2009年5月9日土曜日

俳句九十九折(35) 俳人ファイル ⅩⅩⅦ  高田蝶衣・・・冨田拓也

俳句九十九折(35)
俳人ファイル ⅩⅩⅦ  高田蝶衣

                       ・・・冨田拓也

高田蝶衣 15句
 
 
薺粥箸にかゝらぬ緑かな
 
寝し家の前ゆく水の月夜かな
 
屋上の風人を呼ぶ夜半の秋
 
揚雲雀我れ魂ぬけて立ちゐたり
 
去につゝもふり向く春か遅さくら
 
窓あけて見ゆるかぎりの春惜む
 
麦秋や貧しき家の狐つき
 
ころがりて居れば日暮るゝ田螺かな
 
伐る竹の真鉄撃つ如し霜雫
 
森どよむはやて氷雨を誘ひけり
 
梯子かけて月の鯨に上りけり
 
ちる雪に天の八衢かすみけり
 
浮氷また夕風にしまりけり
 
梅の香も白雲深く氷りけり

夜の明けて我もうれしや渡鳥

 
 

略年譜
 
高田蝶衣(たかだ ちょうい)
 
明治19年(1886) 兵庫県津名郡釜口村字里で生れる
 
明治34年(1901) 洲本中学で大谷繞石の指導を受ける
 
明治37年(1904) 早稲田大学予科に入学。
 
明治39年(1906) 「俳諧散心句会」に参加 肋膜炎のため帰郷
 
明治41年(1908) 俳書堂より23歳で処女句集『蝶衣句集 島舟』刊行 俳書堂に勤務するため上京
 
明治42年(1909) 病悪化し入院。淡路島に帰る
 
大正6年(1917) 神戸湊川神社の主典となる
 
大正8年(1919) 病悪化 帰郷
 
昭和5年(1930) 淡路島の新居で逝去(45歳)
 
昭和8年(1933) 『蝶衣句稿 青垣山』
 
昭和16年(1941) 『蝶衣俳句全集』(高木蒼梧編)
 
 
 
A 今回は高田蝶衣を取り上げます。
 
B 随分と昔の俳人であるようですね。
 
A 高田蝶衣は、明治19年(1886)に兵庫県の淡路島に生まれ、明治34年(1901)ごろに句作をはじめ、子規門であった大谷繞石の指導を受けました。昭和5年(1930)に45歳で亡くなっています。
 
B 明治から昭和のはじめにかけての俳句作者ということになりますね。
 
A この作者について取り上げているのは、私の知る限りでは、
 
・池上浩山人 『俳句』1954年1月号 「忘れられぬ句集(その一)」
 
・飯田龍太 『俳句の魅力』(角川選書 1980年) 「入相のこえ 高田蝶衣鑑賞」
 
・飯田龍太 『NHK俳句入門 飯田龍太 俳句の楽しみ』(日本放送出版協会 1986年) 「忘れがたい俳人たち」
 
・北原洋一郎 『大阪の俳人たち』第2巻 (和泉書院 1991年)
 
・小早川健 『俳人・高田蝶衣』(翰林書房 1993)
 
・『短歌 俳句 川柳 101年』〈三枝昂之 夏石番矢 大西泰世 編〉(新潮社 1993年)
 
・田中裕明・森賀まり編 『癒しの一句』(ふらんす堂 2000年)
 
・宇多喜代子 『わたしの名句ノート』(富士見書房 2004年)
 
といったあたりでしょうか。他には、昭和4年の『現代日本文学全集38 現代短歌・現代俳句集』、筑摩書店の神田秀夫編『現代日本文学全集 91巻 現代俳句集』と河出書房新社の『現代俳句集成』第5巻にそれぞれ作品が若干収録されています。
 
B このようにみると、ある程度取り上げられているような感もありますが、それでもやはり高田蝶衣の存在は現在において、あまり名の知れた作者であるとは言い難いようですね。
 
A 最近の俳誌などでは、まずその名前を目にすることはないです。一応、この「俳人ファイル」で、以前、正木浩一を取り上げた際に、この作者について少し触れました。
 
B 蝶衣の句集としては、まず、明治41年(1908)に俳書堂から23歳の時に『蝶衣句集 島舟』が刊行され、没後の昭和8年(1933)に『蝶衣句稿 青垣山』が纏められ、さらにその後の昭和16年(1941)には『蝶衣俳句全集』が纏められています。
 
A 今回参照している資料は、ほぼ『蝶衣俳句全集』からのものということになります。
 
B 蝶衣が俳句をはじめたのは、先ほどにもふれたように、明治34年(1901)ごろのことで、子規門であった大谷繞石が、蝶衣の学校に赴任してきたため、その関係で繞石から俳句の指導を受けるようになりました。
 
