2009年8月16日日曜日

俳句九十九折(46)俳人ファイル ⅩⅩⅩⅧ 林田紀音夫・・・冨田拓也

俳句九十九折(46)
俳人ファイル ⅩⅩⅩⅧ 林田紀音夫

                       ・・・冨田拓也

林田紀音夫 15句


月光のをはるところに女の手

歳月や傘の雫にとりまかる

雲雀より高きものなく訣れけり

木琴に日が射しをりて敲くなり

棚へ置く鋏あまりに見えすぎる

息白く打臥すや死ぬことも罪

鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ

煙突にのぞかれて日々死にきれず

受けとめし汝と死期を異にする

黄の青の赤の雨傘誰から死ぬ

洗つた手から軍艦の錆よみがえる

さくらの下を過ぎて深夜に齢(よわい)足す

いつか星ぞら屈葬の他は許されず

滞る血のかなしみを硝子に頒つ

幽界へ氷片のこすウイスキー



略年譜

林田紀音夫(はやしだ きねお)

大正13年(1924)京城に生まれる

昭和12年(1937)俳句をはじめる

昭和16年(1941)「山茶花」に投句

昭和17年(1942)金子明彦を識る 「琥珀」「火星」などに投句

昭和22年(1947)下村槐太に師事

昭和23年(1948)肺結核で入院

昭和25年(1950)日野草城の「青玄」に投句

昭和28年(1953)堀葦男、金子明彦と「十七音詩」創刊

昭和33年(1958)「風」同人

昭和36年(1961)第1句集『風蝕』 福田基を識る

昭和37年(1962)第1回現代俳句協会賞 「海程」創刊同人

昭和40年(1965)「十七音詩」終刊

昭和45年(1970)戦後俳句作家シリーズ『林田紀音夫句集』

昭和49年(1974)「花曜」客員同人

昭和50年(1975)第2句集『幻燈』

昭和53年(1978)『現代俳句全集 6巻』

平成8年(1996)句作中止

平成10年(1998)逝去(74歳)

平成18年(2006)『林田紀音夫全句集』(福田基編)



A 今回は林田紀音夫を取り上げます。

B これまでに下村槐太、火渡周平、金子明彦といった作者経てきて、ここで林田紀音夫の登場ということになるわけですね。

A 林田紀音夫については、まだその作品については、現在において割合読まれているところがあるといっていいかもしれません。

B 2006年に、林田紀音夫の唯一の弟子である福田基さんが、宇多喜代子さんによる全句集の刊行の奨めと協力により『林田紀音夫全句集』が纏められ、出版される運びとなりました。また「俳句研究」2006年11月号と、「俳句界」2008年6月号の誌上において作家特集が組まれています。

A では、まず、林田紀音夫の略歴から見て行きたいのですが、林田紀音夫は大正13年(1924)に京城で生まれ、昭和12年のころにはすでに俳句をはじめていたそうです。

B 年齢としては大体13歳ごろということになるのでしょうか。父親が月並の宗匠俳句に親しんでいたそうで、その影響があったとのことです。

A その後、昭和14年には、通学していた学校の俳句部に入会、昭和16年には「山茶花」に投句をはじめ、当時の昭和16年における作品としては〈短夜のあさきねむりに雨となる〉〈稲架の村潮騒とほくねむるなり〉〈父の忌をひとり歩めり星月夜〉〈新刊書手にある朝のつばくらめ〉〈春灯下新しき線を地図に書く〉などといった句が見られます。

B これらの句は、17歳頃の作品ということになるはずです。

A どちらかというと、幼い印象があるというか、まだ、普通の俳句といった感じですね。

B 『現代俳句全集 六』(立風書房)の「自作ノート」によると、その後〈日野草城・水原秋桜子・山口誓子・中村草田男・高屋窓秋その他、諸先輩の作品に触れるようになるのだが、この段階では素逝の甘美な抒情のリズムがもっとも身近であった〉とのことです。

A 「素逝」は長谷川素逝のことですね。また、草城、秋桜子、誓子、窓秋の名が登場しますから、こうみると、新興俳句に強い興味を抱いていたということが察せられますね。

B しかしながら、この時点で新興俳句運動は弾圧された後で、すでに運動としては終息しており、〈私が参加したのは新興俳句弾圧後の形骸でしかなく、その失われた過去の幻影を追うばかりであった。〉とのことです。

A そして、昭和17年には「琥珀」などに投句を始めます。同じく「自作ノート」を見ると〈私が今日まで俳句に執するに到った縁は、この新興俳句の存在を現実とし得たところにある。〉との記述があります。

B この当時の林田紀音夫の作としては、昭和17年に〈病葉や尿する馬のさびしい貌〉〈ひとの死のその葉書なりふたつに折る〉〈郷愁の夜の雲しろく疾く流れ〉〈たんぽぽが吹かれ茜に湖昏れぬ〉〈花圃の午後風あたたかに曇り来ぬ〉〈カンナ炎え風のひとひら消えゆけり〉〈水中花家郷にとほく咲かしむる〉〈月のもとおのが煙草にむせてひとり〉〈鶴を折りさむければ指の骨鳴らせり〉といった句が見られ、昭和18年には〈散るさくらほろほろ鳩は地に啼けり〉〈天あおき日のひぐらしの鳴きをはる〉〈憶ひ出も空蟬ほどの脆さかな〉、昭和19年には〈晩涼や壁に影して独り言〉〈夜勤工のひとりや月の踏切に〉〈火蛾狂ふ夜ごと疲れて詩もなし〉〈蟇あるく捨てし燐寸は地に燃えて〉〈夜も暑し何ゆえ笑ふ人の貌〉といった句がみられます。

A これらの作品を見ると、すでに後年の林田紀音夫の作風を予感させる要素が、いくつか確認できますね。

B 「馬のさびしい貌」「ひとの死のその葉書」「脆さ」「独り言」「夜ごと疲れて」「蟇」などといった表現ですから、やや暗鬱な印象を受けるところが、やはり紀音夫的といえると思います。特に〈憶ひ出も空蟬ほどの脆さかな〉から感じられる危うい印象というものは、紛れもなく林田紀音夫の俳句といった感があります。

A 「散るさくら」の句などは、「さくら」と「鳩」ですから、高屋窓秋の〈ちるさくら海あをければ海へちる〉〈山鳩よみればまわりに雪がふる〉からのあからさまな影響といったものが見られます。

B 高屋窓秋の存在というものは林田紀音夫にとって小さなものではなかったようで、窓秋には『河』という句集があるのですが、〈河ほとり荒涼と飢ゆ日のながれ〉〈河終る工場都市に光りなく〉〈日空しくながれ流れて河死ねり〉〈葬送の河べり何もない風景〉〈赤い雲赤い雲消え死ぬ都会〉などといった作品に感じられる荒涼としたどちらかというと殺風景な雰囲気などは、後年の林田紀音夫の作に、少なからぬ影響を与えているのではないかと思われます。

A 林田紀音夫本人にも、昭和39年の「俳句」の「〈時〉の作業 ニヒリズムについて」という文章において、これらの窓秋の作品についてふれている箇所があり〈それはモダニズムの青春性の次にきた時代であり、現実をてのひらにのせられたような重量感を伴つていた。〉という風に述懐しています。

B さて、この昭和17年の当時の林田紀音夫についてですが、林田紀音夫の盟友であった金子明彦は「『風蝕』までの道」(「俳句研究」1968年6月号)という文章において林田紀音夫と軍事工場で出会った当時を述懐し〈彼と私の川西航空機での工場生活は、わずかに二年半ほどのあいだであった〉〈神経が繊細で、都会的なひよわさを持っていた林田は、この工場生活を苦にしてるように見えた。〉〈そして、新興俳句までが弾圧に遭って、悲劇的な最後をとげねばならなかった、時流の絶望的な空気、それらがみんな結びついて、弱いモダン・ボーイだった彼の精神を、むしばんだ。〉〈後年の林田紀音夫作品の基調となった「どうしようもないペシミズム」は、この時から芽生え始めた。〉と書いています。

