2009年8月15日土曜日

遷子ミステリーツアー

遷子ミステリーツアー
(「遷子を読む」番外)

                       ・・・筑紫磐井

8月1日から3日まで虚子の日盛り会にちなんで、小諸で日盛り句会を挙行しました。「日盛会」は、明治41年に高濱虚子が、河東碧梧桐の俳三昧に対抗して8月の1か月間毎日開いた俳句会で、100年を隔てて本井英氏が復活したものですが、今年は高濱虚子記念館開館10周年記念事業として「こもろ・日盛俳句祭」として行ったものです。小諸で開くゆえんは、終戦前後に虚子が疎開をしていたところであるためです。本井英、西村和子、中西夕紀、片山由美子、櫂未知子、岸本尚毅、小川軽舟、土肥あき子、山田真砂年、井越芳子、井上弘美、奥坂まや、山西雅子、高柳克弘など錚々たる顔ぶれの句会でした。1日目(第1回目の句会と高橋睦郎さんの講演)はつつがなくすんで、2日目の午前は自由時間となるので各人、さまざまな吟行計画を立てました。といった次第で、「遷子を読む」の中西さん(同じ地元の窪田氏も呼ぼうと思いましたが文芸部の生徒の大会引率のため不在とか)と相談し、昨日約束済みの土肥氏(鹿火屋)、山田氏(未来図)とホテルで待ち合わせをします。恥ずかしいことに小諸に来るまで気がつかなかったのですが、小諸は佐久の隣なのだそうです。佐久には邑書林の島田牙城氏が住んでいます。朝食後、あと15分でホテルを出発するという時間に、フロントで電話を調べてもらい電話をすると、社長で牙城氏夫人の土橋壽子さんが出られて久しぶりの挨拶。まだ就寝中の島田氏をたたき起こしてもらい、会って話をしたいねえ、とこちらの状況を言いますと、「上手いタクシーの拾い方ですねぇ」と図星を指されます。それでも子供のサッカー教室が今日はないらしく、近くの駅で待ち合わせてくれるといいました。「女性は何人」「2人」「じゃあ僕の車でぎりぎりだ」「すまないねえ」「ふふん」。

小海線で30分ほど、中込駅に島田氏が迎えに来てくれていました。挨拶もそこそこに、4人を載せて、たぶん相馬北医院がそうだろうと思いますよ、と言って出発。歩いてもゆけそうな距離と言いますが、千曲川に架かる野沢大橋を越えて野沢町に入り、相馬北医院に着きました。周りを見回して、ここであろうかといいますと、牙城氏、見ず知らずのお宅で急にピンポンを鳴らします。ちょっと時間がたってから扉が開き、老婦人が吃驚された顔で出てきます。牙城氏が、新子田の島田と言いますが(といっても老婦人は分からなかったようですが)東京から俳人が来て相馬遷子の家を訪問したいと言っているがといいますと、自分は富雄(遷子)の弟の連れ合いでこの病院はその連れ合いの病院、主人は今年なくなっており、富雄の病院は相馬医院と言い別のところにある、ちょっと待って下さいと2階から息子を呼び出されます。息子と言ってもいい年の先生で、昔、大欅(「野沢町の女男木」という名前です)そばに病院があり相馬兄弟で開業していた、その後今の医院の方に移り、そこは息子がやっていたが、最近では孫の代になっている。息子の方は松本に住む連れ合いの母親の具合が悪いので、今日は居ないのではないか、といって電話をしてくれるとやはり不在でした。町内地図をコピーしてくれ道順まで教えてくれます。

先ず教えてくれた、遷子の墓に行くことに。墓所は紫雲山金台寺という時宗のお寺で、並んでいるお墓の年代を見ると天保とか弘化とか古い墓ばかりです。佐久地方ではお盆ではなく8月1日にお墓参りが行われる風習があり、今日見ると金台寺のどの墓も花が供えられています。島田氏の説明によると、この一帯は寛保2年(1742年)8月1日に大洪水が襲い(戌の満水)、以後お盆ではなくこの洪水の起きた日に墓参りをするようになったのだということです。相馬家の墓は、山門にほど近い寺域南東の、門扉のついた屋根の葺いてある、寺の中でも最も立派な墓となっていました。不思議なことに墓碑には、遷子(富雄)の名前はありません。牙城氏が住職をつかまえて聞いてくれた話によると、遷子は間違いなくこの墓に入っているが、当人が墓碑に刻むことを望まなかったのかも知れないといわれました。

その後、相馬医院をめぐる散策に出ます。昔の相馬医院は、相馬富雄(遷子)により昭和21年野沢本町(現在やなぎだ呉服店。国道沿いの大欅前)に創設され(一時弟も医師を務めたことは既述)、富雄なきあと子息昭彦氏が診療を続けられています。昭和51年(遷子のなくなった年)に現在の田町(もとの医院より150メートルほど西南)に移転し、現在に至っているといいます。ただし医院経営は、平成20年4月から、孫の智彦氏が院長となっているようです。遷子は医院と別に自宅を構えていました(医院から100メートルほど北)が、その自宅は柳田という人に譲られています。佐久市は、この4月から選挙で当選した全国でも有数の若い市長である柳田清二氏が市長となっていますが、遷子はこの人とは縁が深かったらしいです。詳細は不明。いずれにしても、佐久市野沢は山の真っ只中でもなく、周囲は相馬一族が占めており、菩提寺の格から行っても遷子が名士であったことは間違いなさそうです。ちょっと今までの認識を改める必要もありそうです。
http://soma-iin.com/shinryo.html

