2009年1月31日土曜日

書物の影 第五回

書物の影―第五回

                       ・・・堀本吟

はじめに 年の初めのためしとて
お正月は(それからも)、野暮用につぶれてすぐには調子が戻らなくなった。風邪症状がまたもや。

突然変異でもない限り、人間のアタマって、そうそう独創的にはなれないものだ。でも。筑紫磐井(氏)は毎週進化しているそうだから、いまごろ銀河鉄道の何処かに星雲を走っているだろうが、何周目かおくれたコースの先頭を切っている私の関わった年頭イベントは主に以下の通り。

①1月07日締め切り 【《伊丹公子論》――「青群」11号掲載予定】
②1月10日神戸文学館、パネルディスカッション【震災と神戸と文学と】
③1月18日詩誌「めらんじゅ」読書会【テキスト『安井浩司選句集』邑書林】
④1月20日詩誌「びーぐる」2号(澪標発行)――俳句時評を連載。

① について調べていたら、伊丹公子の分かち書きの動機の説明が、磐井の評論詩の説明に、似通っているので、後日参照することもあるはず、書きとどめておく。

筑紫磐井《評論詩切れについて2・又は序詩》(作品番号10) 10項目

目次の引用
1.私が評論詩を書く理由
2.『老子』について
4.評論詩と切れ
5.無粋な解釈詩学、粋な定型詩学
6.切れの定型詩学的分析
7.句読法の歴史
8.歌人の切れ
9.川柳・俳句の切字論争
10.芭蕉・蕪村・子規と現代俳人 
 (以上本文)

このうち、1、3、4.7,などが彼の理論的な根拠になろうか。

《3.ウエッブの文体》のところの本文をさらに抜粋一部引用すれば

ウエッブに向いているのは改行の技術である。
そして、恣意的な(主観的な)。
言い換えれば、機械的ではないという意味)改行が行われれば
そこに改行の精神が生まれる。
(私によればそれが)つまり「詩」である。
これが評論詩を書く理由である。
そこには散文で評論を書くのとは自ずと違った精神が生まれている。
                         
というくだりがある。

かたや。先日、「青群」十一号に寄稿の《伊丹公子の詩と俳句》へお原稿を書く際に、公子の講演録を読んでいたら、それに似た面白いことをいっている。私の原稿に使った部分を、ここに転載しておく。

伊丹公子の「分かち書き」の弁

本文引用

「分かち書きとは表記の問題なんです。」「例えば、昔文字を知らなかった時、人々はすべて口承だったじゃありませんか。だから、すべてのものはそれ以前にありなんですね。その内容を書き写すときに分かち書きにするか、横書きにするか、三行書きにするか、斜め書きにするか、それは自由だとおもいます。
(堀本註・公子はさらに自作の詩から改行部分を引いて)。
 
「あとは
生粋の
風の原」
というように、ここで切りたいから切っているんです。ここで、一呼吸置いて、自分の内的なものをととのえているんです。俳句の分かち書きと結びついてきます。」「自分の言いたい言葉を自由に切り、そして自由に述べる、どういう風な表現にしてゆくかというのは、自分に忠実にありたいためなんです」
 伊丹公子《詩と俳句—第二十回現代俳句講座》(平成十二年七月二十九日講演。これは、「現代俳句」二〇〇一年一月号に所収され、エッセイ集『詩人の家』(二〇〇一年・沖積舎)に収録されている。

以上そのままひっぱってきた。分かち書きの最初とか、伊丹三樹彦の発言を調べてみたのではないが、ここで重要なことは、自分の詩の改行のしかたと自分の俳句の分かち書き(一字あけ、と言う表記)は、要するにおなじ動機だといっている。

「ここで、一呼吸置いて、自分の内的なものをととのえているんです。」(伊丹公子。前掲文)

という。このいいかたは、私、ひじょうに気に入っている。作家の思考のリズムは息づかいにあらわれる、というこの考え方が、俳句の表記に分かち書きを取り入れた理由の一つである。