A また、この時期の作品を見ると、まだ「季語」の存在が多くみられますね。

B 林田紀音夫というと無季俳句の印象が強いですが、この時点においてはまだ季語の使用頻度が高かったということになるようですね。

A 「ひとの死のその葉書」「郷愁の夜の雲」の句が、無季の作品ということになります。

B この後、林田紀音夫は、戦後の混乱期における窮乏の中、職を求めて転々とし、昭和22年に下村槐太に師事し、それと同時に槐太の謄写版の印刷の仕事を手伝うことになります。

A この昭和22年からによる作品が、第1句集『風蝕』における初期の作品ということになります。

B 『風蝕』の時代は、この昭和22年からはじまるわけですね。では、その『風蝕』時代の作品について見てゆくことにしましょう。

A 『風蝕』の昭和22年から24年までの作品には〈人待てる椅子やはらかに暮春かな〉〈人妻の乳房のむかし天の川〉〈月光のふたたびおのが手に復る〉〈月光のをはるところに女の手〉〈歳月や傘の雫にとりまかる〉〈風の中唾ためて貨車見すごせる〉〈洟拭きしあと天国を希ひけり〉〈雲雀より高きものなく訣れけり〉〈木琴に日が射しをりて敲くなり〉〈七輪に紙燃やすけふありしかな〉〈滴りの明日を思へば遣瀬なし〉〈月明の汽車が劇しく身ぬち過ぐ〉〈青空のけふあり昨日菊棄てし〉〈目刺焼いて私するに火がのこる〉〈棚へ置く鋏あまりに見えすぎる〉といった作が見られます。

B これらを見ると、作品が最早ほとんど完成の域に達してしまっているというか、林田紀音夫の代表句の半分は、この時点ですでに詠まれてしまっているといった印象すら感じられます。

A この時期における作者の年齢は、およそ23歳から26歳ごろの作品ということになるようです。

B 現在と比べると、時代が異なるとはいえ、20代半ばの青年の作にしてはまったく未熟な部分が見られないというか、言葉が緊密に構成されていて、非常に高い精度を示している、という他はありませんね。

A この当時、時期的には、下村槐太と「金剛」のメンバー(金子明彦、火渡周平など)ともに、最もその実力を発揮した時期にあたると思います。

B 下村槐太といえば、〈雨の薊女の素足いつか見し〉〈蛇の衣水美しく流れよと〉〈死にたれば人来て大根煮きはじむ〉〈跣にて梢わたらば死ぬもよし〉〈わが死後に無花果を食ふ男ゐて〉などといった作品をよく読むとわかるように、虚と実がコインの表と裏が反転するように入れ代わる、といったやや特異な詠風を自らのものにした作者でしたね。

A また、槐太は「雨の薊」や「死にたれば」の句を見ればわかるように、過去や現在さらには未来といった時間性をコントロールすることによって、虚と実の双方の要素を作品内部に現出させる手法を有した作者でもありました。

B そういった槐太の虚と実による手法というものは、紀音夫の〈人妻の乳房のむかし天の川〉〈月光のふたたびおのが手に復る〉〈月光のをはるところに女の手〉〈木琴に日が射しをりて敲くなり〉〈七輪に紙燃やすけふありしかな〉〈滴りの明日を思へば遣瀬なし〉〈青空のけふあり昨日菊棄てし〉〈目刺焼いて私するに火がのこる〉あたりの作品にその影響を及ぼしているところがあるように思われます。

A そうですね。〈木琴に日が射しをりて敲くなり〉〈青空のけふあり昨日菊棄てし〉あたりを例にとると、わかりやすいでしょうか。

B 「木琴」に日が射している「現在」の「実」の時間と、「木琴」に日が射していない「虚」の時間、そして、「青空」の「けふ」という「実」の時間と、菊を捨てた「昨日」という「虚」の時間、ということになりますね。

A 後年の〈鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ〉にしても、こういった虚と実の手法によって生み出される結果とになった、という可能性が考えられると思います。

B こういった作品を見ると、現実というものが、そもそも、虚と実といった要素を多分に孕懐している面があるという事実そのものについて、改めて気付かされるようなところがありますね。

A あと、〈目刺焼いて私するに火がのこる〉という句がありますが、槐太の〈目刺やいてそのあとの火気絶えてある〉が本歌であることが明白ですから、やはりここにも槐太からの影響の強さというものが窺うことができます。

B 他に槐太からの影響として考えられるのは、韻律でしょうか。

A そうですね。〈青空のけふあり昨日菊棄てし〉〈鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ〉といった作品に見られる、中七の途中での分断やそれに伴う句跨りの手法といったものは、やはり槐太譲りの手法であるといえるでしょう。

B また、林田紀音夫といえば無季俳句の作者として有名ですが、これらの時期の作品を見ると、意外にも有季の作品も少なくありませんね。

A これらの作品の中で有季であるのは〈人待てる椅子やはらかに暮春かな〉〈人妻の乳房のむかし天の川〉〈月光のふたたびおのが手に復る〉〈月光のをはるところに女の手〉〈歳月や傘の雫にとりまかる〉〈洟拭きしあと天国を希ひけり〉〈雲雀より高きものなく訣れけり〉〈滴りの明日を思へば遣瀬なし〉〈月明の汽車が劇しく身ぬち過ぐ〉〈青空のけふあり昨日菊棄てし〉〈目刺焼いて私するに火がのこる〉ということになります。

B 無季の句は〈歳月や傘の雫にとりまかる〉〈風の中唾ためて貨車見すごせる〉〈木琴に日が射しをりて敲くなり〉〈七輪に紙燃やすけふありしかな〉〈棚へ置く鋏あまりに見えすぎる〉ということになりますね。

A 林田紀音夫が、このように無季の句を詠むことになった要因としては、日野草城や高屋窓秋などの新興俳句からの影響といったものも作用したのでしょうが、それだけではなく、火渡周平という作者の存在というものも小さくなかったのではないかと思われます。

B 火渡周平については、林田紀音夫と同じく槐太門で、昭和22年に「花鳥昇天」のタイトルで「現代俳句」「俳句界」「俳句研究」「金剛」などに次々と無季俳句を発表し、石田波郷、西東三鬼から評価され、当時、非常に注目を集めた作者であったそうです。

A その火渡周平の当時の作品は〈セレベスに女捨てきし畳かな〉〈東西に南北に人歩きをり〉〈雨となり水の執念終りたる〉〈水泡より美しき旅了りしや〉〈傘干すや雨も未来のものの一つ〉〈猫走り瓦礫ばかりを残しけり〉〈石の上又石の上歩きをり〉〈飛行機が扉をとざし飛行せり〉といったものでした。

B 林田紀音夫の〈歳月や傘の雫にとりまかる〉という句については、これは、おそらく火渡周平の〈傘干すや雨も未来のものの一つ〉からのものであるのでしょうね。

A こういった例ひとつとってみても、当時20代の青年であった林田紀音夫が、この火渡周平という作者の存在を眼前にしていて、どのような思いを抱くことになったかということは想像に難くないようなところがありますね。

B 当時の「金剛」の昭和22年3月号において、林田紀音夫は、この火渡周辺の作品について〈花鳥昇天――火渡周平氏は潔く季の殻を脱いでそれを灰とした。併しその後に残されたものは”俳句”に外ならなかつた。花鳥昇天なるタイトルは甚だロマンチックであるが、その実体はむしろレアルに徹せんとする意欲である。〉〈僕はこの一聯に脱皮し成長した新興俳句の姿を見る。あまりにも青年的な若さに終始したのが過去であるとすれば、これを壮年の情熱と呼ぶ言葉は当嵌らないであらうか。〉〈花鳥昇天――地に残されたものは裸の人間である。裸の人間の作る詩こそ、これからの世界には尊い〉と書いています。

