2009年8月29日土曜日

遷子を読む(23)

遷子を読む(23)

・・・中西夕紀、原雅子、深谷義紀、窪田英治、筑紫磐井


百姓は地を剰さざる黍の風
      『雪嶺』所収

深谷:昭和39年の作品です。

高度経済成長の恩恵を享けられなかった当時の農業従事者の生活は大変厳しいものがあり、それこそ必死に生きていました。だから、農地に変えられる土地は全て開墾し、耕地を広げていきました。「百姓」という呼称は、今でこそ差別用語として排斥される対象になっていますが、もちろんこの時代にはそんな意識も広がっておらず、遷子も愛情を込めて、大地に働く者達をそう呼んでいます。そして、ある意味でぶっきらぼうな、この措辞の中には、同様に生きてきたその先祖たち、つまりかつての「百姓たち」をも意識した時間的・歴史的拡がりを感じます。

一方、黍は生育期間が短く乾燥に強いといった特徴をもち、古くから粟・稗とともに山村や開拓地では救荒作物として必要不可欠の作物でした。歳時記などでは、「秋風に吹かれる光景には独特の風情がある」(講談社『図説日本大歳時記』 当該項目担当=広瀬直人)とするわけですが、遷子のこの作品では、そうした俳句的情緒を排したリアリズムを感じざるをえません。

遷子らしい、実直に生きる者達への応援歌に思えます。

中西:私の小学生のころ、授業でも「お百姓さん」と言っていた記憶があります。遷子の句にも、深谷さんがおっしゃるようにまだ差別用語の意識のない時代の大らかさがあるようです。佐久平は寒い土地の割に、雪が少ないと聞きます。としますとお米の収穫にはあまり適してない土地のようですね。昭和39年であることを思いますと、お米ができなくて、雑穀を植えていた田圃も多かったのではないかと思います。

この句は中七の終わりに切れがあります。切れがあることによって、句柄を大きくしているようです。「黍の風」が「黍畑」だったら途端につまらなくなります。黍ながら収穫の豊かさがここにあります。農家の人達の勤勉な労働を是とし、感心していることが窺える句です。

勤勉な遷子の眼は人の勤勉にも敏感なようです。「もったいない」という言葉を明治生まれの祖父母や、戦争体験者の父母がよく使っておりましたが、この句にも父祖の地を大切にし、開墾した土地を無駄なく耕す、「もったいながる」、良き時代の日本が見えるようです。

原:「地を剰さざる」というフレーズは、良くも悪くも土地にしがみついて生きる農民の姿を思わせます。作者が「百姓」であったら、返ってこのような把握はできないという気がします。 一歩はなれた客観的立場であることが、全体像といいますか、典型をつかまえることができるのでしょう。深谷さんのゆきとどいた鑑賞に付け加えるところはありません。「応援歌」とまでは言いがたいのですが、肯定否定に関係なくこの句が内包する農民の現実生活を考えさせられます。

これまで行き当たりばったり式に句を見てきて、遷子という俳人の位置づけがまだ見出せずにいます。句としての完成度か、それとも少々粗くとも生きる姿勢のあらわれた句をよしとするか、そのあたりも関連してくるようです。こういう二元論もどうかと言われそうですが、ともかく一人の俳人にも多様な面があるわけで、無理に特徴づける必要はないでしょうが、もう少し私にとって接点のようなものが見えてくるといいなと思います。その意味でも、佐久野沢に行っていらした磐井さんのご報告を興味深く読ませて頂きました。特に、生活の場である地元では、俳人であることより将棋好きの相馬院長として名が知られていたという点に、私は好感を持ちます。

筑紫:引き締まった表現でいい句であると思います。ただ、「百姓」を詠んだからといって、悲惨や惨めばかりではないと思います。「百姓は地を剰さざる」とはしたたかな農民が剰余の地を残すことなくすべて耕しきり、生産に活用しているという意味でしょう。豊穣の祝福であり、稲作で言えば、一面の青田をながめる痛快さがあるような気がします。今回の遷子ミステリーツアーでも、佐久平は一面の青田が広がっていました、天の恵みを感じる時期です。したがって、この「百姓」にも、もちろん差別的なニュアンスがあるものの、したたかさや、素朴さ、定着性の中の安心など感じとってもいいのかもしれません。
この句のポジティブなところを強く感じてしまうのは、「黍の風」によるところが大きいと思います。「黍嵐」では調子が強すぎておおらかな上五中七を受けきれないように思うのです。

