俳人ファイル ⅩⅩⅩⅥ 藤木清子
・・・冨田拓也
藤木清子 15句
きりぎりす晝が沈んでゆくおもひ
こめかみを機関車くろく突きぬける
逝くものは逝きて巨きな世がのこる
虫の音にまみれて脳が落ちてゐる
元日のそらみづいろに歯をみがく
落葉ふりひとあやまちを繰りかへす
ひとりゐて刃物のごとき昼とおもふ
春晝を沈むリフトにひとりなり
うすもののどこかゆるみてひとやさし
わかれきて硬きつめたき水を飲む
しろい晝しろい手紙がこつんと来ぬ
戦死せり三十二枚の歯をそろへ
晩秋を病み水薬のごとき日暮れ
曇日の封筒花のごとしろし
黙禱のしづけさ空にとりまかれ
略年譜
藤木清子(ふじき きよこ)
生年不詳
昭和6年(1931) 後藤夜半主宰の「蘆火」に、広島より藤木水南女(みなじょ)の名で投句
昭和9年(1934) 「蘆火」廃刊
昭和10年(1935) 日野草城の「旗艦」、「天の川」「京大俳句」などに投句
昭和11年(1936) 「旗艦」に拠る 9月より藤木清子と改める
昭和12年(1937) 神戸に転居 「旗艦神戸句会」に参加
昭和16年(1940) 「旗艦」1月号にエッセイ掲載 『現代名俳句集 第2集』刊 以後消息不明
没年不詳
A 今回は藤木清子を取り上げます。
B この作者は現在では割合有名といってもいいでしょうか。
A 一般的にはさほど有名ではないのでしょうが、俳句の世界では宇多喜代子さんや川名大さんなどの尽力により、現在では割合その名が知られているところもあるのではないかと思われます。
B この作者について書かれた評論は、私の知る限りではおおよそ次の通りになります。
・宇多喜代子「藤木清子」 『イメージの女流俳句』(弘栄堂書店 1994)
・宇多喜代子 講演「藤木清子とその周辺」 『草苑』(1999年7月 353号)
・中村苑子「みずから孤立して消えて行った女流俳人」 『俳句礼讃』(富士見書房 2001)
・川名大 『現代俳句 上』(ちくま学芸文庫 2001)
・川名大「藤木清子の人と作品」「戦争俳句と性愛俳句」 『モダン都市と現代俳句』(沖積舎 2002)
・宇多喜代子「新興俳句と戦時下の俳句」 『NHK人間講座 女性俳人の系譜』(日本放送出版協会 2002)
・宇多喜代子『わたしの名句ノート』(富士見書房 2004)
・桂信子「桂信子の俳句史がたり〈9〉」 『草苑』(2004年1月 407号)
・川名大「解題」 『現代100名句集 第4巻』(東京四季出版 2004)
・佐藤清美「孤独の孤独―藤木清子」 『鬣』(2007年11月 25号)
・宇多喜代子「藤木清子」 『鑑賞女性俳句の世界 第3巻』(角川学芸出版 2008)
・栗林浩「藤木清子―新興俳句の女流」 『続・俳人探訪』(文学の森 2009)
A こうみると、割合評論の数については、少なくないと言ってもいいかもしれませんね。
B 作品について纏められているものを挙げると、次のようになります。
・『現代名俳句集 第2集』(阿部青鞋編 昭和16年)
・『女流俳句集成』(宇多喜代子、黒田杏子編 立風書房 1999)
・『現代100名句集 第4巻』(東京四季出版 2004)
・『女性俳句の世界 第3巻』(角川学芸出版 2008)
・栗林浩「藤木清子―二百句抄」 『続・俳人探訪』(文学の森 2009)
A 作品についても、こうみると割合しっかりと纏められているようですね。
B 藤木清子の略歴についてですが、生没年ともに不詳で、生年について推定されるところでは明治30年代前半の生まれではないかと言われています。俳句については、まず、昭和6年(1931)頃に、後藤夜半が選をしていた「蘆火」に投句しており、その後、昭和10年(1935)になると、日野草城の「旗艦」が創刊され、そこへと投句を始めます。
