俳人ファイル ⅩⅩⅩ 新海非風
・・・冨田拓也
新海非風 15句
捨舟のひとり流るゝ雪解川
釣鐘に梅の影這ふ月夜かな
其中に氷る池あり冬木立
薄氷にとち込められぬ落椿
飴うりの峠をこゆる桜かな
青空に落ちる物ある雲雀かな
恋猫の橋を渡るやせたの月
山吹の雫の下やしゞみ籠
玉川の真中をぬく小鮎哉
汐だめに一つ一つの月夜かな
月のうら少し見せけり十三夜
芝山や真夜中頃の花吹雪
時鳥中洲は雨に消えて行く
寒月や下町かけて塔の影
鮟鱇の軒にさがりて月氷る
略年譜
新海非風(にいのみ ひふう)
明治3年(1870) 松山に生まれる
明治21年(1888) 正岡子規に会う
明治22年(1889) 俳句をはじめる
明治23年(1890) 選句集『案山子集』編纂 入営
明治25年(1892) 肺病となり、陸軍士官学校を退学
明治28年(1895) 子規たちから離れる
明治34年(1901) 京都で逝去(32歳)
A 今回で「俳人ファイル」を始めてから30回目となりました。
B 早くも30回目を迎えたというべきなのか、それともようやく30回目に辿り着いたというべきでしょうか。
A ともあれ、ここまで続けてこられるとは思いませんでしたね。
B そうですね。
A とりあえず今後は40回を目標にして進んでゆくことにしましょう。
B しかしながら、この「俳人ファイル」といった企画のことを考えると、いまさらながら、恐ろしいものに手を出してしまったという思いが日増しに強くなってくるところがありますね。
A 確かに、回を重ねるごとに、段々と道が狭くなってきているような気がします。
B それでも、ここまできていまさら後に退くわけにもゆきませんので、どこまで続けられるかわかりませんが、なるべく行けるところまでは行ってみることにしましょう。
A ということで、30人目は新海非風を取り上げます。
B 以前、藤野古白を取り上げた時、この作者に少しだけですが触れました。
A この作者も明治時代の俳人ということになります。
B 正岡子規の周辺に集まった俳人の中でも最も初期における俳人の1人ですね。
A この作者について言及しているのは、同時代人としては正岡子規、河東碧梧桐、高浜虚子、そして、後年における評論家としては山本健吉、桶谷秀昭がこの非風について触れています。
B 新海非風には句集が存在せず、今回参照している資料としては、講談社の『子規全集』16巻所載の『新俳句』『案山子集』『獺祭書屋俳話 選句集』、そして改造社の『現代日本文学全集38 現代俳句』で、これらの資料からの作品抄出ということになります。
A これらの資料を見ると、非風の俳句として確認できるものは総計で大体450句から500句弱ということになるようですね。
B 句作期間については、明治22年(1889)から明治28年(1895)までの6年程度ということになるようです。
A その後、新海非風は、明治34年(1901)に、京都で病のため32歳で亡くなっています。
B では、その作品について見てゆきましょう。
A 明治31年刊の『新俳句』という選集に収録されている非風の作品を見ると総数は13句で〈品川や海一面の雪にごり〉〈捨舟のひとり流るゝ雪解川〉〈釣鐘に梅の影這ふ月夜かな〉〈山寺は鐘の銘ほる彌生かな〉〈凩のあるゝが中に入る日かな〉〈其中に氷る池あり冬木立〉といった作品がみられます。
B 高浜虚子の小説「俳諧師」に非風をモデルにした人物が登場するのですが、その小説の中では、〈非風は俳句を作り始めた頃は仲間中の第一の天才といはれ、小説を書いてもオリジナルな処があると評判であつた。〉という記述があります。
A これらの句を見ると、たしかに「第一の天才」といわれたというのも首肯できるものがありますね。
B 「品川」の句の抒情性。「捨舟」が雪の解け出した春の水の川の流れによってひとりでに流れだす春の光の遍満する風景。釣鐘にまるで工芸の模様のように鮮明に影を落とす月夜の梅の形象。冬の木の荒涼とした風景から想像される不可視の氷の池とそれによって感じられる硬質なリリシズム。どの句にも本当に「古き良き俳句」といった雰囲気が感じられ、この時点ですでに作品がある程度の水準まで達しおおよそ完成してしまっているようです。
A 『子規全集』の月報に載っている越智二良の「奇才の遊蕩児・新海非風」という文章によると〈子規が月並宗匠の影響をうけたのに反し非風らはそれがなく「思ふまま十七字に述べ何ら拘束されず」指導する子規がかえって彼等に感化されるところが多かった。〉とのことです。