A 「ホトトギス」にも投句していたそうで、明治36年(1903)の17歳のころには〈永き日やつるす人形の首の数〉という句が入選作として掲載されています。
 
B この後、明治37年(1904)に早稲田大学に入学し上京、早稲田吟社、アラレ東京支社会などの句会に参加。また「ホトトギス」や「アラレ」などに投句し、明治38年には「アラレ」に入会し、早くも選者を任されています。この「アラレ」という俳誌には岡本癖三酔、松根東洋城、中野三允などの作者がいました。
 
A 明治37年(1904)の19歳のころの作品を見ると〈薺粥箸にかゝらぬ緑かな〉という秀れた句がこの時点ですでに詠まれていますね。
 
B 薺の緑とご飯の白の色彩の対照がなんとも見事で、なかなかの完成度を感じさせる作品だと思います。
 
A その翌年の明治38年(1905)には〈流れつきし氷山のなき霞かな〉〈行春の書に萌黄の栞かな〉〈活け舟を乗越す春の夜汐かな〉〈立琴に羽を磨る白き蝶々かな〉〈寝し家の前ゆく水の月夜かな〉〈屋上の風人を呼ぶ夜半の秋〉〈揚雲雀我れ魂ぬけて立ちゐたり〉などという作品が見られます。
 
B なんというか、この時点で既に作品が、ほとんど完成の域に達してしまっているとでもいうのでしょうか、とても20歳前後の青年の作とは思えない水準の高さを示しています。
 
A 明治38年(1905)の時点の作で、これだけ達成を成し遂げているということについては、正直驚嘆してしまうところがありますね。
 
B この明治38年(1905)には、「アラレ」5月号の誌上で、「春百句」が掲載されたそうです。
 
A さらに、当時の新聞「日本」の俳句欄においても碧梧桐選に度々入選、明治37年末から38年の1年ほどで230句余りの数にものぼり、さらに、のちに刊行された『続春夏秋冬』では80句あまりが入集されることになったそうです。
 
B そして、翌明治39年(1906)には、「ホトトギス」2月号に「秋冬雑詠」124句が掲載され、新進俳人として脚光を浴びたとのことです。
 
A このような作品発表というものは、おそらく当時としては随分と異例のことではなかったかと思われます。
 
B 蝶衣という青年の才気の煥発振りを窺わせるに十分なものがありますね。
 
A さらにこのころ、高浜虚子、柴浅茅、岡本癖三酔、松根東洋城、岡本松濱、中野三允といった顔ぶれと共に最年少で「俳諧散心」の一員に選ばれることになります。
 
B 岡本癖三酔が当時について〈新進気鋭の君の句は、実際私達をかなり動揺させた。〉〈この会合の先導者であつた「虚子氏の句」に次いで、絶えず私達の研究目標となつた。〉と昭和5年の「蝶衣君の思い出」という文章で述懐しています。
 
A この「俳諧散心」における成績も随分高いものであったようです。
 
B その当時の蝶衣の作品を見ると〈梨の花人貴くて顔青し〉〈雲急ぐ中に動かぬ桜かな〉〈去につゝもふり向く春か遅さくら〉〈沓拭ふ草芳しや君が門〉〈野は青く蜘蛛手の水のぬるむ哉〉〈窓あけて見ゆるかぎりの春惜む〉〈橋つくる翠微の陰や花うつ木〉〈林中に漲る水や風薫る〉ということになります。
 
A まさしく麗らかな春の光が作品の世界全体に遍満しているといった印象がありますね。
 
B このあたりで「窓あけて」や「翠微」「漲る春」など、もはや代表作といってもいいような作品がいくつも書かれてしまっているようなところがありますね。
 
A 20歳そこそこの青年の作としては、やはり相当な出来映えを示していると思います。
 
B 本当にどれも清新の気にみち溢れています。
 
A 当時の俳人には、子規からの影響による「蕪村」の作風が大きくその作品に影響を与えていたそうです。
 
B なるほど。たしかに、やや蕪村的な詩情が蝶衣の作品の上からは感じられるところがありますね。
 
A しかしながら、この明治39年(1906)における、このような作者としてまさにこれからという時になって、蝶衣は、病気を患い、止む無く帰郷することになります。
 
B 〈野犬吠ゆ病雁落つるあたりかや〉という句がありますが、この句はこの病になった時に詠まれたものであるようです。
 
A 蝶衣は、一旦郷里へ戻り、大学の方は退学という結果になるわけですが、翌明治40年(1907)の10月には「ホトトギス」に「夏秋雑詠」89句を発表しています。
 
B この年の作品には〈迷宮の奥には知らぬ旱かな〉〈よべ水を守り来し蓑や螢居る〉〈石を煮て雲つくらんか今年竹〉〈草の戸の瓢にみちし施米かな〉〈ふたなりの白面僧も施米かな〉〈此心汝が手にうつす螢かな〉〈歌の師にあかす恋あり星祭〉〈辻占に身をはかなむや虎が雨〉など、相変わらず良質な作品世界を示していますね。
 