A 「蘆火」は「ホトトギス」の衛星誌ともいうべき俳誌であったそうですが、斬新な誌面づくりゆえに青年が多く集まるようになり、時代の歩みと共に新興俳句的な要素が日増しに強くなっていったそうで、「ホトトギス」や時代の流れなどを慮って、昭和9年に一旦解散、そして終刊後、同誌に拠っていた人々が、昭和10年に創刊された「旗艦」へと流れ込むかたちで参加してゆくことになったとのことです。
B その「蘆火」から「旗艦」へと移って行った人々の流れの中に、藤木清子の存在もあったというわけですね。
A その後、藤木清子は昭和12年に広島から神戸に転居し、「旗艦神戸句会」に参加、神生彩史、笠原静堂、三保鵠磁、棟上碧想子、平畑静塔、波止影夫などといった作者たちと切磋琢磨するようになったそうです。
B この広島から神戸への転居の背景には、夫との死別が関係しているそうです。
A そして、この「旗艦神戸句会」の関係から、桂信子や伊丹三樹彦とも会うことになったとのことです。
B その後、数年ほど句作を続けていたわけですが、作品としては昭和15年10月号が最後となり、昭和16年「旗艦」1月号に文章が掲載されて以後、その名前は見られなくなります。
A 桂信子の「桂信子の俳句史がたり〈9〉」(『草苑』2004年1月 407号)によると〈藤木さんの再婚が決まったのは40年でした。嫁ぎ先は阪神間の旅館でしたが、俳句をきっぱりやめるのが結婚の条件とのこと。神生さんは「結婚なんかするな」と反対しました。でも藤木さんは「女の心は男の人には分からないのよ」となぞめいた言葉を残し、去っていきました。〉とのことです。
B こうみると、結局俳人として活動していたのは、後藤夜半の「蘆火」に投句し始めた昭和6年(1931)から昭和16年(1940)までのおよそ9年ほどということになるようですね。
A 栗林浩さんの労作「藤木清子―新興俳句の女流」と「藤木清子―二百句抄」(『続・俳人探訪』文学の森 2009)によれば、藤木清子の発表された作品の数は合計でおおよそ〈四百五十余句〉ではないかとのことです。
B では、その作品について見てゆきましょうか。
A まず、昭和6年の「蘆火」における作品について見てみることにしましょう。この時期は、藤木清子という名ではなく「藤木水南女(みなじょ)」という名で投句しており、〈曼珠沙華抱へて溝を飛びにけり〉〈枕辺に飴玉をいて風邪寝かな〉という作品があるようです。
B この時期の資料については、現在ではほとんど残っていないとのことです。しかしながら、この2句の作品だけを見ると、その作品の出来はさほど悪くはないとはいえ、どちらかというと平凡といっていいような印象の句ですね。
A 榎島沙丘が、のちの「旗艦」昭和15年5月号で藤木清子について〈藤木清子には水南女と称した永い伝統時代があった。最愛の良人に死別されてから、家庭的に淋しい生活が初まり、俳句的には華やかな新興俳句時代が始まつた。今日彼女の活躍の基礎を成すものは永い伝統時代に培はれた手堅い表現技能であり、その詩情は彼女の淋しくも美しい寡婦の生活から滾々と生まれ出る〉と評しています。
B この昭和6年から廃刊になる昭和9年あたりの3、4年の期間というのが、榎島沙丘のいうところの藤木清子における「伝統時代」の時期にあたるというべきでしょうか。
A 昭和9年の「蘆火」廃刊後の昭和10年になると、藤木清子は「旗艦」、「天の川」「京大俳句」などに投句を開始するようになります。
B そして昭和11年には「旗艦」のみを拠点とし、名前も「藤木水南女」から「藤木清子」へと変更します。