B なるほど。この間取り上げた藤野古白の俳句にしても、非風と同様のことがいえるはずだと思います。2人ともこれまでの月並俳句の影響を受けず、まっさらな白紙の状態から俳句を始めたことにより、月並俳句の影響に足を取られることなく、その生来から持ち合わせていた優れた資質による感覚の鋭さと直感をそのまま俳句形式の上にストレートに発揮させることが出来、優れた作品世界を創ることが可能であった、ということになるようですね。
A こういった事情が、2人を「天才」といわしめた所以であったのでしょう。
B 続いて『案山子集』に掲載されている作品について見てゆきたいと思います。
A この選集に掲載されている非風の作品は、総数でおおよそ427句となります。
B 427句ですから割合その作品数は多いですね。この選集には〈梅の舟月夜になりて流れけり〉〈薄氷にとち込められぬ落椿〉〈山吹の中をせりせり田舟かな〉〈ちる花の音すざましき夕かな〉〈飴うりの峠をこゆる桜かな〉〈青空に落ちる物ある雲雀かな〉〈恋猫の橋を渡るやせたの月〉〈山吹の雫の下やしゞみ籠〉〈玉川の真中をぬく小鮎哉〉〈草もちの器は蝶のまきへかな〉〈獅子吼た跡静なり秋のくれ〉〈汐だめに一つ一つの月夜かな〉〈獺の氷をたゝく寒さかな〉〈只一つ狐火通ふ枯野かな〉〈さかさまにふじなで上る吹雪哉〉〈七星の二つ消へけり初時雨〉などといった作品が見られます。
A どの句もなかなか作品として優れた出来を示しているのではないかと思われます。明治時代における俳句のシンプルな構造ゆえに感じられる力強さとでもいうのでしょうか。
B そうですね。この時代の優れた句における特徴の一つは、そのようなシンプルさによって作品の持つ魅力がそのままダイレクトに読み手に伝わってくるところにあると思います。
A 〈薄氷にとち込められぬ落椿〉という句は、やや作り物めいた発想ながら、「薄氷」と「落椿」の取り合わせに繊細な美しさが感じられますね。
B 〈飴うりの峠をこゆる桜かな〉などといった句についてはこの時代でなければ書き得ない句であると思われます。
A この時代には「飴うり」などという職業というか、生業が存在したのですね。
B 飴売りというものは、江戸時代からのものであるそうで、三味線をひいたり、鉦をたたいたりして飴を売り歩いたといいます。
A どちらかというと共同体の外側にいる人、即ち普通の人々とは異なる「異人」といったものに近い存在ということになるでしょうか。
B そう考えると、「桜」との取り合わせになにかしらの孤愁のようなものが感じられてくるところがありますね。
A 「俳人」もまた「飴売り」と同様、一種の「異人」であるということになると思われます。
B 「共同体」からは異質な存在であるわけですね。
A 続いて〈青空に落ちる物ある雲雀かな〉という句についてですが、個人的には非風の作品の中で最も印象深い句の一つです。
B 内容としては単に雲雀が空にのぼって行ったということに過ぎないのですが、おそらくこの1句の作中主体である「私」は、どこか土手などの屋外に寝転んで空を見上げているのでしょう。
A 非風には子規への書簡の中にも〈草枕して見あげけり秋の蝶〉という、似たような状況を作品にした句がありました。
B この「秋の蝶」の句はどちらかというとまだ平凡な内容にとどまっていますが、この「秋の蝶」と「青空」の2句における表現について決定的に袂を分かつ部分は、「青空」の句では飛んでいる対象物を「青空に落ちる」と表現したところにあります。
A そのように表現することによって、天と地がまるでさかさまになったかのように感じられるわけですね。
B 寝転んだ姿勢から見た青空のおそろしいまでの広さ。そして、その風景が時間が経つにつれてだんだんと天と地の関係が反対となってゆくような感覚へと陥ってゆくということであるのでしょう。
A 視界には一面の青空のみが広がっているといった風に感じられるのでしょうね。
B そして、その青空のみが占める空間に不意に雲雀が上がったわけです。本来的には上昇してゆくはずの雲雀が、寝転んでいるため、その視界からはまるで青空の悠久へと吸い込まれ落ちてゆくように見えたというわけです。
A 現実に根ざした感覚の句ながら、その現実の相が妙な変容というか、捩れを生じているような印象がありますね。
B 子規に〈草枕の我にこぼれよ夏の星〉という句があるのを思い出しました。
