俳人ファイル ⅩⅦ 金子明彦
・・・冨田拓也
金子明彦 15句
めつぶれば秘かにまはる風ぐるま
君はきのふ中原中也梢さみし
釘打ってさんた・まりあを額となす
氷片をタオルにつつみうしなへる
あさゆふの女人とびたちゆくごとし
ゆく雁の涯にし紙を燃やしける
祭きて青空はいづこにもありぬ
巷ふとひろしりれき書わたさざる
すすりたればつめたき皿のしまはるる
自転車に乗らざる綿を売りにゆく
しづり雪皿の触れあふ音のする
帚草時計鳴り出づ刻来しか
ノヴァリスの小説さみし乾あんず
ひとわれも死のふしぎ水盤の水
かりがねのそれより宙の絶えて無し
略年譜
金子明彦(かねこ あきひこ)
昭和2年(1927) 兵庫県姫路市生まれ。
昭和17年(1942) 句作開始 「琥珀」「火星」に投句
昭和21年(1946) 下村槐太に師事「金剛」創刊に参加 「太陽系」にも参加
昭和27年(1952) 「金剛」廃刊
昭和28年(1953) 堀葦男、林田紀音夫とともに「十七音詩」創刊
昭和32年(1957) 堀葦男、林田紀音夫が「十七音詩」を離れたため句作中断 小説の執筆
昭和37年(1962) 小説「格子の外」(『文学61』1号)で 第47回直木賞候補 その後、小説執筆を中止
昭和38年(1963) 下村槐太の俳句復帰による「天涯」の創刊 句作再開
昭和41年(1966) 12月下村槐太逝去
昭和48年(1973) 下村槐太の句集『天涯』を編集、出版
昭和49年(1974) 休刊状態にあった「十七音詩」を復刊
昭和52年(1977) 『下村槐太全句集』
没年不詳
A 今回は金子明彦を取り上げます。
B 大阪の俳人下村槐太の弟子の一人ですね。
A 下村槐太をその死後、地道に顕彰し続けてきたのが金子明彦でした。
B 下村槐太の『天涯』、『下村槐太全句集』を編纂したのも金子明彦ですね。
A この作者については私もそれほど詳しいことを知っているわけではなく、残された資料もあまり多くはないようです。
B 句集についても1冊も存在しないようですね。
A 『十七音詩』28号(昭和49年1月)に、この金子明彦の250句が掲載されており、今回の作品の選はこの資料によるところが大きいです。
B 金子明彦について触れている文章は、私の知る限りでは、
塚本邦雄 『夕暮の諧調』(1971) 「きみはきのふ 現代俳句試論」
〃 『百句燦燦』(1974)
坪内稔典 『土曜の夜の短い文学』(1981 関西市民書房)
川名大 『現代俳句 上』(2001年 ちくま学芸文庫)
そして、この金子明彦の俳誌「十七音詩」くらいでしょうか。
B この金子明彦の略歴を見ていくと、句作を始めたのは15歳ごろのことであるとのことです。
A その後、昭和21年に下村槐太に師事し、同じ時期「太陽系」に所属し日野草城の高い評価を受けていたそうです。
B 「太陽系」については、当時貧しい学生だったため、会費が払えず、後に退会することになったそうです。
A 下村槐太の「金剛」に、昭和27年に廃刊されるまで編集に従事。
B 昭和28年には、堀葦男、林田紀音夫とともに「十七音詩」を創刊し、その後二人が「前衛俳句」の「海程」へと向かい離れていくなかで句作を中断。
A そして、その後、小説の執筆を始め、昭和37年には「格子の外」で第47回直木賞候補に挙がっています。
B 私はこの金子明彦の小説については一つも読んだことがないのですが、「十七音詩」48号の北条沖也の「金子明彦覚え書ノオト」によると〈彼の小説が発表されるごとにその同人雑誌は、新聞・雑誌の批評欄で激賞されるのが常であった。〉とのことです。
A そしてこの後、〈昭和三十七年のこの直木賞候補にあげられたころから、明彦は小説を書かなくなってしまう。〉〈「文芸」の編集方針が大幅に変更され、河出書房新社の新編集者と金子明彦との間に一もめあり、すっかり嫌気がさしたようであった。〉とのことで小説の執筆をやめてしまったそうです。
B その後の昭和38年ごろ再び句作を始め、昭和48年には「十七音詩」を復刊。
A そして、その後は「十七音詩」において句作や下村槐太の顕彰を続け、現在では既に故人となっておられるようです。
B 平成19年に角川学芸出版から出た『平成秀句選集』に物故俳人の作品を年代順に掲載した「平成俳句年表」があるのですが、その中において、平成9年に1句が掲載されていて、この頃まではまだ存命であったということは確かであるようです。
