2009年6月20日土曜日

俳句九十九折(40) 俳人ファイル ⅩⅩⅩⅡ 臼田亜浪・・・冨田拓也

俳句九十九折(40)
俳人ファイル ⅩⅩⅩⅡ 臼田亜浪

                       ・・・冨田拓也


臼田亜浪 15句


氷上に霰こぼして月夜かな

鵯のそれきり鳴かず雪の暮

葱筒に大螢獲て戻りけり

木曾路ゆく我れも旅人散る木の葉

霧よ包め包めひとりは淋しきぞ

軒の氷柱に息吹つかけて黒馬(あを)よ黒馬(あを)よ

今日も暮るる吹雪の底の大日輪

かつこうや何処までゆかば人に逢はむ

死ぬものは死にゆく躑躅燃えてをり

雛箱の紙魚きらきらと失せにけり


天風や雲雀の声を断つしばし

山桜白きが上の月夜かな

牡丹見てをり天日のくらくなる

人込みに白き月見し十二月

白れむの的皪と我が朝は来ぬ



略年譜

臼田亜浪(うすだ あろう)


明治12年(1879) 長野県北佐久に生まれる

明治27年(1894) 俳句を知り、月並俳諧へ投句

明治29年(1896) 子規を知る

明治35年(1902) 短歌を与謝野鉄幹に、俳句を高浜虚子に学ぶ

明治42年(1909) 「やまと新聞」編集長

大正3年(1914) 東京市会議員を目指すも病のため断念 8月、静養中に虚子に会ったことにより俳壇に立つ決意を固める 10月、大須賀乙字に会う 11月、石楠社を創設

大正4年(1915) 「石楠」創刊

大正7年(1918) 弟子同士の諍いにより乙字及びその門下と袂を分つ

大正10年(1921) 「石楠」が亜浪の主宰誌となる

大正14年(1925) 『亜浪句鈔』

昭和12年(1937) 『旅人』

昭和21年(1946) 『白道』

昭和24年(1949) 『定本亜浪句集』

昭和26年(1951) 逝去(73歳)

昭和52年(1977) 『臼田亜浪全句集』




A 今回は臼田亜浪を取り上げます。

B 俳句の歴史の中でも、この作者は割合ビックネームであるといってもいいはずだと思います。

A しかしながら、現在においても、名前についてはある程度知られているのかもしれませんが、その作品については、多くの人々にとってあまり馴染みがないものであるかもしれません。

B 昔の俳人ということになりますから、あまり作品にふれる機会がないということも関係しているのでしょう。

A 一応亜浪の作者としての活動期間は、おおよそ大正3年(1914)あたりから昭和26年(1951)に亡くなるまでの37年ほどということになります。

B では、臼田亜浪の略歴について見てゆきましょう。

A 臼田亜浪は、明治12年(1879)に長野県北佐久に生まれ、明治27年(1894)の16歳の頃に俳句を知り、月並俳諧へと投句、自ら一莵と号しました。

B その後、明治29年(1896)に子規を知り、明治35年(1902)には、短歌を与謝野鉄幹に、俳句を高浜虚子に学んでいます。

A その後10数年ほど、仕事による多忙のため俳句とは疎遠になっていたようです。

B 明治42年(1909)には、やまと新聞編集長に就任し、大正3年(1914)に東京市会議員を目指しますが、腎臓、膀胱の病のため、政治への夢を断念することを余儀なくされます。

A はじめから俳人を目指していたというわけではなかったようですね。

B その同じ年の8月に、信州の温泉での病気療養中に高浜虚子に会い、臼田亜浪は俳壇に立つ意志を固めることになります。

A 失意の亜浪は俳句に希望を見出すことになったわけですね。

B その後10月に、大須賀乙字に出会い、11月には石楠社を創設、翌大正4年には「石楠」を創刊しています。

A 亜浪は虚子に再会して俳句を再び始めることを決心したわけですが、虚子の「ホトトギス」には依拠しなかったようですね。

B 虚子とは「ホトトギス」誌上において俳句観の大きな相違を感じ、失望して離れていく結果となったようです。

A その後は、大須賀乙字の俳論へと大きく傾倒してゆくことになるわけですね。

B 乙字は、新傾向俳句にも反対していましたから、亜浪も乙字と同じく河東碧梧桐の新傾向俳句に否定的でありながら、虚子の「ホトトギス」俳句にも依ることなく独自の道を進むことになりました。

A 山下一海の『俳句の歴史』(朝日新聞社)によると、この時代には、碧梧桐、虚子以外の俳人としては、亜浪の他に、松根東洋城と青木月斗の存在が「第3の領域」として挙げることができるようです。

B では、臼田亜浪の作品についてみてゆくことにしましょう。

A 今回私が参照にしている資料は主に『臼田亜浪全句集』ということになります。亜浪が本格的に俳句を始めたのは大正3年からですから、まずそれ以前の作について見てみましょう。

B まず、明治37年には〈信濃路や蚕飼の歌に春暮れぬ〉〈牡蠣船に石船に飛ぶ燕かな〉〈芹の香や水の朧を鳴く田螺〉〈軍絵の廻り燈籠売れにけり〉、明治38年には〈昼火事に巣をこぼたれし燕かな〉、明治41年には〈藤咲いて碓氷の水の冷たさよ〉といった作品が見られます。

