2008年12月21日日曜日

書物の影—第四回・・・堀本吟

書物の影—第四回


                       ・・・堀本吟

本稿は、号ごとに読み切り連載、読書ノートの類である。この一回分だけ読み切りのエッセイ。と共に、全体としては、全てのモチーフが堀本吟のライフワークのテーマ『書物の影』にくみこまれてゆく。

0-はじめに
【ウェブ「俳句空間—豈—weekly」創刊の意義】
【本誌活用法 1 評者が責任を持つ限り 字数の制限がない】
【本誌活用法 2 地域を越える情報誌】
【本誌活用法 3 「我惟うゆえに我在り」書物になるために堂々と引き籠る】
【まとめ】 書物の死をめざして自己書物化をはかる    (以上 第一回) 

 
1章—自己書物化への陳述(個人的思考としての思索)
【 {俳句実作入門講座4『季語と切れ字と定型と』(廣瀬直人編・角川書店)}
【 目次を写し取る効用】
【 すこしだけ内容紹介。筑紫磐井の季語の定義にふれて 】
【 筑紫磐井という書物 】
【 筑紫磐井の両義性 】文
【まとめ】 自己書物化の一例 「筑紫磐井という書物」  (以上第二回)


【筑紫磐井のウェブ評論の目次の作り方】
【「切れ」という概念をどのような言い方で説明するのか?】
【磐井的「切れ」の説明、要旨】
【まとめ】 改行されて生まれた数千行のアフォリズム
         言葉の機能をみきわめる批評軸    (以上 第三回)
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第一章続き
【 「評論詩」とは 】

筑紫磐井の評論が、この号に掲載されて。いたちごっこの状況を成しているので、双方チョット困った顔をしているのであるが、内心はアマリコマッテイナイ。私の文は、とくに第一章は、「俳句論」関係だからいわば追跡調査みたいなものだし、磐井の既刊著書や、句集や、また別人の関連書のはいる、文字通り《書物の影》の跳梁である。
そのうち、べつのモチーフに移ってゆくだろう。

クリックすれば、筑紫磐井の連載評論は、となりのバージョンでよむことができる。万事ドジな私と違って、彼の評論は、発表された以上、後日活字媒体で発表(つまり書物化された場合にも)、文章や字句の訂正はほとんどないとが思うのだが、ここにはじめてさしだされている「評論詩」という概念やその叙述についてもそうだろうか? これは発展途上のものか、それとも、少なくとも筑紫磐井の定型詩学の原理のカテゴリー内部で既に定式化(原理化)されているものかどうか、いまのところ見定めがたいが、たいへん興味深い意見なので、中途段階の作業仮説であったとしてもチェックしておく価値があると思う。

筑紫磐井は、《評論詩「切れについて2 又は序詩」(作品番号10)》(「俳句空間—豈—weekly」第12号・2008年11月2日)に、「評論詩」について、かなり詳しい説明を加えている。

以下筑紫評文の引用「目次」はこのようになっている。(全項引用)
1.私が評論詩を書く理由 
2.『老子』について 
3.ウエッブの文体
4.評論詩と切れ 
5.無粋な解釈詩学、粋な定型詩学 
6.切れの定型詩学的分析
7.句読法の歴史
8.歌人の切れ
9.川柳・俳句の切字論争
10.芭蕉・蕪村・子規と現代俳人

「評論詩」の例続いて引用本文抜粋

1.私が評論詩を書く理由 (の項全文引用)

「評論詩」の祖はアレクザンダー・ポープであろうか。
彼が「人間論」を書くに当たり、韻文形式をとった理由について、
①読者の感銘も深く記憶が容易である、
②このようにして書いた方が
短い言葉で表現できるからである、と述べている。
アリストテレスは「かかる韻律を用いたエムペドクレースの哲学詩は
詩ではない」といっているが、
それならばなぜ韻律を用いたのかを説明できない。
ポープの方が直接的だ。
とはいえ一方で、韻文形式は論理を超越することがしばしばある。
しかし、「人間論」を論ずるに当たって、
論理を超越することが必要である理由がこれでは中々理解できない。

