俳人ファイル ⅩⅩⅣ 大橋嶺夫
・・・冨田拓也
大橋嶺夫 15句
冬の星暗し生まれしばかりの麺麭
凍る日輪壁画のように青年錆び
尼僧院舟曳く蝸牛日の森に
月光が泡だつタオルボクサー死す
一角獣あかあかと透き緻密なドア
睡りのなか夏山白し蜘蛛を飼ひ
魂魄すがしく飛ばす昼月オートバイ
陽うるさしペンで梨刺すわが死海
キャベツはぜ朝の雷火の白淫ら
河港あり鋭く夕雲の家壊れ
石の原螢ほつほつ悪しき胤 ⇒「胤」に「たね」とルビ
死馬の喉ながながとあり山の祭
黒馬あり闇ひかりあり柿の花
悪僧めき野火踏み越えて君還らず
抜歯の血鹹し白鳥飛来の日
略年譜
大橋嶺夫(おおはし みねお)
昭和9年(1934) 大阪市に生まれる
昭和29年(1954) 西東三鬼に会う
昭和30年(1955) 西東三鬼「断崖」同人
昭和33年(1958) 「断崖」を辞し同人誌「アプリオリ」創刊 「夜盗派」同人
昭和35年(1955) 「縄」創刊
昭和37年(1962) 第1句集『異神』(縄の会)
昭和39年(1964) 「花」創刊
昭和42年(1967) 第2句集『聖喜劇』(花の会)
昭和43年(1968) 「ユニコーン」創刊
昭和48年(1973) 「海程」参加
昭和51年(1976) 第3句集『わが死海』(花の会)
昭和54年(1979) 選句集『俳句文庫5 大橋嶺夫』(海程新社)
昭和56年(1981) 病気入院
昭和57年(1982) 「詩的言語と俳諧の言語」で現代俳句協会第1回評論賞受賞
平成11年(1999) 逝去(64歳)
平成15年(2003) 句集『ユーラシアの岸』
A 今回は大橋嶺夫を取り上げます。
B 今日この作者について一体誰が話題にするでしょうか。
A どういうわけかこういった作者に興味を引かれてしまう傾向が、私自身の中に割合強く内在するようです。
B 困ったものですね。
A 私がこの作者の存在を知ったのは、いまから大体6、7年ほど前、とある古書店でこの大橋嶺夫の第2句集『聖喜劇』をたまたま手にしたのがきっかけでした。すこし内容に目を通して、その作品からなにかしらただならぬものを感じるところがありました。
B 大橋嶺夫の略歴について見てみると、昭和9年(1934)に大阪に生まれ、昭和29年(1954)の20歳の時に三鬼に出会い、その後「前衛俳句」運動の流れに加わり、昭和48年(1973)には金子兜太の「海程」へ参加しています。
A 本人の述懐によると〈どういう訳か、幼いころから、漠然と文学をやりたいと思っていた。それが俳句という形をとったのは、十歳のときの作句の経験を契機としている。以後断続して作句していたのが、二十歳で西東三鬼に出会ったことによって、わたしと俳句の関係が決定的となった。その根底には少年時芭蕉句に魅せられた体験がうごかしがたくある。〉とのことです。
B 句集としては、『異神』『聖喜劇』『わが死海』『ユーラシアの岸』、そして選句集として『大橋嶺夫集』が存在するようです。
A 私が今回目を通すことができたのは、『聖喜劇』『わが死海』『ユーラシアの岸』『大橋嶺夫集』の4冊で、『異神』については残念ながら未読ということになりますが、一応『大橋嶺夫集』に掲載されている抄出によるものと、俳誌『鬣』2004年11号において林桂さんが抄出しておられる作品により、そのいくらかについては読むことができました。今回の選句は、これらの資料から選出したものということになります。
B 大橋嶺夫については一応、現在では林桂さんが取り上げておられるわけですね。
A 他ではあまりこの作者が取り上げられているのを見たことがありません。
