2009年9月13日日曜日

遷子を読む(25)

遷子を読む(25)


・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井


山深く花野はありて人はゐず
『雪嶺』所収

窪田:昭和42年の作品。もともと「花野」は、高原に広がっているというイメージが私にはあります。ですから、敢えて遷子が「山深く」と言ったところに引かれました。

私は花野の中にいると何時も不思議な感覚に囚われます。この花野のどこかに黄泉の国への入り口があるのではないかとか、死んだ人の魂が集まってきているのではないかなどと思えるのです。遷子は山深いところに広がる花野にいて、何を感じていたのでしょうか。単に人がいないなあと思っただけでしょうか。私は、他の何かを見ていたのではないかと思われるのです。

この句は、娘さんが嫁がれる前後を詠んだ句に、挟まれるように句集に収められています。そして、掲句の直前には

秋風に餅しげく搗く喪の農家

の句が置かれています。私には最初ちょっと唐突な感じがしました。

少し横道に逸れますが、中学生の頃に読んだ本に(確か著者は、和辻哲郎だったと思います)「花は何故美しいか」という文章がありました。詳しいことは省きますが「人間なんて絶対来ないような深い山の中でも花は美しく咲いている」という件に、私は考え込んでしまいました。「人は何故生きるのか」という問を投げかけられたように思ったからです。遷子がそれに近いような事を考えて、敢えて「山深く」と言ったのではないか。それは、例えば喪失感。遷子は大切な娘を嫁がせると言う時にこの句を作っています。ですから、深い喪失感がこの句を生んだのではないかと想像します。掲句の前に

嫁ぐ子に遣る何も無し秋深む

後ろに

菊活くるこの子去るとは思ほえず
秋の苑子を嫁がせし父歩む

などが置かれていること、そして直前に唐突に置かれた「秋風に……」の句からそれを一層強く感じます。

中西:この句は吟行詠ではなさそうですね。窪田さんがご指摘のように、「山深く」がどうも心理詠であることを仄めかしているようです。吟行詠ですと、『山国』に、

花野より巖そびえたり八ヶ岳

という、きりっと引き締まった具象的な高原派時代の句がありますが、これと比べてもわかりますように、どこか臨場感に欠けているようなところもあり、沈んだ気色の句と言えるでしょう。つまり、花野は遷子の心の景色なのではないでしょうか。娘を嫁がせる父親の心境と見て間違えなさそうです。窪田さんは「山深く」に喪失感を感じるとおっしゃっていますが、わたしもそれに続く「人はゐず」に大きな喪失感を感じます。今までは幼い可愛らしい時代から、美しく成長した娘が、ずうっと花野が象徴する遷子の心の中で遊んでいたのです。その景色はいつも遷子を幸せな満ち足りた気分にさせていました。その娘が去ってしまった。俗な言い方をすれば心にぽっかり穴のあいたような喪失感があるようです。子煩悩な父親にとって、娘を嫁に出す心境とは、不可解なほど心に負担がかかるもののようですね。

「山深く」は遷子の「心の奥深く」の比喩ととりますと、

薫風や人死す忘れらるるため 『山河』

の先駆けのような心理詠で、これも遷子の一詠法なのかと思いました。佐久に来てからは孤独を守って作ってきた遷子ですから、句の内容も外に向けられるより、自分の内に向って作られて行ったとも考えられますね。こう考えていきますと、薫風の句に比べて、間接的であり、周りの句の存在から娘の結婚がわかるという状況です。俳句は舌足らずなもので、なかなか思いの丈を述べられません。しかし、連作でないかぎり、一句は独立したものです。遷子についてなんの予備知識もなく、これを一句だけ見せられて鑑賞せよと言われましたら、ただ、心の空虚、得体の知れない喪失感を感じるのではないでしょうか。われわれは深読みをしていませんでしょうか。
 
深谷:窪田さんの御指摘の通り、句集では、愛娘を嫁がせる心情を詠んだ一連の句群の中に、「秋風に餅しげく搗く喪の農家」そして掲句がやや唐突に置かれています。愛娘の結婚を詠んだ句は、どれも一人の親としての心情が素直に表れています。愛おしさと、ある種のもの哀しさとが綯い交ぜになったような心境というべきものが、美しい秋の景とともに作品に仕立てられています。それに対し、これら2句はだいぶ趣が異なります。いろいろな考え方があると思いますが、次のような捉え方に落ち着きました。

「秋風に……」の句を読んで連想したのは、下村槐太の「死にたれば人来て大根煮きはじむ」です。槐太の句は、人の死という厳粛な事象をも圧倒してしまう、現世に生きる者たちの逞しさ、無慈悲さを題材とした作品ですが、この「秋風に……」の句にも同じ視線を感じます。いわば、個人の事情を超えた社会生活という現実がそこにあるのです。

一方、掲句の秋の花野。美しい景です。それも、山深い場所に、人知れず、そのような美しい花野があります。そして、中七と下五の対句により、自然現象が個人の想いとは無関係にその営みを続けることを示しているように読めます。