A なんというかそれこそ子規の句は、非風の句と反対の内容というか、表と裏の関係にあるといっていいような作品ですね。
B また、中村三山という昭和初期の俳人に〈あをぞらに臥し蒼海を航くおもひ〉という句がありますが、この句の内容も非風の句にやや共通するものがあると思います。
A 続いて〈玉川の真中をぬく小鮎哉〉という句について見てゆきましょう。
B 「玉川」はおそらく現在の「多摩川」ということになるのでしょう。
A こういった地名などの固有名詞を詠みこんだ句は藤野古白の作品にも数多く見られましたが、この非風にもそういった例がいくつも見られます。
B 作品としては〈品川や海一面の雪にごり〉〈ふじ筑波一つゝなぎや初霞〉〈鶯や藪を流るゝ京の水〉〈筑波からふじに連なる帰雁哉〉〈恋猫の橋を渡るやせたの月〉〈吐く汐の須磨か明石か小蛤〉〈ふじは雪筑波は雨の二月哉〉〈状一つ蝦夷から来たり秋の暮〉〈角田の水筑波の水も交るべし〉〈春の日や安房まで続く真帆片帆〉〈芝山や真夜中頃の花吹雪〉〈住吉にともし一つや時鳥〉〈人もなし佐野の渡しの夜の雪〉といったものが確認できます。
A こういった手法は、当時の子規たちにおける共通の手法であったようですね。
B 子規の句を見ても〈祇園清水冬枯もなし東山〉〈名月や伊予の松山一万戸〉〈赤蜻蛉筑波に雲のなかりけり〉〈石手寺にまはれば春の日暮れたり〉〈東海道若葉の雨となりにけり〉〈柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺〉〈草の花少しありけば道後なり〉〈松山の城を載せたり稲筵〉〈小夜時雨上野を虚子の来つゝあらん〉〈ガラス窓に上野も見えて冬籠〉〈五月雨や上野の山も見あきたり〉〈きさらぎや雪の石鉄雨の久万〉〈摘草や三寸程の天王寺〉〈髭剃ルヤ上野ノ鐘ノ霞ム日二〉などと地名を詠み込んだものは少なくありません。
A この非風の〈玉川の真中をぬく小鮎哉〉という句については、子規に〈若鮎の二手になりて上りけり〉という句がありますから、この句と並べて読むと興味深いものがあります。
B 続いて『獺祭書屋俳話 選句集』に収録されている句について見てゆきましょう。
A ここには28句ほどが収録されていて〈抱て居る鶏も鳴きけり今朝の春〉〈春の日や安房まで続く真帆片帆〉〈一のしに思ふことなき燕かな〉〈芝山や真夜中頃の花吹雪〉〈住吉にともし一つや時鳥〉〈時鳥中洲は雨に消えて行く〉〈古道にあふ人もなし墓参り〉〈山寺に鹿のあつまる月夜かな〉〈白萩の末は小川の月夜かな〉〈鉄橋の青さびふくや年の暮〉〈寒月や下町かけて塔の影〉といった作品が確認できます。
B 〈時鳥中洲は雨に消えて行く〉という句については、やや異色の作であるといっていいと思います。
A 「消えて行く」ですから、口語による作品ということになりますね。
B 藤野古白にもこのような口語的な表現の作品がいくつかありました。
A 子規にも〈ここぢやあろ家あり梅も咲て居る〉〈今日か明日か炉を塞がうかどうせうか〉〈おとつさんこんなに花がちつてるよ〉〈粟の穂のここを叩くなこの墓を〉〈秋の雨荷物ぬらすな風引くな〉などといった口語による句が見られます。
B この非風の口語の句については、明治26年における子規の〈山もとや鳩吹く声の消えて行〉という句の存在が関係しているかもしれません。
A 非風の「消えて行く」と子規の「消えて行」ということで、ほぼ同じ表現ということになりますね。
B この時代には、このような口語による句も存在していたわけですね。
A このような表現を見ると、それこそ現在の俳句表現の多くが、やや不自由な枠組みに縛られてしまっているという側面があるよう思われるところもあります。
B 明治27、28年頃になると、新海非風は子規の仲間たちとは離れてゆくようになります。
A 河東碧梧桐は『子規を語る』において〈一題百句時代の子規と非風とは、古白飄亭以上の親しみを持っていたようであるが、それがどういう機(はず)みで、次第に疎遠になて往ったものか、この明治二十七年末には、もう殆んどお互いに往来することもないほどの隔たりを見せていた。〉と書いていますね。
B その後、非風は、文学も捨ててしまったらしく、京都で病のため32歳の若さで亡くなります。
A さて、新海非風の作品について見てきました。
B どの句にもなにかしら孤愁といった雰囲気の存在が少なからず感じられますね。
A どこかしら非風自身の運命がそのまま表出されているようにも思われるところがいくらかあります。