A どの句の内容もさほど悪くないものであるとは思いますが、どちらかというと普通の内容の句ですね。

B その後の本格的に俳句を始めようと思い立った大正3年における作品を見ると〈土喰うて生くる燕や日暑し〉〈沼照りに湧きやまぬ泡や青蜻蛉〉〈杉柱檜柱月に匂ふなり〉〈雄鳩待てば雌鳩に銀杏時雨して〉〈折れ木踏んで檜山下りぬ鳥渡る〉〈蔵を出づれば昼の日赫と草枯るる〉〈霧の中鈴蘭の実の赤きかな〉といった句が見られます。

A 「折れ木」「蔵を出づれば」などの句における表現には、やや破調に近いものを見て取れるところがありますね。

B さきほどにも触れたように、亜浪は新傾向でもなく、「ホトトギス」でもない「中間派」として自主独立による独自の路線を進みました。

A 亜浪には「俳句に甦りて」という文章に〈五七五調は、俳句創造の歴史に稽へても、国語の音律から云つても、確かに尊重すべき理義があります。けれども私は是非とも五七五の三段様式でなくてはならぬと云ふ一定不動の原則的意義を有するものではない、俳句の形式上に於ける不抜の原則は、一に十七字の限定数にある、必ずしも五七五調に限られたものではない、単に尊重の意味を以て取扱へば足ると思ひます。従つて苟も十七字たる限り、其の語調の如何と、三段様式たると四段様式たるとは、敢て問ふを要せない。用語の長短、語彙の連続を案じて、時に応じ適当の様式に拠れば宣いと云ふ広義の解釈に従ひたいと思ふのです。〉という言葉が見られますから、五七五の定型墨守でもなければ、単なる自由律でもない広義の17音詩といったものを標榜したということになるようです。

B その後、大正4年になると、大須賀乙字の援助で「石楠」を創刊し、その作品の数も大幅に増加します。

A その大正4年の作品をいくつかを見てみると、〈日移れば雪残る竹の騒ぐかな〉〈ほがらほがら燃ゆ藪根なる囀りて〉〈壺焼の殻積めば梅の散る日かな〉〈夥しき浮木に燕返すなり〉〈樹かぶさりの池明り蛙しんしんと〉〈接ぎ穂かげりして昼雷のなぐれ行く〉〈庇伝ひに鈴鳴らし鳴らす春の猫〉〈芝草にうなじすりすり猫恋ふる〉〈風潮の大ほぐれして雲雀かな〉〈夕霞朽木ぼくぼく踏み下る〉〈霞こぼれの鳥草山へ草山へ〉〈雲雀あがるあがる土踏む足の大きいぞ〉〈屋根々々の沈みて花の真つ盛り〉〈撓め枝のはね返りはね返る若葉かな〉〈森しんしんと蟬啼き沈む真夏かな〉〈雨晴れて大空の深さ紫陽花に〉〈磧草に水涸れ涸れや夕螢〉〈狩り魚のあぎと貫く青芒かな〉〈馬いたわつて水越ゆ野面銀河落つ〉〈凩や雲裏の雲夕焼くる〉〈かまつかに照りぬけて夕べ秋の風〉といった作品が見られます。

B 一応この段階で、亜浪の作風における基本的な部分については、すでにある程度出揃っていると見ていいように思われます。

A これらの作品から窺える、亜浪の俳句作品における大きな特徴は「繰り返し」の表現ということになるようですね。

B 「ほがらほがら」「しんしんと」「鈴鳴らし鳴らす」「すりすり」「ぼくぼく」「草山へ草山へ」「はね返りはね返る」「水涸れ涸れ」「雲裏の雲」といった擬音表現をも含んだ「繰り返し」の手法による表現が確認できます。

A こういった表現は、先の大正3年の作品における「杉柱檜柱」「雄鳩待てば雌鳩」といった並列の手法にも通じるものであるのでしょう。

B このような「繰り返し」「オノマトぺ」「並列」といった表現が亜浪の作品に独自の韻律を付与する結果となっているようです。

A 定型から逸脱しようする傾向を、独自の韻律によって統御、維持しようとしているようにも思われますね。

B 大正5年には〈蠑螈這ふ氷(ひ)底の砂の日ざしかな〉〈氷上に霰こぼして月夜かな〉〈巣雀に目白の卵抱かせけり〉〈地蜂掘つて蜂飯を焚く杣火かな〉〈蓼の芽を蟹の喰ひ居る日永かな〉〈大鳥の魚摑み去んぬ汐干潟〉〈雲雀落つ末黒の原の水光り〉〈庭一面敷く柿花や蝸牛〉〈ダリヤ大輪崩れて雷雨晴れにけり〉〈蜩や木影縫ひゆく野良使ひ〉〈鳥渡り次ぐ暁け空の銀河かな〉〈熊蜂の小蜂喰ひをる秋暑し〉〈秋の水糸瓜浸けたる青みかな〉〈柑園に蛇の出遊ぶ小春かな〉〈氷挽く音こきこきと杉間かな〉といった作品が見られます。

A これらの作品も含めて、これまで見てきた亜浪の作品における内容については、そのおおよそが基本的には自然詠ということになるようですね。

B 亜浪は「石楠」の創刊時における主張として〈吾等は俳句を純正なる民族詩として、内的に新生活より生れ来る新生命を希求し、外的に自然の象徴たる季語と十七音の詩形と肯定する。〉という言葉を掲げています。