要するに、この2句は、遷子の愛娘への惜別の情を超越して惹起する、社会・自然事象に焦点を当てた句ではないでしょうか。愛娘を見つめる、父親としての情感が溢れる眼差しとは別に、冷徹に社会・自然を観察する視線を感じます。遷子に、どこまでの作為があったのかは別にして、そのようなことを考えました。

原:山歩きをする人にこのような体験は時折あるらしく、それは鮮やかな印象を残すだろうと思います。単独行ならとりわけそうでしょう。実際の経験として読めますが、この句はどこか象徴的な趣が漂っていて、誰も行かない場所に人知れず、よきもの・美しきものがあるかもしれないという浪漫的な思いを誘います。遷子にはこういう清らかに美しいものを憧憬する心が常にあって、そのことが彼の作品を醜くしなかった大きな要因だったのでしょう。以前取り上げた、

梅雨めくや人に真青き旅路あり

の句にもそのような志向を感じます。

社会性俳句の潮流に刺激されて、現実の世相や社会矛盾に眼を向けた作品の場合にも、その視線は内省に向かうものだったように受け取れるのです。

ついでですが、遷子ミステリーツアーの記事で、遷子の墓所である金台寺が時宗の寺と知って、珍しいなと思っていましたら(私が知らないだけかもしれません。時宗のお寺は数が少ないという気がしていましたので)、時宗の開祖一遍は信州に来ていたのですね。元寇再来の2年前だそうです。佐久伴野郷及び近隣の小田切で別時念仏を行ったとのこと。ことに小田切での踊念仏では提供された屋敷の床を数百人で踏み抜いたらしいですね。以後時宗はこの地に根付くことになったのでしょうか。

筑紫:眼で見たままの写実のように思えますが、皆さんのコメントを拝見してそれぞれ鋭い解釈で感心しました。写実にあっては、醜悪なものは現実描写が強いと思いますが、このような美しいものには、どこかしら作者の理念・理想が投影されるように思います。細谷源二の「地の涯に倖せありと来しが雪」という句には現実の雪以上に、観念的な思い(孤絶・重圧・不安・諦観)が付きまとっているようです。プロレタリア俳句の源二においてすらそうであるのですから、理想美を追及した(その意味では観念的であるわけです)馬酔木に学んだ遷子にそうした傾向が現れてもおかしくないかもしれません。

戦後佐久に移った遷子の俳句への意欲は低下したままだったようです。昭和24年夏の堀口星眠の訪問を機に高原派に参加するのですが、若干の違和感があったことは確かのようです。戦前の遷子はもっぱらただ一人で吟行し、ただ一人で句作していました。他の人と一緒に句作することは非常に苦手とするところだったといいます。句会についても、1ヶ月前から期日も時間も決まっていて、雑詠に力を注ぎ、兼題席題には力を入れませんでしたし、互選の点数にも重きをおかず、ひたすら秋桜子の選に入るのを目標としました。句会で苦吟したり、対座の雰囲気によって句を発酵せしむるといった修業の経験はまったくありませんでした、内心そういう方法を馬鹿にしていたこともあったようです。高原派に参加してそうした考え方は改められたようですが、それでも遷子が高原派として活躍した24年から27年までの間に吟行した回数は軽井沢に4回、野辺山に5回であったといいます。高原派というにはあまりにも貧しい吟行回数です。堀口星眠、大島民郎らはこの間40~50回と言いますから比較になりません。

こんなことを考えると、この句の時期(昭和42年ごろ)には再びもとの遷子に戻っていたのではないかと思われます。つまり「ただ一人で吟行し、ただ一人で句作」するという流儀です。あるいは、句会に期待しないでもっぱら雑詠に専念する、という傾向です。おそらくそうした俳句制作の環境を想定したとき、皆さんが指摘した喪失感や、象徴的な詠み方が納得できるように思うのです。

(参考)
原さんの後段のお話について。お寺の数のランキングはこうだそうです。時宗はやはりなかなか出てきません。

①曹洞宗 ②浄土真宗本願寺派 ③真宗大谷派 ④浄土宗 ⑤日蓮宗 ⑥高野山真言宗 ⑦臨済宗妙心寺派 ⑧天台宗 ⑨真言宗智山派 ⑩真言宗豊山派。

時宗は、「南無阿弥陀仏決定往生六十万人」と記した札を配る「賦算」と、太鼓・鉦を打ち鳴らし踊りながら念仏を唱える「踊念仏」で布教しましたが、その踊念仏の始まりは弘安2年(1297年)、信濃国で始めたそうです。

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1 件のコメント:

Unknown さんのコメント...

山深く花野はありて人はゐず 『雪嶺』 遷子 
薫風や人死す忘れらるるため 『山河』 同

こういう風景がわたしはすきです。
筑紫さんのいわれるように、たしかに、心理や理念の投影、もかんじますが、実際にこういう場所はあるのだとおもいます。

「人がゐず」という「場所」そのものにゆきあって感動しているのでしょう。そこは人が来るのを待ってているよう場所、自分のさがしていた場所だと感じるわけですから、みえぬ人影はうじゃうじゃしていますが。
 
でも、人間が居ない場所に感動すること、こういうのがナチュラリストの面目、と言ったような気がします。