2009年4月25日土曜日

俳句九十九折(33) 俳人ファイル ⅩⅩⅤ 齋藤玄・・・冨田拓也

俳句九十九折(33)
俳人ファイル ⅩⅩⅤ 齋藤玄

                       ・・・冨田拓也

齋藤玄 15句


晩鐘は鈴蘭の野を出でず消ゆ

夢のごと死は青蚊帳をくぐり来し

野分先づ月の光を吹きはじむ

妻の息絶えむと天地露明り

雪降りて光の紐を遺しけり

すさまじき垂直にして鶴佇てり

たましひの繭となるまで吹雪きけり

ある筈もなき螢火の蚊帳の中

雁のゐぬ空には雁の高貴かな

したたかに凍る一夜を百夜かな

初蝶をとらふればみな風ならむ

葦原を出づる嘗ての螢の身

どうしても人が人焼く秋の風

一羽舞ふは一羽ほろびの雪の鶴

死期といふ水と氷の霞かな




略年譜

齋藤玄(さいとう げん)


大正3年(1914) 函館に生まれる

昭和12年(1937) 新興俳句を知り、「京大俳句」に参加 西東三鬼、石橋辰之助の指導を受ける

昭和15年(1940) 俳誌「壺」発刊

昭和17年(1942) 第1句集『舎木』

昭和18年(1943) 石田波郷の「鶴」に投句 同人

昭和19年(1944) 第2句集『飛雪』

昭和43年(1968) 個人誌「丹精」発刊

昭和44年(1969) 波郷逝去

昭和47年(1972) 第3句集『玄』

昭和48年(1973) 『齋藤玄全詩集 ムムム』

昭和50年(1975) 第4句集『狩眼』

昭和53年(1978) 入院 自註『齋藤玄集』

昭和54年(1979) 第5句集『雁道』

昭和55年(1980) 第14回蛇笏賞 5月逝去(66歳)

昭和56年(1981) 遺句集『無畔』

昭和61年(1986) 『齋藤玄全句集』



A 今回は齋藤玄を取り上げます。

B この作者はどちらかというとやや異色の俳人といってもいいかもしれませんね。

A 齋藤玄は1914年に函館に生まれ、父は「売れない画描き」で、祖父は呉服店を営む財界の名士、そして大叔父はあの訳詩集『海潮音』の訳者として有名な上田敏であったそうです。

B 随分と裕福な環境で育ったようですね。また、13歳の頃から谷崎潤一郎、永井荷風小説を愛読し、萩原朔太郎、ボードレールの詩を耽読。その後も日本文学、海外文学を濫読。中原中也、ランボー、ヴェルレーヌ、リルケなどを愛踊していたとか。

A 13歳の時から詩作を始めていたそうです。

B 非常に早熟な感じがしますね。あと、やはりこのような中也やフランス詩への傾倒は上田敏との血縁を感じさせないわけにはいかないところがあるようにも思われます。

A そして昭和12年(1937年)の23歳の時にたまたま新興俳句の存在を知り、「京大俳句」へと参加することになります。

B その後の数年を経た昭和18年(1943年)に石田波郷に師事、ということになります。

A まず、昭和17年(1942年)の28歳の頃に第1句集『舎木』が刊行されていますね。

B これは波郷に師事する前の新興俳句時代における作品273句による句集ということになります。

A 俳句をはじめた昭和13年には早くも〈晩鐘は鈴蘭の野を出でず消ゆ〉といった秀作の存在が確認できます。

B 昭和14年以後となると〈花の日や英霊舷に立ち来たる〉〈重戦車泥濘を花を軌道とせり〉〈雪を来る弾道光れるをくぐる〉など新興俳句特有の戦争に材を採った作品がいくつも見られるようになります。

A 他には〈空林にロオランサンの鳩をらぬ〉など当時のモダニズムの影響を感じさせる句も若干確認できますね。

B あと昭和16年(1941)には〈玄冬の鷹鉄片のごときかな〉というこの時期の代表作ともいうべき句が見られます。

A この句集の出版後、昭和18年(1943)に齋藤玄は石田波郷に師事することになります。

B 第2句集である『飛雪』は昭和19年(1944)に刊行されましたが、その作品からは波郷に師事したことによる影響が句の随所にみられるようになります。

A 確かに〈小机を構へて雁の別れかな〉〈子の胸の青鬼灯の夜なりけり〉〈膝立てて大露の雁をゆかせけり〉〈かりがねの間遠になりし産屋かな〉〈心はや葛の露散るかなたかな〉〈雁のへだてぞ佳けれ筆硯〉〈はしり蕎麦濤音つのりきたりけり〉あたりの作品をみると波郷の作風、手法に極めて近いものが感じられますね。