A 日常としての「生活」における新しさの探求と、外的な「自然」の把握が、亜浪の俳句作品における基本的なテーマとしてその根幹には存在しているわけですね。

B 大正6年には〈蟹の巣となつて荒れけり蜆坪〉〈梅の髄はみ枯らす虫掘りにけり〉〈山頂の池引鳥の集ひけり〉〈雁見えずなりし田の面の水張りかな〉〈汐溜り海月生きをる遠雲雀〉〈潮時の黒鯛釣るる遠霞〉〈蒲公英や鶏移しては鶏舎燻す〉〈大牡丹崩れて思ひはるかなり〉〈葱筒に大螢獲て戻りけり〉〈蝸牛に霖雨の苺ふやけたり〉〈蝦すがる水底の草の梅雨茂り〉〈青田中島とも見ゆる森嵐〉〈河鹿澄む出潮の月の赤さかな〉〈盆の月山のぼる灯の一つ見ゆ〉〈地虫鳴く外は野分の月夜なり〉〈軒氷柱磨ぐ北風のつづきけり〉〈草の穂の吹きちぎれ飛ぶ風の月〉といった作品が見られます。

A どれも現実における自然の実相といったものが、ある種の実質感を伴って感じられるところがありますね。

B 「蟹の巣」「梅の髄はみ枯らす虫」「黒鯛」「鶏舎燻す」「葱筒に大螢獲て」「苺ふやけたり」「島とも見ゆる森嵐」などの作品からはリアリティの強さといったものが窺えます。

A 大正7年には〈やどかりの皆這つてをる春日かな〉〈瀬枕の草がくれ魚狗の飛ぶ〉〈垂れ毛虫みな木にもどり秋の風〉〈御山霧月かすめ去りかすめ去る〉〈雪月夜芦間の寝鳥しづまりぬ〉〈小春日や草水に鮒の上りをる〉という句があり、これらの作品も自然の持つ実感がその内側に内在しているようです。

B この大正7年になると、乙字と亜浪はさほど仲が悪くなかったそうですが弟子同士の諍いにより、亜浪は乙字と袂を分かつことになります。

A その後、大正10年になると「石楠」は、亜浪一人による主宰誌ということになりました。

B 大正8年の作品には〈囀りの森ぬけて囀りの森深し〉〈鵜の嘴のつひに大鮎をのみ込んだり〉〈孑孑やこの岩ひびのこの水に〉〈ぬめり茸採る手許雲母光りけり〉、大正9年には〈夜の音繭玉落ちし目覚めかな〉〈鵯のそれきり鳴かず雪の暮〉〈植残る一角に田虫むらがれり〉〈旱り路小石の光り眼に堪へず〉〈白日の大空の深さ五位の声〉〈鷺みんな森にしづまり月しづる〉〈山霧のまきさがりまきのぼる鵙の声〉〈話声奪ふ風に野を行く天の川〉〈山の音しんしんと銀河身にせまる〉〈豚の鼻づら南瓜の垂れ咲いて〉〈風の声碧天に舞ふ木の葉かな〉〈木曾路ゆく我れも旅人散る木の葉〉といった句が見られます。

A 「鵜の嘴」「田虫むらがれり」「豚の鼻づら」の句から感じられる実在感、そして「大空の深さ」「鷺みんな森にしづまり」「話声奪ふ風」「銀河身にせまる」「風の声」といった句からは、自然そのものによるスケールの大きさといったものを感じさせるところがありますね。

B また、「木曾路ゆく我れも旅人」といった句からは芭蕉の影響が見てとれます。

A 亜浪は芭蕉に倣ってのことであるのか、本当によく旅に出ていますね。

B 東海、関西、出雲、九州、北海道、そして海外である中国にまで旅をしています。旅に出ることによって句作における題材を蒐集していたようですね。

A 大正10年には〈木より木に通へる風の春浅き〉〈いつくしの雪の浅間よ月渡る〉〈青芒靡けて風の空に消ゆ〉〈ひとりとなつて子のおとなしし梅雨の昼〉〈蚊火煙り縫ふ雨玉の光りつつ〉〈炎天の石光る我が眼一ぱいに〉〈妻も子も早や寝て山の銀河冴ゆ〉、大正11年には〈雪原やかたまりてゆく小さき影〉〈ころろころろ蛙の声の昼永し〉〈水音風音溶け合ふ空の朧ろかな〉〈桑の香や月の青さの蚕を照らす〉〈笹竹の星影ひいてそよぐなり〉〈月原や我が影を吹く風の音〉〈霧よ包め包めひとりは淋しきぞ〉〈杉の声霧ほうほうと流れけり〉といった作品が見られます。

B 大正12年には、〈雪が降る降る鳥が来る来る朝の程〉〈山清水魂冷ゆるまで掬びけり〉〈あの目あの足どこあるきをる天の川〉〈でで虫の角振る葉先揺れじとす〉、大正13年には〈軒の氷柱に息吹つかけて黒馬(あを)よ黒馬(あを)よ〉〈雪に吹かれつ影のごと消ゆ寒念仏〉〈雪を吹く氷上の風の音を追ふ〉〈今日も暮るる吹雪の底の大日輪〉〈いつか円ろくなりしこの月よ雪の旅〉〈どろどろに雪か泥かや日の遊ぶ〉〈かつこうや何処までゆかば人に逢はむ〉といった句があります。