A この金子明彦について、現在の関西俳人のどなたかにお窺いすればその辺りの事情について少しは知ることができるかもしれません。
B こういった金子明彦の来し方を見てみると、どちらかというとやや異色の経歴の持ち主であることがわかりますね。
A 下村槐太の弟子であり、日野草城から評価され、その後小説で直木賞候補となるも、編集者とのいさかいで執筆中止。その後はずっと評論などによって下村槐太の顕彰に努めたということになるようです。
B では、その作品について見てゆきましょう。
A まずは〈めつぶれば秘かにまはる風ぐるま〉を選びました。
B この句は「太陽系」昭和21年7月号において日野草城選の巻頭となった5句のうちの1句であるそうです。
A この時作者の年齢はまだ10代の終わり頃ということになりますね。
B 随分若い頃の作品ということになります。
A 作品内容については、割合確固とした構成でありながらも、少し変わった印象を受けるところのある内容の句というべきでしょうか。
B 「めつぶれば」という表現からそのような感じを受けるところがありますね。
A 眼をつむるという行為と、風車が回るという事実には、常識的に考えれば関連性が認められません。
B それに、普通に考えてみると、眼をつむれば、風車が回っているかどうかということはよくわからなくなるはずです。
A 目をつむった状態から、かすかに風車の回る音が聞こえてきたということなのかもしれません。
B あと、なぜ眼をつむれば、なぜ風車が回り出すことになるのかという点についてはいまひとつ釈然としないところがありますね。
A たまたま風が吹いたというだけのことであるのかもしれません。
B 単純にそういった偶然性が関与しているというべきでしょうか。そう考えると、目をつむった状態で風車の回る音だけでなく、春の風の吹いている感触も感じられるところがあるようです。
A また、この句は瞼の裏に映る心象風景を句にしたものであると読むこともか可能であると思います。
B この句はそのように解釈した方が自然であるかもしれませんね。
A 続いて〈君はきのふ中原中也梢さみし〉を取り上げます。
B この句は『十七音詩』28号(昭和49年1月)によると、昭和23年から26年の作であるとのことです。
A 作者の20代前半の頃の作品ということになるようです。
B 金子明彦といえばやはりこの句ということになるのでしょうね。塚本邦雄、川名大、坪内稔典もその文章において、この句を大きく取り上げています。
A 他の作者の実作への影響も少なくないようで、長岡裕一郎に〈きみはきのふここち裾濃に琥珀いろ〉という句があり、そして歌人の荻原裕幸さんにも〈「きみはきのふ寺山修司」公園の猫に話してみれば寂しき〉という本歌取りの作品があります。
B しかしながら、この句はつくづく不思議な印象の作品ですね。
A まず「中原中也」という人名がそのまま使用されています。またこの句における別の特徴として無季であるということがあげられます。
B それでも無季作品であることの弱さを感じさせないのは、やはりこの「中原中也」という固有名詞によるイメージの喚起力が強く働いているためでしょう。
A また、全体的にこの句は散文的なコードでは、単純にその意味内容を理解することができないようなところがありますね。
B まず「君」が誰をさした言葉であるのか理解できません。男性であるのか、女性であるのか、または他の猫などの動物のことを指しているのか。それとも、それこそ「中原中也」自身をさす言葉であるのか。
A また、同じようによくわからないのが「きのふ」という言葉です。「君はきのふ」という表現は、単純に考えて、君は昨日は中原中也だったけれども、今日は中原中也ではないといった内容を意味するものであると解していいのでしょうか。
B やはりいまひとつ意味内容が判然としないところがありますね。
A 「中原中也」について少しふれると、中原中也が亡くなったのは昭和12年です。そして、この句は先ほどもふれたように昭和23年から26年のものです。
A 中也の死と、この句の制作年次には、およそ十数年ほどの歳月の隔たりがあるわけですね。この句が書かれた当時はどちらかというと、まだ中原中也の存在とその死はそれほど昔のことではなかったといっていいのかもしれません。