B 他にも如何にも波郷の弟子といった雰囲気の〈みちのくの氷ばかりや西行忌〉〈兄弟の遂に似ざるか夏の露〉〈若樫にちかぢかしきは天の川〉〈起きぬけに鶏つぶす小萩かな〉あたりの作品がありますが、これらをみてもなかなかの技量で完成度も高いものを感じさせ、新興俳句時代とはまるで別人の作であるかのように感じられるところがあります。

A 続いて、第3句集の『玄』についてですが、この句集が刊行されたのは昭和47年(1972年)ということで斎藤玄が58歳の時ということになります。

B 第2句集の『飛雪』刊行が昭和19年(1944年)の齋藤玄が30歳の頃ですから、ほぼ『飛雪』から30年ぶりの刊行ということになりますね。

A ちょっと信じ難いところがありますが、事実であるようです。

B この句集『玄』は全句集的な形態をとっており、第1句集『舎木』、第2句集『飛雪』の作品も収録され、そこにその後の昭和19年から昭和46年までの作品が加わり、『玄』は総計で1577句で構成されているということになります。

A これまでの作品約6000句の中から約1500句を選んだものであるとのことです。

B 齋藤玄が俳句を始めた昭和12年(1937)から昭和46年(1971)までの約35年間における句業の集大成ということになりますね。

A 本人は「跋」で〈私の俳句の生涯の半生は石田波郷の逝去で終った。(…)私の俳句の生涯の半生の区切りにもとこの句集を編んだ〉と記しています。

B この句集の刊行は波郷の逝去が大きな契機として存在していたようですね。

A 波郷が亡くなったのは、昭和44年(1969)でした。

B この『玄』に収録されている作品の内容について、先ほど見てきた第2句集以降の作品から見ていきたいのですが、まず、昭和20年の敗戦時における〈雁の過ぎて声なき大露かな〉などといった作品あたりにはまだ波郷の影響が窺えるのですが、昭和22年あたりの作品を見ると、「死の如し」というタイトルの「死」のみを主題とした連作97句や、昭和23年には〈悪胤の膝下に妻の木葉髪〉、昭和24年には〈玉虫が寝間着の妻に殺めらる〉、昭和25年には〈早春の露地を選みて偸盗めく〉〈悪妻を溺愛せむか野分星〉などといった作が見られ、段々と波郷の影響下から逸脱してゆくような様子が見て取れます。

A 確かにこういった戦後における作品については、もはや波郷の作風からは隔たりが生じているのが確認できますね。どうも齋藤玄という作者はやや性狷介とでもいうのでしょうか、一所にとどまることをよしとしない傾向を内部に有しているようですね。

B そして、その作品の中のいくつかを見ると、それこそやや露悪的な作品も少なくないところがあります。

A 「悪胤」「殺めらる」「偸盗めく」「悪妻」といったあたりの作品ということですね。

B さらに、昭和30年代に入ると〈夜半にして風鈴鳴りぬ貧漁村〉〈屍も汗す永劫商業主義〉〈手の黒穂にて汚職吏の屋指さる〉〈犇く重労無縁の蓮の遠咲に〉〈囀や銀行員等の不眠の顔〉といった、当時の「社会性俳句」および「前衛俳句」による影響までもが作品の上に見られるようになります。

A こういった作品を見ると、やはり単純に「伝統俳句」という枠内には納まることができない作者であったようですね。

B この作者にはなにかしら常に「過剰」なものが内在していたような気がします。

A そういった部分が常に作風に変化を強いる理由であったのかもしれませんね。

B このような「社会性」「前衛俳句」の作品傾向は昭和39年あたりまで続くのですが、昭和40年に妻が発病し、その病から死にいたり葬送するまでの様子を俳句に詠むことにより、いままでとはまた異なる作風へと変化を見せることとなります。

A その作品は「クルーケンベルヒ氏腫瘍と妻」と題された昭和40年から41年までの193句によるもので、その作品の内容における悲壮なまでの迫力は、齋藤玄の句業の中でもひとつのピークを示すものであると思われます。

B この「クルーケンベルヒ氏腫瘍と妻」については、波郷が〈今時これだけの俳句はない〉と絶賛し、小説家の川端康成も書信で〈怨痛の御詠ですが美しいので救はれ一篇の長篇抒情叙事詩のやうにて感銘いたしました〉と評価したそうです。