A こういった文章を見ても、火渡周平の作品というものが、林田紀音夫に大きな影響を及ぼすことになったのは明白でしょうね。そして、この文章は、先の窓秋についての文章と併せて、当時の林田紀音夫が志向しようとしていた方向性を、そのまま語っているようにも思われます。

B 確かに、林田紀音夫の〈木琴に日が射しをりて敲くなり〉〈棚へ置く鋏あまりに見えすぎる〉などといった作品からは、まさしく〈レアルに徹せんとする意欲〉といった言葉そのものによる作品志向を強く感じさせるところがあります。

A 林田紀音夫の作品が強い現実性を帯びているのは、その逼迫した現実の生活状況というものが大きく作用していたであろうということも当然ながら考えられるところであるのですが、この火渡周平の作品からの影響というものも、やはり小さなものではなかったと思われます。

B では、続いて『風蝕』の昭和24年から26年における作品を見てみましょう。

A この時期には〈竟にひとり月光胸を刺し通す〉〈葡萄くふ壁の影肺蝕まれ〉〈声の雲雀天に怺へてゐるを知る〉〈猫の仔を愛し屍室に隣りせり〉〈月明に遊びし迹もいまは消ゆ〉〈恋さへ憂しさくら花びら創りだす〉〈雨の絲買ひに行かねばアドルムなし〉〈雷鳴が渡りさびしき肋せり〉〈らんぷ吹き消す月光に溺れむと〉といった作品が見られます。

A やはりどの作品にも、重たいまでの現実感といったものが強く漂っているのが感じられますね。

B この時期は、昭和24年に肺結核となり6月に入院、そして、9月に退院し、昭和25年には日野草城の「青玄」に参加。昭和26年には、病気の予後のため大正区に移り住み、謄写版のガリ版にて生活の資を得ていたようです。

A 作品を見ると、まさしく窮乏生活のさ中にあり、生と死の境を彷徨しているといった雰囲気がありますね。生れたばかりの子猫を相手にしていても傍らに死の影を予感し、睡眠薬である「アドルム」の服用、そして肋骨があらわになるほどの痩躯というものがまざまざと現前するかのように思われるところがあります。

B では、続いて、昭和27年から31年の作品を見てみましょう。〈月になまめき自殺可能のレール走る〉〈金減りてしぐれに開く傘黒し〉〈鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ〉〈描かれし当の林檎は遺り得ず〉〈鏡裡の顔以上たり得ず木の葉髪〉〈いづれは死の枕妻寝し月明に〉〈柿の色悪しき位牌に見下され〉〈天の雪冥し何物にも触れず〉〈硝子にも映るおのれが不快なり〉〈溶接の地にこぼす火は忘れらる〉〈触れずとも硬し地上に錨錆び〉〈隅占めてうどんの箸を割損ず〉〈葬送の酒に手を出し縁(えにし)消ゆ〉〈死顔のなほ人に逢ひ葬られず〉〈寿司もくひ妻の得し金減り易し〉〈逃げ場なければ寝顔まで月がさす〉〈仏壇の金色ひらき寿司もてなす〉〈受身で生きて葡萄酒の底を干す〉〈珈琲に口つけていつ毒呷(あふ)る〉〈受けとめし汝と死期を異にする〉〈煙突にのぞかれて日々死にきれず〉といった作品が見られます。

A この昭和27年には、下村槐太の「金剛」が廃刊となり、昭和28年には堀葦男、金子明彦とともに3人で「十七音詩」を創刊。また同じ年に「青玄」の第4回青玄賞を受賞することになりますが、やはり生活は貧窮を極めていたそうです。

B この時代に〈鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ〉〈柿の色悪しき位牌に見下され〉〈隅占めてうどんの箸を割損ず〉〈葬送の酒に手を出し縁(えにし)消ゆ〉〈死顔のなほ人に逢ひ葬られず〉〈寿司もくひ妻の得し金減り易し〉〈逃げ場なければ寝顔まで月がさす〉〈受けとめし汝と死期を異にする〉〈煙突にのぞかれて日々死にきれず〉といった林田紀音夫の代表作といっていい句が生み出されたわけですね。

A 盟友であった金子明彦については、この昭和27年に作者としては、師に殉じるかたちとなり、作品からは生彩が消え失せてしまう結果となるわけですが、林田紀音夫の場合は、この時期にさらに代表作を生み出すこととなったわけですね。

B やはり、それには非常に切迫した状況といったものによる作用が大きく関与していたのかもしれませんね。明日をも知れない退っ引きならない状況に追い詰められ、そういったぎりぎりの状況から振り絞られた生身の肉声というものが、これらの作品であるのでしょう。

A これらの句を見ると、現実の絶対性とでもいうのでしょうか。そういったものが作品の内部に強く刻印されているのが、まざまざと感じられるところがありますね。

B 結局、究極のところ、林田紀音夫が表現しようしたもの、というよりも、表現せざるを得なかったであろうところのものは、いってみれば、無というものに取り巻かれた生命の絶望的なまでの儚さや危うさ、即ち、現実における生と死といった問題そのものに他ならないということになると思います。

A 確かに、これまでの〈人妻の乳房のむかし天の川〉〈月光のをはるところに女の手〉〈歳月や傘の雫にとりまかる〉〈洟拭きしあと天国を希ひけり〉〈雲雀より高きものなく訣れけり〉〈青空のけふあり昨日菊棄てし〉〈猫の仔を愛し屍室に隣りせり〉〈月明に遊びし迹もいまは消ゆ〉〈雨の絲買ひに行かねばアドルムなし〉〈鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ〉〈描かれし当の林檎は遺り得ず〉〈柿の色悪しき位牌に見下され〉〈天の雪冥し何物にも触れず〉〈溶接の地にこぼす火は忘れらる〉〈葬送の酒に手を出し縁(えにし)消ゆ〉〈死顔のなほ人に逢ひ葬られず〉〈受けとめし汝と死期を異にする〉〈煙突にのぞかれて日々死にきれず〉といった作品を見ると、そのようにしか思えないところがありますね。

B また、無から生じた生命という有限の存在、それらの一切が最後には無へ呑み込まれていくという動かし難い絶対的な事実というものは、やはり〈レアルに徹せんとする意欲〉というものを徹底的に追究してゆくならば、最終的に到達せざるを得ないテーマでもあると思います。

A それは、虚と実の両面により、この世界の実相へ深く肉迫しようとした下村槐太の姿勢にも共通するものがありそうですね。

B 林田紀音夫の〈鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ〉にしても、結局のところ、「鉛筆の遺書」であれ「鉛筆以外のもので書かれた遺書」であれ、「遺書を書く人物」であれ、「遺書を読む人物」であれ、すべては最終的には跡形もなく消失していってしまうということになります。

A 最後には、紛れもない現実として、一切が「虚無」へと収斂されていってしまうということでしょうか。

B 福田基さんは『大阪俳句史研究』2004年12号の「林田紀音夫 人と作品」において〈蠟燭の火は消えるまで熱い。雪は雪のままで熱くなることはない。雨は水であるが降っている間は雨である。座棺は屈葬しない限り棺桶に入らない。死が人間にやってくるとき、人間の可死的な部分は死ぬだろう。ではなぜ死者のために念佛があるのか。彼はそれらの正反に対する相剋に悩んでいたのは確かであった。〉と書いています。

A 現実そのものが持つ謎というか不可解さ、もしくは不条理さとでも言うのでしょうか、そういった正反の要素をも包含する現実の世界というものの実態そのものを強く意識せざるを得ない状況にあり、そして、そういった現実そのものの実相を手づかみで俳句形式に捉えることによって成立することとなったのが、この時代の林田紀音夫の作品ということになるのでしょう。