A 「迷宮」、「石」と「雲」、「ふたなり」、「歌の師」、「辻占」などという言葉から、当時としても他の作者たちの作品とは、やや異質な雰囲気があるといえるところもあるかもしれません。
 
B 確かに少し前近代的なところがあるようですね。
 
A そういったところも蕪村的であるということができるかもしれません。また、他には石井露月の作風を髣髴とさせるところもあるようです。
 
B 当時における主な俳人の存在としては、碧梧桐とその門下の大須賀乙字、喜谷六花、小沢碧童、そして、虚子の周辺の柴浅茅、岡本癖三酔、松根東洋城、岡本松濱、中野三允あたりという顔ぶれになるようですね。
 
A 蝶衣の作風は、岡本癖三酔の作風にも似通うところがあるようにも感じられます。
 
B 癖三酔の作品には〈桃色の布巾かけたり蓬餅〉〈干潟より都は遠き桜かな〉〈草萌やバケツの中の牛の乳 〉〈蛇穴を出てサフランの茂りかな〉といった作品があります。
 
A こういった作品を見ると、清新な抒情といった部分については、やはり蝶衣と共通する雰囲気が感じられるところがあるように思われますね。
 
B 明治40年(1907)には、この岡本癖三酔の句集『癖三酔』が、「ホトトギス」の発行所である籾山梓月の俳書堂から出版されることになります。
 
A この『癖三酔』の句集は、明治37(1904)年から明治39年(1906)にかけて刊行された松瀬青々の『妻木』に次ぐ、近代的な個人句集としては2番目のものにあたるとのことです。
 
B 当時はほとんど句集が刊行されていなかったわけですね。
 
A 当時は、詩集では、北村透谷、島崎藤村、土井晩翠、薄田泣菫、伊良子清白などが、歌集では、与謝野鉄幹、与謝野晶子、佐々木信綱、石川啄木などが、すでに何冊も刊行されているといった状況でしたが、それに比べて句集はほとんど刊行されていません。
 
B これはおそらく子規が蕪村を信奉していたためであったのかもしれません。
 
A そういえば蕪村には『新花つみ』に〈発句集は出さずともあれなど覚ゆれ。句集出てのち、全て日来の声誉を減ずるもの也〉といった言葉がありました。
 
B こういった風潮が支配する中で、個人の句集を出版しようとするわけですから、やはり句集の刊行は大変なものであったであろうということは想像に難くないところがありますね。
 
A 当時は、虚子も碧梧桐も、句集の出版には反対していたそうです。
 
B このあたりの事情や経緯については、林桂さんが「鬣」2号(2002年1月)に掲載されている「岡本癖三酔小論 個人句集の行方」で大変詳細に論じておられます。
 
A この『癖三酔』が刊行された翌年である、明治41年(1908)に、同じ出版社である俳書堂から刊行されたのが、高田蝶衣の『蝶衣句集 島舟』ということになります。
 
B ということは、近代的な個人句集としては蝶衣の句集が3番目のものということになるようですね。
 
A 当初は、蝶衣に句集を出すという意思はなく、「アラレ」の臨時号として、淡路島に帰ったあとに詠んだ作品を纏めて掲載してもらいたいという希望であったそうですが、「アラレ叢書」というものを考えていた中野三允は、『癖三酔句集』を「アラレ叢書」第1篇とし、この蝶衣の作品を『蝶衣句集』として第2篇として刊行するという案を考え付いたそうです。
 
B 『癖三酔句集』が出た頃の癖三酔も20代後半ということで大変若い年齢での句集の刊行ということになりましたが、この『蝶衣句集』が出た当時の蝶衣の年齢というものは、まだ数え年で23歳ということになります。
 
A 現在の年齢では、22歳ということになりますね。
 
B この現在における平成の時代でも、20歳そこそこで句集を出すという例は、やはりあまり一般的ではなく、どちらかというと稀なケースということになりますから、当時としては、この年齢での句集出版は本当に驚嘆すべき出来事だったのではないかという気がします。
 
