2010年1月9日土曜日

俳句九十九折(65) 七曜俳句クロニクル ⅩⅧ・・・冨田拓也

俳句九十九折(65)
七曜俳句クロニクル ⅩⅧ

                       ・・・冨田拓也

1月4日 月曜日

昨日の夜、テレビで少しだけ拝見したのであるが、詩人のまど・みちおさんは、現在その年齢が満100歳なのだそうである。

俳人は長生きといわれるが、それでも100歳まで生きた人物というものはほとんど存在しないのではないか、という思いがした。

少し調べてみると、永田耕衣が97歳、山口誓子が93歳、阿波野青畝が93歳、高屋窓秋が88歳、橋間石が89歳、平畑静塔が92歳、右城暮石が95歳、能村登四郎が91歳、鈴木真砂女が96歳、清水径子が94歳、というのがそれぞれの享年ということになり、やはり俳人はなかなか長命の人物が少なくないように思われるところがある。

そして、100歳以上生きた俳人というのは、どうやらかつて存在していたようであり「ホトトギス」に五十嵐播水という俳人がいて、この人物は明治32年(1899年)に生まれ、その後平成12年(2000年)4月23日まで生き存らえることとなり、その享年は101歳であったとのことである。

百歳は花を百回みたさうな  宇多喜代子

百年は生きよみどりご春の月  仙田洋子

百年は死者にみじかし柿の花  藺草慶子



1月5日 火曜日

「眼の作用」を活かした俳句というものが、いくつか存在する。

たんぽゝの黄が眼に残り障子に黄  高浜虚子

げんげんを見てむらさきの遠雪嶺  大野林火

白藤や揺りやみしかばうすみどり  芝不器男

しかしながら、実際のところ、虚子や林火の作のように、色彩の残像とでも言うべきものは本当に見えるものなのだろうか。いずれ試してみたいところである。



1月6日 水曜日

なんとなく住宅顕信の句を読んでみる気になった。自分は住宅顕信について、あまり詳しく知るところがない。その作品のいくつかについて知るのみであり、その生涯における様々な逸話や出来事といったものについては、さほど興味が湧かない。

文庫版の『住宅顕信句集未完成』(春陽堂)の年譜を参照すると、住宅顕信は、1961年(昭和36年)3月21日に生まれ、1987年(昭和62年)2月7日に満25歳と10カ月で亡くなっている。句作期間は、およそ1980年(昭和55年)から亡くなった1987年(昭和62年)までの間ということになるようである。

自分にとってやや興味深く思えるのは、この作者が、所謂「俳壇」の動向とはほぼ無縁の存在であったという事実である。この作者が句作をしていた時期は、角川源義が亡くなったあと角川春樹が登場し、1983年には高柳重信、寺山修司、中村草田男が逝去、そして、「俳句ブーム」の到来や「ニューウェーブ」や「新古典派」の作家の登場など、バブル経済の時代でもあり相当喧しい時代であるのであるが、こういった俳壇の主な動きとはあまりかかわりのない位置で、住宅顕信は俳句を書き続けていたということになるようである。

それはともあれ、現在においても少なからず、住宅顕信の作品が俳句の世界以外の読者を獲得し得ている理由には、ややその出来過ぎともいえる波乱に富んだ境涯性が作用しているという部分も少なくないのであろうが、それだけではなく、その作品の内容が、俳句の世界の外にいる人々にも割合理解し易い内容であることと、そして、やはり作品そのものが持つ言葉の力というものが単純に小さなものではないのではないかという気もするところがある。

年譜を見ると、住宅顕信は、野村朱鱗洞、尾崎放哉、種田山頭火、海藤抱壺、荻原井泉水などを耽読していたそうで、放哉、山頭火については自由律俳句の作者ならば読んで当然であろうが、野村朱鱗洞、海藤抱壺、荻原井泉水までに目を配っている点を見ると、思った以上に勉強家であったということができそうである。現在の俳人でも、放哉、山頭火はともかく、野村朱鱗洞、海藤抱壺、荻原井泉水までをも読んでいる俳人の数は少ないであろう。

こういった側面をみると、もしかしたら住宅顕信も、やや年齢の近い長谷川櫂、岸本尚毅、小澤實、田中裕明などといった作者と同様、所謂「新古典派」というか、いうなれば自由律俳句版の「新古典派」であったということができる部分もあるのかもしれない、という気もしないではない。

看護婦らの声光りあう朝の廻診

立ちあがればよろめく星空

捨てられた人形が見せたからくり

点滴びんに散ってしまった私の桜

水滴のひとつひとつが笑っている顔だ

春風の重い扉だ

握りしめた夜に咳こむ

月明り、青い咳する

ずぶぬれて犬ころ

ただ、その表現というものについては、やはり単なる山頭火や放哉などの自由律俳句の古典的ともいうべき作風そのものにそのまま依拠した作風というわけではなく(海藤抱壺にやや近いところがあるかもしれないが)、また、単に病床における境涯性を表出しただけの作品というわけでもないように思われる。

これらの作品の表現からは、いうなればそれこそ「現代詩」的な表現に近い印象を、そのまま受け取ることができるという気がする。光る看護婦の声、広大な星空と自己の揺らぎを合一させるような身体感覚の発見、捨てられ省みられることのない人形の無為な動作へ注がれた視点、透明感のある点滴壜と照応するように配された散ってゆく桜のイメージとの関係性の清洌さ、水滴に知覚された笑顔の存在の清新さ、夜を握りしめるといった思い切った表現から感じられる焦燥感、月の下での咳が青く感じられたという鮮烈な感覚、雨に配された「犬ころ」という言葉から連想される小ささと危うさ。いずれの作にも、やはり孤独感といったものが割合強いが、それだけではなくその心奥を表出するためにそれこそややシュールともいうべき表現がとられていたり、鮮やかな色彩感覚といったものが確認でき、そういった部分にかつての山頭火や放哉などによる自由律俳句とはやや趣きを異にした現在性といったものが感じられるのではないかという気がする。

住宅顕信が亡くなったのは、1987年(昭和62年)である。およそ現在(2010年)から約23年前ということになるが、この23年前から現在に至るまでの間、どうやらこの自由律俳句の作者のポストというものは依然空席の状態が続いているということになるようである。現在、このポストというものは、案外狙い目であるのかもしれない。

しかしながら、これまでに住宅顕信の作が割合読まれているという事実があるにもかかわらず、現在に至るまで第2、第3の顕信ともいうべき自由律の作者の存在が確認できず、またそのような作者が現れる気配といったものも感じられるように思えないのは、やはり自由律俳句というものが、単純に高い完成度を以て成し得ることが困難であるという事実ゆえということになるのであろうか。(ただ、自分は、現在の自由律俳句の世界についての詳細を全く知らないため、単に優れた自由律俳人の存在を知らないだけという可能性もあるが。)

以前この連載でも、2009年10月11日に自由律による作品を若干取り上げたのだが、いま自由律俳句を書いてみるのも面白いかもしれないな、という思いが少なからずしないでもないところがある。



1月8日 金曜日

俳人で俳句評論家である栗林浩さんと会談。とある俳句総合誌の取材である。

俳句についてぐだぐだと喋りつづけて、とりあえずのところどうにか終了。自分の言葉の薄っぺらさというものを思い知らされるところがあった。取材後、ややへろへろになって帰宅。

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