B まさしく〈裸の人間の作る詩〉そのものの姿形が、そのままリアルに封刻されているといっていいでしょうね。そして、そういったリアリズムの志向ゆえであるのか、おそらく生活の苦しさというものも強く関与しているのでしょうが、この時期以降から、林田紀音夫の作風は、だんだんと社会性俳句へと向かっていくようになってきます。

A 社会性俳句への傾斜については、時代の影響というものも小さくないと思われます。そして、それに伴い、このあたりの時期となると、ほとんど季語の使用が見られなくなってゆきます。

B そして、それに代わって増えて来るのは、無機質な「ドラム缶」や「錨」といった鋼鉄の素材ということになりますね。

A その昭和31年から32年の作品を見ると、「吹田操車場」と題された〈歩く他なし鉄路無限の操車場〉〈扁平な家も銹色吹操出て〉〈傍観者に貨車の重量次々消ゆ〉〈貨車も仲間暗き風雨を敵として〉といった作品や、〈銃口の深い暗さが僕らの夜空〉〈死の手のひらひらと河口の波重たし〉〈黄の青の赤の雨傘誰から死ぬ〉〈画廊まで持込む傘の先鋭し〉〈下流まで家並うらぶれ其処へ帰る〉〈珈琲に口つけていつ毒呷(あふ)る〉といった句が見られるようになります。

B 社会性に加えて、やや口語的というか、定型からも逸脱するような句もあり、全体的に散文化の傾向が加わってくるようですね。

A 「吹田操車場」という作品は鈴木六林男の連作が有名ですが、林田紀音夫も同じテーマで句作を行っていたようです。

B 鈴木六林男も社会性俳句の担い手の1人でした。

A 昭和32年から昭和35年になると、そういった社会性や散文的な傾向というものは、ますます顕著になってきて〈ラーメン舌に熱し僕がこんなところに〉〈舌いちまいを大切に群衆のひとり〉〈特急に膝まげて風化の時間〉〈愛し傷つき風葬の手足をのばす〉〈寿司くう老婆に隣し妻に先立つか〉〈引廻されて草食獣の眼と似通う〉〈流失死体のひとつに僕をかぞえようか〉〈洗つた手から軍艦の錆よみがえる〉〈雲の近い日何もつかめぬ手をよごす〉〈渦のひとり汽車からの手が消えて〉〈肋を彫つて火の玉の硝子吹く〉〈音速飛行の朱を背景に長い裁判〉〈シグナル赤ばかり鉄の軍靴が通る〉〈鋼塊クレーン錆びた胃の腑を抽出する〉〈鳥葬にかなう寝ざまの夜をもつ〉〈狙撃兵という死語の下から巨大な爆発〉〈死のスピードが描く赤い風紋〉〈乱反射するビラ頭の中の爆心〉といった作品が見られます。

B これらの作品を見ると、随分と作風も変化したようですね。「渦のひとり」や「音速飛行」「鋼塊クレーン」「狙撃兵」「乱反射するビラ」などの句については、それこそ、もはや「前衛俳句」といっても差し支えないでしょう。

A さて、ここまで『風蝕』の作品について見てきました。

B とりあえずこの句集で林田紀音夫という作者における主要な部分については、そのおおよその部分を概観することができるのではないかという気がします。

A そうですね。戦後の槐太門の時代と無季俳句の実践、そして、そこから社会性俳句、前衛俳句へと変遷に至る、その昭和22年から昭和35年までの約13年の歳月における作品展開が、この句集には収められています。

B そして、この『風蝕』1巻を貫いているのは、やはり〈レアルに徹せん〉とする志向そのものである、ということになると思います。

A その〈レアル〉についてですが、人が現実というものを認識するのは、単純に考えて、五感によって認識するものである、ということになるはずです。

B 当然、そういうことになるでしょうね。そして、五感というと、具体的には、視覚、味覚、嗅覚、聴覚、触覚ということになります。

A この『風蝕』では、その五感のうちの、どちらかというと、目による視覚、そして手による触覚、このふたつの要素が強く働いているのではないか、という気がしました。

B 目である視覚の比重の高い作品というと〈月光のをはるところに女の手〉〈棚へ置く鋏あまりに見えすぎる〉〈木琴に日が射しをりて敲くなり〉〈葡萄くふ壁の影肺蝕まれ〉〈柿の色悪しき位牌に見下され〉〈硝子にも映るおのれが不快なり〉〈煙突にのぞかれて日々死にきれず〉〈触れずとも硬し地上に錨錆び〉〈逃げ場なければ寝顔まで月がさす〉〈仏壇の金色ひらき寿司もてなす〉〈銃口の深い暗さが僕らの夜空〉〈夜の運河覗けば明日のごと暗し〉〈黄の青の赤の雨傘誰から死ぬ〉あたりということになるでしょうか。

A また、手による触覚に関係のある作品としては、〈木琴に日が射しをりて敲くなり〉〈月光のをはるところに女の手〉〈歳月や傘の雫にとりまかる〉〈洟拭きしあと天国を希ひけり〉〈竹伐りしあと一切がわれに帰す〉〈月明の汽車が劇しく身ぬち過ぐ〉〈竟にひとり月光胸を刺し通す〉〈猫の仔を愛し屍室に隣りせり〉〈鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ〉〈隅占めてうどんの箸を割損ず〉〈寿司もくひ妻の得し金減り易し〉〈珈琲に口つけていつ毒呷(あふ)る〉〈受けとめし汝と死期を異にする〉〈ラーメン舌に熱し僕がこんなところに〉〈舌いちまいを大切に群衆のひとり〉〈洗つた手から軍艦の錆よみがえる〉といっていいでしょうか。

B これらの触覚による句については「寿司」「ラーメン」「珈琲」といった「舌」の感覚による句も取り上げておきましたが、触覚において大きな役割を果たすのは、やはり「手」の存在ということになると思います。

A 林田紀音夫の作品を注意深く読むと、驚くほど「手」の存在が登場する作品が多いことに驚くはずです。

B 代表作である〈木琴に日が射しをりて敲くなり〉〈棚へ置く鋏あまりに見えすぎる〉〈鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ〉〈受けとめし汝と死期を異にする〉〈黄の青の赤の雨傘誰から死ぬ〉〈洗つた手から軍艦の錆よみがえる〉〈幽界へ氷片のこすウイスキー〉といった作品にも「手」の存在というものを窺うことができますね。

A そういえば、林田紀音夫の生涯というものは、それこそずっと「手」の要素が関与していたようなところがあります。

B 10代のころに、官吏であった父親から「これからは技術の時代だ」といわれ、職工学校に入学することになり、戦後は孔版印刷、そして、職を得た昭和32年からは、塵芥焼却炉の設計を行っていたとのことです。

A やはり、ずっと「手」の影がまつわりついているような印象がありますね。ともあれ、この、眼による視覚と、手による触覚の双方が、『風蝕』の時代における林田紀音夫の作品において、大きく関与していたと見ることが可能であると思われます。

B さて、続いて第2句集である『幻燈』の時代の作品について見てゆきたいと思います。

A この『幻燈』は昭和50年に刊行されたもので、昭和36年から昭和47年までの作品が収録されています。

B まず、昭和36年から39年までの句を見ると〈風の荒れる方向へ歩き出す弔意〉〈少女が黒いオルガンであつた日の声を探す〉〈さくらの下を過ぎて深夜に齢(よわい)足す〉〈この身よりひろがつて海となる流失〉〈電話がつなぐ青い五月の気化する妻〉〈青い蟹となるぼくら爪がないために〉〈映画の死者にまた葬送の楽おなじ〉〈星はなくパン買つて妻現われる〉〈騎馬の青年帯電して夕空を負う〉〈五月なかばの鉛の空母しんと浮く〉〈夕月細るその極限の罪を負う〉〈いつか星ぞら屈葬の他は許されず〉〈滞る血のかなしみを硝子に頒つ〉〈足音の昼夜ひびいて男死ぬ〉〈傘を支えて黄にも赤にもはばたく児童〉といった作品の存在が確認できます。