B せいぜい難解な俳句評論の書き手であった、とでもいったようなところでしょうか。
A そういった評論の書き手としての大橋嶺夫についての記事を以前どこかで読んだ記憶があります。大橋嶺夫は論客でもあり、昭和57年には「詩的言語と俳諧の言語」で、現代俳句協会第1回評論賞を受賞しています。
B では、第1句集『異神』の作品から見てゆきましょう。
A この句集は昭和37年(1962)に刊行されたものということになります。
B この句集の刊行時点で大橋嶺夫は28歳ということになります。
A 割合若くして句集を出版したことになりますね。ということで、この句集は20代の作品集ということになります。
B 時代としてはまさしく「前衛俳句」運動の頃に生まれた句集ということになります。
A はじめのころは三鬼に師事していたとのことで〈冬の星暗し生まれしばかりの麺麭〉などといった割合平明な句も見えます。
B この句は昭和29年の作者20歳の頃の作品であるそうです。
A 「冬の星」が「暗」いということですから、やや重い印象の句ですね。
B 三鬼はこの句に対して〈作者は「暗し」といはねばならなかつたのだ。冬の星の寒気の下に、出来たてのパンがあるだけでは、作者は不満である。寒くて「暗く」なければいけないといふのだ〉と評したそうです。
A この後、昭和33年に三鬼の「断崖」を辞し、「夜盗派」に加わり「前衛俳句」へと急速に傾斜してゆくことになるようです。
B 島津亮が、当時の大橋嶺夫について〈八木三日女を知り門田誠一をしり、嶺夫は猛烈に勉強をなし、正に万巻の書をひもといだ。〉と述懐しています。
A 島津亮、八木三日女、門田誠一ともに「夜盗派」のメンバーでした。
B この頃の作品を見ると〈凍る日輪壁画のように青年錆び〉〈はりねずみの流氷せめぐふるさと〉〈暗視の岬オレンヂ蒸発する頌め歌〉〈毛虫の森寝椅子過ぎる無数の車輪〉〈しびれる胸 石灰質の陰画都市〉〈やさしい餓死の最後の河口ちぎれた蛇〉〈流謫の羽研ぐ 水飼い場の女〉〈薄日の商館 海辺を埋める異形の神〉〈暗黒の火の幌 鸚鵡が吐く野兵〉〈乳房滴る壁紙この紅き 北回帰線〉等ということになります。
A まさしく「前衛俳句」そのものといった感じの作品が並んでいますね。どれも容易に読み解くことができない晦渋さに満ちています。
B しかしながらこういった作品を見ていると、所謂「前衛俳句」の諸作の中でも大橋嶺夫の作品は「ロマネスク」の要素が強い傾向にあるようです。
A 「壁画」「オレンヂ」「頌め歌」「陰画都市」「流謫の羽」「水飼い場の女」「異形の神」「暗黒の火の幌」などといった語彙からそのことが窺えますね。
B それこそ当時の文学青年的な雰囲気が感じられ、そこからも時代性を反映しているのが窺えるような気がします。
A 続く1967年の第2句集『聖喜劇』においてもそういった傾向は続くようです。
B 第2句集の作品を見ると〈鷺堕ち来るシヴァの笛髪の渚より〉〈鳩容れて暮れるアカデメィア蒼き使者〉〈ヨゼフわが斧熱き父失地の森〉〈誄歌より獅子起つマラトンの茨を駈け〉〈霧の記憶に桃色の猫死者の蔓〉〈尼僧院舟曳く蝸牛日の森に〉〈百合の洪水鏡に電柱のイエス〉〈影翔ける眼底の鳥赤い湖〉〈緑十字旗昏れる幼年のゲツセマネ〉〈月光が泡だつタオルボクサー死す〉〈不在の巣暗渠のつばさ卵抱き〉〈聖餐の月曜撒水車鱗散らし〉〈一角獣あかあかと透き緻密なドア〉〈終末の朝青虫に空を映し〉〈食卓布に刺繍のニグロ透く夜空〉〈寒夜なだれる蒼白の坂妣の国〉といった作品があります。
A なんというか、どの作品も表現としてどこまで完成しているのかいくらか疑問に思うところもないではないですが、どこかしら他の作者には感じられない複雑なイメージが込められているところがあるようです。
