井の底の私―同人作品掲載順1~3
・・・中村安伸
■青山茂根「臨海、ときに郊外」
広義での「現代俳句」が耕してきた季語の土壌というものがある。西洋のモダニズムからはじまり、シュールレアリズムやその他もろもろの詩的フレーズととりあわせられることにより、季語もその価値を変容させてきた。青山の作品は、そのような土壌を活かし、十七音という俳句の容量にぴったり嵌る内容を盛り込むという技量の確かさを発揮している。
古典文学の世界に由来する切れ字の鋭利さよりも、現代文学に関連する助詞の精妙なコントロールを駆使するのが青山の方法でもある。これについては、昨今流行のスタイルを敏感に取り入れているとも言えるだろう。
タイトルに置かれている「臨海」「郊外」からは、週刊俳句で話題を呼んだ「サバービア俳句」というキーワードに通じるものを感じるが、青山の作品はそれらとは肌合いを異にするものである。サバービア俳句が表層的なところにとどまることを志向――「志向」という語じたいがそぐわない気もするが――しているらしいのに対し、青山の俳句はそれよりはやや古風に深層を志向しているように見える。
観覧車より蝙蝠の湧き出しぬ
ナンセンスながらポップな味わいのある作品で、コミックなどの過激な色使いを彷彿とさせる。くらがりの陰鬱な印象以上に「湧き出しぬ」という大げさな表現によっておかしみが強く出ている感。
虹の根に触れなば陸地始まりぬ
虹が触れたところから陸地が生じるという、天地創造を幻視したスケールの大きな作品である。
ただし「虹の根」には違和感がある。「根」という表現には、虹を陸地から生える大樹に見立てた喩が内包されているので、虹の接地部分を先端とした句の内容には、ややそぐわない気がするのである。
ミドルネーム空欄といふ涼しさに
ぽっかり空いた空欄のむなしさを「涼しさ」という語に言い換え、ポジティブな思いを乗せた。
ドル紙幣さへ短夜の傷を負ふ
価値の下落がはげしいドルであるが、その紙幣をモノとしてみたとき、悲惨なくらいぼろぼろになっている固体が少なくない。紙幣が通貨そのものだった時代では過ぎ去り、いわばその鏡像のようなものであることに誰もが気づきはじめている。そうであれば、現代においてもっとも傷だらけの存在が紙幣なのかもしれない。そういった点では「紙幣さへ」という受け止め方は、私の感覚とはずれる。しかし当然ながら、この句は紙幣以上に傷ついている存在のことを言外に述べているわけである。
ちなみに「あふれる」と題された短文に記されている男の子の行動は、そのまま私自身の少年時代の行動と重なっていて感慨深った。当時の私も、あらゆる生き物をつかまえ、飼い、殺し、捨て、さながら小さな世界の王として振舞っていた。そして、ギンヤンマの羽化やイモリの産卵など、王の手の届かないところで神の手がはたらく瞬間の鮮やかな印象は今も薄れない
■秋元倫「白きにぎはひ」
秋元の作品に含まれるポエジーは、もっぱら比喩としてあらわれている。徹底してひとつの比喩の質の高めることが秋元の手法であるといえるだろう。違和感を感じるほどの大胆さはなく、やや保守的ながら成功率の高い比喩となっている。生活のなかでの実感を基盤にしているがゆえの堅実さだろう。一方でいわゆるとりあわせの技法を用いた作品は少ない。句中に切れを使っていても一物を叙述しているものがほとんどであり、句の構造としては単純である。特に目をひかれたものを挙げてみる。
みづうみは大きな柩花のあと
「みづうみは大きな柩」という喩は美しい。「大きな」は一見冗長とも思えるが、これによってうまれるゆったりしたリズムが内容の大きさにふさわしい。「花のあと」という叙述も湖畔に咲いた花が散ったあと、湖の存在感が殊更増す感覚をとらえていると思う。
孤独とは白きにぎはひ梨の花
「白きにぎはひ」とは、孤独というものをポジティブにとらえたうえで、内面を形象化した独特な喩である。同時に、とりあわせられた「梨の花」の色と質感から導かれたフレーズでもあるのだろう。
