2008年12月14日日曜日

書物の影 第三回・・・堀本 吟

書物の影―第三回

                       ・・・堀本 吟

本稿は、号ごとに読み切り連載、読書ノートの類である。けれど、冨田拓也さんのファイルがそうであるように、ファイル機能を持たせたいな、と考えている。と言うより、このウェブの執筆陣の成果自体が、テーマを探している書き手や読者の知の自己編集をたすけるツールになるはずである。

言語空間をモノするためには、紙や液晶画面のような二次元物質であるのは不合理だ。アイディアは、文章がすすむにつれてたいていいくつかに分岐して枝分かれする。気がついたら、まるで歌仙の場面がつぎつぎうつってゆくように、書き始めと全くちがう場面と文脈を右往左往して這いまわっている。それでも、
ふしぎなことに最後には最初のテーマに戻る。
そのまとめをコンパクトな言葉にまとめて始めにもどしてから、いちおう文章を終え、新たに派生したテーマをつぎの題材にする。

散文体の作り方も一人一人が違う。大体が、文章として発表するときにはタイトルが最初にでてしまうから、文章とは、言葉が置かれた順序に思索がすすむように見られるが、必ずしもそうではない、自分の心理とテーマの論理性をかねあわせて、俳文のスタイルを作る苦労は、韻文詩でも散文でも同じことである。たとえば、私の理想は、原稿用紙が立体的にそれも色違いの紙をまるめて、白の面にはA、赤の面にはBのことを書きつけるとか(たとえば、の話である)、そんな脳内の「我惟う」の姿を、普通の形の散文にすることがむづかしい。そこまで、展開してみたいときがある。
この一回分だけ読み切りのエッセイ。と共に、全体としては、全てのモチーフがライフワークのテーマ『書物の影』にくみこまれてゆく。

第一回(目次)  
0−はじめに
【ウェブ「俳句空間—豈—weekly」創刊の意義】
【本誌活用法 1 評者が責任を持つ限り 字数の制限がない】
【本誌活用法 2 地域を越える情報誌】
【本誌活用法 3 「我惟うゆえに我在り」書物になるために堂々と引き籠る】
【第一回まとめ】 書物の死をめざして自己書物化をはかる

第二回(目次)
1章—自己書物化への陳述(個人的思考としての思索)
【 {俳句実作入門講座4『季語と切れ字と定型と』(廣瀬直人編・角川書店)}
【 目次を写し取る効用】
【 すこしだけ内容紹介。筑紫磐井の季語の定義にふれて 】
【 筑紫磐井という書物 】
【 筑紫磐井の両義性 】文
【第二回まとめ】 自己書物化の一例 「筑紫磐井という書物」

          *****

第三回 (承前)

【筑紫磐井のウェブ評論の目次の作り方】

本誌、筑紫磐井の「作品」現在まで「15」回分。それぞれかなりの長文である。ここの皆さんなべて毎週毎週、ほかの仕事もこなしながら、よくやれるなあ、ほとほと感心するばかり。とりわけその磐井氏の目次の作り方を見てみることにする。これは、いわば彼の思考過程をスムーズにゆかしむる思考のフォーマットである。ここには磐井流の正直な思考過程、彼の志す俳句批評の構成論といったものを垣間見ることができる。

目次抜粋〔「俳句空間—豈—weekly」〕バックナンバーより

■第17号2008年12月7日発行■時評風に(現代俳句の可能性/作品番号15)筑紫磐井
■第16号2008年11月30日発行■評論詩(切れについて6 又は岸本尚毅の『俳句の力学』) (作品番号14)・筑紫磐井
■第15号2008年11月23日発行■評論詩「切れについて5又は新しい切れと切字」(作品番号13)・筑紫磐井
■第14号2008年11月16日発行■評論詩「切れについて4又は浅野信批判」(作品番号12)・筑紫磐井
■第13号2008年11月9日発行■評論詩「切れについて3 又は現代切字論考史」(作品番号11)・筑紫磐井
■第12号2008年11月2日発行■評論詩「切れについて2 又は序詩」(作品番号10)・筑紫磐井
■第11号2008年10月26日発行■評論詩「切れについて」(作品番号9)——西郷信綱氏の亡くなりし日より——・筑紫磐井
■第10号2008年10月19日発行■予告編風に(番外)・筑紫磐井
■第9号 2008年10月12日発行■記録風に(攝津幸彦十三回忌/作品番号8)・筑紫磐井
■第8号2008年10月5日発行■時評風に(安土多架志資料編/作品番号7)・筑紫磐井
■第7号2008年9月28日発行■時評風に(安土多架志/作品番号6)・筑紫磐井
■第6号2008年9月21日発行■時評風に(坂巻純子/作品番号5)・筑紫磐井
■第5号2008年9月14日発行■時評風に(武藤尚樹/作品番号4)・筑紫磐井
■第4号2008年9月7日発行■時評風に(猪村直樹/作品番号3)・筑紫磐井
■第3号2008年8月31日発行■時評風に(前田透/作品番号2)・筑紫磐井
■第2号2008年8月24日発行■時評風に(伊藤白潮/作品番号1)・筑紫磐井