俳人はこの分かち書きには馴染まないが、私には理解できる。一行棒書きにも不便なところがあることは、考えておいた方がいい。
私の場合も(一行でとおしているのはそれが気持ちは良いから、好みの問題である。)、じつはここで一文字あけておきたい、というときがあるのだ。ちょっとしたきっかけで、ここをもう少し実験的にやってみようと思った人がはじめて、それに同意する人がふえてひろまった、ということもある。制度の始まりは、あんがい単純なきっけかだが定着するにはそれなりの現実的な根拠があるものだ。実験精神は、最初はそういう思いつきではじまれば良いのである。今までの書き方が不便だからとか、こうやったらもっと変化がでるだろう、とか、いろんな模索がなされるほうがいい。だめならばやめる、そう言うのが実験精神というもので、傍目にはいくぶん安易に見えることもあるか知れぬが、こういうこだわりは個人としてはあんがい創作の飛躍をもたらす。

高柳重信が、多行俳句を遂に方法化してしまった。その影響も大なるものだが、最後に「山川蝉夫」をなのって、一行表記のスタイルに戻った。一行の意識と多行の意識はいつも行き来している。

改行の発見とその方法化は現代俳句の立派な遺産である。そのことで「切れ」空間がひろがり、定型詩の内部のこの場の動きのダイナミズム、表現の可能性をぐっとひろげているかだらだ。

改行したその場所は、表記という二次元の世界へ三次元いや四次元五次元の意識世界がうつりかえられるときの、その奥行きの入口なのである。だから「分かち書き」や「多行俳句」には、私は前から興味があった。

伊丹三樹彦の(妻であることはともかくとして)俳句上の一の弟子である伊丹公子は、「分かち書き」をごくナチュラルにうけいれたひとりだろう。むしろこころの動きの自由、という点では、詩的感受性は師を(夫を)しのいでいるのかも知れない。(いまは、ステージが「青群」に変わってはいるが、かつて「青玄」には、中永公子、松本恭子など、感受性にめぐまれた言葉の巫女のような女性が異彩を放っていた。)

彼女は、イメージがまだ直感的で恣意的な瞬間に位置する時のすがたを、表記の場面に素早く取り入れるその「呼吸」、これが大事だといっているのだ。

「物のみえたるひかり、いまだ心に消えざる中にいひとむべし」と言われる。(これだれだっけ?ああ、俳聖松尾芭蕉だ)。例えばそう言うこころの瞬間の場面。

呼吸を切ってまさに伊丹公子の言うように「内的なものをとのえる」作業として、休符のように、一字の空白をおくのである。そこに、「いまだ心に消えざる、物のひかり」が措かれている、この不可視の事態の可視化として、【分かち書き】の思想は、空白(空間)を提示して、だれでもがそこで自由に自分の中に見えたる光を感じとれるようにし向けている。

また。公子はいう。
本文引用
「自分の言いたい言葉を自由に切り、そして自由に述べる、どういう風な表現にしてゆくかというのは、自分に忠実にありたいためなんです」(同、前掲文)

ものに感じて心を動かす、その瞬間をとらえようとする含蓄のある言い方である。いや含蓄というのはあたらない。「含蓄」などという余裕の時間を蹴飛ばして、その瞬間の自分のこころにしたがって自由にやってみる。・・そんなん、私の勝手やないの、と言っているのである。内的な必然性は、このように外側から観じれば時に恣意的に見えるかもしれない。一つの言葉の時空が転換するときにうまれる、あたらしいスタイルについて、筑紫磐井と伊丹公子は、内側と外側から観ているのである。そしてどちらも「恣意」というこころのあり方を言いとめている。伊丹公子は、「切りたいから切る」と言う言い方をしている。
要は内容が巧く伝わればいいので、分かち書きでも、一行でも、詩でも俳句でも、言いたいことがつたわればいいのだ、と、彼女はいいきる。
この、恣意性と言うことは、実は詩に措いては大変重要なことであり、辞書的な語彙が生きてくるのはこの恣意性(主観)が、跳躍したときである。