A 小早川健の『俳人・高田蝶衣』には、この句集が刊行された当時について〈個人句集の出版は当時の俳壇では極めて異例であったため、かなりの反響を引き起こすことになった。〉〈癖三酔より更に八歳年下の、まだ二十三歳の蝶衣が自身で編集して出版した『蝶衣句集』は、俳人たちの注目を浴びることになった〉〈五百八十七句を収載したこの小冊子の定価は二十銭、発行部数は不明だが、翌四十二年の一月にはもう品切れとなっている。〉と書かれています。
 
B また、北原洋一郎の評論を見ると、この句集について、伊藤鴎二が〈当時の蝶衣句集など我々の愛踊措かなかった参考書でした(昭和14)〉と記し、中塚響也には〈当時の蝶衣句集などは、虚子派も碧派もなく、句道に志す全国の人々にあまねく読まれたもの。〉だったとの言葉が引かれています。
 
A こういった記述を読むと、個人の句集が明治の時代においても、どれほどであるのか具体的にはわかりませんが、ある程度、広く読まれていたという事例も存在していたわけですね。
 
B この後、明治41年(1908)の10月に、蝶衣は再び上京して、籾山梓月の俳書堂で編集者として勤めることになります。しかしながら句集で注目を浴びていた蝶衣は、選句や他の雑事に忙殺され、12月に再び発病、翌明治42年(1919)には京都の大学病院へ入院することになります。
 
A 蝶衣という人は、これからという時にいつも病気に見舞われてしまうようなところがありますね。
 
B この2度にわたる病が、蝶衣という俳人を中央俳壇から遠ざけてしまう結果となります。
 
A 当時の書簡を見ると〈早くなをらば海辺生活に余生を楽しみたいと存候。〉という言葉も見られます。
 
B こういった言葉を見ると、もはや東京での生活というものに見切りをつけてしまったようなところがあるように見受けられますね。
 
A この2度の病というものは、蝶衣にとってやはり精神的に大きな打撃であったということになるのでしょう。
 
B 24歳の青年が、「余生」と書いているのには、なんとも痛ましいものがありますね。
 
A この頃の作品には、明治41年(1908)に〈行春を雲間に帰る白帆かな〉〈ころがりて居れば日暮るゝ田螺かな〉〈汲み溜めに翠微動くや井戸浚〉〈住む人の愁は見えず家桜〉〈涼さや鹿泳ぎ居る山の湖〉〈侘人の梅酢に染めつ夏大根〉〈山鳥の嘴もたゝずよ椿の実〉、明治42年(1909)には〈弓弦に通草かけゆくさつ夫かな〉〈名月や言霊まつる歌の主〉という句があります。
 
B この時代においても、その作品は、やはりなかなかの優れた才質を示しているものであるということがわかります。
 
A このあと蝶衣は郷里の淡路島へと帰り、その後は中野三允の俳誌「アラレ」に作品を発表を続けます。
 
B しかしながら、その「アラレ」も新傾向俳句全盛の時代の中で終刊を余議なくされます。
 
A 河東碧梧桐の「三千里」の旅など、新傾向俳句が全国へと広がっていく時代ということになりますね。
 
B この頃の蝶衣の作品にも、破調など若干その新傾向俳句の影響が見られる作品がいくつか見られるようになってゆきます。
 
A その間には「中央公論」や「東京毎日新聞」など東京の中央俳壇における選者をいくつか務めますが、数年後の大正3年(1920)には、それらの役目も終えることになります。
 
B その後、俳壇は、新傾向俳句が衰退し、虚子の「ホトトギス」が俳壇における勢力を強めていくことになるわけですが、蝶衣の先輩にあたる東洋城や三允が、虚子に背を向けていたため、蝶衣は虚子に対してさほど拒否反応はなかったとのことですが、東洋城や三允に追従するかたちで「ホトトギス」に句を寄せることはなく、東洋城の「渋柿」や臼田亜浪の「石楠」などへ投句することになります。
 
A その頃の作品としては、明治43年(1910)に〈夏の月草木水吸ふ声のあり〉〈山霊に告ぐるの詩あり秋の風〉、明治45年(1912)に〈織りて巻く布の尾を春迯ぐる也〉〈明日曳かん家浮かせあり夕露す〉、大正2年(1913)に〈夏木立虫学問の主住む〉〈やゝ寒や不図罠つけてたつ巨鳥〉、大正4年(1915)に〈河口走る上げ汐白し星月夜〉、大正5年(1916)には〈くらがりに魚骨光るや冬の夜〉〈すれ違ふ人の佩玉鳴るおぼろ〉〈寝嵩なき我と思へば冴返る〉などといった句があります。
 