書き写し(コピーし)てゆく途中、読む人も自ずからフォーマットの作り方は解ってくる。特徴的なこと(私自身の構成法とすこしばかり似ているので、理解しやすい、そして、私よりもっと頭の良いまとめ方である)。

最初に決められている要素は「署名」と「作品番号」。更に詳しい構成は、その号「時評風に」と言うタイトルで現在旬の俳句作家や夭逝俳人の紹介がされる。その号ごとに、つぎつぎ付け足してもいいようにつくられているのだ。「予告編風」にイベント(摂津幸彦十三回忌)。「記録風に」、それから「評論詩」と言う形でまとめて「切れについて」が11号から16号まで。17号では、「時評風」に、と戻っている。「時評風」に、のなかで取り上げられた夭逝俳人については、それぞれに関心があるものの、今はパスする。(このように、私の切り口から別の関心が同時にたちあがり別の系列をもとめようとしてくるので、私としてはこういう情報の整理の必要とともに、より深い俳句表現にはいる別のバイパスの開拓への道が欲しくなるのである。)

ともかく、筑紫磐井という俳句界の知識人と呼ぶにふさわしい人が、)また、範囲の俳句への情熱ひとすじに俳句文学論的な思考展開をしてきたこれまでの作家や批評家と違うところは(文章書きのスタイルとしては、一般化しているのは、恩田侑布子、中村安伸らの文章、私などの個々の評文にみられる、冨田拓也のスタイルは少し違う)、自分の脳裏に湧く観念の束を、ひとつひとつユニットとしてコンパクトにまとめ、(たとえばレゴの幾つかの色の、しかし、単純な矩形の各パーツを想像して欲しい)、書評なら書評、作家論なら作家論、という、特定テーマの連載文が、順番にでて何週目かに完結する、それ自体をひとつのユニットにして行く、頭の中に生じる幾つかの構想をその都度組み合わせ可能なユニットにまとめ、切り替えて差し出す。読者の関心に応じられるように自前の体系に対応するチャンネルを差し出しながらすすんでいる。彼の言説にあって重要なのは、「切れとはかくかく」、「季語とはしかじか」等々の定義とその実証を示すことはもちろんだが、もっと重要なのは、自説をわかりやすいように展開して行く過程構造(フォーマットの制作過程)を、それと言わずして展開していることである。

【彼の目次構成は彼の論の立て方を展開するものである】

「俳句空間—豈—weekly11号」(08/10/25)

本文引用

「評論詩「切れについて」(作品番号9)——西郷信綱氏の亡くなりし日より——・筑紫磐井」
(本編を読むのが負担な読者は、末尾に概要を付したのでそれから眺められたい。それだけでも結構十分であると思う)

 
とまずいう。その説明がはたされ、

「同」文末から引用 
[概要抜粋(散文)]
㈰定型詩学的に「切れ」とは、我々に提示された<文素(単語と見てよい)の集合体>(文)の中で文頭文末以外の切断をいう。
㈪第1種切れ(始源的切れ)は日常的言説から歌謡を差別するための必須的・準客観的切断である。
古代歌謡において、「歌謡が存在する」とは、「反復が見える」「切れがある」と同義である。
㈫第2種切れ(恣意的切れ)は定律詩の息継ぎとして設けられた個人的切断にすぎない
㈬第3種切れ(ジャンル創造的切れ)は第2種を踏まえて、差別化・ジャンル創造のために導入された切断、というよりこの切れによってジャンルが発生た。
㈭第4種切れ(強制的切れ)は既存ジャンルから差別化するための第2の始原的切断であり、「改行」とも言う。