主観の絶対的優位にたって、俳句を詩的リズムの方向へひきよせているケースである。「青玄」が「俳句現代派」、となのったのは、この、口承性、口語性に足場を持ったからである。

富澤赤黄男の分かち書き

いや、そもそも、旗艦時代にはかの冨澤赤黄男がいたのである。
かれは、

蝶墜ちて大音響の結氷期 『天の狼』(昭十六年・「旗艦」発行所)
が有名であるが、『天の狼』には、はやくも分かち書きがあらわれる。

冬日呆 虎陽炎の虎となる    富澤赤黄男
花粉の日 鳥は乳房をもたざりき   
雲 雲は かの花びらは崩れたり   同
民族の郷愁 鶏を焼くにほひ     
鰯雲 流れ弾きて流れたり      
三日月よ けむりを吐かぬ煙突    同(ルビ・「煙突→けむりだし」

この分かち書きの表記が全面開花するのは、『蛇の笛』(昭二十七・三元社)『黙示』(昭三十六・俳句評論社)においてである。さらに『黙示』では、一字あけ、字足らず、──、もくわわり、俳句形式が改行の定型詩へ、また多行の詩へと転移する寸前の形を示している。表記の変化は、赤黄男の実存への省察も伴ってくる。『黙示』には つぎに掲げる有名な句がある。

草二本だけ生えてゐる 時間   富澤赤黄男
無名の空閒 跳び上る 白い棒    同(ルビ・無名 → アノニム)

一字あけることで生まれる想像空間。そこに顕れる、世界のあり方についての思念。

黒い海圖の くろい機雷の 行方かな 
風の 寫實の 皮を剥がれてた牛の胴 同
三角形の 黒の物体 裏側の雨    同(ルビ・物体→オブジェ)

これらの文節ごとの断絶は、北園克衛の詩の構築法との内的な関連をみせている。
そして、伊丹公子が引いている自作詩の一部分を、次の三種類に置き換えて並べてみる。

あとは
生粋の
風の原
    (伊丹公子の詩作品 部分)


あとは 生粋の 風の原   


あとは生粋の風の原
 (先述の引用詩を、堀本が一行の分かち書きと、棒書きの一行にしてみた)


次に富澤赤黄男

風の 寫實の 皮を剥がれた牛の胴  富澤赤黄男




寫實
の 
皮を剥がれた牛

胴   

とならべる。北園克衛の詩のようではないだろうか?(赤黄男の句を一字あけて場所で堀本が仮に改行)

改行するしない、一字あけるあけない、と言う決定にはやはり作者の意志が入り込んでいるので、面との形のママがのぞましいし、わかりやすい。公子の分かち書きと、改行されている詩行は、その効果はそうかわりはないようにおもわれるものの微妙なところでこの「風の原」は自作の詩のなかで生きている。

赤黄男の場合は突き詰めればむしろ、北園克衛の造形的な語の並べ方に近い効果を持ってくる。富澤赤黄男は表記、或いはイメージの類似というようにいろんな意味で、詩と俳の境界をさまよった俳人=詩人であった。「旗艦」という日野草城をいただいた俳句の場は、モダニズム詩の影響を濃厚にうけて分岐してきたように見える。


北園克衛の詩の引用。とりあえず手近に抄出されている雑誌からの引用。

● 本文のママ

その絶望



把手


のある

の腕 
   (北園克衛 《夜の要素》部分)

北園の詩は、一行一行がオブジェ、改行の瞬間にある種のポエジーのスパークが生じているところを味わってほしい、赤黄男の句もそのスパークをねらっている。表記の改行の場面で、読者にゆだねられたメッセージを感じられないだろうか?