私は、ご異議があるかもしれませんが、むしろこの句は写生に近いのではないかと思います。それはこれを短歌で詠む場合に次のようになるのではないかと思うからです。

<黍の風・・・・・・百姓は地を剰さざるなり>

リアリズム的ですね。中の・・・・の部分は適宜想像して補ってください。「吹き渡りつつ佐久晴れて」。ただそうした改作をしようとするとき、・・・・の部分が意外に明るい風景として書き込みたくなることに気づくと思います。これはこの俳句の構造が明るい風景を予定していることを証明していると思います。

      *      *      *

個人的な感想を先取りして、原さんの質問に回答するとすれば、遷子が対象にした農民や百姓は悲惨でもあり、哀れでもあり、したたかでもあり、意外に賢く度胸があるものではないかと感じているのではないかという気がします。自然の風景は多様であるように見えてもその変化は限りがあるように思います。しかし、人間は千変万化です。「遷子を読む」第4回で原さんが引用している遷子の次の言葉は、ステロタイプな農民の属性描写とはかなり違います。しかしこのような対象(あえて百姓といっておきましょう)であるからこそ、遷子は自然から人間に関心を移していったのでしょうし、ワンパターンに見える遷子の農村俳句にも深みが出てくるように見えます。

だから私は、今まで何回か登場した農民と税務署員を対立的に描く読みはあまり好みません。両者とも、時に善人であり、時に悪人であるのでしょう。おそらく「大方世人の七割八割は、金があれば或る程度善人になり得る」は、真実に近いでしょうが世のつねの文学者(ロマン主義文学者)のせりふではありません。ただ自然主義文学者として考えるときなるほどと肯えるのです。

(佐久の人の)人情は果たして如何でせうか。久しぶりに帰住した私にとつては、稍期待を裏切られた感がありました。自分自身のことを思ひ合せてみましても、大方世人の七割八割は、金があれば或る程度善人になり得るのではないでせうか。恵まれぬ経済的環境といふ事も、よほど考慮に入れねばならぬと思はれます。(「佐久雑記」)

窪田:磐井さんも夕紀さんも、行ってこられたので分かると思いますが、佐久市野沢はかなり広々とした平地です。掲句が生まれたのは、往診か吟行かで行った山際の傾斜地の景でしょう。平地では稲を作り、水の便の悪い山の畑では当時多く桑を作っていたのではないでしょうか。傾斜地では、長い柄の鍬は使いづらいので短いものを作りました。土が畑の下方に落ちてしまうので、除草をする時も下から上に鍬を使い、少しでも土を上に上げようとしました。そんな苦労をして、少しの土地も余さず有効に使うのは当たり前のことでした。例えば、田の畦には大豆を作り、畑のそれには南瓜を這わせました。稲の品種改良は明治31年頃から始まっていて、耐寒性の稲も生まれています。また、栽培法も「保温折衷苗代」など工夫されていましたので、昭和39年頃の佐久平で大切な水田に黍を作るということはまず考えられません。おそらく黍もわずかな山畑に作られていたのでしょう。

また、佐久に帰住した頃、人々は遷子をあくまで「お医者様」として見ているのです。そこに遷子が違和感を持つのも当然のことだったのでしょう。しかしそうした感覚も10年以上経ったこの時期はかなり変わって来ていたと思います。百姓の実体も解りそれに対する目もある意味肯定的になったのではないでしょうか。原さんが言われるように、掲句がある客観性を持って詠まれたことも了解できます。

筑紫:窪田さんの説得力ある解説に感心しました。土を上に上げる工作法は頭の知識では分からないもので、一応実地に足をつけてと策を尋ねてみましたが、やはり通りすがりの旅人の目であったかもしれません。ただ、遷子が地元の人から、「お医者様」として見られていたかもしれないというのはなんとなく実感されます。「百姓」という言い方は差別と別に、疎外感を背後に持っているゆえの表現であることは感じられました。感謝します。


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