七曜俳句クロニクル ⅩⅩⅥ
・・・冨田拓也
2月28日 日曜日
今日で早くも2月が終わり。
切れ込んで空(そら)ゆくごとく二月盡 竹中宏
3月1日 月曜日
本日より、出版社「ふらんす堂」のホームページにて、「草のこゑ」というコーナーが始まったようである。総勢32名が、桂信子の1句の鑑賞を行うという内容のものになるらしい。
以前から自分がこの連載で『桂信子全句集』(ふらんす堂 2007)を、延々と読み続けていたのは、このコーナーのためであったのである。
今日が3月のはじまりであるから、この「草のこゑ」というタイトルは、まさに時宜を得たものといった感がある。また、思えば桂信子には、師の「日野草城」や、主宰誌の「草苑」、また句集名の『草樹』や『草影』など、「草」にまつわるものが少なくなかった、ということも併せて思い起こされるところがある。
3月2日 火曜日
古書店をいくつか回ってみた。
安住敦『俳句の眼―句作の手引』(宝文館出版 1995)、鷲谷七菜子『游影』(牧羊社 1983)、山本洋子『桜』(角川書店 2007)、時実新子『有夫恋』(角川文庫 平成8年)をみつけたので、購入。
すさまじき真闇となりぬ紅葉山 鷲谷七菜子
とぶやうに村のバスゆく稲の秋 山本洋子
二ン月の裏に来ていた影法師 時実新子
3月4日 木曜日
本日、『船団』のホームページにおいて、坪内稔典氏に拙作を取り上げていただいた。
在り難いことではあるが、その文章を拝読すると、なんというかこのところ自分に対する風当りというものが若干「強ええ」ような気がするなあ……という感じもしないではない。
しかしながら、正直なところ、坪内稔典氏のような俳句の書き方ならば、この自分であっても成し得ることはさほど難しいことではない、という思いもしないではないのであるが……。
この作者の作品というものは、よく見てみると「口語版の鷹羽狩行」とでもいったようなものに近いのである。
3月5日 金曜日
現在、自分の手元に、筑紫磐井氏の『女帝たちの万葉集』(角川学芸出版)と、池田澄子氏の『シリーズ自句自解Ⅰ ベスト100 池田澄子』(ふらんす堂)がある。ともに新刊である。
ついこの間、大きな書店で、この池田澄子氏の『シリーズ自句自解Ⅰ ベスト100 池田澄子』が早速店頭に並んであったのであるが、その数がゆうに10冊を越えていたのでやや驚いた。やはり相当に人気の作者ということになるようである。その近くに『新撰21』(邑書林)が7冊と割合多く置かれてあって喜んでいたのだが、まるでそれをも圧するかのような眺めとなっていた。
ピーマン切って中を明るくしてあげた 池田澄子
水面に表裏あり稲光 〃
太陽は古くて立派鳥の恋 〃
仮の世を仮に出てゆく雨合羽 〃
月・雪・花そしてときどき焼野が原 〃
前ヘススメ前へススミテ還ラザル 〃
3月6日 土曜日
『俳句界』(文学の森)の最新号である3月号について、先週は自分の事ばかり書いてしまったのであるが、現在、気が付けばこの『俳句界』の新人賞である「北斗賞」の締切が迫ってきているようである。
この「北斗賞」の締切は、今月いっぱいの3月31日であるとのこと。
あと、出版社の「邑書林」から『超新撰21』というアンソロジーが今年の冬に刊行される予定であるらしい。編者は『新撰21』と同じく、筑紫磐井、対馬康子、高山れおなの3氏。今回収録される予定の作者は50歳未満の俳人で、そのうちの「若干名」を「公募」で選ぶらしい。収録俳人の数はタイトルの「21」の通り今回も「21人」ということになるのであろうか。
しかしながら、アンソロジーに入集する作者そのものを公募によって募る、という発想自体が相当にすごいというか、素晴らしいアイデアであるという気がする。
今後、「北斗賞」の受賞者及びその句集、そして、アンソロジーである『超新撰21』が、一体どのようなかたちで完成することになるのか、いまから非常に楽しみなところである。
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■関連記事