B やはりどの作品も優れた才質を感じさせるものがありますが、全体的に他の句もふくめて見た場合、この当時における蝶衣の現実を反映してのものなのか、以前の溌剌とした青春の明るさをそのまま直截に感じさせる作品群と比べると、この時期の作品には、やや重く暗い心象ともいうべき影の要素が若干加わってきているような印象があるようですね。

A その後、大正6年(1917)の32歳の頃には、神戸市にある湊川神社の神官となり、神戸に移住することになります。
 
B 生活の一新を図ったわけですが、思ったよりも神官の仕事は大変なものであったらしく、またしても2年後の大正8年(1918)7月には、今度は結核を患い、それに伴い11月には休職を余儀なくされてしまいます。
 
A 蝶衣の病という現実にひたすら翻弄され続けている姿には、本当に同情を禁じ得ないところがありますね。
 
B この後も、病気は一進一退を繰り返しますが、10数年後の昭和5年(1930)に、蝶衣は郷里の淡路島において45歳で亡くなることになります。
 
B 45歳ですから、やはり割合若くして亡くなっているということになりますね。
 
A もともと幼少のころから病弱な体質であったそうです。
 
B どことなく蝶衣ははじめから早世という宿命の元に生まれついていたようにも思われるところがありますね。しかしながら、もし病に陥らずに、中央の俳壇で句作を続けていたとしたら、それこそ俳句の歴史の上でも相当重要な俳人の一人になっていたのではないかと思わせるところが、その作品からは窺えるところがありますね。
 
A 後年の作品にも優れたものがいくつも見出すことが可能で、その一部を引いておくと、大正6年(1917)には〈伐る竹の真鉄撃つ如し霜雫〉、大正7年(1918)には〈斜風月を磨いでこぼるゝ霰かな〉、大正8(1919)年には〈雛うつる夜の鏡を覆ひけり〉〈水甕にそつと鳥来つ昼寝覚〉〈森どよむはやて氷雨を誘ひけり〉、大正9年(1920)には〈梯子かけて月の鯨に上りけり〉〈山神(ヤマヅミ)をすゞしむ桜咲きにけり〉、大正10年(1921)には〈凍空や尾越しなやめる雲のさま〉、大正11年(1922)には〈ちる雪に天の八衢かすみけり〉、大正12(1923)年には〈氷る月瞑目に神浮び来る〉〈風音の如むら螽田移りす〉、大正13年(1924)には〈夕べ寂しや茅花茅花の明り持つ〉〈窓あけて見れど秋日のさせるのみ〉、大正14年(1925)には〈浮氷また夕風にしまりけり〉、大正15年(1926)には〈梅の香も白雲深く氷りけり〉〈夜の明けて我もうれしや渡鳥〉といった作品があります。
 
B 大正12年(1923)の〈窓あけて見れど秋日のさせるのみ〉については、もはや20歳前後における〈窓あけて見ゆるかぎりの春惜む〉という作品が、ここでは既に「春」ではなく「秋」という晩年を思わせる季節へと転じており、なんとも哀切なものが感じられてしまいます。
 
A 昭和に入ってからも、その作品からは秀句をいくつも見出すことが可能で、昭和2年(1927)には〈紅霞たつ彼方山背に桃やある〉〈庭の貝も出岩にのぼる月夜かな〉〈撒く水が月光となつてちらばりぬ〉、昭和3年(1928)には〈神集い乗り捨てましゝ雲泊る〉〈人形師のうつらうつらや蝶のとぶ〉、昭和4年(1929)には〈眠る山老僧に友無かりけり〉、昭和5年(1930)には〈寒月や地面へ雲母浮び出でん〉という作品があります。
 
B こういった句を見ると、蝶衣の才質というものはやはり紛れのないものであったということが看取できると思います。
 
A さて、高田蝶衣の作品について見てきました。
 
B 今回『高田蝶衣俳句全集』の所載の7千句ほどに目を通したわけですが、明治時代の俳句となると、現在からおよそ100年もの隔たりがあるということで、最早生活が違うというか、文化そのものが異なるといった部分も結構あり、現在の視点から見るとその作品の多くはやはり非常にクラシカルなものであるといった印象が拭いがたく感じられるようなところがありました。
 
A そういった時代性の違いゆえに、どこまでその作品を理解できているのか判然としない部分も少なくありませんでしたね。
 
B また、7千句あまりの数におよぶ俳句を読んでいると、だんだんとその作品が果たして優れたものであるのかどうかの見極めがつかなくなってくるようなところがあります。
 
A 蝶衣の作品は、この7千句のみにとどまらないようで、高木蒼梧の「蝶衣去りて三十年」という文章では〈蝶衣の句は『島舟』『青垣山』『全集』以外に、未発表のものが非常に多い。発表されているのは一万句に近いであろうが、未発表のものは恐らくはそれよりも多かろう。〉という記述が見られます。
 