B それで「君はきのふ中原中也」という表現が生まれたということなのでしょうか。
A 実際のところはよくわかりませんが、そういった事実が関与している可能性も考えられなくはなさそうではあります。
B あと、昭和22年には、大岡昇平の編集によって創元社から『中原中也詩集』が刊行されています。
A この句が成立するほんの数年前ということになりますね。この詩集の存在もこの句の誕生の背景にはあったのかもしれません。
B 金子明彦自身による、本人の述懐(『十七音誌』39号「下村槐太秀句覚え書 8」)によると、当時は〈諏訪優や片桐ユズルらの同人詩誌『聖家族』『KAST』などで詩を書いたりしていて、俳句は寡作であった。〉とのことです。
A こういった詩の世界からの影響というものも考えられそうです。
B そして、この句の下五についてですが、「梢さみし」という表現が来ます。
A 「梢」がさみしいというのもよく考えればなかなか感覚的な表現であるといえると思います。「梢」そのものがさみしいということなのか、それを見上げてる「自分」がさみしいのか。
B 師の下村槐太に昭和18年作の〈つみふかき女人と梢(うれ)の雪を見し〉という句があります。この表現については、この句からの影響が考えられそうです。
A とするとこの句の「梢」の読みは「こずえ」ではなく「うれ」である可能性が高そうですね。
B 川名大さんはこの句のこの「梢」の読みについて「うれ」というより読み方よりも〈音韻的にも、イメージ的にも「こずえ」の方が、挫折の淋しさに照応する。〉としています。
A しかしながら、やはり「こずえ」では音韻として、6・7・6ということになり、やや全体的に冗長ともいうべき印象となってしまうのを免れ得ないところがある気がします。
B 「こずえ」だと、「君はきのふ中原中也梢(こずえ)さみし」ということになりますから、やはりこういった読みでは下五がやや鈍重な印象となってしまうようですね。
A それに対して、「君はきのふ中原中也梢(うれ)さみし」という読みの方が、下五が軽やかでシャープな印象になるような気がします。やはり、「梢」は「うれ」と読むのがいいのではないかと思われます。
A この句の背景についてですが、先ほどの句だけではなく下村槐太には〈河べりに自転車の空北斎忌〉という句が昭和23年にあり、この句も金子明彦の句の背景には存在すると考えてもおかしくはないのかもしれません。
B なるほど。金子明彦の句にしても槐太の句にしても、対象となっている人物の俤が、広い空のスクリーンに髣髴と映し出されるような共通点があります。
A 下村槐太が空に思い描くのは北斎であり、金子明彦が思い描くのは中也ということですね。
B 槐太の場合はそれこそ「芭蕉」であってもいいようなところもあります。
A この金子明彦の句については、結局のところ、「君」、「きのふ」、「中原中也」、「梢」、「さみし」という言葉で構成されているということになります。
B 「きのふ」という表現からはおそらく1句のうちに「時間性」を取り込もうとする意図があるのではないかと思います。
A 確かに、金子明彦には他には、〈あさゆふの女人とびたちゆくごとし〉〈あさゆふの風くらし麺麭を喰べこぼす〉〈あさゆふに苜宿撒きて絶後とす〉〈海浪をきのふぞ見たるけふも見し〉〈ユッカ咲きリヤカーまれにかよひける〉〈氷片をタオルにつつみうしなへる〉〈肩たたく女ゐて牛けふも居ぬ〉など時間の推移を1句のうちに詠み込もうと意図したような句がいくつもあります。
B こういった時間性の操作もおそらく師の下村槐太からのものであるのだと思います。下村槐太にもこの時期〈祭りあはれ夕焼がさし月がさし〉〈夜の霜いくとせ蕎麦をすすらざる〉〈夜いたく更けてふたたび蚊食鳥〉〈昼となく夜となく立ちて寒念仏〉〈らちもなき春ゆうぐれの古刹出づ〉〈切岸にけふも馬立つ春惜しむ〉〈また眠りたれば朝焼すでになし〉などといった時間を重層的に取り込んだ句がいくつも見出すことができます。
A 過去の時間を1句のうちに抱え込ませることによって、作品の内容に幅と厚みを持たせることができるわけですね。
B さて、ここまで、この句における意味内容や、下村槐太の作品からの影響を見てきましたが、ここで中原中也の作品からの影響というものも少しふれておきたいと思います。