ポープやアリストテレスの考え方は
いささか便宜論に陥っているような気がする。
もっと高邁な評論詩の理念論があってしかるべきだ。
定型詩学は、形式が内容を生む、と見る。
改行することによって生まれる改行の精神がある、
改行すれば詩となる、
そこには詩の精神が生まれる。
これを求めてポープは「人間論」を書き、
エムペドクレースは「自然論」を書いたのだ。
散文では「人間論」も「自然論」も書けなかった、
あるいは、全然違った「人間論」や「自然論」になっていた。

高山れおな氏は私に対するインタビューで、
「文章の改行が多くて、
余白が大きければそれは詩だという、極端な逆転の発想があって、
こういうスタンスには、
一種の悪意みたいなものを感じる」(「豈」36号)といったが、
真摯に真実の姿を探究することは
好意以外の何ものでもないように私は思っているのだが。

かくて私は論文をすべて改行してみた。
これを、評論を詩で書くという。
詩にふさわしくない叙述は多少削除し、変形させ、
詩が語るように「切れ」について語らせてみた。
散文では書けないことをつい口走っている。

                      この項引用終わり

このあたりは、「詩」である。改行が彼の「恣意性で決められて」しかも、それが「強調」されている。
とくに

  詩にふさわしくない叙述は多少削除し、変形させ、

とか

  散文では書けないことをつい口走っている。

のところ。〔下線、堀本〕

(以下は評者の評論的な散文であるが—磐井の概念から言えば、評論詩である。私の場合は、当誌編集者のフォーマットを利用して、段落のところで一行あけるのでこれも「詩」としては都合が良い。なお、以下の文中、(括弧)のなかの措辞は、評者の心の中の呟きである。)
つぎに私は、「評論で詩を」書いてみる。

目下自由詩の方では、朗読詩が普通のスタイルとなるいっぽう改行に疑問を持った(飽きた)詩人達が、散文詩と言う手法に関心を向けている。

思うに、私の娘時代から中年期、昭和五十年代なかばごろまでは、詩の朗読、はほんとうにめづらしく、仮にもよおされても、紙に書かれた詩をあまり演技性もなく読みあげるていのモノだった。

(こんなへたなんをきかされるんやったら、吉永小百合かNHKのアナウンサーを呼んできて、もっと上手に読んでもろたほうがわかりやすいわ)

そのころおもっていたものだが。イヤ最近まで。
でも、友達の詩人たちがどんどん朗読をはじめるものだから、善良な私は、自分が実践するにはいたらないが、その考えを改めた。
すると、すると、今野和代や大橋愛由等や冨哲世福田知子たちの詩が、その声の中の言葉の意味がなんだかむねにせつなくぐっとおちてきてうまく理解されるのであった。
(書き言葉=読み言葉の詩も良いが、話し言葉=聴き言葉の詩もなかなか粋なものだ。)
(もちろん好き嫌いとか上手下手はこのさい不問に付すわけだが。)

また、かつて、キャリアのあるかなり名のある詩人が
「学術論文をそのまま書いて行き、詩としてさしだしてみたい」、といったことをこの耳で聞いたことがある。(小さな会で)

(そう言えば、数学の論文を見ていると、門外漢には、数式、図式。英語、をバランスよく列ねたビジュアルな前衛的詩篇とも見えることがある)

ところが、今回、畑違いの俳句評論の方から、詩で俳句評論を書く、というこころみがでてきた。まず前述の「評論詩」を(詩にしては少々長いしつまり冗長だがそれはこのさい不問に付すことにして)、じっくり読んでいって欲しい。
読者はここに詩を(それぞれの脳裏にある「詩」の観念にてらして)、感じたであろうか?(その結果や是非について問うのが私の目的ではない。)
読者の知的認識のレベルに彼筑紫磐井の評論詩の、第一のメルクマールが理解できたかどうか。