これらの文意はじつにわかりやすい。とともに、マニヤックなほど分類にこだわる。しかも、既成の「切れ」の概念とは違う定義がここで下されて、その実証のための旧い詩歌の引用がふんだんにもちこまれるので最後のまとめだけで解った気になってはいけない、と我々は知る。短くまとめらたそれは、既刊『定型詩学の原理』『近代定型の論理』『詩の起源』の、膨大な文献引用が背後にあってでてきた抽出液のようなものだからである。(標語とはそう言うものである。しかし、そういう直感的にことの本質を理解せしめる要旨のような「目次」のような導入がなければ、彼の言いたいことは、なかなか伝わらない。その目次は俳句みたいに省略されきった短い項目が連なっている。しかし、この更に要約が、俳人は、「切れ」について沈黙しなければならない。ということだから、ここだけ最初に読んでもなんのことか解らないが、いまのところべつにわからなくてもいい。不思議な反語(なのだろう?)を抱えて、文章の流れに入ると、、これはまるで、象徴的な一行詩のようでもある。文末のこの奇妙な結論が従来の「切れ」認識を批判している、と言うことがよくわかる。

最後にこういう沈黙へ誘いながら、ここでは、四種類の「切れ」のあることを例によってえんえんと引用して説明されている。(常設と言うほかはない。)

彼が俳句(定型律)を俳句たらしめる要素のひとつ「切れ」が、「息継ぎ」とか「スペース=改行」上で識別できる範囲のもので良いのだ、という彼の趣旨を理解してゆくのである。この二種と四種を理解すれば、現代俳句の「切れ」の問題をカバーできる、というのである。

引用
私はこう言おうと思う、
定型詩学【注】的に「切れ」とは、
我々に提示された<文素(単語と見てよい)の集合体>(文)
の中で
文頭・文末以外の切断をいう。
文頭・文末の切断を「切れ」と言わないのは、
それがむしろ提示の仕方の問題だからである。
文頭・文末は提示した人(オールマイティな神)の
与えた条件であり、
提示される側が解釈すべきものではない。
このように考えると、
日本歌謡において「切れ」は4種の原理として出現している。

○第1種切れ(始源的切れ)
   (1)要素反復の切れ
   (2)構造反復の切れ
   (3)沖縄クェーナの切れ
○第2種切れ(恣意的切れ/息切れ)
   (1)短歌の切れ・長歌の切れ
   (2)句読法
○第3種切れ(ジャンル創造的切れ)
   (1)発句の独立(文末を作るための切れ)
   (2)付句の独立(冒頭を作るための切れ)
○第4種切れ(強制的切れ)

【注】筑紫磐井が『定型詩学の原理』(2001年9月刊)で提唱した体系で、ヤコブソン詩学を一層推し進め、詩の内容を捨象し、形式分析を行う。以後『近代定型の論理』『詩の起源』に展開した。

というようなところ。
「文頭・文末以外の切断をいう。」という言い方は、やはりレトリックとしても巧い。(詩のようである。)

古事記の長い歌謡の引用を示しながら
「歌謡」と俳句などの定型律を区別するときに必要なのだ。と言うくだり・、

引用
膨大な反復から成り立つこの古代歌謡も、
実は反復を見つける瞬間に
我々はそこに切れも同時に発見しているのである。
(作品9)

というところ。ここは、先年、大阪で『定型詩学の原理』の学習会を開いたおりにも、やはり記憶に残っている。「反復」と「切れ」を同時に説明できる、
と言う指摘も、これは、こういう切れという技法の構造を説明するのにみなおなじことをいっているのだが、要は切れながら関係し合っている状態が誰にも浮かぶらしい)。五,七,五,七,五と無限につづくところを、途中で切って「一句」にするために、どこかで終わらせることを必要とする。そのときに意味やリズムの断絶が生じる。これは、わかりやすい説明である。
とともに、決して解りやすくない抽象語が羅列してあり、こういう飛躍は「詩的」といってもいい。

次の■第12号2008年11月2日発行■評論詩「切れについて2 又は序詩」(作品番号10)では、「改行」を実践しては評論を、詩として認識せよ、とい暗黙の指示を出している。

引用 (作品10.「俳句空間—豈—weekly」12号。)


かくて私は論文をすべて改行してみた。
これを、評論を詩で書くという。
詩にふさわしくない叙述は多少削除し、変形させ、
詩が語るように「切れ」について語らせてみた。
散文では書けないことをつい口走っている。

4.評論詩と切れ
特に今回そこで論じられるのは「切れ」である。
詩で俳句を論ずることはローカルである。
俳句を論ずる際に「切れ」を論ずることは(俳人が見ても)
更にローカルである。
ローカルの中のローカル、
そこに自ずと俳句の精神が生まれる。
現代詩は9.11テロと湾岸戦争を論ずるべきである。
評論詩は「切れ」を論ずるのである。