A 今回、中原中也の詩について『中原中也全詩集』(2007年 角川ソフィア文庫)で一応全て目を通してみたのですが、この句における「きのふ」、「梢」、などといった言葉から感じられる「はるけさ」や「喪失感」といったものは、やはり中原中也の作品世界から齎された部分が大きいのではないかという気がしました。
B 〈君はきのふ中原中也梢さみし〉の「きのふ」、「梢」という言葉に関連性のある内容の中也の詩をいくつか抜粋しておきます。
「きのふ」
「黄昏」 〈失はれたものはかへつて来ない。〉
「失せし希望」 〈暗き空へと消え行きぬ/ わが若き日を燃えし希望は。〉
「修羅街輓歌 Ⅱ 酔生」 〈私の青春も過ぎた、/――この寒い明け方の鶏鳴よ!/私の青春も過ぎた。〉
「雲」 〈近い過去も遠いい過去もおんなじこつた/近い過去はあんまりまざまざ顕現するし/遠いい過去はあんまりもう手が届かない〉
「梢」
「逝く夏の歌」 〈並木の梢が深く息を吸つて、/空は高く高く、それを見てゐた。〉
「臨終」 〈しかはあれ この魂はいかにとなるか?/うすらぎて 空となるか?〉
「ゆきてかえらぬ」 〈棲む人達は子供等は、街上に見えず、僕に一人の縁者(みより)なく、風信機(かざみ)の上の空の色、時々見るのが仕事であつた。〉
「言葉なき歌」 〈あれはとほいい処にあるのだけれど/おれは此処で待つてゐなければならない/此処は空気もかすかで蒼く/葱の根のやうに仄かに淡い〉
「古る摺れた」 〈「空は興味だが役に立たないことが淋しい/――精神の除外例にも物理現象に変化ない」〉
「干物」 〈外苑の舗道しろじろ、うちつづき、/千駄ヶ谷 森の梢ちろちろと/空を透かせて、われわれを/視守る 如し。〉
「月はおぼろにかすむ夜に」 〈月はおぼろにかすむ夜に/杉は 梢を 伸べてゐた。〉
「暗い公園」 〈雨を含んだ暗い空の中に/大きいポプラは聳り立ち、その天頂(てつぺん)は殆んど空に消え入つてゐた。〉
A 中原中也の詩には、過去に対する喪失感とともに、随分と空や梢など高いところを仰ぐようなモチーフのものがいくつも散見されるところがありますね。
B 〈君はきのふ中原中也梢さみし〉における「さみし」といった感情が中原中也の詩には底流しているようです。
A この句における「さみし」という箇所は「さびし」ではなく、「さみし」なんですね。
B 結局、金子明彦の句は、もう帰って来ない「きのふ」や、手の届かない「梢」、そしてもはやこの世には存在しない「中原中也」といった、「遠いい」ものの「さみし」さを詠った句である、ということなのでしょう。
A 続いて〈釘打ってさんた・まりあを額となす〉を取り上げます。昭和23年から26年の作です。
B 「さんた・まりあ」は聖画で、それを飾るために釘を壁に打ちつけたということになると思います。
A 釘を打つという行為から、当然ながら「磔刑」が想起されてきます。
B マリアの画を懸けるために、釘を打ち、その行為からイエスの磔刑が連想される、それだけでも怖ろしいところがありますが、さらにそこから「原罪」という概念が否応なく自らの意識にせり上がってきてしまうようです。
A 釘を打っているのは自分自身の行為ですから、まるでイエスの手の平に釘を打ち付けているかのような感じにやや近いものがあります。
B 「私」の荒涼とした心象が感じとれるようですね。
A 続いて〈氷片をタオルにつつみうしなへる〉を取り上げます。昭和23年から26年の作です。
B ここにも先ほどの句にも見られた、時間性の操作ともいうべき手法が駆使されていますね。
A 「つつみ」と「うしなへる」の間にある時間が一気に省略され、約められているようなところがあります。それこそ時間が編集されているとでもいった印象でしょうか。
B 氷をタオルに包み、それが時間の経過とともに溶けて消えてしまったというだけの内容なのですが、仄かな「かなしみ」のようなものが感じられるところがあります。
A なかなか繊細な印象の作品ですね。金子明彦の句は全体的に少しメランコリックなところがあるようです。
B 続いて〈祭きて青空はいづこにもありぬ〉です。
A なんだか少し変わった表現の句です。
B 「青空はいづこにもありぬ」という表現がそのように感じさせるところがあるのでしょう。「祭」ですから季語は夏です。普段の日常とは異なる祭の「ハレ」の雰囲気の中における夏の青空。その青空の下、他の場所でもここと同じように祭が行われているという当たり前の事実を詠んだ句であるといえます。