B しっかりと作品を読んでみるとイメージ的には割合面白いものが感じられるところがあるように思われます。
A 〈誄歌より獅子起つマラトンの茨を駈け〉などは、現在から見ても、なかなか恰好のいい作品ではないでしょうか。
B 現在このような作品を書く作者は、まず存在しないでしょうね。
A 〈尼僧院舟曳く蝸牛日の森に〉という作品は金子兜太も評価していました。
B この句もその意味内容はやや複雑なところがあり、でいまひとつよくわからないところがあるのですが、なにかしらその言葉の関係性により不思議なポエジーを喚起する要素を持っているようです。
A 〈月光が泡だつタオルボクサー死す〉という作品からは、どことなく金子兜太の〈彎曲し火傷し爆心地のマラソン〉を髣髴とさせます。
B 「ボクサー」と「マラソン」というスポーツというジャンルによる近接からそのように感じられるところがあるのでしょう。また、この「ボクサー」の句は、大橋嶺夫の他の多くの難解な句とは若干異なり例外的に意味内容が理解できるところがあります。
A 「タオル」は、当然「ボクシング」の試合放棄の意思表示のためにセコンドがリングへ投げ入れるものです。
B その白いタオルが月光に「泡立つ」ように見えた、ということですね。まるで少年漫画の一齣のようです。
A 「泡立つ」が普通の表現とは異なるところですね。多くの作者が、ここではせいぜい「染まる」か「宿す」といった常套な表現にとどまってしまうところであると思われます。
B この句は現在でもそのまま通用しそうですね。
A 続いて1976年刊の第3句集『わが死海』の作品を見てゆきましょう。
B 1967年から1974年の作品128句が収録されています。
A 約8年間の中から128句のみの収録ということになりますから、なかなか厳しい選となっています。
B この句集の作品も実験的な作品が多くを占めますが、これまでの作品の上での難解な試行錯誤がここにきてやや円熟味を帯びてきたような印象があります。
A 1969年には〈白く死に陥つ梨山の鉄道員〉、1971年には〈睡りのなか夏山白し蜘蛛を飼ひ〉〈魂魄すがしく飛ばす昼月オートバイ〉〈天譴(けん)めき月の香は泌む桐箪笥〉、1972年は〈陽うるさしペンで梨刺すわが死海〉〈ジャムを煮て夜の虹を叔母燦めかす〉〈獏を診る白衣の二人黒三日月〉〈椿の舟路上に腐つわがダフニス〉〈指紋の蛾車窓を埋む夜明けいつも〉といった作品が見られます。
B こういった作品を見るとやはり「前衛俳句」の諸作の中でも大橋嶺夫の作品はやや異質な雰囲気があるようですね。他の「前衛」的な作者たちとは、なにかしら袂を分かつものがあるというか。
A 〈白く死に陥つ梨山の鉄道員〉といった、やや抽象度の高いイメージを含有しながらも、ある程度のポエジーによる強度を感じさせるこのような作品は、あまり他では見られないものでしょうね。
B 他にはせいぜい小川双々子、攝津幸彦あたりにこういった作品はみられるくらいでしょうか。また、他の作者ならもっと1句の凝縮度が弱いものとなる気がします。
A 〈睡りのなか夏山白し蜘蛛を飼ひ〉という句にしても、それこそ高屋窓秋の「白い夏野」が思い浮かびますが、その世界を推し進めさらに深めようとする意欲が見られるようです。
B 自己内部における白のイメージに、さらに蜘蛛の形象を付与することによって、新たなイメージの創出を企図したような作品ですね。なんだか白いイメージの世界のなかで蜘蛛が足を動かしているシルエットそのものが目に浮かぶようです。