A これらの作品を見ると、やはり作品における韻律といったものが他の俳人の作品とは随分と異なるところがあるようですね。

B 「雪が降る降る鳥が来る来る」「あの目あの足」「黒馬(あを)よ黒馬(あを)よ」ですから、やはりやや特殊な表現であるといっていいでしょう。

A こういった特異なリズムといったものは『万葉集』あたりの古代歌謡からの影響といったものも考えられるのかもしれません。

B また、そういった和歌からの影響のみではなく、上島鬼貫からの影響といったものも大きいものであるのかもしれません。

A 亜浪は鬼貫を尊敬していたそうで、鬼貫と同じく俳句において「まこと」を目指すという言葉も見られます。

B 鬼貫の発句をいくつか見てみると〈ほんのりとほのや元日なりにけり〉〈春の水ところどころに見ゆるかな〉〈しら魚や目まで白魚目は黒魚〉〈草麦や雲雀があがるあれ下がる〉〈北へ出れば東へ出れば花のなんの〉〈おぼろおぼろ灯見るや淀の橋〉〈人に遁げ人に馴るるや雀の子〉〈又もまた花にちられてうつらうつら〉〈咲くからに見るからに花の散るからに〉〈うつつなの夜とは秋とは今ぞさぞ〉〈あすみちて明日かける月のけふこそな〉〈ひうひうと風は空ゆく冬牡丹〉ということになります。

A やはり繰り返しや擬音の表現において、随分似ているところがあるようですね。このように見ると亜浪の作には鬼貫からの影響といったものも考えることができそうです。

B  大正14年には〈町屋根のみな喰ひ合うて光る風〉〈山霧に螢きりきり吹かれけり〉〈青田貫く一本の道月照らす〉〈島ゆ島へ渡る夜涼の恋もあらむ〉〈友がゆく友がゆくかなかなの雨〉〈路地ぬけて銀河の風に向ひけり〉〈ふるさとは山路がかりに秋の暮〉、大正15年には〈壁かげの雛は常世に冷たうて〉〈曙や露とくとくと山桜〉〈死ぬものは死にゆく躑躅燃えてをり〉〈こんこんと水は流れて花菖蒲〉〈吹きのぼる風の照る照る山芒〉といった作品が見られます。

A 「山霧」「銀河の風」「露とくとく」「こんこんと」などの作品には、なかなか清新な気が溢れていますね。

B 亜浪の句は、どちらかというと全体的には思った以上に澄明な雰囲気といったものが感じられます。割合すっきりしたところがあるというか、透明な空気感に満ちているところがあるというか。

A リズムの面についてはやや特殊なものがありますが、その作品に表現されている意味内容については、意外にもさほど癖がないというべきなのかもしれません。

B さて、これまでは大正時代の作品について見てきましたが、続いて、昭和の時代における亜浪の作について見てゆきたいと思います。

A 昭和2年の句には〈初凪や蝦が泳げる潮だまり〉〈草中の捨て氷月さしゐたり〉〈山鳥を吊りし障子の白すぎて〉〈今日も今日も風が吹くなり籠る冬〉〈林中の雪に人ゆく朝の東風〉〈父がゆく影がつしりと月の雪〉〈雛箱の紙魚きらきらと失せにけり〉〈夕おぼろ家影が路にのしかかり〉〈田螺が蓋ひしととざして拾はるる〉〈雪山がまともの桜澄みまさり〉〈少年が笛吹いてゆく夜の暮春〉といった作品が見られます。

B 昭和に入っても相変わらず、なかなか純度の高い句をいくつも確認することができますね。

A 昭和3年には、〈鳥啼く鳥啼く春暁の枕上み〉〈蝶々に砂つむじ捲きかかりけり〉〈鵯のよろこび芽の木が雨ををどらせて〉〈夕立や土あびてゐる萩桔梗〉〈草原や夜々に濃くなる天の川〉〈お月様お星様芒ばかりにて〉、昭和4年には〈風塵や馬嘶いてゆく二月〉〈ほがらほがら青野の空に浮ぶ雲〉〈ぼう丹のあはれは散りし石の上〉〈えにしだの夕べは白き別れかな〉〈螢火や雨さんさんと野に満てる〉〈壁喰うて神馬あはれや春の蟬〉〈死おもひしそれもむかしや月玲瓏〉といった作品が見られます。

B 「鳥啼く鳥啼く」「萩桔梗」「お月様お星様」「ほがらほがら」「さんさんと」といった「繰り返し」もしくは「並列」「擬音」といった手法もさほど変わることなく展開されていますね。