B なかなか蝶衣の全貌そのものを把握することは随分と困難であるようですね。
 
A 蝶衣の45年における生涯において詠まれた作品の数が1万句以上ですから、この事実だけを見ても蝶衣の足跡というものはやはりけっして小さなものではないという気もします。
 
B そうですね。単純に作品が多ければいいというものではないのですが、40代で1万句もの作を成せる作者というものは俳句の歴史においてあまり存在しないのではないかと思われます。
 
A 今回『高田蝶衣俳句全集』を通読してみて、高田蝶衣の句は、現在の視点から見ると如何にも古色を帯びているといった風情の作品も少なくありませんでしたが、それでもその中のいくつかについては、いまなお不滅ともいうべき清冽な抒情を湛え続けているものであるという気がしました。
 

 
選句余滴
 

高田蝶衣


永き日やつるす人形の首の数
 
薬園の静さに咲く薺かな
 
四山より水流れ来る花野哉
 
流れつきし氷山のなき霞かな
 
行春の書に萌黄の栞かな
 
詩によつて人に訪わるゝ暮の春
 
活け舟を乗越す春の夜汐かな
 
鶏の子の蜂追ふ程になりにけり
 
立琴に羽を磨る白き蝶々かな
 
舟遊湖中に笙を落しけり
 
熊坂の寝相てらすや落つる月
 
月に遠く遊べる雲や海の上
 
冬木立家々斧を寶かな
 
知る人が車夫してをりぬ秋の町
 
風吹かば皆蝶になれ連翹花
 
初雷に鰌は水を濁しけり
 
帆柱の月に恋ひ鳴く舟の猫
 
梨の花人貴くて顔青し
 
鞭垂れて騎士過ぐ門の春日かな
 
貝寄や鷗むれをる流れ船
 
雲急ぐ中に動かぬ桜かな
 
居てゝかと格子を覗く日傘かな
 
草のぼる露に追はれてとぶ螢
 
野犬吠ゆ病雁落つるあたりかや
 
日のさして野を這ふ雲や草の露
 
なきからに錦着せけり秋の風
 
沓拭ふ草芳しや君が門
 
春の夜や衣桁の裾にひそむ鬼
 
野は青く蜘蛛手の水のぬるむ哉
 
橋つくる翠微の陰や花うつ木
 
林中に漲る水や風薫る
 
遠き屋根に鬼あらはれぬ火事明り
 
迷宮の奥には知らぬ旱かな
 
人一人流して霽れし夕立かな
 
よべ水を守り来し蓑や螢居る
 
石を煮て雲つくらんか今年竹
 
草の戸の瓢にみちし施米かな
 
ふたなりの白面僧も施米かな
 
此心汝が手にうつす螢かな
 
山彦を伴ふ窓に夏経かな
 
夏草や野をわたる人泳ぐ如し
 
秋天に乱峯高さ争へり
 
或時は壁の中より秋の声
 
歌の師にあかす恋あり星祭
 
赤蜻蛉天馬の過ぎし埃かな
 
三日月の鎌やふれけん桐一葉
 
詩歌うて漕出る賊や荻の月
 
秋立つや我息ひゞく笛の穴
 
しぐるゝやあたまにひゞく雲の声
 
萬葉の駒まぼろしに時雨れけり
 
辻占に身をはかなむや虎が雨
 
行春を雲間に帰る白帆かな
 
汲み溜めに翠微動くや井戸浚
 
青楼や誰がうつせみの薄羽織
 
天人に逢はで暮れけり御頂上
 
住む人の愁は見えず家桜
 
掛香や生霊つきし小傾城
 
涼さや鹿泳ぎ居る山の湖
 
侘人の梅酢に染めつ夏大根
 
山鳥の嘴もたゝずよ椿の実
 
山兎戸に迷ひ来し野分哉
 
弓弦に通草かけゆくさつ夫かな
 
名月や言霊まつる歌の主
 
夏の月草木水吸ふ声のあり
 
悪病の衣焼き捨つる枯野哉
 
米抄ふ亀の甲あり冬山家
 
織りて巻く布の尾を春迯ぐる也
 
明日曳かん家浮かせあり夕露す
 
饐え飯を糊にもみ出す秋暑し
 
夏木立虫学問の主住む
 
雹雲の尾に巻かれけり野の小家
 
やゝ寒や不図罠つけてたつ巨鳥
 
風折れの大洞樹神去なれけむ
 
河口走る上げ汐白し星月夜
 