私見では、これは、詩であるとともに評論である。
そう理解したそのわけは。
既に私が、詩のジャンルを見聞していた時代に、同じ論法のジャンル越境の兆しに出会っていたからである。
また、この俳句評論家の論法を、彼の著作『定型詩学の原理』にすでに発見していたからである。

私が興味深かったのは次の引用箇所である。

  かくて私は論文をすべて改行してみた。
  これを、評論を詩で書くという。
  詩にふさわしくない叙述は多少削除し、変形させ、
  詩が語るように「切れ」について語らせてみた。
  散文では書けないことをつい口走っている。 
  
              筑紫磐井前掲引用文より

即ち、「改行」すれば「詩」になる、と磐井は述べる。さらに
「これを、評論を詩で書くという。/磐井」。というが、ここでは改行にかこつけて論理的な飛躍をねらっている。
ここで論理的な飛躍をねらっていることはただしいであろうか。(正しい。)
評論家が自分でこれを「詩」と名付けている。
詩は、特権的に絶対的主観性を認められている。
ゆえに 正しい。

ところで、「評論」を「詩」で書いたものが「詩」であると認められてもそれが「評論」として認められるであろうか?

(この正否は微妙である。概念は時代のパラダイムや受け止める側の認識のレベルによって、常に浮動するものであるからである。そのときにはかの受難者のように「それでも地球は回っている。」とさけんで名誉回復の時を待つほかはないのである。
けれども私は「正」としておく。いま思っていることが間違っていたときに訂正して軌道修正しやすいからである。
筑紫磐井の論法の最大の利点は、間違っていても、修正可能な論理をすでに含んでいるところだ。戦後思想で大問題になった「転向」論
そのように「思想的な転向」が人生を誤らせる命取りの傷とはならない。

評論の背後には、かならず発語者の思想があり、智恵の回路がすけてみるものだが、(ときにそれがイデオロギーでもあったわけだが)、磐井理論の特徴は文学論の切り口を言葉の機能論、目に見える範囲の形式論(むしろ形態論)にかぎっているせいか。道徳論議の臭みがない。

すくなくとも、磐井は、多行詩の最初の表徴、として「改行」の作業を最初の絶対的条件としている。)

(括弧に入れたわけは、氏の持論が変わったり、私の考えがかわったときに、気軽に削除—いわなかったこととして処理できるからだ。詩の文脈は全くの嘘でもいいし、詩的レトリックとしての大幅な飛躍はむしろ歓迎されるのである。詩的真実とはなにか、という新しい論題がここで一つ立ち上がる。しかし、評論はすくなくとも、理論的正当性で勝負するものである。詩的飛躍がそれをゆがめない範囲であるならば、その範囲でおさまるが、詩の思想はときにとんでもない意味の攪乱や自己矛盾をよびよせる。
「作品」と、「作品の原理(概念化)」の伝達法は、多少違うと考えたほうが効率が良い。)

ともかくさらに、彼は「詩にふさわしくない叙述は多少削除し、変形させ、」とのべる。改行した場合に多少レトリックや、比喩をきれいにしたり、気取ったりする修飾作業のことだろう。
「詩が語るように」(評論は述べるものだが、詩は語るもの?・・実は、原型としてこれも正しい。)
「切れ」について語らせてみた。」と述べる。

「散文では書けないことをつい口走っている。」(本文の一行)
ここが可笑しいしほほえましい。「つい」という措辞がとても効果的だしここに素朴な詩である。叙情的な偶然が言葉の必然に転化して「改行」だけが詩の条件であった磐井の詩の概念に「叙情的強調」という属性がともなうことになる。詩の歴史はここからはてしないレトリックの探求へと動きだす。そして、すくなくとも詩の歴史の表面からは、詩論の構築は自然科学的整合性からはずれてゆく。

ゆえにこの心情の吐露は筑紫磐井の言語世界における抒情詩の起源論的な意味を持つ。   

           詩評論 一編(作者堀本 吟) (了)
**
ここで、筑紫磐井の改行=詩、というスタイルでの評論的叙述をやめる。
(どこでやめても良いのだが、)こうしたスタイルの、「詩」は、
磐井のやり方だと、私としては比較的迅速に無限に大量に書くことができる、と気が付いた。わらうべきことだが、むかし、そのことが怖くて短くなければいけない俳句に転向したのだ。

