2008年11月30日日曜日

書物の影—思想のツールとしての書物の命運をさぐる第一回ネット内浮遊塵へと既刊の書物を散らす・・・堀本 吟

書物の影―思想のツールとしての書物の命運をさぐる
第一回 ネット内浮遊塵へと既刊の書物を散らす

                       ・・・堀本 吟

 0−はじめに
勇ましい言挙げも、繊細な美意識も、若いばっかりじゃぁおもしろくない。しぶ〜く、そそっかしく(ご承知のように、あまりに誤変換が多いものだから、そこが前もって気になっているが、しかしながら)私も書き始めることにする(もう若くないからといって、前期後期の高齢者ばかりを読者の対象にしているわけではない、そこはエイジレスでまいりましょう)。幸か不幸かものおじしない蛮勇の性分でもあり、ちょうど生活場面でも幾つかの心を引き締めるべき局面をむかえ、いまや私自身もそろそろ自分本来の思索のテーマにもどりたくなった。ということでもある。


【ウェブ「俳句空間—豈—weeky」創刊の意義】

このウェブ週刊誌「俳句空間—豈—weeky」は、印刷された冊子である俳句同人誌「俳句空間—豈」から派生して、俳句者の思念の動きにともなう独自の交通路を開拓している。このスタイルの嚆矢たるべき「週刊俳句」(Haiku-weekly)とともに私の愛読書となった。書く人も必要だが読む人も要る。定着させたいからせっせとコメントしていたら、ある日、某氏から「あなたネットのフリークか」といいわれた。その意味がよくわからなかったが、褒め言葉ではないらしい。しかしこのウェブは書き言葉の世界でわが同人誌が新機軸として打ち出してゆくメディア、として、目下私がたいへん注目しているのである。高山れおな、中村安伸等の俳句メディア戦略についていちばん感心するところは、俳句という詩の創造の脇にあった散文批評への欲望に、はっきり方向付けをしたことだ。

俳句作品はその志で入ってきた世界だから誰でも、読む。でも、俳句について書いた文章は、好き嫌いが激しい俳人達は気に入ったものしか、あるいは直接指導をうけている先生のものしか誰も読まない、買わない。ここにとりあげられる評論集にしても、その読まれているものにもとりあげるテキストに偏りがあるようだ。送り手の批評家にもクセがある以上受け手にも好みがある。また、個人のネットワークの範囲の限界からして、媒介者が、既存の広範な書物を網羅することは不可能だ。テキストの偏向はやむを得ないが、一冊の書評のなかに理論化への意志があれば、それでいいのだ。要は開かれた思考の場であること。(この言い方は、本誌の最初の「誰も俳句などを読まない」という言辞の反対だ、)

でも、本を読んだら誰かにむかって語り(書き)たくなる、これも心理の必然である。このメディアは、こういう意識を持って短詩形領域を徘徊(俳諧)している私にとってたいへん有益な場所である。

【本誌活用法 1 評者が責任を持つ限り 字数の制限がない】

各自、個人の署名入りのコーナーで、長さもスタイルもあまり顧慮しなくてすむ批評の時空がここでうまれそうである。書き手がそれぞれ個性的に自分の責任で俳句批評の文体を模索できること。作品をつくるだけではなく、いま、冊子「俳句空間—豈」がとっている特集方式では叶わなかったひじょうに孤独な個人的な場所からの発言ができるのである。(親冊子である「俳句空間—豈」のいまの方向付けのメリットや必然性も私は十分理解しているつもりなので、その編集方針に異義をいっているのではない、お互いのメディアが、他の場所に入りきれない知の動きをひきうけようとしている。それでこのような独自のスタイルの週刊誌がうまれたのだとおもう)。このネット批評誌は、私達が韻文創造をこころざすさいにかならず立ち現れる散文精神の開示への方向が姿をあらわしてきた、その始まりだとも言える。筑紫磐井の評論詩の概念の提出はおおきな示唆であり、冨田拓也の近・現代俳句の資料作成などは、私達にとって検索可能な貴重な埋蔵財産になるだろう。

【本誌活用法 2 地域を越える情報誌】

また、現実的にこのメディアには有効な活用法がある。同人誌や俳句誌の使命のひとつには、参加者のネットの外での活動や関連の催しの情報交換のことがある。「お知らせ欄」では、私の位置であれば、関西の豈同人とその周辺の動きが東京へつたわり、さらに遠地のしょっちゅうは会えない同人やもっと広い範囲での知的な関心を呼ぶことも出来る。ジャーナル誌として、この迅速性と広域性はたいへん有り難い。(良くないことも伝わりやすいがこれは良識でのりこえよう)。こういうことをもろもろ思い至り、この画面で、おおきな複合的な知性の坩堝に成長しつつある「俳句空間—豈」のジュニアの独自の創造活動を、私もともに呼吸しておきたいのである。

【本誌活用法 3 「我惟う ゆえに我在り」書物になるために堂々と引き籠る】

毎日、何か本をひらいているのでそのつどなにかを考えてしまう習慣。デカルトほどには抽象能力をもちあわせていないものの、文字通り「我惟う ゆえに我在り」でやってきた私は、沢山の別の世界が「書かれている」。その中身を知りたくて、あこがれて一冊一冊買い溜めていった。わかいころは、洋服も化粧品も買わないで本や雑誌を買った。「買わないですむなら本屋になろうか」と思ったぐらいだ。だから本が手にはいりやすい大学研究者か図書館づとめをやろうか、とも。しかし、なぜかそういう風には人生がすすまずに、いまや文学主婦、いまや個人の家には収納しきれない「書かれた物」がつみかさなっている。成り行きで、俳句の本がたいへんたくさんある。此をどう始末してゆこうか。