B 明治時代における一人の青年の、繊細ながらも鋭さを秘めた感性から発せられたポエジーの閃きは、俳句形式の中においてそのままの姿で凍結され、現在に至るまでなおその微細な光りを放ち続けているようです。
選句余滴
新海非風
品川や海一面の雪にごり
凩のあるゝが中に入る日かな
ひな鶴のふみよごしたる根芹哉
菜の花や所々のたなごつり
梅の舟月夜になりて流れけり
山吹の中をせりせり田舟かな
口あけて春の日眠る田螺哉
ちる花の音すざましき夕かな
鶯や藪を流るゝ京の水
鶯のわらじにとまる野茶屋哉
坐敷にも蝶の飛けり草の餅
一うちの波に消へたる白魚哉
吐く汐の須磨か明石か小蛤
ふじは雪筑波は雨の二月哉
はる風や海苔に緑の海千里
山ごしや隣の国の凧
草もちの器は蝶のまきへかな
あぢさいや白ふ出たる昼の月
夕顔やくさつた臼のわれ目より
蝶眠る萍一つ流れけり
鈴一つ遠くなり行く夏野哉
小窓から聞て眠るや田植哥
夏やせや団扇の骨の恐ろしき
瀧つぼや我に集まる山の冷
已む隙もなくて白萩のこほれけり
一つ家の動きそふなり稲の波
稲妻に一畠赤し唐辛子
どんぐりや落ちて坐敷をかけ廻る
打つ時をよけて又よるとんぼ哉
月一つ鶉一つの広野かな
岩角にのひ上りけり月の鹿
手水鉢に鹿の水のむ夕かな
白露の川となりたる野末哉
縄ひけば重かりし露の鳴子哉
松のつゆ竹の露来る筧かな
何処となく露の明るし天の川
骸骨の沙を出てけりまん珠沙花
状一つ蝦夷から来たり秋の暮
獅子吼た跡静なり秋のくれ
乞食の謡うつくし今日の月
土ぐもの眼おそろし今日の月
大空に月より外はなかりけり
古下駄か川を流るゝ月夜哉
雁の腹ありあり見ゆる月夜哉
足も手もなくて案山子の弓ひきぬ
獺の氷をたゝく寒さかな
只一つ狐火通ふ枯野かな
おちてからころひあひけり初あられ
野も山もくるくる廻る吹雪哉
さかさまにふじなで上る吹雪哉
七星の二つ消へけり初時雨
鯨つく腕にさへけり冬の月
抱て居る鶏も鳴きけり今朝の春
春の日や安房まで続く真帆片帆
住吉にともし一つや時鳥
山寺に鹿のあつまる月夜かな
鉄橋の青さびふくや年の暮
筧より引く水にあり萩の花
冬ざれや蓑着て渡る紙屋川
灯のかげに硯の水の氷りけり
荒いその雪にまぶれて海鼠哉
俳人の言葉
子規の俳句分類といふ学問的な、組織な仕事と『寒山落木』にみられる発句の進歩に、非風の奇才はすくなからぬ刺激をあたへた筈である。碧梧桐の言葉を借りれば、「兎も角非風の運命は明治俳句発祥時代の哀調を帯びた一つのエピソード」であるとともに、その才能は子規派の俳句革新を準備した一つのすくなからぬ貢献といふ意味をもつてゐよう。
桶谷秀昭(文芸評論家) 「子規の周辺--新海非風,内藤鳴雪 (子規)」より 「文学」(岩波書店)1984年9月号
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2 件のコメント:
古白、かけい・・この流れで新海非風が登場とは。順不同なのに、冨田拓也さんの好みの筋が見えてくるような個性的な人選ですね。
高濱虛子の『俳諧師』『続俳諧師」を読んだときのちょっとした感動を呼び起こしました。(でも、高濱虚子の散文の筆力にも感心したのですが、虚子の小説でこれがいちばん面白いものでした。)
でも、非風の句をよくここまであつめられたな、と感心しました。子規の資料はそろっていますが、そこから外れた、非風など(異端)は、其れ以後の子規、虚子山脈の量に淘汰されて、後世につたわるちゃんとした資料がととのえられていないのですよ。
ここでは、次の句が私の好みです。
飴うりの峠をこゆる桜かな
恋猫の橋を渡るやせたの月 非風
ご苦労様ですが、つづけていただくとになりますし、冨田さんの果たす啓蒙は、大なるものがあると想います。
吟様
コメントありがとうございます。
虚子も割合多くの小説を残していますね。
晩年にも「虹」がありました。
小説なのかエッセイなのかよくわからない内容ですが。
非風の句については、今回の資料以外にも他に句がまだ存在する可能性が少なくないかもしれません。
明治の俳句もなかなか面白いですね。
子規の句もいままであまり興味を持っていなかったのですが、岩波文庫の句集などを読んでみるとそんなに悪くないのではないかという気もしました。
では、またご感想等お聞かせ願えましたら嬉しく思います。
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