A この昭和10年の作品を見ると〈古衾悪魔に黒髪摑まれぬ〉〈麦の穂や海の深浅あきらかに〉〈家あつし身ごもる妻の声黄なる〉〈心の瞳砥ぎつ幾夜ぞ虫鳴けり〉、また昭和11年には〈春日没るひかりにくろく人うごめく〉〈あつき夜が四角な壁となりて責む〉〈空は青磁ましろき蝶の孵りたる〉〈暖炉燿りダイヤの稜に星棲める〉〈飢えつゝも知識の都市を離(か)れられず〉〈わが墓標無明の行路(みち)のいや果てに〉〈しろき月黄金(きん)となりゆく若葉かな〉〈五月来ぬ湖の青きにのりて来ぬ〉〈蚊の墜つる静かな音が身に韻(ひび)く〉といった作品が見られます。
B この時期となると、「悪魔に黒髪摑まれぬ」「妻の声黄なる」「心の瞳砥ぎつ」「くろく人うごめく」「空は青磁ましろき蝶」「ダイヤの稜」「知識の都市」「しろき月黄金(きん)となりゆく」「湖の青き」など、その作品の上にはやはり新興俳句的な雰囲気が強く感じられるようになってくるようですね。
A 「黒髪」「心の瞳」といったやや空想的、もしくは心象的な句や、黄、黒、青、白、金といった原色による色彩感覚の強さが、当時の新興俳句の表現に近しいものがあります。
B 続いて、昭和12年の作品ですが〈燕来ぬ煙都のふかく澄める日に〉〈きりぎりす晝が沈んでゆくおもひ〉〈兵征けりしろき峰雲ゆるぎなく〉〈さくら咲き過去が重たくもたれよる〉〈ひとり身に馴れてさくらが葉となれり〉〈香水よしづかに生くるほかなきか〉〈草青く雲と捨て猫しろししろし〉〈からたちは鋭し夫人うるはしき〉〈月涼しよきおもひ出をもたぬわれ〉〈幸福な人はつれなくうつくしき〉〈少女の四肢ほそくかしこく冷房に〉〈針葉のひかり鋭くソーダ水〉〈たそがれの海に壓されて汽車を待つ〉〈こめかみを機関車くろく突きぬける〉〈蓼ほそくのびて颱風圏に入る〉〈粉飾の下にさびしい血が通ふ〉〈逝くものは逝きて巨きな世がのこる〉〈灯を消してより悔が大きくなつて来る〉といった作品がこの年には見られます。
A この昭和12年に、広島から神戸に転居したという事情も作用しているのか、「煙都」「香水」「冷房」「ソーダ水」「汽車」などの名詞から、やはり全体的に都市における作品が目立つようですね。
B 神戸ですから、当時としては非常にモダンな都市ということになるはずです。
A また、この昭和12年に「旗艦神戸句会」にも参加することになりますから、メンバーである神生彩史、笠原静堂、三保鵠磁、棟上碧想子、平畑静塔、波止影夫などからの影響といったものも小さなものではなかったはずであると思われます。
B 他には山口誓子の影響も考えられるかもしれませんね。
A あと、作品の上には、全体的に孤独な雰囲気が強く感じられます。
B 〈きりぎりす晝が沈んでゆくおもひ〉〈さくら咲き過去が重たくもたれよる〉〈ひとり身に馴れてさくらが葉となれり〉〈月涼しよきおもひ出をもたぬわれ〉〈幸福な人はつれなくうつくしき〉〈蓼ほそくのびて颱風圏に入る〉〈粉飾の下にさびしい血が通ふ〉〈逝くものは逝きて巨きな世がのこる〉〈灯を消してより悔が大きくなつて来る〉ですから、確かに非常に強い孤独感の存在が感じられます。
A 先程にもふれましたが、神戸に転居したのは夫との死別によるものであったそうです。
B そういった事情が、このような作品の背景として強く影を落としているように思われます。
A また〈きりぎりす晝が沈んでゆくおもひ〉といった句についても、やや重たい内容が描かれていますが、「晝は沈んでゆく」という表現にやや特異なところがあり、表現の正確さということを考えると、本来的には沈んでゆくのは「昼」ではなく「太陽」ということになるはずですね。
B それを「昼」という時間や空間そのものが、そのまま沈んでゆくようであると表現したわけですから、なかなか大胆な表現ではないかと思います。
A 藤木清子には、意識的な新興俳句における表現の手法の駆使が確認できるというわけですね。
B このような孤独感と、新興俳句的な手法により〈こめかみを機関車くろく突きぬける〉といった超現実的な表現を生み出すことができたのでしょう。