読めば読んだで捨てがたく、いつか読もうとしてそのままに・・でもそれらがしだいにぞろぞろと書架をあふれ、廊下や階段ベッドサイドにとぐろを巻きリビングにもいつのまにか入り込む。私のだけではない、一家三人それぞれ関心の分野が違うから、その関心がモノ(イキモノ)となっているから、いまや非常事態というべきありさまである。すでにそれは独自に自分の時間を生きているページの中の在る世界があきらかに生きている。そのごまんとある書物の中に人生のあやも心の真実もみんな書かれてしまっているような。

遊び道具がいまほど豊かではなかった時代には、外にでたがらない女の子にとっては、知識との遊びがいちばん安上がりであったから、こうなったのだ。じつに本はステキな玩具だった。

「白雪姫」や「シンデレラ姫」、絵本から始まって、そのうちロマンチックな恋愛小説。推理小説、時代もの、ともかく本を読むことから遊びは始まったのだ。本だけ読んでいたわけではないが、昼間の出来事を、夜半に本の中で総括する習慣が付いてきた。

ただの思考の断片は文章となり、自説をもりこんだ論文となり、閉じられて、冊子となる。やがて、その集積に美麗なカバーがかけられ私の精神が一冊の書物となるまで、本を読む貪婪な行為—自己書物化の志はとどまらない。

青春期から五十年、いつしか「本」と言う言い方が、「書物」に呼ばれ変わってきたものだ。「文字が書かれていて言葉がつまっている物体」・・・書物。
たった一冊も積もれば山。五十年買い込むと、思いがけない厚みや思いがけない重量は驚異であり脅威である。また、どれもすこぶる装幀が美しい。でも、私が、このまま認知症にでもなったら、積み重なった美しい塵の山のために大けがをしかねない、置き残して死んでしまったら残った家族に大迷惑をかける。

けっきょくゴミに出さねばならない本ならば、多少はリサイクルしようとおもった、しかたがない、書を捨てよう街に出よう。だが、その前に書物を抱えて引き籠もろう。永年の蘊蓄を浮遊塵にしてパソコンのなかに沈めることにした。「紹介したい句集がたくさんあってとても手がたりない、寄稿者にもバラエティがほしい」、とれおなさん達も参加をよびかけていることだし・・一石二鳥とゆくかどうか解らないが。
家の中のそれらの本からとりだして、ここに訪れてくださる方との共通のテキストにする。野暮な誘いをするつもりはないが、まだ、書物を糧にする時代がおわったわけではない。過食も美食も偏食も悪食も本人次第と言うべきだろう。私は、なぜか(それ故にまた)モーレツに、邪魔にし始めた「書物」がいとおしくなってしまったのだ。

このような心いきさつと家庭の事情から、私の人生のかげとなりひなたとなりよりそってくれた分身である書物の山は、ぎゃくに主人のように我が家に居すわって、私の生活がその影になっているような気になってきた。
 「書物の影」というタイトルをかぶせてわたしは幾つかの評論やエッセイを書いてきたが、今回がもっとも個人的に切実な動機である。

 1 —自己書物化への陳述(個人的思考としての思索)

いや、世の中には、題名が暗示するとおりの精神の見えぬ流れがある。本が、或いは情報主体である人間の価値観や実生活のほうが、むしろそこに引きずられる影ともいえはしないだろうか?つまりわたしの文章は、書物によってしか快楽をあじわえない書物フェチッシュの自己書物化の陳述、ということとなる。自分の書物化など考えているヒマがないほど他人が名著をつぎつぎと差し出してくるので、それを開けて「我惟う ゆえに我在り」をやっているうちに、いつか歳月がたってしまったところがある。今回、れおな達の心意気に投合してともにこの場をもり立てようと言うこともあるわけだが、じつは私の興味はもっと個人的である。ページを開くだけで別の世界がはじまる、書物と関わることで生じるこの異界体験、これが一番の快楽に値する。そういう別の世界を抱き込んだブツに出会いたい。これが、私の大願目なのである。快楽の中で自己の死に出会いたい。これこそ人間の生の最終的な願望としての知の快楽、知の血肉化、ではなかろうか?

こうして一冊の書物を座右に置いてキーを打つことで、何かの書き言葉の世界が始まり、あまつさえよほど問題がないかぎり投稿すれば載せてくださるというのだから、これは、じつにありがたいことだ。このユニークな週刊誌の編集姿勢の偏見のなさに感謝するばかりである。さて、そのモチーフは、その時々の「本」という形でおくられてくる言葉との対話、そこに触発される思索の断章、だと言うことにしておく。
で、何を書くか、と言うことは、読んでいていただくほかはない。ともかく、
当座は日録風に散文的にメモをして、その短い集積をまとめゆくことにする。出来るだけ、毎週お目に掛かります。
何かを始めるときには、傍らにかならず書物がある。詩集や句集や、いろんな評論、そのページを開いたとき、同時に私の中の白紙のノートが開く。読むと言うことによって書くことが始まる。
これがホンとの関係のはじまりとおわりの円環構造である。 

で、本編のスローガンは まず

  書物の死をめざして、自己を書物化しよう。

ということで、頭脳の天のどこかから聞こえて私を書物にむかわせようとしてくるこのシンボリックなご託宣のような正体のわからぬ声を理解する者前に出よ。

        (参照・—玉音を理解せし者前に出よ   渡辺白泉『白泉句集』)

(次週につづく)



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