A 〈壁喰うて神馬あはれや春の蟬〉といった妙な実在感の感じられる句の存在も注目されるところです。

B 〈死おもひしそれもむかしや月玲瓏〉といった回想的な句もこのあたりになると確認できるようになります。

A この時期、亜浪は年齢的には50歳を少し越えたところに位置しています。

B 昭和5年には〈霜の夜の野の石が声たつるかも〉〈月凍らんとすなり石も眠るさま〉〈吹かれたる雪のうねうね日向かな〉〈鵯が鵯が木伝ふ芽吹きこぞる中〉〈人間に昼の桜の湧きあがる〉〈若葉山雲ゆきゆきてゆきゆきぬ〉〈野蛙やぐぐと啼きろろと啼く〉〈天風や雲雀の声を断つしばし〉〈山の荒湯のとどろとどろと月涼し〉〈ゐるはゐるは小鮎ういもの石めぐり〉〈舞ひ入りし螢いとしむ旅寝かな〉〈湯の山へあやめあやめが咲き登り〉、昭和6年には〈山桜白きが上の月夜かな〉〈ほくほくと馬がおり来る山桜〉〈山の夜のおぼろおぼろに木莵ほろろ〉〈月涼しわれは山の子浅間の子〉といった作品があります。

A ここまで来ると、ずいぶんと擬音による表現が、特殊な相貌を呈しているようです。

B  「うねうね」「雲ゆきゆきてゆきゆきぬ」「ぐぐと啼きろろと啼く」「とどろとどろ」「ゐるはゐるは」「あやめあやめ」「おぼろおぼろに木莵ほろろ」ですから、ちょっと他の俳人たちの作品には見られない表現ではないかと思われます。

A あと、亜浪の作品には、さきほどにもすこしふれましたが、全体的に自然の実相というかアニミズムといっていいような雰囲気も強く感じられるところがありますね。

B いま取り上げた「石が声たつるかも」「石も眠る」「雪のうねうね」「昼の桜の湧きあがる」「雲雀の声を断つ」「あやめあやめが咲き登り」「木莵ほろろ」といった作品だけを見てもその表現からはやはり自然の持つ強い生命の力といったものがそのまま感じられるようです。

A 昭和7年には〈宵の星ちかちか近き冬木かな〉〈寒空や飛行機がビラ撒き散らし〉〈雨が降る降るざんざと山のさくらばな〉〈牡丹見てをり天日のくらくなる〉〈ほがらほがら牡丹の蕋に湧く陽炎〉〈曙や比叡の霞の街へのび〉〈山霊や月に浮べる草の露〉〈霜の草人影を追ふ風出たり〉、昭和8年には〈凧がつくりがつくりと夕凪げる水〉〈熱風の蝶とび入りて狂ひけり〉〈星へ啼く声の切なし草雲雀〉〈家あひを人ぬけゆきし風の月〉、昭和9年には〈余寒かなかすれ日が障子なめてる〉〈淡雪や妻がゐぬ日の蒸鰈〉〈高楼の窓みなあいてゐる日永〉、昭和10年には〈杣の斧光れば光れば桜散る〉〈雲雀あげて光る野底の水たまり〉〈サーカスのどよめきを雲雀あげてる〉〈蟬夕べ水を見てゐる顔々々〉〈人込みに白き月見し十二月〉といった作品があります。

B 「ちかちか」「雨が降る降るざんざと」「ほがらほがら」「がつくりがつくり」「光れば光れば」「顔々々」ですから、やはり亜浪の独自の表現といった趣きがありますね。

A そして、やはり〈霜の草人影を追ふ風出たり〉〈星へ啼く声の切なし草雲雀〉〈家あひを人ぬけゆきし風の月〉〈人込みに白き月見し十二月〉といった清冽な抒情を感じさせる作品にも捨てがたいものがあります。

B 昭和11年には〈初鷗水や空なる雲遠く〉〈枇杷が包まれ山かけて里かけて〉〈梅雨のひま船追ふ船の夕澄みす〉〈けくけく蛙かろかろ蛙夜一夜〉、昭和12年には〈青麦の風に白鶏放たるる〉〈白鶏のむれひしめける花吹雪〉〈空まろくかかり木々の芽やはらかし〉〈雁いぬる篊原浪に没し去り〉、昭和13年には〈巣にくだる鷺のもろ羽の碧みさす〉〈放つ蛾のきららが指紋見せにけり〉〈百合めぐる蛾の夕光を曳いて消ゆ〉〈谷々に霧沈みたり月の声〉、昭和15年には〈猟犬の傷つき戻り北風暮れぬ〉〈わりわりと氷柱を噛めり山の子は〉〈木倒しし木魂雪山這ひ消ゆる〉といった句が見られます。

A 続いて昭和17年には〈寒天をつんざき現るる翼々〉〈積雲下汽車海底を貫き走る〉〈蝶白く飛び迅雷の西へ去る〉、昭和18年には〈巨き艦巨き翼よ風青し〉〈柿ひさぐ路上炎塵みなぎれり〉、昭和19年には〈雪吹くや雛一つ一つ包まるる〉〈利鎌なす月光枯れし尾花截る〉、昭和20年には〈叢竹や氷雨の氷柱鎧ひ立つ〉〈ぴほぴぴほぴと木の芽誘ひの雨の鵯〉〈山上に人現はれつ春の蟬〉〈昼かなかな白道天へつづき光る〉〈西日澄めりかなかなの金属音〉といった句が確認できます。

B この昭和17年あたりからの時期における作品は、戦時中ということで、戦争に関する句も数多く見ることができます。

A そして、昭和20年に敗戦。この時の亜浪の年齢は、すでに67歳ということになります。

B 亜浪にとって戦後という時代は、もはや晩年の時代ということになりますね。

A では、昭和21年からの作品について見てゆきましょう。

B 昭和21年には〈花舞うて焦土の電車途絶えたり〉〈丁子かつら水色揚羽なほすがる〉〈一粒々々柘榴の赤い実をたべる〉〈夜長しや闇中に描く顔々々〉という句が見られます。