A こういったややシュールともいうべき表現については、当時、非常に斬新な表現であったであろうということは想像に難くないですね。
B おそらく当時このような表現を成し得る俳人は、ほとんど存在しなかったのではないかと思われます。
A まるで「機関車」の存在そのものが、弾丸のように感じられるような迫力もあります。
B 「くろく」の「黒」の色彩感覚についても新興俳句的というべきでしょうか。
A 続いて、昭和13年には〈虫の音にまみれて脳が落ちてゐる〉〈きりぎりす視野がだんだん狭くなる〉〈水仙に元日重く来てゐたる〉〈元日のそらみづいろに歯をみがく〉〈落葉ふりひとあやまちを繰りかへす〉〈くろかみのおもくつめたき日のわかれ〉〈あきらめて縫ふ夜の針がひかるなり〉〈ひとりゐて刃物のごとき昼とおもふ〉〈春宵の自動車平凡な人と乗る〉〈春晝を沈むリフトにひとりなり〉〈春宵の林檎のはだへゆるみゐる〉〈春の夜の夫人ゆるやかに着こなせり〉〈からたちのやはらかきとげ晝ながし〉〈戦死報夕月いまだひからざる〉〈香水の香のいきいきとふとさびし〉〈夏ふかしおのが匂ひと晝をねむる〉〈うすもののどこかゆるみてひとやさし〉〈わかれきて硬きつめたき水を飲む〉〈しろい晝しろい手紙がこつんと来ぬ〉〈晝寝ざめ戦争巌と聳えたり〉〈わが怨り大地をうつてかへりたり〉〈かなしみのつもりつもりて明るくなる〉〈しら雲に夫人幸福おそれたり〉といった作品があります。
A なんというか全体的に戦時における寡婦の孤独感というか閉塞感が強く感じられますね。
B それが〈虫の音にまみれて脳が落ちてゐる〉〈きりぎりす視野がだんだん狭くなる〉〈水仙に元日重く来てゐたる〉〈あきらめて縫ふ夜の針がひかるなり〉〈ひとりゐて刃物のごとき昼とおもふ〉〈からたちのやはらかきとげ晝ながし〉〈わかれきて硬きつめたき水を飲む〉〈晝寝ざめ戦争巌と聳えたり〉〈わが怨り大地をうつてかへりたり〉などといった作品における、感覚の痛ましいまでの鋭さの表れの理由であるように思われるところがあります。
A 〈ひとりゐて刃物のごとき昼とおもふ〉などは本当にそういった独り身の切迫した雰囲気が感じられますね。
B 昼の光そのものが刃物のように感じられるという、まさしく身を切るような孤独感そのものでしょうか。
A また、その一方で〈春宵の林檎のはだへゆるみゐる〉〈春の夜の夫人ゆるやかに着こなせり〉〈うすもののどこかゆるみてひとやさし〉といったやや女性的な柔和さを感じさせる句の存在も確認できます。
B 〈からたちのやはらかきとげ晝ながし〉という句もありますから、この年における作品には、鋭さと柔らかさの両方兼ね備えられているようにも感じられますね。
A 〈かなしみのつもりつもりて明るくなる〉という句の存在もありますから、それこそ孤独を突き抜けた後に訪れる反作用としての明るさとでもいうのでしょうか、そういった感覚がこのような柔らかな印象の作をもたらす結果となっていたのかもしれません。
B 日野草城に〈春の灯や女は持たぬのどぼとけ〉〈朝すずや肌すべらして脱ぐ寝間着〉〈翩翻と羅を解く月の前〉といった句がありますから、これらの作品からの影響といったものも考えられるところがあるかもしれません。
A 「旗艦」は草城の俳句誌でしたから、当然、藤木清子もその作品については読んでいたはずです。
B そう考えると、藤木清子の作品に強い「女性性」といったものが漂っているのは、寡婦という境涯性のみならず、草城からの影響であったということも考えられそうですね。
A 草城には他に〈砥ぎ上げし剃刀にほふ花ぐもり〉〈包丁の含む殺気や桜鯛〉〈朝寒や歯磨匂ふ妻の口〉などといった作品がありますから、これらの句も藤木清子の〈ひとりゐて刃物のごとき昼とおもふ〉〈元日のそらみづいろに歯をみがく〉という作品に影響を与えているのではないかと思われます。