A なんというか、以前の作品と比べると、全体的にどこかしら「現代詩」的な雰囲気がありますね。もっといえば、やや「観念的」であるというか。

B そうですね。一応、先程に見た「前衛俳句」の流れにある作品ということになると思いますが、「少女が黒いオルガン」「青い五月の気化する妻」「青い蟹」「葬送の楽」「星はなくパン」「騎馬の青年」「鉛の空母」「極限の罪」「いつか星ぞら」ですから、暗鬱な中にも一種の華やかな印象といったものが感じられるところがあります。

A それゆえに、重い内容を持つ作品であっても、さほど陰鬱さばかりが感じられるというわけではないようなところがありますね。全体的に、なにかしら作品主義的な雰囲気が漂っているというか。

B 昭和36年から39年ですから、この時点で、既に林田紀音夫は昭和32年に職を得、貧窮からは脱け出しており、また、日本社会全体が豊かになりつつある時代です。

A そういった時代状況が、作品の上にも反映していると見ていいのかもしれませんね。

B では、続いて、昭和39年から42年の作品を見てゆきましょう。〈レールをわたる女たちそのひとりの生誕〉〈月夜経て鉄の匂いの乳母車〉〈父の梢に涙のみどりごがそよぐ〉〈プールサイドを日暮れのひとり濡らして去る〉〈乳房をつつむ薄絹夢の軍楽隊〉〈ねむる子の手に暗涙の鈴冷える〉〈風のみどりがしんと弔うおくれた走者〉〈夕べこどもの声むらさきに走り抜ける〉〈死者の匂いのくらがり水を飲みに立つ〉〈人混みにまぎれ時計の内部見る〉〈屍蛹に近い身を月光に横たえる〉といった作品が確認できます。

A この昭和39年に、林田紀音夫には長女が生まれます。

B 林田紀音夫が40歳あたりの頃に生まれた、最初の子供ということになりますね。

A その事実による影響が、作品の上にそのまま反映しています。

B 「レールをわたる女たち」「乳母車」「涙のみどりご」「乳房をつつむ薄絹」「ねむる子の手に暗涙の鈴」などといった作品ということになりますね。

A 昭和42年から45年の作品を見てみても〈月夜疲れて石鹸の泡生む手〉〈ポプラから暮れ父へ来る火の幼女〉などといった長女を主題とした句が見られます。

B 昭和45年から47年には〈生きのびて海洋の青荒れる視界〉〈死者もまじえて雨傘の溢れる都市〉〈傘の下から象につながる鎖見る〉〈幽界へ氷片のこすウイスキー〉〈髪に白加わる天のさくらに触れ〉〈羽化の幼女へ新月鉄の塔に出る〉〈風の中から水子の声そのすべて泣く〉〈鳥居幾重にもマラソンのよろめく走者〉〈梢の幼女が風となる吹矢溜めながら〉〈副葬の赤鉛筆を遺し寝る〉〈夕空のポプラが騒ぐ神隠し〉といった作品があります。

A このあたりとなると長女の俳句のみならず、徐々に「異界」ともいうべき要素が作品に混入してくるようです。

B 「死者もまじえて雨傘」「幽界へ氷片のこす」「風の中から水子の声」「鳥居幾重にも」「副葬の赤鉛筆」「ポプラが騒ぐ神隠し」ですから、確かに「現実」のみならず「虚」の要素が強くなってくる傾向にあることが確認できるようですね。

A これまでの〈レアルに徹せんとする意欲〉というものが、社会の変動や職を得たことにより衣食住などの生活における不自由が軽減し、以前のようにそれほど真剣に現実そのものを直視しなくても済むようになり、現実の持つ脅威そのものが後方へと退いてゆくことによって作品そのものが変化するようになった、ということになるようですね。

B 切迫した現実というものは、この時点ではすでに過去のものとなったということであるのでしょう。そして、やはり長女の誕生ということの影響も少なくないと思われます。

A また、それだけでなく〈髪に白加わる天のさくらに触れ〉の句に見られる「老い」の意識というものも関与している可能性が考えられそうです。

B ともあれ、もはや、ここにいたって若い頃の作品に見られた、それこそ身を切られるような強烈なまでのリアリズムの存在といったものは、ほぼその影をひそめることになったといっていいようですね。

A 坪内稔典さんが、この時期の俳句の状況について『渦』昭和56年6・7月号の「若い俳句 赤尾兜子」という文章において〈当時、〈前衛俳句〉が盛行したというような時代的興奮があり、それがなによりも大きな連帯意識になりえていた。ところが、そういう時代の興奮は去り、そして、日本人の生活が表面的に安定し現状への不満が小さくなるという時代を迎える。このとき、俳句を支える赤尾の連帯意識は、俳句の死へ向かって求められるのではなく、まったくその逆に、俳句の存続のために求められるようになった。もちろん、こうした事情は赤尾一人に生じたのではない。戦後の俳句を担ったほとんどの俳人に同様のことが生じ、その結果、俳壇はものの見事に結社化した。〉と書いています。

B この時期というのは、俳壇全体が伝統回帰の方向へとだんだんとその流れが強くなる時代であったということになるようですね。

A では、続いて『幻燈』以後の作品について見てゆきましょう。

B 昭和48年には〈薄眼に見え幽界の松少しばかり〉〈竹林の夕べさざめく死霊たち〉〈葱畠過ぎる軍旗のまぼろし追い〉、昭和49年には〈よみがえるガラスの牢の雨の糸〉〈雑木林を過ぎる死人の数に入り〉〈幾人か過ぎ傘の骨手に残る〉〈形代の白にひとしく波がしら〉〈火葬の形に寝て風の声すぎる〉〈風の声してまなうらを死者過ぎる〉〈鍵盤に濃く月明の手がかかる〉〈白髪を加え月夜の坂降りる〉〈足音の夜の何処か水子の声〉〈風葬の鍵穴をいつ通り抜ける〉といった作品が見られます。

A 作風としては全体的にペシミスティックな印象がありますが、どちらかというと「虚」ともいうべき「異界」を髣髴とさせる要素が、さらに強まってきているところがあるようですね。

B そして、この頃から、だんだんと作品の表現が平明になっていく傾向が見られるようになります。

A 確かに前衛俳句時代における晦渋な表現と比べると、全体的に理解しやすい内容になってきているようですね。

B 昭和50年には〈青空を或るとき汚し万国旗〉〈戦死者も玉砂利を踏む音の中〉〈雪中の声を追つての巡礼か〉〈天辺に雪のさざめき樒立つ〉〈尾燈はるか氷のようにレールのび〉〈てのひらに天道虫の昼ひとり〉〈死者のため夕日の裾に椅子のこる〉、昭和51年には〈胸に手を組む先立つ者の昔から〉〈おくれてくる死者にひとつの椅子残す〉〈死者のため夕日の裾に椅子のこる〉〈まつすぐに火種の少女雨をくる〉〈踝を水に浸して怖い空〉〈戦死者のひとり訪れ竹騒ぐ〉〈鬼灯に十二神将暗く佇つ〉、昭和52年には〈戦争へ揺れる西空のアドバルン〉〈椅子ひとつ空いて身近な死者ひとり〉〈鉄階にマリオネットの雨の糸〉といった句が見られます。

A やはり、どの句も、割合理解しやすい内容になっているように思われます。

B 林田紀音夫は、この時期に、第3句集の草稿を用意していたそうで、福田基さんの「林田紀音夫の俤」(「俳句界」2008年6月号)によると、林田紀音夫自身が〈「この句集がぼくの無季作家の墓碑銘となるだろう。赤尾兜子や橋間石のように変身はうまくないけれど、当第3句集によって、今までの無季にこだわることもなく、思いつくままに句作をしていきたい。」〉と語っていたそうです。