A やはり戦後ですから「焦土」ですね。

B 昭和22年には〈ざざざざと喜雨の音かな夜のぎす〉〈新秋の月明にこぞる虫々々〉〈汽車はしるレール秋日にのたうちつ〉、昭和22年には〈子ら唄ふ日向大綿小綿舞ひ〉〈白れむに夕日の金の滴れり〉〈大雷雨悠然とゆく一人ありぬ〉といった句が見られます。

A 晩年といっても、その作品における「白れむ」の美しさや「大雷雨」の句の豪胆さなど、なかなか優れた佳作の存在が確認できます。

B 昭和24年には〈舗道ひろしこけつまろびつ木の葉木の葉〉〈雲雀々々ちらつく水と韻き合ひ〉〈暁起きに朝顔の紅よむらさきよ〉〈舗道きぞの雨を湛へて蜻蛉々々〉、昭和25年には〈夕風どつと渡り法師の声を呑む〉〈かまつかの夜もなほ炎えて虫々々〉〈降りはれし氷雨に穹の澄み徹る〉といった句が見られます。

A そして亜浪の最後の年となった昭和26年には〈白れむの的皪と我が朝は来ぬ〉〈大鯛がむらがる汐の秋たけし〉〈紅の苹果となりて亡ぶもの〉〈颱風あがりの白れむの月煌々たり〉といった作品が確認できます。

B こういった作品を見ると、臼田亜浪は、最後まで秀句を成すことができた作者であったように思われますね。

A 特に〈白れむの的皪と我が朝は来ぬ〉の「白れむ」の生命感、鮮やかな色彩感を感じさせるこの作品については、それこそ亜浪の作品の中でも代表作の一つとして数えられるものであると思います。

B 亜浪の作品には、「白」を基調した句に優れた作品が多いように思われるところがあります。

A 今回選んだ15句の中においても、多くが「白」という色彩と関係しています。これには「信州」という風土との関係といったものが少なからず関与しているところがあるのかもしれません。

B 亜浪という俳人の澄み透った詩心の根底を象っていたのは、やはり風土性による要素が大きいものであるのでしょうね。

A 亜浪の弟子の大野林火も『わが愛する俳人 第4集』(有斐閣新書)の「臼田亜浪 ―原始精神の雄叫び」という文章において〈自然詩人、生活詩人という大雑把な分け方をすれば、亜浪は自然詩人である。素地は寒冷地小諸、火を噴く浅間をつねに仰ぐふるさとの山野に負うところ多い。〉と指摘しています。

B さて、臼田亜浪の作品について見てきました。

A 今回は、正直作品の数が多くて全てを通読するのになかなか苦しい思いをしました。

B 『臼田亜浪全句集』に収録されている作品の総数は、おそらく1万句から1万1千句程度ということになるようです。

A 1万句もあると、当然ながら全ての作品が優れているというわけではなく、似たようなモチーフの繰り返しも少なくなく、「孫俳句」などといった作品もあり、正直なところ読んでいてやや辟易するところもあったということも事実でした。

B また、全体的に定型に拠らないやや特異な作風で占められているため、なかなか作品を読み進めることができず、また、その作品の数の多さゆえに作者の全体像を的確に把握することもなかなか困難なところがあります。そして、そこから作品を選ぶわけですから、選も相当に難渋するところがありました。

A 亜浪の作品というものは、やはり従来のオーソドックスな作品と比べて、その構造にやや特殊な側面がありますね。

B いままで見てきた通り、自由律でもなく、五七五の定型でもない鬼貫の作風を髣髴とさせる「繰り返し」「擬音」「並列」などの手法による独自の韻律を持った作風ということになります。

A こういった独自の韻律というものは、おそらく野澤節子あたりにまで継承されているものなのではないかと思われます。

B 野澤節子といえば大野林火の弟子ですから、亜浪の系譜ということになりますね。

A 野澤節子における亜浪の作風を思わせる傾向の作品としては〈せつせつと眼まで濡らして髪洗ふ〉〈われ病めり今宵一匹の蜘蛛も宥さず〉〈さきみちてさくらあをざめゐたるかな〉〈枯れし萱枯れし萱へと猫沒す〉〈はじめての雪闇に降り闇にやむ〉あたりということになるでしょうか。

B 「せつせつ」の擬音、「われ病めり」の句の破調、「さきみちて」のひらがな的表現、「枯れし萱枯れし萱」「闇に降り闇にやむ」などの繰り返しによる表現が、やはり亜浪の作風とそっくりですね。

A 思った以上に師風というものは素直なかたちで継承されているようですね。

B 亜浪の弟子については、大野林火以外では、松村巨楸、安藤甦波、川本臥風、川島彷徨子、八木絵馬、篠原梵、西垣脩、新井声風、富田木歩、栗生純夫、今枝蝶人、原本神桜、林原耒井、金子麒麟草、西村公鳳、鈴木鵬干、飛鳥田孋無公あたりということになります。

