七曜俳句クロニクル ⅩⅩⅩⅠ
・・・冨田拓也
4月5日 月曜日
武藤尚樹『蜃気楼』(邑書林 1992)を入手することができたので、すこし読んでみることにしたい。以前(2008年9月13日)この「-俳句空間-豈weekly」誌上において筑紫磐井氏が取り上げておられた作者の句集である。思えば、そのころはまだ第5号で「遷子を読む」の連載さえ始まっていない時期であった。
この武藤尚樹という作者は昭和35年生まれで、同人誌以外は結社などには所属していない作者であったようである。句集には全237句が収録され、これらの作は大体高校時代から20代までの作品ということになるようである。
ことごとく地を打ちてやむ雷雨かな
マッチ擦る枯野は遥かにひろがりて
路地裏に蠟石の絵の凍ててをり
腹這へばなだらかな丘うまごやし
果樹園へ深く入りゆく午睡あと
仰向けに寝て体内に銀河かな
これら「マッチ」「うまごやし」「果樹園」「銀河」の作品からは、その語彙からも寺山修司の俳句の世界からの影響というものが割合顕著であるということが感取できよう。
しかしながら、このような寺山的な作品は大体はじめの方あたりまでで、その後は時代的な影響も作用しているのか(この作者が句作をしていた時期は大体主に1980年代ということになるはず)、徐々に文学的な要素を振り落してゆき、その作品傾向というものは、だんだんと俳句の典型的な形式性そのものへともたれかかるような傾向が顕著となってくるところがあるというか、もっといえば俳句形式そのものに「しなだれかかっていく」とでもいっていいような趣きが顕著となってゆくようなところがある。それこそ作品がどんどん「今井杏太郎」化してゆくようで(もしかしたらある種の「ライト化」なのであろうか)、その後はそういった傾向の作品というものが次々と続いてゆくといった様相を呈している。
トランプの散らばつてゐる春の宵
抽斗のなかに陽のさす冬雲雀
口笛にまじる草笛誕生日
春の木といふさまざまな木をおもふ
まどろめば座敷の間際まですすき
空気入れてふものありぬ秋の暮
早春の浜に水吐く空壜よ
春の山赤鉛筆を拾ひけり
彼方より蓮の葉の揺れ届きけり
空壜のつまれあるうへゆきつもる
そして、最後の「蜃気楼」という章では、一体どういうわけであるのか「目玉」をモチーフとした連作を25句にもわたって並べるという、なんだかその意図を十全に理解しかねるようなかたちを以てこの句集は終了するという結果となっている。しかしながら、このようないまひとつ真意のよくわからないやや中途半端とも思われるような句集の終り方を示しているのは、この後この作者が句作をやめてしまうという事実ともなにかしら関係するところがあるということになるのかもしれない。通常の作者ならば、自らの作品集に対して、このようなやや不可解な終り方をさせるということはまずありえないのではないかという気がする。
草の絮彼方より目に近づき来
蜃気楼わが目の玉もふるへをり
まなこより朽ちゆく我か秋半ば
ともあれ、この句集はやや「脱力」的というか、少々変わった「青春句集」であるということがいえるのではないかと思われる。
4月6日 火曜日
「電車」という言葉が思い浮かんだ。
夏草に汽罐車の車輪来て止まる 山口誓子
強く生きたし電車朝日に埋れ去る 金子兜太
機関車の底まで月明か 馬盥 赤尾兜子
積む雪の乗り捨ての花電車かな 三橋敏雄
長距離寝台列車(ブルートレーン)のスパークを浴び白長須鯨(しろながす) 佐藤鬼房
葉桜の頃の電車は突つ走る 波多野爽波
櫻見にひるから走る夜汽車かな 八田木枯
汽罐車も鰓もてすすむ稲穂波 竹中宏
路地裏を夜汽車と思ふ金魚かな 攝津幸彦
4月8日 木曜日
邑書林から刊行予定の50歳以下の作者によるアンソロジー『超新撰21』の公募枠は「2名」ということに決まったそうである。
これは少ないのか、それとも妥当な人数ということになるのか。個人的には未知の作者の作品というものをせめて3、4人くらいは読んでみたかったという気持ちもないではないが、他の50歳以下の作者たちの存在というものが、やはりそれぞれにそれだけ動かし難い実質を備えていたための結果ということになるのであろう。
4月9日 金曜日
『長谷川久々子』(花神社 平成7年)を10年近く振りに再読。
模糊として男旅する薄氷
瓢箪やゆるゆる縮みゆく老婆
杉山の幽みより雪翼もつ
花びらを踏みももいろの胎児かな
白地着て天上の人こみあへり
花冷の嬰に甲冑の縅色
国生みの神に野分の草伏して
樹の上に渾身の闇涼気すぐ
仏掌柑のひとつは寺へいろは坂
雨後の土天地返して鳥曇り
とき放つ紅紐のうづ凌霄花
吹き散るや花霊くづほれるさまに
萍の甕に雨あし卍なす
作者は、昭和15年生まれの、俳人長谷川双魚の夫人であり、飯田龍太の門下の作者ということになる。今回この句集を読み返してみて、それこそ当時自分のような20歳そこそこの俳句の初心者というものが容易に読み解けるような内容の代物ではなかったな、ということを漸く理解することができた。