ここまでは遷子のミステリーツアーのような旅で、それからあとは牙城氏のサービス。少し離れた山へあがった前山にあたりに、洞源山貞祥寺があり秋桜子・遷子の師弟連袂句碑があるといわれます。これも車で5分ほどのところですが、誠に幽邃な寺域です。ここには何の目印も解説もなく、次の2句が刻まれた石がたっています。

寒牡丹白光たぐひなかりけり  秋桜子
雪嶺の光や風をつらぬきて  遷子

前の句は、遷子が亡くなる直前(昭和51年)、葛飾賞を受賞したときに秋桜子が遷子に贈った色紙に書かれた句です(遷子の臨終の10時間ほど前に手元に届けられたものでしたが、遷子はもうこの句を記憶していることすらできなくなっていたといわれます)。後の句は、『雪嶺』昭和32年の句で、生前遷子が最も好んだ句とされています。

この貞祥寺には、小諸にあった島崎藤村の旧宅が移築され、『千曲川のスケッチ』『破戒』の執筆時の住環境がそのままに残されていました。懐古園に行っても藤村の思いは分かりませんが、この旧宅にはそこここに藤村の臭いが染みついています。これは相馬遷子ツアーの思いがけない発見でした。暗い灯りの4部屋に、「夏炉」を炊いている地元の婦人が二人、俳人なら投句して下さい、といわれます。午後の日盛り句会に備える必要もあり、各人は藤村が詩作したり、生活した部屋にそれぞれ散って沈思黙考します。

雨含む風や晩夏のたなごころ  中西夕紀 
苔の階苔の畳や霧のぼる
夏座敷雨の檜のにほひけり
虎つぐみ旧居といふは家具置かず
鐘涼し京の造りと知ればなほ
斑猫の考へてゐる背中かな

曇天や行く先々に蜘蛛の糸  土肥あき子
他愛なく笑ひ転げる青時雨
顔半分夏炉に染めて集ひけり
縁側にぺたんと座る緑雨かな
待てといふもつとも茂る樹の下に
鐘涼し尾のながながと狐雨

山を疾く降りきて青田風さはさは  山田真砂年
眼奥で青き煙を嗅ぐ夏炉
藤村に女いくたり苔の花
裏山へ風のつつぬけ夏座敷
汗拭くや鐘の余韻の中にゐて
日照草仁王に白き硝子の眼

次の間にひかえてをるは女郎蜘蛛  筑紫磐井
降るごとく鳥と雫の夏の山
思ひつきり青田の続く佐久平
ぼそぼそと夏炉を守りて老婦人
ヘボン式文字の暑さや藤村居
夏座敷抜けて前山・後山と

本堂に赴くと山門に鐘楼があり、自由に登って撞けます。山田真砂年氏、私と勝手にあがって撞くと、戦後に京都で鋳られた鐘ながら、美しい響きとその余韻は数分に渡って漂います。昭和の名鐘といってよいでしょう。

1時間ほど過ごして再び市内へ戻ります。邑書林の社屋へ。土橋さんは10年以上逢っていませんが全然変わりはありません。突然の闖入者に愛想よく社長自らお茶をもてなしてくれます。従業員の牙城氏の方がかえってえばっています。再び島田氏の車で市内へ行きますが、佐久ホテルの前へとめてくれたので何かと思うと、この佐久には荻原井泉水がしばしば逗留していたと言うことで、ホテルの前に小さな句碑。ここで書いた色紙が彫られているのです。

和羅耶布流 遊幾通毛留

(藁屋古る、雪積もる)の句が佐久にまことにふさわしく思われます。有季定型はとてもかないません(その後の午後の句会で、西村和子氏と一緒になったので、前衛俳人は無季も書くが有季にも寛容なのに、伝統俳人は無季に不寛容でしょう、ととがめると、無季だからダメなんて言わないわよ、無季だって作品がよければいいのよ、だけどいい作品はめったにないけれどね、とおっしゃられます。同感)。軽い食事をして、小諸の句会場へぎりぎり滑り込みました。牙城さんありがとう。

私や中西さんは帰りの時間が遅くなるので2日目の句会が終了した時点で(宇多喜代子さんの講演を聞かないで)帰りましたが、「知音」の松枝真理子さん、小沢麻結さんと電車で座席が一緒となりました。松枝さんのお母さんは中西さんと「晨」で一緒だった由。もっと不思議なのは、小沢さんの職場(某政府系銀行で、福永法弘、小川軽舟氏らがいる)の上司が深谷さんだそうです!びっくりします。早速、月曜日に深谷さんからメールが届きました。「小諸では、小生の部下(俳句活動では全く接点がありません。単なる偶然の巡りあわせです)の小沢麻結が大変お世話になったようで、本日嬉々として報告に参りました(笑)。小生からも御礼申し上げます。」
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1 件のコメント:

島田牙城 さんのコメント...

磐井さま
ご執筆ありがとうございます。
そもそも地元人である僕が遷子旧居も知らずに、弟の病院へ連れて行くといふテイタラクで始まつた珍道中でございましたが、収穫があつたとしたら幸運でした。
俳句では【次の間にひかえてをるは女郎蜘蛛】(ひかへ?)を僕は好みます。不気味な読後感がミステリーツアーに相応ふのでせう。
次回は是非、佐久の山頭火・井泉水ツアーをご計画下さい。井泉水の弟子の関口江畔といふ人の家には、団ポール三箱に井泉水の遺墨があるさうです。現当主は飲み仲間ですので、見せて貰へます。
ではでは、お礼まで。