A 〈魂魄すがしく飛ばす昼月オートバイ〉についてですが、この句は兜太の〈激論つくし街ゆきオートバイと化す〉を思わせます。
B やや複雑な構造の句ですが、非常に疾走感が感じられますね。まるで自らの肉体がオートバイに乗って走ることで「魂魄」として飛翔しているかのようです。
A 「魂魄」と「昼月」ですから、精神が空白の状態、即ち猛スピードの中で心が「からっぽ」になっているような感覚があります。
B 「忘我」といった感覚にも近いものがありそうですね。
A 〈陽うるさしペンで梨刺すわが死海〉についてですが、この句もなかなか難解なところがあります。
B 大橋嶺夫の句を見ると、どうやら全体的に「光と影」といったモチーフがその根幹にあるといった作品が多いようですね。
A そういえば、初期の〈冬の星暗し生まれしばかりの麺麭〉〈凍る日輪壁画のように青年錆び〉にしてもそうですし、第2句集の〈尼僧院舟曳く蝸牛日の森に〉〈月光が泡だつタオルボクサー死す〉にしても「光と影」の関係が認められるところがあるようです。
B いま見てきた、〈白く死に陥つ梨山の鉄道員〉〈睡りのなか夏山白し蜘蛛を飼ひ〉にしてもそういったところがあります。
A この〈陽うるさしペンで梨刺すわが死海〉も、まず「陽」という「光」が出てきます。
B そして梨をペンで刺すわけですから、インクの「黒」のイメージで「影」に近いものが感じられるということになりそうです。
A 他にもこの句集にはこのような「光と影」「白と黒」といった関係性が根底にあるような作品がいくつも見られます。
B 1973年には〈キャベツはぜ朝の雷火の白淫ら〉〈河港あり鋭く夕雲の家壊れ〉、1974年には〈サングラス越し群羊へ陽は銅のシャワー〉〈石の原螢ほつほつ悪しき胤(たね)〉〈降誕祭(ノエル)の朝骨の標本拭く少女〉といった作品がありますね。
A こういった作品を見ていると「光と影」といったモチーフは、それこそ究極のところは「生と死」いった問題へと繋がってくるものであるように思われるところがあります。
B そのように「生と死」を感じさせる作品が大橋嶺夫には少なくないですね。他には〈豪雨市場翼失くせし霊あつまる〉〈皿にかわく悪霊二月の雲と暮らし〉〈死馬の喉ながながとあり山の祭〉などといった作品も存在します。
A 続いて選句集である『大橋嶺夫句集』の1974年から1978年の作品についてみていきましょう。
B 『わが死海』以後の作品が、選句集である『大橋嶺夫句集』に「岩の時間」(1974年~1978年)と題されて61句収められています。
A ここでは〈鷽狙う少年木星の気配の朝〉〈黒馬あり闇ひかりあり柿の花〉〈歯型美し水の終りの青猫来る〉などといった作品が見られます。
B どちらかというと『わが死海』の延長線上に位置するような作品という印象がありますね。
A そして、この後の1978年以降の作については、2003年刊の『ユーラシアの岸』に収録されています。
B この句集は大橋嶺夫の遺句集ということになり、1978年から1999年に亡くなるまでの作品が収められています。
A おおよそ20年にもおよぶ作品集ということになりますね。
B このあたりの作品になってくると、これまでのロマネスクで超現実的な作品世界から、徐々に日常的な景物に材を採ったような作品が目立つようになってきます。
A 作品としては〈牡蠣喉を滑るにわれは深き渕〉〈父の鉈で削るえんぴつ夏はじまる〉〈針山の裡は暗黒恋の猫〉〈朝の愛家出ればすぐ赤蛙〉あたりということになりますね。