B また、このような草城から藤木清子への流れを見ると、後年の桂信子への影響というものも小さくないように思われるところがありますね。
A 桂信子には〈ゆるやかに着てひとと逢ふ蛍の夜〉〈やはらかき身を月光のなかに容れ〉〈衣ぬぎし闇のあなたにあやめ咲く〉といった作品があり、やはり両者の句との類縁関係といったものが強く感じられるところがあるようです。
B また、藤木清子の表現から感じられる柔和さには、ひらがなの表現による効果というものが大きく作用しているのではないかという気もします。
A 確かに藤木清子の作品には、全体的にどちらかというとひらがなによる表記が目立ちますね。
B これは、一体どこからの影響なのでしょうか。
A 藤木清子には〈しろい晝しろい手紙がこつんと来ぬ〉といった句の存在があり、この句は、やはり単純に昭和6年の高屋窓秋の〈頭の中で白い夏野となつてゐる〉が強く影響していると考えていいと思います。高屋窓秋の作品には、ひらがなを多用した表現が少なくありませんから、藤木清子のひらがな表記による手法というものは、この高屋窓秋からの影響と考えることができるのではないでしょうか。
B そういえば、確かに、高屋窓秋にはひらがなを多用した表現が少なくありませんでしたね。
A また、藤木清子の作には、他に口語やリフレインといった表現いくつも見られますから、そういった点についても窓秋からの影響といったものを感じさせるところがあります。
B 窓秋には〈ちるさくら海あをければ海へちる〉〈降る雪が川の中にもふり昏れぬ〉といった作品の存在がありました。
A こうみると藤木清子の作風の背景には、日野草城や高屋窓秋からの影響というものが、小さなものではなかったのではないかということが考えられそうですね。
B また〈しろい晝しろい手紙がこつんと来ぬ〉については、「こつんと」という擬音が、神生彩史の〈秋の晝ぼろんぼろんと艀ども〉における「ぼろんぼろん」という擬音の表現と関係している可能性が考えられそうです。
A 彩史の作品からは、擬音のみならず「秋の晝」にも「晝」の作品の多い藤木清子の作風との共通項が確認できるように思われます。こう見ると、やはり藤木清子の作品の成立事情には、周囲の環境からの影響といったものが小さくなかったとみていいでしょう。
B では、続いて昭和14年の作品について見てみましょう。〈戦争と女はべつでありたくなし〉〈深秋の悟りきれない旅をする〉〈征子寡黙なりすき焼きぢいと煮えつまる〉〈短日の人妻の素足なまなまし〉〈元日のかたい刷子に歯をみがく〉〈戦死せり三十二枚の歯をそろへ〉〈縁談をことはる畳なめらかに〉〈春晝の影も涙をふいてゐる〉〈いのちあり果汁琥珀に透きとほり〉〈くろかみの重たく癒えて蝶ひかる〉〈戦死者の寡婦にあらざるはさびし〉といった句が見られます。
A やはり、この年の句も戦時中における寡婦としての境涯性が強く感じられますね。
B 現実の重さというものがひしひしと感じられるようで、非常に痛々しいものがあります。
A 〈戦死せり三十二枚の歯をそろへ〉の表現の生々しい迫力には、圧倒されるものがありますね。戦死者をこのような歯にのみ視点を向けて表現したものは、皆無ではないかと思われます。
B では、最後に昭和15年の作品を見てゆきましょう。
A 「旗艦」昭和15年10月号を最後に、藤木清子の作品発表は終了ということになるようです。
B この年の作品としては〈友うつくし恋は出来まじとさげすまれ〉〈人とほき今宵の衣帯とかずねる〉〈晩秋を病み水薬のごとき日暮れ〉〈運命にもたれをんなのうつくしき〉〈編隊機轟々と少女健淡なり〉〈元旦の孤独を映画館にもまれ〉〈厭世の柔かき軀をうらがへす〉〈シネマ観るひとふしの過去鮮かに〉〈声たてゝひとり笑へば晝きびし〉〈人恋へば夕べ笹の葉清し清し〉〈曇日の封筒花のごとしろし 〉〈胸に手を置けば虫の音通ひ来ぬ〉〈灯を消して孤独の孤独たのしきかな〉〈友はみな母しんしんと単衣縫ふ〉〈むしろかなし小さきよろこび背を貫けば〉〈人土に還へり星いきいきとわれにふる〉〈秋あつし宝刀われにかゝはりなき〉〈ひとすぢに生きて目標うしなへる 〉といったものがあります。