このテの散文風な詩は実は、詩ジャンルにもたくさん書かれている。読む側の視点でふいとそれがほんものの詩に感じられることがある。

彼が、同文中においた(以下。磐井文引用)

3.ウエッブの文体

ウェッブは自ずとウェッブに向いた形式・文体を要求している。
限られた視野面積、スクロール形式の読み取り、
文字量の無制限な可能性。
ウエッブに向いているのは改行の技術である。
そして、恣意的な(主観的な。
言い換えれば、機械的ではないという意味)改行が行われれば
そこに改行の精神が生まれる。
(私によればそれが)つまり「詩」である。
これが評論詩を書く理由である。
そこには散文で評論を書くのとは自ずと違った精神が生まれている。

4.評論詩と切れ
特に今回そこで論じられるのは「切れ」である。
詩で俳句を論ずることはローカルである。
俳句を論ずる際に「切れ」を論ずることは(俳人が見ても)
更にローカルである。
ローカルの中のローカル、
そこに自ずと俳句の精神が生まれる。
現代詩は9.11テロと湾岸戦争を論ずるべきである。
評論詩は「切れ」を論ずるのである。

                          (引用終わり) 

は、まったくそのとおり、といいたい。社会認識としても、詩の素材のとりかたとして、正当である。ただし。ここは詩のレトリックを
さがすよりは、純然たる文明批評として読むべきだ。ただし。このような、「詩」も詩には違いないが、骨組みをあまりあらわにしないのが詩であると考える「ローカル」な手法の「詩」のほうが主流である。

「4.評論詩と切れ」

詩で俳句を論ずることはローカルである。
俳句を論ずる際に「切れ」を論ずることは(俳人が見ても)
更にローカルである。
ローカルの中のローカル、
そこに自ずと俳句の精神が生まれる。
現代詩は9.11テロと湾岸戦争を論ずるべきである。
評論詩は「切れ」を論ずるのである。 
  (この項引用終わり)

のぶぶん、詩的修司としても、自説論理の展開の措辞とかんがえても。たくみないいまわしといえよう。
筑紫磐井の俳句評論詩が、「詩ではない」といわれることはない。またこの「詩」が、評論好きの読者に不親切であっても、論旨の一貫性に置いて、個性的な評論でないとはいえない。

(参照。『定型詩学の原理』序説 25ページに「詩」についての言及あり。
「詩の本には独特な表記方式がそなわっている」
「何が詩であるかは的確に定義できなくても、詩であることが確認できるーここに重要なヒントがある。」
等々)

【まとめ】 
 磐井詩学では、改行の恣意性によって無限に「詩」行がうまれる。かつどこでなぜ改行するか、というところに。「切れ」の論理が適用される。三段論法めくが「改行」→「切れ」→「発語者の呼吸の切れ」というかたちで。形式が生理的な恣意にもどるところが磐井的機能主義の不思議な自己矛盾である。
(この稿了)

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2 件のコメント:

筑紫磐井 さんのコメント...

堀本吟様

ありがとうございます。
私はコメントを書くのは嫌いです(このような挨拶は別に困りません)が、書かれるのは別に嫌じゃありません。
それらを拝見して、評論で対応したいと思います。
本論については来週の「作品18」でお返事させていただきます。
美しき誤解や錯綜が続けばうれしく思います。

                筑紫磐井

さんのコメント...

美しき誤解や錯綜が続けばうれしく思います。」(貴)

つづけませう ! 美しき誤解など。
目的をあまり限定すると、面白くなくなりますです。
まじめな文脈を「ひょい」、とはずすのも読むことの面白み、です。

豈、編集部の、「豈」バックナンバー読み、などは、捨てる神あれば拾う神あり、ですから、こういうところには特にどんどん書きこめば、ばいいと思います。皆さん。