原景にした想念の風景が、いくえにも絡み変形して行くのである。
「方法詩」というのは、一時のはやりともおもえない。抒情が全面に出てきた今までの自由詩の、「改行」の地盤がすこしづつ弛んでいる。また、一行を前提に俳句を説明したとしても、それは定型詩の構成を十分語ったとは言えなくなる。篠原資明のとなえる「方法詩」は、詩的表記の考え方があらたな場面に入っていることを示す。

またまた話がとんでしまったが。とりあえず。       (この稿了)

【まとめ】 詩行の概念がくずれる実例、 『ほう賽句集』
 篠原資明のとなえる「方法詩」は、あらたな詩的表記の考え方をしめす

参考
《書物の影》  目次
0-はじめに
第一回【まとめ】 書物の死をめざして自己書物化をはかる            
一章—自己書物化への陳述(個人的思考としての思索)
第二回【まとめ】 自己書物化の一例 「筑紫磐井という書物」          
    【 筑紫磐井のウェブ評論の目次の作り方。 磐井的「切れ」の説明、要旨】
第三回【 まとめ】改行による数千行のアフォリズム(言葉の機能をみきわめる批評軸の一例)
第四回【まとめ】「評論詩」の概念について。
 磐井詩学では、改行の恣意性によって無限に「詩」行がうまれる。かつどこでなぜ改行する
 か、というところに。「切れ」の論理が適用される。三段論法めくが「改行」→「切れ」→「
 発語者の思考や呼吸のと切れ」というかたちで、形式に生理的な恣意性が入り込んでくる。
 磐生的機能主義の不思議な自己矛盾。 
第五回【まとめ】第一章は、筑紫磐井理論との対話の部屋である。
二章 句集、詩集評
第六回 A−1
【まとめ】 詩行の概念がくずれる実例、 『ほう賽句集』
 篠原資明のとなえる「方法詩」は、詩的表記の考え方があらたな場面に入ったことを示す。

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書物の影 第五回・・・堀本 吟   →読む

1 件のコメント:

さんのコメント...

本稿を読んでくださる方、どうもありがとうございます。急いで書いたので(急がなくても、であるが)例によってまちがいが多く、編集部に無理を言って校正し直して全編差しかえてもらいました。だから、上記の文章は、日曜昼間の文章とは若干違っていることをお知らせしておきます、文意は全く変わっていないので、これで読んでください。しかし、まだでてくる校正洩れ、気づいたところを訂正しておきます。


愛想やイデオロギーの固定化、
 ↓
思想や


十字科のようにクロスしたり、
 ↓
十字架


美術 音楽にまたがる方法芸術の実践者
            ↓
          「方法芸術」 


の ポリフォニックナ展開。それを頭の中で
 ↓
のポリフォニックな展開・・


何処かこういう解体の想像力があざや
 ↓
なぜこういう


の、「改行」の地盤がすこしづつ弛ん
  ↓
の、表記の定型であった「改行」の地盤がすこしづつ弛んで (以上です)
        堀本 吟