A これらの作者も現在ではその多くが話題になることはないようです。篠原梵、富田木歩あたりはまだ名が知られているとは言えそうではありますが。

B ともあれ、臼田亜浪の遺した作品と手法というものは、俳句の歴史において必ずしも小さなものではないということが出来るのではないかと思います。


選句余滴

臼田亜浪


夥しき浮木に燕返すなり

接ぎ穂かげりして昼雷のなぐれ行く

雲雀あがるあがる土踏む足の大きいぞ

雨晴れて大空の深さ紫陽花に

水口へ群れ上る鮒を狩り尽くす

狩り魚のあぎと貫く青芒かな

山窪の積み薪黒む野菊かな

あげ泥をにぢりゐる蜷や野菊咲く

馬いたわつて水越ゆ野面銀河落つ

山の一角雲湧きやまず稲光り

森真上流るる雲や月夕べ

凩や雲裏の雲夕焼くる

寒雁や大木の影倒に

蠑螈這ふ氷(ひ)底の砂の日ざしかな

巣雀に目白の卵抱かせけり

地蜂掘つて蜂飯を焚く杣火かな

蓼の芽を蟹の喰ひ居る日永かな

大鳥の魚摑み去んぬ汐干潟

雲雀落つ末黒の原の水光り

雷雲に一鳥翔る夏野かな

庭一面敷く柿花や蝸牛

ダリヤ大輪崩れて雷雨晴れにけり

日車や照り極まりし空のさま

鳥渡り次ぐ暁け空の銀河かな

熊蜂の小蜂喰ひをる秋暑し

秋の水糸瓜浸けたる青みかな

柑園に蛇の出遊ぶ小春かな

氷挽く音こきこきと杉間かな

蟹の巣となつて荒れけり蜆坪

梅の髄はみ枯らす虫掘りにけり

大牡丹崩れて思ひはるかなり

蝸牛に霖雨の苺ふやけたり

青田中島とも見ゆる森嵐

軒氷柱磨ぐ北風のつづきけり

やどかりの皆這つてをる春日かな

小春日や草水に鮒の上りをる

鵜の嘴のつひに大鮎をのみ込んだり

ぬめり茸採る手許雲母光りけり

植残る一角に田虫むらがれり

淡路の灯一線に浮ぶ夜涼かな

鷺みんな森にしづまり月しづる

話声奪ふ風に野を行く天の川

風の声碧天に舞ふ木の葉かな

木より木に通へる風の春浅き

青芒靡けて風の空に消ゆ

蚊火煙り縫ふ雨玉の光りつつ

炎天の石光る我が眼一ぱいに

青田々々に影して月のうつりゆく

雪原やかたまりてゆく小さき影

ころろころろ蛙の声の昼永し

桑の香や月の青さの蚕を照らす

笹竹の星影ひいてそよぐなり

月原や我が影を吹く風の音

山清水魂冷ゆるまで掬びけり

でで虫の角振る葉先揺れじとす

雪に吹かれつ影のごと消ゆ寒念仏

雪を吹く氷上の風の音を追ふ

雪影の紫深し枯れ柏

いつか円ろくなりしこの月よ雪の旅

氷閉ぢの草影やぽと日さしゐる

どろどろに雪か泥かや日の遊ぶ

遠目白大空の日がまるう澄む

寒月の高窓明り胸に落つ

町屋根のみな喰ひ合うて光る風

山霧に螢きりきり吹かれけり

青田貫く一本の道月照らす

草屋根がぬけんばかりぞ苔の花

島ゆ島へ渡る夜涼の恋もあらむ

星風や櫂滴りの夜光虫

路地ぬけて銀河の風に向ひけり

ふるさとは山路がかりに秋の暮

曙や露とくとくと山桜

こんこんと水は流れて花菖蒲

練稚児の瓔珞が鳴る秋の風

鯛のひらめき秋日狂へる波上かな

初凪や蝦が泳げる潮だまり

草中の捨て氷月さしゐたり

山鳥を吊りし障子の白すぎて

枯柳風の歩みのとどまらね

曙の雪紫に野ゆきけり

父がゆく影がつしりと月の雪

夕おぼろ家影が路にのしかかり

田螺が蓋ひしととざして拾はるる

雪山がまともの桜澄みまさり

少年が笛吹いてゆく夜の暮春

見おろすや鶏が遊べる谷の桃

天降らす雹に打たれて蟇ありく

蜩やどの道も町へ下りゐる

壁のぼる蟻に峰雲の覗きけり

山深う木魂おそるる暮の秋

ぼう丹のあはれは散りし石の上

螢火や雨さんさんと野に満てる

壁喰うて神馬あはれや春の蟬

死おもひしそれもむかしや月玲瓏

霜の夜の野の石が声たつるかも

月凍らんとすなり石も眠るさま

吹かれたる雪のうねうね日向かな

人間に昼の桜の湧きあがる

若葉山雲ゆきゆきてゆきゆきぬ

舞ひ入りし螢いとしむ旅寝かな

枯萩のむざと刈られし昨日かな

蜻蛉に飛ぶ魚もがな瀬を早み

雨が降る降るざんざと山のさくらばな

牡丹見てをり天日のくらくなる

霜の草人影を追ふ風出たり

凧がつくりがつくりと夕凪げる水

水ゆれゆれ日傘の影を魚や恋ふ

山草の香の澄みやうや天の川

熱風の蝶とび入りて狂ひけり

泳ぎ出て汐の冷たき月夜かな

星へ啼く声の切なし草雲雀

家あひを人ぬけゆきし風の月

蜜柑積まれぬ夕風の道をころがり

余寒かなかすれ日が障子なめてる

淡雪や妻がゐぬ日の蒸鰈

高楼の窓みなあいてゐる日永

昼蛙行人の遠くかすみて

杣の斧光れば光れば桜散る

籠ぬけし螢が街木伝ひつつ