A 作品の一部を引くと〈秋妻に指頭(ゆびさき)ほどの癌棲みつく〉〈露享けてはや胸中に妻葬る〉〈明日死ぬ妻が明日の炎天嘆くなり〉〈蟬と妻いづれ短命昏みつつ〉〈死の妻が露の奥処に聴きすます〉〈紫陽花や既に他界の言葉吐く〉〈妻の息絶えむと天地露明り〉〈汝はなぜわが妻なりや梅雨屍〉ということになります。

B このように一部だけを見ても、この「クルーケンベルヒ氏腫瘍と妻」の凄絶さの一端は看取できることと思います。

A そして、その後の昭和44年(1969)には、師の波郷が亡くなります。

B そのことが契機となってこの句集『玄』が纏められることとなったということは、先ほども述べました。

A 波郷に対する追悼句としては〈雪降りて光の紐を遺しけり〉という作が見られます。

B こういったやや詩的ともいえる作品を見ると、やはり波郷の作風とは隔たっているところがあるようですね。それこそ一個の作者として師を悼んでいるように感じられるところがあります。

A 続いて第4句集『狩眼』について見てゆきましょう。

B この句集は昭和50年刊のもので、昭和46年から50年までの378句が収録されています。

A 齋藤玄が57歳から61歳の頃の作品ということになりますね。齋藤玄の句業の後半はこの句集から始まるといっていいでしょう。

B 前句集の「クルーケンベルヒ氏腫瘍と妻」を経て、その作風もやはりそれまでものとは若干異なるものが感じられるようになります。

A 作品については、昭和48年には〈影は身を出でて彳む夕蛙〉〈露の辺にねむるは死後に通ふゆゑ〉〈狩の眼で見し化野(あだしの)の花薄〉、昭和49年には〈掌の窪に死水ほどの寒の水〉〈すさまじき垂直にして鶴佇てり〉、昭和50年には〈糸遊を見てゐて何も見てゐずや〉という作品があります。

B どの句も平明な言葉で構成されていながら、どこかしら「虚」の世界へまで踏み込んでいるというか、なにかしら抽象性のようなものを帯びているようなところがありますね。また、どの作品にもその内部に芯の強さとでもいったものが感じられ、単なる観念のみの脆弱さに陥っていないものを感じさせるところがあるようです。

A また、こういった作品を見るとやはり齋藤玄にはやや「詩」的なものへの志向がいくらか内在していたようですね。

B 若いころから詩作を行っており、昭和48年にはその作品を『齋藤玄全詩集 ムムム』として纏めています。

A こういった作品傾向は次の第5句集である昭和54年刊の『雁道』になるとますます顕著となり、昭和50年には〈残る生(よ)のおほよそ見ゆる鰯雲〉〈死の側で笑む桂郎や秋の暮〉、昭和52年には〈たましひの繭となるまで吹雪きけり〉〈ある筈もなき螢火の蚊帳の中〉、昭和53年には〈秋や果してむくろの灰の幾野越ゆ〉〈沖よりの聲は曠野に魂迎〉〈睡りては人をはなるる露の中〉〈雁のゐぬ空には雁の高貴かな〉という作品が見られます。

B なんだかここまで来るとまさに幽明の境を行き来しているような趣きすらありますね。

A なんというか静かな迫力のようなものが底籠っているのが感じられるところがあります。

B 〈雁のゐぬ空には雁の高貴かな〉という句などはそれこそ波郷の〈雁や残るものみな美しき〉と好一対といった感がありますね。

A 齋藤玄の句業を俯瞰すると「雁」はこの作者の終世にわたっての重要なモチーフであったことがわかります。

B それこそ「雁」は齋藤玄にとって波郷の象徴そのものであったのかもしれませんね。

A この句によって齋藤玄における「雁」の俳句はひとつの到達点を示したのではないかという気がします。

B 『雁道』の作品についてですが、昭和50年には盟友であった石川桂郎が亡くなり、翌年の昭和51年にも相馬遷子が逝去、本人も入退院を繰り返し昭和53年には直腸癌となります。

A そういった事情もこのような作品の深化に関連しているようですね。

B 特に癌となった昭和53年の作品群は数も多く、全体的にただならない透徹した作品世界が展開されています。

A この時期からの作品は齋藤玄におけるもっとも高い作品境地を示すものであると思います。

B この後、昭和55年5月に齋藤玄は66歳で亡くなります。

A その昭和53年から昭和55年までの作品は『無畔』として纏められ昭和58年に刊行されました。

B この句集の総数は178句で、昭和53年には〈したたかに凍る一夜を百夜かな〉、昭和54年には〈人てふは影にすぎざり大旦〉〈探梅のいづこを行きて旅の空 〉〈初蝶をとらふればみな風ならむ〉〈菜の花の波の中ゆく波がしら〉〈葦原を出づる嘗ての螢の身〉〈水打つて人ならぬもの待ちにけり〉〈どうしても人が人焼く秋の風〉〈一羽舞ふは一羽ほろびの雪の鶴〉、昭和55年には〈死期といふ水と氷の霞かな〉〈白魚をすすりそこねて死ぬことなし〉〈死が見ゆるとはなにごとぞ花山椒〉という句があります。