A やはり強い孤独感というものの存在は、紛れのないものですね。
B 「旗艦」昭和15年10月号の〈ひとすぢに生きて目標うしなへる 〉を最後に作品の発表は見られなくなります。
A 先程にもふれましたが、桂信子の「桂信子の俳句史がたり〈9〉」(『草苑』2004年1月 407号)によると〈藤木さんの再婚が決まったのは40年でした。嫁ぎ先は阪神間の旅館でしたが、俳句をきっぱりやめるのが結婚の条件〉であったとのことです。
B さて、藤木清子の作品について見てきました。
A 藤木清子の作品の特徴としては、戦中という時代の中における寡婦であることの厳しい境涯性とそれに伴う危ういまでに鋭利な感覚と情念の強さ、そして、そこに都市である神戸のモダンな感覚と日野草城、高屋窓秋、神生彩史などの新興俳句の手法が加わることによって形成された作風であるということができるでしょう。
B そして、その藤木清子の作者としての真価が発揮されたのは、「旗艦」における昭和10年あたりから俳句をやめる昭和15年までということになるようですね。
A 藤木清子の作品のいくつかについては、現在においても、困難な時代における表現者としての宿命性と、それゆえに表現されることとなった言葉の峻烈なまでの強さというものを、いまなおまざまざと感じさせられるものがあるようです。
選句余滴
藤木清子
枕辺に飴玉をいて風邪寝かな
古衾悪魔に黒髪摑まれぬ
麦の穂や海の深浅あきらかに
心の瞳砥ぎつ幾夜ぞ虫鳴けり
春日没るひかりにくろく人うごめく
あつき夜が四角な壁となりて責む
暖炉燿りダイヤの稜に星棲める
飢えつゝも知識の都市を離(か)れられず
わが墓標無明の行路(みち)のいや果てに
しろき月黄金(きん)となりゆく若葉かな
五月来ぬ湖の青きにのりて来ぬ
蚊の墜つる静かな音が身に韻(ひび)く
燕来ぬ煙都のふかく澄める日に
ひとり身に馴れてさくらが葉となれり
草青く雲と捨て猫しろししろし
からたちは鋭し夫人うるはしき
月涼しよきおもひ出をもたぬわれ
幸福な人はつれなくうつくしき
針葉のひかり鋭くソーダ水
あきさめのビル街ふかくわがゆける
寂寥の指紋べたべた雲はしろし
短日の蒼天に月よみがへる
蓼ほそくのびて颱風圏に入る
粉飾の下にさびしい血が通ふ
きりぎりす視野がだんだん狭くなる
水仙に元日重く来てゐたる
くろかみのおもくつめたき日のわかれ
あきらめて縫ふ夜の針がひかるなり
春宵の自動車平凡な人と乗る
春宵の林檎のはだへゆるみゐる
木々芽吹き将士しづかに還り来る
戦死報夕月いまだひからざる
夏ふかしおのが匂ひと晝をねむる
かなしみは遠しわれのみの陽ぞ燃ゆる
僧房にくるしきこひをのみくだす
虫啼けり太く短く生きたしと思ふ
晝寝ざめ戦争巌と聳えたり
わが怨り大地をうつてかへりたり
かなしみのつもりつもりて明るくなる
戦争と女はべつでありたくなし
深秋の悟りきれない旅をする
短日の人妻の素足なまなまし
元日のかたい刷子に歯をみがく
春晝の影も涙をふいてゐる
いのちあり果汁琥珀に透きとほり
くろかみの重たく癒えて蝶ひかる
友うつくし恋は出来まじとさげすまれ
人とほき今宵の衣帯とかずねる
運命にもたれをんなのうつくしき
編隊機轟々と少女健淡なり
元旦の孤独を映画館にもまれ
厭世の柔かき軀をうらがへす
シネマ観るひとふしの過去鮮かに
声たてゝひとり笑へば晝きびし
人恋へば夕べ笹の葉清し清し
胸に手を置けば虫の音通ひ来ぬ