その詩が俳句であり、その俳句が詩であることの区別は、表徴としてはしだいに境界線が崩れてきている。ほんとうに自由詩であり、ほんとうに定型俳句である根拠は、なんだろうか?

詩の自己陳述 としての改行

筑紫磐井はこのウェブの自作評論にこういっている。

本文引用

「現在隣のコーナーで堀本吟氏が何を論じているかは分からないが、
この論はその一歩先を行っていると思う。
なぜなら、堀本氏が論じているのは、

詩で俳句を論ずることはローカルである。
俳句を論ずる際に「切れ」を論ずることは(俳人が見ても)
更にローカルである。
ローカルの中のローカル、
そこに自ずと俳句の精神が生まれる。
   *    *
「評論詩」を書くことが俳句的なのである、
評論詩で「切れ」を取り上げることが俳句的なのである。」(筑紫磐井)、

という私の旧思想であるが、
いまや私も1週間ごとに進歩していると思っている。」
「最近では、結社誌と同人雑誌について書くことが俳句的であり、
評論詩でこれらを取り上げることも俳句的であると思っている。
俳句は文学から見てコントロコレンテ(反流)であり、
結社誌を常態とする俳句において
同人雑誌は一層コントロコレンテである。」
            (参照・筑紫磐井――作品番号17,18)

この通りで、この論法に則るかぎり、内容に関して、私が付け加えることはなにもない、反論もない。私は筑紫磐井というローカルな批評家にこだわるとともに、別のローカルな問題にもこだわっている。想像力は、最初はつねにローカルな次元から立ち上る。ただし、ローカルな次元はそのまま連続して行けば、何時までもローカルでありとじられてしまう。ある場所で(どこでどう)次元移動(改行)するかはたまたしないか・・。問題はここですよ、磐井さん。

こういうところで、なにを書き残すか、俳句というローカルな表現をグローバルな(?)パラダイムのひとつの環として押し出せるかどうか・・これは、ひとつの思考実験である。「豈」の場所はここにしかない。

彼は自分の位置を改行しているのである。詩の行間には、言葉のかわりに無限の想像力がつめこまれている、恣意性や主観の入りうる空無の場がある。筑紫磐井がこのような「評論」文体をかんがえついたこと、私にはそこが面白い。そして、このようなスタイルでの俳句的なる言説のテーマの模索は、それを「進化」というならば、磐井的な進化は私の思考の展開の中でも起こりうる。

機能的で事務的にことを処理するかに見える筑紫磐井は。かといって心太方式で順序よくテーマをおっているわけでもない。それをおっかけるのであるから、テーマごとに新しい場所にあちこちつれてゆかれるのは、私としても覚悟のうえだ。
また、私自身の頭脳も、〈野蛇みな縦横の絲でできてをる〉(安井浩司『汝と我』)みたいなところもあり、一言隻句に刺激されて、並行して或いは縦横にうごいている別の話題に絡んだりすることもあるので、系統樹から順序よく思考の枝分かれを経験する、そういった傍目に整理しやすい論争になるわけでもない。そういうからみのなかでの、俳句的散文(評論)、俳句的詩文の展開ができるというところが、今の筑紫磐井への関心なのだ。(関心の一つだった、と言うべきかも知れない。彼の脳は一週間ごとに進化しているそうだから。)

《書物の影・第一章》は、筑紫磐井との対論の章、とする

さて、それゆえに、この読書ノートは、隣の頁でどんどん書き込まれている筑紫磐井の「切れ論」とか「評論詩」とかの提案を受け止める形で(刺激される形で)、自分の文体を考え直すよすがとして、若い時代から抱いてきたテーマ再開を決めた。だから、私がキャッチした、筑紫磐井の言説や俳句にかかわることをおもにここあつめることにする。筑紫磐井流のコントロコレンテの作り方があるからその具体的な例も。