A 祭というものは当然ながら本来楽しい行事であるはずなのですが、どこにでも青空はあり、祭もまたどこででも行われているなどということを考えているわけですから、この作者の意識は祭のさ中であってもやや醒めているようなところがあるようです。
B また、この句では、「青空」は、当然のことながら何処にでもある風景ですが、わざわざそのことを言葉へと形象化し、作品のうちに詠み込んでいるわけですね。
A 俳句という文芸には、それこそ取るに足らないといってもいいような当たり前の事実に着目し、それを様々なかたちで言語化し、形式のうちに充填することによって、作品を成立させ得ることができるというやや特殊な側面があります。こういった俳諧的ともいうべき手法を感じさせるところが、やはり下村槐太門の作者といった感じがします。
B そうですね。いくつかそういった表現の例句を挙げると、
目刺やいてそのあとの火気絶えてある 下村槐太
赫っと向日葵夜でなく昼でなく 小金まさ魚
傘干すや雨も未来のものの一つ 火渡周平
青ぞらのけふあり昨日菊棄てし 林田紀音夫
などということになります。金子明彦には他にも〈自転車に乗らざる綿を売りにゆく〉という句がありますが、この句もそういった系統の作として数えることができるでしょう。
A 続いて〈巷ふとひろしりれき書わたさざる〉を取り上げます。昭和23年から昭和26年の作です。
B なんだかそれこそ短編小説の一場面を切り取ったような作品ですね。
A ディテールのみを切り取って、その全体を仄めかす、というのは俳句の得意とするところのものであるということができるでしょう。その俳句における特性がよく発揮された句であると思います。
B 一部分であることの強みとでもいうべきものでしょうか。それはまた同時に俳句という文芸の欠点でもあるのという側面も当然ながらあるのでしょうが……。
A この作品の内容についてですが、職を求める日々の中で突然世の中が途方もなく広いものに感じられてしまうという心細さと不安感、そういったものが表出されています。
B 「ふと」にその心情がよくあらわれていますね。
A ひらがなの多用から想起される子供っぽい印象が、「私」の心の弱さを表しているようでもあります。
B ひらがなはやはりどちらかというと幼児的な印象を読者に与えますね。この句ではそういったところから、まるで世の中で自分が迷子になってしまったような不安感、気弱さが感じられます。
A 続いて〈すすりたればつめたき皿のしまはるる〉です。昭和23年から昭和26年の作です。
B こういった句は、俳人以外の読み手にはちょっと理解しづらいところがあるでしょうね。
A 周辺のあらゆる事象を削ぎ落とし「皿」という物質の実在感のみを中心として作品が成立しているところがありますから、やはり俳人以外の読み手にはどこが面白いのかさっぱりわからないという可能性がありますね。
B 一応、季語は「つめたき」で冬ということができますが、この句は冬以外でも意味内容は通用するようなところがあるので、さほど季語による季感には拘る必要はないのかもしれません。
A やはりこの句の中心にあるのは「つめたき皿」のみですね。周辺の人々(少なくとも2人)とその行為などは脇へ追いやられています。
B 食事をしている人と、皿を片づける人が存在していることは一応わかります。
A それでも1句の主眼はやはり「皿」ということになりますね。
B そういったところから、すこし火渡周平の〈石の上又石の上歩きをり〉〈飛行機が扉をとざし飛行せり〉を思い出しました。
A 2人は同じ下村槐太門です。それにこれらの作は大体同時期のものなのではないでしょうか。
B 金子明彦の作には火渡周平の作品による影響も少なからずあったのかもしれませんね。
A あとこの句にも時間性の操作とでもいった手法が駆使されていますね。
B 先ほどのいくつかの句にも見られましたが、過去と現在による連続した時間の繋がりを編集して組み合わせているところがあります。
A 続いて〈ノヴァリスの小説さみし乾あんず〉を取り上げます。
B 全体的にすこし感傷過多なところがあるでしょうか。
A 「さみし」はすこし余分というか、それこそ作品そのものを甘くしているところがありますね。
B 「乾あんず」との取り合わせによって、やはり若い青年の手になる作品らしいところがあるとはいえそうではあります。