B 表現についても全体的に晦渋さが軽減し、平易なものとなってきますが、それでも〈陽にまみれし鯵刺降下わが睡りへ〉〈悪僧めき野火踏み越えて君還らず〉〈伐られたり影なす夏木なりしかど〉〈抜歯の血鹹し白鳥飛来の日〉〈皮黒きバナナ麒麟が喰う極月〉といったやや迫力を感じさせる作品の存在もいくつか確認できます。
A 〈悪僧めき野火踏み越えて君還らず〉は、同じ「海程」所属の仲上隆夫という俳人が亡くなった時の句で、この仲上隆夫の〈黒き傘さして僧ゆく細雪〉という句を踏まえた上で詠まれた句であるのでしょう。
B さて、大橋嶺夫の作品について見てきました。
A 今回この大橋嶺夫を取り上げるにあたって、正直「今回は大丈夫だろうか」とやや心配であったのですが、ある程度の作品に目を通し、さらに選を終えた現時点における感想としては、大変シュールで読み解けない複雑な句も少なくないのですが、その作品のいくつかについては、現在においてもなかなか面白いものなのではないかという思いが強いです。
B 特に大橋嶺夫の才質が窺えるのは、第2句集『聖喜劇』、第3句集『わが死海』あたりの作品ということになると思います。
A 大橋嶺夫は現在ではほとんど話題になることはありませんが、現在の俳句とはやや異なるその独特な作風は、俳句形式において、なにかしらの可能性を孕んでいたものではなかったかという気もします。
B この作者の存在は、それこそ、永遠の「未完の大器」とでもいったような印象があるようですね。
選句余滴
大橋嶺夫
雪降り出す翳る卵に卵積み
暗視の岬オレンヂ蒸発する頌め歌
毛虫の森寝椅子過ぎる無数の車輪
しびれる胸 石灰質の陰画都市
やさしい餓死の最後の河口ちぎれた蛇
流謫の羽研ぐ 水飼い場の女
暗黒の火の幌 鸚鵡が吐く野兵
乳房滴る壁紙この紅き 北回帰線
鷺堕ち来るシヴァの笛髪の渚より
鳩容れて暮れるアカデメィア蒼き使者
ヨゼフわが斧熱き父失地の森
割礼へ偏愛の鳩蔦の炎深く
誄歌より獅子起つマラトンの茨を駈け
童貞の濃藍の首山上に
霧の記憶に桃色の猫死者の蔓
百合の洪水鏡に電柱のイエス
液化の馬揉み出す微光の帽子売
影翔ける眼底の鳥赤い湖
緑十字旗昏れる幼年のゲツセマネ
夜行車の一点熱く羊歯原過ぐ
不在の巣暗渠のつばさ卵抱き
降霊の梢の少年夏の手紙
終末の朝青虫に空を映し
食卓布に刺繍のニグロ透く夜空
寒夜なだれる蒼白の坂妣の国
祭文なびかう夜の伽バナナボート消え
告知枯れる火の鷹剥落のチリーの切手
白く死に陥つ梨山の鉄道員
天譴めき月の香は泌む桐箪笥 ⇒「譴」に「けん」とルビ
樹間にあり魂祭る日の山羊の咀嚼
ジャムを煮て夜の虹を叔母燦めかす
獏を診る白衣の二人黒三日月
椿の舟路上に腐つわがダフニス
指紋の蛾車窓を埋む夜明けいつも
白菫あかつき錆もつすべての匙
豪雨市場翼失くせし霊あつまる
皿にかわく悪霊二月の雲と暮らし
サングラス越し群羊へ陽は銅のシャワー
降誕祭の朝骨の標本拭く少女 ⇒「降誕祭」の「ノエル」とルビ
鷽狙う少年木星の気配の朝
犬歯の少年突っきる梨畑青い気圧
歯型美し水の終りの青猫来る
むさしきさらぎ紫なり瞳孔の果 ⇒「果」に「このみ」とルビ
牡蠣喉を滑るにわれは深き渕
月のようなオムレツ出さる鶴帰り
陽にまみれし鯵刺降下わが睡りへ
針山の裡は暗黒恋の猫
父の鉈で削るえんぴつ夏はじまる
伐られたり影なす夏木なりしかど
皮黒きバナナ麒麟が喰う極月
俳人の言葉
花は端(はな)の義で、ものごとのきざしだというが、大橋のことばの乱反射という方法は、現代俳句のひとつの<端>である。
坪内稔典 「ことばの乱反射」より 『土曜の夜の短い文学』(昭和56年 関西市民書房)
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3 件のコメント:
冨田さん。今号は全部すみずみまで読んで、ひとことでもコメントして回ろう、と思っていたのに、諸般の用事がたまり併せて眼精疲労と花粉症がらみで体調いまいち、それで祭最後の貴下の書斎訪問がいまごろになりました。貴文の「大橋嶺夫」、いい作家を上げて下さいました。私も興味はありますが、いざ、まとめようとすると、この系列の人たちについてはエネルギーがいります。まだ、ちゃんと評価されていないからでしょう。あるいは、切り捨てられてきたからかもしれません。
関西前衛派の人たちの作風は、その時期が過ぎると、一句のインパクトはあまりつよくなりません。読者の多数が読まない限りその作家は忘れられる運命にあります。
でも、彼は、高柳重信が、関西前衛派を批判した時の反論の急先鋒だったので、歴史上の重要人物ではありますよね。
こういう「困った」俳句史的に死んだと言われかねない作家を取り上げて頂くことは誠に嬉しいことです。
八木三日女。門田誠一、大橋嶺夫、等の、「縄」を数冊持っているので、大橋氏の文章などを紹介しようとかきかけたのですが、今週には間に合いませんでした次週にでも。
冬の星暗し生まれしばかりの麺麭
凍る日輪壁画のように青年錆び
尼僧院舟曳く蝸牛日の森に
一角獣あかあかと透き緻密なドア
睡りのなか夏山白し蜘蛛を飼ひ
魂魄すがしく飛ばす昼月オートバイ
大橋嶺夫
頻用される比喩が西洋的なのは確かですが、一面叙情なところは寺山修司。「魂魄」「蜘蛛を飼ひ」などの関心のあり方にはどこか安井浩司に流れるものもかんじます。あらためて、良いなあと想いました。
堀本吟様
コメントありがとうございました。
関西前衛派で他に重要なのは「赤尾兜子」でしょうか。
八木三日女の全貌にも興味があります。
河原枇杷男にも前衛時代の作品がありましたね。
当時の関西では伝統系の俳人(波多野爽波の周辺など)も前衛的な俳句を書いていたという話を聞いたことがあります。
大橋嶺夫の
魂魄すがしく飛ばす昼月オートバイ
は本当に格好のいい句ですね。
はるか前方に見える白い月へ向かって一心に疾走を続けているような。
ここにあるテーマはやはり「生と死」でしょうね。
「昼月」がまるでこの世の出口のようです。
あと、大橋嶺夫の作風は少し春日井健を思わせるところもある気もします。
おっしゃるとおり。関西は、「赤尾兜子(渦)」の俳句の、言語次元での達成はダントツといえます。
大橋嶺夫は、あんがい観念世界想念世界そのものを書きたかったのではないでしょうか?
永田耕衣などに先鞭を付けられた宗教と詩の結合、これは河原枇杷男や安井浩司で開花するでしょう?
(重信の言語至上の考え方に似ていますね。)
高柳重信から、「前衛派」ということばで、はっきりn非難されたのは、当時の三日女や門田誠一、大橋嶺夫たちです。
でも、これは、かなり酷な断罪という気がします。このころは、なにか「お俳句」を飛びだそう、人ととちがったモノを作ろう、と言う志向が一人一人に強かったのではないでしょうか。「前衛」という名称自体がすこし仰々しく、そのことばが含む大きな概念を、俳句革新者がひきうけきれなかったのでは?
「前衛俳句」という言葉は、マスコミが作ったもの、「私たちは真の俳句をめざし作っていた」と、八木三日女さんがおっしゃっていました。じっさい、「前衛俳句」と言われなくても、表現の先端を目差している人たちはかなりいました。
いわゆる「前衛俳句」の、「百花繚乱」ぶり自体をどのように意義づけるのか、ということに、むしろ関心があります。
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