俳句九十九折(53) 七曜俳句クロニクル Ⅵ・・・冨田拓也 →読む
俳句九十九折(55) 七曜俳句クロニクル Ⅷ・・・冨田拓也 →読む
俳句九十九折(58) 七曜俳句クロニクル ⅩⅠ・・・冨田拓也 →読む
俳句九十九折(61) 七曜俳句クロニクル ⅩⅣ・・・冨田拓也 →読む
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8 件のコメント:
「俳句界」読みました!素晴らしかったです。今後もがんばってくださいね(^^)。
>『船団』のホームページにおいて、坪内稔典氏に拙作を取り上げていただいた。
>(略)自分に対する風当りというものが若干「強ええ」
ちょっと笑えました。でも愛情だと思います。冨田さまは冨田さまのやりたいようにやればいいのではないかと。またの作品、楽しみにしています。
野村麻美様
わざわざ「俳句界」の最新号を手にとっていただき、感激です。
今回の記事については、自分の考えをある程度整理することが出来てよかったなと思っております。
あと、私の坪内稔典氏へ対する思いというものは、俳句を始めて以来、やはり随分と「複雑なもの」があるということは事実ですね。(笑)
勿論、その「人物」や「人格」へではなく、「俳句の考え方」に対してです。
割合に「合理的」な側面を多分に持っておられるというか。
それがその論作の上に「単純さ」や「明快さ」といったかたちであらわれてくるわけなのですが、それに対して少々疑問や違和感といったものがないでもないというか。
野村麻実様
お名前を間違えてしまいました。
申し訳ございません。
「美」ではなく「実」でしたね。
覚えていただきましてありがとうございます!
美しくなくても「実(じつ)」で勝負せよと(笑)。
坪内氏の著作は、句集などを読み始める前から読んでいました。”たんぽぽ”とか”うふふふふ”とか。
今思えばアレですけれど、面白いおっさん(一般人からみれば)だなぁと思っていましたし、散文も普通に週刊文春だの新潮だのの新刊案内に載っていたので買っていたことを思い出します。一般的に著名人として通用する方ですよね。(俳句の面白さを伝えようとしているのかどうかはもう感想を忘れました)
悪い人ではなさそうですが、今は面白い句と思えなくなりました。
冨田拓也様
野村さんとの応酬を読みながら、話が「坪内さんは悪い人・云々」にながれて終わって仕舞うといけないので、これには一寸、老婆心からでも、迷惑がられても良いからコメントが必要だと思っていたのに、遅れました。週がかわってしまいました。
坪内稔典さんの「今日の一句」2010年3月4日
「棒に振る夢もあるべし揚雲雀」冨田拓也
句集『青空を欺くために雨は降る』(2004年)からの抜粋ですね。概要は下記の如し。
この句集は第1回芝不器男俳句新人賞の賞品として刊行された。拓也はこの賞の1回目の受賞者である。私もその賞の選考委員なので、拓也にずっと注目してきた。だが、いっこうに古臭い文学臭が抜けない。俳句の独自性をなかなか見つけられない気配だ。拓也よ、他の表現にない俳句の特色を早く見つけろよ。それをしないと他のジャンルの人とか俳句に関わらない一般の人の共感をえられない。」(稔典文)
俳句の特色は口誦性ばかりではありません。現在の冨田さんの持ち味も、近代が切り開いてきた俳句表現の一つのあり方を示しているはずです。
今貴方が
春の坂丸大ハムが泣いている 稔典
と言うような句がつくれるはずがないでしょう?これは坪内さんの切り開いた文体です、
しかし、望見するところ、当初は新鮮だったそれをくりかえしてきて、氏はこの作風の量産やご自身のマンネリズムを「よし」としている気がします。いちど典型化された作風はそうかんたんには転換できませんし。
だから、野村麻実さんみたいに、俳句にかかわりない純粋読者が、最初は良いなあ、とおもっていても共感を無くしてしまったのでしょう。
