・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井
老い父に日は長からむ日短か
『山河』所収
深谷:昭和43年の作で、「山河」の冒頭近くに収められています。結局、この父君は翌年の年末に他界するので、まさに最晩年の父を詠んだ句になります。
遷子作品には、張り詰めた雰囲気に包まれた闘病句、ヒューマンな怒りを秘めた風土句(そこに生きる人間を対象にした句も含む)、そして重厚な印象の自然詠などがある一方、穏やかな安らぎを覚える家族詠があります。第3回で採り上げた「銀婚を」の句もこの系譜に属するものですし、どうも私はこうした作品に惹かれる傾向があるようです。
この句でも、一日の日課など何もないであろう、老境の父を思いやる遷子の眼差しにとても温かいものを感じます。そしてその温かさは、俳句の上だけの俄か作りのあざとい「(謂わば)おためごかしの愛情」からは程遠い、真実味が溢れています。
それを際立たせているのは、下五に斡旋された「日短か」だと思います。健常な一般人からすれば、日の暮れの早さを感じる季節であるのに、老父にはそうでないのだ、という遷子の想い。表現形式だけ見れば、極めてシンプルな対句(的)構造ですが、それが遷子の胸のうちに去来した想念を、詩情にまで高めていると思います。典型的二句一章形式の作品であり、前々回に筑紫さんが指摘された「散文構造(作品)」の例外に位置付けられるのでしょうが、やはり遷子らしい句だと思います。
中西:同居の父を詠っています。開業医ですから、お茶の間と診察室を行き来して毎日暮らしているわけです。昼ご飯も家族と一緒にお茶の間で食べていたでしょう。お勤めの人より父に接している時間も長く詳しいことを考慮しますと、「日は長からむ」は実際の父の日常を描くと共に、為すべきことがない父の内面に心を寄せているのがわかり、深谷さんのおっしゃる優しさ、真実性に深く共感します。
しかし、どうも「日は長からむ日短か」と言いますと、理が働いているように見えるところがあって、少し損をしていないでしょうか。
遷子の心の奥底にはずっと石田波郷があったのではないかと思っています。このような境涯俳句を見ますと、やはり人間探究派に繋がっている人と思えてきます。一方で馬酔木の一つの顔でもある風景句作者でもあるのですが。
原:一般的に、家族詠は個人的感慨に陥りやすく、普遍的な共感を得難いと言われます。これにはほとんど同感で、少々荒っぽいもの言いをしますと、他人の家庭生活を披瀝されて何が面白いのか、という憎まれ口をたたきたくなる場合も間々あるのです。ただし、父・母・子・妻などを主題にして、その存在の普遍性やすぐれた典型を表現し得ている作品もあるわけで、それは、作者がどれほど客観性を持てるかという差のようです。
遷子にも成功作と失敗作があるでしょうが、掲出句においては、父の老い、そしてその無聊の日々を捉える目は冷徹、客観的なものだと思います。と、こういったからと言って、もちろん子としての情愛があるとかないとかいう次元の問題ではありません。作家の意識に関ることです。
この句、たとえば「老い父に一日は長し日短か」と断定的にすることも出来るでしょうが、「長からむ」と推量にとどめたところに、思いやっている風情の優しさが滲みます。
一つ付け加えますが、ここでの日の「長さ」と「短さ」とを、言葉の対比の面白さとして受け取ることだけはしたくないですね。深谷さんは良き理解を示して下さいました。
窪田:短日が老いた父にとっては長い一日だというフレーズは胸に迫ります。深谷さんのおっしゃるとおり遷子の温かさが伝わってきます。そしてそれは、自分の父だけに向けられた感情から他の老人(遷子が診ている人々)へ、そして全ての人間へと普遍化されていくような気がしました。黒澤明監督の作品『生きる』を思い出したのは私だけではないでしょう。
ところで、私は、季語「日短か」と置けば「老い」は省略できると思ってしまいます。藤田湘子に指導を受けたせいかもしれません。もっとあっさり表現してしまうでしょう。
他の結社の方々と同じ作者の同じ句を鑑賞していく面白さを感じています。
筑紫:父君は昭和45年に86歳でなくなられ、母堂は遷子最後の時にも存命されていました(当時87歳)。
雪降るや経文不明ありがたし (昭和45年)
冬青空母より先に逝かんとは (昭和50年)
長寿の家系にあっただけに、遷子は、「両親の年齢まで20年は生きるつもりでした」(9月2日 古賀まり子宛書簡)「昨年までは80数歳まで長生きする積りでした」(不明 渡辺千枝子宛書簡)などと述べています。自分とは言わないまでも、年を取った人の老後の寂寞とした姿をこのように捉えていたのです。しかし、68歳の遷子は長男が戻ってきて医院を手伝い、旅行などこれからやりたいことを沢山しようとしていた矢先の死でした。この句を詠む時は知るよしもありませんでしたが、父のような余生はないことを思い浮かべたときに口惜しい思いがあったことは想像に難くありません。