A やはり、先程にも見た通り、時代は変わり、多くの俳人のスタンスというものも変化する結果となったようですね。結局、この句集については、出版元の湯川書房が倒産し、その後も出版されることはなかったそうです。

B 昭和53年の作品をみると〈新聞に顔埋めて死ぬ男たち〉〈手がのびて幼児を攫う地の薄暮〉〈死の際の眼鏡ひらたくたたまれる〉〈石神の崩えて見おろす死びと花〉〈合羽着て黒くかなしく男立つ〉〈萩に触れ身の歳月を風とする〉〈胸の手の未明の鷲か影過ぎる〉、昭和54年には〈紫陽花の毬ほどに死の色を刷く〉〈行く水に加わる傘の幾雫〉〈星醒めて葬戻りの松騒ぐ〉〈河べりの影絵のひとも風の二月〉〈暫くは草木に声の雨の粒〉〈月光に苦界の傘を持ち歩く〉〈星の夜の蓬髪の影見失う〉といった作品が見られます。

A やはり、少し季語の使用の頻度が増えてきているように思われますね。

B また、このあたりからしばしば仏教的な用語が見られる傾向が強くなってきます。

A 昭和55年には〈幾人か風の回向の野のひかり〉〈蟻地獄俄かに人の影を呼び〉〈日は西に念珠いつしか手より消え〉、昭和56年には〈海からの位牌に風の声まじる〉〈針山に針の無慙な夜の刻〉〈えんどうを剝く指遠く青空より〉〈誰彼の歿後を急ぐ青あらし〉、昭和57年には〈濃い夜空仰臥を終の形とし〉〈月光を追う身となつて羽づくろい〉〈月青く昨日につづく糸車〉といった句が見られます。

B 「回向」「念珠」といった言葉、また、ここに取り上げた作品以外の作品を見ても「和讃」など、あきらかに仏教的な言葉が多用されるようになります。

A この時点での林田紀音夫の年齢というものは、ほぼ還暦になっていますから、やはり、これには加齢による晩年意識というものが大きく作用しているということになるのでしょうね。

B 昭和60年には〈ぶらんこの天へ出て行く音しきり〉〈胸の手のいつにはじまる明るい午睡〉〈風に向つてあるくいつかは消えるため〉、昭和61年には〈夕空の濃い邂逅を待つばかり〉〈粉雪降る地のたそがれを濃く溜めて〉、昭和62年には〈鍵穴のひとつ月夜に遺し寝る〉〈あたたかな冬木と思う歩み寄り〉〈海が見えいる八月の風のひとり〉〈茫として松風やがて秋の風〉、昭和63年には〈雨の糸見えていつまで女坂〉〈鍵かけて雲の流れる方へ行く〉〈いつぞやの錻力を叩く冬の景〉〈珈琲を卓に日永の匙沈む〉といった句が見られます。

A 昭和62年には、住居を芦屋に定めたそうです。これらの作品を読むと、そういった生活の在り方に伴う余裕というか、安定したゆとりのある生活の様子そのものが、よく伝わってくるようなところがありますね。

B 「あたたかな冬木」「海が見えいる」「珈琲を卓に」ですから、大変落ち着いた雰囲気といったものが感じられますね。まるで若い頃の作品とは、別人の作のようです。

A 平成元年には〈たそがれの手にまざまざと凧の糸〉、平成2年には〈手袋の片手落とした夜ひろがる〉〈顔消して来る幾人か秋の暮〉〈夕月の野へ頭から家を出る〉〈夕月に木槿の騒ぐひとところ〉、平成3年には〈三日月に何時の嘆きかよみがえる〉〈樹々はみどり風にふくらむシャツを着て〉〈仏壇を閉じて来る夜は雨の中〉〈風過ぎてゆく月明の三輪車〉〈いつまでも見えて枯野を急ぐ犬〉、平成4年には〈晩節の行くさきざきの夕三日月〉〈テトラポッド尽きて無惨に凧あがる〉〈菜の花の道の途中の岐れ道〉〈突然のトンネル月の出を消して〉〈薔薇を描く絵具の色をふんだんに〉〈欄干に氷菓を舐めて異邦人〉といった句が見られます。

B どの句も、割合普通の句というか、さほど瑕瑾も認められない作品といった感じです。可もなく不可もない出来であるというか。

A こういった晩年における作品には、どちらかというと「風」にまつわるモチーフの句が多く見られるように思われます。

B 先程の作品を見ても「風の回向」「海からの位牌に風の声」「青あらし」「風に向つてあるく」「八月の風のひとり」「松風やがて秋の風」といった表現があり、今回の作にも「凧の糸」「風にふくらむシャツ」「風過ぎてゆく」「無惨に凧あがる」といった表現が見られますね。

A これまでの作品を見てみると、この「風」のモチーフによる作品は、昭和39年の長女が生まれた時期あたりから、その数が増えてくる傾向にあるようです。

B 平成5年には〈眼帯の中の寂しい鳥を飼う〉〈裸木となり雨空へ手をあげる〉〈生傷の手をひらひらと風の中〉〈走り出す少年もいて酸性雨〉〈茫々と夜の雨いつか死後の雨〉〈鶏頭の日に日に燃えてたちあがる〉〈いずれ鬼籍の名をかりそめの紙へ書く〉、平成6年には〈小鳥来るその空の藍雫して〉〈テロの暗さの濃密な夜へ足運ぶ〉〈機首あげて飛ぶ絶望の夕日の国〉といった句が見られます。

A これらの句を見ると、普通の暮らしの作品のみでなく、やや重い内容の作も存在していたということが分かりますね。晩年の林田紀音夫の作品世界には、現実そのものの作品やフィクションともいうべき作品が入り混じって展開されているようなところがあるようです。

B 平成7年には、阪神淡路大震災に被災し、当時の作として〈朝からの雨の遥かを給水車〉〈雨の木が立ち廃屋のまざまざと〉〈泥土を着て佛壇も瓦礫の中〉〈声落とす鴉に瓦礫泥まみれ〉〈仏壇も瓦礫の類い激震後〉〈倒壊の家屋生木を裂く部分〉〈遊弋の艦船錆びて都市の沖〉〈残骸としてクレーンの爪傷む〉〈激震の家屋生木を裂くに似て〉といった作品が見られます。

A なかなか迫力のある作品が並んでいますね。震災ゆえか、現実の相というものが剥き出しのまま表現されているといった趣きで、凄みが感じられるところがあります。

B また、これらの作品の多くが無季俳句で、まるで、かつての作風が一時的に甦ったかのような印象があります。

A 翌年の平成9年になると〈巡礼の鈴の幾夜か夢寐に聞く〉〈順番が来ている念珠幾重にも〉〈何となく老い先見えて数珠一重〉といった句を最後に、自ら句作を中止してしまいます。

B そして、平成10年に74歳で亡くなるわけですね。

A さて、林田紀音夫の作品について見てきました。

B 林田紀音夫という作者は、思っていた以上に多作であったようで、今回『林田紀音夫全句集』を通読したのですが、ここに収録されている総句数はおよそ1万句といったところになります。

A 正直、その作品数の多さゆえに、全ての作品を読み通すのは、なかなか骨が折れる作業でしたが、それよりも、こういった資料を徴収し、編集、出版する方の苦労というものは、もっと大変なものがあったであろうということは容易に想像がつきますね。

B この全句集のために宇多喜代子さんと福田基さんが払われた尽力の膨大さといったものについて思いを巡らせると、正直頭の下がる思いがします。

A また、作品数だけでなく、もうひとつ意外に思ったことは、林田紀音夫という作者は、時代の変化による影響というものを割合強く受けやすい傾向にあった作者なのではないかという気がしたことです。