従って、一見結論のように見える「俳人は、
「切れ」について沈黙しなければならない」という
詩人(私)の言葉を信用してはいけない。
これは俳句の末尾に切字「かな」をおくのと同じように、
評論詩の伝統なのである。
俳句らしさを感じさせるための技法なのである。
では評論詩とは何か?まずもって、
「評論詩」を書くことが俳句的なのである、
評論詩で「切れ」を取り上げることが俳句的なのである。


ひじょうに人を食った散文の叙述である。ウェブの文体では改行が重要になる、と、すでに指摘しているが、散文と詩、俳句と自由詩の句別は、どちらも改行の多い文章、と言うことになる。この、改行した、文章で、「切れ」を取り上げることが俳句的なのだ、と言う結論。これは、先の号(11号の)

㈮俳人は、「切れ」について沈黙しなければならない。

の、アフォリズム風或いは一行詩風な結論をむすびついてくる。改行し、詩のように書いたから、文意にも詩の技法があらわれる、(飛躍とか比喩とかの意だろうか?)しかし、

従って、一見結論のように見える「俳人は、
「切れ」について沈黙しなければならない」という
詩人(私)の言葉を信用してはいけない。
これは俳句の末尾に切字「かな」をおくのと同じように、
評論詩の伝統なのである。
俳句らしさを感じさせるための技法なのである。


と言う説明を加えてそれを信用するな。言うのである。(では、この「評論詩」において、何が彼の真の言説なのだろうか?)

筑紫磐井の、オリジナルな新説かどうか、ここではその署名性が問題なのではなくて、評論詩(改行された散文)として俳句をそのうちの「切れ」というローカルな話題を論じる、こういうスタイルを、俳句的技法を駆使した俳句評論のすタイルとして彼は差し出しているのである。

筑紫磐井の今回のまとめは、切れの問題を、反復の切断(文頭文末以外の)を「切れ」といい、息継ぎ、句読点、改行という書くときの身体的な技術で説明する。
これらの内容、文章のスタイルが改行詩もどきでも、普通のいわゆる散文形式でも、刺激的な論であることは間違いない。
私が、この評論詩を評論文(言説、としてうけとるかぎり、この「詩行」は、立派な評論分となる。

このペダンティックな語り口で書かれる「詩?」のなかの「切れ」論」の要旨がわかったので、参考までに、教科書的にまとまられている「切れ」の解説を載せておく。

【「切れ」という概念をどのような言い方で説明するのか?】

因みに、『季語と切字と定型と』(『俳句実作入門講座4 廣瀬直人編・角川書店
では、それぞれの執筆者が、俳句の重要な要素として「季語」と「切れ」が、在ることに、言及している。私などが叱られるときの根拠としての「俳句の基本形」については、廣瀬直人、矢島渚男、などが、キチンと定式化して講釈している。

廣瀬直人

引用
この「切れ」があることによって、五・七・五の短い詩型のふくらみが、生まれるのである。(廣瀬直人《有季定型の魅力—独断と省略の文芸》。

その例、として、引用。

  古池や蛙飛びこむ水の音 松尾芭蕉(蛙合)

の「や」の切れは、季語の「蛙」とともに一句を支える一句の表現の柱となる。(同文中) 

これは、形容矛盾と言うべきだろうが、「切れ」の技法や精神は、このような形容矛盾としてしか説明出来ないところがある。


矢島渚男

また、同書の《切ること−や、かな、けり−》(矢島渚男)は、連歌で、「発句」の形式が完成して行く過程で、発句の基本的約束がととのい。それが芭蕉によって完成されたことを説明、現代の俳句にそれが継承される、と書く。

引用
このような歴史的経過から、発句は「五・七・五」「季語」「切字」を三つの基本的要件とするようになり、連衆にたいする挨拶性や即興性という要素が大切とされ、更に俳諧之連歌になって俳諧性(滑稽)も重要な要素として加わった。こうして出来上がってきた発句の基本的な性格は、蕉風俳諧で高い達成を見せて明確なものとなり、今日の俳句まで継承されてきているわけである。(p144)

このように(堀本註、芭蕉の切れ字の使い方を例に、切ることによって余韻が生まれることを指摘)、発句は閉鎖的に孤立して他者を拒むものではなく、他者に心を開いて他者を誘い込む働きが必要であった。発句は脇句を誘って付けさせるものでなければならなかったから、単一の情景や解釈を入れるさまざまな解釈を入れる− 一座の者や読者が入り込める −余地が必要であり、イメージの広がりや余韻を持つことが大切であった。
つまり、優れた発句は現代流に言えば解釈の多様性、多義性を持たねばならない、ということになる。
(p146)