A 「ノヴァリス」は「ノヴァーリス」ともいわれる1772年から1801年におけるドイツロマン主義の詩人の1人です。そのノヴァーリスの小説ですからおそらく「青い花」でしょう。
B このようなところからも金子明彦の「詩」への憧憬というか、傾斜のようなものが窺えますね。
A こういったところが同門の、セレベスから畳を持って帰ってきたリアリストである火渡周平とは異なるところなのでしょうね。
B 確かに火渡周平の徹底したニヒリスト振りと比べると、やはり金子明彦には「詩人」的な「弱さ」、または「甘さ」のようなものが感じられる側面が随所に見られます。
A そういった側面が、作品の上に功を奏すこともあれば、悪く作用している側面もあるようですね。
B 当時の金子明彦はまだ20代前半の青年ですから、作品の上にそういった感傷的な「甘さ」ともいうべき傾向が認められるのも、よく考えれば当然という気もしますが。
A そうですね。同年代の林田紀音夫の作品にもそういった傾向が認められるところがあります。
B 林田紀音夫の場合は金子明彦との作品と比べて、「甘さ」というよりもややペシミスティックな側面が感じられる傾向があるように思われます。
A 続いて〈ひとわれも死のふしぎ水盤の水〉です。昭和26年から昭和27年の句です。
B 水盤は、底の浅い平らな陶製または金属製の花器のことですね。盛り花や盆栽・盆景などに使います。
A 人である自分、その存在が死んでしまうことの不思議さを、水盤の水にうつる自身の影を眺めながら考察しているということのようですね。
B 林田紀音夫の〈死は易くして水満たす洗面器〉という句の存在を思い出しました。
A この句においてもひらがなの表記が、先ほどの「りれき書」の句と同じように一種の幼児性を感じさせるところがありますね。
B 子供というものも割合死について考えているようなところもありますから、これはある意味では童心の1句といえるのかもしれません。
A 死ぬことも「ふしぎ」なら、このように現在「ひと」として生きて存在していることもまた人智を越えた「ふしぎ」ではあります。
B そういったこの世界そのものの「ふしぎ」さらにいえば「謎」に、ふと目を向けたような作品ということができそうですね。
A 最後に〈かりがねのそれより宙の絶えて無し〉を取り上げることにします。
B どこかしら散文性を峻拒しているような句ですね。金子明彦には他に〈ゆく雁の涯にし紙を燃やしける〉という句も存在します。
A それこそこの句は石田波郷の句集に紛れていてもおかしくないような作品ですね。
B やや解釈が難しいところがありますが、こういう句をみると金子明彦はやはり下村槐太の弟子であるということを感じさせられるところがあります。
A 季語はおそらく「かりがね」で秋でしょう。
B 「宙」は「そら」と読むのか、それともストレートに「ちゅう」と読むべきなのか、判じ難いところがあります。
A 下村槐太に〈寒木の宙かすむ日の紙芝居〉という句がありますから、「宙」は「そら」ということでいいのではないかと思われます。
B 意味内容としては、秋の空に雁が渡ってきて、その風景のほかには「宙」というものは存在しないという風に解することができそうです。
A そう考えると、雁の渡る空を賞美した句であるということであるのかもしれませんね。
B また、単純に雁が病気や何かの理由で飛べなくなったことを詠んだ句であるのかもしれません。
A そのように解釈すれば、ややかなしい印象の句ということになります。芭蕉の〈病雁の夜寒に落ちて旅寝かな〉が思い浮かんできます。また、他に、猟銃で撃たれたなどと解釈することも可能でしょうか。
B 「それより」の「それ」の意味の不確定性から、この句は様々な解釈が可能であるということがいえそうです。
A さて、金子明彦の作品を見てきました。
B 今回抄出したの句の多くは昭和23年から昭和27年あたりのもので、それ以後の作品からは1句も選出しませんでした。
A 単純にその昭和23年から昭和26年あたりがこの作者のピークということになるのでしょうね。昭和28年以後の作品には残念ながら正直あまり心を魅かれる作品がありませんでした。
B ちょうどこの昭和27年に師の下村槐太が〈心中に師なく弟子なく霞みけり〉と詠み、主宰誌「金剛」を廃刊、弟子からも離れ句作を放棄してしまいます。
A 今回この事実に気付いた時、正直驚くところがありました。