B そうですね。戦中は新興俳句、戦後直ぐには無季俳句に影響を受け、その後の昭和20年代の終りから昭和30年代にかけては、社会性俳句からの影響、そして、その後の前衛俳句へと向かい、さらに、その前衛俳句の流れが伝統的な有季定型へと回帰してゆく過程においてまで、その軌を一にしています。

A こうみると、戦後の俳句の歴史をそのまま生きた俳人というのが林田紀音夫であるということができそうですね。

B そして、それは、やはりリアリズムの志向により、時代の流れや風潮というものを常に見定め、意識をせざるを得なかったがゆえの当然の帰結でもあった、という風に考えることも可能ではないかと思われます。

A ともあれ、その作品のいくつかは、戦後という時代に、まるで楔のように打ち込まれ、現在においても、なお、生々しいまでの痕跡を深く刻みつけたまま、その姿形を以って屹立し続けているように思えました。


選句余滴

林田紀音夫


憶ひ出も空蟬ほどの脆さかな

人待てる椅子やはらかに暮春かな

人妻の乳房のむかし天の川

風の中唾ためて貨車見すごせる

洟拭きしあと天国を希ひけり

青空のけふあり昨日菊棄てし

竹伐りしあと一切がわれに帰す

月明の汽車が劇しく身ぬち過ぐ

血を吐くにいたらむ麺麭を焦しける

声の雲雀天に怺へてゐるを知る

猫の仔を愛し屍室に隣りせり

月明に遊びし迹もいまは消ゆ

恋さへ憂しさくら花びら創りだす

雨の絲買ひに行かねばアドルムなし

雷鳴が渡りさびしき肋せり

らんぷ吹き消す月光に溺れむと

月になまめき自殺可能のレール走る

柿の色悪しき位牌に見下され

天の雪冥し何物にも触れず

隅占めてうどんの箸を割損ず

寿司もくひ妻の得し金減り易し

逃げ場なければ寝顔まで月がさす

仏壇の金色ひらき寿司もてなす

受身で生きて葡萄酒の底を干す

珈琲に口つけていつ毒呷(あふ)る

銃口の深い暗さが僕らの夜空

舌いちまいを大切に群衆のひとり

愛し傷つき風葬の手足をのばす

寿司くう老婆に隣し妻に先立つか

引廻されて草食獣の眼と似通う

流失死体のひとつに僕をかぞえようか

馬の肢(あし)人の足ゆき河を見る

玉虫を見てよろこびとするに足る

久しきに亘り野分の中歩む

女と生れざりし月下の歩みかな

道ばたの何する火かと訊ね得ず

身辺の夜も紙風船ころがり

汽車に乗り女の許へゆくごとし

降る雪の徐々に地上の形なす

氷片がコップに残り西日の卓

死は易くして水満たす洗面器

月になまめき自殺可能のレール走る

金減りてしぐれに開く傘黒し

月に染むさむかぜに頬殺がれけり

煙突にのぞかれて日々死にきれず

ドラム罐叩きて悪き音愉しむ

葬送の酒に手を出し縁(えにし)消ゆ

死顔のなほ人に逢ひ葬られず

画廊まで持込む傘の先鋭し

下流まで家並うらぶれ其処へ帰る

硝子に透くわれを僅かに捉へたり

雲の近い日何もつかめぬ手をよごす

肋を彫つて火の玉の硝子吹く

シグナル赤ばかり鉄の軍靴が通る

鳥葬にかなう寝ざまの夜をもつ

狙撃兵という死語の下から巨大な爆発

死のスピードが描く赤い風紋

都市の沈降ライトの金に打抜かれ

乱反射するビラ頭の中の爆心

風の荒れる方向へ歩き出す弔意

少女が黒いオルガンであつた日の声を探す

この身よりひろがつて海となる流失

電話がつなぐ青い五月の気化する妻

青い蟹となるぼくら爪がないために

映画の死者にまた葬送の楽おなじ

星はなくパン買つて妻現われる

騎馬の青年帯電して夕空を負う

五月なかばの鉛の空母しんと浮く

夕月細るその極限の罪を負う

足音の昼夜ひびいて男死ぬ

レールをわたる女たちそのひとりの生誕

月夜経て鉄の匂いの乳母車

父の梢に涙のみどりごがそよぐ

プールサイドを日暮れのひとり濡らして去る

乳房をつつむ薄絹夢の軍楽隊

ねむる子の手に暗涙の鈴冷える

火のガラス吹く瞳孔にけものを飼い

風のみどりがしんと弔うおくれた走者

月光に髪膚の痛み槐太死す

夕べこどもの声むらさきに走り抜ける

死者の匂いのくらがり水を飲みに立つ

底のウイスキー鳥類は黒くはばたき

月夜疲れて石鹸の泡生む手

ポプラから暮れ父へ来る火の幼女

遠くから来る鋼鉄のひびきの死者

鳥居幾重にもマラソンのよろめく走者

生きのびて海洋の青荒れる視界

死者もまじえて雨傘の溢れる都市

いつか消されるぶらんこの揺れ止まり

傘の下から象につながる鎖見る

消えた映画の無名の死体椅子を立つ

むこうから来る埋葬の鉛の手

残像の少女の原色いつ失う

緻密な暗緑山村を発つ青年に

砲口は眼窩の暗部またもパレード

階段に死体の通る幅を許す

掌中にブランデー溜めいずこも檻

鉄橋に鉄の機関車全力ひびき

秋風の畳の声よ亡父が歩き

風が地の声となる霊柩車現われ

脱ぎすてたシャツの形の生かなしむ

傘を支えて黄にも赤にもはばたく児童

川波に夕日ちりばめ弔う都市

人混みにまぎれ時計の内部見る

屍蛹に近い身を月光に横たえる

時計の中に棲み珈琲の壁に凭る

新聞の乾いた羽音河を越す

液化の日暮れ死後も吊皮の手があり

くらがりの戦火に遠い男立つ

丘に人現れ空のむらさきに死ぬ

月光の跡形もない髪憐む

三日月を眼に彫り暗い身を支える

薄氷の遠くを影の砲車曳く

火のガラス吹きくらがりの眼を燃やす

眼底に暗黒の杉猟銃照り

遠のく日傘山肌赤く削られて

月明り障子の影に軍馬を呼ぶ

月明の手がはかなくてうしろに組む

薄くひらたく寝につくテロの暗さの夜

水銀の都市暮れ白い手が游ぐ

髪に白加わる天のさくらに触れ

羽化の幼女へ新月鉄の塔に出る

風の巷の義足はるかな海から還り

切株に遠い昔の日暮れ見る

影なした人立ちあがり鉄のこだま

三角の次の三角折り鶴生む

副葬の赤鉛筆を遺し寝る

月光を身に投錨のねむり誘う

池に濃い夕ぐれ少女たち翔び去り

どんぐりの宙の青摘む風の中

薄眼に見え幽界の松少しばかり

野の男たち火を焚いて滅びゆく

竹林の夕べさざめく死霊たち

葱畠過ぎる軍旗のまぼろし追い

雑木林を過ぎる死人の数に入り

幾人か過ぎ傘の骨手に残る

形代の白にひとしく波がしら

火葬の形に寝て風の声すぎる

風の声してまなうらを死者過ぎる

白髪を加え月夜の坂降りる

シグナルの青の七月夜に極まる

風葬の鍵穴をいつ通り抜ける

青空を或るとき汚し万国旗

天辺に雪のさざめき樒立つ

尾燈はるか氷のようにレールのび

てのひらに天道虫の昼ひとり

母の手が出て線香に火を移す

死者のため夕日の裾に椅子のこる

胸に手を組む先立つ者の昔から

おくれてくる死者にひとつの椅子残す

まつすぐに火種の少女雨をくる

踝を水に浸して怖い空

雨傘の巷に溢れ霊柩車

戦死者のひとり訪れ竹騒ぐ

鬼灯に十二神将暗く佇つ

雨流す仏は石に刻まれて

戦争へ揺れる西空のアドバルン

鉄階にマリオネットの雨の糸

新聞に顔埋めて死ぬ男たち

手がのびて幼児を攫う地の薄暮

死の際の眼鏡ひらたくたたまれる

石神の崩えて見おろす死びと花

合羽着て黒くかなしく男立つ

残された時間金魚の水替える

萩に触れ身の歳月を風とする

胸の手の未明の鷲か影過ぎる

紫陽花の毬ほどに死の色を刷く

河べりの影絵のひとも風の二月

月光に苦界の傘を持ち歩く

星の夜の蓬髪の影見失う

幾人か風の回向の野のひかり

針山に針の無慙な夜の刻

えんどうを剝く指遠く青空より

誰彼の歿後を急ぐ青あらし

月光を追う身となつて羽づくろい

月青く昨日につづく糸車

天上へ靴音のこす男たち

コスモスの揺れ誰の手かまた風か