A 先の『雁道』の後半にしてもそうでしたが、この頃の作品もそれこそ「何かが宿っている」としか思えないような作品世界を示していますね。

B まるで野見山朱鳥の晩年の作品群をそのまま髣髴とさせるところがあります。

A 〈死期といふ水と氷の霞かな〉という句がありますがこのような生と死のぎりぎりのところで、自らの生命と引きかえによって齎されたポエジーの純度の高さとでもいうのでしょうか、これらの作品からはそれこそ一種の神々しさすら感じられるところがありますね。

B さて、齋藤玄の作品を見てきました。

A 新興俳句から出発して西東三鬼に師事し、その後は石田波郷に師事したわけですが、単純にこの2人の影響にとらわれることなく、そこから抜け出して自らの境地を獲得することができた稀有な作者ではないでしょうか。

B そうですね。三鬼にしても、波郷にしてもその弟子たちの作品を見ると、その影響下から抜け出すことができない例が多いように思われるところがあります。

A この2人については、あまり近づいて影響を受けすぎるのは危険であるということができそうですね。

B 三鬼の影響下にあるとその言葉の強さをコントロールしきれずに作品が振り回されてしまう事例がよく見られますし、波郷の影響下においては、波郷の閾内に閉じ込められてしまい、それ以上のものが獲得できないまま頭打ちとなるといったケースが少なくないように思われます。

A 齋藤玄は、そういった危険性を掻い潜り、詩と俳の融合を図るといった試行錯誤を続け、「クルーケンベルヒ氏腫瘍と妻」と、晩年における『雁道』『無畔』といった逆境の中から極めて優れた作品群を築くことのできた非凡な作者であったということができるでしょう。

B その姿勢からはそれこそ「凄絶」としか形容できない精神の剛さを感じました。




選句余滴

齋藤玄


玄冬の鷹鉄片のごときかな

子の胸の青鬼灯の夜なりけり

膝立てて大露の雁をゆかせけり

起きぬけに鶏つぶす小萩かな

はしり蕎麦濤音つのりきたりけり

雁の過ぎて声なき大露かな

妹倶すや蜷のひよめきうち覗き

早春の露地を選みて偸盗めく

悪妻を溺愛せむか野分星

星より来る還らぬ光凍河躄る

標燈一点骨肉鳴りて鮫割く冬

鮫の膏血注ぎ弧を張る冬の沖

鮫の外形吹雪の縞へぶら下る

明日死ぬ妻が明日の炎天嘆くなり

蟬と妻いづれ短命昏みつつ

死の妻が露の奥処に聴きすます

紫陽花や既に他界の言葉吐く

影は身を出でて彳む夕蛙

露の辺にねむるは死後に通ふゆゑ

狩の眼で見し化野の花薄 あだしの

掌の窪に死水ほどの寒の水

今死なば瞼がつつむ春の山

空こめて光は雪を友とせり

糸遊を見てゐて何も見てゐずや

死の側で笑む桂郎や秋の暮

人死すは忘らるるため雪乱舞

秋や果してむくろの灰の幾野越ゆ

沖よりの聲は曠野に魂迎

可も不可もなき白桔梗青桔梗

睡りては人をはなるる露の中

いつせいに散るときなきか曼珠沙華

人てふは影にすぎざり大旦

探梅のいづこを行きて旅の空

菜の花の波の中ゆく波がしら

空だけが見ゆる不在の水かげろふ

水打つて人ならぬもの待ちにけり

ただに在る一つ枯山たのみなる

凍鶴に寸の日差しも来ずなりぬ

白魚をすすりそこねて死ぬことなし

死が見ゆるとはなにごとぞ花山椒




俳人の言葉

俳句は一つとして同じ表現であってはならない。それゆえに、人から教えられたり、また人に教えたりすることが困難である。肝心なところは、すべて原表現者の発明に委ねられている。その意味で斎藤玄が至りついた俳句は、先師西東三鬼・石田波郷さえ自身のものとは為し得なかったところの無類の輝きを遍満させている。

三橋敏雄 「無類の輝き」より 『俳句』1986年11月号

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