雲濤の末うすらぎや花菜風
 
梨畑へ水引く夕や風の蟬
 
くらがりに魚骨光るや冬の夜
 
すれ違ふ人の佩玉鳴るおぼろ
 
寝嵩なき我と思へば冴返る
 
青東風や海豚のあそぶ沖の礁
 
牀頭の月に脳冷えて眠りたり
 
落熟柿吸ひ入る蝶や家蔭冷ゆ
 
牧下る人ら茱萸折れり風の中
 
はつ明りさすやみかのへみかのはら
 
雛うつる夜の鏡を覆ひけり
 
水甕にそつと鳥来つ昼寝覚
 
茨傷に風呂の湯しむや夕時雨
 
蜜柑切つて目白に吸はす風邪籠り
 
拾ひあてし石笛を吹く枯野かな
 
泊船の底に貝つく日永かな
 
山神(ヤマヅミ)をすゞしむ桜咲きにけり
 
山姫のさつ夫かへさぬ霞かな
 
南風たつて帰帆むらがれり昼寝覚
 
眠れたるよろこびに葡萄みづみづし
 
海へ帰る大亀見たり濱時雨
 
夕されば湖風白し梨花の村
 
凍空や尾越しなやめる雲のさま
 
千鳥とぶ牡蠣田の月夜見はるかす
 
寒雲のちぎるゝ響感ずなり
 
入日爛れて空風の砂塵揚るなり
 
満ち時の井に鹹のさす朧かな
 
寒月の鋭さ木魂しづまりし
 
日をよぎる雲のをのゝき秋の風
 
氷る月瞑目に神浮び来る
 
賓者なき筈を鈴鳴る夜半の冬
 
夜半寒し氷上はしる何の音
 
雨にごり澄みゆく海の遅日かな
 
月明りとも花明りともわかず寝し
 
あやめ売脛の蛭傷あはれなり
 
沖津辺は驟雨かけをり昼寝覚
 
舟暑く鷗の羽風感じけり
 
踊るよに人影移る辻の月
 
コスモスの影流れゐる風明し
 
風音の如むら螽田移りす
 
水をはなるゝ鴨月光を払いけり
 
たつと見えて消ゆる虹かな秋の風
 
行者登りし足跡よりぞ雪解くる
 
木の間ゆくあの人影も春追ふか
 
夕べ寂しや茅花茅花の明り持つ
 
水面までも歩けそに月静なり
 
日のやうな月の出拝む大旱
 
窓あけて見れど秋日のさせるのみ
 
もの怖ぢの高歌で来る夜学かな
 
もえさかる炉をはなれゆく一人かな
 
浮氷また夕風にしまりけり
 
静なる人のゆかしや春の夜
 
囮笛座敷から吹く春日かな
 
うらゝかや木々の光りも自ら
 
おぼろ夜の神馬の白さ見憚る
 
秋の暮晴れに晴れたるすさまじさ
 
声出して見たり独居の秋のくれ
 
行く雲の泊れる雲をしぐれけり
 
朝すゞの汲水に李沈めけり
 
春寒の雲を衾と引被り
 
朝月や狩路の小田の氷踏む
 
月祭る二階も見えて舟どまり
 
紅霞たつ彼方山背に桃やある
 
雷ぐもり蝌蚪に黒ずむ峡の池
 
庭の貝も出岩にのぼる月夜かな
 
艸中に石の眠れる冬日かな
 
撒く水が月光となつてちらばりぬ
 
神集い乗り捨てましゝ雲泊る
 
人形師のうつらうつらや蝶のとぶ
 
冷え足りて瓜に水の香透りけり
 
山路わけて萩の香胸に溜りけり
 
病ある身のひそかにも夏花かな
 
初雁に門の棗のこぼれけり
 
眠る山老僧に友無かりけり
 
霜の芝に飛檐の影の月夜かな
 
寒月や地面へ雲母浮び出でん

 
 
 
俳人の言葉
 
二十何年か前のある夜、とある小料理屋の少人数の酒座の折、詩人の三好達治氏が、「高田蝶衣、あれいい俳人だね」と、つぶやくように、ふっと洩らしたことがありました。いまにして思えば、高貴な孤愁に、両者どこかひそかに通いあうものがあったのかもしれません。
 
飯田龍太 「忘れがたい俳人たち」より 『NHK俳句入門 飯田龍太 俳句の楽しみ』(日本放送出版協会 1986年)
 
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3 件のコメント:

高山れおな さんのコメント...