椅子ひとつ夕日の中に取り残す

ぶらんこの天へ出て行く音しきり

月明についのひとりの風の声

胸の手のいつにはじまる明るい午睡

風に向つてあるくいつかは消えるため

風の巷を行き一片の雲に似る

夕空の濃い邂逅を待つばかり

鍵穴のひとつ月夜に遺し寝る

木の葉降る音のいつよりいつまでか

あたたかな冬木と思う歩み寄り

海が見えいる八月の風のひとり

茫として松風やがて秋の風

雨の糸見えていつまで女坂

鍵かけて雲の流れる方へ行く

いつぞやの錻力を叩く冬の景

珈琲を卓に日永の匙沈む

手袋の片手落とした夜ひろがる

顔消して来る幾人か秋の暮

夕月の野へ頭から家を出る

三日月に何時の嘆きかよみがえる

樹々はみどり風にふくらむシャツを着て

風過ぎてゆく月明の三輪車

いつまでも見えて枯野を急ぐ犬

晩節の行くさきざきの夕三日月

テトラポッド尽きて無惨に凧あがる

菜の花の道の途中の岐れ道

突然のトンネル月の出を消して

薔薇を描く絵具の色をふんだんに

欄干に氷菓を舐めて異邦人

眼帯の中の寂しい鳥を飼う

裸木となり雨空へ手をあげる

走り出す少年もいて酸性雨

茫々と夜の雨いつか死後の雨

鶏頭の日に日に燃えてたちあがる

いずれ鬼籍の名をかりそめの紙へ書く

小鳥来るその空の藍雫して

テロの暗さの濃密な夜へ足運ぶ

機首あげて飛ぶ絶望の夕日の国

夕虹を刷く酸性雨通り過ぎ

風鈴に風のこる夜の亡き友よ

形代の流れに沿つて家並あり

春そこに丸に四角に水溜り

発光のさくら青空限りなく

氷片のコップに誰の声か待つ

泥土を着て佛壇も瓦礫の中

声落とす鴉に瓦礫泥まみれ

仏壇も瓦礫の類い激震後

倒壊の家屋生木を裂く部分

遊弋の艦船錆びて都市の沖

巡礼の鈴の幾夜か夢寐に聞く

順番が来ている念珠幾重にも

何となく老い先見えて数珠一重



俳人の言葉

ぼくは『林田紀音夫全句集』を編纂しつつ彼の無季作家として名をほしいままにして来たその実績を毀すのではないかと思ったことはしばしばであった。けれども、親族や弟妹のために、彼の句作の真実を網羅したつもりである。彼のイメージを毀したとする批判は、ぼくが一身に受けとめよう。と同時に思うことは、戦争とか地震とか、何か歴史的なナンセンスの時代に無季や反抗や抵抗がはびこり、歴史の流れが、それらを稀釈しているということである。彼の初期のペシミスティックな作品も真実なら、彼にゆとりのできたころの作品も、これまた真実である。

福田基 「林田紀音夫の俤 雑感風に」より 「俳句界」(文学の森 2008年6月号)

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俳句九十九折(34) 俳人ファイル ⅩⅩⅥ 喜多青子・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(35) 俳人ファイル ⅩⅩⅦ 高田蝶衣・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(36) 俳人ファイル ⅩⅩⅧ 藤野古白・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(37) 俳人ファイル ⅩⅩⅨ 加藤かけい・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(38) 俳人ファイル ⅩⅩⅩ 新海非風・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(39) 俳人ファイル ⅩⅩⅩⅠ 福田甲子雄・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(40) 俳人ファイル ⅩⅩⅩⅡ 臼田亜浪・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(41)俳人ファイル ⅩⅩⅩⅢ 篠原梵・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(42) 俳人ファイル ⅩⅩⅩⅣ 大野林火・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(43) 俳人ファイル ⅩⅩⅩⅤ 飛鳥田孋無公・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(44) 俳人ファイル ⅩⅩⅩⅥ 藤木清子・・・冨田拓也   →読む

俳句九十九折(45) 俳人ファイル ⅩⅩⅩⅦ 和田魚里・・・冨田拓也   →読む

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2 件のコメント:

野口裕 さんのコメント...

冨田拓也 様

 読ませてもらいました。全句集だけにとどまらず、紀音夫の発表当時の句や彼自身の文章を交えての論考、教えられました。結びに近く、

>また、作品数だけでなく、もうひとつ意外に思ったことは、林田紀音夫という作者は、時代の変化による影響というものを割合強く受けやすい傾向にあった作者なのではないかという気がしたことです。

とあるのを見て、なるほどと思いました。私がこれに付け加えるとするなら、影響を受けやすいだけに自身の句の発表に慎重になったのではないか、ということです。
 句会をともにしたことのある人に聞くと、よく「どぶ漬け」と言っていたようです。いったんできあがった句を何年か寝かせてからバリエーションを勘案しつつ完成形に近づける、これをよくやっていたようです。
 冨田さんが、昭和十七年の作としてあげている、〈ひとの死のその葉書なりふたつに折る〉は、全句集では、戦後の雑誌に発表されていた、として掲載されています。私は長らく、昭和二十年春に最後の現役兵として入営したときを回想した句と考えていました。今回、蒙を啓いて頂くことになりましたが、考えてみると、戦後雑誌に発表しながら、第一句集に入れなかったところなど、「どぶ漬け」の精神そのものかも知れません。

 私が、現在もっとも大きな謎と考えているのは、筆を折るきっかけとして、阪神大震災が作用したかどうかということです。私の答はイエスに傾きますが、ノーと言う人を説得するほどの論拠を持っているわけでもありません。今回の文章も参考にして、ゆっくり考えたいと思っています。
 いずれにしろ、多岐にわたり大変参考になりましたありがとうございます。

冨田拓也 さんのコメント...

野口裕様

コメントいただきまして、ありがとうございます。

「どぶ漬け」ですか。

なるほど。

山口誓子も、自作を発表するまで、1年間ほどプールしておいてから漸く発表していたという話を聞いたことがあります。

そうみると、林田紀音夫には割合、作品に対して強いこだわりというか、どちらかというと完璧主義的な志向を有していたということになるようですね。

再三、同じようなモチーフ(「傘」「風」「声」など)が、作品の上において繰り返されるのもそういった志向の存在が関係しているところがあるのではないかという気もしました。

林田紀音夫が晩年に筆を折るに至った要因として、阪神大震災が作用している可能性がある、というご意見、なるほどと思いました。
福田基さんにお伺いすれば、そのあたりのことについては、ある程度はっきりするところがあるかもしれませんね。

では、これからも野口さんの「週刊俳句」での連載及び、今後の林田紀音夫への考察の展開を楽しみにいたしております。