B 結局、金子明彦の俳句作者としての生命は、師の下村槐太とともに殉じることになったということになるのでしょうね。そういった事実がやはり作品の上に如実にあらわれています。
A 坪内稔典も〈金子は、昭和二十年代に俳人としては夭折したのだろうか。〉と書いていますが、その裏側にはこのような事情があったということなのでしょうね。
B 今回の抄出した句だけ見ればさほど目立たないと思いますが、昭和28年以後の作品だけでなく初期及び昭和23年から昭和27年までの作品も含めて、塚本邦雄も指摘しているようにその作品は全体的に〈欠陥だらけ〉であるということができます。
A 確かにその通りなのですが、そのうちのいくつかの句については、その「舌足らず」でやや稚拙な表現ながらも、どこかしら他の作者の句には見ることができない不思議な魅力を宿した稀有な作品であるという気がします。
B そうですね。もしかしたら作品表現におけるそのような一種の稚拙さこそがこれらの作品における一つの魅力となっていると考えることもできるのかもしれません。今後もこの金子明彦の作品のいくつかは、私にとっては忘れることのない作品となることと思います。
選句余滴
金子明彦
子の頭さだかに青き端午かな ⇒「頭」に「つむり」とルビ
馬具飾る足ゆびいとも柔かき
菜畑の花の映つれる扉をひらく
初蛙白昼とほく火の焚かれ
薄き戸を敲くは誰ぞ明易き
夜祭にゆかむと梳きし髪青き
冬の蜂わが読み飽くる馬太伝
大学にゆきたし葱の花ちさし
頭もさむし電流断たれたる架線
鉄橋やのみあましたる氷水
蛇の頭はちさしレールの遂にながき
十字架に西日照ひてありにけり
凍蝶や女を置きて誰と死なむ
大学にかよへるシャツの袖ながし
ユッカ咲きリヤカーまれにかよひける
風呂にゆきひと肋膜をわづらへる
あんず咲き相かなしむは梢の上
桐の花ワイシャツ洗ふ君羨し
女きてよべのカンナをさらひける
ともどもに涯にもゆきてもどりける
あさゆふの風くらし麺麭を喰べこぼす
郵便や黄落の中往きもどる
梯子かけて濃き朝陰をのぼりけり
帚草風に自転車たふれける
かぎろふや扉をさしけふもこもりける
ものがたりするしばらくの夕霙
俳人の言葉
下村槐太は、昭和二十七年に作句をやめることを宣言した。そのとき、俳人・槐太は死んだ。以来、金子は、中也の言う「奉仕の気持」で師の愛した俳句にかかわっているのかもしれない。「愛するものが死んだ時には、自殺しなけあなりません」と言う中也は、それでも自殺ができずにながらえているなら、「奉仕の気持に、ならなけあならない」と哀しくうたった(「春日狂想」)。
坪内稔典 「青春の歌 金子明彦」『土曜の夜の短い文学』より
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2 件のコメント:
冨田拓也様
金子明彦の作品をこんなに読ませていただいて有り難いです。この一句となれば、
君はきのふ中原中也梢さみし
となるのでしょうが、お説の通り判ったような判らないような句ですね。『現代俳句 上』における川名大さんの、文学的盟友の挫折をさびしんでいる句だとする解釈は、ありそうなことではありますが、少々判り易く着地させすぎの印象です。
梢も川名説の「こずえ」より、冨田説の「うれ」と読む方がよいでしょうね。それが下村槐太の句から来た表現ではという推定も、説得力を感じます。それにしても中也のフレーズをいろいろ挙げての論証には驚きます。これが週刊ペースの仕事とは驚異です。
髙山れおなさま
コメントありがとうございます。
今回中原中也の全詩集を始めて通読しました。
選集などでは読んだことがあったのですが、こういう機会でもなければ全詩集は読めないところがありますね。
立原道造などの詩となると、私などは少し笑ってしまうようなところがあるのですが、中原中也の詩については嘆いてばかりでありながら、やはりそこにある種の真実味のようなものが感じられて少し不憫というか痛々しいところがあります。
金子明彦の作、
君はきのふ中原中也梢さみし
ノヴァリスの小説さみし乾あんず
は、ある意味対になっている句なのではないかと思いました。
2人とも30前後で亡くなっていますし、両方に「さみし」という言葉が見えます。
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