深谷さんが言われているように「散文構造(作品)」の例外だと思います、そして必ずしも多くはない例のように感じます。とりわけ普通の二句一章構造が片方の章をアイマイしにしておく詠み方が多い(湯豆腐やいのちのはてのうすあかり 久保田万太郎)のに対し、深谷さんが指摘のような対句構造であるだけに、「切った」という感じを強く出し、容易に一句一章の姿を思い浮かばせるように思うのです。例えばこんな構造をすぐ思い浮かべるでしょう。
日短か(なれど)老い父に日は長からむ
その意味ではやはりホトトギス系の単純ではあるが茫洋とした表現で芸を見せる俳句とは違うようです。短歌的構造がどこか残っているように感じられます。
* * *
話は変わりますが、今回の鑑賞はメンバーの意見がずいぶん分かれたところで、「極めてシンプルな対句(的)構造ですが、それが遷子の胸のうちに去来した想念を、詩情にまで高めている」(深谷)と積極的な評価がある一方で、他のメンバーはこの句の読みに不安を感じ、「ここでの日の『長さ』と『短さ』とを、言葉の対比の面白さとして受け取ることだけはしたくない」(原)とその不安を読者側に求めるのに対し、「どうも『日は長からむ日短か』と言いますと、理が働いているように見えるところがあって、少し損をしていないでしょうか」(中西)とか、「季語『日短か』と置けば『老い』は省略できると思ってしまいます。藤田湘子に指導を受けたせいかもしれません。もっとあっさり表現してしまうでしょう」(窪田)と、詠む遷子側の不十分さを感じられている鑑賞も続きます。私自身も、皆さんと視点はずれているものの、やや批判的な見方をしているだろうと思います。まさしく久保田さんが言われるように、「他の結社の方々と同じ作者の同じ句を鑑賞していく面白さを感じています」に共感します。これは、どちらの読みが正しいかより、現代俳句の不安定さ(俳句・俳諧自身の持つ不安定さ)につながるようで、例句を離れてもう少し深く検討してみたい問題ではあります。
【付録②】
「遷子を読む」では、コメントを本文に取り入れることにしています。コメントでのやりとりは「抑制」が効かず、冷静な対話にならないと思うからです。第6回以降のコメントにお答えします。適宜コメントは省略しているのであしからず。
遷子を読む〔8〕 寒うらら税を納めて何残りし
堀本吟: 寒うらら税を納めて何残りし 遷子(『山国』)
このような句は興味深いですね。一種のイデオロギーだという磐井さんの意見に共感します。イデオロギーというのはどのようにして、生活と文学の世界にうまれるのだろう、と言うことですが・・。社会性俳句は全てがイデオロギー的だったとは言えず、また、すべてが、生活現実の心情の吐露だともいえません。思考が成長していったのだと思います。
筑紫:「何残りし」は遷子の永遠の課題だと思います。最晩年の、
木の葉散るわれ生涯に何為せし
もそうです。常に反省型の遷子は「何残りし」を考えていたのではないでしょうか。先日中西さんと酒を飲みながらオダをあげて、反省しない俳人は、俳人としても失格だし、人間としても失格といったら中西さんが目を丸くして驚いていました。「何いってんの、反省もしない人間が」と言った目つきでしたが。
堀本吟:俳句を詠む過程で、社会的関心をたかめていった人に、榎本冬一郎がいますが、この人の句を、「職場俳句」だと、仁平勝さんが何処かで書いていたことを想い出しました。
仁平さんは、能村登四郎の《合掌部落》をあげて(以下引用)
時代的なモチーフをいったん外せば(略)。今日こういう句を書いたところで誰もそこに「社会性を」指摘したりはしない。社会性でなくとも個人的な感慨としても、これらの俳句表現はじゅうぶん成り立つのだ。鈴木六林男の連作「吹田操車場」も同じであって、「社会性俳句」の看板を外してしまえば、それはさしずめ「職場俳句」と呼ぶにふさわしい。(その意味では。警官の立場からメーデーを詠んだ榎本冬一郎の句も職場俳句に外ならない。)[引用は仁平勝『俳句の射程』(平成18年・富士見書房)の119ページ]
と書いています。
メーデーの手錠やおのれにも冷たし 冬一郎
この人は、警察官である自分の現実と相手の立場が対等であるという関係を先鋭に詠んでいるとは思いますけど、句の印象からは実感の方が先に立っています。遷子にも通じる現実感覚だと思います。職場俳句だ、職業俳句だ、といわれれば、そうでしょう。
ただし、冬一郎は市井人というにしてはかなり意識的に社会批判をしています。感情の激しい正義感の強い人だったのでは?(「群峰」関係の人にもう一度詳しく聞いてみようとはおもっているのですが・・)