この作者のバックボーンには、世界や日本の文学全集、歴史書、仏教書などなど膨大な読書量が控えているそうで、その知性から生み出される作品は、上記の作品を見てもわかるように、古典的な世界の雰囲気をそのままに髣髴とさせるような格調高い作風と、言葉そのものを自在に操る高い技術性といったものが相当に強く感じられるところがある。そして、それのみならず、その作品からは、通常の多くの作者の作品からはおおむねあまり感じられることのない、なにかしら常軌を逸したとでもいうような、それこそある種の作者のみが顕現させることのできるやや尋常でない言葉の力とでもいったようなものが、そのまま俳句形式の内に底籠り内在していることが感取できよう。他の作品というものと比較してみれば一目瞭然であろうが、所謂「伝統派」の作者でも、実際のところここまでの作品密度を誇る句というものを生み出すことができるような作者というものはそうそうには存在しないのである。
しかしながら、思えば、文芸の世界というものには、この長谷川久々子という存在のように、それこそ「日本の女性」的というか、「和」の系譜とでもいったようなものの流れというものが、現在に至るまで絶えず存在しているようにも思われるところがある。思い付くままに何人かそのような人物といったものを数えてみると、幸田文、白洲正子、竹西寛子、山中智恵子、馬場あき子、別所真紀子、日和聡子あたり、ということになろうか。
これらの人物の世界に共通するのは、やはり古典の素養によって裏打ちされた重厚な知性ということになるのであろうが、そこには単なる格調の高さのみならず、同時に「伝統」というものが持つある種の薄暗い闇の雰囲気というか、それこそやや妖気とでもいったような気配といったものが相当濃厚に含まれているように感じられるところがある。
思えば、俳句の世界においても、他にこのような夢とも現ともつかないような古典的な世界というものをその作品の上に現出させることのできる作者というものが何人か存在しているのである。そして、そのような境地というものは、よく考えてみると個人的にはもしかしたら、割合憧れの境地といっていいのかもしれないなという思いもしないではない。
灰のように鼬のように桜騒 澁谷道
齢闌けて吹雪のように踊るかな 〃
折鶴をひらけばいちまいの朧 〃
われを消すものほうほうと蓮枯れて 手塚美佐
坐禅草けむりのごとく道消えて 〃
見えぬもの波がつなぎて涅槃の日 〃
てふてふや遊びをせむとてわが生れぬ 大石悦子
あはうみに鯉の吐きたる朧かな 〃
孵らざるものの声する青蘆原 〃
4月10日 土曜日
今週は珍しくネットで句集を1冊も購入しなかった。やはり一応ネットでの句集購入熱というものは一応のところ一旦はおさまるという結果となったようである。しかしながら、部屋にある詩歌関係の資料の堆積というものを眺めていると、なんとも頭の痛くなってくるようなところがある。
諸家の句集堆く積み頭を垂るる 三橋敏雄
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2 件のコメント:
冨田さま
面白かったです。
>個人的には未知の作者の作品というものをせめて3、4人くらいは読んでみたかったという気持ちもないではないが、他の50歳以下の作者たちの存在というものが、やはりそれぞれにそれだけ動かし難い実質を備えていたための結果ということになるのであろう。
実は名簿を拝見したのですが、「え?この人ってこの条件に当てはまるの???」「もう確固たる有名人かと思ってた!」という方々がかなりいらっしゃり、びっくりしました。どうも層がかなり厚そうなのです。
この中で2名の公募はかなりどうかしていますが、たぶん発端が私がどこかのブログで啖呵をきったことのような気がして。。。申し訳ありません。
早く決まるといいなと思っております。
句集の読み解きは好きですので、ぜひまたお願いします。
野村麻実様
コメントありがとうございます。
あと、文章でのご登場嬉しく思いました。
ブックレヴューもさすがに明晰ですね。
「永井路子」あまり読んだことないです。(文庫本を1冊だけ持っていたような。「万葉恋歌」だったかな?)
今度は「小説」の方の創作も楽しみに。
そういえば現在ではあまり「俳人」を取り扱った小説がないような気も……。こちらの方もご検討ください。
「超新撰21」の年代の作者はやはり層が厚いということになるのですね。
公募枠は2名と狭いですが、そこからこぼれ落ちてしまった作者たちの作品の「受け皿」のようなものが、またなんらかのかたちであればいいかもしれませんね。
句集については、それこそこれまでにどれだけ優れた作者の存在と作品を見落としてしまっているか、わかったものではありませんね。
俳句の世界というものも狭いといえば狭いのですが、細かく見てゆくとそれこそ際限がないようなところがあります。
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