■池田澄子「在れば即ち」
日常の会話で使用される言葉の断片をそのまま使ったり、加工したり、なにかととりあわせたりして俳句を仕立てるという池田の手法を「口語俳句」と呼んでひとくくりにするのはたやすい。しかし、日常の言葉の通じやすさのレベルを保ちながら詩性を実現するということは、誰にでもできることではない。そして池田の詩性のベースになっているものは「皮肉」である。大衆的な価値観への皮肉、しかし悪意があるわけではなく、紙をふわりと裏返すような軽くてやわらかいものなのだ。
〈命の大切さという流行語日々草〉における「命の大切さ」や、〈普段着の方が美味なるメロンかな〉における「普段着の方が」というフレーズは、日常的に用いられ、多くの人々が当前のものとして受け入れている価値観に基づくものである。それらを、「流行語」であると断じ、メロンの味に転化することによって裏をかいたところが、池田ならではの皮肉といえるだろう。
薔薇垣や永久に愛するかは微妙
「永久に愛する」という美化されたフレーズを、さらにいまどきの若者言葉である「微妙」を用いて茶化している。
そして「口語」にことさら拘泥しないのが池田の自在さでもある。上記のような句に混じって〈かなかな時雨かな沈金の小川かな〉といった音韻、比喩の技法を駆使した句がアクセントとして入るのも興味深い。
また〈寒し井の底の私が誘うなり〉というような重厚な句は、池田をもっぱら軽みの書き手と看做すことを拒絶する。隣のページで伊藤宇宙卵が引用している「深淵を覗きこむものは自分自身が一個の深淵になる」というニーチェのアフォリズムは、実はこの句のためにあるのではないかという気がしてくる。「井の中の蛙大海を知らず」ということわざを連想させもするが、一方で「井の底」という語は別のイメージを想起させる。現在のように高層の建築物が身近に存在しなかったころ、身投げの場といえば崖、川、海、それに井戸であった。映画『レッドクリフ Part I』では劉備の妻が、息子の阿斗を守って奮戦する趙雲の足手まといにならぬよう、井戸に身を投げるシーンがある。また岡本綺堂の『番町皿屋敷』で、家宝の皿をわざと割ったお菊は、斬られて井戸に捨てられるのである。犠牲となった女たちをもうひとりの自分に重ね合わせた凄絶な作品であると感じる。もちろんこれも多様な解釈の一例にすぎない。
また〈平成二十年八月二十五日なり昼餉〉〈鰯雲無事を祈るはおそろしや〉〈学徒戦歿させしことあり金色銀杏〉といった、先の大戦にまつわる作品については、こうした感懐をきちんと句にし、発表することこそ使命であるという思いがあるのだろう。
電気コードを秋から冬の次の間へ
面白い構造の句である。叙景として読むと「秋から冬の」は時候をあらわし「次の間」にかかるのであるが、すこし呼吸を変えて読むと「冬の次」すなわち春への連想がひらけてくる。
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「―俳句空間―豈」47号の俳句作品を読む(1)
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1 件のコメント:
中村安伸さま
ご鑑賞くださりありがとうございます。「ドル紙幣」(あ、今打ちミスで紙片と出てしまった、それもよいかも)、ご指摘のとおり焦点を紙幣のみに絞ったほうがよいですね。再考してみます。
それにしても、「あれ?二十一句?」と47号を数えたら、ほんとにそうでした。がーん。本人20句のつもりで出していて。慌てて、すでにできている次号の句稿を数えてみたら19句でした・・・。
どうも行間が変だな、とは思ったのですが。
編集の皆様にご迷惑おかけしました。アバウトでそそっかしいのはなかなか直りません・・・。 青山茂根
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