遷子がどういう俳句を詠んだか、ということと、俳人としてどういう社会感覚を示したか、と言うことは、一応べつの話になるのですが、冬一郎が敢えて抒情になじむ季語を持ってきていても「冷たし」という語は、「馬酔木」本来の「自然美から芸術上の真に入る方向ではなく、句意が強調しているところには、言外の何か(たとえば同情心の強さからくる社会的現実への注目)です。
筑紫:榎本冬一郎と遷子とは対局にいるような感じもしますが、以前述べたように『喜びも悲しみも幾歳月』の灯台守も、佐久の医師も、警官も、職業倫理で貫かれている意味では案外似ているかもしれません。現在はほとんど職業倫理は希薄になっているようですが(職業ルールがあるだけです)、かつては社会も本人もそうしたものがあると考えていたのではないでしょうか。
堀本:すこし補足させてください。敗戦直後の日本の民主化は、社会構造全体に及び、たとえば、昭和29年に警察法の制定が施されます(以下引用)。
警察法(けいさつほう、昭和29年6月8日法律第162号)は、「個人の権利と自由を保護し、公共の安全と秩序を維持するため、民主的理念を基調とする警察の管理と運営を保障し、且つ、能率的にその任務を遂行するに足る警察の組織を定めること」(1条)を目的とする日本の法律である。[「ウィキペディア」掲載文を借用]
このように、「民主的な警察」という法的認識が出来て、警察官に《民主的な管理》による市民のための警察と言うような、いわゆる公僕意識もできてきたのではないかとおもいます。
ついでに、記憶しておいて欲しいことは、労働組合の結成も当時は労働の権利意識を育てる国家政策でした。労働三法(労働基準法、労働組合法、労働関係調整法)というのは、かなり重要な国民教育の要だと考えるべきで、労働省(昭和22年9月設置)が主体となって労働組合の作り方などを指導していたのではありませんか?(実態は詳しくは知りませんが)、私たちが俳句の中の言葉として、警察官とか、あるいは遷子の場合の医者とはどういう職業か、と言うような認識は、専門職だけに、私たちがムード的に考える以上の正確な概念(観念)ができていたような気がするのです。その概念を作ったのは時代の強制ではありますが、仁平さんのようにサラリーマン感覚として切り捨ててしまうと、(固定観念を叩かれる一方で)、時代を生きるための指標として、全存在で受け止める個人の認識の重要さも切り捨ててしまうように思えてきます。
さらに現在は、戦後60年経っていて、眼前で今までの政治社会、文化の構造の根幹が変わりつつあるのです。
俳句の言葉はその現在時の中でしか生まれないとしたら、その時代の制約下でしかモチーフはうまれません。そこに立って立ち上がるモノを創作の要素の一部に入れなければ、その作品は芸術上の真には迫り得ない、と思うのです。金子兜太の造型論の重要さは、そこにあるのではないでしょうか? 表現としての俳句をどう考えるか、というときに、私のこのいい方は、飛躍もあるかもしれませんが。これは、私が、社会性俳句、前衛俳句のことをかんがえる時に、依然未解決なままのこしてきた心理的な拘りです。
筑紫:職場で詠んだ俳句を職場俳句というのならば、確かに遷子も冬一郎も職場俳句でしょうが、そうであれば、
銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく
も、「俳句の造型について」で自句自解しているように、日本銀行の職場で同僚や上司を観察しながら詠んでいるという意味で典型的な「職場俳句」、日銀俳句です。しかし、こうした句を職場俳句とわざわざ名づけて議論する意味はありません。兜太は、ここで「創る自分」を語りたかったのであり、職場俳句を論じたかったのではありませんから。職場で「何を詠みたかった」のかが問題でしょう。冬一郎について私はよく分かりませんが、この時代の医療現場にあってはやはり一種独特の倫理観はあったのではないかと思います。我々の現在の職場ですでに倫理観は崩壊し、単に個人が倫理観を持つかどうかの話になってしまっています。しかし、昭和30年代は、多少ともそうした社会共感を持つ職場がありえたように思います。遷子の俳句を考える上でそうした環境は想定してもよいように思います。特に、外から強いられた倫理観ではないところに尊重すべき要素もあるように思うのです。
能村登四郎について言えば、今日登四郎の俳句を誰も社会性俳句といわないでしょうが、当時、登四郎が社会性という規範に引きずられて詠んでしまっていたことは間違いありません。そのために詩の燃焼度の低い句集となってしまい『合掌部落』を登四郎は一番嫌いな句集としているのです。白川村合掌部落を詠んだから風土俳句などという言い方は後からつけた言い訳でした。ちなみに『合掌部落』の「習志野刑務所」「八幡学園」なんて臭いくらいに典型的な社会性俳句でした(たった今、兜太の「造型俳句」について書き終わったところなので過剰に反応してしまいました。)
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