ただ、坪内さんのは、冨田さんがまだ「俳句」をみつけていないと想っているのですから、氏の批判で採るべきところは次ぎようなことだとおもいます。富田さん自身が、曲がりなりにも獲得しているいまの傾向のマンネリズムにおちいったばあい、坪内さんがそうなった場合よりもあぶなかしいだろう、とこれは富田さんがご自分を豊かにするために自省されるべきです。貴方はまだ、年齢も若く坪内さんほど海千山千ではなく、立ち往生したときの逃げ道をそうたくさんもっておられないから。それはどんな大家でも新人でも、私のように、大きな場所にはお呼びのかからない市井の俳句者でもおちいりやすい、自己模倣への警告です。富田さんが、自分への採点を辛く採ってゆくことが今回の一句評の忠告に対する受け止め方ではないでしょうか?。
抱え込んでいる大事なことは人それぞれ違いますから、現在の自分の書くべきことを、書かれるのがいちばんいい、とながめております。
しかし、私の位置から、坪内さんのこの文章に抱いた疑問は、
トミタク・コレクションには、他にもっと好い句があると思いますが、坪内さんがこのような二句一章と、古典的な発想の述懐の句ををわざわざとりあげ、このことについては何も言わず、別にあるはずの「秀作」に関して「文学臭が脱けない」などとと言う言い方は、青少年の初心に向かって、なにを言おうとしたのか?そちらにむしろ、興味が湧きました。
秋風やここはこの世のどこなのか 拓也
新撰21 より
わたしはこういう素直な句に、現在あらためてかんがえなおさねばならない、と言う意味での正当な文学志向をかんじます、これは私の好きな句です。述懐調でも「揚げ雲雀」の句より良いです。
富田さんは、私のいいたいところが、わかっておられると想うのであとはご自分で考えてください。ここにもう同主旨のお返事は無用ですよ。今週の話題に進みましょう。堀本 吟
吟さま
>望見するところ、当初は新鮮だったそれをくりかえしてきて、氏はこの作風の量産やご自身のマンネリズムを「よし」としている気がします。いちど典型化された作風はそうかんたんには転換できませんし。
だから、野村麻実さんみたいに、俳句にかかわりない純粋読者が、最初は良いなあ、とおもっていても共感を無くしてしまったのでしょう。
ああ、なるほど!ストンと胃に落ちました。
わかりやすく解説くださってありがとうございます!
野村さんこんばんわ、こちらの反応にお答えしておこう。
この頃、トミタク俳句は微妙にかわってきて居られますから、私も楽しみに読んでいます。では、また。
いろいろたのしい言葉のブログがあるから、渉猟徘徊してください。
「坪内さんは悪い人じゃないけど、面白くない」(麻実)といわれては、氏も苦笑ものでしょうね(笑)。人格批評と受け取られかねないから、こういう話題をは変えましょう。
坪内俳句のファンはたくさんいるので(層をねらった作り方なので)、野村さんが脱けてもそう応えないでしょうね。それでいいのだとおもいますから、富田さんの俳句は、半分自己探求です。少数でもきっちり読む人が居れば、強固になるはずです、彼の読者網からは、かんたんには脱けないようにしませう。(堀本 吟)
吟様
懇切なコメントありがとうございました。
とても有り難く拝読いたしました。
一応少しだけ簡単にコメントさせていただきます。
私は坪内氏のことに対してけっして単純に「悪い人」だと言っているわけではないのですね。
以前の3月8日のコメントにも書いてあるように、非常に「複雑」な思いを抱き続けている、ということであるのです。
端的にいうと、ある種の尊敬の念と、やはり疑念と反撥といった双方の相反する思いが入り混じったもの、ということになります。
この点における言葉の説明、配慮というものが、以前のコメントでは少々足りなかったところがあるようですね。
あと、堀本さんには、今回私の言いたいことをそのまま代弁していただき助かりました。
感謝申し上げます。
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