冨田拓也様


高田蝶衣、さすがに名前位は知っておりましたが、これほど多力の人とは驚き入りました。これほどの人が、ほぼ等閑に付されていることにさらに愕然。

行春の書に萌黄の栞かな
汲み溜めに翠微動や井戸浚

の色彩感。

立琴に羽を磨る白き蝶々かな
寒月や地面へ雲母浮び出でん

の危うい生理的なところに届きかかったような繊細さ。

月に遠く遊べる雲や海の上

も、ある典型の如くであってそれに止まらない孤愁を感じさせます。

貝寄や鷗むれをる流れ船

など凡兆にもひけを取りません。

なきがらに錦着せけり秋の風

も、凄い句だ。

日のやうな月の出拝む大旱

も、普通とは異なるところまで踏み込んだ自然観照を感じさせます。

明日曳かん家浮かせあり夕露す
米抄ふ亀の甲あり冬山家

も野趣横溢しています。「米抄ふ」は「こめスクふ」と読むのでしょうね。米櫃から米を掬い取るのに亀の甲羅を使っているとは、嘱目ならではの凄みです。

有難うございました。

冨田拓也 さんのコメント...

髙山れおな様

コメントありがとうございます。
蝶衣の句について髙山さんの評価を得られて嬉しく思いました。
俳句の世界というものも、やはり奥が深いものですね。
まだこのような作者が存在するかもしれません。

あと、今回蝶衣の作品の選にあたってなるべく選ぶ作品の数を絞るようにしたのですが、その中でもこのまま捨ててしまうのは惜しいような作品も少なくありませんでした。

今後も『蝶衣俳句全集』を読もうとするような方は、まずいないであろうと思いますので、ここに再び50句ほどの作品を選んでおきたいと思います。
蝶衣にはまだ他にも佳句の存在は少なくないという気もします。


高田蝶衣 『蝶衣俳句全集』より


汐汲んで一夜圧し置く漬菜哉

たぐり寄せて夕月かゝる蓴かな

むき蜆花散る里の小店かな

木犀に拭ひし如き夜空かな

雨かゝる障子の音や雁の声

白魚や落花を食ふにかも似たり

永き日の弦もはづさで梓弓

愁ては連翹見やる枕かな

藻の花に息して沈む蠑螈かな

竹の葉を浮けて清さや冷奴

草枯や絵馬落ちてある稲荷道

琴を負うて師に従ふや夏木立

荊棘に馬葬るや雲の峯

雷に誰ぞうち伏せる帳の蔭

銭見せて宿乞ふ人や秋のくれ

藁沓も床しき氷室使かな

名月に船霊まつる老夫かな

樵女らの斧祭りする小春哉

雪解堤下り帆ばかり見る日かな

洛北も果なる家の柚の木かな

出湯浴びて磯伝ひゆく日傘かな

垂雲に入る鳥のあり濤高き

白蛾とんで藪かげの早夕露す

たまさかの跣冷ゆるや小菜の露

落熟柿吸ひ入る蝶や家蔭冷ゆ

黐にかゝりし鵙逃げて秋の日落ちぬ

斜風月を磨いでこぼるゝ霰かな

雹過ぎし大空澄ます鳶舞へり

霙去つて星鋭さや太刀魚釣

鯨油汲む人影黒うしぐれけり

虹わたす青野の水や菖蒲曳

火山灰(ヨナ)送る風に日霧らふ枯野かな

野山枯れて蝮の患もなかりけり

初夢に拾ふあゆひの小鈴かな

春極まつて雷風森を揉み来たり

夏蔭や捨て蚕はむ禽ちらと迯ぐ

雲の峰波穂に海豚没したり

葡萄葉を食ひつくす虫や旱雲

山あひに火柱見えし旱かな

山時化の萩に雲裂く日つめたし

冬こもり雪山の月はるかなり

病む鶴をいく度か訪ふ氷る月

おもひ寒し谺やのこる峡の空

囮鴉雷雨の中に忘られつ

鳴き止みし鹿水わたるけはひかな

草波の野分になりぬ明けてから

静すぎてものゝ声恋ふ宵の秋

捨てし蛾の夜会草の花揺つてをり

裏口に水鶏来る出水月夜かな

日の暈のゆるゝか稚子の谷渡り

冬山の萱底に菫咲きゐたり

秋のくれ白き神馬の動きけり

石を見に庭師と連るゝ山小春

はるばると山おり来まし出開帳

蓼摘みに出て虹を称ふる声のする

盗み伐る斧の音かも秋のくれ

冨田拓也 さんのコメント...

本文の内容について少し訂正があります。

蝶衣の句集が、近代における個人句集としては3番目であると書きましたが、
3番目は、明治41年2月の高浜虚子の『稿本虚子句集』で、
蝶衣の『島舟』は、同じ明治41年の9月に刊行されたものでした。
謹んでお詫び申し上げます。