ついでながら、紙媒体(「俳句空間—豈」)とネット媒体(「俳句空間—豈—weekly」のふたつに進出しはじめた、「豈」の行動半径の広がりについて。

「一将功なって万骨枯る」という同人誌の限界をなんとかのりきろうとする、豈現在時の「俳句運動」の「健闘」に、注目してほしい。かりに直接の発言はかなわずとも、あらゆる結社や同人誌の心あるエディターは、とくに筑紫磐井という「書物」それがひきずる「影」をみつめるだろう。

編集人筑紫磐井が、フォーマットを出来るだけ公正につくり、豈の同人が何を書きたがっているのか、というデータ(アンケート資料)をもとに一冊に編集してゆくとき、豈同人の個人の創作幻想が次第に共同的な実体になってゆくその過程に彼の編集センスや抜群の機動性が加わっているのだ。
戦後の同人誌組織が軒並みに結社化していったのだが、結社誌がひろくメディアとしてジャーナルとして機能できないという連帯のあり方は、関西俳壇でも天狼、花曜、草苑、青玄・・みなそうである。
けっきょくそのグループでは突出している作家に頼りまなぶ私塾的教育機関になりかわっていった、それなりの効果はあったが、師弟の関係に象徴されるような個人崇拝が、雑誌編集にそのまま反映してきたのが、現代俳句の俳人の組織論なのだ。

まとめ
筑紫磐井の思考のポイント「改行の恣意性」《改行によって誌の意識が生まれる》
「自分の言いたい言葉を自由に切り、そして自由に述べる、どういう風な表現にしてゆくかというのは、自分に忠実にありたいためなんです」(伊丹公子)
恣意的な(主観的な。言い換えれば、機械的ではないという意味)改行が行われればそこに改行の精神が生まれる。/そこには散文で評論を書くのとは自ずと違った精神が生まれている。
                       筑紫磐井(作品10)

「自由」(伊丹)と「恣意的」(筑紫)は、このばあい同じ意味で使われている。ただし、伊丹公子は、自由になったときに俳句詩型がどうわるのであるか?ということは、いっていない。が、御両所共々、表現したい内容の伝達には、改行の有無は絶対的な与件ではない、と言うことが言われているので、これはたいへん、わかりやすい。むしろこれからの詩歌の理解には有効なデモクラティックな表現の理論と言える。【書物の影:第二章】は別の主題を掲げるつもり。      である。(この稿了)


0-はじめに
第一回【まとめ】 書物の死をめざして自己書物化をはかる            
1章—自己書物化への陳述(個人的思考としての思索)

第二回【まとめ】 自己書物化の一例 「筑紫磐井という書物」          
【筑紫磐井のウェブ評論の目次の作り方。 磐井的「切れ」の説明、要旨】

第三回【まとめ】言葉全体の動きをみきわめる批評軸の一例・改行による数千行のアフォリズム

第四回【まとめ】「評論詩」の概念について。
磐井詩学では、改行の恣意性によって無限に「詩」行がうまれる。かつどこでなぜ改行するか、というところに。「切れ」の論理が適用される。三段論法めくが「改行」→「切れ」→「発語者の思考や呼吸のと切れ」というかたちで、形式に生理的な恣意性が入り込んでくる。
改行したくなる磐井的機能主義の不思議な熱っぽい「恣意性」へ着目。

第五回【まとめ】詩の自己陳述としての改行。第一章は筑紫磐井の言説にかかわることをあつめる。
要点1 伊丹公子の分かち書きの説明が、磐井の「ウェブの文体が改行を必然化する、という理屈の展開に似ていること。更に、分かち書きの源流としての、冨澤赤黄男の作品例 → 北園克衛への遡及。(参照、詩誌「びーぐる2号」特集)

要点2 磐井の論調に刺激されて考えたこと、戦後俳句の組織論を代表している結社と同人誌、という連帯の箱作りは、いまや失効している。現在、なぜ編集という概念が必要なのか?


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