灯を消して孤独の孤独たのしきかな
友はみな母しんしんと単衣縫ふ
むしろかなし小さきよろこび背を貫けば
人土に還へり星いきいきとわれにふる
秋あつし宝刀われにかゝはりなき
ひとすぢに生きて目標うしなへる
俳人の言葉
藤木清子は、うまいと褒められる俳句を残した俳人ではなかったし、俳句を楽しんだ人でもなかった。ただ、飾ることなく愚直に「自分の今」と「時代の今」を書き残した女性であった。数少ない新興俳句の女性俳人として、俳句作品史にその名を銘記したい一人である。
宇多喜代子 「藤木清子」 『鑑賞 女性俳句の世界』(角川文芸出版 2008)
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5 件のコメント:
冨田拓也様
今回も堪能させていただきました。藤木清子の作家的評価ということでは、引かれている宇多さんの言葉に尽きているのでしょう。冨田さんの相変わらずの博捜ぶりによって、同時代の表現の網の目の中に、藤木の表現の位置が浮かびあがってくるようでスリリングでした。なんと言うのか、実際の生活も今とは比べものにならないつましいものだったのでしょうが、言葉の上でも清潔な貧しさのようなものがあって、惹かれました。
灯を消して孤独の孤独たのしきかな
なんて、この「たのしきかな」は決して反語ではないし、暗いものではないでしょう。藤木の作品を読むと、今の俳句作者は、「宴と孤心」の宴ばかりに熱中して、孤心の楽しさと豊かさを忘れがちなのだなとつくづく思います。自省をこめて。
髙山れおなさま
コメントありがとうございます。
「孤心の楽しさと豊かさ」ですか、なるほど。
藤木清子の作品を読んでいると、俳句表現というものはやはり時代と不可分のものであるということを強く感じさせられました。
「宴」が隆盛であるのも時代ゆえというところもあるのかもしれませんね。
冨田拓也様。「旗艦」の作家は、充分に理解されていないのですが、桂さんのそう言う手記などですこしわかってきますね。
「放浪中の弟に寄す」のまえがきのあと、
飢えつゝも知識の都市を離(か)れられず
藤木清子
と言う句がありますね。
あなたの引用にもありましたが、私の出典は
鈴木水南女時代に「旗艦」に掲載されたもの。所収は『女流俳句集成』(全一巻。宇多喜代子、黒田杏子編、1999年、立風書房・定価3600円)
この句が、いつも気になっています。
都市文明に惹かれる日本と日本人をたくまずして、表現にのせています、
また、他の句では、戦争、法律など相当抽象的なモチーフに関心があったようですね。
こういう抑えの効いた現実感覚の俳句は、なかなかみいだせない。謎の俳人、と言えます。
拝見していながら、思いついたことを忘れないうちにメモ代わりのコメントです。ごめんなさい。
無理なきよう、たのしみながら持続してください、お返事も、忙しいときには適当でけっこうですよ。吟
堀本吟様
コメントありがとうございます。
「知識の都市」の句における弟は、そこを離れられず、放浪までして執着しているわけですから、相当知性に対する強い憧れを抱いていたのでしょうね。
姉である藤木清子も高い知性の持ち主であったであろうということは作品からも窺えます。
あまりいい加減なことを書くのもどうかと思いますが、ふと歌人では、斎藤史にやや共通するところがあるのかもしれないなと思いました。
冨田様。拝復。短歌だと、齋藤史に似てますか?うーん。
齋藤史さんも、いつか読んだことがあるのですが、ぶっきらぼうなほどほねぶとなところがありますね。そこを、いっておられるのかな?
史女史の方が、情念的な燃焼度が高いように思います。俳句と短歌の違いもあるでしょうが。
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