襟巻に空ゆく風の遠くこそ

初鷗水や空なる雲遠く

枇杷が包まれ山かけて里かけて

白鶏のむれひしめける花吹雪

空まろくかかり木々の芽やはらかし

雁いぬる篊原浪に没し去り

芦原のかぎり風ゆき日傘ゆき

きりぎりすゆふだち山を傾けつ

夕三日月氷掻く音絶え間あり

巣にくだる鷺のもろ羽の碧みさす

放つ蛾のきららが指紋見せにけり

谷々に霧沈みたり月の声

雨ざんざざんざ蛙の夜の白し

天ゆ落つ華厳日輪かざしけり

白樺林萌黄に雲を流したり

姫鱒の紅さし山の水清ら

秋風や網の小鯛の十ばかり

暁けのかなかな三日月われをのぞき落つ

木倒しし木魂雪山這ひ消ゆる

積雲下汽車海底を貫き走る

緑ぬけゆき一ちすぢに蝶白し

巨き艦巨き翼よ風青し

軒伝ふ雪虫に光げ波なせり

きさらぎの天雷霰とばし来ぬ

利鎌なす月光枯れし尾花截る

ぴほぴぴほぴと木の芽誘ひの雨の鵯

山上に人現はれつ春の蟬

旅ならぬ旅の一夜の雷雨かな

昼かなかな白道天へつづき光る

西日澄めりかなかなの金属音

茸汁や山の噋赤く霧を出づ

丁子かつら水色揚羽なほすがる

一粒々々柘榴の赤い実をたべる

稲妻の風そくそくと夜の秋

汽車はしるレール秋日にのたうちつ

枯草に鴨の彩羽をむしりすつ

白れむに夕日の金の滴れり

大雷雨悠然とゆく一人ありぬ

よろひかぶときららに子らの日が来しよ

蜻蛉みな失せたり驟雨殺到す

夕風どつと渡り法師の声を呑む

降りはれし氷雨に穹の澄み徹る

紅の苹果となりて亡ぶもの

颱風あがりの白れむの月煌々たり



俳人の言葉

昭和期に入っての愛弟子の一人に篠原梵(明四十三年~昭五十年)がいるが、その梵の亜浪評に「先生は生活上は俳句の専門家でありながら本質は専門家でない、「親方(マイスタ-)」でなく「永遠の徒弟」であり、作家として修業時代(レ-ルヤ-レ)と遍歴時代(ヴァンダヤ-レ)を死ぬ時まで続ける底の人」といった言葉がある。亜浪の人間的魅力もそこにあった

大野林火 「臼田亜浪 ―原始精神の雄叫び」より 『わが愛する俳人 第4集』(1979 有斐閣新書)

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4 件のコメント:

高山れおな さんのコメント...

冨田拓也様

「あとがき」にも少し書きましたが、ご苦労様でした。臼田亜浪というのはしかし、かなり強い個性の持ち主ですね。金子兜太の新句集を読み終わったところですが、ちょっと連想するところがあります。自由律もそうですが、亜浪もまた大正の時代精神を感じさせる作家ですね。最後、大野林火経由で篠原梵の言葉が引かれていますが、あれもゲーテですから、教養主義への憧れが丸出しになった按配です。ではでは。

冨田拓也 さんのコメント...

髙山れおな様

コメントありがとうございます。
「あとがき」でもふれていただきまして、感謝いたします。

亜浪の句業は全体的には、髙山さんの「退屈」という印象そのままのものであると思うのですが、時折、氷のように透き通った上質なポエジーを感じさせる作品が存在しますね。
  
亜浪と同時代の作者は他に、蛇笏、普羅、石鼎、鬼城などがいましたから、韻律の面についてはともかく内容についてはこれらの作者とも共通するものがありそうですね。

ともあれ、今回については選んだ作品を改めて眺めて、全句集を読んでよかったなと思いました。

高橋信之 さんのコメント...

冨田拓也さんへ
全句集を丁寧に読んでおられ、勉強になりました。
下記アドレスの私のサイトにリンクを張りましたので、ご了承ください。
http://suien.ne.jp/0001/aro/

冨田拓也 さんのコメント...

高橋信之様

コメントいただきまして、ありがとうございます。
さらにリンクまでしていただき感謝いたします。
高橋さんのサイト拝見させていただきました。
このようなサイトの存在もあったのですね。
いままで見過ごしていました。

今回、亜浪全句集を読んで、つくづく全句集を出版した方々の苦労や大変さ、そしてその情熱といったものに思いを馳せないではいられないものがありました。

私などは全句集を読んで、思ったことや感じたことをそのまま気ままに書いているだけにすぎないのですが、これだけの数の作品を蒐集、編纂して、1冊の本として纏め上げる作業というのは想像を絶したものがあります。

亜浪とも関係のあった高田蝶衣という俳人の全集を通読した際にも感じたことなのですが、作品を1冊に纏めて残そうと努力した周辺の人達の故人への思いというものが強く感じられるところがありました。