「や」が取り合わせ−いわゆる二物衝撃に適する切字だとすれば、「けり」は、一物仕立ての句に適する切字である。/略/俳句が切れるということは、作者の精神が切れることが必要である、ということである。(p151)
切れ字には言い切ると言う精神が何よりも必要なのではないだろうか?(p153)(以上 矢島渚男)

【磐井的「切れ」の説明、要旨】

この矢島の「切れ」の説明の形容は、筑紫磐井の「反復」同時に「切れ」の「定義」の形容にちかくなってくる。
要旨
我々に提示された<文素(単語と見てよい)の集合体>(文)
の中で文頭・文末以外の切断をいう。
日本歌謡において「切れ」は4種の原理として出現している。
○第1種切れ(始源的切れ)(堀本註・反復の説明)
○第2種切れ(恣意的切れ/息切れ)
○第3種切れ(ジャンル創造的切れ)(文頭、文末をつくる切れ)
○第4種切れ(強制的切れ)

にもかかわらず、発句に切字が要請されているのは、
単純に切れが要請されているのではなく、
独立性を要請していると見なければならないからである。

筑紫磐井の「定型詩学」の言説のなかで、この「反復と切れ」の表裏一体の新しい言い止め方は印象的だ。
廣瀬直人は、「五・七・五の短い詩型のふくらみ」。「切れ」による句意の切断が同時に一句を統括する「柱」になる、といういいかた。これは、意味性からの説明である。

矢島渚男は、「一座の者や読者が入り込める 余地」「イメージの広がりや余韻を持つ」ことが大切であった、というのは、「座の共同性」と言う角度からとらえる。「作品鑑賞の多様性」これも意味、である。さらに、矢島は「俳句が切れる」ということは、「作者の精神が切れる」ことが必要である。/切れ字には言い切ると言う精神が何よりも必要。これは、モラル、決意を求めている。

実は、私も精神、情の機能を重視する立場であったから、(いまも基本的にはそうである)、この言い方でいいのではないか、と思わぬでもなかった。しかし。これでは、表現技法上「切れ」が必要になってくる理由がいまひとつ明らかにならない。

筑紫磐井にあっては、これらの要素は恣意的なものととらえられている(はずだ)。俳句に切れは必要になってくるほんとう理由は、
一定の反復感、定型感を感じさせながら、それを、終わらせる、という機能がもっとももとめられている。「切れ感」が日宇町であるときには、「切字」がもっとも効率が良いのである。それで、磐井は「切れ」論は、リズム、音数、という場面でだけ展開している。

和歌からの切断、「リズム」(反復)への注目をうながしたことが、従来の切れ論にたいして、筑紫磐井が打ち出したセオリーではないだろうか?これは、私の感想。
精神的な態度でなくて、リズムや息継ぎ、改行にこだわるこの考え方は、自由詩と俳句(定型一行詩)を区別するときにも、重要なものとして、うきあがってくる。「息継ぎ」や「句読点」などの休止、「スペース」は、すべて目に見えるモノである。彼は、切れの本質を、目に見えないもの、に置くことをみとめない。ないしは認めたくない。という考え方が披露されたときに、《切れ》というタイトルでの評論詩が、もつ ポレミックで扇動的な性格もあらわれてくる。

今回はここで留めるが、彼が、徹底した反精神主義(言葉の機能主義)の方法を展開している人であることが、私の興味の範囲になってきたことを書き留めておく 彼は、目に見えない(説明しがたい)ものに、何か本質があるような議論をつよく戒める(批判)しているのだ。
今号のまとめ 

改行されて生まれた数千行のアフォリズム
言葉の機能をみきわめる批評軸

 
(矢島渚男は、近代俳句での切れ字のある名句を上げつつ、正岡子規の写生主義が格調や、余韻よりも意味の面白さ強調、といい、子規の写生主義の極端な応用として、河東碧梧桐が非難され、高濱虛子がそれを復活させた、公式見解がおさらいされているが、「定型、切れ字による格調を重んじない傾向」と正岡子規が非難されている。ここは要チェック。高濱虛子が子規に比して格調が高いとは、私は思わないが、この引用のくだりをよみながら、「伝統俳句」という用語は、高濱虛子擁護のために、つくられた新しい言葉なのではないだろうか、と言う疑問がふと湧いてきた。)  この稿了

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